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中央教育審議会

 1999/6 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第12回)議事録 

 中央教育審議会

      初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第12回)

  議  事  録


  平成11年6月23日(水)  13:00〜15:00
  霞が関東京會舘  35階    ゴールドスタールーム


  1.開  会
  2.議  題
    「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
  3.閉  会


  出  席  者

委員 専門委員 事務局
木村座長 荒井専門委員 佐藤事務次官
河野委員 安齋専門委員 富岡生涯学習局長
國分委員 磯部専門委員 辻村初等中等教育局長
田村委員 岡本専門委員 素川高等学校課長
土田委員 黒羽専門委員 福島職業教育課長
永井(多)委員 小嶋専門委員 御手洗教育助成局長
長尾委員 小谷専門委員 佐々木高等教育局長
松井委員 杉田専門委員 高   総務審議官
横山委員 高鳥専門委員 寺脇政策課長
   橋口専門委員 その他関係官
   久野専門委員   
   山極専門委員   
   山口専門委員   
   四ツ柳専門委員   


○木村座長    それでは、ただいまから中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」第12回会議、第17期としては第5回になりますが、始めさせていただきます。
  本日は、お忙しい中、本会にご出席賜りましてありがとうございました。
  本日は、前回御案内申し上げましたとおり、前回の第11回会議に引き続きまして、「論点整理メモ」に基づき御審議をいただきたいと考えております。
  それでは、まず配付資料の確認を事務局よりお願いいたします。

<事務局から説明>

○木村座長    これまでの2回、第10回と第11回では、「論点整理メモ」(※1)に基づきまして御議論をいただきました。具体的には、「論点整理メモ」の「1高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」、それから「2高等学校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善」についてでございます。
  本日は、審議の3回目といたしまして、「3その他の関連する施策」を中心に御議論をいただきたいと存じますが、たぶん論点「3」で時間が足りなくなるのではないかと思います。もし時間が余りましたら、「1高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」「2高等学校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善」にお戻りいただきまして、全体的な議論もあわせてお願いしたいと存じます。
  なお、今回は審議に先立ちまして、前々回御要望がございました、専門高校・総合学科卒業生で特別選抜等により大学に進学した者の進学後の状況について取りまとめた資料(※2)を、事務局のほうで用意していただいておりますので、御説明をいただきたいと思います。

<事務局から説明>

○木村座長    御質問等ございましたらお願いいたします。

○  専門高校・総合学科卒業生選抜等については、理系のほうが中心になっているような印象を受けたのですが、文系のほうはそういう例があるんでございましょうか。

○事務局    各校長会で調査をしていただいておりまして、例えば商業高校なんかは商学部とか、そういう形で進学しておりますので、文系に進学しているところも多いと思いますけれども、大体同じような状況でございます。

○  総枠で言うと、理系が2割強という感じで、文系が7割から8割近いものですから、文系が本格的にやらないと数としては出てこないような気がするものですから、その辺はどういう傾向になっているのかなと思いまして、ちょっとお聞きしたわけです。

○木村座長    一橋大学はずっと続けているんですよね、5名という枠は。

○事務局    一橋大学のほうは専門高校卒業生選抜ということで、大学入試センター試験の成績と併せて簿記、工業簿記、会計というような商業に関する科目等で評価をするという選抜法方を続けていただいておりまして、学生としてはほぼ適応しているということを御報告いただいております。

○木村座長    このデータは「理科教育及び産業教育審議会」でまとめたものです。私、その会長をやらせていただいておりますが、一度一橋大学から、御報告をいただきました。大変前向きにとらえておられまして、今後ともぜひ続けたい、拡大したいというようなお話もございました。

○  質問と申すより感想でございますけれども、非常にポジティブな結果が出ております。これは一つは制度導入の初期の段階なので、送るほうも、受け入れるほうも、それから何よりも本人自身が非常にやる気のある人が選ばれ、またその成果に注目が集まっている。そういうふうな効果がここに入っているのだと思います。
  特に大学側からいうと、基本的な潜在能力は持っている。ただ、今まで学習するチャンスがなかったから、一部欠ける学力面があるのだけれども、本来の学習能力が高いから受け入れたというのは、やはり一部のセレクトされた人という感じがするのです。袋小路にせずに、いろんな道を開いていくのは非常に大事だと思いますが、単に量的に拡大すると、同じような結果になるかどうかというのは、今後、注意しなければいけない。しかし、これは非常にいいことであるというふうには思いました。

○  簡単な質問が一つです。高等学校が進学組とそうでない組とに分けていた時代があったわけです。この中では、大学に進学した生徒たちを、特に進学組とか何とかに限らず、まとめて調査をされた結果でしょうか。

○事務局    専門高校の場合は、特に進学組とか、そういうコースを置いていないところが多いわけでございまして、大学のほうで評価する際も、専門教科の科目を学力検査の科目に導入しているものですから、きちっと専門教育を受けて試験に臨んでいるという状況だと思います。

○  たびたびの発言で申しわけないんですが、先ほど確認させていただいたんですが、理工系に偏っているという意識がかなりあるので、文系でも同じような効果が期待できるんだというPRみたいなことを少しされたほうがいいのではないかという感じをちょっと持っているんです。現場にいるものですから、率直にそんなふうな感じがあります。大変いい仕組みだと思いますので、ぜひひとつ進めていただければと思っております。いわゆる文系の一般の大学がやったらいいと思うんです。

○木村座長    どうしても工学部が現状で一番多いんですね。そうすると、工学部は今、物づくりということを一所懸命考えていますので、専門高校・総合学科の方々は、若いときに物づくりのトレーニングをしてきているということで、何とか採ろうではないかという雰囲気は非常に強いものがあります。文系のほうは、今、おっしゃったように難しい面がありますね。

○  質問というよりは感想ですが、我が意を得たなという感じがしております。といいますのは、特に中学生の場合ですが、小学校から中学生になるに従って、個人によって進歩の度合いが非常に異なります。体の面でも早く大きくなる子と、ゆっくり大きくなる子がいますが、能力の面でもそうです。
  そうしますと、極めて短い中学校3年間の中で、実は学力が個人の発達の違いを念頭に入れないで評価されて、比較的学力の高い子は普通高校、そうでない子は専門高校、専門学科というふうになっていってしまいます。したがって、専門学科、高校に行ってから伸びていく子どもたちは、ある一定数はいるわけです。その子たちに、従前であればなかなか大学への進学の機会が与えられていませんでしたが、このような選択方法によって大学進学の機会が与えられました。ですから、本人に目的意識が明確になっているから云々ということもあるだろうけれども、むしろそういう子どもたちにこのような選抜方法によってリターンマッチの機会を与えられているんだというふうに見る必要もあるのではないか。
  ただ、これが量的に拡大していけば、当然、そういう子どもだけではないわけでありますので、ある一定の量を拡大すると、今度は下降線をたどっていくということはあり得るわけです。どの程度がいいのかというのは、若干吟味が難しいところだなと思っておりますが、ぜひこのような選抜方法は続けてほしいと思っております。

