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中央教育審議会

 1999/1 議事録 
初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会 (第2回)議事録 

   中央教育審議会  初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会(第2回)

    議  事  録

日  時    平成11年1月19日(火)       13:00〜15:00
場  所    ホテルフロラシオン青山  1階  ふじの間


  1.開    会
  2.議    題
        初等中等教育と高等教育との役割分担について
  3.閉    会


    出  席  者

 委員  専門委員  事務局
薄田委員 荒井専門委員 梶野生涯学習官
川口委員 安齋専門委員 辻村初等中等教育局長
河野委員 磯部専門委員 御手洗教育助成局長
國分委員 岡本専門委員 佐々木高等教育局長
坂元委員 小川専門委員 高   総務審議官
田村委員 工藤専門委員 杉浦政策課長
土田委員 黒羽専門委員 その他関係官
永井委員 小嶋専門委員
横山委員 小谷津専門委員
橋口専門委員
久野専門委員
山極専門委員
山口専門委員
四ツ柳専門委員


○坂元座長代理    それでは、定刻になりましたので始めさせていただきます。
  本日は、木村座長が御都合により欠席なされますので、最初の小委員会の会議で座長選任の際に御了承いただいておりましたように、私、坂元が代わりに進行を務めさせていただきますので、よろしくお願いいたします。
  それでは、ただいまから中央教育審議会の「初等中等教育と高等教育との接続の改善に関する小委員会」、第2回になりますが、会議を始めさせていただきます。皆様方におかれましては、大変御多忙な中を御出席いただきまして、誠にありがとうございました。
  本日は、「初等中等教育と高等教育との役割分担について」御審議をいただくことにいたしておりまして、またこれに関連しまして、荒井克弘専門委員から御発表をいただきたいと考えております。
  それでは、今回の配付資料につきまして、事務局から御確認をお願いいたします。

<事務局から説明>

○坂元座長代理    それでは、早速、討議に入りたいと存じますが、以前に申し上げましたとおり、外部の方からのヒアリングを行う以外に、委員・専門委員の方からその御知見を発表していただく機会もつくっていきたいと考えておりまして、本日は、大学入試センターの研究開発部教授である荒井専門委員から、「初等中等教育と高等教育との役割分担について」、諸外国の状況等も含めて御発表をいただけることになりましたので、まず45分程度の御説明をいただいた上で、その後、自由に意見交換をお願いしたいと存じます。
  それでは、荒井先生、よろしくお願いいたします。

○荒井専門委員    大学入試センターの荒井でございます。
  お手元にA4判1枚のレジュメと8枚つづりの図表の資料が配付されているかと思います。全体の流れはレジュメのほうにまとめてございますが、主には資料のほうに沿ってお話をしていきたいと思っております。
  私にいただきましたテーマは「初等中等教育と高等教育との役割分担」ということでございます。たいへん大きなテーマですので、正面から切り込むことはなかなか難しいテーマでございます。
  そこで、今回報告させていただく内容としましては、教育の量的拡大に伴って、高等学校と大学の接続関係がどういうふうに変わってきたのか、あるいは変わっていくべきなのかという枠組みに関する部分と、それから実際に教育拡大に伴って高校教育あるいは大学教育の中味がどのように変質してきたのか、その抱えている問題は何かというあたりを報告させていただこうと思います。最後にこの接続関係あるいは役割分担に関しまして、諸外国の事情に、90年代に入りましてから少し動きがございますので、その中からアメリカのオレゴン州のケースと、オーストラリアのクイーンズランド州で試みられている新しい取り組みについて、若干御紹介をしたいと思います。45分という時間ですので、やや舌足らずになるかと思いますが、以下、御説明をさせていただきます。
  資料のほうの「図1」を御覧いただきたいと思います。アメリカの中等教育と高等教育がどのような量的拡大のプロセスをたどったかという時系列のグラフでございます。これは皆さん御存じかと思いますけれども、アメリカの高等教育学者にM・トローという方がおられます。高等教育の発展段階を「エリート段階」、「マス段階」、そして「ユニバーサル段階」という3つの段階に分けまして、それぞれの段階において、高等教育がどのように質的に変わっていくかということを分析した方でございます。
