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中央教育審議会

 1999/1 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第3回)議事録 

   中央教育審議会  初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第3回)

    議  事  録

    平成11年1月26日(火)  13:00〜15:00
    霞が関東京會舘  35階    ゴールドスタールーム


  1.開    会
  2.議    題
        高校教育の現状について(高等学校における進路指導、学習指導等の状況)
  3.閉    会


    出  席  者

  委  員   専門委員   事務局
  根本会長   荒井専門委員   富岡生涯学習局長
  薄田委員   安齋専門委員   辻村初等中等教育局長
  川口委員   磯部専門委員   御手洗教育助成局長
  國分委員   岡本専門委員   佐々木高等教育局長
  坂元委員   小川専門委員   高  総務審議官
  田村委員   工藤専門委員   杉浦政策課長
  土田委員   黒羽専門委員   その他関係官
  永井(多)委員   小谷津専門委員
  杉田専門委員
  高鳥専門委員
  永井(順)専門委員
  橋口専門委員
  久野専門委員
  山極専門委員
  山口専門委員
  四ツ柳専門委員


    意見発表者  
      西  本  憲  弘  氏(聖学院大学教授、元伊奈学園総合高等学校長)


○坂元座長代理    それでは、定刻を過ぎておりますので、始めさせていただきたいと存じます。
  本日は、木村座長が御都合により欠席なさっておられますので、前回と同様に、私、坂元が代わりに進行を務めさせていただきます。どうかよろしくお願いいたします。
  それでは、ただいまから中央教育審議会の「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」、第3回になりますが、会議を開催いたします。皆様方におかれましては、御多忙な中を御出席いただきまして、誠にありがとうございました。
  本日は、「高校教育の現状について」、高等学校における進路指導とか、学習指導等の状況を御審議いただくことといたします。また、これに関連しまして、聖学院大学教授の元伊奈学園総合高等学校長でいらした西本憲弘先生及び岡本裕之専門委員から御発表をいただきたいと考えております。
  まず、今回の配付資料の確認を事務局よりお願いいたします。

<事務局より説明>

○坂元座長代理    それでは、専門委員によるプレゼンテーション及びヒアリングに入らせていただきます。プレゼンテーション及びヒアリングに際しましては、ただいま御紹介いただきましたように、発表者からあらかじめ御提出いただいた資料を御参照いただければと存じます。
  初めに、岡本裕之専門委員から「高校教育の現状について」、総論を御発表いただきます。時間につきましては、大変恐縮ですが、30分程度をめどにお願いしたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
  なお、御質問等につきましては、お二人目の西本先生の御発表が終わった後で、西本先生の御発表に対する御質問等とあわせてお願いすることにいたしたいと思いますので、よろしくお願いします。

○岡本専門委員    全国高等学校長協会の岡本です。よろしくお願いいたします。
  私に課せられた課題は、現在の高等学校教育の現状を述べることでございますけれども、30分という時間の制約がありますので、特徴的なことを、一部に限って話させていただきたいと思います。
  現在、高等学校は進学率が97%に達して、国民的教育機関と言われるようになっております。では、理想的な国民的教育機関になっているかと問われれば、必ずしもそう言えないかもしれません。
  初めに、現在の高等学校の現状について触れ、そのことが学習指導や進路指導とどう関わっているかということを話させていただきます。
  一つは、皆様のお手元に資料としてお配りいたしましたが、現在、高等学校におきましては、大変多くの中退者を出しているという現実があります。2枚目の表をみれば分かりますように、平成8年度は約11万人が1年間に退学しております。よく言われることですが、1,000人規模の学校が100校消えたことになります。率としますと2.5%です。11万人というと大変多いですが、諸外国と比べるとわが国の高等学校教育は非常に頑張っていて、退学率は少ないのではないかと思っています。しかし、これは一つの課題であります。
  入学した年の一学期が終わる段階で、学校によっては2桁の数の退学者が出ます。
  一年が終わる段階で、3桁の数に達するというような学校も過去にはありました。どういう理由で退学が生じているかということですが、3枚目の資料をご覧になっていただきたいと思います。「進路変更」という理由が42.7%で、一番多くなっています。
  退学理由の2番目は、「学校生活・学業不適応」という項目で、31.4%です。「学校生活・学業不適応」の生徒の実態について、その内訳を見てみますと、「もともと高等学校生活に熱意がない」が39.8%、「授業に興味がわかない」が20.7%という状況で、これらの生徒は、入学当初から遅刻や早退、欠席が多くあり、学校へくる目的を持っていなかったと思われる生徒が、かなりの数入学していることが分かります。
  中途退学をした生徒を見ると、普通科よりも専門学科の方が中退率が高いです。普通科は1.8%、専門学科は2.3%です。全日制と定時制では、全日制は2.3%、定時制は15.2%です。
  「学年別」と一番下に書いてありますが、1学年で退学をするのがほとんどで、2年生、3年生では少なくなっています。1年生では、53.6%もの高率になっています。
  次の資料をご覧下さい。これは東京都の中途退学者の調査結果です。全国的には2.5%と先ほど申し上げましたが、東京の場合はそれより多くて3.6%です。全国平均を最初の統計で示しましたが、地域によってはこのような差があることを知っていただきたいと思います。
  また、原学年留置する生徒数を「(3)」「(4)」で示してあります。留年する生徒数は減少しています。様々な指導の結果こうなってきたのですが、追跡調査してみますと、留年した生徒が次の年度進級する率は5割以下です。
  このように、せっかく希望を持って入学し、様々な指導を受けても途中で退学していってしまうという現状があります。
  二つ目は、現在、高等学校には、普通科、専門学科、総合学科などがありますが、特に普通科は、大都市圏においては、ほぼ次の三つのタイプの学校に分けられて、それぞれ同じようなレベルの生徒が集まっているという現状があります。
  1つ目は、基礎的な学力が十分身に付いていない、小・中学校の学習の積み重ねが十分でない生徒が多数入学してくる学校。2つ目は、ほぼ基礎学力は身に付け、ほとんどすべての入学生徒が大学進学を目指す学校。3つ目は、1つ目と2つ目の中間に位置する学校。このタイプの学校がほぼ5割と私は思っています。学力幅が非常に大きくて、4年制大学、短期大学、専門学校、就職と進路希望が様々な、多様な生徒が在学している学校。
  したがって、これから述べます学習指導や進路指導では、この3タイプの学校では、それぞれの特徴的な課題が発生しています。
  進学率が高まり、いろいろな能力・適性をもった生徒が入学してきています。今まで、様々な研究も踏まえ、指導要領を改訂し、指導法の改善に取り組んできました。教科内容の精選、必修科目数の増減、単位数の増減など、生徒の実態に対応できる取り組みをしてきました。教科内容もレベルを変え、教科書にも改善を加えてきました。それだけでは不十分と、普通科の中にコースを設けたり、近年、総合学科や単位制の学校等、特色ある学校づくりをする中で、中退者を出さない努力をしてきました。その結果、多様な能力・適性を持つ生徒への対応は、かなり改善されてきていると考えています。
  制度的な改正で十分カバーしきれない面を、各学校ではそれぞれ独自に取り組んできました。様々な学習指導の工夫をしています。習熟度学習や学習者の単位を小さくすることなどです。
  次に、具体的な学習指導の現状を報告いたします。どの学校も学習指導の重点として、必修科目を中心として基礎学力の定着を図っています。まず手始めが、入学者の実態の調査です。
  入学前にオリエンテーションを行います。春休みの学習課題を与えたり、入学後学力診断テストを行ったりして、対応策を考えます。少人数クラスの導入や教科書以外の補助教材の使用などです。
  資料の5枚目をみていただきます。生徒の実態に合わせた教育課程を作っている工夫の跡が表にでています。指導要領では、80単位習得を卒業条件としていますが、大学進学に重点を置く学校、専門学科で資格を習得させたい学校等、生徒の実態に応じて80単位以上の卒業単位数を設定しているところが多くあります。この表は東京都の例ですが、平均82単位です。86単位、89単位を設定している学校もかなりあります。
  指導要領に定められた必修科目を、国民として最低限身に付けさせなければならない内容と考え、取り組んでいるわけです。その内容を生徒に十分定着させるために、各学校では授業の他に補充や補習をしている現実があります。同じページの下の学習指導に関する調査は、補習や補充指導をどの程度行っているかという例です。進学校においては、多くの補習を行われています。ある都立高等学校の今年度の夏期講習は、28講座を開講して、延べ1,132名が参加しました。
  指導充実校での例では、基礎的な内容を十分身につけさせるために習熟度学習とか少人数学習を導入していまして、東京都のある学校では、平成10年度、総授業時数は813時間、そのうち習熟度別学習は109時間、少人数学習が74時間です。総授業数の22.5%に当たります。
  一般的に習熟度別学習や少人数学習は、数学や英語での導入例が多いのですが、この学校では地歴、理科、体育、家庭科でも取り入れています。さらに、生徒の興味や適性・進路に応じて選択できるように類型制を導入しています。類型制というのは、例えば、体育関係の科目をたくさん取りたい人のためのスポーツ系、語学を多く選択したい人のために文学系、理数系を目指すものには自然科学系というように、この学校は3つの類型を生徒に示して、選択科目を用意しています。このように、指導方法を工夫して基礎的学力を定着を図っているのが高等学校の現状です。
  この他、「朝学習」を始業1時間前から全校生徒に実施している学校、読書習慣を身に付けるために「朝の10分間読書」を実施している学校、長期休業中には、勉強合宿を行事を位置づけている学校もあります。
  次に、今後の目指すべき学習指導の在り方について少し述べたいと思います。これからも幅広い基礎学力を着実に身に付けさせていくことに、高等学校関係者は努力していかなければならないと考えています。
  新しい指導要領が近々出されますが、これまでの教育課程審議会の方向によりますと、弾力化、大綱化の方向が示されています。生徒の実態に合わせて思い切った教育課程編成ができると期待しています。基礎的な学力と同時に、自ら学び自ら考える「生きる力」の育成も今後は重視していかなければならないと思っています。
  また、「総合的な学習の時間」が示されますが、この時間を活用して体験的あるいは作業的な学習、課題解決的な学習を進めることによって、表現力や創造的なものの見方、考え方ができる力を身に付けた生徒を今後育成していくことが、これからの学習指導の目指す方向ではないかと思っております。
  続いて、進路指導の現状を申し上げます。
  資料の8ページを見ていただきます。今や大学への進学率が大変高まり、普通科で48.7%、専門学科においても10%台で毎年すこしずつ上昇しています。逆に就職率は少しずつさがっています。
  資料6枚目の図1をご覧下さい。これは東京都の現状です。「進学率」「就職率」ともう一つ「進学希望在宅者率」と書いてありますが、やはり「進学率」が上昇し、「就職率」が下がり「進学希望在宅者率」、いわゆる浪人生とかフリーターとか就職が決まらない人の率が下がってきているのがお分かりかと思います。
  次に、前回「教育困難校でも大学進学を目指す生徒が増えていると聞いているので、そういう学校ではどんな取り組みを行っているのか報告してほしい」とのご要望がありましたので、その点について触れてみます。
  教育困難校、今は指導困難校といっていますが、このタイプの学校では、4年制大学に進学する生徒は少なく、この他に、短期大学、専門学校、就職、公務員、進学準備などの浪人生というように多岐に分かれます。
  この学校の例では、設立当初はかなり大学進学者がいましたが、先ほど申しました3つ目のタイプの学校になる傾向が進み、指導が困難になってきました。しかしこのような状況でも大学、短期大学、専門学校に進学する生徒も少なくありません。この学校での特徴は、浪人生もいますが、いわゆるフリーターが多くいます。就職も決められない、進学もいめられない、「進学準備」と統計的には表していますが、このグループがほぼ3分の1ずつというのが現状です。
  次のタイプの学校になると、大学進学者が10.8%、短期大学進学者が12.6%、専門学校への進学者が27.6%と変化し、就職者は15.3%とあまり多くありません。高等学校のタイプが変わるにしたがって、4年制大学や短期大学に進学するものが増えつつあるのが現在の進路状況です。この学校で具体的にどのような進路指導をしているのか、資料の7枚目をみていただきたいと思います。これは10年間にわたるある指導充実校の統計と進路指導に関する年間計画表です進学指導の他に、専門学校や短期大学、公務員、そして民間就職と分け、すべてにわたって進路部が組織的に学年と学年担任と連携しながら、あるいは教務部やその他の分掌と協力しながら指導に当たっている状況がお分かりになると思います。
  どの学校でも、内容に差はあれ、「進路の手引き」を作成しています。進学校では、大学進学に関する内容が中心となります。
  現在、進路指導は、進学指導と就職指導に分かれていますが、特に進学指導については、大学入試が非常に複雑になっていて、例えば、指定校推薦、公募推薦、一般入試、あるいは1次、2次、大学入試センター試験というようにいろいろあり、進路情報が洪水のようにあふれている状況なので、これを整理して生徒に示すのが大変な作業となっています。
  このような組織的な取り組みの他に、個別的な取り組みが行われているのが多くの学校の現状です。例えば、入試で小論文が課せられるようになりましたので、国語の授業での取り組みの他に、放課後対象者を集めて論文指導をしたり、面接重視に対応するため、面接指導も大きなウエートを占めるようになりました。まず担任が、次に進路指導部が、最後に校長・教頭が面接指導をするという学校がたくさんあります。
  この他、進路指導で大きなウエートを占めるのが、科目選択の指導です。
  1年生はほぼ同一教育課程で学習していますが、2年生、3年生になると、類型制や、多種多様な選択科目を生徒に提示して、個々の進路、興味・関心に合わせて選択させます。この説明会が重要になってきています。一回の説明ではなかなか理解できない生徒もおりますので、指導充実校では特に丁寧な指導を行っています。
  高等学校では、今申し上げましたような指導を現在行っていますが、今後の大学入学者選抜においては、資料にも書いておきましたように、幅広い基礎学力を身に付けた生徒が適切に評価されるような入試になるようお願いしたいと思います。
  97%の進学率の中で、非常に幅広い学力差がありますが、このような状況でも大学進学してさらに学びたいという生徒が多くいます。生徒の基礎学力や意欲を尊重をして入学させていただけたら大変ありがたいと思っております。
  もう一つ、先ほどの統計でも示しましたが、専門学科あるいは総合学科と大学の接続を円滑に行うという課題があります。特に専門学科では、専門教科・科目を幅広く学ぶために、専門的な高い能力を持つ生徒がたくさんいます。こういった能力が適切に評価されて大学に入学許可されるよう要望します。