○木村座長    それでは、審議に入りたいと存じます、前回、前々回御議論いただきましたのが、「論点整理メモ」の「1高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」と「2高等学校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善」でございます。本日は、先ほど申し上げましたように、「3」番の「その他の関連する施策」について御議論をいただきたいと思います。これにつきましては特に二つの論点があると思います。
  第一は、高校卒業までの12年間における教育の役割を踏まえて、小学校と中学校、中学校と高校、さらには小学校・中学校・高校といったそれぞれの段階の間の連携をどのように推進していくべきかという視点。例えば、小学校・中学校・高校を通しての一貫教育という視点から、第16期の中央教育審議会として中高一貫教育の推進を提言しております。そういうことについて、接続という観点から、さらに推進を図るべきではないかということになるのではないかと思いますが、その辺についても御議論をいただきたいと思います。
  それから、学校教育と職業生活の接続はうまくなされているかという視点です。双方の接続を円滑にするため、どのような取組を進めるべきか。特に学校教育においてエンプロイヤビリティという概念を重視しつつ、進路や職業に関する学習をどう進めるのか。この2点を挙げさせていただいております。
  後のほうの論点は、これは国際的にも、今、議論が盛んに行われているところでありまして、アメリカ、イギリスでも若い人の職業観といいますか、勤労観が希薄になっているという議論があるようでございます。
  それから、エンプロイヤビリティ、職業意識、勤労意識、そういうことについて、学校教育において、進路や職業に関する学習をどのように進めたらいいのかを考慮しつつ、指導していく必要があるのではないかということを考えております。要するに、望ましい職業観をいかに身に付けさせるかということではないかと思います。
  それから、進路や職業に関する学習を進める一環として、最近、盛んに各方面、大学、それから産業界でも議論されておりますが、インターンシップでありますとか、進路等に関する相談を企業との協力を得ながら充実させていくという点も重要なポイントになるかと考えております。
  いずれにいたしましても、このような二つのポイントについて御議論をいただきたいと思います。最初のポイントにつきましては、これまでの議論と重複するところもあろうかと思いますが、よろしくお願いいたします。
  第16期で、私ども中央教育審議会で提案いたしました中高一貫教育の問題でありますが、これについて事務局のほうで資料を準備していただいておりますので、説明お願いいたします。

<事務局から説明>

○木村座長    ありがとうございました。中高一貫教育に関する設置並びに検討の状況等について御説明をいただきました。
  御質問等ございましたら。どうぞ。

○  中高一貫の場合は、たしか六つか七つぐらいの体験学習を重視するとか、情報だとか、いろいろあったと思うんですけれども、今のところどういうところに重点化した中高一貫教育が多いのでしょうか。

○事務局    六つ七つと言われました中央教育審議会の例示だと思いますけれども、やはり地域の特色を生かした教育というところが、公立の場合は多いと思います。

○  私も不勉強でよくわからないところがあるんですが、設置形態としては中等教育学校と併設型と連携型と三つがあるということで、これはよくわかるわけです。これを拝見しますと、圧倒的に併設型が多いということですね。併設型というのは、基本的には同一の設置者が中学校と高校とをつくるということなんでございましょうか。
  そうしますと、設置者が異なる高等学校と中学校が実際には多いわけですから、例えば市立なら市立の中学校と高校とが併設しなければならんという枠組みで考えていくと、いわば県立の高校と市立の中学校とが連携することはなかなか難しいというか、その場合は連携でしかできないということになりますね。
  これを読んでみますと、やる以上は併設型が望ましいという意見が多いようですが、その辺のことはどういう事情に基づくものでしょうか。つまり、連携型では一貫教育の実が上がらないということ、あるいは設置者が違うところの学校が連携するということでは、やはりうまくいかないという見通しがあるんでございましょうか。

○事務局    私どもの理解では、中高一貫教育を徹底して行うためには、同一設置者が一つの学校をつくるというのが一番徹底したやり方であるということでございます。ただ、現在、例えば高等学校を設置している現状から中高一貫教育を進めるという場合には、併設型では、中学校だけをつくればできます。もしくは今例がありましたように、高等学校段階でほかの中学校からの入学も相当数受け入れていこうというようなことも併設型では可能です。このように設置者のオプションといいますか、設置の多様性も確保できるということで、併設型は意味があるのだと思います。
  今の都道府県立高等学校、市町村立中学校というのを前提として見ますと、設置者が違いますので連携型というこになるわけでございますが、併設型と中等教育学校の場合には新たに設置してより中高一貫教育を徹底してやるというパターンだと思いますので、現在は数といたしまして、平成12年度出ておりますのは、徹底した中高一貫教育をやるならやろうということで、併設型、中等教育学校が数として多く出ているのであろうと理解しております。

○  併設型の中学校、高校のことでちょっとお教えいただきたいのですが、高校段階でまた新たに生徒が入ってくる場合です。中学校から併設の高校にそのまま進学した生徒は中高一貫教育で良いのでしょうが、高校時点で新たに入ってきた生徒、その人たちの中高一貫教育はどういう形になるんでしょうか。

○事務局    高校から入ってきた生徒につきましては、厳密な意味では中高一貫教育の対象にはなっていないと思われます。また、なぜ併設型の場合に、設置者の設置のバリエーションがあるかといいますと、学科を選んで中高一貫教育を行う。例えば、総合学科を持っていれば、総合学科について中高一貫教育を行う、もしくは特定の専門学科について中高一貫教育を行おうというような、設置者のいろんな判断があると思います。
  先ほど御質問がありましたけれども、中央教育審議会答申では七つのタイプが示されたわけですけれども、専門学科的なものもあれば、総合学科的なもの、普通科的なもの、メニューとしていろいろあります。設置者としてどの学科を選んで中高一貫教育を行うかという設置者の設置の工夫もできるということで意味があろうかと思います。

○木村座長    ほかによろしゅうございますか。
  はい。ありがとうございました。それでは、この件につきましても、議論を以上とさせていただきます。
  次に、前回及び前々回の小委員会で御議論をいただいたこれまでの論点「1高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」と「2高等学校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善」の議論の主なものをまとめてございます。これについて朗読をしていただきまして、その後、第「3」の「その他の関連する施策」について御議論をいただきたいと思います。
  それでは、よろしくお願いいたします。

○事務局    それでは、朗読させていただきます。

      中央教育審議会 
    「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会第10回、第11回)における主な意見

  第1  高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携

  (1) 基本的な考え方
  ○  現在の教育で重要なのは、自由に対する義務や規律といった概念であり、そのためには、リベラル・アーツという概念が重要である。これらは、大学に入ってからというより、高校までの12年間の教育においても重視される必要がある。

  ○  これからは、自立と自律が基本になり、社会的個というものを尊重していく必要がある。

  ○  論点にも示してあるとおり、高校までの教育と大学の教育の役割なり、どのような力を身に付けることを目指すのかをまず明確にすることが重要。そこでは、到達すべき目標の共通的側面と生徒(学生)自身の個別の側面、大学全体の側面、個別の大学の側面それぞれについて考える必要がある。

  ○  若干極論であるが、高校、大学が共通的に到達できる目標や役割を示すことは難しい面があるのではないか。やはり、何らかの類型化の議論が必要ではないのか。   

  ○  ヒアリングを通じて分かってきたことは、むしろ、各段階の役割分担がいかに不明確なものになっているかということである。このことを踏まえて、なおかつ難しい課題であるが、明確化の議論をするのか、それともそのような整理は難しいという前提に立って連携の議論を進めるのか、私は後者ではないかと思う。

  ○  カリキュラムの系統性、連続性を確保するための研究が不十分であり、今後の取組が重要。

  ○  役割分担の明確化の議論については、およそ高校、およそ大学ということで区分して議論することが難しいということを前提に、その中で、最低限どのようなものを提示するかが必要。

  ○  役割分担の明確化に関し、いわゆる「学力」での明確化は無理にしても、自分の人生に対する意識であるとか、自我の社会化、自尊心をいかに高めるのかといった観点に立っての目的・目標は示せるのではないか。

