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中央教育審議会

 1999/6 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第11回)議事録 

 中央教育審議会

      初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第11回)

  議  事  録


  平成11年6月9日(水)  13:00〜15:00
  霞が関東京會舘  35階  ゴールドスタールーム


  1.開    会
  2.議    題
    「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
  3.閉    会


  出  席  者
委員 専門委員 事務局
根本会長 荒井専門委員 佐藤事務次官
坂元座長代理 安齋専門委員 富岡生涯学習局長
國分委員 岡本専門委員 辻村初等中等教育局長
田村委員 小川専門委員 佐々木高等教育局長
土田委員 工藤専門委員 清水大学課長
永井(多)委員 黒羽専門委員 高   総務審議官
長尾委員 小嶋専門委員 寺脇政策課長
横山委員 小谷津専門委員 その他関係官
   杉田専門委員   
   橋口専門委員   
   久野専門委員   
   山極専門委員   
   四ツ柳専門委員   


○坂元座長代理    それでは、始めさせていただきます。
  本日は、木村座長が御都合により欠席されますので、座長代理であります私、坂元が進行を務めさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
  それでは、ただいまから中央教育審議会の「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」、第11回会議になります、第17期としましては第4回目でございますが、会議を開催いたします。
  皆様方におかれましては、御多忙な中、御出席いただきまして誠にありがとうございました。
  本日は、前回の第10回会議に引き続きまして、「論点整理メモ」に基づき御審議をいただきたいと考えております。
  まず、今回の配付資料の確認を事務局よりお願いいたします。

<事務局から説明>

○坂元座長代理    ありがとうございました。
  本日は、前回、「論点整理メモ」の第1の部分について御審議を賜りましたので、きょうは第2の部分でございます。「論点整理メモ」の下のほうになりますが、「2」の「高等学校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善」というところで、「(1)これまでの取組について  」「(2)これからの選抜の在り方 」「(3)接続を重視した具体的な改善方策 」とございます。この「論点整理メモ」(※1)につきまして、座長のほうで整理されました基本的なお考え方とか、御討議いただきたい点などを御紹介させていただきたいと存じます。
  まず、「(1) 」の「これまでの取組」というところでございます。
  第1点でございますが、大学入学者選抜の改善につきましては、過度の受験競争の緩和を目指して、一定の取組がこれまで進められてきております。それでもなお、「入学者選抜が改善されている」という認識が国民に共有されていないのではないかと考えられます。なぜだろうか。その理由をどう考えるか。入学者選抜の改善の議論に入る際に十分検討しておく必要がある。これが第1点でございます。
  第2点は、今後の大学入学者選抜におきましては、特定の大学をめぐる競争が続く一方で、大学全体としては「広き門」になると考えられる。このことにより、大学入学者選抜の存在が必ずしも「受験生の学習を動機づけたり、方向づける手段として機能しなくなってくる」のではないか。そういう部分が生じてくることが考えられる。今後はこうした側面にも着目しつつ、それぞれどのような対応をすべきかを検討する必要がある。これが第2点でございます。
  第3点でございますが、中央教育審議会では、1点刻みの選抜が公平であるという従来の概念の見直しを求めて、選抜方法の多様化、評価尺度の多元化を図ることを訴えてきているわけでございます。今後、大学がそれぞれ求める学生を適切に選抜するためには、公平の概念を拡げることが必要であることを改めて問うべきではないだろうか。これが第3点でございます。
  第4点は、さらに御意見が分かれるところかもしれませんけれども、希望者の多い特定の大学をめぐる競争をなくすことまでを入学者選抜改善の結果として期待することは困難であることを諸外国の状況も踏まえつつ明確に示すことも必要と考えております。「入りやすく出にくい大学に」といった、あたかも入学者選抜に特効薬があるかのようなイメージが広がることによりまして、かえって国民の不満が募るといった構造を断ち切って、入学者選抜の改善としては何ができるかを明確に示すべきではないか。これは御意見が分かれるところかもしれません。第4点でございます。
  第5点。やや話は細かいわけですけれども、入学者選抜方法の多様化の中で、あたかも受験科目数が減少することが望ましいことであるかのような受け止めがなされていることについても、何らかの言及が必要であろうと考えているというのが、第5点でございます。
  「論点整理メモ」の「(2) これからの選抜の在り方」でございます。「これからの選抜の在り方」につきましては、高校教育及び大学教育の個性化、多様化の進行、さらにこれと並行しまして、多様な能力、適性等を有する者が大学を目指すという状況があるわけでございます。そういう中で、これからの入学者選抜は、いかに双方の教育をつなぐことに資するか。つまり、高校教育と大学教育はそれぞれ個性化、多様化し、多様な能力、適性を有する者が大学を目指すということで、高等学校と大学の両者の教育をつなぐことに、入学者選抜がどのように資するかという観点がより重視されていくべきではないだろうか。これからの選抜の基本的な理念、接続を重視した入学者選抜はどういうことなのかについて御検討いただければというのが、「(2)これからの選抜の在り方  」の趣旨でございます。
  2ページ目でございますが、「(3)」の「接続を重視した具体的な改善方策」というところでございますが、まず第1点は、先ほどの「(2)」の理念を踏まえまして、接続を重視した入学者選抜のための具体的な改善方策、すなわち、高校までの学習の成果を適切に評価しつつ、各大学がその個性に応じて入学者を確保するために、どのような方策を講ずべきかといった点について論点とする必要があるでしょう。これが第1点でございます。
  第2点は、大学入試センター試験でございますが、現状をどう評価するかという問題がございます。大学入試センター試験の目的としましては、高校教育の到達速度を評価し、選抜の材料に用いるということがございます。御案内のとおりでございますが、今後、このような要請に応えていくことは困難になると考えられる。個別の大学の入学者選抜との組み合わせをどのように考えていくべきか、これをまず検討する必要があるでしょう。さらに、大学入試センター試験が受験生に及ぼす影響を踏まえて、当面の課題と将来的な課題を明確に分ける必要があるのではないかと考えております。
  第3点でございますが、入学者選抜の改善を促すためには、例えば情報公開、外部評価といったようなことも考える必要があると考えております。
  最後でございますが、第4点。第14期の答申以来、問題としてきておりますいわゆる「学校歴」をめぐる問題、すなわち、どこの大学を出たかということを過度に意識して、それが序列化という形で大学全体に及んでいるという状況にどう対応するか。そういう問題につきましても、改めて言及する必要があるのではないかということでございます。
  以上、「論点整理メモ」につきまして、御検討いただきたい角度という点で少し御説明をさせていただいたわけでございます。
  これから「論点整理メモ」を参考にしていただきまして御意見を賜りたいと思います。
  なお、個別の論点の御意見につきましては、ただいま補足説明申し上げました「論点整理メモ」の「2」の「(1)これまでの取組について 」「(2)これからの選抜の在り方  」「(3)接続を重視した具体的な改善方策 」を中心にしてお願い申し上げたいと思います。「(1)」と「(2)」が比較的理念的な問題で、「(3)」は「(2)」を踏まえた具体的な方策でございます。分けて御議論いただいてもよろしいかと思うんですが、たぶん絡まったお話になろうかと思いますので、「(1)」「(2)」「(3)」を通して、きょうは1時間半程度でございますが、先生方の御意見を自由に賜りたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
  どなたからでも結構でございますし、どの点からでも結構でございますので、よろしくお願いいたします。

