審議会情報へ

中央教育審議会

 1999/5 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第10回)議事録 

 中央教育審議会

初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第10回)

議    事    録



  平成11年5月31日(月)  13:00〜15:00
  霞が関東京會舘  34階    ロイヤルルーム


  1.開    会
  2.議    題
    「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」
  3.閉    会



  出    席    者

委員 専門委員 事務局
根本会長 荒井専門委員 梶野生涯学習官
鳥居副会長 安齋専門委員 銭谷審議官(初中教育局担当)
木村座長 岡本専門委員 佐々木高等教育局長
川口委員 工藤専門委員 高   総務審議官
河野委員 黒羽専門委員 寺脇政策課長
國分委員 小嶋専門委員 その他関係官
坂元委員 小谷津専門委員
田村委員 永井(順)専門委員
土田委員 橋口専門委員
長尾委員 久野専門委員
松井委員 山極専門委員
横山委員 山口専門委員



○木村座長    それでは、時間になりましたので、中央教育審議会「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」、第10回になりますが、開催させていただきます。
  本日は、お忙しい中、本会議に御出席を賜りましてありがとうございました。
  本日は、前回御案内申し上げましたとおり、初等中等教育と高等教育との接続の改善について審議を行いますが、これまでの審議でいただいた様々な御意見を踏まえ、私のほうで「論点整理メモ」を準備いたしました。本日はこれをもとに御審議をいただきたいと考えております。これまで委員を務めておられた方が御覧になると、少し論点整理の仕方が違っておりますので、よろしくお願いいたします。
  それでは、議事に入ります前に、配付資料の確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○木村座長    ありがとうございました。よろしゅうございましょうか。
  それでは、まず資料を御覧いただきたいと存じます。先ほど申し上げました私どもの部会の論点整理、これまでお出しいただきました御意見を総括したものでございます。
  柱が3本ありまして、一番最初が「高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」、2番目が「高等学校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善」、3番目が「その他の関連する施策」です。
  議論に入ります前に、これについて事務局のほうから朗読をお願いいたします。


○事務局    資料を朗読させていただきます。


      初等中等教育と高等教育との接続の改善について(論点整理メモ)

  1.高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携

  (1) 各段階の役割分担の明確化
  中学校卒業者の97%が高校に進学し、さらには、その卒業者の約半数が大学に進学すること、高校、大学において教育の一層の多様化、個性化が進むことを踏まえ、高校までの12年の教育、大学教育それぞれの役割、それぞれの教育において到達すべき目標をどのようにとらえるべきか

  (2) 役割分担を踏まえての接続をめぐる課題
    (1)の基本的考えを踏まえ、接続をめぐる課題として何を提示するのか
    このことに関連し、いわゆる学力低下等の指摘をどのように受け止めるのか

  (3) 役割分担の明確化に応じた高等学校教育と大学教育の連携の推進
    (1)に掲げた役割分担や(2)の課題を踏まえ、どのような考え方で連携を推進して行くべきか

  (4) 具体的な教育上の連携方策
    具体的な高校、大学間の連携方策としてはどのようなことが考えられるのか
    特に、大学までの教育を通して、個々人の能力・個性を伸ばしていくため、各学校相互のカリキュラム上の系統性や連続性をどのように確保していくのか


  2.高等学校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善

  (1)これまでの取組について
  これまでの過度の受験競争の緩和を目指した取組をどう評価するのか
  相当数の者にとって、大学受験は必ずしも「過度の競争」ではなくなりつつあることと、依然残る希望者が多い特定の大学をめぐる競争の存在をどう考えるのか

  (2)これからの選抜の在り方
  これらの入学者選抜の在り方として何を理念に据えるのか、接続を重視した入学者選抜とはどういうことなのか

  (3) 接続を重視した具体的な改善方策
  ○具体的な改善方策として何が考えられるか
  ○大学入試センター試験をどのように評価するのか、当面の課題と将来的な課題をどう整理するのか


  3.その他の関連する施策

  ○1に示した、高校卒業までの12年間における教育の役割を踏まえ、小中、中高、さらには、小中高といった間の連携をどのように推進していくのか
  ○学校教育と職業生活の接続はうまくなされているのか、双方の接続を円滑にするため、どのような取組を進めるべきか、特に、学校教育においてエンプロイヤビリティ概念を重視しつつ、進路や職業に関する学習をどう進めるのか

  以上でございます。

○木村座長    「論点整理」は目下のところ、ただいま朗読していただいたような形で行っております。
  すなわち、「1. 高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」のテーマのもとに四つ問題点を掲げ、それから「2. 高等学校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善」として3点、最後に「3.  その他の関連する施策」という枠組にしております。このような枠組みについての御意見と、それから時間の関係で、本日は「1. 高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」についての御議論をいただければと存じます。
  それでは、きょうは全体の枠組みと「1. 高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」について私のほうから、「論点整理メモ」をまとめた立場から少し時間をいただいて御説明申し上げたいと思います。
  まず、「(1) 各段階の役割分担の明確化」という点についてでありますが、御承知のとおり、中学卒業者の97%が高校に進学する現状を踏まえると、高校までの12年間の教育は、国民の大多数が受けるものとしての認識が必要であると考えます。このことと、現在の教育改革においては、個人の能力や個性を伸ばすために、基礎基本の徹底とともに、選択幅の拡大がなされている事実の中で、高校までの12年間の教育を通じて、どのような人間像の育成を目指すのか、どのような力を身につけることを目標とするのかと言ったことを改めて確認することが必要と考えられます。
  さらに、大学については、5割を超える進学率が見込まれつつも、なお、大学教育を受けない国民も相当数存在すること、また、大学教育において一層の多様化、個性化が図られつつあることを踏まえ、どのような役割を担うべきかを検討する必要があると考えます。
  以上が「(1)」であります。
  「(2)役割分担を踏まえての接続をめぐる課題」でありますが、この論点については、まず、最近の大学生に対し、主として大学関係者からなされている指摘をどう受け止めるかということから議論を始めたいと考えております。
  これらの指摘の中には、様々なものが含まれていますが、その中で、何のどの点を問題とすべきかはあらかじめ整理する必要があるでしょう。例えば、現在の高校までの学習指導の状況をどう見るのかという観点も必要でしょうし、また、高等教育の量的拡大というものを、それがもたらす影響を含めて、関係者が客観的に受け止めることができているのかという点も検討すべきであると考えております。
  また,いわゆる学力低下の問題については、高校までの12年間の教育の果たすべき役割を踏まえて、到達すべき学力をどうとらえるのか、大学教育への接続を円滑にする観点から、大学での学習に必要な力としての学力をどうとらえるのかという議論がまず必要と考えます。さらに、いわゆる学力低下の問題には、高等学校までの教育内容の見直しや大学入学者選抜における多様化、評価尺度の多元化がかかわっているような論調も一部に見受けられるが、本小委員会として、どのような認識を持つべきかも議論しておく必要があると考えます。
  これらに加え、極めて基本的な問題であるとも言えると思いますが、今後、進学意欲さえあれば、各大学の判断で、その者の能力や適性、学習到達度等を問うことなく、学生の受け入れがなされることもありうると考えるのか、また、その一方で、現行の選抜では、不利になりがちであるが、能力や意欲も備えていると考えられる専門高校卒業生や社会人に対しては、大学への接続の在り方をどのように考えていくか、といったことも論点とすべきと考えております。
  「(3)」番目の「役割分担の明確化に応じた高等学校教育と大学教育の連携の推進」については、まず基本的な考え方を整理しておく必要があると考えます。
  おそらく、画一的な形でこれを示すことは難しいと思われますが、(1)及び(2)を踏まえつつ、共通的な理念のようなものは押さえておく必要があると考えます。
  「(4)」番目でありますが、「具体的な高校、大学間の連携方策」としてどのようなことが考えられるのかということであります。このことについては、例えば、各大学が求める学生像や教育内容に関する情報を進学希望者に対して周知したり、個人個人の能力・適性等に応じた進路指導や学習指導を行う方策として、高等学校、大学双方で何が考えられるか等を検討する必要があると考えます。
  また、特に、カリキュラム上の系統性や連続性の確保という点からは、アドバンストプレイスメントや高大一貫教育の推進といったものも重要な論点になると考えており、現在の教育改革は、まさにこのような取組を実質的に可能にするものとなっていると受け止めております。
  以上、資料の大きな「1」番、「高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」で、論点の柱として挙げました四つのアイテムの背後にある考え方ならびに、どういうことについてそれぞれ御議論いただきたいかということを、私と事務局とでまとめたものについて御説明させていただきました。
  以上のようなことを背景として少し御意見をいただければと存じます。どなたからでも結構です。御願いいたします。