  ○  高校までの12年間の教育においては、まず基礎基本を身に付けた上で、自己・自我の自覚や自我の社会化を図ることが必要であり、これを確立させて、自分探しの旅が始まるのであろう。個人と社会との間で自分が社会にどのようにつながっているかを確認させた上で、大学等へ進むことが望ましいのではないか。

  ○  現在の若い人については、1.深く考えること、2.長い時間をかけて残ってきたものを尊重すること、3.人間関係を処理していく力といったもの、が欠けているのではないかと考える。ただ、これらを身に付けさせていく上で、中高3年ずつで区切るやり方では、それぞれの3年間が十分に活用できないのではないかと考える。

  ○  中等教育の在り方についての曖昧さは、世界共通の悩みの種である。基本的なことは学校教育法にも書かれ、さらに、教育課程審議会の答申にも記述がなされるなどしているが、戦後50年このような観点から、論じられたことはなく、原点に立ち返って、それぞれの役割の明確化を議論する必要がある。

  ○  現在の日本は、先行きが不透明で将来に対して、夢や希望が持てない状況にある。このような状況にあるからこそ、中教審として、例えば、大学生にどのような人間になってほしいかということをもう少し具体的にイメージできるような形で示すべきではないのか。

  ○  これからの大学の在り方については、1.大学院教育と結びついた研究志向、2.学校を取り巻く社会の援助が必要である高度の職業能力の育成、3.営利活動の基礎としても重視すべき教養教育という3つの側面を重視していく必要がある。

  ○  大学によっては、相当数が博士課程まで進むところもあり、大学院やポスドク段階まで視野に入れた接続の議論が必要。

  ○  大学の機能を分けて議論するということについては、個々の大学がそのような目標を設けることは構わないが、制度的に分けるかのようなことは問題。

  ○  人文社会系の場合、ほとんど学部卒で社会人になる。やはり学部教育で一人前にするために大学教育がいかにあるべきかという議論が重要。

  (2)「接続」をめぐる課題(「学力」論等)
  ○  学力低下等の問題については、むしろ分散化として捉えるべきである。選択幅の拡大によって、高度の内容を学習するといったことが可能となるといった縦の多様化も進んでいる。このことを踏まえて、アドバンスト・プレイスメントや高大一貫教育等によって、高校と大学とをどのように接続するかという考えが必要。

  ○  学力の問題に関連して、従来の高校卒業の認定や大学の学位という概念とは別に、各学校がどのような能力を身に付けさせたかを説明する責任があるのではないか。この観点に立っての、各高校や大学卒業時点での評価の取組についても検討すべきてはないのか。

  ○  学力低下の問題については、中教審として、「学力」の意味をどのように捉え、そのことに基づけば、どのように考えられるのかということについて、明確に示す必要がある。

  ○  学力低下の指摘に関しては、「学力」についての規定がないまま議論がなされているのが問題。例えば、大学において必要な教科科目を履修していないということであれば、それはまず入試等で対応すべき問題である。ただし、大学入学後学ぶ意欲がないということについては、新しい学力観が身に付いていないということであり、これは高校側でも受けとめる必要があると考える。

  ○  学力低下の問題については、学力観についてのとらえ方が、必ずしも一致していないという問題がある。もう少し整理する必要があろう。

  ○  学力低下の問題については、問題点の整理が必要。例えば、医学部進学者が生物を履修していないというのは、常識で対応すべき問題。

  ○  学力というものをどのような点で判断するかということであるが、例えば、最近の学生は、コンピュータを使う能力や外国語能力といった側面では、以前よりも優れていると考えられる。また、イギリスの有名大学では、日本の大学生が持っている数学の知識を持っているわけではないが、その中で、非常にできる学生もいることをどう考えるかという問題がある。

  (3)具体的な方策
  ○  接続に関しては、生徒の側の問題として捉えるべきである。現在は大学に入りさえすればよいという指導で、大学に入ったら、その学習がどのようにつながっていくかという部分が明確に示されていないのではないか。例えば、中高一貫校において、中学で指導がなされる場合には、現在の学習が高校でどのような拡がっていくかということが意識されていることもあるようである。このような仕組みをつくることを検討していくべきである。

  ○  日本人のすべてが何らかの形で高等教育を受けることは、条件が許せば結構なことである。これからは、個を中心にした見方から、子ども一人一人にポートフォリオを作るとともに、これに対応した教育を供給する側からもポートフォリオを作るといった理念に立っての取組を進めていく必要がある。

  ○  高校、大学の接続の基本は、両者がよく知り合い、よい教育効果を与え合うことであると思う。個々の大学が自らの建学精神、育成しようとする人材像や教育方針、カリキュラムのスキーム等を明確に打ち出すべきである。これらを高校サイドに発信し、大学を選択してもらうことが必要であり、その際、1回のペーパーテストではない形の選択する側とされる側との相互確認の作業が必要である。

  第2  高等学校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善

  (1)  基本的な考え方
  ○  大学入学者選抜の改善が進んでいないとの認識の背景には、選抜方法の工夫はされているものの、それが大学の都合でなされているということがあるのではないのか。また、不透明な時代であるにもかかわらず、将来の力でなく、現時点での力だけで判断していることもあるのではないか。多様化そのもは図られているが、適性そのものについては評価がなされていない。さらに、日本の大学入試は、他人よりよい成績を取らなければいけないというコンクール型であることも問題。適性の評価を入試の要素に大胆に入れてしまうことも必要。

  ○  国民一般から見ると、いろんな改善策が試みられているものの、過度の受験競争が緩和されたという認識が必ずしも共有されたものとなっていないのではないか。関係者から意見を聞いても、高校も大学も偏差値輪切りの状況で序列化されている。
  能研テストや進学適性検査は定着しなかったことを見ると、国民のコンセンサスを得るのは困難かもしれないが、能力・適性に基づいて自らの意思で選択する入学者選抜への転換が必要。

  ○  大多数の若者が崇高な態度を持ち、誇りをもって行動できるようにすることが必要。高等学校までの教育課程を見ると、プロセスについては規定してあるが、その結果についての把握ができていないのではないか。学校の自由度が高まる中で、到達度の把握がより重要となるところである。

  ○  推薦枠等の拡大により大学入学が容易になっているが、何とかして大学・短大に進学することは重いことであるということを自覚させることが必要。そのためにも、大学入学者選抜は、重くて高い存在であってほしい。

  ○  「適性」・「能力」を評価すべきという意見があるが、素質論に陥ってしまう危険があり、慎重に扱うべき。また、「能力」も結局は、「アチーブメント」から評価するしかなく、それは、これまで比較的上手くいってきたのではないか。
  各大学がそれぞれ教育プログラムを用意し、公表する。入試は、そのプログラムを学習する「準備性」を見ることと考えればよいのではないか。

  ○  結局、親が、「自分の子の能力・適性に合った大学に入れるか」というよりも、「特定の大学に入れるか」ということに固執していることが問題なのであり、選抜方法を変えても改善は難しい。
  また、大学といっても、様々な特色を有するところであり、受験科目数を少なくしたり受験のハードルをただ低くすればよいというのはおかしいのではないか。
  
  ○  入学試験の競争については、避けることはできない。若くて知識をいくらでも吸収できる年齢層の人たちが学習しなくなることによって、日本全体の学力の総量が減ってしまうのは問題。高校の卒業レベルの基準というのがあるはずであり、それを入学者選抜によって適切に評価すべきである。