○  詳細な議論に入る前に、小学校・中学校・高等学校、それから恐らくここで考えられているのは大学の学部をイメージしていられると思うんですが、大学の中にも多様な形態がありまして、その一つとして大学院に重点化した大学の場合に、どういう卒業生の分布になっているかということまで視野に入れて、いわば初等教育から大学教育の最後のところまでを見通した中で、接続問題の位置づけを考えていったほうがいいと考えています。
  というのは、大学へ入ってからのことが、入学者選抜の在り方にかなり影響を持っていると思うんです。例えば、今、多くの重点化大学の中では、学部に入った学生の2割ぐらいが最後の博士課程までいくという状況です。学生が卒業して社会に出ていく分布を見ますと、ほぼ1,000名入って、400名が学部で卒業して、600名がマスターコースへ行って、なおかつその200名がドクターコースへ行く。ですから、卒業生の分布からいいますと、400名が学部卒業、400名がマスター卒業、200名がドクター卒業という分布が一つの形になっています。
  そうしますと、通常イメージされているよりは、博士課程卒業生の数がかなり多く、その大部分(95%以上)が社会に出て活躍すべき人材です。それを今後の高等教育体系の中に位置づけて、いろんな意味の施策が取られているわけですので、これも視野に入れておかないと、少し状況が違ってくる可能性がある。これが1点です。
  もう一つ、その先にポスト・ドクトラル・フェローがありまして、先進国と言われている国では、ドクターを出てからの武者修行を経たドクターが一人前のドクターであるという扱いがされております。なおかつここの部分は、この間の学術審議会からのレポートにもありましたように、国際的にそういう人材を広く求めて、国際競争の中で大学が国際競争をしていく。そういう視点が一方にありますので、今ここで、視点をあまり下のほうへおろしていくだけではないものの考え方が要るかなと考えております。
  もう1点は、新聞報道で見て、いささか愕然としたんですが、実態はそうではないということが後でわかったんですけれども、大学の機能を研究大学、高度職能人養成の大学、それから教養的な良識ある社会人を養成する大学と三つの機能を考えて、何かこの三つに役割分担するようなイメージで報道されていたんです。これは結果において、各大学のある部分がそれに対応することになるのは当然ですし、それから希望としてそういうものを標榜することも、受験生の進路を過たせないための一つの大事な情報としては必要だとは思うんですが、それを制度的に分類することにはちょっと危惧を感じます。
  研究大学の一つの取組の状況を御紹介申し上げたので、そういうことで、研究大学といえども研究だけが主ではなくて、当然、高度職能人、それから高度の良識ある社会人を養成することがターゲットになっていることも、あわせて申し上げておきたいと思います。御参考まででございます。

○  後ほど全体的な話をする機会があると思いますが、とりあえず今の委員の方の発言に関連して申し上げますと、恐らく理工系を念頭にお話になったんだと思いますが、人文社会系でも、これだけ大学院が増えたとはいいましても、大部分は学部を出て社会人になるわけですから、高等学校でも市民社会教育の完成点であるというようなことで言っているぐらいですから、ざっくばらんに言ってしまえば、生涯教育の時代だからいいじゃないかとか、大学院に行くんだからいいじゃないかというようなことで、学部教育をおろそかに考えるというようなことには非常に疑問があります。したがって、平たい言葉で言えば、学部で一人前になるように。そういう人を採るのに、大学入学者選抜をどうしたらいいか、あるいは高等学校の教育をどうしたらいいかという視点が、ややぼけているような感じがするので、あえてちょっと申し上げておきます。

○坂元座長代理    せっかく論点整理をしていただいておりますので、例えば、これまでの取組のところで、入学者選抜というのが中央教育審議会の第一次、第二次答申を含めて、それから今までの関係者の御努力で改善されているというのは、私どもはそういう認識があるんですけれども、国民に共有されていない。これはなぜでございましょうか。どなたか御意見をいただける方はございますでしょうか。

○  今までに各委員からの御提言内容にもありましたが、庶民的感覚は、確かに坂元先生が説明されたような問題もあって、釈然としない気持ちがあると思います。その理由は、現状の最終段階を大学あるいは大学院の教育に置くとすればという話と、いわゆる初等中等教育が高等学校までといたしますと、その中での教育内容、つまり大学へ接続するという意味での判断と、社会が期待する全人格的な意味でのあるべき姿、理想像といいますか、その接続あるいは各段階での仕上げがうまくいっていないところに問題があるわけです。
  これは議論をすれば片づく話ではなく、具体的な方策をしっかり決めて実行に移していかないと進行しないのです。当然、時間もかかる。コンセンサスを得るのも容易でないでしょう。
  まず、学校の区分ごとの役割分担については、すでに御議論のあったところです。当然理解しているべき知的学習といいますか、能力の問題と、繰り返し言われていることですが、人間と申しますか、人格といいますか、あるいは社会人として大人になるまでに当然備えていなければならない慣習、あるいは自制をわきまえさせる教育とを、ごっちゃにしているところが問題です。これははっきりと分けて判断すべき問題です。
  一つは、役割分担の中で、幼稚園、小学校、中学校、高等学校という分け方をいたしますと、その段階に応じて、どうしても片づけておいていただくべき問題がはっきりと指摘できるわけです。それがあまり強調されていない、強調するのをためらうような雰囲気、あるいは強調してはいけないような錯覚と申しますか、外国では割にその点が明確です。日本の場合を外国と比較しますと、不明確な点が多いのです。同じ御判断の方も非常に多いのではないかと思います。まずそれを明確にしていただいて、もっと具体的にいろんな踏み込み方をしていただくことはできないものか、あるいは積極的に関与すべきではないかと思うのです。
  幼児の成長が早い生長段階での区分を変えた方が良いなどの意見もあるので、発達段階に応じての教育の内容の見直しと接続について思い切った措置を考えることも必要ではないか。例えば小学校への就学年齢を1歳切り下げる、身体や心理の発達段階を考え、小学校の最高学年と中高を含め、現行の6・3・3制を再検討しても良いのではないか。是非時間をかけて議論を進めては如何でしょう。大学入試センターが到達度計測のための全国試験を実施できると、この問題について具体的に科学的な取り扱いと判断ができると思われる。
  それから、他の委員からの具体的数字を挙げた御提言に私は賛成です。しかし、大学や大学院の在り方とか、初中教育の在り方というのは、究極の目標は極めて明確でありますけれども、具体的な運営はこれからの我国の在り方を決めるもので、はっきりしていないと、魂のないものになります。我が国の歴史も理想像もございます。それを全く無視をしてということはできません。それにしても、多様な人材を要求している社会であり、しかも、国際的な意味では、教育分野でも境界のない時代になってきておるわけですから、思い切って壁を取り払った考えで進めるべきと思います。
  特定大学の序列化というお話も先ほど出ましたが、それは厳然として存在しているのです。ある見方の結果論としての結論でしょうが、私どもが今求めているのは、日本の活力を十二分に生かし、幸福な社会を追求するという姿勢は非常に重要です。日本の現状では特定のところに集中せざるを得ないという現実がありますが、なぜでしょうか。
  それは均質化していない。均質化というのは、制度上の問題というよりは、自由度のある状態が大事という主張です。例えば大学を例にとりますと、設立者の種別により自由度が違うということです。国立もあれば、私立や公立もありますが、普遍的な自由と平等が必ずしも確立されていない。従って、共通の理念がなかなかない。例えば優秀な人材はある特定の場所で養成しないと生まれないという錯覚に陥っている嫌いもあるわけです。近代化を急いだ時代と同工異曲で良い訳はない。
  物質を分けるのに、クロマトグラフィーという方法があります。いわば輪切りの形できれいに成分分けができますが、人間を一つの方法で分けるという結果が、今、かえって逆の効果になっておるのです。人数は少なくても、どの大学にも抜出た人材がいる、場所を得て何処でも先駆的な仕事をする雰囲気が大切で、知らないうちに競争が生じ、あるいは期せずして指導的役割を果たして自然に磨かれる状態になります。ドングリ集団は、気力のない平等と平和主義は育つが、活力が湧いてこない。たくさんは要りません。少数でいいのです。いることが大事です。それがすべての場所にいることが必要です。タイプの変わった人が仕事をいたしますと、違った効果が出てくるわけで、それを期待すべきだと思います。
  最近、つくづく考えるわけですが、日本も、学校制度が完備していなかった明治の初めを、自然科学の分野だけ見ましても、当時の世界に比較いたしましても実に傑出した業績、いわばノーベル賞の二つ三つ取れるような人が10指に余る数輩出しております。それが社会の原動力になっているわけです。これは特定の場所で教育して、特定のコースを通ったからそうなったのではないのです。
  これと比較して第2大戦後の60年はいろんな意味での発展が大きかったわけですが、個性豊かな、世界に誇る内容は必ずしも多くはない。これからの改革を目指すとすれば、時代の進度に即応した形で成果のあがるようにすべきであって、共通の条件の中で一人ずつ勝ち抜いていく制度を定着させるべきだということを強調したいわけです。
  したがって、能力での接続は言うまでもないことで、それよりも先にまた、特に初等中等教育におきましては、人間完成に、もっと重きを置いていただき、どの部分でも全人的な意味での覇気に富んだ人間養成を期待しなければいけない。
  今日では、経済的な問題が非常に大きな要因になっていますが、手厚い保護から立派な人材が出てくるのか、それとも自由競争の中で生き残っていく人たちを推進するシステムがいいのか、という問題へ帰着すると思います。ですから、大学は民間法人化し、教育に必要な基本経費は税金から出すが、研究や新展開に関する内容は場所にフィットした形での競争原理による資金提供が望ましいと考えます。
  もう一つ申し上げたいのは、大学入試の問題です。センター試験については、せっかくここまで来ましたので、これをつぶすというのではなく、もっと有効に活用していただくことを強く希望しております。外国にも例はあります。
  例えばセンター試験の性格を一種の資格試験として定着させる。大学、あるいは高等学校へ行かなくても、条件さえ満ちれば資格が取れるということも可能でしょうし、あるいは結果として特定する人材集中を計る方向に使う試験だけではなく、認定により、大学卒業、高等学校卒業の資格を付与する。また、ある問題に対してどういう評点が得られたかを公開して、目に見える形での運営が望ましい。そのようにしますと、極めてすっきりしますので、出題の適性、多様な評価対象を取りあげる、更にまた到達度試験(学力だけでなく、倫理や人格形成、その他など)も可能になります。
  つまり、能力を学力としてのみ評価しておりますが、もうちょっと多角的なとらえ方ができるのではないか。心理や適性検査を取り入れて、それぞれの適性を早い時期から自分にも認識できる方策を取っていただくのも方向ではないか。
  しかし、残念ながらそういう意見はまだ具体的に成っておりません。多分技術論だから、やっても意味がないとする考えかもしれません。しかし実現の方向で議論して頂くことが大事という気がしております。