○  全体の論点整理の構成はこんなものでいいのではないかと思いました。
  それから、今の座長の御説明で、順不同ですけれども、専門高校の入試といいますか、接続の在り方で、前回、ヒアリングで御意見をいただいた九州大学の先生から、非常に感銘を受けたレクチャーがあったわけですけれども、お願いしたいのは、昨今、専門高校とかそういったところからの特別選抜枠について、いろいろな大学で、特に工学部に多いと思うんですが、意欲的に行われている大学があります。実際に専門高校等からの学生が特別選抜枠等で大学に入って、その後どのような進路あるいは学習の仕方をしているのか等々について、ちゃんとしたデータがもしあれば示していただいて、そういうものに基づいて、専門高校の在り方等々を考えていかないと、ただいたずらに情緒的に議論してもいけないと思いますので、もし事務局のほうでそういうデータ等がありましたらお願いしたいと思います。それが第1点です。
  第2点は、「(1)各段階の役割分担の明確化」に関係しまして、高校までの12年間について、改めてその役割なり、それからどのような力を身につけた人間像の育成を目指しているかといったことを明確にする。これは教育課程審議会の答申等でも明確にしていますが、非常に大事だと思います。その辺がボケていまして、ただひたすら入試の技術論ばかりに入り込むというのは必ずしもよろしくないので、そういう面では、役割分担の明確化が必要だと思います。
  その場合に、「到達すべき目標」と書いてありますけれども、今、高等学校までの12年間というのは、基礎・基本の徹底という側面と、それから個性を生かすということで選択幅を持った履修の拡大という、両面のバランスをもって発達段階に応じてやっているわけです。「到達すべき目標」という場合に、すべての生徒に共通に目標を到達させるという到達目標の共通的側面は何なのか。それから、特に高校ぐらいになりますと、それを踏まえて生徒一人一人が多様な選択をしていくといった場合に、「到達すべき目標」というのは必ずしも共通ではなくて、その生徒一人一人にとっての到達目標が当然あるわけです。そういう面では、到達目標の個別的側面は何かという、個と全体という面からとらえていかないといけないのではないかと思っております。
  それから、「(2)役割分担を踏まえての接続をめぐる課題」、「(3)役割分担の明確化に応じた高等学校教育と大学教育の連携の推進」、「(4)具体的な教育上の連携方策」と関係して、高校までかなり多様化・個性化が進みつつありますけれども、その場合の多様化というのは何も選択幅が拡大するという横の多様化だけでなくて、同時に能力に応じて、例えば高等学校において高度の内容を課すような科目も設置されているわけです。そういう横の多様化と縦の多様化、両面あると思います。それぞれの多様化が大学とどう接続していくかという視点が必要だと思います。例えば、縦の多様化で言うと、「(4)具体的な教育上の連携方策」と関係しますけれども、例えばアドバンストプレイスメントとか、あるいは大学と高校との一貫教育とか、あるいは特例措置等々あるかと思いますが、そういう観点も必要かと思います。
  最後に学力低下。これも大きな問題ですけれども、私は低下というより、「学力の分散化」というのが正しいのではないかと思います。当然、多様化においては学力というのは分散していく。そういったものにどのようにきめ細かく対応していくか。そうしてみると、大学も高校も全体を通した役割と同時に、個々の大学、個々の高校が持っている役割ということで、ここでも全体と個というものが視野の中に入っていかないと、大学というと十把一からげ、高校というと十把一からげという発想でなくて、共通部分と個の部分をある程度認識しておく必要があるかなと思います。

○事務局    先ほどの委員の方のお話の第1点で、専門高校と大学との接続に関してその状況がわかるような資料を出してほしいというお話がございましたが、推薦入学などで大学に進学をした専門高校生を対象とした調査を今実施中でございますので、しかるべき機会にこの場で御説明できるように準備をさせていただきたいと思っております。

○木村座長    いつごろになりますでしょうか。

○事務局    来月の中旬ぐらいにはまとまると思いますので、下旬ごろの会議には出せると思います。

○  大変いい「論点整理メモ」をいただきまして、かなり明確になってきたという感じがしておりますが、「(1) 」から「(4) 」までのことを通して、いくつか考えていることを申し上げたいと思います。
  まず、12年間の役割ということと大学教育の役割というこの問題の提起ですが、言葉で言えば小学校・中学校・高等学校を通しての教育というのは、スタートがいわゆる基礎・基本。例のLD教育、学習障害者の教育の流れによく似ているんですけれども、スタートはとにかく基礎・基本というのがあるんだろうと思います。LD教育ではアカデミックと言っていますけれども、読み書きそろばんというような基礎・基本をしっかりやるという、ここがスタートであります。
  それから、恐らく生徒によって多少の違いはありますけれども、中学校2年生から中学校3年生ぐらいのところで、いわゆる個性、自我の自覚が出てまいります。その時期に、自我というのは社会とのかかわりで成り立つんだということを、教育の中にうまく仕込んでいく必要があるだろうと思います。私はこれを「自我の社会化」と言っていますが、要するに個性とか、特徴が社会の存在として意味があるときに、初めて人間にとっての自己であり個性なんだということをそこできちっと踏まえてもらって、そこからいよいよ自分探しの旅が始まるんだろうと思います。
  この辺のところは中央教育審議会答申で既に触れておりますが、基本的には自分探しの旅を高校時代の一つの終着点と考えて、言葉で言いますと、自我、同一性とか、アイデンティティという言葉がありますが、つまり自分の個性を意識するという一つの側面と、その個性が社会的にどういう位置づけにあるのかということを意識するという、この二つが統合された形で自分探しの旅が始まるんだろうと思います。その始まりが大学へ行って実るものというふうに位置づけられるんだろうと思います。そういう意味で言えば、小学校・中学校・高等学校の役割はあくまでも自分探しの旅が基本にあるんだということを、学校教育の役割としては認識しておく必要があると常日頃思っているんです。
  その意味で言うと、大学教育というのは、それらの役割を学力とか、いわゆる基礎的な二次方程式を知っているとか知らないということとは別に、自分の生きる道が個性と社会とのつながりという意味で意識されているかどうかということを確認することが大事だろうと思っているわけです。その上に立って、大学教育というのは具体的に、三つぐらいの分類という話が出ましたけれども、私はそのとおりだろうと思います。大学は三つぐらいの役割に分かれてくるのかなと思います。一つは教育研究分野に特色を持つ。もう一つは高度の職業人を養成するという役割です。最後は、いわゆるリベラルアーツといいますか、教養を深めるという意味で、基本的な自分探しの旅について一応の決着を持った者が、そのことを確認するという作業を大学でやっていく。そこで社会に出ていろいろ活躍していくということをしながら、また必要であれば大学に戻るということを繰り返していく。そういう位置づけに大学の教育をしていくというふうに考えるべきだろうと思っております。
  そういう前提ですと、現在、高等学校までの教育課程が大幅に多様化する形で改善されて ―私は改善とあえて言ったんですが ―いるということは、間違いなく従来型の基礎・基本によって養成される読み書きそろばんというんでしょうか、こういった部分の力がある程度多様になっていく。これはやむを得ないことだろうと思います。むしろそれを前提にして、どういう人生をそれぞれの人が生きていくか。それをうまくいくようにするために学校制度はあるんだろうと思います。学校制度が先にあって、それに生徒が合わせるという考え方は、大学といえども今後はとるべきではないと思います。そういう流れであれば、当然、役割分担が明らかになり、そして大学における教育目標が明確になってくれば、それぞれがそれぞれにおいてしっかり力を尽くすことになっていくんだろうと思います。
  ただ、その場合に学力低下の問題で、こういう提言をしたいと思っていますが、今、アカウンタビリティーというか、とにかく多くても少なくても税金をいただいて教育をしている以上は、学校として、制度として説明する責任があると思うんです。この学校でどんなことをやれたかということを、いろんな形で世の中に報告する義務があるだろうと思っているわけです。
  したがいまして、12年間の教育をする高等学校までの教育の終結という形で、私の試案ですけれども、例えば各県単位の教育委員会とか、大学入試センター試験という形でやるのかよくわかりませんが、高校卒業の資格とは別に、12年間の教育でどれぐらいの基礎・基本の力をつけたかということについて、テストのようなものをやって、それを公表する。この部分は各学校にとってはかなりつらい話です。しかし、教育課程の多様化をしている国は、すべて何らかの形でこういったテストを導入しております。イギリスの場合は、サッチャー革命のときにそれが行われたわけです。同じように日本でも、12年の終わったところで、とにかくここまでは力をつけてありますということを、高等学校までの教育関係者の責任としてテストをして、その点を学校単位か個人単位かわかりませんが、公表するという作業はすべきではないか。これは高校卒業の資格とは別の問題として、そういったことを地域、地域の責任としてやる。大学の方は、その得点が分かるわけですから、それを活用することは、入学の際に学力低下があるということで問題があれば、入学させてからのリメディアル教育にこの資料は参考になるだろうと思うわけです。
  大学の場合は、高校までがそういった地域テストということで成果を公表されるのと同じように、大学もただ大学卒業というアカデミズムの学位だけではなくて、国際的な評価が得られるような卒業資格の各種のテスト、プロフィシェンシーテストとか、プロフェッショナルエンジニアテストとか、今、いろんな仕組みが生まれつつありますが、そういったテストが行われて、大学卒業というのはどういう内容を持っているんだということを社会に説明するという仕組みを前提として、学校教育制度という全体を、この時期によりよいものにしていく工夫をしてみたらどうかと考えているわけであります。
  当然、大学卒業の場合は年齢とかそういうのは関係ないわけですから、入学させるときには、卒業のときにそういう資格を取れるかどうかを判定の基礎として入学させるべきだろう。ただ、その資格はいろんな資格があると思いますので、大学は学位として与えるもの以外に、社会的に通用する資格、つまり横並びあるいは国際的に通用する資格を大学が用意して、ここまでは大学在学中に取らせるということを世に問う。その問うたことをもとにして、入学試験を工夫する。そういうふうにしてみたら、明るく、見通しがよくなるのではないか。
  関係者は抵抗がある話であります。高校の立場で考えると、そういったテストをして公表されるのはかなり大変だなと思いますが、イギリスでもサッチャー革命のテストについては、現在でも教員組合は猛烈な反対をしております。しかし、そういうことを公表しないでは通用しないのでないかと思います。ですから、イギリスでは労働党政権になっても、教員組合の反対を押し切ってテストの結果を公表しています。そういった視点を持っていかないと、これからは学校制度そのものに対する批判が強くなって、大変なことになっていくのではないかと思います。それは生徒にも、あるいはこれから次の世代を担う人たちにも不幸なことになると思います。
  そんなようなことを考えているということで、今の問題についての意見を申し上げさせていただきました。

