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中央教育審議会

 1999/7 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第14回)議事録 

 中央教育審議会

初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第14回)

議事録


平成11年7月14日(水)  10:00〜12:00
霞が関東京會舘  35階    ゴールドスタールーム


1.開会
2.議題
「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
3.閉会


出席者

委員
木村座長、川口委員、河野委員、國分委員、坂元委員、田村委員、土田委員、永井(多)委員、松井委員、横山委員

専門委員
荒井専門委員、安齋専門委員、磯部専門委員、工藤専門委員、黒羽専門委員、小谷津専門委員、杉田専門委員、橋口専門委員、久野専門委員、山極専門委員

事務局
佐藤事務次官、富岡生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、佐々木高等教育局長、 野家大学入試室長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○木村座長  それでは、時間になりましたので、中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」、第14回を始めさせていただきます。
  本日は、お忙しい中、本会に御出席を賜りましてありがとうございました。
  本日は、前々回の第12回会議に引き続きまして、「論点整理メモ」に基づき御審議をいただきたいと考えております。
  それでは、まず事務局、配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局より説明>

○木村座長  ありがとうございました。
  それでは、早速でございますが、本日の審議に入らせていただきます。これまで3回にわたりまして「論点整理メモ」をお出しして、これに基づいて御審議をいただき、様々な御意見をいただきました。
  本日は、これまでの皆様方の御意見を踏まえまして、さらに御審議を重ねていただきたいと存じます。
  既に多様な御意見が出ていまして、この意見におぼれるという感じもしないでもありませんが、よろしくお願いします。

○  ちょっと質問したいんですけれども、大学審議会の議論などでも、しきりに「アドミッション・オフィス入試」というのが出てくるわけです。アドミッション・オフィスを設けようという議論はいろんなところであるんですが、「アドミッション・オフィス入試」というのは具体的にどういう特徴というか、内容を持っているのか、ちょっとわからないものですから。今まで学部単位で入試をやっていたのを、ここでやるという程度の意味なのか、何か深い理念があるのか、その辺、私も基礎知識がないものですから、教えていただければと思います。

○事務局  それでは、アドミッション・オフィス入試について、簡単に説明させていただきます。
  現在では、慶應義塾大学とか、同志社大学といった一部の私立大学、それから国立大学のほうでも平成12年度から東北、筑波、九州の3大学で実施しようという計画がございます。
  アドミッション・オフィス入試というものの明確な定義はございませんけれども、一般的に言えば、学力検査に過度に偏重しない、受験生の能力や適性を多面的に見ていこうとする入試の仕組みということでございます。
  推薦入学と違いまして、だれでも一定の資格があれば出願できる、公募型の入試であるということ。それから、調査書だけではなくて、志望理由書とか、あるいは第三者の評価書とか、多様な書類を提出いたさせまして、丁寧な書類審査と時間をかけた面接によって、その人間がこの大学にふさわしいかどうかということを丁寧に見ていこうというものでございます。
  特に、アドミッション・オフィス入試の場合には、通常の入学者選抜というのは教官が中心になって行ってございますけれども、これに事務の人間が加わって、いろんなところから見ていこうと、そういう特徴を有するものと理解しております。
  要するにペーパーテストだけではなくて、いろんな面をいろんな資料をもとに丁寧に見ていこうという、そういう基本的な考え方の入試ということでございます。

○  これは前にも出たことがありますが、アドミッション・オフィス入試が問題になったときに、すぐ例として出てくるのはハーバード方式でしたかね。これが例として出ておりましたし、最近では、私もよく知らないんですが、注目されているのは慶應義塾大学が行っているアドミッション・オフィス入試ですかね。そこで目指している入試の在り方がどういう方向なのか、これを説明していただければ具体的にわかりやすいのではないでしょうか。私も知りたいものですから。

○木村座長  そうですね。まだやっているところが少ないんですが、慶應、同志社、その辺でやっておられるように聞いておりますが、具体的にわかりますか。

○  ただ今、事務局の方から御説明してくださったとおりだと思います。
  基本的には、まず1次選考が書類選考です。入学志願者調書と志望理由書、それから高校時代の活動報告書、それから担任の先生、志願者を評価する書類の提出が求められています。これらは選考のためだけでなく、次の面接の資料になります。面接時間は受験生一人当たり30分を超えます。自分が将来この学校へ来て何をやりたいのか。それがこの学校を選んだことで本当にやれると思っているのかということなどが中心となります。
  それから、学力試験と違って、これは当該年度、前年度、前々年度とフォーマットが同じです。そうすると、大体こういうことを書けばいいという指導もなされるのでしょう。似たものが出てきます。しかし、普通の小論文の試験では得られない、受験生の志望動機や目的・意欲などよくわかると思います。面接は受験生が一人に対し、教員は二人以上で、相当丹念に行われます。一芸一能ということよりは、むしろ学校の理念とか、教育方針とか、それを抽象的なレベルでなくて、具体的に考えていて、自分の可能性を明確に打ち出してきたものは高く評価されると思います。
  一般的に言って、アドミッション・オフィス入試には、2通りあります。一つは大学主導型です。
  他の一つは、相談型で、受験生とよく話し合って、時には、「君の考えていることは、うちへ来て、こういう先生のこんな科目について勉強すると、達成されるよ」とエンカレッジするような情報も与え、生徒のほうからも選択の判断ができるようにするものです。、ユニバーサル期で全入の可能性が出てきた今日の新しいスタイルです。
  あと海外の場合ですと、アドミッション・オフィスが学長直属型でできているところと、それからあくまで学部直属型でできているのがあります。学長直属型は、大学経営が主になっていて、いわば優秀な学生を集めなければ始まらないということなど、学長の判断が強く入ってくるものであり、日本の場合は学部直属型で、学部の考え方が基本になっていると思います。こちらは、生徒を評価したり、生徒の意欲、好みを大切にしようという視点だと思います。

○  今のご発言について少し教えていただきたいのですが、一つは、今の御説明でも、アドミッション・オフィス入試というのは非常に労力と時間を要する丁寧な入試だということですが、入学者選抜で定員のうちどれだけをこういう方式で採れるかということをお伺いしたいのです。2,000人、3,000人という人たちの入試をこれでやることはほとんど不可能に近いのではないかと思うのですが、適正規模は一体どのくらいとお考えなのでしょうか。
  それから、御説明を伺っても、公募型の推薦入学とどこが違うのだろうということがどうもはっきりしません。公募型の推薦入学と比べると、ともかく丁寧だという点が特徴であるのか、あるいは決定的に何か違いがあるのかというその2点を教えていただければと思います。