○  いろいろ取り組まれているけれども、必ずしも大学入試の改善が進んでいないという印象が薄まっていないということについて最初に申し上げさせていただきます。
  基本的には、大学入試の仕組みをいろいろ工夫はされておられますが、やり方が大学の都合でやっているという印象が非常に強いことが、不満をなかなか緩和させない理由だろうと思います。つまり、適性ということをどう考えるかということを、大学入試が積極的に取り上げてこなかったということがあるんだろうと思います。現在の学力とか、現時点の資質・能力だけを判定の材料にして、将来、潜在的にどういう資質・力を持っているかということについて大胆に試験をするということを大学の方でやりきれなかったことが一つあるのではないかと思います。
  つまり、将来、不確実性の時代というか、不透明の時代に、現時点だけの能力で判定していいんだろうかということは、普通の社会人は考えるわけでありまして、その点について大学が積極的にやってきたかというと、多様化と言われるような入試をいろいろ試みられたけれども、実際はやり方はすべて同じで、適性ということについて本格的に取り組んでいなかったということが一つの大きな原因ではないかと思います。
  もう1点は、日本の大学入試というのは、よく言われることですけれども、エクザミネーションではないわけです。コンクールなんです。エクザミネーションというのは学力について、力があるかどうかをある程度判定する試験だと思うんですが、コンクールというのは競争で勝たなければしょうがないわけで、90点取っても、91点の子がいれば、90点の子は落ちるという試験になります。コンクールだという限界をよく理解した上で、私の意見は適性をもっと大胆に入試の要素に入れて改革しないと、どんな入試が行われていても、結局、不合理というか、不満がなかなか解消していかない。これは将来、全入に近くなっていったとしても、選抜という部分は特定の大学には必ず残るわけですから、それらの大学が選抜をされる場合にも、そういったことを考えに入れてやっていかないと、なかなか大学入試の合理性を世の中が納得するわけにいかなくなるのかなという感じを持っております。それがどうも基本にあるのではないかと思うんです。

○  まず、今も他の委員の方からありましたけれども、国民一般から見ると、いろんな改善策が試みられたけれども、過度の受験競争が本当に緩和したのかということについては、私もそう多く緩和され、改善されたというふうには思えないというのが実感でございます。
  高校の教員とか、関係者などから意見を聞いても、今の偏差値、1点刻みといいますか、適切な言葉ではありませんが、よく偏差値輪切りというようなことが言われますが、大学も、高校も、偏差値によって序列化され、偏差値の高いところはいい大学、いい大学を出て、いい会社に入るというような学校歴社会が、確かに部分的には改善されてきている面もありますが、国民が大きく意識を変えるほどには至っていないのではないか。
  大学受験にしても、短期大学も含めて全体で1,200近くある大学で、80万人近い収容定員からすれば、ほぼ9割ぐらいはどこかにといえば入れるわけですが、特定の大学に入学志願者が殺到して、この前の他の委員の方の話だと16万人から18万人ぐらいの浪人生の受験は、ここ5年か10年変わっていないというような ―数は正確でないかもしれませんが、大体そんなふうなお話だったと思うんです。これからの全入時代と言っても、今の国民の意識を考えると、そう大きく変わるといううふうには考えられないし、予備校や塾の繁盛ぶりも、改善されたといってもそう大きく変化はしてきていないのではないかというようなことを考えたりします。
  この間、ある雑誌で、有名大学500数十校について、全国5,000ぐらいの高校のどの高校から何人採ったというのが、ザーッとこんなに厚い冊子になって売られていました。これを見ますと実態はこれまでとそう大きく変わっていないのではないか。「これから変わるんだろうか」という意味で、国民もあまり解消されたとは認識していないのではないかということを私自身も考えています。
  「『過度の競争』はなくなりつつある」という考え方がありますが、確かに一部の大学、特に短期大学においてはそういうことは言えるかと思うんですが、全体として言えば、過度の競争は、今のままにしておけば、今後、急速に緩和されるというふうには、国民は思っていない節があるのではないかと思います。
  したがって、私も他の委員の方がおっしゃるように、大学教育を受けるに足る適性を見るのもなかなか難しいと思いますけれども、アメリカやイギリス、フランス、ドイツ等では、SATやGCEは資格試験ではない、資格試験等で論理的思考力とか、そういう一般的な適性を見るテストの蓄積があるわけでありまして、そういうことをもっと重視して、それに大学の目的に照らした専門科目等を個別大学でやるならやるとしても、全体的に基本的な適性を見るような形に……。もちろん戦後、進学適性検査、能研テスト ―私たちのときもそういうものがあったんですが ―がなかなか日本で定着しなかった。そして、1979年の共通第一次試験になり、今の大学入試センター試験になったということを考えてみると、確かに難しい面はあると思うんです。なぜ、進学適性検査なり能研テストが定着しなかったかということも、私、あまり詳しくは聞いておりませんが、やはり日本の社会で必ずしもそれが、特に大学側にはそういうことが受け入れらなかったのではないかという一般的なコメントが多いんです。したがって、これは国民的なコンセンサスを得るのには相当程度時間を必要とするかもしれません。
  しかし、やはり1点刻みで大学の合格者を決めるというのではなくて、本人の興味・関心とか、能力・適性によって、自らの意志といいますか、意欲で選択をする。選抜という理念から本人の選択という理念に変えていくという意味で、今の大学入試センター試験を見直し、資格試験化をすべきではないかというのが私の意見でございます。