○  「1. 各段階の役割分担の明確化」のところで議論の前提として、まさにここであるように、高等学校が到達すべき目標、あるいは大学が到達すべき目標、あるいは高校、大学の役割分担ということですが、私は若干極論的に申し上げますと、それぞれ高等学校、大学というものが、先ほど委員の方が触れられたこともそういうことかと思いますが、共通的に到達すべき目標とか、共通的な果たすべき役割というのは、かなり難しい話ではないか。―進学率が上昇というよりも、希望すれば入れるという実態となっている。そこに例えば量的な拡大をむしろ制限する方向に持っていくというような議論があれば別ですが、現在のままでいくとすればますますそうなってしまう。そして、大学側においても、自分の大学が目指しているものはそれぞれ持っていると思うんですが、特に私学の場合に経営という側面があるわけですから、定員は確保したいという実態がある以上、他の委員の方から三つくらいに分けられるというお話がありましたが、分け方にもよりますけれども、三つではきかないような実態ではないか。そういう前提に立つのか、それとも大学である以上、共通の目標、あるいは共通の役割があるのであってという前提に立つのかによって、これからの議論の進め方が随分変わってきやせんかと私は思います。むしろ私は前者の極論的な言い方を踏まえた上で、接続の問題なり何なりを考えていったほうがいいのではないだろうかと思います。

○  「論点整理メモ」では全体を大きく三つに分けられて、これは諮問事項にほぼ沿った形でありますし、議論の中で、小項目等については恐らく付加されたり補強されたりしていくんだと思いますけれども、全体として今日の段階で、このような形で出されているということについては大変よくできていると基本的に考えていることがまず一つです。
  それから、高等学校と大学の役割分担の明確化ということは、先ほどからの議論と私も基本的に同じですけれども、前回でしたか、九州大学の意見発表者のヒアリングの際のメモ等を通じて、私は基本的にああいう考え方に賛同したいと思っているんです。小学校・中学校・高等学校の12年間を通した教育と、それ以降の高等教育というのは、もちろんなだらかな接続をすべきですけれども、先ほど座長の説明にもありましたように、12年間の教育を受けて、同世代の約半数が、数%の増減はあるかもしれませんが、実社会に出て職業人になるということを考えれば、一応12年間で到達すべきものはあくまでも基礎・基本を軸にして考えるべきで、それ以降の高等教育については、完全に断絶するとか不連続ということは言いませんけれども、一応12年間で自立した市民として職業人になれる。高校を出たら社会人になるという人が半数いるということを前提にして、到達目標を置くべきではないか。
  18歳で高校を出たら、ある意味で自分の能力・適性に応じて高等教育を選択するということで、今の日本の場合は、高等教育、大学についても、ほとんど親のすねをかじって学費を出してもらっているわけですけれども、ある意味では諸外国のように自立して親元を離れて、将来、就職してから得た収入で返すということで、奨学金の在り方等についても従来のような考え方でいいのかどうかということについて考えていく必要があるのではないか。もちろん、ここで書くのかどうかは別にしまして、そういう意味で、今年度の奨学金制度は、有利子の部分ですがかなり見直されて、適用対象が大幅に今年の予算で増えている。そういう方向については非常にいいのではないかと思っているところです。
  なお、この問題と関連して、最近、若者について、日本、韓国、中国、アメリカ、何か5ヵ国ぐらいで共同研究されたものが出ていましたよね。ああいうものを見たりすると、これは他の委員の方がよく言われるように、日本人全体がある意味で自信をなくしているというか、そういうものの反映で、子どもが将来について希望も夢もないというような……。若者は本来的に言うと、もっと希望を持ったり夢を持ったりすべきだと思うんですけれども、どうも先行きの不透明感が強調されたり、たとえば、10年前には「日本がなぜこんなに成長したか」という本を書いていた方が、今度は「このままだと日本は没落する」という本を書かれておりす。何か全体的に危機感というのか、日本がダメになるということを強調される最近のマスコミの報道とか、いろんな書物が店頭にあふれているような状況です。
  21世紀の社会像、そこで求められる人間像みたいなものを ―何もかつて出た「期待される人間像」をイメージしているわけではありません。が、ある程度そういうものを、ここの中で議論して、どういうまとまり方をするのか、どういう公表をするのかは別にして、その辺のところが混迷しているのではないかということについて、最近のマスコミの論調を見て、私もある意味で危惧しているところです。総理大臣の「富国有徳論」の中での小委員会等もあるようですが、そこでどういう議論があるのか私も予測はつきませんけれども、中央教育審議会としても大学を出たらどういう人間になってもらいたいかということについては、大学審議会の答申でも書かれてはおりますが、もう少し具体的に若い者や国民がイメージできるようなことを、この役割分担の明確化の中で検討したらいいのではないか。
  大学については、最近、日本経済新聞に天野先生の記事が出ていましたけれども、「全入時代と学力崩壊」というような見出しになっていまして、大変ショッキングな表題のつけ方で、あれは日本経済新聞のほうがつけたのかもしれませんけれども、ある程度多様化して、他の委員の方がおっしゃるように学力が分散化していくことは避けがたい問題なので。特に最近、教育学者の方は学力問題をちょっとヒステリックに ―最近の本を見ると、教育的にどうということはここで申し上げませんが、ややヒステリックに感じるんです。学力観の違いみたいなものがあって、小学校・中学校・高等学校が今進めている新しい学力観と、大学側の先生方が自分の受けたときの教育を含めての学力観がまだ一致していないような感じがするので、その辺のところをもう一遍整理して、どういう形でかここの中で書いたほうがいいのではないか。
  大学は、他の委員の方のおっしゃるように、ある程度種別化していくことは避けられないのではないか。特定の銘柄大学と言われるような、かなり激しい競争が今後も続くであろうという大学と、一応競争はあるけれども、まあまあのところで入れるというところと、全員入学に近い、アメリカのコミュニティカレッジみたいなものと、大きく言えば三つぐらいに分極化していくだろう。それはもうある意味では避けられないんだろうと思うんです。
  そういうことを前提にして、高等学校と大学教育の役割分担を考えて、それのなだらかな接続をするための入試制度を考えていくべきではないかということを、「1.  高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」に関連して申し上げておきたいと思います。