  図1はM・トローが1963年に発表した論文から引用してきたものでございます。だいぶ前のグラフですので、1960年以降の部分は推定値になっておりますが、全体の枠組みを論じる上では、まったく問題はありません。
  高等教育というものが「エリート段階」にあると彼が考えたのは、就学率が15%までの段階でございます。15%〜50%までを「マス段階」というふうに呼んだわけですが、50%を超えた段階は普遍段階、つまり、だれもが高等教育を享受できる時代ということで、「ユニバーサル段階」と名づけています。
  高等教育の発展段階論は短期間にたいへん有名になりましたが、なぜ15%から「マス段階」なのか、あるいはその後の「ユニバーサル段階」との違いは何なのかということに関して、必ずしも十分に議論されてきたとは思えません。この点こそ、今回の小委員会の中で審議される接続関係の中心的部分であると思います。
  高等教育の拡大に先んじて中等教育の拡大が進んでいるようすは図から観察されるとおりでありますが、ちょうど高等教育が就学率15%点に達したときに、中等教育の側の就学率は大体7割、70%まで伸びておりまして、この時期に、アメリカの中等教育と高等教育の間にさまざまなコンフリクトが生じたことが知られています。
  御存じのように、アメリカの公立のハイスクールは、19世紀の終わりから20世紀にかけて急速に全米に普及したものです。これは地域の市民完成教育を目的として定着していったものですから、大学進学の増加を想定してこの中等教育が普及していったわけではございません。そのために、高等教育の収容力がだんだん拡大をしていきまして、公立のハイスクールからも大学に進学したいという者が増えてくると、市民完成教育であるべき高等学校の教育内容を、完成教育から進学準備教育へと変えていかなければならなかった、そういう事情が、1940年前後に発生しております。
  一方、急速に収容力を増していった高等教育の側も、それまで大学に入ってきた学生とは違ったバックグラウンド、それは教育的にも社会経済的にも異なった社会階層から学生がどんどん入ってくるようになる。しかし、この新しい参入者である学生たちを大学はうまくさばき切れなかった。その証拠に、学生の受け入れに当たって大変多くのトラブルが生じました。
  1930年代初頭までは、アメリカの大学入学問題の中心は選抜の信頼性と妥当性でした。本当に優秀な学生を選抜できているのだろうか、実施している試験は信頼性、妥当性ともに高いものであるのだろうかということが中心的な関心事であったわけでございます。ところが、1940年前後から大学入学問題の中心に登場してきたのは、いかに円滑に中等教育から高等教育へ学生を移行させるか。新しく参入してきた学生たちを彼らの能力あるいは適性に応じて、どういう高等教育のチャンスに配置することができるかという高等教育の適正配置、あまりこなれた表現ではありませんが、プレイスメントという問題が、大学入学問題の中心になってきたということでございます。つまり、この40年あたりを境にして、大学入学問題のパラダイムが大きく変化したのだということが言えるかと思います。
  その間の変化を「表1」にまとめてみました。中等教育も高等教育もそれぞれ就学率の15%と50%で区切り、3段階に分けてございます。これが中等教育から高等教育の接続を考えたときにどういう組み合わせになってくるのか。実際に存在する組み合わせに限定して整理をしますと、ちょうど四つのパターンが抽出できます。
  中等教育も「エリート段階」にあり、高等教育も「エリート段階」にあるという組み合わせでは、どのような入学者選抜が行われていたのか。トローの分析では家柄あるいは特別な才能、それに能力主義的な選抜もこの段階で行われたと記述されています。
  中等教育が普及して行きまして、「マス段階」に達し、しかし、高等教育はまだ「エリート段階」にとどまっているという段階では、能力主義的な選抜がより先鋭化して中心的な方式となります。選抜の公平性、公正性に関しても厳しく問われ、その中で、今申し上げました能力主義的な選抜、まあ、学力選抜と言っていいかと思いますが、それが支配的な選抜方法として維持されるということでございます。
  さらに、中等教育が拡大していきまして「ユニバーサル段階」に入ります。その段階では、高等教育も「マス段階」に入っているわけですが、そこでは「エリート段階」から引き続いて、能力主義的な選抜を行う機関もありますが、その一方で、多くの人が高等教育に進学するようになったことで、高等教育の教育機会をどのように均等化していくか、また広がった高等教育の機会をそれぞれの学生にとっていかに意味のあるものにするか、それらが入学者選抜を考える上で非常に大きな問題として登場してくるようになります。