○  中央教育審議会では一貫して個性、能力を重視するということを言ってまいりました。しかし、個性、能力を重視するという方向で、実際に制度の改善が行われているかというと、前にも1回申し上げたことがあると思いますが、17歳の大学入学を認めたことぐらいかなという感じがしております。個性、能力を重視するということになりますと、学年と実年齢を縛っている今の基本的な制度そのものも緩やかにしていくというところから始めないと、なかなかうまく機能しないのではないかと思っております。
  個性、能力を重視すると言うからには、いろいろな先生からお話が出ておりますように、当然、資格社会になっていくわけでして、学校と学校を結ぶというよりは、個人と個人を結んでいく、つなぐというような制度に変わっていかなければならないのではないかと思っております。今の若い人というのは、中にはすばらしい人がいるわけですけれども、これから先進国の一翼を担う、日本を背負う若者として、大多数の若者が、これは本当に心からそう思わなくてもいいんですけれども、一応表現の問題として、ノーブルな態度をとれる、誇りを持ってきちっと判断ができていくように、大多数の若者を養成しなければならないのではないかと思っております。
  そういたしますと、今、いろいろな問題が出てくると思うんですが、高校までに達成を期待されている学力とか、教養というようなものは、教育課程審議会の中でおつくりになっていらっしゃいます。ただし、不思議なことに、プロセスについては、かなり大まかになったとも言えるんでしょうけれども、制度ができているにもかかわらず、結果について把握できていないというところから、高等学校をそれぞれが卒業したとしても信用度がないということが、これは事実として言えるのではないかと思います。
  誠に逆説的な話ですけれども、過度の受験競争のプレッシャーが、結果としての学力を上げるのに実際問題として働いておりましたよね。いくつかのブランド大学といいますか、その大学には現在も働いていると思いますが、選抜的ではなく、大学の多様化の中で選択的になってくると、高等学校までの成果についてどこも把握していないながら、入りやすい大学に入るということになりますと、もちろん個性的な職業とか、実学というところに重点を置いてくださる大学であるにしても、共通した教養がないまま大学を出てしまうということになると、大学もお困りになるでしょうし、これからのマジョリティーとしての若者の教養がどういうふうになってしまうのか。私はこのままでは済まされないのではないかと考えております。
  申し上げたいことは、今、教育課程で要求しております「ここまで」というレベルは、何年か前に比べてかなりやさしくなっているのかなと思いますが、そこまでは少なくともというところで、表現の問題にしても、的確な論文というか、自分の思うことが文章できちっと述べられる、それから本当はこうだけれども、社会の人間としてノーブルな態度がとれるというような、そういうことを把握する機会がどこなのかわかりません、大検というのが平均点を達成するまでで把握しておられるようですが、これを改正するのか、外部にするのかわかりませんが、これを把握する必要がある。
  たぶん教育課程審議会のプロセスについては、校長の権限が強くなってくるということは、教え方の問題等は先生方の自由になってくる ―そういう方向に向かうのであろうとすれば、どこかできちっと結果を把握することが必要なのではないかと思います。これを把握することと、個々の大学の多様化の間にギャップが出てまいります。このギャップを埋めるのは、それぞれの大学なり、今ある大学入試センター試験のお仕事だろうと思います。このあたりをきちっと改革するなら改革していかないといけないのではないかと思っておりますし、マスターやドクターが非常に多い大学は、またそれなりの独自の試験を考えていけばよろしいのではないでしょうか。問題はマジョリティーの問題だと思います。

○  今までの議論の基調は、大学受験、入口のところの改善をいろいろやっているけれども、変わっていないのではないかという話ですけれども、私はそういう議論とはまた逆で、かなり変わってきていると感じています。少なくとも入口のところについてはかなり弾力化・多様化されてきている中で、高校生の生活とか、学習時間を見てみますと、従来のような過度の受験競争のプレッシャーでもって、高校生活が灰色だとかというような状況は、はっきり言ってこの間かなり変わってきている。むしろ逆に、高校生の学習時間は、いわゆる進学校においてすらかなり減ってきているような事情もあって、違った様相を呈してきているというのが実情ではないかと思っています。
  ただ、変わらないものは何かというと、一つは、高等学校卒業の一時期に、受験イコール人生選択みたいなものが一点に集中している。その辺が変わらないといえば変わらない。多くの国民の中で、大学受験の在り方が変わらないと言っているところは、一時期にそうしたことが集中しているという閉塞感が本当のところのイシューではないかという感じがします。
  ですから、問題なのは、入口のところを今までいじってきたんだけれども、そのいじってきている入口のところを、さらにそれに対応して大学全体のシステムをもう少し見直していくというところが連動していけば、入口のところでのねらいについて、もっと成果が見えてくるのではないかと思っています。
  例えばどういうことかというと、特に学部レベルでのトランスファーです。そうしたことが日本ではあまりなされていないというか、ほとんどできていませんよね。アメリカの場合には、例えばコミュニティカレッジから総合大学とか、努力とパフォーマンスさえよければ流動する可能性はあって、そういう意味での閉塞感、一時期に受験が集中しているという閉塞感から解放されているわけです。
  日本の場合には、例えば大学間のトランスファーの仕組みがなかなかできない。何でできないのかというと、日本の場合に、各大学においては入学定員が定められている、それは大学の予算配分等々にリンクしているとか、あとカリキュラム面においても大学間で学部教育のミニマムがきちっと整備されていないとか、そうした様々な条件の中で、トランスファーの仕組みをやろうとしてもできないということがあると思います。
  入口のところの多様化、弾力化を大学教育のシステムにまで連動させていくためには、そうした大学間のトランスファーとか、その他様々な流動化の仕組みを連動させていけば、さっき言ったような受験が青年期のある一時期に集中しているという閉塞感から解放される可能性が出てくるように思います。そのような視点で、入口のところと大学に入ってからの仕組みをどのように対応させて考えていくのかというのが一つのキーポイントかなと考えます。