○  まず、「各段階の役割分担の明確化」ということですが、各段階を通暁して眺めてみますと、これまでの教育の体制は、個の尊重に基づく教育が基本だったと思います。しかし、これからは『社会的個』の尊重に基づく教育を考える必要があるのではないでしょうか。より具体的には、「自立」と「自律」を基本を据えた社会的個に基づく教育が重要だと思います。「個の尊重に基づく教育」がモダンな時代の教育であるとすれば、「社会的個の尊重に基づく教育」というのはポスト・モダンです。
  こういう考え方に立って、各段階別の組織体制を見直しますと、例えば中学校・高等学校の一貫教学制度、それも3年制が二つ続くのではなくて、5年制とか、あるいは6年制への統合を考える必要があると思います。実際、今日すでに、私立校ですが中学校・高等学校と別組織でありながら一貫した教育体制を実施している学校もあります。
  なぜこれを主張するかといいますと、昨今、意見の発表能力やプレゼンテーションの能力が重視されておりますが、私が若い人に比較的欠けていると思われるのは、それ以前に深く考えるということで、そのためには、上級生と交わるときをじっくりもつことが不可欠と考えるからです。
  2点目に欠けていると思うところは、長い時間をかけて残ってきたものを尊重する精神です。断片的知識でなく、古典や偉人伝を時間をかけて読むことの大切さを思います。
  それは、人格形成や人間関係の処理力の陶治に関わります。
  それらを考えますと、現在の3年割りの中学校・高等学校の体制は本当によいのかと思います。中学校・高等学校においてそれぞれの完成教育理念があるわけですが、そのために3年丸々使えるかといいますと、実際には2年分しか使えないというのが実情ではないかと思います。
  次に、志願者全入の時代を迎えた大学の在り方を考えてみます。一つはリサーチ・オリエンテッドな大学と、プロフェッショナル・キャリア・オリエンテッド大学と、もう一つが広い意味のアート・アンド・サイエンス及びヒューマニティー・ディベロップメントに中心を置いた大学が生まれてくるのではないでしょうか。志願者全入の時代にあって各大学はそれぞれ独自の特徴を打ち出す必要が出てくるからです。しかし、上の分類もその一つの視点からにすぎません。その意味では自分の大学をそのどれか一つだけに位置付けてしまうのも問題です。結局は、建学の精神、伝統、教学カリキュラム、独自の教育方針案を積極的にPRしていくことにつきるのではないか。
  最後に“接続”の問題に関しては、大学と高等学校、高校と中学、あるいは中学と小学校との縦の交流がもう少し盛んになるとよいと思う。その意味では小学校から大学院まで持っている、いわゆる一貫教育校というのは大変うらやましい。交流と簡単に言いましても、どういう交流があり得るか。それは具体的なレベルで考えなければいけませんが、各学校間での教員交流、学生生徒交流を教学カリキュラムや課外活動プログラムの上に反映させていくことが必要だと思う。

○  最初に座長がおっしゃいましたように、大学進学率も増えてきたんだけれども、なお半数の人は行かない。今後はもっと増えるかもしれませんけれども、やはり高校で社会に出る人もいると思います。それから、大学は高校までの教育の上に、さらにどんどんと、それこそ世界のセンター・オブ・エクセレンスを目指してやるところもあるでしょうけれども、そうではない大学も非常に多い。そうじゃない多くの大学は、これもちょっと極論かもしれませんけれども、高校までの間にでき上がっているべき学力とか、マナーといいますか、先ほどもそういう趣旨の発言がありましたが、市民性といいますか、そういうものをさらに大学教育の中で完成させていくような大学も多いのだと思います。そういう意味から考えますと、高校までの12年間に、昔から市民完成教育というようなことを言われていましたけれども、国民として基礎をどうつくっておくかということは、きちんと目標として定めておき、できればそういうコンセンサスができる社会がいいのかなと思っています。それは進学状況がどうであっても、年齢的にいっても12年間教育を受けて18歳ですから、肉体的にも十分成長しているときですし、少年法とか、ほかの民法とか、刑法でも、その辺で一つの区切りになる年齢ですから、そこをきちんとしておく必要があるのではないか。
  具体的に言えば、一つはそれまでにやるべき学力のスタンダードと、人間のモラルのスタンダードと二つぐらいだと思うんです。学力のほうは難しいと思うんですが、特にここのところ多様化といいますか、その情勢にあわせて、ざっくばらんに言ってしまえばレベルを下げたような状態になっていますから、永遠にそれでいいともなかなか言いづらいでしょうし、といって今から、今まで少しやさしくし過ぎたから難しくすべきだとも言いにくいので、具体的にはなかなか言えないと思うんです。そういう面で、抽象的にも高校までの学力とか、高校までに人間として身につけるべきマナーとか、そういうことはきちんと言っておく必要がある。皆さんもそういうことをおっしゃいまして、私も全く同感でございます。

○  幾度かのヒアリングを通しまして私も確認したいことがございましたんですが、きょうのレジュメを見まして、「(1)各段階の役割分担の明確化 」についてですが、中学校と高等学校の接続につきまして、埼玉県の中学校の意見発表者のときのヒアリングを私は聞きまして思ったんですが、今も出ました高校入試を目前に控えての進路指導について、今日の中学校の教科日程の中で、自己適性を探す時間といったらいいのか、目的を持って進路を決める、見詰め直す時間は、少なくとも計画的・継続的な教育指導に待たざるを得ないという話があったのが心に残っておったんです。そういった話からわかるように、中学校の立場から高等学校の接続等についての問題は、今も言われておりますが、中高一貫教育のより一層の推進を望まざるを得ないような、もうその時期に来ているなと実感いたしました。
  また、今現在の高校入試の入学者選抜の在り方が非常に大きな問題であることも浮き彫りにしたように思いました。保護者の意識も多様化してきておりまして、どこでも言われておりますが、少なくとも高学歴志向を望んでいないことも、あるデータからもはっきり示されているというお話もありましたし、それよりも学問を通しての人の生き方とか、自己実現を求める方法が大衆化、多様化してきていることに視点を向ける必要があるように思われたりもいたしました。
  また、前回、九州大学の意見発表者は、進路指導と職業教育についてお話をしておりましたが、「3. その他の関連する施策」のほうで、私も気がついたところで意見を述べさせていただきたいと思います。

○  今回の「論点整理メモ」ですが、四つに大変クリアに整理されていまして、ロジカルで、これ自体としては結構だと思います。私の感想としては、このようにまとめることができたらすばらしいということです。
  といいますのは、9回のヒアリングを通じてわかってきたことは、各段階の役割分担がいかに不明確化しているかということではなかったかと思います。高校進学者が増え、大学進学率が高まるという中で、各段階の役割分担が次第に不明確になっていくのは当然のことでもあります。これを明確化するのは極めて難しい。ですから、今回の中央教育審議会においても、「初等中等教育と高等教育との接続の改善について」というふうに「接続」というキーワードが持ち込まれたのだ、もう少し柔軟に学校間の関係を考えようという認識でスタートしたのだと勝手に考えておりました。
  第2回目に私がお話をさせていただいたときに、話の組み立て方に少し疑問がある、役割分担を明確化した上で接続を論じるべきではないかという御質問をいただきました。全くそのとおりですとお答えしたと思いますが、現状分析を進めていくと、役割分担を明確化するのはいかにも難しい。この現実をどういうふうに解くのか。そのことからこの審議会の議論は始まっていくのだろうと思っておりました。したがって、論点整理として出てきた内容がこのように整理できたら良いという願望を示しているのか、それとも9回の議論を通じて到達した議論をこのように整理されたのか、そのどちらか理解しかねるところがあります。もし、「各段階の役割分担の明確化」ということが議論のまとめであるとすれば、一体、どのような内容を想定してのことなのか疑問に思います。

○  非常に難しい問題ばかりで、ほとんど自信がないのですけれども、今の委員の方がおっしゃったことに続けて申しますと、役割の明確化というのを抽象的に述べたり書いたりすることはできないではないと思います。小学校の基礎の上に中学校、中学校の基礎の上に高校というように書けるのですが、それは極めて漠然とした、あるいは抽象的な言い方でありまして、具体的な目標なり水準なりを出そうとすると、途端に困難に陥るというのが事実だと思います。しかし、そうは言いましても、最初の9年間もしくは12年間で何かのゴール設定が必要だということは、私も思います。基礎・基本とおっしゃった方もあるし、あるいはまた別の言葉でミニマム・エッセンシャルズとも言えるわけです。
  かつて国民国家 ―今でもあるわけですけれども ―が中心的な役割を果していたときには、「国民教育」と言えたかもしれません。今ならもう少し緩やかな「地球市民」でもいいですけれども、そういうふうな最低限のゴールはある程度出す必要がある。ただし、そのためには、いろんな意味で柔軟性が要るんだろう。つまり、入学の時期をあまり早めるのは問題かもしれませんけれども、遅らせてもいいし、それから卒業の時点、例えば12年間教育を受けたというのが、ストレートで12年間でなくてもよくて、もう少し時間をかけてじっくり学ぶ人がいる。あるいは、途中でアルバイト、ボランティアでもしてまた戻ってくるということがあってもいいし、さらには一人一人、特に遅れがちであるとかいろいろ悩む人には、個別の手法が要るだろう。そのように個人の水準で見ますと、もっと時間をかけてもよろしい。出口と入口の時期が少々違ってもよろしい。また、一人一人の学習の仕方に応じた援助を考えて、「最低ここまでは」という線を、難しくても何とか打ち出す必要を感じます。ただ、これが上から頭ごなしにきたのでは、学習者のほうにその意味が十分にわからないということもあるし、子どもを支える家族なり周囲の人も、それはお上かどこかで決めたことで、これを到達しないといけないそうだというのでは、これは力になるはずがない。本人が本当に納得でき、周囲の者も応援できるような、意味が明確なゴールを何とか打ち出せないかというのが一つでございます。非常に難しいと思いますけれども。
  もう一つ、前から私が思っていることがあります。変な言葉になりますけれども、「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」というのがよく言われたのですが、「何とかの教育倒れ」というようなことがあるのかないのかですね。これは私は全然わからないのですけれども、個人の水準で考えても、あるいは個人が属する小集団である家族で考えても、また場合によったら国家という水準でも考えられるかもしれません。例えば高等教育にどれぐらいの人が志望して、そこで学ぶか。これを本当に自然に任せておけばいいという考え方もあると思います。たぶんそれしかないのだと思いますが、他方でどのぐらいまでが限界あるいは許容範囲なのか、こういうのを専門家がおっしゃっていただいたら、私はありがたいと思うんです。生産人口という言葉も、もっとフレキシブルに考えたらいいのでしょうけれども、ある年齢層の人々のうちのほぼすべてとは言いませんけれども、例えば6割とか7割の人が高等教育あるいはそれに近いような教育を受けている。これでうまく持っていくならそれに越したことはない。しかし、もう少し冷静な判断も要るのかもしれない。この点に関しまして私は全然わかりませんので、お教えいただけたらと思います。