  さらに、高等教育の量的な拡大が進みますと、中等教育も「ユニバーサル段階」にあり、高等教育も「ユニバーサル段階」にあるという組み合わせが生じます。現在、アメリカの高等教育が「ユニバーサル段階」にあるのかどうかというのは判断の難しいところがありますが、仮にそうであるとすれば、依然として一部の大学には能力主義的な選抜が残っています。しかし、大多数の大学においては今やどのように大学進学志望者たちに適切な教育機会を与えることができるのかが大きな問題であります。
  だれもが高等教育を享受できるという環境を整えるために、個人の意思さえあれば大学に進学できる、トローは「結果の平等」という言葉を使っておりますが、何年かかるかは個人々々の努力と才能によるわけですが、みんなが望むレベルの高等教育を享受できる環境を整えるために、どういう入学者選抜方式が望ましいのか、「ユニバーサル段階」ではそういう選抜を考えなければいけない時代になると述べています。
  やや我流にまとめたところはございますが、トローの言うところの発展段階を枠組みに用いまして、中等教育と高等教育の接続の在り方を考えてみますと、大体以上のような整理ができるということでございます。
  「図2」を見ていただきますが、実際にアメリカの大学の入学者選抜がどのような展開をたどったか、いくつかの調査等を調べてみますと、トローの考察していた内容からそれほど大きくは離れていないことがわかります。ここに示しましたグラフは、アメリカの統一入学テストにSATというのがございますが、そのSATのスポンサーであるカレッジボードが中心になりまして、1979年から6年置きに全米の大学に調査しているものの結果でございます。95年のレポートですが、調査は92年に行われたものです。今のところ我々が入手できる最新のものでございます。
  そこで、アメリカの大学の入学者選抜は三つのタイプに分けられるということで整理をされています。「Open-door」と書かれていますのは、皆様御存じのとおり高等学校の卒業あるいは18歳になったということを資格にしまして、原則として入学が許可されるというものでございます。
  それから、「Selective 」と書いてございますのは、内容から「資格選抜制」とでも訳すのが適当かと思いますが、各大学が設定した入学要件、「アドミッション・リクワイアメント」と申しますが、それをクリアした者につきましてはすべて入学を許可するというものでございます。入学要件としましては、例えば入学統一テストの点数が何点以上、高等学校での成績が何パーセンタイルから上とか、あるいは高等学校でこれこれの科目を何年間履修しているというように細かく決められておりまして、それをクリアしている者は全員入学許可されるという方式でございます。
  3番目の「Competitive 」と書いてございますのは、「競争選抜制」と通常訳しますが、一定の入学要件を満たしている者の中から、さらに該当者を選抜するということでございます。日本の大学における一般選抜と基本的に同じ方式であるとお考えいただいても結構かと思います。
  このグラフを見ますと、2年制の公立大学、コミュニティカレッジを指しますが、そこでは9割方が「開放入学制」をとっているということが御覧いただけるかと思います。
  一方、4年制大学につきましては、8割近く、75%ぐらいが「資格選抜制(セレクティブ)」という入学方式をとっている。「コンペティティブ」と言われるものは実は14〜15%である。その構造には、公立も私立も大差ないというのがこのグラフから示唆されるところかと思います。
  この中で、最も我々が注目しなければならないのは、この「資格選抜制」と呼ばれる7割〜8割を占める大学群ではないかと思います。これらの大学の入学方式が最も多様であり、また大学というものが量的に急拡大していく中で、膨れ上がってきた部分であるということでございます。
  さて、「図3」から日本の話に移っていくわけでございますが、高校進学率を点線で示しまして、さらに実線で大学短大等の進学率を示しています。日本の大学短大等進学率が、先ほどのトローモデルを模して15%点を超えたのはいつかと申しますと、1963年でございます。
  このとき、高等学校への進学率が67〜68%に達していたわけでございますが、この時期に、日本の高校教育にもアメリカの高等学校教育が遭遇したようなあつれきが生じたのかということで考えますと、いろいろ見解はあるでしょうが、大かたの見るところでは、格別の混乱はなかったのではないかと考えます。実はこの63年という年には能研テストが開始されたということもございますが、話があまり複雑になるといけませんので、そこの部分は割愛させていただきます。