○  結論的に言えば、第16期の中央教育審議会で大学入試についてだいぶやり、答申を出したわけで、それについてまさにできるところからどんどん実行していくというのが、今、一番大事なところではないかと思います。アドミッション・オフィス入試とか、そういったものが既に実行されておりますが、それだけですと、何のために今やっているかということになりますので、三つばかり申し上げるとすれば、今までのヒアリングで大学関係者から、高等学校以下の教育に対して大学から見たときの、期待する資質・能力等についてプレゼンテーション等があったわけです。小学校・中学校・高等学校は、教育課程の基準という形で、一つの学力の理想を持っているわけですが、その二つの間には大きなそごはないのではないか。期待する度合いは当然違うにしても、論理的な思考とか、あるいは情報活用等々をする能力とか、きちっとした発表能力とか、いわゆる生きる力、新しい学力観等々で、今、初等中等教育で目指している方向、そして、そのために授業改善に進む方向と、それからプレゼンテーションにあった大学から初等中等教育に期待する能力の方向性は、そんなに大きな違いがないと思うんです。
  ただ、そこで何がミスマッチを起こしているかというと、その間にある選抜というところで、必ずしも今言ったようなものが十分に評価されにくい。意図的に評価していないのではなくて、評価されにくい部分があるわけです。それは時間的な問題とか、それから評価の方法の問題等でですね。例えば、今、初等中等教育でも重視している情報活用の能力とか、あるいは外国語で重視しているコミュニケーションのスキルズとか、あるいは理科の探求能力とか、あるいは数的処理能力とか、あるいは自分の論理的な表現力とか、そういったものについて、特に私立の大学入試を見ればわかるように、非常に短い時間で大勢の学生を採点して発表するなんていうことでは、こういうものをじっくり見られないわけです。時間をかけて丁寧な選抜をやらないと、こういったものは見られない。その辺のミスマッチが起こるために、いつの間にか受験のための勉強みたいなものになっていくという感じがあるわけです。そのためには、丁寧な時間をかけた選抜ということを第16期中央教育審議会でも言っています。と同時に、高校時代の学習成果の蓄積、3年間なら3年間の蓄積も、選抜においてもっと評価していくといったようなことが、学力を十分に見る上では大事かなと思っております。これが第1点です。
  2点目は、今までは「適度の受験競争の緩和」ということで進んできたわけですけれども、これからは個々の大学あるいは多様化した高等学校、それぞれがどのように接続していくか、もっときめの細かい接続が問われていくと思います。大学でも、前回あったように、例えばコンペティティブな大学があった場合には、それは相応の厳しい入学試験が要求されてしかるべきだと思うんです。入試も難しいし、高等学校時代に高度の成績を取った学生が入っていく大学もなければ困るわけでありまして、入るのが難しい大学もなければいけない。しかし、全部がそんな大学であるわけではなくて、きちっとした最低限の基礎学力だけついていれば割合入りやすい。そのかわり出るのは難しくなるかもしれませんし、出るのもやさしいかどうか知りませんが、そういう大学があってもいい。それぞれの大学学部が自分の大学はどういう学生を教育したいのか、そのためにはどういう学生を入れたいのか、そのためにはどういう入試をするかという明確なメッセージをきちっと出すべきだと思います。これが第2点です。
  3点目は、例えば大学入試センター試験でも、1点差を競い合って、科目間の平均点を調節するというものではなくて、第16期中央教育審議会にもありましたように、「A」「B」「C」「D」「E」の5段階ぐらいな評定でいいと思うんです。そのかわりなるべく多くの科目を取るようにしてもらう。あるいは、理科でいうと、高等学校1年生で「生物」を履修したら、何も3年の1月何日まで待って試験を受ける必要はないので、1年生で「生物」を履修したら、場合によっては2年生でも受けさせていいと思うんです。その結果が「A」「B」「C」「D」「E」の5段階ぐらいであれば、そのときの入試の問題が難しかった、やさしかったなんていうのはそんな大きな問題ではないと思うんです。そのようにしておけば、例えば医学部で「物理」「化学」「生物」を取ってこないから困るなんていう場合に、今、「生物」と「物理」は大学入試センター試験では取れませんが、例えば高等学校1年次を修了して、「生物」を2年次ぐらいのときに取って、3年次でまた「物理」を取るなんていうことが可能なわけです。そういうようなところで、もうちょっと弾力的なものができないか。これは技法的な問題ですが、そんな感じを持っております。

○  まず、高校、大学の接続の基本は、両者が相互によく知り合うことと、相互によい教育効果を与え合う、この2点と思います。大学の高校に向けての役割が話題になりましたけれども、役割と申しますと、何か一つ役割が規定されていて、それを各大学が分担するかのようなイメージを持ちやすいのですが、結局は個々の大学が自らの ―特に私学では建学精神というのがございますが、自らの建学精神とか、理念とか、育成せんとしている人材像とか、それを実現するための具体的な教育方針、あるいはカリキュラムの精神を明確に打ち出すことだと思います。それを特に高校向けに発信して、高校のサイドに今や自らの大学を選択してもらう時代がきた。それが「全入の時代」ということだと思います。
  AO入試はその典型で、ただそこには、選択する側とされる側の相互確認が必要なように思われます。それが面接型にせよ、相談型にせよ、一過性のペーパーテストを超えて必要と思う情報の取得と、それに基づき、この生徒ならいい、この学校ならいいとする自己納得のプロセスが選択する側とされる側の相方に必要となってくるかと思います。
  このとき、接続の問題は、大学が高校とのリエゾンを考えるだけでなくて、社会が大学とのリエゾンを考えることへと展開して行きます。すなわち、社会の個々の組織体は大学に対して期待するものをもっと多く発信し、また、大学のほうも社会の個々の組織に対するリエゾンについて、こういう点を重視しているんだということを、高校向けの発信の中に含めるべきではないかと考えます。
  近年、「個を尊重する企業経営」というものがございました。今の時代、企業は、単なる利潤追求だけではなく、公共の幸福を求める運営の仕方を標榜し、実践するようになってきました。若い人たちがこういう傾向を、高等教育、中等教育で早くのうちから理解し、将来に備えることができるようになればと思います。
  入学選抜に関しては、「全入の時代」では、選抜主体が大学側から高校側へシフトしてゆくという問題があると思います。指定校推薦は、指定さえされればその高校側が、選抜を任せられている制度と言えます。一貫教育校では、中等教育を済ませた者を全員ないしほぼ全員、高等教育へ受け入れる法人もあれば、そうでない法人もありますが、前者であれば、入学選抜に関する限り“指定校推薦”です。一貫教育という言葉の意味は広いものがあるかと思いますけれども、一貫教育でも社会―高等教育―中等教育という縦の線を考えて、若い人たちが自己の進路を定める、つまり、もっと世の中の全貌を眺めて自分の進路を定めることが必要と思います。
  先ほど他の委員の方が、ノーブルな物の考え方や行動ということをおっしゃいましたけれども、正しい人間形成は教育上重要な柱です。各大学はそれを、こういうカリキュラムの中で、あるいはこういう教育指導によって育成するといった具体的な情報を発信の中に含め、それが社会とどういうつながりを持っているのかといった全体的な展望を生徒に持ってもらうような選抜があり得るのではないか。それには大学と高等学校や、中学校との間の緊密な連携、とくに進路指導関係の先生方とのそれが重要になってくると思いますし、さらには、中等教育のサイドに進路選択の試験をゆだね、学校教育全体が承認と信頼の精神でつながっていかなければならないのではないかと思っております。