○  まず最初に適正規模の点ですが、確かに丁寧に行いますので、学部で100名程度で、公式の定員との比率からいえば3分の1から4分の1の間ぐらいがせいぜいではないでしょうか。1,000名のオーダーだったら、御想像のようにまず難しいですね。先生方が、あんまり多数になってもどうかなということがあります。
  これに関連して一言つけ加えさせていただきますと、この方式はだれのためにとってよいかというと、意外に大学の教員のためにとってよいのであります。つまり、何年か続けてまいりますと、本当に自分の大学のこの学部はどうあるべきかということを、教員が自然に、よく考えるようになります。先生方は、自己点検、自己評価を行っていることになる、と私は思います。それは、思わぬ収穫です。
  しかし、先ほどの質問にございましたように、規模があまり多過ぎますと、これが”仕事化”してしまい、面接者がだんだん能力重視型になって来やすい。ですから、学部がこの募集方式で求めている人材は何かということを、先生自体が常に考えてくれる、そういうシステムを残しておくことが重要だと思います。
  それから、公募型の推薦入学とどこが違うのかということでございますけれども、公募型の推薦入学はいろんなスタイルがあるようでございますが、1高校側の推薦の枠外で志願できること、2公募型は割と時期が後にずれ込むことがあると思います。一度、失敗してからでも受けられることがあると思います。
  ところが、アドミッション・オフィス入試は、11月から動くようにしておりますけれども、それ以前に、志望理由書や活動報告書などを出させ始めますので、時期が相当早まります。そういう意味で、第1志望の生徒が多くなる傾向が、公募型の推薦よりはあるのではないかと思います。やり方それ自体は、おっしゃるように変わるところはあまりないのではないかと思います。

○  大学審議会の報告にかかわってですけれども、以前、大学審議会の総会において「厳しい選抜を行う大学では、センター試験を考えることも必要。」や、「受験生の学力は各大学がそれぞれの大学の方針に従って判定していく」などの議論があったような話を聞きましたが、最終的には個別大学が入試で入学者を決定するということはそうなんですが、この流れからすると、大学入試センター試験の意味合いが機能としては薄れてきているし、むしろ個別大学の入試に重点を移したほうがいいという議論だったのかどうか。これはほかにもいろいろ意見があったのもかもしれませんが、ちょっと見た感じでそのように受け取れるような論調なのかなという気もしたんですが、もう少しわかれば、その辺の関係を含めて、大学審議会の議論で、大学入試センター試験の評価にかかわってどういう意見が多かったのか、教えていただきたいと思います。

○  事務局これは具体的な試験の創設というところまで念頭に置いた議論があったわけではございません。ただ、例えば非常に厳しい選抜を行うところでは、大学入試センター試験の成績が上位にずうっと張りついてしまうということもある。その中で、大学入試センター試験だけということではなくて、それぞれの大学がきちんとやって、狭い層の人たちを見ていくということを考えなければならないということが、ここの指摘でございます。
  一方、逆にそうでないところについては、では入試がなくていいのかというと、そうではなくて、やはりその後の大学教育につなげていく上でも、この人間がどのような力を持っているのか、それをきちんと見なければならないのではないか。一つの大学入試センター試験だけでということではなくて、それと大学が個別的に行うやつとの組み合わせの中で、それぞれの大学が必要とする人材を見つけていくことが大事ではないかという指摘だったというふうに理解してございます。

○  結局、大学入試センター試験が資格試験的になって、平たく言ってしまえばさらに問題がやさしくなった場合に、一部の大学では試験としての識別能力がだんだん減ってくるわけですね。そうすると、どうしても2次試験にウエートを置かざるを得なくなる。しかしながら、ここの流れでもそうですし、それから今の入試改革の流れとして、大学入試センター試験は実際受験者も増えていますから、私立大学なども参加しているから、資格試験的にやさしくなっていく。そうすると、特定の大学における識別能力がなくなってくる。その辺の痛しかゆしの問題を具体的にどうしていくのかというのは大変難しい問題だということが背景にあったのではないかと思います。

○  私の知っているケースについて申し上げますと、一時、ある大学を受ける者の数学の大学入試センター試験はほとんど100点ということがあったんです。そういうことなんですが、たぶんここの意味するところは、いわゆる難しい大学では、大学入試センター試験の点数と個別試験の点数のプロポーションが、ものすごく下がっているということだと思います。東京大学は前期については9:1くらいではなかったかと思います。東京工業大学でも8:2ぐらいになっていると思います。ただ、後期についてはいろんなことやってます。後期試験については多様な入試ができますから、大学入試センター試験で課した科目については個別では課さないということもやられています。例えば、英語については、改めて個別試験ではやらないというところもあるんですね。ですから、この議論はなかなか難しいところがあるので、相当気をつけて解釈しなければいけない問題だとは思います。

○  アドミッション・オフィス入試ですけれども、アドミッション・オフィス入試についてさっきから聞いていると、きめの細かい革新的な新しい入試選抜方法が議論されていますが、むしろそれと同時に、入試以外のところでアドミッション・オフィスはどういう働きをしているかというほうが大事ではないのでしょうか。
  例えば、アドミッション・オフィスは、豊富な人材をかかえる中で各高校生の調査書を見るとか、あるいはいろんな活動を見るといったときに、大学側が高等学校へ出向いていって、その学校の状況がどうなのか、そこにいる生徒はどのようなことをしているのかという、高等学校の格差等を含めたきめの細かい情報を収集しているという機能の中で、選抜も同時に行われているというふうにしないと、選抜の一人歩きでは必ずしもアドミッション・オフィス入試の役割にはならないと思うんです。それが1点です。
  それから、以前、大学審議会の審議の際に、大学入試センター試験で、高等学校にもう少しウエートをかける、例えば試験会場、試験監督等々、そういった議論が出ていたようですが、この辺のところがどういう話題になったのかということです。
  この議論を敷衍して個人的な意見を言わせてもらうと、大学入試センター試験というのが、どういう性格を持っているかは別にして、少なくとも高等学校の学習、例えば検定教科書等を十分に見て、そして試験問題を作成していると思うんです。その場合に、高等学校の各教科の教育目標や内容等について一番知っている人はだれかというと、高等学校関係者だと思うんです。なぜならば、高等学校関係者というのは高等学校の学習指導要領そのものについて非常に詳しいだけでなくて、さらに検定教科書を使って日ごろ授業し、さらに高等学校の免許状を持ってやっている人たちです。それに対して、今、大学入試センター試験の問題をつくっている大学関係者というのは、必ずしもいわゆる高等学校の免許を持っていない、自動車でいえば無免許運転ではないかと思います。
  そういう面で言うと、高等学校の現場の先生である必要はないかもしれませんけれども、もっと高等学校の実態を知っている人も、やはりそういった問題にかかわっていく。しかし、選抜の方法、それを大学でどう選抜するか、どのように選ぶか、足切りで使うかどうか、これはもちろん大学が責任を持たなければいけないと思うんです。
  そして、高等学校でもっと試験会場や試験監督を大学との協力の下で行うようになれば、何も1年に1回である必要はないし、英語のリスニングテストも可能になると思います。