○  私は「1」の「(4)具体的な教育上の連携方策」の、特に大学までの教育におけるカリキュラムの系統性、連続性について、意見を申し上げさせていただきます。
  これまでの初等中等教育の教育課程の教育内容の改善は、昭和30年代におおむね我が国の初等中等教育の教育内容の基準の大体の姿、原形ができたと思いますが、それ以降、各学校段階を前提にしてカリキュラムが構想され、人的にも、組織的にもそういう形で行われてきたと考えることができます。そのため、私の印象では、中学校と高等学校、それから高等学校と大学は当然でございますが、接続や一貫性がいろいろな研究会や学会等で叫ばれるんですけれども、なかなかその説明がつきにくいということが指摘されるわけでございます。高等学校教育における学科の再編、横の複線化や中高一貫教育の導入等、中等教育の再編が進んでいくということも視野に含めまして、大学までの学校教育のカリキュラムの連続性、系統性を研究する場と申しますか、そういうものが設けられる必要があるのではないかと思います。今回、学習指導要領を改訂したばかりでございますので、将来ということになるかと思いますが、中央教育審議会の第一次答申の中には、将来における教科構成の在り方について研究するということも指摘されておりますので、そういうことと関連させて、将来に向けて、小学校・中学校・高等学校・大学のカリキュラムの連続性、系統性を研究する必要があるという点は、明確にしておく必要があるのではないかと思います。

○  高校の立場で、「(2)役割分担を踏まえての接続をめぐる課題」の「いわゆる学力低下の指摘をどう受け止めるか」ということについて、私の考えを述べたいと思います。
  高校に対して、学力低下のことが昨今のマスコミでいろいろ取り上げられております。その点についてですが、それらの記事を見ますと、学力の規定がないままに、学力低下と一般的に言っているのではないかと私は感じます。例えば、大学関係者が「物理も学んできていない」「生物も学んできていない」という側面で学力低下を言う場合があります。それは入試において試験問題を課さなかったので、生徒たちはそれらを学習しないで入学しているのです。
  もう一つは、大学へ入学しても学ぶ意欲がないとか、積極性がないとか、論理的思考力がないという知識の量のように測ることができない、いわゆる新しい学力観に基づく学力についても話題にされていますが、そういう指摘は受けとめてもよいと思っています。そのように区別をして発言してもらわないと困ります。これまでの会で、大学生の学力が低下したということで、実態を話されましたが、それは科学技術が進歩し、大学側の求めるレベルが高くなったのではないかと私が発言したことがありますが、大学で求める学力のレベルにも問題があるのではないでしょうか。
  現在、大学に入学する生徒のレベルについてというと、レベルの高い生徒についてはあまり変わっていないと思います。落ちているというふうに感じるのは、約50%の生徒が入学するようになりましたので、以前の高校進学率が5割、大学進学率が1割程度のときの優秀な生徒たちと比較する ―そういう目で大学の教授はすべて見ていないと思いますが、そのときのレベルで見れば、確かに今大学へ入学する生徒のレベルは下がっていると思います。その辺を、整理をして学力について発言してもらいたいと思います。
  これはお願いですが、現在、97%の高校進学率です。どんな学校種、どんなレベルの高校においても、大学へ進学を希望する生徒はいます。いわゆる教育困難校と言われている学校でも大学を目指し、大学に入学しています。専門科高校においても14〜15%の大学進学率で、進学率は年々高まってきています。大学進学には不利な専門教科を多く学習して、普通科目を多く学んでいませんが、生徒は大学へ行ってもう少し勉強したいと思っています。ですから、現在のように多様化した高校の生徒を、それぞれのレベルで引き受けてくれる大学の接続をまず基本に考えていただきたいと思います。
  議論の流れをずうっと聞いていますと、現在の高校生の実態に合わせた大学を考えていかなくてはならないという議論が進んできておりますので、私はほっとしています。必ずしも研究を主体とした大学だけがあるのではなく学びたいという生徒を引き受けてくれる大学が、これからたくさんあらわれてきてくださるということについて、感謝しています。接続については、多様な大学入学者選抜方法を工夫していただければと思います。
  高校生の進学率がどんどん高まってくる中で、コース制とか、習熟度別学習とか、また、学科を改編したり、様々な取り組みをしてきました。このことについて大学にあまり理解してもらえなかったと思っています。現在、大学への進学率が高まって、多数の生徒が大学へ入学するようになって、初めて学力低下のことが話題になってきたと思っています。個性を生かしたいと目覚めた生徒について、受け入れてくれる大学があればよいと思っております。多様な大学ができることをお願いしたいと思います。

○  「(1)各段階の役割分担の明確化」に関連して1点申し上げたいと思います。それぞれの役割の明確化は必要なことだと思います。今、例えば小学校、中学校、あるいは高校を見ましても、それぞれの学校の役割を明確化し、学校でできる部分、それから家庭でできる部分を明確にしておこうということが進んでいるわけでございます。役割分担とか、明確化がされませんと、学校自身も開かれませんし、質も高くならない。
  そういう中で、大変難しいかもしれないけれども、大学の目的とか、目標は重要だと思います。目的、目標というのはそれぞれあったと思いますが、一つの手段のために、目的とか目標と実際とが乖離してきている部分がかなりあるのではないかと思います。そういう流れの中で、もう一度、大学の目標とか、目的を、十分議論をするべきだと思います。目標とか目的が十分議論されないところに、手段とか方法論はないと思いますので、ぜひ大学とは何なのか、大学の役割は何なのかというものを、ここで十分議論してほしい。それでもって明確化をしていただくことは大切なことだと思います。
  その中で、小学校・中学校・高等学校12年間で、もし教育がそこで終わったとしたら、子どもたちはどうするだろうということになるわけでございますが、職業に就く人が大多数だと思います。ところが、この間の九州大学の意見発表者のお話ですと、52万人ぐらいの子どもたちが職に就かないでいるという実態があるわけです。もしそこに大学がバイパスみたいに入ってきた場合、そこを通ったとき、バイパスみたいな形でもって、ただ職に就くのを遅らせるだけでは意味がない。将来的には職業をいろいろ選択していくわけでございますので、そこに明確な大学の存在意義がなければ意味がないと思います。そのためには、日本の国として、大学とはどういうものか、どういう者を育てるのかという、役割分担は明確にしておく必要があると思います。
  個性の多様化とか、個の重要性の余りに焦点がぼやけて、目標とか目的がなかなか明確にできないところが多々あるわけでございますが、少なくとも学校教育においては、明確な目標とか、目的、役割は論議すべきだと考えております。