○坂元座長代理    ありがとうございました。大変短い時間で高等学校全体の御説明を願いまして恐縮でございました。
  それでは、続きまして西本憲弘先生に御発表をお願いいたしたいと存じます。
  御発表に先立ちまして、先生を御紹介申し上げます。西本先生は、現在、聖学院大学教授でいらっしゃいます。先生は、御案内のように伊奈学園総合高等学校の校長として多様な能力・適性を有する生徒の進路指導に当たられた経験をお持ちでありますし、またその当時から高等学校と大学との教育の連携についても様々な取組をなされていらしたわけでございます。
  本日は、先生から、「高校教育の現状について―多様な能力・適性を有する生徒の進路指導について、大学教育との連携等について―」、御発表いただくことになっております。時間につきましては、大変恐縮でございますが、20分程度をめどによろしくお願いいたします。

○西本意見発表者    御丁重な御紹介をいただきましてありがとうございました。西本と申します。
  一人一人が自分の時間割をつくるという理想のもとに、伊奈学園総合高等学校というものを埼玉で企画いたしまして、その後、平成元年から4年間校長を務めました。そのときに、第14期中央教育審議会答申の提言を具体化するための検討を行う、高等学校教育の改革の推進に関する会議の専門委員をさせていただきまして、今日の総合学科あるいは全日制の単位制高等学校、学校間連携等をお手伝いしたわけです。それを機会に高等学校のこれからの多様な在り方についての研究を文部省から委嘱されまして、現在、資料の1枚目の「*」印に書いてありますが、「高校教育改革研究会」ということで、この間、各高等学校の要望によりまして、大学と高等学校がどのように連携し、将来、接続を求めていけるのかというテーマのもとに、研究をしてまいったわけでございます。
  そこで、私は、きょうは時間もありませんので、四つの点について発表させていただきたいと思います。すなわち、今日の高等学校生並びに大学生が適切な論理的な文章が書けない、自己表現力がない。中学校、高等学校を通じてそういう能力を身につけさせてもらえなかった。実はそういう悩みが、私ども高等学校側から大学へ進学した生徒たちのアンケート調査にも出てきているわけでございます。資料の2枚目の一番下でございますが、今の高等学校側から見て、大学へ入った学生が、高等学校のころの学習について一体何を反省しているのか。
  一つは、教科の学習ということでございますが、それは計のところを見ていただきますと17.4%。次が文章能力でありまして、34.5%。人文科学系統の私立に進学した学生は、何と50%が自分の思ったとおりの文章が書けない。大学へ入ったらレポートも文章、テストも文章、それができないんだという悩みを訴えるわけでございます。実は現在の中学、高等学校において、これから必要な自ら学ぶ力とか、考える力にとって最も必要な自己表現力の育成に欠けていることに、私ども気がつくわけでございます。
  高等学校へもよくお邪魔いたすわけでございますが、今日の高等学校の各教科の教育というものは、相変わらず教師が一方的に知識を伝達して詰め込む授業になっております。中学校までは自己発信型の授業とか、みんなが調べてきて討論し合いながら、ともに学ぶ楽しさとか、喜びとか、そういうものを味わえる学習指導の方針にのっとった授業が行われるわけですが、高等学校に入ってまいりますと、英語あたりはだいぶ変わってきましたが、一般の教科においては、ほとんどがまだまだ一斉受信型の授業をやらざるを得ない。
  なぜそうなのかということを高等学校教師の集まり等で聞くんですが、やっぱり今日の受験学習、すなわち高等学校で行う中間テスト、あるいは期末テストは、大学のいわゆるテストをモデルにした客観テストでありますが、そのテストのための知識をある程度定めなければ、今日の求められている大学の受験は突破できないということであるわけでございます。
  例えば一つの例をとりますと、「日本史B」という学習をいたしますと、そこで覚えなくちゃならない用語、説明文のついたものが6,200。全部で19の教科書があるわけです。そのほかに必要な分が4,400、合計1万600の用語を覚えなければならないということが言われております。この用語を生徒たちに理解さすためには、もちろん授業の方法にもいろいろ工夫がありますけれども、結局、こういう用語を覚えさすことによって、現在のあまりにも客観化し過ぎたマークシート方式、穴埋め方式の受験に対応せざるを得ないし、高等学校で行う中間テスト、期末テストもそのようなテストにならざるを得ない現状があるわけです。
  将来、今日の中学校の教科の分量が3割削減になってくると、一体、高等学校で教えなくちゃいけない各教科の用語はどんなになるんだろうかという心配もあるわけでございますが、ここにも用語集がありますが、「政治経済」なんかで3,000ぐらいです。本年度の大学入試センター試験を見ますと、公民が随分受験者が増えております。「日本史」は1万を超えているわけですが、「政治経済」は3,000ぐらいでいいだろうということで、受験生が増えているという見方もあるわけです。
  こういう問題に対して、これは仄聞でございますが、「生物」の分野では、例えば植物学会や動物学会長さんの提案によりまして、今まで高等学校の「生物」の教科書に載っている用語が8,500。1時間の授業に350の用語を覚える必要があったそうですが、これでは生物学が暗記の学習になってしまうというので、実験や観察を十分取り入れるために、160人の専門家、高等学校教師が集まりまして、その必要数を700、基準語数を1,500に絞り込むという作業が、高等学校と専門家の間で行われているわけでございます。
  先ほど高等学校長協会の会長さんのお話もありましたけれども、一体、高等学校を卒業するまでに、今日の大学教育がどういう能力とどのような知識を求めていくのかということをこれから十分検討しなければ、さっき言われたように、朝に進学指導をやる、放課後に進学指導をやる、あるいは夏休みは合宿で進学指導をやるということになり、こういう知識を多数詰め込むような教育をやっていかれたのでは、先ほど申しましたように、子どもたちの自己表現能力がますます縮こんでいってしまう。予習をしながら、調べものをしながら、それを発表しながら、お互いに討論を楽しみながら、学習を楽しむ、喜ぶという、こういう習慣をぜひ高等学校教育で確立していかなければ、今までのように教育とはただ知識を詰め込むものに終わってしまい、退学者はさらに増えるであろうし、大きな問題を今後残していくものと考えるわけであります。
  最近では、個別試験で国公立大学では小論文を課す大学も増えておりますけれども、そのパーセントは非常に少ない。その小論文対策について先ほどお話もありましたように、ただ放課後、小論文対策をやったり、業者に添削を頼んだり、そういうことで対応しているのであって、評価の中で、本当にその問題について自分で考え、論述するという訓練がなぜ高等学校の教育でできないのか。これをぜひ実現させていただきたいと思います。
  私は今、大学へ勤めておりますが、大学の新入生を見まして、私も発案いたしまして、元NHKアナウンサー4人の方に来ていただきまして、30人単位で「話し方表現」とか、あるいは言語学の先生方に来ていただきまして、30人単位で「書き方表現」というものを大学でやり直すことをしております。こういう教育の不統一といいましょうか、一貫性のなさ、これを今回ぜひ是正するような方向を出していただきたいと考えるところであります。
  時間がありませんので、次へ進みますが、資料の1枚目の「I  新入学生が直面する大学教育への適応課題」で「(1)」に書いたことは、的確な文章作成能力の不足ということでありまして、具体的にどこから起きているかというと、一番下の「IV  客観テストに追われる高校教育の是正」であります。あまりにも公平・平等を期す戦後の客観テストは、高等学校生の多様な能力の伸長をゆがめているというふうに言っていいのではないかと思います。学校それ自体は5日制でゆとりがあるかもしれませんが、例えば2単位科目、「政治経済」などは週に2回しかありません。この中で、さっき言った3,000項目の用語を教えるということになれば、「政治経済」という学習は単に用語を覚える学習に終わってしまう。みんなで現実の社会の問題を調べながら、ともに学び、そしてテストのためでない、自己発展のために学習をするんだという教育に、ひとつ今後は持っていかなければならないだろうと思います。