  日本の高校教育は普通科の順調な拡大、そこからの進学者の増大ということで、高等学校普通科のメニューの中にしっかり進学準備教育が位置づけられていたことにより、大学、短期大学等の進学率が上がっていく過程においても大きな混乱は生じなかったということでございます。
  一方、大学のほうはどうであったか。大学の側には少なからぬ混乱はあったようにも思いますが、それが大学入学者選抜の全体に影響するような問題として提起されることはなかったと言ってよいかと思います。
  その後も、日本の大学入学者選抜は学力選抜あるいは能力主義的選抜と言い換えてもいいかと思いますが、そういう制度のままでずっと推移いたしまして、例えば共通第1次学力試験制度が導入された1979年のときにも大きな変化はなかった。このときの大学・短期大学等進学率は37.4%ですから、アメリカで進学率の増大とともに入学者選抜の課題の大きく変わった時期と同じような段階を過ぎても、その体制が大きくは揺らぐことはなかったということでございます。
  共通1次試験制度というものは、その制度の本質からすれば決して能力主義一辺倒のものではなかったと思いますが、残念ながら、期待されたように各大学の2次試験の多様化が進まなかったこともありまして、日本の大学入学者選抜はその後も能力主義的選抜を続けることになったと思います。共通第1次学力試験に対する国民的な反発は、もっぱら輪切り、序列化に向けられましたが、その根幹は進学率の高さと選抜原理との間の違和感に発していたと考えられます。
  1984年に臨時教育審議会が始まりまして、85年だったと思いますが、第一次答申の中で入試改革が重要課題にとりあげられ、共通第1次学力試験に替わる新しい共通テストが提案されることになりました。そしてこれと同時に、入試の多様化ということも盛んに言われるようになりました。その結果、推薦入学も増えますし、あるいは各大学でもって試験科目の内容をそれぞれの大学あるいは学部の個性に応じて変えていくという改革も進んでまいります。
  ただ、現在の時点でこれを振り返ってみますと、この多様化というのは果たして何であったのか、必ずしも原理的な転換を示唆するようなものではなかったのではないかという感じがいたします。これはもちろん異論のあるところかと思いますが、多様化によって入試は大変複雑化した。それによって序列化は見えにくくなったけれども、実は試験科目を削減するような形で能力主義的選抜を細分化する、あるいは試験を軽量化することが多様化と称されていたのではないか、という印象が致します。そういたしますと、大学入試センター試験に替わってからも、能力主義的選抜は依然とし日本の入試全体を覆ってきたと言わざるを得ないと思います。
  ところが、一方、日本の高校教育のことを考えますと、この間に非常に大きく変わってきた。「図4」を御覧いただきます。次のページでございますが、ここに戦後の学習指導要領の改訂によって、教育課程がどのように変わってきたかということをグラフで示してみました。それぞれの棒グラフの高さが卒業に必要な修得単位数を示しております。1973年まで棒グラフの高さが変わっておりません。これが85単位ということでございます。
  それから、グレーの部分で区切りになっておりますところが、その中で必修単位数がどれほどであるのかということを示しております。さらに、必修科目の中で主要4教科、国語、数学、理科、社会  ―現行の教育課程では社会が地歴と公民に分かれております。また、63年の時点ではこれに英語が入っておりましたが、それが黒で塗ってある部分でございます。
  そういたしますと、ちょうど真ん中にございます1963年から実施されました教育課程では、85単位という卒業修得単位数の8割を必修単位が占めているのを御覧いただけるかと思います。さすがにこの教育課程は縛りがきついという批判が高まりまして、1970年に告示された、これは高等学校への進学率が82%のときでございますが、1973年以降の教育課程では多様化を図るということが全体のコンセンサスになっていったのだと思います。授業についていけない生徒たちが増えてくる。それに対してどう対処するのかというのが高校教育多様化の発端であったことは間違いありません。
  1963年の教育課程と1982年の教育課程とを比べてみると、必修科目の単位数が半分以上に減ってしまうという大変ドラスティックな変化が進んできたことがわかります。
  現在、実施中の教育課程は1994年から導入されたものですが、卒業単位数は80単位、必修科目は最低必修単位数ということになりますが38単位、地歴・公民を含めまして主要5教科の単位数は20単位という内容でございます。さらに、近々教育課程審議会の答申を受け、告示される2003年からの新教育課程は、卒業に必要な修得単位数が74単位、最低の必修単位数は31単位、さらに主要5教科の単位数は16単位と予想されています。