  ○  かなり、大学入学者選抜自体は変わっていると思うが、18歳という一時期への一点集中があり、そのために閉塞感が存在することは変わっておらず、このことが、入学者選抜改善が必ずしも進んでいないという見方につながっているのではないか。入口部分を見直すことに加え、入学後の学部や大学間移動の仕組みを拡大するなど、大学全体の在り方を見直すことが重要である。

  (2) 具体的な方策
  ○  過度の受験競争の緩和に加え、きめ細かい接続を行うには、それぞれの大学が、どういう学生がほしいか、どういう教育をするかを明確に示すべき。

  ○  専門高校から大学進学希望者が増えている。大学も入試科目の代替措置や推薦入学等、入学者選抜における配慮をしてほしい。
  また、障害のある者の大学進学についても、目の不自由な者に対する点字による入試といったような取組をさらに拡大していってほしい。

  ○  センター試験については、高校生の基礎的な学習を評価するものであり、私学の一層の参加を求めるとともに、できるだけ資格試験的に扱ってほしい。

  ○  センター試験は高等学校までの学習を踏まえた入学者選抜を実現するという意味で大切にしてほしい。また、今後は、高等学校教育の多様化に一層対応するものとなってほしい。

  ○  大学関係者が求める能力と高等学校までの教育で身に付けさせようとする能力には、例えば、論理的思考力やコミュニケーション能力といったように、大きな違いはないと考えるが、問題は、そのような能力が必ずしも入学者選抜で評価されていないことではないか。時間をかけて丁寧な選抜を行うことが必要であるが、高等学校の学習成果の蓄積を評価することも重要。

  ○  大学進学に当たっては、社会とのつながりに関する展望をもってもらうような選択がなされることが必要であり、この観点から、指定校制度のように高等学校側に大学入学の決定の一部を委ねる部分もあってよいのではないか。

  ○  これまでの改革は、高校・大学の自由度を増す中で、受験科目の減少が図られるとともに、高校の受験シフトが強まり、大学入試合格が大学教育を受ける力の証明にならなくなってしまった。むしろ、今後は、出口チェックのような制度上のある程度の枠組みが必要なのではないか。

  以上でございます。

○木村座長    ありがとうございました。
  以上、過去2回にわたってお出しいただきました御意見をまとめたものを御紹介させていただきました。
  それでは、論点整理メモの「3.その他の関連する施策」、について御意見をいただければと思います。よろしくお願いいたします。

○  今の「3」のことに関連して申し上げる前に、前回も申し上げたことがあると思いますが、私は今回の初等中等教育と高等教育との接続の問題というのは、既にこれまでに出されている中央教育審議会の答申がそうですが、大学審議会の答申、生涯学習審議会の答申、それから教育課程審議会の答申を統合して出していけば、立派なものがまとまるのではないかと思っております。
 例えば、御承知のように大学審議会で最近出しておりますのは、大学改革の基本理念の一つとして、課題探求能力の育成を目指した教育研究の質の向上ということをはっきりと打ち出しております。大学レベルにおける課題探求能力ということを考えてみますと、初等中等教育レベルで今回、教育課程改訂の大きな目玉と申しますか、ポイントの一つとして総合学習によって身に付けられる能力を重視していますが、これは高等教育段階で課題探求能力を培う基礎になるという点からも、非常に大事な視点ではないか。
  一方、高等教育レベルでは、これも申し上げるまでもなく、なぜ高等教育の段階で学際的・総合的学習ということが大きな課題になり、それに対する関心が高いのか。最近、専門的な教育が大事で、あまり学際的・総合的と言うなという意見もあるやにも思いますけれども、これはやはり重視して考えなければならない問題ではないか。
  それと生涯学習審議会で打ち出しておりましたのは、これも御承知のとおり、現代の環境問題だとか、高齢化社会の問題、男女平等社会の問題、そういうことを何項目でしたかね、少なくとも四、五十項目挙げながら、これを「現代的課題」という言葉でとらえていたと思います。「現代的課題」の解決力を生涯学習を通して身に付けていくことが大事になるんだと、こういったことを打ち出していたと思います。
  ここには、課題探求能力という点に絞りながら、初等中等教育と高等教育と生涯学習の役割分担の問題がかなりはっきり出されていたというようにも思いますので、そういった点から、何か初等中等教育と高等教育の接続の問題を考えていけないのか。もう少し考えてみたいと思っております。これが第1点です。
  そのことに関連して、「3その他の関連する施策」とのつながりで申しますと、私は高等教育を専門にはやってきてはおりませんけれども、これもよく言われているとおり、かつて「生涯学習、生涯学習」ということが言われたころに、OECDはいち早くこれを「リカレント教育」という点に絞って提起いたしました。これは職業的能力の開発・育成が非常に大事だ。これがOECD諸国では初めからあったというようなことも言われておりました。
  そういうことと結びつけてとらえるときに、これからの大学を生涯学習体系の中での高等教育というふうにとらえてみますと、大学というとらえ方がもう少し広がっていって、生涯学習の段階としての高等教育段階というとらえ方になってくるのではないか。その中で非常に大事になるのが、職業的能力の開発の問題、エンプロイヤビリティの問題と関連してくるであろうということになると思います。
  そういうことを考えますと、日本のこれまでの大学の中心でありました、これは先ほどの何人かの方の意見の中にも出ておりましたが、18歳人口、ここに入試の問題を絞り上げてきていた。それから、18歳相当人口と申しますか、18歳から23歳ぐらいまで、ここが大学生と呼ばれてきた。これに対して、特にアメリカでは成人学生の占める割合が非常に高い。そして、実際、我が国でも次第にリカレント教育への対応とか、あるいはリフレッシュ教育、さらには社会人入学がどんどん広がってまいりますと、やはり18歳相当人口を考えた大学の教育の在り方では、これからの社会には対応できないのではないかといいう気もいたします。
  この際、初等中等教育と高等教育との接続の問題を考えていくときに、先ほども申し上げましたが、生涯学習体系の中でのこの問題というふうに位置づけて考えていくことが大事ではないかと思いまして、一言申し上げました。

○  「3その他の関連する施策」の連携という視点から申し上げますと、連携というのはどうしても進学率の上昇とパラレルできているわけです。昔は小学校・中学校という義務教育に対する高等学校という時代から、高等学校への進学が増大するに従って、中高一貫というか、中等教育の前期としての中学校、後期としての高等学校というところにだんだん移ってきたかと思うんです。それに対して、さらに高等学校から大学への進学が高くなるにつれて、高等学校と大学との連携が問題になってきているかと思います。
  それから、先ほどの専門高校や総合学科の大学でのいろいろすばらしい結果、あるいは中高一貫の設置を行おうとしている各県の様子を見てみますと、高等学校そのものが今74%ぐらいが普通科で、あと20数%が専門高校という形で、総合学科がやっと100数校できたという状況になっています。将来の高等学校の姿を見ると、もっと選択や類型、あるいはコースが多様化している総合学科的な形態の高等学校が主流を占めていくのではないか。このことは中央教育審議会でも、総合学科は各学区にできたら1校ぐらいつくりたいということも既に出しているわけです。
  そうしますと、こういった総合学科的な高等学校、よくコンプリヘンシブと言いますけれども、むしろ外国の人は「これはジェネラル・エデュケーション・コースだ」と。要するに総合学科的な色彩の高校こそが普通の高等学校の姿だということを言う人も多いわけです。むしろこういったものが我が国の高等学校の中核になって、その両わきにアカデミックなコース、今の普通科よりももっと骨太のアカデミックコース、あるいはもう一方のサイドに専門高校的なコース、こういうような形になっていくのではないか。そういう面で言うと、高等学校における総合学科的な設置はもっともっと進めていいのではないかと思うんです。
  そういうことはまた大学との連携を見ますと、よくここでも言われていますように、高度の研究者養成を重視する大学、あるいはいわゆる専門に特化した教育を重視する大学、あるいは教養を重視する大学、そういうものと高等学校とのあれがパラレルに連携していくような感じがするわけです。そんなようなことで、高等学校の全体像が少しずつ変わっていく必要があるのではないかと考えています。