  2番目です。私のお願いは、中等教育での進路学習の欠如でございます。すなわち、学習や研究の課題を持たない大学生が非常に増えていることは御案内のとおりであります。お手元の資料の「II」に書いておきましたが、高等学校教育における進路指導ではありません、生徒が自ら進路学習をするような体制をつくっていかなければならないということであります。
  「(3)」ですが、最近では普通科高等学校でも総合学科高等学校で原則履修として取り入れました「産業社会と人間」とか、単位制高等学校でやっております「キャリア・ガイダンス」などを授業で行いまして、様々な体験学習、インターンシップということが最近使われておりますが、地域社会と連携しながら地域のいろんな企業で働いてみる、体験してみる、あるいはボランティア活動をやってみる。そういうものをみんなで報告し合いながら、発表し合いながら、そして専門の方々に来ていただきながら、職業観についてのいろんな知識を得る。最終的には高等学校1年生なりの自分の生涯計画と申しましょうか、人生プランといいましょうか、そういうものをつくり上げていく。その中で、今、自分は何をやらなければならないかという進路学習の徹底が、これからどうしても中等教育には必要であります。ただ偏差値が幾らだから大学に入ったけれども、自分の目的と自分の適性に合わなかった。そういうことのために挫折していき、目的を喪失していく青年も多いことでありますから、高等学校教育における進路学習の徹底をこれからやらなければならないと思います。
  学校によっては、最近、授業を持たないキャリア・カウンセラーを設置いたしまして、生徒一人一人の進路相談に乗っているという学校もありますし、ある高等学校では高等学校2年生のときに「17歳の卒論」と称して、将来、自分の就く職業、仕事について論文を書いてみようということで、1年間、指導教官は学校内にとどまりません、学校外の人々もあっせんする。将来、医者になりたいという人には医学部の先生をあっせんするというふうにして、大学生にもまさるとも劣らないような「17歳の卒論」を書いていく高等学校生もいる。そして、10数年後に見てみると、「意外だな。あのころ卒論に書いたことを実現してるじゃないか」という人間も見受けられるわけであります。
  「(4)」に「ドリカム・グループ」というのがありますが、初めてお聞きになる方もいらっしゃるかと思います。今、高等学校の進路指導、すなわち進路学習はまさに生徒指導の根本理念でありますが、それは「ドリームズ・カム・トゥルー」だと。高等学校の3年間に自分の夢を実現する。それを省略しまして「ドリカム」という言葉で呼んでいる学校があるわけでございますが、入学したときに、現在の自分、さらに10年後の自分、20年後の自分というものを作文させまして、大学のシラバスを取り寄せまして、自分が大学に入ったときに一番受けてみたい講義は何だろうか。そこから作業をいたしまして、志望ごとに10のグループをつくっております。その10のグループの生徒たちが、例えば将来は法律家になりたいという学生たちは、自主的に裁判所に見学に行って犯罪について研究してみる、警察署へ行ってみる。
  最近では、ジョイントセミナーというのをやるんですが、ジョイントというのは高等学校と大学教育をどのようにつなげるかということで、私どもの研究会に参加している高等学校では、大学の先生や専門家に来ていただきまして、土曜日とか、夏休みとか、集中的にやる場合もありますが、将来、生徒達が目指している職業についての啓発的な授業をやってもらっております。高等学校の先生が教えますと、やっぱりそれは試験のためだなという概念になりますので、そうではない、全く試験というのから離れて、自分の就きたい職業、あるいは最先端の今日の学問・研究の状況を高等学校生が聞くことによって、自ら進路を開拓していく。この学校ではそれを「ドリカム・グループ」と呼んでおりますが、大きな成果を上げているところもあるわけでございます。
  3番目の課題でございますが、大学へ入学した早々には、高等学校生から大学へ入っていくわけですが、大変大きな悩みを持つわけでございます。どのような悩みを持っているのかということを自由記述で書いてもらいましたのが、資料の3枚目でございます。
  「大学教育の印象」を高等学校側から見てもらいました。けなげにも最初は「自分のやる気」しかないんだと。大学は高等学校のようにフォローしてくれない。学生の主体性に任されているんだ、自分だけがしっかりしなければだめだという決意を1年生のときに持って臨んでいるようでありますが、概して「(C)教員の姿勢」というところですが、大学の先生方はあまり評判がよくない。授業を私たちに理解させようとして講義をしているのではないと言ってみたり、先生が自分の世界に浸って授業を進めている者が多いとか、先生が学生のための授業をしてくれているのではない。一言で申しますと、高等学校を卒業して大学へ入った学生が、教わる人間と教える人間との間に何のかかわりもない、顔もよく見えない、そういう一方的な話をするだけという、資料の1枚目のほうに書いておきましたが、大学の先生方との距離があまりにも遠い。
  そして、高等学校時代、さっき言ったようなともに学ぶという習慣を身につけていませんから、なかなか友達を得にくい。人間関係が大変希薄である。こういうふうなことを訴える大学新入生が多いわけです。2年生、3年生、4年生になり、専門が進むにつれて、大学も慣れっこになってしまいますけれども、高等学校から大学へ入った学生をどのように受けとめてもらえるのかということで、各大学は基礎課程と称しまして、知識中心の授業ではなくて、学生に学び方の学習、学び方の技術を教えていくような少人数のゼミが、最近、開設されているように各大学からもいろいろお話を聞くわけです。ようやく大学に入って、テストではない、本当の自分の勉強ができるんだということで、喜びを持つ学生も多いわけでございますから、大学へ入った途端、200名、300名という大講義だけで、子どもたちに何を学ばせていいかわからないということではなくて、ひとつ先生方と学生との人間的な人格的なつながりの中で、学習、研究の在り方を進めるような大学がこれから増えていかなければならないと思います。
  4番目に移ります。資料の3枚目の「大学教育の印象に関する自由記述から」というところの一番下の行です。「英語のレベルは高校の方が高い。苦労して入った大学なのに、入ってみるとさほどレベルが高いとは思わない」。今日、高等学校では、一人一人の持つ特性を伸ばす教育をやっている高等学校も増えております。戦後教育の中で非常に伸びたのが芸術教育です。最近は情報処理の技術なども大変高い能力を持って高等学校を卒業していく生徒もおります。あるいは、語学でも、夏休み中にオーストラリアとか、アメリカ等へホームステイしながらそこの大学で学んでくるという、かなりレベルの高い高等学校生もおります。
  私の伊奈学園ではフランス語を学ばせまして、フランス政府からも講師の先生を派遣してもらい、決して大学の2年生、3年生のフランス文学科の生徒に負けないというようなことを、その教師は豪語しておりましたが、四、五年たってようやく、大学へ入ったら中級、2年生の授業から受講することが認められました。
  今、高等学校から大学へ進学する生徒たちは、先ほど専門高等学校や総合学科の話も岡本専門委員からありましたけれども、一様ではない。せっかく高等学校で伸ばした多様な特性、それをただ飛び入学で入れるというだけではなくて、3年で卒業して大学に入ったときに、その人間の特性、高等学校で伸ばした様々な能力を、さらに積極的に伸ばすような大学と高等学校間の接続が我が国の教育には欠けているのではなかろうか。
  お話ししたいことがたくさんありますが、全般的な傾向につきましては先ほどお話があったようでございますし、与えられた時間もまいりました。どうも御清聴ありがとうございました。