○  高等学校側からもいろいろ意見を出してほしいというニュアンスのお話だったと思いますが、それを受けた形で少しお話をしたいと思います。
  今、具体的に、入試に関していえば、ここのところ大学の入試でミスが目立っているという、これが高校サイドでの大きな話題であります。要するに多くの大学で入試自体が意味をなさなくなるという状況が迫っている中で、大学が入試を行うことに関して情熱を失っているのではないか。つまりは、緊張感がなくなってきているのではないかという話でもありました。
  また、つい先ごろの推薦入学の募集人員のめやすとなる割合の拡大についてですが、短期大学5割、四年制大学が3割だったのを、短期大学はめやすとなる割合を示さないことにした。それから、四年制大学のめやすとなる割合は5割になったわけですけれども、当然、この拡大によって見込まれる大学入学者の質の低下が懸念されるわけです。つまり、そういうことがなければ大学や短期大学に行かなかったかもしれない生徒が、これでまた入りやすくなってくるよということでもありましょう。
  これは対策を急がないと、大学に入ること自体が大きな変質を遂げてしまう心配があります。私はずっと前から言っておりますが、厳しいけれども、何とか方法を考えて、高等学校から大学なり短期大学なりに進むということは非常に重いことなんだということを、子どもたちにはっきり自覚させて、選ばせる仕組みだけはぜひ確保していただきたい。入試の姿がどう変わるとしても、選抜の手続はそういうことのために非常に重くて、高いハードルを持っていて、志を持っていて、そういうものに何とかし続けてもらいたいと思います。
  ところで今現在、大変有名なすごい進学校でも、実際にはそれほど日々の授業がうまくいっているとは言えません。現に都内の私立の大変有名な進学校の生徒も、放課後は一所懸命予備校に通っているという実情があります。それから、地方に行きまして、予備校などに比較的恵まれないようなところでは、ゼロ時限目の補習授業、放課後7時限、8時限目の補習授業が、3年生を対象に毎日のように行われているという実態があります。そうすることによって、何とか大学入試センター試験の点数を少しでも上げる、あるいは大学入試センター試験だけではなくて、個別試験の対策もふだんの授業とは別な枠で特別にやれば、それなりに効果があって、いい成績を出すということがあります。
  ある県、教育に大変熱心な県ですけれども、そこで実態をつぶさに聞きますと、いわゆる昔からの名門校は、ゼロ時限目の授業とか、7、8時限目の授業なんていうのは絶対にやらないというのを誇りに思ってきたけれども、ここのところそうはいかなくなった。他の高校が伸びてきて、いわゆる名門校でもそういうことをやらないと、やっていけないような騒ぎになっていますよと。つまり、入試というのがふだんやられている授業とは別なものになっていて、それに対する特別な対策は以前よりももっと必要になっているということがあるんです。ですから、その辺も含めて大きな改革を考えていただきたい。
  大学入試センター試験について述べます。私はずっと「これは大事にしてください」と言い続けてきました。これは私個人の意見ではなくて、全高校をまとめての意見です。高等学校側の大学入試センター試験に対する強い思いは、共通第一次学力試験以来継続していて、今に至っているわけです。その以前には、高等学校の授業で何がなされているかをほとんど無視したような入試の問題がたくさんありました。これは私も現場の教師を長くやっていて、毎年春、生徒からそういう報告を受けて、嫌な思いをしたものなんです。それが少なくとも国立大学に関しては、共通第一次学力試験が始まってからは激減しました。そして、今、大学入試センター試験になって、私立もこれに入ってくるということになって、その辺のところはかなり改善されてきているわけです。
  なおかつ、今、多様化の進行に必死に対応しようとしているのが大学入試センター試験だと思います。大学入試センター試験科目が31科目になっている。もしかすると、今後、もう一つ二つ増えるかもしれませんが、そういう対応の仕方について本当に大学入試センター側に御苦労をいただいております。これも高等学校側から、高等学校がこれだけ多様化した現在、どの学校からでも進学の可能性が保障されるような窓口になってくださいという強い要求があって、今の大学入試センター試験になっているわけです。
  そもそもの始まりに立ち返って、今後の議論の中で、大学入試センター試験は大事にするということを前提に考えていただきたい。大学入試センター試験に明らかに限界はあるんだから、大学入試センター試験だけで物事を決めてはいけない。そのことをしっかり踏まえて、じゃどんな個別試験がいいのかと考えていただきたい。大学入試センター試験を前提として、個別試験をどうするか。そこのところを大きく手直ししていくということを考えていただきたいと思います。
  最後になりますが、東京大学や京都大学の入試に関しては、実を言うと高等学校側からの不満は非常に少ない。いい試験をしていらっしゃるということです。確かにハードではありますけれども、問題の内容も決して手がつかないような難問奇問ではありません。個別試験を含めて非常にいい試験をなさっていると、高等学校側の意見として申し上げておきたいと思います。

○  3点ぐらい申し上げさせていただきます。
  ちょっと議論が戻るかもしれませんけれども、一つはこれまでの取組の評価ということですが、これは他の委員の方の御発言と同じ意見ですが、選抜方法の多様化とか、評価尺度の多元化への取組はそれなりに評価をされてしかるべきなのではなかろうか。過度の受験競争の緩和というのは、ある程度進んできているのではなかろうかというのが、私の印象でございます。それが1点です。
  2点目は、具体的な選抜の在り方についてですが、これは一昨年の中央教育審議会第二次答申でもある程度出尽くしておるのではなかろうかと思います。その中で、高等学校の学習歴の活用、例えば調査書の活用であるとか、履修科目指定制であるとか、こういうところを学力テストとうまく組み合わせて選抜ができないかというのが一つです。それから、学力試験の在り方につきましても、総合的な問題などを工夫していくことはこれからの課題かと思います。
  それから、大学入試センター試験の活用につきましても、二つぐらいの提案がなされております。例えば、一定水準に達していれば、他の選抜資料と組み合わせて評価をするということが出ておりますので、こういうところも検討できるのではなかろうかと思います。
 最後に、学力試験が1点刻みで活用されるのは困ると思うんですが、先ほど来出ていますように、よい内容の学力試験というのは非常に価値があるわけでございまして、何かペーパーテスト全体がよくないという雰囲気はよろしくないと思います。学力試験が行われませんと、高校生が高等学校の学習を整理したりまとめたり、集中的に勉強するということを、恐らくあまりしなくなると思いますから、好ましい学力試験の意義もきちんと押さえていかなくてはいけないのではないかと思います。

○  これまでも述べてきましたが、中学卒業生が、通学できる範囲に自分の希望する高校があるとは限りません。普通高校と専門高校では、設立の歴史的な経緯がありますので、地域において必ずしも生徒の希望に沿っていないことがあります。そういう中で、一部、不本意入学が現在もあることは事実です。普通高校と専門高校はカリキュラムが違いますので、大学へ進学したいというときには、当然、有利不利が出てきます。
  専門高校から大学へ進学して勉強したいという生徒が、今、どんどん増えてきています。そういう生徒に対する配慮は、これまで少しずつされてきていますが、さらに大学で専門高校の生徒に対して、例えば、専門高校卒業生向けの受験科目を設定するとか、配慮をすれば、専門高校で学んでいる生徒も、大学へ行って学ぶという希望がさらに出てくると思います。現在、推薦入学や特別選抜が、少しずつ拡大されていますが、さらにさまざまな配慮をしていただければ大変ありがたいと思います。
  もう一つは、障害者の大学入学の希望が増えています。校長協会への要請もたくさんきています。点字による受験においてはボランティアをする人が大変増えてきて、現在ではスムーズに受験ができるようになってきていると伺っています。今後も障害のある生徒が受験する場合に、様々な要請が出てくると思いますが、この点の配慮もお願いしたいと思います。
  大学入試センター試験についてですが、特に私立大学において、ぜひ多く、早く取り入れてほしいと思っています。大学入試センター試験は大変よい内容、よい出題がされていて、高校生の基礎的な学力をはかる内容になっていると思います。すべての大学で取り入れた上で、さらにそれぞれの大学で個別試験をするなどの選抜であれば、生徒の日常の学習態度も変わってくると思います。入試科目が少ないと、そればかりに目がいってしまって、幅広い学習をするという生徒が少なくなってきます。今後、資格試験的に取り扱っていただければ大変ありがたいと思っております。