○  基本的な考え方に関する話です。
  以前の審議において、「入学試験の競争については、避けることはできない。若くて知識をいくらでも吸収できる年齢層の人たちが学習しなくなることによって、日本全体の学力の総量が減ってしまうのは問題。高校の卒業レベルの基準というのがあるはずであり、それを入学者選抜によって適切に評価すべきである」といった意見等があったが、これは私は全く賛成でありまして、実は答申のときにはもう少し書き込んでほしいと思いますので、申し上げます。
  それは、大学審議会での意見でありますが、「入試が勉強の動機付けになるならば競争があっても悪いことではなく、接続の方法としては、よい形でステップアップする方向で考える必要がある」のような趣旨であります。
  もう一つは、中央教育審議会第二次答申の第二章の第1節には、こう書いてありますので、ちょっと朗読いたします。「……受験競争の緩和については、誰もが満足するような解決策を見出すことは困難であろう。すなわち特定の学校に希望者が集まった場合に何らかの方法によって選抜を行うことは不可避であり」、その後が大事だと思うのですが、「選抜を通じて一人一人の能力・適性や意欲、さらには様々な努力や体験を的確に評価し、社会の流動性を確保するという意味で、一定の競争が存在し、それが必要なことは否定できない。また、学校生活や社会生活において様々な形で競争があることは不可避であり、人々が個性や能力を発揮したり、社会全体の活力を維持していく上でむしろ必要なこととも言える。努力という行為なしに、志望する大学へ進学できるというような解決策を見出そうとすることは適切とは言えない。」これは平成9年6月26日の中央教育審議会第二次答申に書いてある言葉であります。
  やはりいろいろ工夫していくことは必要だけれども、基本的に選抜というものがあるわけですから、そこのところをあいまいに答申を書くというのは、ちょっと大げさな言葉を使えば、社会に対する欺瞞になる可能性もなしといたしません。そこで、最後に修文するときには、私は、中央教育審議会第二次答申になかなかいいことが書いてありますので、こういうことはもう一遍敷衍して書くような方向のほうがいいのではないかという私の意見を申し上げます。

○  以前の審議において、各段階の役割分担の明確化について、議論されていたことについて、発言させていただきます。
  高等学校教育において今後特に強調すべきものということで考えますと、一つは、例えば職業観の形成、これは以前から言われていることだと思いますが、職業意識、職業観の形成ということがあろうかと思います。これは12年間を通じて徐々に具体化をしていくような職業意識の形成ということでございます。
  2番目には、公共的なものに対する責任感というか、責任性というか、パブリックなものについてどのように考えていくか。卒業しますと、18歳で半数は社会に出ていきますので、新しい時代における公共心と申しますか、そんなものが高等学校教育までに培われなければいけないのではないかという感じがいたします。
  3番目は、倫理観と申しますか、徳性と申しますか、これは今申し上げた2番に関係しますけれども、新しい時代の倫理観、徳性を高校を卒業するまでに身に付けてもらうことが大事ではないかと思います。これは、どのような生徒においても共通に必要とされる大切な事柄だと思います。

○  今、他の委員の方がおっしゃったことにプラスアルファで、基本的な考え方という意味で、この話は何度もされていると思いますが、現在の教育の重要なことはということで、私たち保護者から見ましても、これからの子どもたちの自由に対する義務や規律といった概念が重要だろうという気持ちをずっと持っております。これは大学へ入ってから何をするかというよりも、高校までの12年間の教育において最も重要視されるべきだろうと思っておりますので、各段階の役割分担を明確化していく上で、高校までの12年間の教育を通じての目標の整理をしていくことをもっと強調していってほしいと考えております。

○  どういうふうに申し上げたらいいかというのがよくまとまらないんですが、断片的に申し上げてみたいと思います。
  まず、今までの審議で、入学試験の競争の「緩和」という言葉がよく使われていましたが、目指すことが「緩和」という言葉でいいのかどうかというのが非常に気になっています。というのは、別に受験生と入学者の数が等しくなるから、事実上緩和しているという意味で必要ないと申し上げているわけではなくて、入学試験の目指すところは、多様化を目指すということをはっきり言うべきではないだろうかという気がします。現にアドミッション・オフィス入試があったりいろいろあったりして、それは非常にいい流れだと私は思いますが、結局、大学がどういう人間を自分の大学で欲しいと思っているかというのは、大学によって本当に様々であるべきであって、その大学がほしい人たちを採れる、それが様々だ。したがって、試験は多様であるべきなんだということが一番必要なことだろうと思います。
  なぜ大学が様々異なる人間を必要とするかと考えますと、その理由は、恐らくこれから大学間の競争が厳しくなっていったり、あるいは日本の大学の質が国際社会においていいということが大事であって、でないと、学生はどんどん外国の大学に行くことも可能でありますし、日本全体の文化あるいは学術のレベルにも影響を与えるわけです。それを考えると、今までの入学試験の点数制のような、あれは言い方によっては非常に偏った制度でして、一定の非常に短い期間に速く走れる、短距離の走者がいいという判断をしているわけです。4時間かけて、しかも終わりのほうにラストスパートで走れる人は排除されてしまうことになるわけです。そういう1種類だけの試験ではあまり意味がないということを明確に言うべきではないだろうかと思います。
  私はもう一つ、大学の競争が厳しくなっていくことが、自分の大学がいい大学で、いい学生を集めるという方向での競争にうまくなっていくのかどうかというのがよくわからないというか、疑問を持っているところです。学生を集めるために、入学試験をやさしくする、あるいは受験科目を減少させるという方向になっていきつつあるような気がします。そういう意味では、これからの世の中、大学が生き長らえていくためには、自分の質をよくすることなんだというふうに思えるような、そういう方向のベクトルが働くことが大事なので、どうしたらそうなるのかというのが私はよくわからないので、疑問に思っております。
  それから、「特定の大学を巡る競争それ自体はなくすことができないことを、中央教育審議会として言い切ってよいか」という意見も出ておりましたが、当然言い切っていいわけですし、言い切っていいだけではなくて、言うことが望ましいんだと思います。理由は、先ほど申し上げたようなこれからの社会で、いいという意味は、必ずしも点数が高いという意味ではなくて、自分の望むタイプの学生を集めるためという方向で、その結果、自分の大学の質をよくするという方向で競争が働くべきなので、その競争は一体何で見られるかというと、特定の大学にいい子どもが集中して、ガラガラの大学もできるという競走でなければいけませんから、特定の大学に集中するというのは、集中された大学は誇るべきであって、それはむしろ推奨すべき事柄ではないだろうかと思います。ちょっとまとまりませんけれども、断片的にそういうことです。