○坂元座長代理    どうもありがとうございました。
  それでは、ただいまのお二人の先生の御発表につきまして、御質問がございましたら一括してお願いいたしたいと思います。どなたからでも結構でございます。

○  西本先生にお伺いしたいんですが、資料の1枚目の「IV」に「客観テストに追われる高校教育の是正」という一言がございますが、結局この問題は、客観テストというか、そういうことをやっている大学の入学試験の在り方に起因しているわけで、一方でそういうことをやっておりながら、高等学校側にはそうでないものを求めるというような印象もあるわけです。高等学校にしてみれば、現実にこういうテストが行われている以上、自分の生徒たちをそれに何とか合格させてやりたいという気持ちにもなるでしょうし、生徒自身もそれにとらわれるということになるんではないかという気がするんですが、その点はいかがかというのがお尋ねでございます。

○西本意見発表者    はい。そのとおりでございます。

○  もう一つ、今度は岡本専門委員にですが、いわば今後の進路指導の在り方として、結論部分で幅広い基礎学力を身につけた生徒が適切に評価されるような入試をということは、裏返して言えば、今はそういう入試制度になっていないと。端的に言えば、多くの私立大学なんかがそうですが、3科目ぐらいの試験をやると、高等学校でいかに幅広い勉強をさせようとしても、生徒自身の関心は試験科目だけに一所懸命夢中になる。そしてまた高等学校側としても、生徒がそうなっているのを、そんなことをやめてもっと入試に関係ないことを一所懸命やりなさいと言っても、これはなかなかつらいことじゃないかという、一種の悲鳴的なものとしてこの結論が出ているのかなと思ったんですが、その点、いかがかということでございます。

○岡本専門委員    そのとおりでございます。

○西本意見発表者    高等学校が中学校からいい生徒に来てもらうためには、やはり進学で実績を上げなければいい生徒が集まりません。いかに進学で実績を上げるか、これに追われなければなりませんね、現実の先生方は。したがいまして、マークシート方式に勝つためには、やはり知識の量をどんどん与えていかなければならない。すなわち、資料に書いてありますが、問いがあって、とにかく短絡的に素早く正解を出せるような、そういう受験技術を身につけさせるということが、今の高等学校の教師にとって必要になってきているわけです。本来ならば、問いがあって、結論に至るそのプロセス、そういうものを評価してやるような教育に持っていきたいし、できれば大学のマークシート方式の試験も50%程度は論述で書かせて見てやるという方向に発展していかなければ、今の高等学校の教育は行き詰まってしまっているということでございます。

○岡本専門委員    高等学校への進学率が高まり多様化が進む中で、高等学校としては非常に困難な局面も一部でてきています。文部省もそういう現場の状況をみて改革に取り組んでいただいていると思います。高等学校側の大きな変化を、大学入試では十分に受け止めていただき、大学での勉学が続けられるよう様々な工夫をしていてだきたいと考えております。西本先生のおっしゃったようなことに、私も同感でございます。

○  意見と御質問ですけれども、お二人の方から高等学校の現状と課題について、また日ごろ御苦労なさっていることをよく聞かせていただきました。
  高等学校では論述能力とか、自己表現力とか、あるいは理科等における探究活動とか、コンピュータの実践力等々、非常に大事な学習が現在なされていますが、それがなかなか入試に直結しないという話があったと思います。
  本来、こういう力を育てるというのは、西本先生の発表にもありますように、高等学校教育そのものの問題ではないかと思います。入試改革もこのような能力を評価する必要があります。一つに内申書、調査書というんですか、高等学校3年間の日ごろのまさに大事な学習をやっている成果としての調査書(学習歴を見る)がクローズアップされてくると思うんです。
  現に第2回目で発表された方のお話もそうですけれども、欧米なんかでは調査書だけではもちろんありませんが、調査書のウエートは各国とも結構大事にしていると思います。そういうときに、日本の場合にはやれ高等学校格差があるから、調査書なんていうものは客観性がないんだということで抹殺されているわけですけれども、第二次答申にもまさに調査書については書いてあったと思います。その調査書も単なる成績の平均点を見るというより(1)大学に入って必要な科目を高等学校時代に履修しているか、評価はどうか。(2)高いレベルの科目をどれだけ履修しているか、評価はどうか。(3)どのような潜在的能力(他人とは違ったもの)をもっているか。(4)学校生活や社会にどのような貢献をしたか。などを見る必要があります。

○西本意見発表者    当然、高等学校3年間の記録でございますから、高等学校の先生方は自信を持って自分の生徒たちを、その見合った大学、専門学校へ送り出しているわけでございますから、これは最大限尊重してもらいたいと思います。
  ただ、調査書ということだけにこだわりますと、いわゆる内申書重視というふうな、今、中学校でだいぶ問題になっていることもありますから、やはりそれ相応の論述をさせるとか、あるいは口頭試問を含めた面接をさせるとか、そういう幅の広い選抜方法  ―この間の中央教育審議会の第二次答申にありましたけれども、今の大学はどうしても片手間に入試をやらざるを得ません。毎年毎年、入試の出題者の先生方も代わる状況において、本当に高等学校の能力ある生徒を引き出すための入試がなかなか行われていない現状ですので、アドミッション・センターを各大学でおつくりになって、各高等学校を十分分析されて、その上でそういう幅の広い資料でご選抜いただくのが、これからの私どもの理想であろうと考えます。