○  半年間ぐらい接続についての議論をずうっと聞かせていただいて、この「論点」を見まして思いますのは、先ほど他の委員の方がおっしゃられましたけれども、一番最初の「各段階の役割分担の明確化」ということの意味ですけれども、極端に言えば、「各段階の役割分担の不明確化」ということで書き出してもいいのではないかというような気がしております。というのは、「明確化」として書きますと、普通の人は高等学校はこういうもの、大学はこういうものというはっきりした線が引るというようにどうしても思ってしまうわけです。実際のところは、明確化できるのは本当に小さな分野のところであって、例えば一つの高等学校、一つの大学をとった場合に、例えば学力ということだけで比べたときには、今ある大学に行っている生徒よりも上の力を持っている高校生はたくさんいる、あるいはそういう高校生がたくさんいる高等学校があるだろうという気がします。「明確化」でいいんですけれども、申し上げたいことは、差をつけることができないような状態になっているというのがまず前提であって、その中で、高等学校として最小限持たなければいけないことは何かという、そのような考え方がはっきり見えるような書き方でないといけないのではないだろうかという気がいたします。
  2番目に、「(2)役割分担を踏まえての接続をめぐる課題」のところの学力低下の話ですけれども、このごろ新聞等で学力の低下というのがキャンペーンのごとく取り上げられていて、テレビでもこの間やっていました。そういうことが今、表に出ているだけに、本当に学力が低下しているのかしていないのかということをはっきり説明する義務があるだろう、中央教育審議会の報告書ではそこをきちんと触れるべきであろうという気がします。先ほど来おっしゃられたように、学力の意味が違うとか、いろんなことがたぶん言える だろうと思いますが、どういうふうに考えたらばこうであるということを、いずれにしても明確にすべきであって、「分散化」という言葉を他の委員の方がお使いになられましたけれども、分散化しているということだとは思いますけれども、じゃ平均のところはどうなったか、分散化しているからには、上のところは前よりも上になっているということがなければいけませんので、評価はきっちりすべきだろうと思います。
  高等学校も大学も多様になってきているというのは本当にそのとおりで、質も、行っている生徒も違うようになっているわけですから、それを正面から言うべきであって、大学として物理をやってきた人が理学部、工学部に入ってほしいということであれば、その入学試験を課すことを当然やるべきだと思います。たぶんこれからの時代では、一部の大学を除いては、そういう難しい試験を課すところには生徒が集まらなくなるというか、志願者が減ってくるだろということに結果としてはなって、そういう大学は厳しいことになると思うんです。過渡期にいろいろ混乱があると思いますが、それを長期的に変えていくというのは、大学の評価をきちんと行って、そういうところできちんとした教育をしているところが評価をされるようなことになってきて、それが国民に見える形になることが大事だろうと思います。物事がだいぶ変わってきているんだということを、正面からきちんと言うことが大事だと思います。

○  ちょっと観点を変えてみますと、アーティキュレーションというのは、学校と学校との間のシステムをどのように円滑にするかということで、そこで入学試験の問題や選抜の問題、あるいは調査書をどう評価するかという具体的な問題があるわけですが、接続というものを外にあるものとしてではなくて、生徒の内側の問題として考えた場合に、今の高校生が大学に進んでいくプロセスの中で、そこのところはどうなっているんだろうということもちょっと考えてみる必要があるのではないかと思うんです。
  早い話が、大学へ入ったけれども、それが自分に全然合わなかったとか、何のためにそこへ来たかわからないということで、結局それは、入りさえすればよかった、あるいは親が満足して、自分のプライドも満足できるようなところへ入るという、形さえつければよいのであってという、そういうところがないわけではなくて、入学試験に受かって入るためということを動機にしてしか、高校での教科や科目の学習が行われていないところに問題があるのであって。例えば中高一貫校なんかへ行ってみますと、中学校の先生は高校のカリキュラムを意識した授業をやります。例えば理科の授業をやっても、中学校ではここまで勉強するけれども、高校へ行ったらこんな進んだことをやるんだよという、そういうことの情報を生徒に与えていきますと、生徒は自分の教科の学習について、「あ、高校へ行けば、もっと進んだことができるんだ」という夢を持つわけです。
  学校教育の基本にある教科や科目の学習というところで、ただ入試の点数を取るための学習にしか集中できなくて、そういう高校時代の学習が大学へ入ってからどういうふうなところへつながっていくのかという、時間的な展望の中で教科や学習をやっていくような仕組みをどうつくっていくのかというところも大事ではないかと思います。そのためには、高校の先生は、大学、学部へその生徒が入ったら、どういうふうにつながっていくのかということで、生徒の側もその大学のどの学部へ行ったら、どういう勉強ができて、どういう仕事に就いていけるんだろうということも考えていかなくてはいけないのではないか。アーティキュレーションというものを、むしろ生徒の側の問題として、そういう視点からとらえるような具体的な装置をどのようにつくったらいいか。そういうことが大事ではないかということが一つであります。
  もう一つは、大学の側からいきますと、大綱化が行われて、いわば教養教育といいますか、そういうものが全体的にスリム化されてしまって、専門が下へおりてきているということになるわけですけれども、その辺のところをどう考えたらいいのか。端的に言えば、新しい教養主義みたいなものを考えて、そこで専門の基礎になるような、従来のあまり人気がなかった教養とはちょっと違った、例えば大学審議会で言っているような課題探求能力の育成を、大学に入学した時点でどのように組織していくのかという観点から、大学のカリキュラムを考え直してみる必要がある。そのことが高等学校における教科・科目の選択とか、履修とどのようにかかわるのかという観点から、両方のカリキュラムの在り方を考えていく必要があると思っております。
  先ほど他の委員の方がおっしゃっておりましたように、大学における教育と高校におけるカリキュラムの履修を、わかりやすい形でどのようにつなぐかというところの議論もあまりないし、その研究もない。そのために、先ほどから出ていますような、医学部へ入っても生物を全然やっていない。それは入試科目にも指定していないし、大体今の高校のカリキュラムでは、物理か化学かどっちか取れば卒業できるわけですから、生物を何も知らないけれども、医学部へ入ったという者がいるわけです。そういうところは子どもが考えてもわかるほど変な仕組みになっているわけです。そういうところをきちっと変えていくといいますか、大学からすれば試験科目にしなくても、履修科目としてはそれを指定しておくとか、そういう努力は当然されるべきです。大学の新しい教養教育といいますか、教養主義みたいなものと、高校教育におけるいわば市民教育というんでしょうか、そういうものとのつながりをどう結ぶかという視点も必要ではないかと思います。

○  中等教育のありようについてのあいまいさ、あるいは不安定さは、実は世界共通の悩みの種になっている問題だろうと思います。日本もその例外ではないという気がします。ただ、学校教育法などを見ますと、高校、中学校、小学校、それぞれの役割について、一応の定義づけがされているところですけれども、それを仮に完成市民教育というふうに高校教育の目標を呼ぶとすれば、この50年間、完成市民教育との兼ね合いで高等学校の在り方を論じたり改革をしようとしたことは、一度もないのではないかという感じがします。その意味で、不明確なものを明確化していくためには、一度原点に立ち返ってみて、初等中等教育の在り方を見直していく作業からスタートする必要があるのではないかと考えます。
  例えば、教育課程審議会の答申の中にも、それほど多くは言及しておりませんが、「幼稚園から小学校、中学校、高校のそれぞれの学校段階の役割の基本」というスタイルで、一応の整理は図られておりますし、一つの目標がここにはあるんだろうと考えます。そういうことが一つの意見であります。
  同時に、もう一つ、学力低下論ですけれども、この学力低下とは一体どのような現象を言うのかという交通整理は、大変に重要なことだろうと私自身も考えます。世に言われている学力低下論を大ざっぱに整理しますと、その第1は、知識の量の問題だろうと思います。二つ目に、選択の拡大もしくは多様化のミスマッチによる様々な出来事、先ほどから話題になっていますように、生物を取ってもいないのに医学部に行くとか、物理をやっていないのに工学部に行くという現象がある。これはよく考えてみると、常識の問題なんですね。本人もしくはその親、あるいは高校の進路指導の先生、あるいはそれを受け入れた大学を含めて、非常識に属することが堂々とまかり通っているということですから、この部分は常識のレベルで毅然とした対応の仕方が必要だと思います。
  ただ、気になりますのは、様々な調査であらわれている論理的な思考力であるとか、判断力もしくは表現力の部分においては、様々なデータもそうですし、どうやら落ちているのではないかということは言い得ると思うんです。そこの部分を、新しい教育課程の基準もしくは学習指導要領は重点的にとらえて、教育内容の量は大まかに言って3割ぐらい減るけれども、それを補って余りある力をつけていこうというのを趣旨としているわけですから、この部分も一つ参考になるものではないかと考えます。