○  先ほど少し出ましたけれども、高校と大学の接続の件につきまして、1点だけ申し上げたいと思ったわけであります。接続の基本は、高校と大学がよく知り合うことではないかというお話も承りまして、私も誠にそのとおりだなと思ってお聞きしたわけであります。例えば、高校のサイドから見まして、大学の実態は、これだけ情報の時代でありながら、正直なところ本当にはわかっていないという現実があるように、私は思っています。それではどこに責任があるのかといいますと、大きくは高等学校の側にある。それゆえ高校の進路指導のさらなる充実をしなければいけないと思うところであります。
  いま一つ、大学の求めているものがよくわからないというのは、いろいろな情報はあるけれども、それがなかなかつながっていかない大きな背景の一つに、大学入試の問題の質があるように思います。要するに、難関校と言われる大学入試の問題は難しさの点においても内容にしましても似ているように私には思えるわけであります。もちろん細かな部分から言えば、この大学は長文の読解が多く出ますよとか、そういうテクニカルな問題はあるにしましても、大学入試から、その大学が「求めている」ものを読み取ることは困難であります。
  先ほど来、1点差というような話も出ておりますけれども、大学も選抜には公平さを期すという大きな課題もありますので、ある意味では限界もあろうかなと思います。この裏返しとして、大学入学者選抜について、高校生とか、保護者、日本の社会は不信感を持っていないと思っております。公正になされているというふうな国民の受けとめ方があると思うわけであります。それゆえに、問題作成にも限度があるというように思うわけであります。
  しからば、どういうことがこれからの課題になるのかといいますと、これは冒頭に他の委員の方がおっしゃられましたけれども、受験生の将来的な展望を見た適性をどこまで見るのか。どのようにしてそれを探っていくのか、この一点にかかっていくように思うわけであります。その一つはAO方式でありましょうけれども、現実の問題としてはこれを取り入れるには大きな課題もあろうかと思いますが、少なくとも理念的にはそういう方向に進んでいく以外に道はないのではないかと思っております。
 ただ、もう5年もしますと、大学入試は定員そのものからいえば緩和されてまいります。保護者の方も若干は感じてきておりますので、受験者数の問題、それから社会の変化の状況も大幅に変わっていくのではないかという意味で、私は楽観もしているところであります。

○  きょうのお話で、また従来もあったのですけれども、「能力」とか「適性」という言葉がよく使われておりまして、選抜問題の一つの突破口ではないかとする傾向があるようですが、私はその点に関しては慎重論でございますので、その点について一つ申し上げたいと思います。
  結論から申しますと、大学入試に、あるいは大学入試でなくても、ほかの入試でもそうですが、適性検査を選抜に使うというのには、よほど慎重でなければいけないのではないかと思います。もしいい適性検査ができたとしたら、それは本人の自己理解の資料にする、あるいは親や教師、本人に助言・指導する人の参考資料にするというのはよろしいのですが、何か客観的な検査のシステムをつくりまして、「あなたは適性がないからだめです」とか、「あなたはこちらに適性があるから、こっちへ行け」というふうに配置する、あるいは選抜するというのは避けたほうがいいのではないかということです。
  その背景を申します。適性や能力というのは多義的に使われており、一般の人がどう考えているか、専門家がどう考えているか、それは分析しないといけないと思いますが、基本的には何らかの素質論が背景にあるようであります。先ほどから表面的なアチーブメントではなくて、可能性を見ろというふうな御意見でございます。その可能性というのは多面的なんでしょうけれども、ある程度素質というものを考えておられるみたいだ。もちろん素質といいましても、100%遺伝だとか、あるいは100%生得的と言いませんけれども、何か本人が今の段階で持っている特徴であって、これは何ともしがたいというニュアンスがないではない。そういうふうなものでずうっと突っ走っていきますと、これは場合によったらぐあい悪いし、一般の理解も得られないのではないか。
  ちょっと極端な例ですけれども、かつてイギリスで、11歳を超えたところで一種の知能検査をして、スクリーニングをしたわけです。あなたはどこへと。実は欧米は日本と比べて、相当程度遺伝論の信奉者が多いと思うんですけれども、それはやはりまずかったわけです。それでやめることになりました。
  我が国のことを一般化して言うのは難しいですけれども、人々の考えや価値観から申しますと、「生得的に、あるいは素質的に決まっているものである。だからこうしなければいかん」というのは、非常に受け入れにくいような気がいたします。人々がそのような信念を持っているというだけではなくて、人はどのようにするのが望ましいのか、優れているのかという、人間としての立派さというものと、生得的な考え方がどうも相い容れないところがあるような気がします。ですから、これは非常に興味ある概念ですけれども、慎重に扱いたいという気がいたします。
  それと関連して、今、実際にアチーブメントと適性を分けようという議論がありますが、これは非常に難しいわけです。結局、適性というのはどういう領域で能力があり、どういうことに興味があるか。主としてその二つで考えるのでしょうけれども、能力というのも、結局、可能性を直接調べることができませんので、達成したものから推測するより仕方がない。現に今、適性検査とは決して言っておりませんが、今の難関校でやっているのは一般的な学習をする能力と、今の日本の学校教育システムに適合しているという二つが反映されているのではないか。つまり、いろんな教科の学習をして、そこで力をつけた人というのは、やはりいろんな領域での学習をする能力があるのですと。それから、自分で努力もするし、あるいは目標を立てて計画的にやるということも全部含めて、学習システム、教育システムに適合している。そういう特技を持った人が今、難関校というところで選ばれている。その人たちは、その学校とか学部で直接の教育目標になっているところの力があるかどうか知らないけれども、当然、学習能力があるのだから、そこでうまくいくと信じていられる。それが現にうまく働いていたのです。ですから、従来のやり方で適性と言わないにしても、一般的学習能力というのを信じて、それで割合いうまくシステムが動いていた。
  ただし、これからはそういう時代ではないというのを最後に申します。じゃ、おまえはどうするかと言われると、他の委員の方がおっしゃったことに割合近いわけです。それぞれの大学や学部は自分のところの教育プログラムを明確にする。それには当然ゴールがありまして、このような目標に向けて、このような教育プログラムを用意しております。そこへ入っていただく方は、やはりエントリー段階で何かチェックが要ります。つまり、その教育プログラムを受ける準備が整っているかのチェックです。
  そこで、私は古典的なレディネスをちょっと変えまして、広い意味での学習の準備性という概念を使うんですが、そういう準備性が整っている人、あるいは、少々足りないとすれば、この点を補えば準備が調う人に、どうぞ入ってくださいという。そんなふうに考えていくほうが、非常にあいまいで、場合によれば素質的なニュアンスが非常に強くて、それによって選抜や配置というふうにやや上から、極端に言うと宿命的に位置を決められるよりは、ゴールをはっきりさせて、そこへの準備を整えようというふうに考える。それはその人の今までの努力の成果でもあるし、あるいはその人のそれまでの生き方の一つの集大成でもありますので、そんなふうに考えていくのがいいのかなと思います。
  もう1回もとへ戻りますと、適性とか、能力というのはおもしろい概念だけれども、慎重に考えて、人々に理解されるようにしっかりした明確な意味で使いたい。

○  これまでの入学者選抜の改善に関して申し上げたいと思います。
  私も、全体的な評価といいますか、これまでの取り組みについては、他の委員の方たちと同じような意見です。とりわけ大学入試が選抜の一点集中を引き起こしているという問題、そして入試という仕組み自体も一時点に試験や評価が集中しすぎているということも、検討のたいへん遅れている問題だと痛感しております。改善にはたいへん時間がかかることですが、これからの課題のひとつとして十分な議論が必要だと思います。
  大学の入口部分の改革としての入試方法の改善は、これまでにも多くの取り組みがなされていますが、大学入試の「大衆化」という観点からは、これに正面から取り組んだのは臨時教育審議会だったと思います。第15期、第16期の中央教育審議会の答申も、そのいわば延長上に位置付けられるものと思います。
  ただ、私、個人的にはこの10数年にわたる入試の方向に必ずしも賛成ではありません。大衆化への努力はたいへん重要なことですが、基本から逸脱してやや過激に走りすぎたのではないか、という印象がします。そういう意味で、多少反動的な意見になるかもしれませんが、大学入試の大衆化ということ、言い換えれば個人の選択を拡大する、各大学の入試の多様化を進めるという方向には少し枠をはめた方が良いのではないかと思っています。
  この10数年間にわたる高校教育と大学教育の変化をみておりますと、高校での受験シフトは確実に強化されている。それから大学の入試科目の削減も進んでいます。入試の軽量化はとくに少子化問題、学生集めと深く関連していますが、その結果、大学入試に合格しても、それは大学教育の準備が整っている証明ではなくなってしまった。実際、学生が入学した後に、その準備不足を大学がいろいろ手当てしなければならなくなっています。これが入試の多様化が進みすぎたことの結果だとしたら、多少揺り戻しといいますか、受験生の選択あるいは各大学の自由度にある程度の枠、制限をはめても事態の改善を図るべきではないか、それが現実的な要請としてあらわれているように感じます。
  そこで、前回の論点整理にも関連するのですが、論点整理のトップに役割分担の明確化がくるのはやはり疑問を感じます。役割分担の明確化が目標としてでてくるのは分かりますが、これまでの審議経過の論点整理としては、役割分担の不明確化が最初であるのが順当なように思います。年齢人口のほとんどの生徒が高校に進学し、半分の生徒たちが大学・短大に入っていくというときに、役割分担の不明確化が生じてくるのは当然のことです。しかし、不明確化した役割分担を本当に明確化できるかどうかは、それ自体が大きな検討課題です。間仕切りの位置を調整しなおすか、仕切り位置をそのままにしておいて接続の方法を抜本的に改めるのか、簡単に明確化と言えないところが、今日の問題と思います。そしてそれを審議するのが今回のテーマなのだと思います。
  接続上の工夫のひとつとして、前回、他の委員の方から都道府県レベルで高校教育の修了段階をチェックするようなことは考えられないか、というご提案がありました。私も非常に近い考えをもっておりまして、ぜひこの御意見をいろいろな角度から具体的に検討していただけたらと思っております。