○  今、論理性といいましょうか、文章表現力といいましょうか、自己を表現するための能力を、せっかく中学校時代に培ってきたものが、高等学校時代の知識詰め込みのために損なわれているというお話がありましたけれども、もしそうだとすれば大変これは残念なことだと思います。
  私どもも、今お話がありましたアドミッション・センターを中心とした入試を平成12年度から開始するための準備を進めておりますが、そこで重視しておりますのは論理性なんです。論理性に関しては、アメリカの論理テストと言われているSAT  I  、事例その他は見ておりますが、これがいかほどのものであるか我々自身まだ詳細にまだ十分に知識を持っていないと考えております。何しろあれは50年間かけてアメリカの中で培ってきた一つの検査体制で、しかもあれは客観テストである。
  ただ、問いから答えにいく途中の道筋を論理的にずうっと追っていって、最後はどこかの答え、選択肢が四つか五つかあるんですが、そこにたどりつくわけです。覚えていて瞬間的に答えが出るのではなくて、本当に自分の身について  ―よく私は自転車の理論の話をするんですが、自転車なんていうのはすっかり忘れていても、必要になるとすぐ乗れます。それぐらい本当に身について、物の考え方とか、道筋がわかっているものに対して答えが書ける。しかも、知識のレベルは中学校3年か高等学校1年レベルの情報量であると、そういう話を聞いております。
  ですから、私は、今後、日本でも、ああいう論理テストの在り方に関する研究をしっかりやって、日本語という必ずしも論理向きでない言語体系を使って、今の論理性に対する対応を立てていく必要があるかなと考えております。その辺につきまして、お二人に、もし何かコメントございましたらお願いします。

○  その質問に関連して西本先生にお伺い致します。時間が限られていたために、客観テストの問題を非常に簡単にお片づけになったという印象があります。例えば現在の大学入試センター試験が、考える力がなくて解ける問題とお考えになっているのかどうか、本当に大学入試センター試験、あるいは大学入試の問題が、単に記憶力だけで解ける問題だとお思いになっているとすれば、それは少し違うのではないかと思います。実際に、大学入試センター試験を一度解いていただくと、それがどれほど考える力を必要とするかおわかりいただけるのではないかと思います。
  それから、現在の高等学校教育の問題がすべて入学試験のありように起因する、それによって非常に束縛された教育を実施せざるを得ないというお話でしたが、例えば西本先生が初代の校長をお務めになった伊奈学園の場合に、高等学校の生徒の自主性を尊重する、あるいは自由選択制を徹底させるということでたいへんな努力をされたわけですが、その後の追跡調査などを見ますと、その試みもたいへん困難な局面にぶつかっていると聞いております。それもすべて入学試験の問題に起因するのかどうか。その御経験を通して、高等学校教育における選択制の問題、あるいは多様化の問題について、ご意見を頂戴したいと思います。
  また、伊奈学園の場合は自由選択制を、芸術系であるとか、外国語系であるとか、あるいは理数系というふうに、水平的な多様化を中心にお進めになったかと思います。しかし、年齢人口の97%が高等学校に入ってくる現在、どうしても避けて通れないのが垂直的な多様化であろうと思います。
  その際に、最低限の知識については、それこそたいへんな忍耐力を要するとは思いますが、暗記でもよいから詰め込まなければならないこともあると思います。そのときに、考える力が大事だから、問題解決が大事だからといって、それを軽視していいのかどうか。もちろんバランスの問題だと言えば、それで片づいてしまうわけですが、そのことのウエートをどのように考えていくのか、先生のご経験として、高等学校教育における多様化の根本的な問題は何であるのかお答えを頂戴したいと思います。

○西本意見発表者    アメリカにおけるSAT的な、論理的な客観的なテストについての研究を始めていくべきだと。私もそれには賛成でございますが、今またそれをすぐやりますと、かつての進学適性検査の二の舞になりまして、高等学校生の大変な負担にもなりかねないということはあり得ると思います。進学適性検査の準備のために高等学校が大変大きな苦労をしたというのが、戦後発足時の高等学校の姿であったわけですから、そういう方面の研究はどんどん進めていかなければならないと思いますが、今すぐそれに切りかえるということは困難であろうと思います。
  2番目に、大学入試センター試験は知識だけで解けるかどうか。お話のとおりであります。私も大学入試センター試験の問題を見ておりますけれども、単なる知識の量だけでは解けません。大変な工夫をされた問題であることは、先生のお話のとおりであります。しかし、その大学入試センター試験も、科目数を31にも増やし、今、私はそろそろ限界にきていると思います。今までに出した試験問題は出せないということで、大変な苦労をなさって作問されていることを承知しているわけですが、あの大学入試センター試験の在り方がこれからいつまでも続くかなと。そろそろ息切れではないかという感じがしております。
  それから、伊奈学園のことについてのお話があったわけですが、私は伊奈学園が発足するときに、こう考えたんです。外国へよく行きますと、例えば「私は日本語を○○高等学校で勉強しました」と言って、大変すばらしい日本語をお話しになる青年がおります。日本の高等学校では「野球をやりました」「○○高等学校でサッカーをやりました」という話は聞きますけれども、「○○高等学校で物理学を勉強しました」「○○高等学校でフランス語を勉強しました」という、高等学校で何々を学習したという経験を日本人たちは持ちません。
  伊奈学園をつくるときに、さっき垂直的な選択制と申しましたけれども、そういうふうなこともねらいにしたわけです。ある分野については、そういうことが言える生徒もなきにしもあらずでした。芸術であるとか、語学であるとか、理数であるとか。しかし、先ほど先生から言われましたように、水平的な選択制が今のままでいいかというと、少し問題点も出てきたようであります。例えば、歴史で言うならば、課題学習の中に郷里史、地方史を勉強しようという科目も最初はあったんです。地域のお寺を回ったり、古文書を調べてきたりして、立派な研究録を残した高等学校生もいるんですが、今はそんなことをやる余裕はありません。そんなことをやるぐらいならば、日本史の知識を少しでも持って、大学へ進学してからおまえはそういうことをやればよろしいという風潮に教師たちがなってきたということでございます。
  例えば、現在、中国語などではかなり突出した学習をやらせております。夏休み等には天津の語学学校へ行って合宿させて、そこで中国の語学とか文化を学んで日本へ帰ってくるんですが、大学入試センター試験では中国語がありますけれども、残念ながら中国語を語学として受け入れてくれる大学は少のうございます。だから、中国へ留学するという生徒も出ているわけですが、ああいう巨大な学校の中で、一人一人の子どもたちが、いわゆる垂直的な選択でもって自分の能力を高等学校の3年間に最大限に伸ばしていくという教育が成功したとは、今日、私も言えないと思います。

○坂元座長代理    どうもありがとうございました。
  まだ御質問等おありになろうかと思いますが、時間の都合もございますので、質疑はこれまでとさせていただきます。岡本先生はまだ専門委員としてお残りいただきますので、この後の自由討議の中へお加わりいただければと存じます。
  本日は、西本先生、お忙しい中を御出席賜りまして、本当にありがとうございました。

○西本意見発表者    どうも失礼いたしました。ありがとうございました。

○坂元座長代理    それでは、高等学校教育の現状についての討議を行いたいと存じます。御自由に御意見をいただきたいと思います。

○  今の議論の続きのようなことで、私の意見を申し述べさせていただきます。
  西本先生から、資料の1枚目の「IV」番目のところで、客観テストについて御報告がありましたけれども、一つは高等学校教育の現状を私なりに考えてみますと、先生方の学習指導観がどうしても知識中心で、子どもたちの技能とか、能力で考えるという側面が非常に弱いのではないか。これはどうしてなのかと思うことがあるんですけれども、例えば教科書の需要数、教科の特性によっても異なりますけれども、地歴公民の教科書などは、相変わらず知識事項の量が多い教科書が市場で支持されるわけです。
  大学の入試問題をつくるときには教科書が基本になりますから、売れている、市場で支持されている教科書をおおむね参考にして大学入試の問題がつくられるということで、結局、さかのぼっていきますと、高等学校の場合は学校で採択をしますので、先生方が知識の量の多い教科書を採択する。これは必ずしも入試に出るからという理由だけではないのではなかろうかと思うわけです。
  例えば、私が30年前に高等学校生のころ手にした歴史の教科書と、学習指導要領は3度ぐらい改訂になっているわけですけれども、現状の日本史の教科書は基本的に変わっていないわけでございます。教育の考え方は変わってきているんですけれども、相変わらず知識中心の教科書が学校で支持されている。これは一種の風土、教育指導に関する先生方の風土、文化のようなもので、自ら学び自ら考える方向にいかなくてはいけないんですけれども、それに対応したような教科書をつくっても支持をされないという問題があるのではなかろうかと思います。そこをクリアしていく方向性、アイデアを持ち合わせないんですけれども、そんな感想を持ちました。