○  高校卒業までの12年間の教育の役割を考えてみた場合に、エンプロイヤビリティの話も出てくるわけですが、明治の昔の人の書いた本を最近読んでいるんですが、そのころの、つまり学校制度をつくった、あるいはそれを実行しだしたころの話というと、「基礎教育」と「国民教育」という言葉がよく使われているんです。
  「基礎教育」というのは何だというと、5歳までの母親教育だというわけです。その教育があって、初めて「国民教育」が成り立つという議論がよくされるわけです。5歳というのは、当時は数えですから、満4歳ということかもしれませんが、今流で言うと幼稚園に入るまでにどう教育したかということがあって、それから国民教育が成り立つ。その国民教育という観点からすると、今、私たちが考える教育の分野で言えば、幼稚園から小学校、中学校、高校までが国民教育という位置づけをしてみる。
  そうすると、国民教育がきちっとしている上に、さらに学習あるいは研究、自分の興味・関心、適性・能力を開発するために、高等教育が用意されているという考え方をした場合には、基礎教育がしっかりしていないと国民教育が成り立たないというふうに指摘した明治のころの人と同じような意味で、国民教育がしっかりしていないと高等教育が成り立たないという視点を示す必要があるんだろうという気がするわけです。
  その国民教育12年間をしっかりしなければならないということを具体化するためにはどうしたらいいかというと、どうやら入試を従来的な、つまり古典的な意味での学力という感じの入試の能力を大学が要求しているかというと、どうもそうでないようだということもだんだんはっきりしてきたわけです。
  そうすると、何なんだろうかというと、一つ言えることは、人間性の問題ということがあるのかなと。つまり、国民教育を受けていく中で、それぞれが自分の個性とか、特性、つまり自我を自覚して、意識して、それを育てることが大事だと考えて、それを社会的に位置づける。エリクソンの言うところのアイデンティティといいましょうか、自我同一性ということが中心に据えられて、しっかりとした教育がそこで行われる。
  その部分を教育するためには、今の教育で欠けていることは何だろうかと考えると、どうも「物づくり」ではないかという気がするわけです。「物づくり」という意味で言えば、「総合的な学習の時間」というのは、そういう意味では有益に働くと思うんです。「物」というのはいろんなものがあるわけですけれども、いろいろなものをつくっていくということを、あるいは論文を書くというのももちろんその中に入るわけですし、表現力もそうですし、そういうものをきちっとした形で、これだけは欠かせないということを指摘しておく。それを踏まえた上で、その上に成り立つ高等教育ということで、入試も考えてほしい。入試の在り方によって、国民教育である高等学校までの教育が変わってくるということははっきりしているわけですから、その辺を指摘することが基本なのではないかと思うわけです。
  そうなると、小学校・中学校・高校の中での入試とか、従来型の学力選抜みたいな形の試験は、なくすわけにいかないと思うんですけれども、重点はかなり下げて、あるいはやり方を変えるというふうに意識的に提言しておく必要があるのではないかという気がするわけであります。
  うまくお話ができないんですけれども、「物づくり」と職業にかかわる部分の教育を、国民教育段階、つまり幼稚園から高校までのところでは、いろいろなコースがあっても、もう少しすべてのコースでちゃんとやってもらうということを指摘しておく必要があるのではないかと思います。

○  他の委員の御意見を伺っておりまして、共感を得ました。総合入試といいますか、国の方針で共通試験を実施しておりますが、従来の学力だけでなく、何か到達度成績も実施するようにならないものかと考えておりました。只、今の御指摘は「物づくり」という表現になっておりましたが、いくつかのキーワードは他の委員からもお示しいただいたわけです。評価について、新しい分野の試験、到達度の試験、適性試験、心理試験など、また、それらを通じて児童や生徒が自己評価についても自発的に考えるようになれば素晴らしいことです。むしろ国の一つの方向として取り入れていっていただくことができないものかと、前から考えておりました。丁度御指摘もありましたので、ぜひとも検討を、入試、一斉試験の中であるいは、それらとは別に御検討をいただくべきと存じます。専門家集団であります大学入試センターがこのような領域の開拓と実施する力を発揮下さるなら、その利益は計り知れないものがあるでしょう。模範試験問題などとして売出してもよいのではないか。初中教育の現場で教師が利用できます。商業的な問題集と全く違った評価、例えば社会人としての広い評価に利用可能となります。

○  入試にあまり期待をしすぎてはいけないのだろうと思います。一時点で測れることには限度があります。それぞれの教育段階で、到達度の評価をきちんとやることが基本だと思います。さきほど、専門高校、総合学科卒業生選抜の追跡調査で、大学に入ってから65%の人が教育内容が重複をしていると答えたという報告がありました。重複と考えられているものが何であるのかということをもっと突き詰めなければいけませんが、日本の教育が入口選抜で終始してきたことが無関係とはいえません。これは私、繰り返しここで申し上げていることですけれども、出口の到達度の評価はきちんとしなければいけない。でないと、その上の上級学校、あるいは職業との接続がなかなか具体的に考えにくいという感じがいたします。
  これまで議論してきたことの繰り返しになりますが、初等中等教育と高等教育の役割分担の明確化は、現在、大変難しくなってきているわけですけれども、それぞれの教育段階でその個人個人がどこまで到達したかということをしっかり評価することが解決の糸口です。その上ではじめて、システム間の接続が可能になる。システム間の接続といってもこれまでの学校間の接続のように固いものではなく、もっと柔軟な接続が考えられなくてはならないと思います。出口チェックがしっかりしていれば、入試への一点集中も避けられますし、接続の方法ももっと弾力的になると思います。入試の部分では、本当にその時期に必要なものだけを測る今よりももっと限定したものにしていく工夫が必要です。そのためにも出口チェックに関して何か具体化できるような方策を考えるべきではないかと思います。

○  小学校、中学校、高等学校の観点で考えますと、2002年から完全学校週5日制が始まるわけです。完全学校週5日制の目的は何かと考えると、私自身は学校が本来の機能を明確にすることだと思っているわけです。すなわち、いわゆる学校のスリム化だと思うわけです。ということは、今回は総合的な学習とか、基礎・基本を教えるということになっていますので、基礎・基本のところで全員に基礎・基本を教えれば、そこで一つの小学校、中学校、高校の目的は果たされるわけです。今回、一番重点を置いているのは、子どもたちが最低必要なものはここのところだ、そこを十分教える。完全学校週5日制の目的はそうだと言っているわけです。そうすると、当然、学んだことを全部理解していれば、試験のレベルというのは大体同一というか、基礎・基本に絞ればいいという考えになってくるわけです。
  その反面、完全学校週5日制のときに「総合的な学習」をどうするかという問題ですけれども、私自身の個人的な考えは、これは将来、学校から家庭とか、地域に出す部分ではないかと思っているわけです。すなわち、これは何も無理して学校でやる必要はない。環境の教育とか、心の教育とか、あるいは国際理解の教育とか、そういうものはもっともっと学校の外へ出して、地域とかそういうところで十分できるはずだ。そうなってくると、小学校、中学校あるいは高校でもって基礎・基本を十分教えるということで、学校の目的が達成されるのであれば、それで十分ではないか。その上に大学がどういうことを求めるかということを考えていっていただければよろしいのではないかと思います。
  私どもの立場から考えていくと、完全学校週5日制の中での小学校・中学校・高校の教育の連携の中で、どういうふうに大学の位置づけが出てくるかということが一番重要だと思いますので、まず完全学校週5日制のいわゆる基礎・基本を徹底していくことが一番重要だと思っております。