  多様化はますます進んでいく気配ですが、多様化が始まった頃は、授業についていけない生徒たちをどのように指導するのかという一種の救済策的な要素が強かったわけでございますが、80年代の中頃から高校教育の多様化は大学進学者にとっても非常に大きな影響のあるものになってまいります。それは共通1次あるいは大学入試センター試験が高校教育課程の必修科目を出題科目の目安にするということも大いに関係しています。例えば、94年から始まった教育課程におきましては、2単位必修科目がすべて大学入試センター試験の出題科目に採用されるということになりまして、高校教育の多様化は明らかに進学者をも視野の中に入れた多様化に変わってきたということでございます。
  さて、そういう教育課程の変化の中で、今の高等学校の生徒たちがどのように履修しているのか。これは私よりもはるかに詳しい先生方がおられるわけでございますが、概要を申し上げますと、「図5」に科目履修率の推定値を示してみました。これは大変単純な推定でございまして、各科目の教科書の採択数を全国の高等学校の生徒数で割ったというものでございます。したがいまして、「国語  I  」あるいは「数学  I  」のような必修科目は全員が履修していますから、履修率は1.0ということであります。さらにそれに準ずる「英語  I  」のような科目もほぼ全員が履修しているということでございます。
  この中で、例えば微分積分を勉強する「数学  III  」、あるいは行列式、統計を勉強する「数学C」について、その履修率がどれほどかということで御覧いただきますと、「数学  III  」が大体20%、「数学C」が18%程度でございます。これを実数に戻しますと、約29万人相当。これは自然科学系の大学を志願する現役の生徒数と、それから経済学部を入学志願する生徒の2割を足した数にほぼ等しくなります。
  もう一つ、「物理  II  」という科目を御覧いただきたいと思います。理工系あるいは自然科学系に進むのであれば、この「物理  II  」という科目までは履修してほしいというのが恐らく大学の側の期待ではないかと思いますが、この「物理  II  」を履修している生徒の実数は約18万人でございます。これは自然科学系の学部を志願する者の大体6割に相当致します。少し言い方をかえれば、自然科学系を志望する者の6割しか「物理  II  」を履修していないということであります。
  申し上げたいことは、科目数が増え、多様化が進んでいく中で、生徒たちは自分の受験する学部に必要ギリギリの科目しか取らず卒業していくという状況が、この程度の分析からも推察できるということでございます。
  次のページには先ほどの教育課程の変遷が書いてございますが、これはもともと文部省でおつくりになった資料を添付したものでございます。
  次に、5ページになりますが、今申し上げましたように、高校教育が多様化をしてくる。その多様化というのが従前のように高等学校の授業についていけない生徒たちのためということだけではなく、進学者を含めた形で進んでいる。少し言葉が過ぎるかもしれませんけれども、高校教育の多様化は同時に受験シフトの多様化あるいは受験シフトの細分化を促しているともいえます。
  その結果、かなりバランスを欠いた学力の学生が多く大学に入ってくるようになった。以前であれば、大学の入試に合格することが大学への進学準備の整っている証明であると考えられてきたかと思いますが、現在の大学入試はそういうふうにはなっていない。需要と供給のバランスの問題もあります。大学入試の科目負担を重くすれば志願者が集まらないという現実があります。多くの科目を要望したいができない。その兼ね合いの中で、大学は試験科目数の削減を余儀なくされているわけです。そういう入試を経て学生たちが入ってくるわけですから、昨今のように、大学でも補習教育を必要とする状況が避けられなくなってくるわけでございます。
  「図6」と「図7」は、文部省のほうでおやりになっている調査の結果から引用したものでございます。94年から97年にかけまして、多少ジグザグしながら大学で補習授業を実施するところが増えている様子が御覧いただけるかと思います。97年の調査では78校が補習授業を実施しているということでございます。実はこの補習授業の実施につきましては、例えば1994年の時期には61校が実施していたわけでございます。それが95年に45校にドンと減った。なぜ減ったのかということですが、これを私どものグループでこの種の調査をやったことがございまして、各大学を回ってみますと、二つほど理由が挙げられます。