○  お二人の先生方の御発表で、高等学校教育がいかに大学側の画一的で客観的な試験制度に引っ張られて、本来あるべき高等学校の姿が難しい状況に置かれているということがよくわかりました。
  この次の会議で、今度は大学側の状況が発表されるように聞いておりますが、私、第1回のときにも申しましたように、大学側でも結構いろんな努力はしている。入学試験の在り方について、典型的に出てくるのは推薦入学の幅を広げて、その中身についても多様な考え方、考える力や総合的に判断するような力、あるいは表現する力、あるいは何よりも大学へ入ってきて何をしようとするのかという、意欲を持った学生をいろんな角度から見ようということで、いろんな努力はしているわけです。
  私の勤めている大学では、例えば定員の4分の1は推薦入学で採って、その中身についても、25年間の蓄積がありますから追跡調査もやっておりますし、また高等学校の内申書というのは一体どれだけの信頼度があるのか、そんなこともできる範囲でやったりしております。
  にもかかわらず、先ほどの御発表にありましたように、結果的には受験のための小論文対策という形でしか高等学校の側では実際に指導ができないといいますか、その辺はどうしてそういうことになるんだろう。我々はそういうことを決して考えているわけではなくて、先ほど申しましたようなもっと広い視野を持った学生像を求めているわけですが、結果的には高等学校側ではそれが小論文の準備、あるいは面接の仕方のトレーニングになってくるんですね。あるいは、内申書の点数をうまく上げていくその操作の仕方といいますか、端的に言えば大学入試のための技術論に矮小化された形でしか展開されていない。この辺をどう考えたらいいのかというところが一つ問題になろうかと思います。その辺をどうしたらいいのか。
  結局、大きく見れば、なるほどそういう点から見ると、高等学校というのは大学入試に引っ張られてしまって、文字どおり受験対策だけに限られたことにならざるを得ないような需要がそれだけ強くあるのかなということになるのかもしれませんが、その辺のところ、先ほど出ましたような内申書の問題とか、あるいは小論文の在り方とか、そういうことを含めてお互いがいい意図を持ちながらも、現実的にはすれ違ったことをしてしまっているというようなところを検討してみる必要があるのではないかと思います。

○  実は、先ほど私、ちょっと意地悪になるなと思って質問しなかったことですが、西本先生のお話は、大学の入学試験の在り方と高等学校教育の現状はリンクしている、あるいは高等学校教育が大学入試にシフトした形になって、高等学校教育がそのしがらみから抜け出せないというようなことだったと思います。
  実は、それと同じことが中学校と高等学校との関係の中にあります。今、他の委員の方が大学は大変な努力をしているとおっしゃったように、恐らく私が中学校教育が高等学校入試にシフトした形になっていると、中学校と高等学校の関係がテーマとなっている場で発言をしますと、高等学校側は一所懸命努力していると発言し、中学校側は、高等学校入試が変わらないと中学校は変わらないと発言すると思います。
  確かにそういう面はあるけれども、その中で、中学校は何ができているのか、ここまで努力しているが、これ以上は制度の問題だということが出てくればいいわけですが、現状は高等学校入試の在り方だということで議論が終わってしまう傾向にあります。
  それから、他の委員の方がおっしゃったように、面接があり、小論文がある。これと同じことを中学校もやっておりまして、面接の練習だ、お辞儀の仕方をもう一度とか、作文の書き方といったものをトレーニングしております。2学期に新聞等で話題になりましたが、東京のある中学校では、面接で聞かれた内容を集約してそっくりテスト業者に渡して、大きくたたかれるというような問題がありました。今、先生のお話を聞きまして、中学校と高等学校の関係は高等学校と大学の関係と全く同じだなということを、つくづく感じました。
  快刀乱麻を断つようなものがあればいいのですが、高等学校と大学の接続の問題と中学校と高等学校の接続の問題は基本的に同じものだなという認識のもとで、今後の議論を進めていただければありがたいと思っております。

○  今回の審議会は要するに接続といいますか、入試の問題をどうするかということですね、端的に言いますと。日本の社会の中で、受験とか、入試というものがマイナスの意味の、物のけのようなイメージとしてとらえられていると私は思うんです。
  しかし、もうちょっとしっかり考えますと、何年か先には、数の上からいきますと、大学、高等教育に入るというのはほとんど全入状態になるわけです。ですから、ある特定の大学への熾烈な争いということになるんだろうと思います。ですけれども、世の中全体としては、それが全高等学校生、全18歳、全19歳あたりを取り込む大事件のように語られている。事実そのイメージが席捲しているということのマイナスをどうするかという問題も、私は非常に大きいと思います。
  結局、一つの整理ですけれども、入試といいますか、どこの大学にどの生徒が入るかという問題について、今まではどちらかというと、できるかできないかという能力判定の比重が非常に強かったと思うんです。それはもちろんある程度必要でないわけではないんですけれども、これからはマッチングの問題として、進路判定というところに比重を置くテストというふうに考えていく。そうすると、少し気持ちが明るくなるのかなという感じがするんです。つまり、人間、動機づけられればかなり能力を発揮することができる。ところが、動機づけがないと、同じような能力を持っていても、なかなか社会全体に貢献するような人間に育っていかないという問題があるんですね。その辺を考えたテストにしていく。
  大学入試テスト、具体的に言うと昔の共通第1次学力試験というようなことなんですけれども、そのテストの性格もだいぶ変わってきてはいると思うんですが、それをどうするのか。あるいは、進路判定、進路学習というふうに西本先生はおっしゃいましたけれども、それを中学、高等学校ぐらいからかなり大きな比重で考えていくことが大事ではないかと思います。こちらのほうで考えないと、恐らくこの部分は、それは民間企業でもいいんですけれども、そっちのほうで取り組むのではないかという予感が何となくいたします。

○  意見というよりも、大学入試センター試験の在り方にかかわってお尋ねしたいんですけれども、よろしいですか。
  各個別大学の入学者選抜というのは、これから入学者数の減少等々を含めて、かなり個別化して、例えばアドミッション・オフィス等による入試改善の進展等、いろんな形で進められると思うので、高等学校と大学の接続の問題で当面中心的な問題の一つになるのは、センター試験の在り方なのかなと考えています。西本さんのお話でも、また高等学校側のお話を聞くと、大学入試センター試験に対する批判がありますよね。その批判をお伺いすると、大体、完成教育としての中等教育の在り方をサポートするよりも、むしろそれを制限するような形で、今の大学入試センター試験等々が作用しているのではないかという批判が基本的なポイントだと思うんです。
  どういうことかというと、青年期としての進路選択、キャリア・ガイダンス等々を含めて、自分の将来を豊かに模索していくことができないこととか、大学入試に規定されて幾つかの受験科目に傾斜して、バランスのよいないしは幅広い勉強が高等学校でできないとか、考える力が育たない等々、あたかも大学入試センター試験がその主要な原因だという形で指摘される方がいます。そうした批判について、どう考えられているのか、又、そうした批判に含まれる問題点について何か改善する余地はあり得るのかどうかということも、今後の課題を考えてみたいと思いますのでお聞きしたいのですが。

○  全く私の個人的な見方ですが、大学入試センター試験は、二つぐらいの大きな矛盾を抱えてしまっているという気がしております。大学入試センター試験の目的は、「高等学校教育の到達度をはかる」ことです。共通第1次学力試験のころは「高等学校教育の基礎的・一般的達成度をはかる」と表現され、なおかつこれは「選抜試験の一部である」という明言されていたわけです。しかし、大学入試センター試験は、高等学校教育の基礎・基本の達成度をはかる試験であって、入学者選抜に当たって資料の一つとして用いられるものです。非常に大ざっぱに言えば、例えば2単位科目と4単位科目が同列におかれていたり、「国語  I  」、「国語 と  II  」という4単位科目と8単位科目が両方選択可能になっていることが容認化されているわけです。入学試験として大学入試センター試験を見たら、公平性・平等性という点で大変に大きな矛盾を抱えていることになると思います。大学入試センター試験ははたして入学試験であるのか。といえば、制度的には高等学校教育の到達度評価であって、入学試験ではないというのが、制度に忠実な答えだと思います(  I  と  II  ・  II )。にもかかわらず、大学入試センター試験は共通第1次学力試験の延長として大学に利用され、高等学校側にも入学試験として認知されているという矛盾があります。
  もう一つの矛盾は、高等学校教育の到達度評価という目的で大学入試センター試験が実施されているのであれば、文部省の高等教育局大学課入試室が大学入試センター試験を所轄しているというのはおかしいということになります。むしろ初等中等教育局で所轄するべき試験ではないのか。
  そういたしますと、大学入試センター試験のさしあったての改善は、この矛盾をどこかで正すことです。先ほど岡本専門委員がいみじくも指摘されましたように、幅広い基礎学力を身につけた生徒が適切に評価されるような入学者選抜であるためには、高等学校教育の多様化が進行する中で、それを評価できるような体制が高等学校教育の側にあることが必要です。そのためには、今以上に高等学校教育の目標が何であるのかということが問われなければならない。
  ですから、今回の審議会のテーマにしても、直接入試を問うのではなく、高等学校教育の目標は何であるのか、大学教育の目標は何であるのか、それらを的確に接続するにはどうしたらいいのかという形でテーマが組み立てられているのだろうと思います。
  いずれにしても、大学入試センター試験の中の高等学校教育の到達度をはかる部分をどうするのか。それから、入学試験の部分をどうするのか、後者は絶対に公平性・平等性を欠くことはできません。そのためにはどういう条件が満たされなければならないのか、そこから大学入試センター試験というのは考えられなければいけない。例えば、大学入試センター試験をその役割に応じて二つの部分に別けて、その上で、それぞれのシステムをどのようにつくっていくのか、それを考えることもひとつの方法ではないかと思っております。