○  そろそろまとめに入るわけでございますが、高等学校までの12年間の教育の役割という意味で、触れなければいけないと思っておりますことは、歴史的にいって我が国が義務教育をイギリスより3年前に導入して、それが非常に効果があったということはきちっと書いておく必要があるだろうと思います。
  ただ、それが時代の変化によって、今の子どもたちにとっては、義務教育を含めた高等学校までの教育がある意味では重荷になり始めたという大きな変化があったという指摘が必要だろうと思います。
  重荷になったということをいろいろ考えてみますと、私ども現場で実際に生徒の変化を見ていると、端的に言いますと、子どもたちというのは何年か前までは、学校へ来たら格好つけたんです。つまり、学校は本音ではなくて、一応格好をつけて行動する場所だったわけです。ところが、今はどうなっているかというと、お母さんの前でいい子ぶるということが一番大切でありまして、母親には悪く思われたくない、学校ではどうでもいいという意識の変化が明らかに出てきているように感じます。つまり、ある意味では学校が本音をぶちまける場所になったという変化です。これには、社会の成熟がその背景にあると思います。
  つまり、家の中で、お互いにいい子ぶって、仲良く生活することをまず第一に置いて、学校はどうでもいいというような意思が非常に強くある。これは義務教育が日本の歴史の中で役割を果たしてきたということが、社会の変化によって、子どもたちにとってそれが重荷になってきたということの、原因か結果かわかりませんけれども、そういうことなんだろうと思います。
  しかし、行かなければならないということになりますと、これは子どもたちにとっては、言い方をちょっと気をつけなければいけないんですけれども、学校がある意味では刑務所とか軍隊みたいになって、縛りつけられる場所という意識しか出てこなくなる。そうすると、必ず出てくるのはいじめだとか、そういう話になるわけでありまして、それが今、かなり表へ出てきているんだろうと思うんです。そこのところをどのように整理したらいいかというと、やはり学校というところは、格好をつけなければならないところだという意識を何とか広められないだろうか。
  これは言ってみれば自己実現ということを、つまり自分の個性とか、本人だけの生活を―家庭がそれは一番はっきりしているわけですけれども、学校という場でも、自己実現を本人の個性を発揮する場所として考えてもらうということになると、自我の社会化というような、つまり社会の中で自分をどういう位置付けをするのか。先ほど他の委員の方が、職業観ということを指摘されましたが、これが学校のある意味では一番大切な、12年間で身に付ける基本的な姿勢だろうと思うわけです。これはエリクソンの言う自我同一性と重なる部分があるわけでし、「アイデンティティ」という言葉に表現されるような内容だろうと思うんですが、それを前提として大学教育が展開されてほしい。つまり、そういう意識をちゃんと持っているかどうかを、大学でも入試のときにちゃんと見てほしいということが、この場で言えるんだろうかということですが、私は言ったほうがいいのではないかという気がするわけです。
  例えば、アドミッション・オフィス入試でボランティア活動についてのチェックをしています。これはある意味では、アイデンティティというか、自我の社会化の程度を大学入試で測っているということだと思うんですが、そのような指摘をきちっとしておく必要があるのではないか。これから先を考えると、ますますそういう傾向が強くなる。つまり、お母さんの前でいい顔だけしていれば、もう別にいいんだ、私の人生はそれで満足だ、学校へ行って別にどうでもいいんだという意識が明らかに出てきて、それが年々強くなっていきます。
  ですから、基本的な問題として、役割はきちっと評価して、日本の義務教育は大変意味があったということはきちっと書くべきですが、それが時代の変化でもってそのように変わってきたということを、今のように切り口でまとめておいて、高校と大学の切り口、つまり職業あるいは社会の中における位置付けみたいなことで入試が行われるという指摘をしておく必要があるのではないか。
  入試がやさしいとか、難しいというのは、これは結果なんだから、あんまり言う必要はないのではないかという気がするんです。世の中の人はあまり満足しないかもしれませんけれども、これはしょうがないのではないかという気がするんです。しょうがないとは書けないのかどうかわかりませんけれども、そんなようなことであります。
  あとは手続的なことで、先ほど他の委員の方がおっしゃっていましたが、大学入試センター試験をやさしいのと難しいのとやるとか、あるいは高校卒業の学力検査みたいなことをやる必要があるんだろうかということはきちっと議論して、方向性をお出しいただきたいと思っているのが私の考えであります。

○  私は、1点、大学入試センター試験につきましてお話をさせていただきたいと思います。
  大学入試センター試験につきましては、大学審議会でもかなり話題になりまして、いろいろな議論をしてきているわけであります。私ども高等学校等にかかわってまいりました者にとりますと、大学入試センター試験は非常に有効なものであった。高校教育を正常なものにしていくために非常に有意義なものであったという認識がまずございます。今後につきましても、全大学がアドミッション・オフィス入試等をすぐ取り入れられる状況にないことを考えてみますと、大学入試センター試験をより有効に活用していただきたいという、個人的な感想も持っているわけであります。
  大学審議会のときにも話題になりましたが、例えばリスニングテストなどは大学入試センター試験に入らないのでしょうかという問いに対しましては、公平の観点から、会場の施設・整備や技術上の様々な課題があるということでありました。しかしこれは例えば高等学校等が積極的に協力をすれば、実施可能ではないかという話も出ておりまして、現に私どもも高等学校等を会場に提供することは可能ではないかと思います。そういう方向で、大学入試センター試験をよりよいものに皆さんで工夫していくという視点があってもいいのではないか。今、年数を重ねまして、大学入試センター試験の利用のほうが少し静かになりまして、問題点のほう、要望等が強く出ているような感じもするものですから、もう一度これを見直して、有効な使い方をしていったらどうか。課題になるようなものは、いろいろな工夫の中でさらに解決できるのではないかと思います。この点についてだけ一言申し上げました。

○  一つは、先ほどの他の委員の方の競争に関する意見に、私は基本的に賛成いたします。
  もう1点は、大学審議会でも、高等学校は大学入試に引きずられてしまい、入試改革を行っても状況は良くならないので、高等学校がもっとしっかり自立的に自分の理念を持ち、学習の達成度を自ら測るような仕組みを作っていくことが必要だと、こういう意見があったようです。
  確かにある意味では正論だと思いますし、理想だとは思いますが、現実にはそういうことを高等学校側に要求するというのは大変なことだろうと思います。高等学校側がいろいろ努力することは、それ自体は当然かと思いますけれども、現実には高等学校以下の教育に様々な、悪い意味の影響を及ぼしていることを考えますと、それなりの改善は、こういう視点からも考えるべきではないかと思います。これは大学審議会の意見であって、中央教育審議会での意見ではないわけですけれども、この点については、たぶん高等学校側として相当言い分があるのではないかと私は思いますので、私はむしろ高等学校サイドに立った立場で発言させていただいております。

○  基本的に学力の問題と人間形成の問題と二つに大きく分かれてお話が展開されてきたと思いますが、後者について一言述べさせていただきます。
  それは先ほど来、他の委員の方は、大変重要な理念をお話しくださいましたし、別の委員の方はアイデンティティということを申されました。私がここで申し上げたいのは、「自己、自我の自覚」というふうに言われるとき、果たしてどういう具体的なイメージを委員の方は持つのだろうかということがよくわからない点でございます。
  青年前期、いわば高等学校あたりの子どもというのは、対人環境の中で、自分に何ができ、何ができないかということを、否応なく意識するようになる時代だと思います。これを先ほど他の委員の方はアイデンティティとおっしゃいましたけれども、エリクソンによれば自己の劣等性を意識し、これを認めつつ劣等感の克服の仕方をきっちりと習得する時期です。
  劣等感の克服というのは、自分が今後どういうものを目指して、どういうふうにやっていけばよいか、その予見をもって地道に生きていく、つまり勤勉性を獲得することです。
  劣等感は一人一人内容が違いますから、克服する方向も一人一人違うわけで、そういう意味では、個人にフォーカスをきちっと当てた処理をすることが、自己、自我の自覚、またアイデンティティを確立していくために欠くべかざることだと思います。それが1点。
  2点目は、先ほど来、他の委員の方がおっしゃっていたのですが、今まで家庭で自分がとってきた振る舞いが、学校に入ると全く違ってしまうというお話がございました。中高校の時代までは、家庭中心的な認識行動のパターンをしっかり身に付けている。自分がこういうふうに振る舞えば、うちの人は何でも聞いてくれる。多少むずがったことを言っても、父母や兄弟は言うことを聞いてくれる。簡単に言えば、そういう形の家庭中心の認識行動パターンを身に付けています。
  それが今度家庭外に出た場合、家庭外の認識、行動のパターンはまた別なんだよと。そう矯正するアビリティー(適応力)が人間には潜在している。それをしっかり高校時代の子に教えていくことが大事なことだと思います。答申には、できれば理念的、抽象的な考え方に加えて、もう一歩踏み込んだ具象的な記述も盛り込んでいただければと思います。お二人の委員の方の例を挙げましたけれども、私は基本的に賛成の立場で、そう申し上げるわけでございます。