  一つは、補習授業を始めたころは、一部の学生に補習の必要があった。ところが、数年経ってみたら一部ではなくて、大多数の学生に必要になっていた。つまり、教育上の対応としては、補習授業として実施するよりも、正規課程の中にそれをどのように潜り込ませていくかということがカリキュラム上の課題になってきたということでございます。ちょうど94年から95年にかけましては、平成3年の大綱化の後、カリキュラムの改革が全国的に進んだ時期でございます。そこで、それまで補習授業を実施していた大学がそれを取りやめて、正規課程の中に入れていったという経緯がみられます。もう一つは、補習授業というのは実は効率が良くない。あまり効果が上がらないという指摘です。補習授業というけれども、実はだれに何を補習したらいいのかということが詰まっていない。それでやみくもに補習をしても決して教育効果を上げることにはならないという意見でございます。
  補習を必要とするのは一部でなくなったということと、補習というのは必ずしも効果がよくないというこの二つの理由で、多少戸惑いながらも補習授業を実施しているその様子がこのグラフにもあらわれているのではないかと思います。
  それから、補習授業というのは、理工系で実施されているケースが多いわけですが、そのため微分積分といった数学、あるいは物理、生物という科目が多くなっています。そういう科目につきまして、高等学校でそれを履修してきたのか、あるいは履修していないのかにより学生を分けまして、授業を実施する大学も増えています。
  ところが、この既習組と未習組に分けるという努力も実はそれほど意味がないのではないかという疑問がございます。次のページをめくっていただきます。「表2」をご覧下さい。これは私たちのグループで、ある国立大学について調べた結果ですが、「高校時代に物理を履修していますか」ということを聞いてみますと、例えば表2に学部ごとの結果が示してありますが、理工系の学部では11.6%が未履修であった。農学部、水産学部においては42%が未履修であったということでございます。
  もう一つの質問では、「あなたが1年次に学習した基礎科目の中で授業についていけなくなったのは何だったのか」と聞きました。それが「表3」の中身でございます。その質問に対して、これは別に理工系に限定しているわけではありませんが、1,500人の学生の中で、119人が「物理についていけなかった」と答えています。
  この119人に関して、高校時代に彼らがその科目を履修していたのかどうか、あるいは得意だったのかどうかということを、分けて集計致しました。これで御覧いただきますと、物理を「未履修」という者は53名、約44%を占めています。残りの55%は高等学校で履修してきているわけです。高等学校で履修してきている者でも、大学の物理についていけなくなる者が出てくる。そうだとしますと、先ほどのように既習組と未習組に分けて授業することは、必ずしも解決にはならないことになります。
  なぜ授業についていけないのかということの理由を問うたものが、「理解困難理由」という結果です。「高校で未履修であった」、あるいは「高校での学習が理解不十分であった」と答えている者は、重複もございますが3割から4割ぐらいになります。
  一方、「大学の教育が高度過ぎる」とか、あるいは「教え方が悪い」という回答も3割程度あります。教育困難学生の増加に対して高等学校は何ができるのか。あるいは大学の増加はその学生たちに対してどういう補習が可能なのか、基本的な検討が必要とされています。
  文部省が一昨年出しました将来予測によりますと、2009年には志願者の全員が大学・短期大学に入れるということになっています。現在、現役で大学・短期大学を志願している者は79万人、それに対して入学者の数は78万人ですから、浪人をするということを勘定に入れれば、大学を志願した者はほとんど1年後あるいは遅くとも2年後には大学に入れるという時代でございます。その中で、高校教育と大学教育をどういうふうにつなげていくのか。それは量的に接続する道がすでに開かれている以上、次には質的に接続上の不備をどのように解決していくのかが重要な課題になっていくと思います。
  最後に、教育接続の新しい試みということで、アメリカのオレゴン州とオーストラリアのクイーンズランド州について、簡単に御紹介をさせていただきたいと思います。
  アメリカのオレゴン州につきましては、1994年から「ケー・トゥ・トゥエルブ[K to  12](初等中等教育)の大改革」と称しまして、キンダーガルテンから12学年、高校教育修了学年までを通して大きな教育改革が州内で実施されています。今回の改革の特色は、これまでのように教科別あるいは科目別の学習にあまりとらわれないということが第1であります。