○  先ほど、他の委員の方々がおっしゃったことと若干関連いたしますが、私が今考えていることは、最低限度の物を考える知識量が、高等教育を受ける上では必要だと思います。この前、日本全体の知識量が減少するという御説明もございましたが、それに私はある意味で同感でございます。
  ただ、それらは一つの「要素(情報)」でありまして、その「要素(情報)」を将来は「総合」して何か仕事をする。その総合するということが実に多様に今使われておりますが、総合とか組み立てるとかの操作においては、それらの要素を(微分要素)から、積分系をつくるということになります。そうしますと、簡単な代数の話を以前にしたこともあるかと思いますが、積分定数というのは理論的には出てこなくて、その人が持っている多様な体験の中から、あることを着想したり、簡単に言えば、着想とか、アイデアという言葉になると思いますが、そういうことを土台にしてやっと組み上がるというのが、総合化の一つの大切な特性だと思っております。
  そのとき、その人の持っているものを、先ほど他の委員の方は人間性とおっしゃったんですが、例えばインテリジェンスであるとか、多様なセンスとも関連するものでございまして、こういうものを教育でどうやって身に付けさせることができるかというのは大変大事な問題だと思います。教育のフェーズの中で、ティーチングのパーツとエデュケーションのパーツと両方あると思うんですが、多分にインテリジェンス、センスはエデュケーション的な色彩が強いパーツだろうと思います。
  一方、要素となる基礎学力を使いこなす技法とか、技術という問題は、これはある程度ティーチング・アンド・トレーニングが可能な領域だと思います。
  こういうことを全部総合して考えますと、要素を着想によって総合して、ある役に立つ、働く、もしくは機能するシステムに組み上げていくということが、人間が行う多様な行動のベースだとしますと、高等学校卒業までには最低限あるレベルの能力、基本学力を身に付けておくべしということと、それに対するチェックの体制をどうするか。
  同時に、それを総合していく上での技法とか技能の中で、前回も議論がありました論理性が一つ大事な道具になってくると思います。ある論理に基づいて組み立てるということがあるわけですが、この論理性自体は前回も御指摘ありましたような、多分に先天的な要素を持っておって、素質論に陥る危険を含んでおるわけですが、やはりこれもあるレベルの論理性を持っていることが最低限必要だと思います。
  そんな意味で、例えばアメリカの例で言いますと、論理性はSATのある種の試験の中で試験されているという話を聞きます。英語という言語体系の中で、中学3年から高校1年くらいまでの知識レベルを対象として論理性のテストをやられているという話を聞いております。ですから、単に知識量の問題でなく、組み立てる能力のチェックがなされているということであります。そうしますと、これを日本語でやれるかという問題が大きな研究課題になるべきだと私は見ております。
  そんなこともありまして、以前、本小委員会のヒアリングで御発表をいただいた方がおっしゃっていたようにオレゴン州が、高校を卒業して大学へ進むべき生徒さんたちが持っているべき能力を、2001年からこんなレベルを一つの評価関数にしようやと掲げたクライテリアがございましたが、その中で、例えば数学ですと、数学の式が読めること、それから自分で書けること、そしてそれを人に説明できること、最後にそれを評価できる。ですから、読み、書き、説明、評価です。そのレベルはいろいろであると思いますが、ちょうど妥当なレベルで、それがそろってできるということは、先ほど申し上げました「総合化」の中の一つの形態だろうと思います。
  いろんなことを申し上げましたが、総括しますと、他の委員の方がおっしゃった提案と同じでございまして、これらについて、もう少し腰を据えて総合的な検討をなすべきタイミングではないかと考えております。

○  現在の学校教育の中で何が足りないんだろうか。それを学力が低下しているというような言葉であらわしておりますけれども、その中身についてはいろんな考え方があると思います。例えば、自分を見詰めて、しっかり物事を考える力であるとか、あるいは他人とのコミュニケーション能力であるとか、あるいは問題発見型の能力であるとか、こういうものが足りないと言われている。ほぼそこに落ちつくのではないかと思います。そういった能力は、どこまでやれば終わるとか、どの段階だけで教育すれば済むという問題ではなくて、ずうっと中等教育から高等教育にかけて、そういったものをどうやったら育成できるかというような共同開発プログラムといいますか、こういったものが必要になってくると思います。
  それから、入試の形ですけれども、あるレベルの段階からの教育ということになりますと、高等教育を受けるために必要な学識、いわゆる学問的な能力といいますか、これについてはあるレベルが必要だろうと思います。先ほど申しましたような、今、学校教育において足りないものの中身を考えたときには、例えばリーダー的な能力であるとか、あるいは他人に対する思いやりであるとか、あるいは目的意識をはっきり持つという形の試験といいますか、そういったものによる選考を考えていく必要があると思います。
  また、受けとめる大学側から見ますと、大学が、生涯学習社会の中では恐らく変わらざるを得ない。どこを一番変えなければならないかといえば、今、18歳の段階で決まったことが、その人の生涯を拘束してしまうというほど硬直性が残っている部分がございますから、できるだけ柔軟な組織を持った高等教育機関へだんだん移していくという段取りが必要なように思います。