○  今までの審議でよく出ていた話で、高校教育、大学教育、両側が多様化し個性化していく。これからの入学者選抜はいかに双方の教育を円滑につなぐことに資するかが大事なんだと。この会議の主目的がそのようにとらえられているのだろうと思って、それは当然なのですけれども、出発点に戻るようなことを申し上げて恐縮ですが、接続という概念が、確かに円滑な接続―円滑でなければ接続と言えないというのでしょうか。スムーズな接続をいかに確保するかということが強調されているように思うのですけれども、高校側も大学側も多様化し個性化していくとなれば、文字どおりスムーズな接続のみが可能であるという論理的保証はむしろなくなるわけで、一見スムーズでない接続といいましょうか、すんなりいかない場合も出てくると考えたほうが自然なのではないかと思うわけで、接続概念をもうちょっと明確化というか、あるいは柔軟化するほうがいいのではないかという気がいたします。
  前回も、うまくいかなくて、一旦社会に出て、やり直しで大学に入ってくるような学生は、むしろ非常に学習意欲があったりする場合が多いなんていうことを申し上げたんですけれども、もう少し敷衍して言うならば、円滑な接続の概念を―スムーズな接続がもちろんメインでしょうけれども、そうでない場合も、もう1回やり直しがきくとか、スムーズに入ったようだけれども、実は本人にしてみればかえって悩みが深くなる場合だってあるわけなので、そういうときのやり直しのコースとか、そういうことまでもビルトインしたような、もうちょっと包括的な、複合的な接続概念があり得るんだということを、方法論的な議論になりますが、冒頭のほうで確かめておいたほうがいいのではないかという感じをずっと持っておりまして、その辺、御検討願えればという気がいたします。
  一般論的に言うとそういうことですけれども、「入りやすく出にくい大学」というキャッチフレーズがありまして、確かに「入りやすく出にくい」だから、入口は広くなるだろう。したがって、入学者選抜は緩和されるであろうという誤解を招くことになると、かえって国民の不満が募るという指摘ですね。
  これは確かにそのとおりなので、「入りやすく出にくい大学」にしなければいけないという一般論に反対する大学関係者は少ないだろうと思います。しかし、何といっても一旦入れてしまいますと、教育責任が生ずるんだということは、これは相当な重圧でありまして、こういった大学に向かないなと思っても、一所懸命指導して、最後は多少げたをはかせて押し出すなんていうことがやっぱりあるわけですよね。そうすると、これも文字どおりこのとおりやるのはなかなか厳しい。
  となると、さっきの話とかかわるんですけれども、例えば1年間やってみる。一種の暫定的な入学であって、1年間やってみたけれども、これは自分の考えていた大学と違う。専門がイメージと違っていた、別のところに行きたい、あるいはそもそも自分は大学教育に向いていないとか、そういうことを悟った人間が、それほど傷を負うことなく、別の道へいく仕組みができているとかですね。これはヨーロッパの大学を見ていますと、1年生はたくさんいるんですけれども、2年に上がれるのは約半数とか、3年に上がれるのはさらにその半分というようなことが社会的に許容されていて、例えば1年生修了というライセンスとか、2年生修了というライセンスを持って、それなりに就職したりということもあり得るわけです。
  ですから、今までの「入りにくく出やすい大学」から一挙に「入りやすく出にくい大学」に大転換する―将来的にはそうなるべきだとしても、何かバッファー的に今申し上げたようなことについて、これは一大学の試みでは到底難しいだろうと思うので、何か考える余地はないだろうかというのも、従前からもやもやと考えていた次第なので、申し上げたいと思いました。
  それから、今度はグッと話は大学関係者のいわばエゴイスティックな本音ですけれども、受験科目数が減少することは非常にいいことなんだ、受験生の負担を減らすことはいいことなんだということでここのところずうっとやってきて、我が大学もかなり減らしたわけです。しかし、ここのところへきて、やはり学力低下とか、必要な勉強を高校時代にしていない。それは高校が悪いのか、大学が悪いのか、いや、入試科目を減らした大学が悪いというような議論を繰り返しております。
  ですから、内心、もとへ戻すというか、もうちょっときちんと基礎科目は全部入試科目にしたいと思っておられる先生がかなりいるんです。だったら、大学で決断して、増やせばいいではないかというのは、そのとおりなんですけれども、まさに大学の見識が問われるんですが、現実の受験業界を考えますと、これは大変勇気の要ることでして、一旦減らしたものを増やすというのは、たちまちお客さんが減るのではないかとか、そうすると、偏差値も減って、大学全体のランキンングがというような一連の嫌らしい話になるわけで、もう少し様子も見ようではないかみたいな議論になかなか勝てないという状況もあります。これは一種の愚痴ですけれども、入試科目を減らしたのは必ずしもいいことではない。だったら、誤りを改めるにためらうことがないというのは正論なんですけれども、なかなか科目を増やすのは容易ではないということもちょっと申し上げておきたいということです。