○  いろいろな感想、意見がございまして、なかなか整理して申し上げられないかと思うんですが、なるべく努力いたします。
 私は、基本的には1億3,000万、日本の人口のすべての人が、何らかの形で高等教育を受けるというのは大変結構なことだと思います。それは労働条件とか、経済状態とか、いろんな条件の上で可能ならばということがつきますけれども、それが大前提です。
  そうしますと、日本人がたくさんいるその一人一人に合わせた教育というものは何だろうか。これは初等中等教育から高等教育に至るまでのすべての教育に対して一人一人がどのような恩恵を受ければいいかという発想になるわけでございます。今、我々が議論しておりますのはインスティテューショナルといいますか、教育の制度の面から議論しておりまして、他の委員の方が先ほどおっしゃった子どもの視点からの見方を入れて、もう一度制度論を整理して、最終的には制度論に戻って、つまり制度をいかに並べればいいかという議論に戻ればいいと思うんです。そういうことで、個人の立場に立ってみますと、今直ちにこの事柄を実現するということではなくて、個を中心にした見方から制度を考え直して整理するというための一つの思考のプロセスとお考えいただきたいので、このまま実行するのはなかなか難しいことがあると思っております。
  まず、一人一人の子ども、あるいは人間のポートフォリオをつくる。つまり、人間というのはそれまでに何を勉強し、何を経験したかの集大成ですよね。小学校のときにどの科目とどの科目、小学校・中学校ですと比較的共通の学科の勉強をする。そうすると、学問的な面では、それぞれの科目の程度の差の集合体になっている。そのほかに家庭があり、社会生活があり、お得意な場面がありますから、ものすごく複雑な情報の集合体です。全部の子ども一人一人が情報の集合体になっているわけです。それがトータルに一つの人格の中に入っている。
  そういたしますと、一人一人の人のポートフォリオを、一つ一つ発達段階に応じて経験を積み上げていって、人生最後に完成するという絵になります。そういうものを完成させるための教育機関側も、一つ一つポートフォリオを持っていなければいけない。私立のある小学校はその学校のポートフォリオを持っているし、公立でもそれぞれ地域に応じたポートフォリオを持っている。もちろん、中学校、高等学校、大学、それから社会通信教育からいろんな教育手段があります。放送大学もある。みんなそれぞれの教育のプロバイダーとしてのポートフォリオを持っているわけです。そうしますと、日本の国民一人一人のポートフォリオに合うようなインスティテューショナルなポートフォリオを持ったところへうまくつながればいいというのが、一般論の話でございます。
  それをグーッとインスティテューションを運営するために、ある程度まとまりを持たなければ効率が悪いとか、効果が上がらないということがあって、学校制度というものができていると考えますと、そこのところで小学校・中学校・高等学校12年間、大学との間で接続をどうするか。その後、社会通信教育とか、いろんなものまで含めた教育手段との間の接続をどうするか。人によっては、ある能力についてのポートフォリオを満たす時間がいつ何歳になるか、それがどこでだとか、どんな手段でだとか、いろいろ選べるわけです。小学校、中学校においても、子ども一人一人のポートフォリオがあれば、理想的には「A」の子どもに対する教育内容はこれであって、それに必要な適切な教育方法はこれであるというような個人個人の処方。お医者さんが一人一人の病気の診断に対して一人一人の処方を出すように、子どもが一人一人の知識なり、技能なり、社会性なり、意欲なりのポートフォリオを持っていて、それに合わせた診断をして、教育内容、教育方法を合わせるというのが理想の状態ですよね。似たような子どもたち、共通性のある者をいろいろ集めて指導する。
  それに近づけるためには、高等学校まで12年間ぐらいの間を一貫にしまして、その中はノングレードにしてみたり、学制を緩やかにというお話もありましたけれども、地域によって6・3・3制にしたり、6・6制にしたり、今度は6・6は認めたわけですから、地域によっていろんな組み方を認めというような柔軟性、飛び入学も高等学校・大学で認めてきているわけです。先生側ですと、ティーム・ティーチングをやれるわけです。いろんな組み合わせがある。もちろん、それは学力だけのポートフォリオではありませんから、この子はスポーツクラブへ行ってスポーツをやらせて、集団の精神をつけろとか、そういう内容、目標、方法も出てくるわけでございます。そういうものの一貫としてアドバンスドプレイスメントとか、大学のリメディアル・エデュケーションとか、あらゆるものが位置づけられてくるわけだと思うんです。
  そうしますと、学力低下なんて言っていることは一切おかしな話になりまして、今までお話が出ていますように、学力というのは、従来、5割高校、1割大学とおっしゃっていたその時代から後を引いていた、いわゆる知的な知識量を測る学力検査での一元的な評価を学力と規定しているから問題なのであって、今、我々が育てようとしている生きる力を測る。例えば、今、OECD/CERIでは御存じのようにPISAプロジェクトというのがあって、生きる力を測るような評価問題を世界的に考えているという話を聞いておりますが、そういうものがもし出てきますと、いわゆる新しい生きる力で出てくる学力観が出てきます。そういう学力に向いた大学も恐らくあるだろう。旧来型の知識、研究に向かうような子どものポートフォリオを満たすようなポートフォリオを持った大学があるだろうということになってくるのではないかと思います。
  そういう多様な個人個人の子どもと、多様な教育、インスティテューションとの組み合わせを考えてみるというようなことを頭に置いて、実際問題としては、この5年間は指導要領がありますし、大学審議会の答申がありますし、高等学校・大学の役割は決まっている。明確になっているんですよ、5年間は。ただ、平成18年度以降、この次の学習指導要領ですね。今度の指導要領で卒業生が出て、それらの卒業生が入試を受けるとき以降の高等学校・大学の役割を今議論するのは、それは意味があると思うんです。しかし、この5年ぐらいの間は、大勢の知恵が集約されて、しかも現在動いている。学習指導要領と大学審議会答申等々でイメージが明確になっておりますから。その延長で物事を考える部分と、その先に小学校・中学校・高等学校・大学はいかにあるべきかを考える部分と、少し区分けが必要ではないか。将来になると、今のポートフォリオ的な考えがもっとずうっと出てきて、学制が変わるとか、そういうふうになると思うんですが、当座の5年間は今ある延長として、インスティテューションを整備しつつ、現在動いている教育体制の慣性がありますから、それを上手に将来の平成18年以降につなげるような形の改革を考えることが大事ではないかと思っております。
  きょうの「1. 高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」の「(1)各段階の役割分担の明確化」「(2)役割分担を踏まえての接続をめぐる問題」「(3)役割分担の明確化に応じた高等学校教育と大学教育の連携」「(4)具体的な教育上の連携方策」、それから「1.  高等学校と大学の役割分担の明確化と両者の教育の連携」「2. 高校と大学の接続を重視した大学入学者選抜の改善」「3. その他の関連する施策」という大きな分類で最終的に整理するということは、今の時点で非常によく項目を立てていただいていると思いますので、そういう分類へ持っていくための思考のプロセスとして、今のような見方から制度を検討するとどうなるかということも考えていただければありがたい。考えてみたいと思っております。よろしくお願いいたします。

○  先ほどの役割分担の明確化ということに関連して、これは「不明確化」と言ったほうがいいという他の委員の方の御発言は、適切な部分が確かにあるんですね。それは古典的な意味での学力というようなことで明確化しようとしても、全く無理な話で、現実に私どもの学校にも、大学で教えている高校の先生がいるんですけれども、そういう人に聞いてみると、高校の方がよっぽどできるとか、そういう話がたくさん出てくるわけです。そういう意味では、明確にさせることは誠に難しいと思うんです。はっきりしていることは、年齢上の違いがあることは事実でありまして、年齢による精神発達上の役割分担ははっきりあるわけです。もう一つ言えるのは、そこに基づく生徒個人としての自分の人生に対する意識も、年齢とのかかわりでかなりはっきりさせられる部分だろうと思います。その辺に限定して、役割分担を明確化するという作業を進めていかないと、不明確化ということで、じゃほっとけという話になりかねないわけでありまして、問題はそれでは解決しないとはっきり思います。
  というのは、子どもたち自身が、まさに議論の中に出てきているように、不透明性、いわゆるポスト・モダンの特徴といわれることで、自分たちの生き方に不安感を強めている。これは諸外国との比較で、特に日本はそういう傾向がはっきり出ているんです。その点で言えば、先ほど私は「自我の社会化」ということを申し上げましたが、「自我の社会化」の最終的な目標はセルフ・エスティームというんでしょうか、自尊心をいかに強められるか。自分が生きているということは、社会でどういう位置づけがあって、社会が自分を要求しているんだという意識がはっきりしてくるということが、18歳年齢で非常に大事なところなんだろうと思うんです。それは若過ぎてもだめだし、20歳や25歳になってそんなことを言っているのも、ちょっとどうかなという気がするんです。ある年齢で、そういうはっきりした部分については明確な役割があるんだということを確認する必要があると思います。
  現場にいる立場からしますと、そんなことを言うと問題があるんですけれども、ある意味で、学力に関しては、学校なんていうのは大したことはできないんです。要するに、本人がやる気になっているかどうかで決まります。大学の先生もそれは実感としてお持ちだと思いますが、いかに本人がそう思っているかということで、出てくる結果はものすごい差になります。そのいかに思っているかというところに関しては、年齢相応について学校としての役割がある。それは集団でやるということの意味が出てくる部分があるんだろうと思うんです。そのように整理すると、不明確化という形ではなくて、何か明示ができるものがあるんだろうと思っています。