○  最初に座長のほうから、だいぶ入試改善がされているのに、国民全体としてはそういう意識を共有していないということについての御諮問に対して、何人かの方の御意見がありました。私も、それぞれごもっともだなと思って伺っていたんですが、1点、全く別の側面として考えてみますと、結局、特に親の意識だと思いますが、どこの大学にでも入れるというようなこと、あるいはさらには自分の子どもの能力、適性に合った大学に入れることということではなくて、やはり特定の銘柄大学に入れるかどうかという意識が非常に強いんだろうと思います。結局、そこに入れないのであれば、いくらいろんな形でもって改善されておっても、それが達成されなければ、やはり改善されていないんだという気分的な受けとめということがかなりある。しかし、このことは絶対なくならないと思うんです。
  問題は、私は体験的にはわかりませんが、旧制の第一高等学校の試験だって苛烈だったろうと思うんですが、今日違うのは、それが限られた人たちではなくて、全国民的な競争の中に行われているということが、これだけの問題になっているんだろうというふうに背景としては思うわけです。いずれにしても、それは意識の問題で、どんな改善をしても、入試が改善されたというふうにはなかなかいかないのではないかと思いました。
  それから、前にも私は申したんですけれども、大学といったっていろんな大学があるんだと。およそ大学という言葉で大学を論じ、あるいは入学者選抜を論じるというのは、どだい無理ではないかということを申し上げたんですが、前回も研究を目指すところ、あるいは高度の職業人、あるいは教養人というような議論もありましたし、また苛烈な試験をやる大学と、希望すればだれでも入れる大学、あるいは真ん中辺の大学もあるというようなことを考えますと、それらを一律に議論することも、これまた入学者選抜一つとっても無理があるのではないか。18歳人口がこれからどんどん減少していけば、特に私立大学の場合には、とにかく来てくれればありがたいというところで、入試なんていうのはそもそも意味を持たない。入学者の選抜なんていうことがそもそも成り立たないわけですから、そういう大学もあれば、一方で何倍というような激しい競争をやる大学もある。これらを議論する場合に、少なくとも議論としてはある程度種別化して議論しないと、混乱が生ずるのではないかという気がいたします。
  特に今までの議論は、どうしても試験が激しいところについての議論に集中しているわけですが、高等学校との接続という視点、それからヒアリングを通じて、入試というものが高校教育をゆがめているという意見が非常に強かったわけです。そういう点を踏まえますと、ある意味では逆行なのかもしれませんが、どなたかの御意見がありましたように、受験科目は少ないのがいいという風潮はちょっとおかしいので、ただ、短期間の中に大量の受験生をさばくという物理的な問題がありますから、限界はあるかもしれませんが、できるだけ多くの入学試験科目を課する。あるいは、課せられないならば、それ以外の分野についてはセンター試験を活用して、大学における資格試験的なものとして扱って、それ以外のことでもって、いわゆる具体の個別試験をやる。特に競争の激しい大学についてはそうすることによって、高等学校教育にもいい影響を及ぼしていくのではないかという気がいたします。
  また一方、特にそういう大学は、多くの場合、研究者の養成、あるいは高度の職業人養成という大学ですので、あまりハードルを低くすればいいというような議論 ―これもまた逆行なのかもしれませんが、ハードルを低くすればいいという議論もいかがなものか。ボランティア活動をやるというのも結構ですし、特に人柄というのは人間にとって一番大事なことですが、大学に人柄で入るわけではないので、そういう点で、ハードルをただ低くすればいい入試だということにはならないのではないかという気がいたします。

○  私も、今お話がありましたことと似たようなことを考えております。といいますのは、受験競争が激しいのを緩和するということで、科目数を減らすとか、あるいはやさしくしていくというのは、一つの方向でしょうけれども、それをすることによって、日本全体の若者、18歳の方々の学力の総量といいますか、日本全体における知識量というか、力が極端に落ちていくのではないか。それは日本全体の将来にとって大きな問題ではないかという気がしております。入学試験の競争というのは、先ほどもお話がありましたけれども、親とか、受験生がたくさん行きたいという大学が限定されている中で、行きたいというのがある以上、どうしても競争を避けることができないわけでありますから、それは仕方がないと思うわけであります。むしろそれよりも視点としては、若くて学力を与えればいくらでも吸収するという年齢層の人たちがあまり勉強をしなくて、日本全体としての学力総量が減っていくという問題を真剣に考える必要があるのではないかと思うんです。
 そういった意味では、いろんな大学があって、いろんな入学試験があるでしょうけれども、高等学校の卒業のレベルというのは一体どういうレベルであるかという一定の基準的なものがあるはずでありますから、そういうものになるべく近いような入学試験をどの大学も課すような努力をする必要があるのではないか、そんなような感じがしております。

○  私が個人的に考えておりますのは、教育の問題というのはまさに“揺りかごから墓場まで”の問題ではないか。したがって、これは全人格的に教育の問題を取り扱うことが必要ではないか。80歳なら80歳の全行程の中で、前半の12年と4年の接続をどう考えるかというような視点が一つ必要ではないかとまず思っております。
  そして、来るべき21世紀はどういう時代か。その時代に向かって、若い人口をいかに教育していくかという視点が次にあって、結局、基礎になる人間形成の問題と、それからきょうも随分お話に出ましたけれども、知識、技術といったいわゆるテクニカルな接続問題と二つあると思うんです。我々に求められているものが後者だけの問題なのか。それをコントロールする人間の問題をいかに考えるべきなのかという視点がどうしても私は心にひっかかっておりまして、人間形成という視点で接続問題をどう考えるべきなのか。あるいは今お話のございました大学入試センター試験は必要だと思いますが、その内容、あるいはそれに何を追加すべきなのかというようなプラグマティックなアプローチになってくるのかなと考えております。
  やはりどうしてもひっかかるのは、日本の社会全体についても言えるわけでございますが、人間形成。特に個とか、あるいは自由とか、市場ということが言われておりますが、それに対する抑止力ということで、人間疎外をいかにして避けていくか。この辺が教育改革の最大のポイントではないかと私個人は思っております。

○坂元座長代理    それでは、本日の会議は終了いたします。
 どうもありがとうございました。


※1  この資料については、文部省大臣官房総務課広報室にて閲覧できます。

(大臣官房政策課)

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