○  まず、今までの議論にもありました、高等学校の目的でございますが、高等学校の目的は学習指導要領で明記されておりますし、第15期の中央教育審議会でもはっきりいろんなことを言っているわけです。例えば、今までの教育というのは知識をたくさん詰め込み過ぎている。詰め込んだ知識は、社会へ出るころには古くなってしまい役に立たない。だから、「生きる力」として情報を活用したり、積極的に求めたりするような力と、それから感性だとか、協調性だとか、体力という力、「生きる力」の二つの要素ですね。こういうことを理想として打っていますので、それに基づいて、今の学校教育が21世紀の初めに走るわけですから、そこのところはきちっともう一遍書き込んでおく必要があるのではないかというのが一つでございます。
  企業もそういう人をほしがっているわけです。「生きる力」が出てくるバックグラウンドは、日本経営者団体連盟とか、経済団体連合会とか、経済同友会とか、いろんなところの方が、これから21世紀にこういう人材が欲しいということに基づいてできております。現実に会社が入社で人を採るときにも、今のような「生きる力」を持った人―「生きる力」を持った人をどうやって測るかというと、私が聞いたところでは、例えば学力があって、幅が広くて、興味があってという形で採る。それは具体的には、その学校が入試のときに何科目で入試させているか。これはプロの採用担当者は調べているという話を聞いたことがあるんです。本当かどうかを何か調べられるといいなと常々思っていました。つまり、面接をしたり何かするときに、「あ、これは何科目の受験をやっている学校だな」ということになりますね。
  それから、大きな大学では、大学入試センター試験を受けて入っている子がたくさんいますので、高等学校を卒業したときに多数の科目を受験している人たちが入っているし、附属高校から上がってくる生徒はもっと幅広い学力を持っているわけです。
  その辺の人たちが入社のときに、大きな大学の附属高校などから上がってきて、幅広い学力なり、知識・能力を身に付けている。それから、大学入試センター試験で多数の科目を受けて入ってきているのと、そうでない子どもたちとが、入社試験の面接のときに本当にどのぐらい違うかということを調べていただけるとありがたいと思うんです。実際に採用をする担当者はそういうことを言っていたものですから。それは要するに、入試科目をできるだけたくさんにしたほうがいいよということを、長期的な目で見た大学経営に訴えられないか。つまり、科目を減らすと受験生が増える。増やすと受験生が減る。そのもう一つ先に、企業への就職とか、社会への役立ちから見ると、逆に増やしたほうがいいのだという格好の訴えができないものだろうかということでございます。
  もしそういうことが難しければ、大学と高等学校の接続の相互乗り入れということも出ておりますし、今ですと大学間の単位互換がありますので、高等学校で大学の教育をやって、アドバンスト・プレイスメントみたいなことの延長ですけれども、大学レベルの学習をさせたならば、それを大学に入ったときに認定するというような単位の相互乗り入れですね。それを今の時代ですから、それこそ衛星を使ったりインターネットを使ったりして、教育可能な時期、高等学校と大学がかなり自由に乗り入れできるような時期がきていると思いますので、そうしたことの可能性も考えて接続を議論していく。これはすぐ来年の話ではなくて、もうちょっと先になりますけれども、可能性も一言、どこかに入れてほしいなという気がしております。
  それから、要するに企業側は質がいい学生を採りたいというわけですから、質のいい学生を採るためにどうしたらいいかということの関係で、もう一つ、先ほど出ていました大学入試センター試験、例えばある大学で数学は全部100点だ、逆に文系ならば文科系のものが100点だというふうになって、これは大学入試センター試験で差がないと言うんです。その場合、おかしなことが起こっていまして、理科系の大学に入るためには文系の点の差で入るわけです。つまり、理系は差がないから、英語ができるか、国語ができるかによって、理工系の大学に入る。それから、逆に文系のほうは文系で差がないから、理科ができるかできないかによって文系の大学へ入るという、上のほうの大学ではそういう現象が起きていて、これは考えようによっては必ずしも悪くないだろう。
  つまり、本人の意欲は理系に向いていて、文系に向いていて、その中でも自分が志望するものでない―文理融合という立場に立つと、相手側のいいもの。つまり、理系に意欲があって、100点取る。理系に意欲があるということはそれで示されていて、文系のいいものが入ってくる。逆に文系のほうでもそういうことが言える。これは先ほどの幅広い人間ということを考えたときに、必ずしも悪くないのではないか。
  それで気になる場合に、さらに追っかけて2次試験なりで、理系ならば数学とか何かをもっと難しいものをやれるわけですから、それでやればいい。それでもだめなら、さっきもお話が出ていたように、大学入試センター試験を2回に分けて、今の指導要領ですと、「  I  」とか、「A」に当たる部分は、高校在学中の1、2年で取れますから、高校3年の夏休みぐらいに高校の先生方の努力、御協力が得られるならば、やってもらう。そして、いわゆる1月の試験は「  II  」とか、「  III  」という系統でやれば、両方のニーズに応じることができる。ただ、これは現実の実行部隊の関係があります。問題作成は今と同じようにできるわけですよね。同じ労力でできるんですが、試験会場とかなんかが2回になりますから、担当者は大変なことになりますけれども、そういう方向も検討できるのではないだろうか。具体的に入試委員会あたりで御検討いただく必要があると思います。そんなことがあります。
  なぜ幅広いのかというと、今、世界的に問題になってるみたいで、この間、ユネスコのある国際機関の評議会がありまして、その議長さんがドイツのかなり偉い方ですけれども、昔はお互いに飲みながら話していても、文学論とか、いろんなことを言って、最後に「ところで、おまえ専門なあに」とこう聞くと言うんです。ところが、今の連中はいきなり専門の話になって、トルストイだ、何だとなると、「わしはわからん」ということになって、非常に人間の幅が狭くなってきている。これはドイツの方が言っているんです。「いや、日本でも実はそれで大変困っていて、入試の科目をなるべく減らさないようにしてくれというような動きがあるんだ」なんていう話を二、三日前にしていたところなんです。そういうようなことがあるので、できるだけ科目数は増やしてほしいし、試験で増やせない場合には、大学と高等学校の相互乗り入れていろんな幅広い人間をつくってほしい。
  さっき他の委員の方が人間形成と学力と分けてくださった人間形成の場合でいきますと、いい大学は学力で光る大学になっていて、学力で必ずしも光るところまでいけない大学は、人間の特色、人間形成の面で光る。うちは協調性があるやつ、頑張るやつ、体力のあるやつ、そういうものを育てるんだと言いますと、それはそれなりの特色を認めて、ファイトがあったり、興味があったりというので、企業、社会が受け入れてくれるということが起こります。
  そのように大学自身もきちっとしないと、今、非常に恐いと思っているのは、例えばスタンフォード大学はオンライン・ティーチングで、ある専門については修士号を出せるというふうになってまいりました。そうすると、企業なんかで英語ができる者は、日本の大学の修士を取るよりは、スタンフォード大学の修士を働きながら遠隔教育で取ってしまうということが起こる。
  今はまだいいんですけれども、日本人の先生をスタンフォード大学が雇って、日本向けにぼんぼん講義を出し始めたら、日本の学生はかなり取られてしまうのではないかという危機感を持っております。そういうことに対応するためにも、日本の大学教育が学力大学はいいとしても、いくつかに両極したもう一つのほうの大学が十分に自分の個性を発揮して、そういう個性を発揮できるような形の学生を、入試しないで入れるんですから、どんどん面接なり高等学校の成績なりで入れてきて、入れたからには大学の先生が学力型の講義を大学でするのでなくて、集合型で実験とか、実習とか、討議というような、「生きる力」を本当に育てるような、知識力としては劣るかもしれないけれども、具体的な問題に出食わしたときの総合力とか、問題解決力に優れた学生を育てるというふうにしていかなくてはいけない。
  ですから、大学教育そのものが、今までのような伝統的な教育を繰り返していていいのかどうかということの反省まで訴えることができればいいなと思っております。

○木村座長  ありがとうございました。
  最近の企業の採用の件については、私も個人的に随分調べているのですが、オープンの会議ではっきり自分の会社の方針はこうだとおっしゃるのは大体トップの方で、実際は人事のほうでやっていることと違うようです。ですから、その辺が非常に難しい。社長や会長がおっしゃっていることと、人事がやっていることが違う。技術畑が採りたい人材を人事が採ってくれないということも間々あるようです。それから、中途採用も今でも「やっている」、「やっている」とおっしゃっていますが、労働省の統計を見ると最近ものすごく減っているんです。バブルがはじけて以来、本当にドラマティックに減っておりますので、その辺のところはかなり気をつけて議論する必要があるのかなと思います。