○  これは新聞の受け売りでございますけれども、最近、東京都内の公立小中学校の教諭、約1,100人に対するアンケートが発表されておりました。この中で、学級授業の崩壊という、授業そのものが崩れてしまったという報告が、小学校8%、中学校14%ある。これは教員個々へのアンケートですので、実態を反映していると思いますが、学級では教える学ぶということの関係性がなかなか保てなくなっている重要な段階にあるのではないかという認識を持ちます。
  私どもがまとめました段階に沿って申し上げますと、学力とは何かということは、専門家の方で決められなければならないと思いますけれども、物を考えられる能力、基礎・基本的な要素ですね。それと、総合できる能力と、それからある程度の知識がなければならないと思うんです。こういうことについては、どのぐらい到達したのかということで、統一的な試験はやはり必要ではないかと思います。これは特に小学校・中学校で必要だと思います。
  そうしますと、学級の中にある程度の緊張感が出てくるのではないかと思います。今のままでは先生方も本当に大変だろうという感じがします。だからというわけではありませんが、やはり統一的な試験をある非常に熟練した方々で考えていただいて、そういうものでどのぐらい到達しているのかということを、学年ごとに把握していくことが一方では必要だと思います。
  また、各学校の担任の先生の評価ももう一つ要ると思います。これは子ども個々の個性とか、将来性、可能性にポイントを置いた評価。この二つを合わせてやっていくのがいいかなと考えます。
  基礎・基本というのは、もちろん最低限の総合化して考える能力、知識、それからもう一つ表現というものもあると思います。これは物づくり、コミュニケーションも含めた表現ですし、それから社会的な人間としての表現力もあると思います。例えば電車に座ったときに、お年寄りが来たら、素直に立たねばならない。立たなければならないと心の中に手を突っ込んで「こうしなさい」と言うのではなくて、それが一つの日本人社会に生きるある種の良識ある崇高な自分の表現として、それはそうしなければならないんだということを教えなければいけないと考えております。
  この辺の基礎的なことは、統一的な試験でやれる部分と個々の先生方が子どもをしっかり見るという二つの評価の組み合わせで、何とかできるのではないかと思います。これが小学校・中学校での段階です。
  高等学校は、先ほど皆さんもお話になっておりますように、恐らくかなり多様化していくのではないかと思います。リベラル・アーツという概念が中心になるんですけれども、人によっては職業的な専門的な学習になるでしょうし、総合学科的な、本当に何によって自分が生きていくのかという自分探しの旅である期間であろうと思います。
  これはもし今ある大学入試センター試験を活用するのであれば、18歳のところにすべて集中しているわけですけれども、それぞれ1年生のときにクリアされる科目とか、いろいろあるんだろうと思います。それぞれの子どもの到達度の段階においてですから、何も18歳で一遍にやることはなくて、できたときにその試験を受けられるというような、大学入試センター試験の柔軟化、多様化、ある意味では充実化ということで、到達度を一種の資格試験的に把握することが可能であれば、できていくのかなと思います。その中で、到達度によっては、自分は大学にそのまま行こうとか、どうも職業的なほうがよさそうであるということになれば、現実問題として、高等学校卒ではなかなか普通の会社は受け入れないんですけれども、そういうことを文部省のほうで決意すれば、あるいは会社のほうも変わってくるかもしれない。それからまたリカレントになればいいんだと思います。
  もう一つ、私は問題を投げておきたいのは、最近、大学ではいろいろ企業の協力というようなことをおっしゃるわけですが、インターンシップということはこの中の議題ではないにしても、どういう形がいいのかということを考えることが必要かなと思うんです。つまり、これからの産業はソフト化してまいりまして、大学の中でしっかり教えられない、専門家がいないという側面があって、むしろこれは企業とか事業体のほうがそのことについて優れているということになると、事業体のほうにそのまま送り込まれてしまって、事業体のほうがどうしたらいいのか困る。授業料はすっかり大学のほうにいくわけです。そうすると、事業体のほうがある種のインターンシップを引き受けて、それが修了しましたということで免状を出すと、それを単位認定するということでいいのかどうか。これは本題からそれるんですが、大学教育あるいは職業教育のところと関連すると思うんですが、インターンシップ制度についてもどういう制度にすべきか少し考えていただくとありがたいかなと思います。

○  現在の高校は、大変多様化していますので、大学への接続については、到達度を測るそういうテストがあり、一定のレベルを超えた者が大学を受験するということがあってもよいと思いますが、その壁はできるだけ低くしてほしいと思います。また、その内容は、語学力など基礎的なものに絞ってもらえたらと考えています。
  大学へ入学して学生がうまく適応しているというのは、他の委員の方もおっしゃいましたが、課題探求能力が身に付いている生徒であり、目的意識をしっかり持って入学している生徒であると思っています。
  これから行われます「総合的な学習の時間」で培われた力など、高校での幅広い成果を接続のときに考えてほしいと思っています。
  専門高校では、実習の時間が大変多くあります。実習は、最終的にレポートでまとめを行います。学習した成果が、最終的にどういう成果につながったかをまとめる中で、課題探求能力や論理的な思考力を身に付けていきます。
  これまでの大学の接続は、どちらかといえば知識の量を見ることが中心でした。専門高校の生徒はそういう面では不利な条件に置かれていたと思います。これからは特色を持った高校が多く出てくると思います。ですから、高校3年間でどんな体験をしてきたかということを、ぜひ大切にしてほしいと思います。
  既に、工業高校の生徒の参加するいろいろな大会で上位に入賞した生徒や、優秀な作品を製作した生徒については、優先的に大学へ入学を認めているというところもあります。また、その生徒が非常によく頑張っているということも報告されています。―高校生は多様なレベルの生徒がいますので、成績の上位者ばかりでなく、さらに学びたいと思っている生徒がいるならば、そういう生徒を大学へ接続させる方策を考えていただきたいと思っています。

○  「3その他の関連する施策」の議論から少し離れてしまうかもしれませんが、他の委員の方からの御意見で、物づくり、あるいは総合的学習を通して養われる能力をどのように測るか、またその到達度についてはどうかという問題提起がありました。それから、また他の委員の方から、大学入試センター試験の実施方法について、受験の学年を限定せず、科目を分散して、履修科目ごとに測るような柔構造的な試験システムにしたらどうかという御意見もありました。こういうタイプの試験のやり方には私も基本的に賛成です。ただ、そういう目的と実施方法に大学入試センター試験が合っているのかどうかということは、もう少し検討が必要だと思います。
  また別の委員の方から、論理的な能力であるとか、あるいは仕事をする上で必要な能力、それらを測るのに、例えばSATという試験はそのようなアイテムを含んでいると聞いたことがあるとお話がありました。しかし、いま議論されているものを測るための試験は、おそらくSATではなく、いわゆるパフォーマンス・アセスメントと呼ばれるアウトプット中心の総合評価的試験が該当するのではないかと思います。
  大学入試センター試験は、ご存知のとおり、アチーブメントテストですが、アチーブメントテストを通してアプティテュードも測る。これは他の委員の方の御指摘の中にもありましたが、日本の場合はアチーブメントテストを通してアプティテュードを測るという目標に向けてたいへんな努力をしてきたという歴史があります。一方、アメリカのSATは資質的な能力や適性を直接的に測るために長年努力してきたという特色があります。しかし、結果的に見れば高校生のアチーブメントテストを高めるということに対してまったくポジティブな効果を与えられなかったという反省もあるわけです。
  到達度評価というものは、学習プロセスにフィードバックされる部分がなければ意味がない。ですから、例えば高校教育について、高校3年の最後に到達度を測るというよりは、先ほどの御提案のような形ができれば望ましいでしょうし、それをさらにペーパー試験ではなくて、もう少し行動的なレベルを含めて総合的な学習の到達度を測るような手立てを用意できればもっと望ましいのだろうと思います。
  しかし現実には、共通第1次学力試験から20年の蓄積のある大学入試センター試験のノウハウを駆使して、ペーパー試験という限界の中で、改善を図るしかないという事情があります。入学試験を多様化するというアイデアも限界があります。いくら多様化しても一点集中のままでは意味がない。これらの入試は、どうしても機能を分けることをベースにして考えていく必要があるのではないかと思います。