○  大学入試センター試験がだいぶ批判されているようですが、昔から経過を見ていますと、大学入試センター試験は割合うまくいっている。少なくとも今まではうまくやってきたのではないかと思います。
  先ほど他の委員の方が言われましたように、西本先生が言われるように推理力だとか、論理力だとか、基礎学力を公平に評価できる試験じゃないというようなことはないんで。むしろそういう意味で言えば、客観テストの問題というのは大学入試センター試験の問題というよりも、非常に多くの大学の抱える問題であるわけです。そして、特に大規模大学で行われている客観テストの問題などにはかなり問題があるけれども、そういうのに比べると大学入試センターの問題は、まあ、非常によくできているのではないかという印象です。
  それから、選抜が何か学力検査だけというお話でしたが、別の委員の方からお話がありましたように、推薦入学とか、多様な方法が取り入れられてきておりまして、現在、数からいくと大学でも3割ぐらいは推薦入学とか、特別選抜とかでやられておりますし、去年からは3割の枠を若干緩く解釈するようにもなっておるわけです。趨勢からいけば、入学試験の方法というのは、学力検査、学力検査の中に記述式もあるだろうし、客観テストもあるだろうし、小論文もある。小論文は学力検査かどうかわかりませんけれども、かなり多様化してきています。推薦入学は大抵面接も行われておりますから、趨勢としては改善の方向にいっているのではないかと認識しております。だから、もう何もしなくていいというわけではありませんけれども。
  これから需要供給の関係を考えれば、いや応なしに多様な方法で学生を採用するということが進むわけですから、そんなに神経質になる必要はないのではないかというのが私の印象でございます。

○  最初に、大学入試センター試験のお話が出まして、他の委員の方から適切な御説明があったんですが、私としても個人的には大学入試センター試験は変な問題じゃないと思っている立場です。実際受験している現場で生徒を見ていますと、大学入試センター試験のために勉強するというのは1ヵ月かそこらだという生徒もいるわけです。一般的に大学受験生がそう大学入試センター試験に影響を受けているという言い方はちょっと正確ではないような気がします。
  その背景には、いろんな層の生徒が大学を受験しているという意味で、それこそ大学入試センター試験でいい点を取るのが目的の生徒もいるし、大学入試センター試験の準備をするのはせいぜい1ヵ月か2ヵ月、直前にちょっとやる、それで十分という生徒もかなりいるというのが実態です。西本先生のお気持ちはよくわかるんですけれども、その点はもうちょっと正確に言わないといけないのではないか。大学入試センター試験はかなりいい問題だと思います。しかも、30年間やってきてノウハウができているものですから、これは大切に育てていかないと、将来すごく困るだろうと思っています。それがまず第1点です。
  それから、前回も申し上げたんですけれども、私の感じでは、高等学校が目標としている教育、学力を含めた目標と、大学が求めているものがずれているんだと思うんです。ずれているために、受ける側は非常に不安になるわけです。ですから、入試のことをよく「不安産業」と言う人がいますが、この不安を取り消すことが非常に重要なことだと思っているわけです。民主主義社会というのは、なれるものにだれでもなれるというのが基本ですから、自分が何になりたいということを試験で試すことは絶対に大事なこと、最も公平な仕組みですから、これは大切に育てていかなければいけないと思っているんです。ただ、不安が不要に問題をゆがめる結果になることについては、十分気をつけなければいけないと思います。
  接続の問題について今申し上げたような議論をきちっとして、高等学校教育と大学がどのようにつながる部分があるのかということと、それから率直に言って大学のほうにお願いしたいのは、大学入試が今や大学だけの問題ではなくなった。つまり、普通に社会現象として求められているようなアカウンタビリティーというんでしょうか、透明性みたいなものはやはり覚悟してもらわないといけなくなってきた。最近でも大学の試験問題について大きく取り上げられていましたけれども、不安を何とか解消することがこの審議会でできれば、あとはアカウンタビリティーに基づいて、大学側が工夫してつくるというのが入試のこれからの流れかなと考えています。今の段階ではそんな考えを持っているということでお話をさせていただきました。

○  私も、生徒と教員との間の距離がより近い関係の中で学習・教育がなされていく、それも生徒一人一人の個性が尊重された上でなされていくことは、高等学校でも、大学でも、どこでも重要だと思います。また、知的発達という側面のみならず、人間形成という上でも極めて重要だと思っております。高等教育と中等教育をつなぐ一つの問題に、人間形成という点での縦の柱を一本通すためにはどうしたらいいかを考えるべきではないでしょうか。
  それを考える上で妨げになるものが、入試の客観テストであるというようなお話がありましたけれども、それ以外のことは考えられないでしょうか。入試の客観テストというのは中等教育の中学校なり高等学校なりそこの節目を横に区切ったところで行われる一大イベントなわけですけれども、そこの節目を縦につなぐことを考えてみますと、現在の6・3・3制のタームで十分落ちついた教育ができるかどうか。それは先ほど申した人格形成の上でも、あるいはより上のレベルの学校へ進むといった進路に関する知識や、自分が自分の中につくっていくべきものを蓄えるためにも、ゆとりといいますか、十分な長さの時間をもてる制度かちょっと疑問も抱いております。
  例えば3年制の高等学校では、2年生までは高等学校としての完成教育を目指してなさってきておりましても、3年生になると一挙に受験勉強体制へと変わってしまう。そうしますと、実質、落ちついた教育は2年間しかなかったのではないかということになります。そのように考えますと、6・3・3制、せっかくできているシステムでありますけれども、それを前提とした上で、大学入試の在り方だけを変える、あるいは高等学校入試の在り方だけを変えるということで十分なのかどうか、そういう疑問を持ちます。

○  先ほどの話の中にもあったんですけれども、本来あるべき姿の高等学校が大学入試によりゆがめられているのではなかろうかと。それはそのまま中学校は高等学校入試によってゆがめられているのではないだろうかということが、先ほどの委員の方からも少しありました。私もそのように思う一人でありまして、何か入試のためということが常に子どもたちの頭の中にあって、先ほどのお話の中に内申書ということがありましたが、内申書をよくしてもらうためには、これをしなければならない、あれをしなければならないと。例えば中央教育審議会で出しました「心の教育」という問題についても、ボランティア活動なんていうことも、結局は内申書をよくするために私はやるんだという姿がかなり見えてきます。
  先日、あるテレビ番組で、教育の問題についてファックスをといったら、内申書に関することが全体の4分の1ほどきました。非常に辛辣なものもありました。人間を選ぶということの難しさというのは、いろんな面であるかと思います。
  先ほど、大学入試センター試験は到達度をはかるというようなことで言われておりました。高等学校を卒業するというのはどういうことなんだろうということを一つ考えてみたときに、到達できていないのに出しているんだろうか。もし到達できているとしたら、それは大手を振って高等学校は卒業させてやるべきだと思いますし、もしその段階で到達ができていないのであれば、進んでとどまってもらうような対策はとれないんだろうか。一応高等学校を出たという一つの資格に対して、大学のほうももっと重要視して見ていただけたらいいんじゃないかと思うんです。
  中学校から高等学校への進学率が97%ということ。それから、先ほど学力差が大変大きいという話がありました。そうなってくると、中学校から高等学校へ行くときにも問題が一つあるのではなかろうか。卒業するということの認識が、中学校で学ぶべきものを全部学んだから卒業させるということにはなっていない。高等学校で学ぶべきことを学んだから卒業できるということになっていない。だから、高等学校へ行っても分数ができない子がいるという状態が生まれているのではないか。それを無理やりに接続させようとするところに一つ問題があるのではないだろうかという思いがしました。