○  きょうは、皆様がおっしゃったことを多少なぞるような発言になると思いますけれども、やはり人間形成と基礎・基本の学力というところが非常に大事だと思います。産業社会の要請というのはいろいろあるんですけれども、やはり不易のこと、変わらないことというのを基本に押さえながら、提言していかなければならないと思っております。
  和辻哲郎の『人間の学としての倫理学』という古い本があるのですが、言うまでもなく、人間というのは人の間でございまして、人間というのは自と他と、それから世人であるところの人の間であるわけでして、当然のことながら、自分自身の発見と他と協調して生きていくルールを身に付けて、さらにこれを社会的に自己表現できるような人間をつくっていくというところが、高等学校までの基礎・基本と人間教育ということだと思います。
  これはもちろん学校教育の中だけでできることではないので、社会のいろんなシステムの中に組み込んでいく必要があると思います。以前、今はなくなりましたが、ヨーロッパなどを旅行いたしますと、例えば何かの順番を待つときに、こんなことまでするのかというふうに、番号札を取って、1番、2番、3番というところもございました。たぶんこれは戦後の混乱のときに、こういうルールが身に付かなくなったことから出てきた知恵だろうと思いますが、多くの社会のシステムの中に、ここまできましたらいろいろ組み込んでいく必要さえあるように思います。
  それから、既に皆様から出たことでございますが、大学入試センター試験の活用。一つは、特定の時期に集中しているという問題があるようでございますので、今、坂元先生からもおっしゃられましたように、実施時期の工夫などでいろいろ多様化が進むのではないかと考えております。

○  多くのことを取り入れて考えていると思うのですけれども、例えば小学校とか、中学校、高等学校という勉強の過程において、実体験の学習というか、体得する学習の場が非常に重要ではないかと思うのです。この中で、知識を体得するということを考えていく場合に、いわゆる学校の中でできることもあるわけでございますが、体得というものを表に出してもらいたいという感じがするわけです。知識というだけではなくて、個人の能力や個性を伸ばすという中には、体得とか、そういうものは全部含まれていると思うんですが、実体験の場を、小学校教育、あるいは中学校教育、あるいは高等学校、大学教育の中にも、どこかに含むような形の表現ができないのかなという感じがいたします。

○  まず、高校以下の教育と大学の役割分担なり、両者の教育の連携、接続という問題の基本的な考え方については、今、多くの方がおっしゃられたこととそう大きく違わないのですが、高校は、97%というような高い進学率を維持しているという状況の中で、実質的に義務教育化しているとか、準義務化とか、いろんな言い方ができると思いますが、まさに高校が国民的な教育機関になっているということを踏まえて、小学校・中学校・高等学校の12年間を通じて自立した市民として、社会人、職業人に約半数がなるということを踏まえて、小学校・中学校・高等学校の連携を重視して、12年間終えたら、あとは自らの選択で高等教育機関に進学する者は進学するという意味で、12年間とそれ以降の高等教育とは、一応12年間である意味での自己完結をするという考え方を強調したらどうなのかなというのが一つです。
  その間、高校までの12年間の目的・目標については、先ほどから何人かの委員がおっしゃることと基本的に同感であります。
  ただ、従来ややもすると、高校の7割が普通科高校と言われるように、職業教育なり職業観をきちっと12年間で身に付けるということがやや軽視された嫌いが日本の教育の一つの欠陥ではないかと私自身は受けとめていますので、やはり職業観なり職業教育、高校を出たら社会人として自立して働くというようなことを、もう少し重視したことを強調する必要があるのではないか。
  今後、これから21世紀初頭は、確かに不透明な時代だと思うんですけれども、青少年問題で、日本、中国、アメリカ、韓国、4ヵ国の中学生・高校生への意識調査みたいなものについて、やや分析的に報道されていましたけれども、目的意識なり、将来に対する希望や夢を持てないで、現状維持といいますか、若い者が現状に対して意欲的にそれを変えていこうというような目的意識なり、学習意欲を持ち得ないでいるというのが私も非常に気になっております。
  したがって、大学審議会では「知の再構築」というようなことを言っていますが、最近、経済企画庁が出したものでは、「21世紀、知恵の時代」というような一つの表現を使っています。そういう意味で、積極的に学習をし、それが身に付いて知恵として働く、まさに中央教育審議会が言っている「生きる力」としての「知」といいますか、そういうものが資源のない日本にとっては、これから国際社会で生きていくためには非常に重要なんだということを強調して、子どもたち、若い者が前向きに努力をするというのを、学校教育の中で重視していくというようなことについて、今回の答申の中では打ち出してはいかがなものかというのが、高校と大学の役割分担の明確化と連携に関連した私の問題意識であります。
  それから、ヒアリングで九州大学助教授の吉本意見発表者が、無業者が非常に多いということを言われていましたが、この前、車の中でラジオを聞いておりましたら、東京のある高校では、この3月の卒業生の中の46%が無業者だったということをとらえて解説をされておりました。確かに無業者といいますか、フリーターとして生きるというのも一つの生き方だと思うんですけれども、何か会社で仕事に就いて、拘束を受けるということを非常に嫌うような風潮があるような感じの解説でありまして、それはそれとして全面的に否定するわけではありませんけれども、職業に就いて社会人として、社会の中で生きていくことについて、もう少し前向きになるようなことが必要なのではないかと私は個人的に思うわけであります。そういう意味でも、職業観といいますか、職業教育を、12年間の間に身に付けることを重視すべきではないかというのが一つの問題意識であります。
  それから、最近、いわゆる学力低下問題がかなりマスコミをにぎわしていまして、私も前に一度発言したことがありますが、名前を挙げると恐縮ですが、『中央公論』にある研究者が書いた文章を、私もそんなに細かく分析しているわけではありませんが、最近の学力低下問題は、私の見るところ、三つぐらいに分けられるのではないかという感じがしています。
  一つは、高等教育の量的普及といいますか、進学率の上昇、これは1980年代から急激に上がって、おそらく50%を間もなく超えると思いますが、そういう量的拡大、進学率の上昇に伴って、これまで大学に行くことができなかった子どもたちが大学へ進学するということです。そういう意味での進学率の上昇に伴う平均的な学力の低下は、2、3%とか、10%以下の大学進学率のときと比べれば、これは平均してとれば下がるのはある意味ではやむを得ないことで、大学の収容人員をグッと今の定員の半分ぐらいにすれば上がるのかもしれませんけれども、そういうことは実際問題としてできないわけであります。
  したがって、進学率の上昇に伴って、いかにして大学側が受け入れた学生の―どっちかというと今まで大学は学術の府ということで学校教育上うたわれていますけれども、教育と研究の両機能の中で、研究にある意味では重点が置かれていた大学も多いと思いますが、やはり教育について、大学側の意識を変えてもらって、教育を重視するということにして、教育の機会を拡大しているわけですから、それに伴って受け入れた学生について、大学側で補習とかそういうものも含めて重視していくということにすれば、そういう意味で言われている学力問題は一定の解決策があるのではないか。
  二つ目に、高校以下の多様化と大学側の多様化という、多様化に伴って学力が低下しているという主張があります。これも事実そういう側面があることは否定しませんけれども、特に先ほどから意見がありますけれども、多様化し、そして少子化の影響もありまして、入試科目を減らしていくという傾向があって、したがって、医学部に入ったのに「生物」を履修していないとか、工学部に入ったのに「物理」を履修していないということは、これは入試科目なり、入試制度を変えることによって、医学部とか、工学部とか、学部の目的に照らして、必要な科目を極端に減らすことについては、ちょっと考え直す必要があるのではないかと思います。これは多少異論があるようでありますけれども。
  三つ目の学力低下批判の中で、私も非常に気になっているんですけれども、いわゆる2002年から学校完全5日制にするとか、学習指導要領の改訂で教える内容を3割減らすとかという、教育内容なり学校教育のスリム化という今の教育改革の動向は、世界の教育改革の流れに逆行しているという主張が、一部の教育者から非常に出されています。そのことは私は当たっていないと思うんですけれども、一定の影響力を持っている先生方がそういう主張をなされています。
  東京大学で、入学した学生に、鎌倉幕府の成立の年号と滅亡の年号を聞いたら、ほとんど知らなかったと。私なんかも受験のときに、成立を「イイクニ」ということで「1192年」とか、「イッサンに逃げてサンザンな目に遭った」ということで、「1333年」というのは、ある時期、僕らも教え込まれて、いまだに50年たっても覚えてはいるんですが、そういうことを知らなかったから、学力が落ちたというような意味で、短絡的に批判をされているとすれば、それはあまりにも短絡過ぎるので、いわゆる受験学力という、暗記学力は科目を減らしたりすれば多少落ちるわけであります。だからといって、何の準備もなしに学校5日制を完全実施するというのは時代の流れに逆行しているというのは―フランスに行ったら、週3日の休みのところもあるぐらいでして、必ずしも主要先進国と比べて、日本の今やっている改革の動向が流れに逆行しているとは全く考えないんですが、そういうことについては、中央教育審議会も一応何らかの形で取り上げて、一定の見解を述べることが必要ではないかと思っております。
  入試の問題につきましては、もう少し機会を見て、次回ぐらいに私の考え方を少し述べさせていただきたいと思います。