○  きょうの「3」番の問題と学力低下の問題を結びつけて言わせていただきたいのですが、かつてこういう報告がございました。入試で数学を課さない経済学部に入った学生に、小学生だったら解けるような算数の問題をやらせた。そうすると、全然できないという話がありました。これは学力低下であると。
  それを私はどう考えるかと申しますと、その学生も恐らく小学校のころはその問題ができたと思うのです。何でできなくなるか。理解はしたが、過剰学習をしてしっかりと身に付けるまでには至らなかったというのが一つですけれども、もう一つ大きいのは、日ごろ必要とされない、全然使わないような力が衰えるのは当たり前でございまして、最初身に付けたんだけれども、その後いろんなところでそれを活かす場がない。だから、大学生になったときに、もちろん入試にも出なかったのですから、その力がないのは当たり前ではないか。
  実は似たことが大学入試でも起こっておりまして、かつて大学入試センターの研究開発部がされた研究ですが、共通第一次学力試験、あるいは大学入試センター試験を受けて、ある大学に入った人が、1年後にどうなるか。もちろん違う年度でございますが、もう1回試験を受けてもらって、相対的位置がどう変わるかということを研究発表されたことがございます。うろ覚えでございますけれども、国語、数学、外国語というのは英語ですが、これは1年たってもほとんど落ちないんです。ところが、理系の学生の旧社会科ですけれども、これはガタッと落ちる。それから、文系の学生の理科がガタッと落ちる。
  これは一体どういうことかというと、少なくとも入学後最初の1年ですけれども、そういう力は必要とされなかったのではないか。これはある意味では高等教育の責任でもある。だから、もし必要としないような力を選抜のためだけに試験しているというのだったら、これは根本的に考えたほうがいいような気がいたします。
  そこで、結局それをどういうふうにまとめて考えるかということですけれども、我々大学で入学試験を課すというときには、基本的にはそういう力を持っていることが、その後に活きるということが大事である。もちろん、それは本当にそのままの利用でなくてもいいわけで、そういう力があれば、学習転移と言いますが、プラスの波及効果があるからそういう力を身に付けておいてほしいということがあってもいいし、それから小学校以来、高等学校まででこういう基礎があれば、それをより高度な形に高等教育で転換できるから、それは持っておいてほしい、こういうことを要求してもいいと思うのです。しかし、それ以外は、基本的にそれまで身に付けたものをできるだけ入学後に活かせるようにというふうな選抜の仕方が必要だし、かつ大学の教育のプログラムも必要ではないか。
  これは小学校以来、「何でこういうことを勉強せんといかんのかと」いうときに、「いや、入試に出るからだ」と言われるわけですけれども、それでは本人に意味がわからない。なぜこういうことを身に付けなきゃならないかの意味がわからない。それは本人がわからないだけでなくて、恐らく小学校・中学校・高校、あるいは大学の教員にとっても同じことで、この時期にこういうことをやってもらうことが本当に大事だということを、長い生涯の学習過程の中で見通せば、もうちょっと自信を持っていけるわけでございます。
  そういうわけで、12年間における教育の役割、それぞれの段階のことを考えるときにも、その後のことを考えるときにも、なぜこれが必要なのか、こういう力はなぜつけてほしいというのかということをよくよく考え、そしてそれぞれの段階でこれをチェックしたり、あるいは入学試験で課すのなら、「こういう理由で我々はそれに意味があると思うから」ということが言えるようになりたい。これは非常に難しいんですけれども、そんなことが一つ基本的な課題になるかなと思いました。

○  先ほど国民教育というようなお話をさせていただいたんですけれども、その国民教育という基礎に立って、大学、高等教育が成り立っていくということを考えた場合に、他の委員の方のお話を聞いて、いつも意見がそこのところは一致するんですが、やはりアカウンタビリティといいましょうか、国民教育を分担しているところでは、その所々でどれだけの責任を果たしたかということを公にするべきではないかという気がいたしているわけです。
  したがって、大学入試センター試験は高校と大学の接続ということで、従来の日本で唯一と言われる豊富なノウハウと力を発揮して、いろいろやっていただきたいんですけれども、それはそれとして、国民教育と言われる高等学校教育のある時点で、例えば基礎的な学力についてはこれぐらいついているとか、そういうものを測るようなことをして、公表するということを工夫したらどうなんだろうかと思うわけであります。それは先ほど他の委員の方がおっしゃった緊張感にもつながりますし、いろんな意味で公立も私立も税金を使って教育しているわけですから、高等学校以下の教育に関して言えば、これだけのことはしているんだ、国民に対して責任を果たしているんだということは公表する必要があるのではないかと思うわけです。これはイギリス、あるいは北欧でもそういったテストをやって公表していますので、大学入試とは別の意味でそのことを提言する必要があるのではないか。つまり、大学入試は実質的に変わっていきますので、そのことをやっておく必要があるのではないか。
  それとあと大学のほうは大学のほうで、従来とは違った工夫をぜひしていただいて、国民教育である高等学校教育がよりいい方向にいくように工夫していただかないと、大学教育にとってマイナスになってくるということになるだろうと思うので、その辺のところを提言させていただこうと思っています。

○  時間がないと思いますので、簡単にいたします。先ほど来の他の委員の方のお話につながると思うんですが、我々大学教師の実感として、最近の学生は、知識量の低下もさることながら、むしろ想像力の欠如というんでしょうか、学校で勉強する知識と自分たちの毎日の生活体験や身の回りの社会で起こっていることを結びつけて考えてみようとするということが非常にできにくくなっている。これは、学習意欲とか、課題探求能力とか、目的意識とか、いろんな言葉で表現されているものと共通のことだろうと思います。まあ、学生というものは昔からそういうものであったと言えばそうかもしれないのですけれども、しかし、とりわけ近年においては、知識の習得ということと社会生活感覚とが極端に分離しているというか、全然別次元のことのようである。
  数学とか理科系の分野においてはまた違うのかもしれませんが、とりわけ社会科学系の学問領域においては、教科書的に整理された知識が、実社会のどういう現象とどのようにつながっているのかということに関して、何らかの知的好奇心というか、想像力を持たないと、およそおもしろくも何ともないはずなんです。そこのところが従来に比べて極端に低下してきているというか、分離が甚だしくなっているという実感がございます。
  他方で、大学を卒業した学生が就職して、何らかの組織に入りますと、初めて大学教育の意味が少しは分かるんでしょうね、異口同音に「もっと勉強しておけばよかった」と言います。これは先生方皆さん御経験だろうと思います。卒業するとはじめて、勉強することの意味が少しは実感できて、そう言うわけです。
  それから、何らかの理由で高校からすぐに大学に接続しなかった人間、たとえば数年間、どこかで働いていて、やはり大学へ行きたいと思って入ってきた学生などは、非常に学習意欲が旺盛で、成果も上がる。これは経験則上明らかと言っていいと思います。
  そう考えますと、中等教育と高等教育の接続の改善ということがここのテーマですけれども、やや逆説的な言い方にはなりますが、むしろ両者が当然には直結していなくて、中等教育を終えた後に一、二年の社会体験があって、それから高等教育に進むというふうになると、大学教育の意味が最初からわかっていて、実質的な課題探求能力も学習意欲も旺盛になり、学生も教師もハッピーになれるのではないかという気がしないでもないわけです。
  もちろんだからといって、教育課程の途中に数年の社会体験というものを本格的に制度化して組み込むということは大変難しいことでしょう。ではどうするかということですが、擬似的でもいいんですが、何らかの社会体験というものをどこかに組み込めないのかと思いますが、この辺はぜひ教育理論的にもう少し究めていただけたらありがたいという気がいたします。この話は、入試とはちょっと別なのであって、入試の工夫で評価できるようなことではないと思います。また就職前の4年生ぐらいの段階でのインターンシップというものとも、若干趣旨が違うものです。何のために大学で勉強するのかということを各人が実感できるように、高校のカリキュラムの中か、あるいは大学に入ってから、早い段階で擬似的な社会体験でもいいですが、そういったものを組み込めるような大学側のカリキュラム上の工夫が可能なのかということです。この中等教育と高等教育の接続の在り方という問題に関して、実際にはかなり多くの先生がそのような気持ちを持っておられるのではないかということを、ちょっと申し上げておきたいと思った次第です。 

○木村座長    ありがとうございました。
  きょうは、到達度というお話がだいぶ出てまいりました。今後、測れるのか測れないのか、どう測るべきか、その辺のことについて、さらに議論を詰めていただくことになろうかと思います。本日の議論は以上とさせていただきます。
  本日は、どうもありがとうございました。


※1、※2  この資料については、文部省大臣官房総務課広報室にて閲覧できます。

(大臣官房政策課)

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