○  簡潔に2点だけ申し上げたいと思います。
  1点は、大学入試センター試験につきましては、先ほどの他の委員の方のお話と私は全く同感でございますので、それで済ませていただきまして、もう1点でありますけれども、先ほど大学と高等学校の思いの中にズレがあるのではないかという話がございまして、私もこの点につきましてそういうことを感じておりましたので、一言申し上げたいと思いました。
  結論的には、私は大学と高等学校がもう少し日常生活の中で話し合いの場といいますか、連携を持たれるような工夫をしていきたいということを一つ考えております。具体的な例を申し上げますと、私どもはいろんな委員会を設けまして、例えば産業教育審議会などを県単位で設けておりますけれども、このようなときに工業高等学校から工学部などに推薦入学をお願いしたいというような話題があります。そうしますと、大学のほうは基本的には結構だと申しながら、実際にそういう学生を採用してみると、微積分も十分できないのではないか、あるいは普通科から来る生徒に比べると英語力も劣る、これでは大学も困るというような話がありまして、送る側と迎える側のズレがこういうところにはっきり出てくるわけです。高等学校もそういうことを十分承知していなくて、どうしてこんないい生徒がだめなのかとか、そういうことで終わっている。これらは両方の努力で少しずつ改善していく必要があるのではないか、そんなことを考えております。以上でございます。

○  先ほど他の委員の方から、まず大学と高等学校の役割と機能を考えるところからスタートすべきだという御意見に私も賛同しますし、と同時に、どういうことが一緒になってできるかという連携の方法も考えるべきだろうと思います。その中から入試に迫っていくという方法が最も必要なのではないかと思います。
  と同時に、そういう観点で今の入試制度全体を眺めてみますと、選抜方法の多様化、評価尺度の多元化を目指す方向は、基本的に正しいと思いますが、現在の状況全体を眺めてみますと、多様化が進み過ぎて複雑化しているという状況に、今、大学入試制度はあるのではないか。今からとるべき方法は、これをどのように簡素化していくのかという方向を探ることが必要なのではないかと考えます。もちろん多様化・多元化という枠は維持しつつ、簡素化の方向を探っていくことが大事なのではないか。
  そして、大学入試センター試験プラス個別試験において、大学側がその作問にどのようなメッセージを込めて発信するかを考えるべきであろう。大学にとってそのメッセージは、どういう教育理念、目標、教育内容を用意しているかということにつながってまいります。と同時に、そのメッセージは、高等学校においては先ほどおっしゃいました進路学習のための素材となり得るし、そのためのガイダンスということにも十分役に立ってくるだろう。そのような機能を大学入試が発揮してくれば、昔から俗に言う「入試も教育の一環」というところに近づいていくのではないかという感想を私は持っております。

○  高等学校での教育の目的、大学での教育目的、それぞれを充実させるために、間をつなぐ大きなポイントの一つである客観的なテストとか、推薦入学とか、内申書とか、AOとか、いろいろなものが両方の目的を生かすようにあってほしいということを願った御議論をいただけたと思います。現在のところでは、高等学校のほうの見方、大学の見方の間のズレが若干あるようでございます。
  きょう、客観テストに関してかなり際立った御発言をいただいたことで論議が活発になりましたけれども、客観テストと記述テストを縦軸にとって、思考力と知識を横軸にとると、そのマトリックスはすべて埋まるはずだし、西本先生も大学入試センター試験なんかでも思考力をおはかりになれるとおっしゃっております。〈客観テスト〉=〈知識・学力〉というところの思い込みが大学と高等学校の間にまだかなり根強く残っているなという感じを持った次第でございます。

○  まず私が感じましたことは、高等学校の3年に入ると、一種の予備校化するというか、受験というものに非常に傾斜した内容になってきているようでございまして、先ほど高等学校協会の会長さんもお話のとおり、指導充実校における表をずうっと拝見いたしましたら、3年の5月ぐらいからそういう風が吹いてきて、子どもたちにとって3年目というのは補習校的な色彩をかなり強めているのではないかという印象を持ちました。
  それが結局さかのぼりますと、中学校、小学校、それから幼稚園から塾へ行くというようなことにつながってまいりまして、子どものエネルギーが正常であるべき姿になってないのではないか。子どもたちのものすごいエネルギーを我々がいかにして正常な道に引き戻してあげるかということが、大学との接続の問題に非常に大きな問題になっているのではないか。
  子どもたちは「非常に忙しい」と言いますよね。我々の少年時代と非常に違う生活を送っているわけでございまして、そういったものに圧殺されてしまうようなところに社会の問題が起きているように、いろいろお話を伺いながら感じたわけでございます。
  したがって、私としてはこの猛烈なエネルギーがもったいない。それをいかにしてあるべき姿に昇華させて花を咲かせてやるのかというところの視点が必要ではないかと思ったことが第1点でございます。
  それを考えるときに、前回もずうっとおやりになったようですが、もちろん国際比較は必要になってくるわけです。ただ、ここで私が申し上げたいのは、日本は日本でございますから、アメリカ的な行き方がすべていいというわけではございません。それに対してヨーロッパのイギリスとか、ドイツやフランス型の行き方もあるわけで、これは国際比較をした上で、やはり日本的な第3の道を我々は模索しなくてはいけないのではないか。
  そのときに、最近、よく言われますけれども、日本の近代化の過程ででき上がってきた終戦前の教育システムの中にも、いいものがかなりあるんですね。そして、過去を否定して新しく終戦後なったという事情もございますが、やはりその以前の日本の教育のシステムの中のよきところを、私どもは学び取る必要があるのではないかという感じがいたします。国際比較ばかりではなしに、日本の過去の教育システムのいいところを、もう一度ここで考え直してみる必要があるのではないか。
  例えば、私たちの場合は小学校6年、中学校は4年から5年、つまり4年で高等学校入試ができましたし、そこで失敗した人は5年でもう1回受ける。5年で失敗した人は、大体中学校に補習科というのがございました。そこで大体1年間補習をやるわけです。ところが、先ほどのお話だと正常の高等学校教育の中にその補習部分が入り込んできちゃって、3年生というのは実際は2年ちょっとしか基礎学力をやらないのではないかというような印象を私は持ったんですが、昔は高等学校に入る前に1年、補習科というのがございました。そして、高等学校に入る。高等学校から大学に入るときは、我々の経験では3ヵ月から2ヵ月ぐらいの大学入学試験勉強でございまして、それで大学へ入っていくというようなことで、数の点からいいましても今とは非常に違うかもしれませんけれども、かなり違った姿でございました。そういったものと今の6・3・3・4という中における受験のシステムというのがどのようになっているのか。これをもう少し突き詰めるべきではないかと思ったことが、第2でございます。
  それから、結局、あるべき姿は何なんだということを考えますときに、双方向、きょうもお話が出ましたけれども、つまり、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、それから大学、社会という前の方向と、今度は逆に社会から大学、大学から今度は高等学校に戻る、高等学校に戻って中学校、小学校、幼稚園に戻るという、つまり双方向の発想が必要ではないか。そういう双方向の発想の中で、大学入試という一種のルビコン川を渡るわけですな。そこをどう考えるのか。
  これを考えていきますと、結局は入試という一つの接続点を中心にいたしまして、先ほどもどなたか先生がおっしゃっておりましたけれども、高等学校と大学の教育内容自体の継続性の問題とか、あるいは大学教育の役割、高等学校教育の役割とか、そういった一つの一貫したものの中に、大学入学試験というものがあるわけでございまして、その辺の全体像をトータルで、高等学校、大学にまたがってどう見るのかという問題になるのではないかと思います。私立大学では大学入試のないところだってあるわけでございましょう。そういったものも参考としながら、少し大きな目で見ていく必要があるのではないかと思った次第でございます。
  最後になりますけれども、あるべき姿というのは、日本の国家あるいは社会を21世紀においてどう考えるか。そして、そこにおいて要請される人材はいかなるものであるべきかという論議がなければいけないわけでございまして、抽象的な言い方で私なりの考え方を申し上げますと、やはり21世紀に向かって日本はダイナミックでなければならないということが一つでございます。それから、ダイナミックということは、経済的なアニマルになるということではございません。当然のことながら、そこに一つの道徳意識を持った徳のある国家でなければならないということでございます。我々は経済界から見ておりますと、市場主義というものとか、あるいは情報通信革命の影の部分がもたらす人間疎外の問題を、いかにして教育の面で克服するかというのが大問題でございまして、そういった問題を含めて入学試験の在り方を少し考えてみたらいかがかと思うわけでございます。

○坂元座長代理    どうもありがとうございました。
  それでは、時間もまいりましたので、今後の審議の日程について、資料を御覧いただきたいと思います。第4回の小委員会につきましては、「大学教育の現状について」及び「大学教育を受けるのに必要な能力について」の御審議をいただくことといたします。「大学教育の現状について」と、「大学教育を受けるのに必要な能力について」のヒアリングを行いたいと考えております。今回が高等学校で、次回が大学ということでございます。
  なお、委員・専門委員の皆様方には、これまで同様、プレゼンテーションをお願いすることがございますので、その際はよろしくお願い申し上げます。
  それでは、本日の会議を終了いたしますが、事務局、何かございますか。よろしゅうございますか。はい。
  次回は、2月10日、水曜日、13時から、ゴールドスタールーム、35階でございます。よろしくお願いいたします。
  これでお開きにさせていただきます。どうもありがとうございました。


(大臣官房政策課)

(大臣官房政策課)

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