○  いろいろなお話が随分たくさんございました。高校と大学の接続を重視した入学者選抜の改善についてぜひ取り込んでいただきたいことがあります。
  従来から熱心に議論された内容の殆どが本日は出尽くした感じも致します。職業観が大事だというお話もございますし、根本会長が盛んに発言しておられました、「山を走ったり野を走り廻る奔放自由な生活から培われる、初等教育の一番重要なところが今欠けている」という強調に私も同感です。
  大学で見ておりますと、おもしろみのある人間がだんだん減ってきております。ということは、多様な人材育成という基本議論からかなり離れております。他大学に奉職する友人からも何かの機会に異口同音に同じ話を聞いております。したがって、今日お話に出た難しい大学とか、やさしい大学という分け方が本当にあるのかどうかは別にして、どちらに該当する所でも「面白味のあるのがいない」と言っております。一番大事なことは、高卒までに凡そが完成されてしまうわけですので、幼稚園から始まって高校までに完成させる教育の重点施策として、はっきり明示して実行いただくべき必要事ではないかと思います。「でしょうか」という尋ね方でなくて、こうあるべきだとはっきりした主張を中央教育審議会の結論の中へ入れていただきたいと思います。
  それから、入学試験の科目を増やしたほうがいいという御意見もありましたけれども、それは本質論と関係ないという気がするんです。御意見に反対という意味ではございませんでして、要するに科目が多かろうか少なかろうが、勉強する人は勉強しますし、必要があればまた年とってから勉強するやつもいるわけで、あまり関係ない。したがってむしろ大学入試センターの役割は、四六時中研究をお願いしまして、学力や人間としての到達度評価をどうすべきか、学力の試験問題だけでなくて、もうちょっと心理的評価など、多角的な評価をどのように可能とするかについて一所懸命に開発をしていただくことが大事ではないかと思うのです。
  もう一つの問題は、試験時期が年1回というのはいかにも寂しい話で、四六時中やっていただきたい。要するに、小中学生だろうが、高校生だろうが、それぞれの時点でいろいろな形の評価の対象になり得るわけで、到達度の全国的傾向を見るとか、あるいは将来にどういう手を打っていったらいいかという、科学的な解析資料として議論の対象を提供するというのが、これからの在り方ではないかと思うわけです。
  したがって、例えば、我が国では大学の在り方が設立者の種類によって違っております。例えば、私立とか、国立、あるいは地方自治体の大学とか、いろいろあります。例えば学校法人としての私立の場合実質的には個人経営は、今日では極めてわずかになっておりますので、この区分はあまり意味がない。大学の在り方というのは様々になるべきですけれども、それら全てに対し公正にして十分な施策を施し、どこでも同じように特徴ある人材の教育展開ができる条件を満足させておくことが大事です。
  そうしないと、例えば、長さがそろって、頭からしっぽまで同じ太さという特徴が練馬ダイコンだそうでありますが、これを干して、寸法をそろえますと一級品でこれを樽に詰めまして、たくあんができます。
  つまり、大学入試センター試験、あるいは入学試験でいかように努力して優秀な人を集めましても、できてくるのはたくあんばかりだ、どれを切っても同じ形、別の言い方をすれば金太郎アメだということになる。そうすると、今、日本全体が苦しんでいるのは何かというと、たくあん社会で困っているわけです。これを脱却するにはどうしたらいいかを考えていただきたい。この中央教育審議会ではそういう問題に触れた建言をすべきではないか。優秀な人材をあたら同じ樽に詰めるために、みんな同じ色に染まって、同じ味で、まあ、それ以上は申し上げませんけれども、そのかわり仲間内はうまくいってという処に、一見スマートでありながら活力を欠いた集団思考に終始する現実の病弊に気づくべきであると申しているのです。私は現体制を攻撃するという意味ではなく、将来に向けて日本が生き残りを策すためにどうしたらいいかという議論でして、根本に立ち返って考えるべきだと主張したいのです。
  かつての文部大臣が、一つの富士山ではなくて、八ケ岳と主張されて、世間の共鳴を得たことがありましたが、その理想は実現しつつありますが、しかしまだ足りない。優秀な人材を揃える名目でドングリばかりを養成しているのではないか。どこの大学でもドングリになりますと、お互いに切磋琢磨を欠く。つまり、あれもおれと同じぐらいだ、大したことないよと安心してしまって、ひとつやってやろうかという気持ちが育たない。つまり、おもしろみのない人間ばかりができてくる。これはかつてはなかったことです。
  私が言いたいことポイントはここなんです。高校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善については、要するに「入学者選抜が改善されている」との認識が国民に共有されていないのではないか。もちろん国民的関心事ですが、皆さんのお気持ちは、大方の方がまだ改善されていないとお感じと思うんです。中央教育審議会としてはこの点に焦点を絞って分析しておく必要がありますし、書いておく必要がある。
  申し上げたことは抽象的に過ぎたかと反省しておりますがで、大体そこに尽きるのではないかと思い、一言申し上げました。

○木村座長  本日は、どうもありがとうございました。



(大臣官房政策課)

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