○木村座長    いろんな御意見を御出しいただき、大変内容の濃い議論が出来たと思います。役割分担というのが明確化できないのではないかという御意見と、最後の委員の方のしなければいけないという御意見、両方出てきたように思います。
  それから、御意見として多く出てきたのは、大学についてです。お四方から、種別化していくことは避けられないだろうという御意見が出されました。種別化ということと、高校までの多様化をどう結びつけるかということで、割合議論ができるのではないでしょうか。
  それから、教育の目標みたいなものを示すべきであるという御意見が出ました。私はできるかどうかわからないけれども、やはりこれを示してやることが、今の若者には必要ではないかという気がしております。
  それから、何人かの委員が言われた学力の問題です。私も最近、盛んに反論しているのですが、この中にもいらっしゃるので申し訳ないのですが殊に教育学者がどうもヒステリックになっているように思います。最近低下したと言われる学力というのは、委員の方がおっしゃったように昔の古典概念の学力ではないでしょうか。私はずっと教育の現場にいまして、大学院の特別選抜というのをやってきました。私どものところでは力学と数学のまじったような問題と、もう一つ、英語の問題を出します。いわゆる英作文と言われるものについて、極めて口語的なものを出すと、私の時代に比べたら今の学生さんのほうがはるかにできます。とても私どもが習ってないような表現が出てきます。また、学部の入学試験についても、過去20年ぐらいの英作文の問題を並べてみると、最近のものはものすごく難しいのです。とても私どもができないような問題が多いのですが、それに見事に答えている学生が増えています。
  もう一つ、これは学力判定には出てきませんけれども、コンピュータに関する知識についてです。とにかく最近の若い人は、ほとんど全員と言っていいぐらい頭の中に全部マニュアルが入っているのではと思えるくらいに知識が豊富です。そういうことで、何を学力と言うかということを真剣に考えなければいけないと思います。
  もう一つ、私、英国で、たまたま大学院の学生の指導をする機会がありました。その時彼らの数学の知識の低さに驚いたんです。これはオックスフォードでもケンブリッジでもそうです。例えば、これは習ってないからしょうがないんでしょうけれども、複素関数論については英国の大学の学生はほとんど知らない。
  ところが、そういう分野を習っていない学生の中から、とんでもない高等数学を使って仕事をする学生が出てくるんですね。結局、自分なんですね。英国の学生でいうと、個々の知識はあまりないように思うのですが。先ほど御指摘のあった論理的な判断力とか、思考力とか、議論をする力は、これはこっちの英語の引け目があるのかもしれませんが、何か彼らの方が優れているような気がします。彼らは自分で考えないとそれが価値でないと思っています。

○  皆さん率直な御意見で感銘を受けたわけでございますが、この接続の問題について、私が感じていることを御参考までに申し上げたいと思います。
 この接続の問題というのは、単に大学の入学試験をどうするかという問題ではなくて、結局、いろいろな御意見がございましたが、今、日本がやらなければならない教育改革の集大成というか、そういうようなとらえ方をする必要があるのではないかと感じているわけであります。
  それから、12年間というお話が先ほどから出てきておりますけれども、1960年代から幼稚園や保育所に入る子どもたちが50%を超えまして、恐らく今9割ぐらいいっているんですかな。彼らは小学校へ行く前から塾へ行ったり、あるいはスポーツクラブに連れていかれたり、幼稚園、保育所へ行ったりしているわけであります。自分も孫がおるものですから、12年間という数字は、考えようによっては14年間とか、あるいは15年間ぐらいに考える必要があるのではないか。そういたしますと、14〜15年間に蓄積されたものが一つの集団になりまして、そして大学にかなりの学生が入っていくということになるわけであります。その接続という窓から、彼らを眺めるということと同時に、むしろ接続する窓から後ろのほうを眺めてみる。何を言っているのかというと、大学側が要求するものは何かという問題がまずありまして、その背景には、大学は非常なスピードで変わりつつあるという問題があって、そしてその大前提に世界史的な変化、あるいは世界史的な変化の中の日本の変化があるのではないかと私は思っております。つまり、接続という窓を通して、後ろと前をまず眺めてみるという対応が必要ではないか。
  これは何人かの人たちから、時代の変化に対応して大学はいかにあるべきかという論議をやるべきだ、どういう理念を追求すべきなのかというお話がございまして、私も全く同感でございます。ユニバーシティーというものが、いろいろ見ておりますと、マルチバーシティーのようなものに変質していく。かつてのドイツ型の大学がかなり変わりつつあるようにも見受けられるんでありますが、そうした中でも、不変的なものは当然あるべきだと思っております。
  そして、その14〜15年間の集積グループの問題点というのは、今、学力の問題が出まして、他の委員の方から何をもって学力と判定するのかという問題があるというお話がございましたが、まず一つはその学力の問題。もう一つは、人間形成という教育上、ある意味では最も大切な分野、ここの問題が14〜15年間の集積の中で非常に大きな問題になってきておって、それが最近言われる学校非行の問題。ところが、学校非行の問題というのは社会非行の問題でもあると私は思っておりまして、日本の社会全体の在り方、その中で特に自由というものに対する抑止力といいますか、義務とか、デューティーというようなもの、あるいは規律というものをあまりにも教えてこなかったのではないか。戦後の消費市場経済の中で、個人の自由裁量の範囲が拡大化されまして、残念ながら14〜15年間の集積グループの中で一番大事にしなければならない心の問題、自由と義務といいますか、そういったものが非常に遅れてきてしまっているのではないか。つまり、大学におけるリベラルアーツだけではなくて、幼稚園からのリベラルアーツをもっとしっかりとやる必要があるわけでございます。そのことは当然のことながら、入学試験においてもリベラルアーツを重視すべきだという考えを持っております。いずれにしても、その辺の整理を一度やってみてはどうかと思っております。
  また、これから21世紀に入るに当たりまして、ますます地球規模の市場主義とか、あるいは情報通信革命とか、科学技術の進展とか、いろいろなことになっていくわけですが、これらの光の面と同時に影の面と申しますか、いわゆる人間性疎外の問題が巨大化していって、日本は14〜15年間の集積グループに対する、今申し上げたようにリベラルアーツの欠如の負い目の上に、さらに人間性疎外の問題がのしかかってくることになるのではないかと、私は個人的には心配しているわけでございます。いずれにしましても、教育の原点に戻りまして、人間性の形成と科学技術といいますか、あるいは経済、これは技術的な側面でございますが、それの効率化を図るという二つの面があるわけであって、両方を踏まえた接続でなければなるまいと思います。
  最後に、先ほどもちょっと申し上げましたが、先般、北京へ参りまして精華大学へ行きまして、総長に面談して、1時間ほどお話しして、大学の中をずっと見せていただきました。私は非常に感銘を受けましたのは、清華大学というのはどちらかというと理科系の大学でありますが、リベラルアーツというか、古典を非常に重視しているんです。卒業するまでに80冊の本を読めということになっているようでございます。図書館へ行って、並べてあるのを見ましたけれども、中国の古典、日本の『雪国』、それからロシアはトルストイの『アンナ・カレーニナ』とか、シュペングラーの『西洋の没落』、そのほか古典がずうっとあって、その80冊を義務づけられているようなんです。
  どういう学生像を求めるのかということを聞きましたらば、これは今申し上げましたような、デューティー、規律という要素、それから当然のことながら知識、それから彼らは「体力」のことを「体格」と言います。そしてもう一つ言っておりましたのは、美意識でございました。「お、やるな」という感じが私はしたんでございますが、やはり美意識という一つの感性を、清華大学は学生像に求めておるということでございます。
  私、本日ちょっと持ってまいりましたのは、夏目漱石の『私の個人主義』という本でございます。これは大正3年に漱石が学習院大学でスピーチをやった内容でございまして、漱石は大変な思想家であることは皆さん御存じのとおりでございますが、該当する箇所を読みますと、彼はイギリスへ行ったけれども、「……英吉利は好かないのです。嫌いではあるが事実だから仕方ない」ということで、「……あれほど自由でそうしてあれほど秩序の行き届いた国は恐らく世界中にないでしょう。日本などはとうてい比較にもなりません。しかし彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに他の自由を尊敬するように、子供の時分から社会的教育をちゃんと受けているのです。だから彼らの自由の背後にはきっと義務という観念が伴っています。」と。そこでネルソンの有名な言葉を引いて、英国は英国民に対して義務を全うするように期待するという言葉がございまして、「……要するに義務心を持っていない自由は本当の自由でなないと考えます。……こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚らないつもりです。」ということを、大正3年に言っているわけです。そのほか、「現代日本の開花」とか、現代においても通用するようなことが書いてございまして、一読して私は大変参考になりました。先生方の中でもまだお読みでない方は、一度これに目を通されたらよろしいのではないかと思います。これは講談社の学術文庫に入っているものでございます。どうもありがとうございました。

○木村座長    それでは、時間になりましたので、本日の審議は以上とさせていただきます。
  本日はどうもありがとうございました。

(大臣官房政策課)

ページの先頭へ