  それぞれの教育内容、分野に応じてその技能領域に注目しまして、内容領域と技能領域を組み合わせて「プロフィシェンシー・エリア( Proficiency   Area )」というものを定義しています。「プロフィシェンシー」という言葉は「技量」と訳したり「実力」と訳されたりしますが、内容領域を、従来の教科に準じて6領域に分けまして、それぞれの領域につきまして9つの技能領域を組み合わせます。内容領域と技能領域をクロスさせたところに生じるエリアを「プロフィシェンシー・エリア」と定義しているわけですが、この評価方法は、ペーパー試験を使う場合もございますが、それは一部で、授業中でのディスカッション、レポート、あるいは実験といったものを含めて、生徒たち個々のパフォーマンスを評価していくということでございます。
  この評価方法を体得してもらうために、初等中等教育の先生方すべてに研修を施し、ワークショップに参加してもらい、評価のプロになってもらうということが改革の重要なステップです。その評価されました結果を、大学の入学者選抜にも役立てようというのが、レジュメに書いてあります「アメリカ・オレゴン州のPASS」(   Proficiency-based Admission Standard System)です。大学進学に際して、改めて入学試験をやるのではなくて、日々のパフォーマンス・アセスメントを集積した結果により、大学の入学者選抜を行っていくというものでございます。
  それから、オーストラリアのクイーンズランド州のシステムというのは、高等学校の外に共通テストを実施する機関を設けまして、大学進学を志す者にはすべてその試験を受けてもらう。これが「クイーンズランド・コアスキルズ・テストシステム(Queensland   CoreSkills Test System)」と呼ばれるものでございます。この試験の結果により、高等学校の成績を標準化して、改めて評価をし直し、学校間格差を調整するわけでございます。QCSテストというのは高等学校の成績を標準化する目的だけに使いまして、試験成績そのものは利用しません。高等学校の成績を標準化し直し、その点数によって入学志望者の評価を行うというのがクイーンズランドの方式でございます。
  このQCSテストのつくり方でございますが、資料の一番最後に添付してある細かなマトリックスの表がございます。横軸にクイーンズランド州で認定しております高等学校の科目名がありまして、縦軸には教育共通要素と呼ばれるものがずっと60項目ほど並んでおります。それぞれの科目の中にどういう共通要素が含まれているのかということを点検いたしまして、この教育共通要素を束ねていくことによって、QCSという総合学力試験をつくるという方法をとっております。このQCSテストは2日間にわたり合計7時間をかけて実施される試験でございます。
  大変簡略ではありますけれども、今申し上げました二つの方式は、いずれも高校教育の評価を土台にして、大学の入学者選抜を行うという点で共通するものがございます。7ページの図に、諸外国の学校体系図を私なりに簡略化して描いてみました。西ヨーロッパの国々では、中等教育の修了試験として入学者選抜が行われています。また、日本やアメリカの場合には大学の側が実施する試験でその評価が行われてきたわけであります。その形態に違いはありますけれども、共通しておりますのは高等教育の側から入学者選抜の基準を設定するという仕組みであります。
  それに対しまして、今申し上げましたオレゴン州とクイーンズランド州の事例は、高校教育の側から積み上げていったものによって、大学の入学を考えていく、そういう仕組みになっています。その観点でいえば非常に対照的な方向へ、入学基準あるいは入学者選抜の評価が変わってきたということが言えると思います。
  短い時間内でいろいろなことを申し上げようと思いまして、説明不足になった部分が多うございますが、最後に二つのことをまとめかわりに申し上げておきたいと思います。
  第1点は、現在、大学入学者選抜に関して政策的な支援を必要としているのは、恐らくトップの大学群ということではなくて、中間に位置する大学群であると思います。量的拡大の過程でもって新たに生まれてきた大学が、同じように新たに参入してきた学生たちに対してどういう入学者選抜を行うのか、どういう評価を行うのかが問われているのではないかということであります。
  第2点は、大学審議会等で大学教育を充実させるために成績評価を厳格にしようという提案がなされていますが、それ以前に高校教育をどのように改善をしていくのか、どのように高校教育の実態をバランスの取れたものにしていくのか。さらには、高校教育の中でその教育目標に照らしてどういう評価を行うのかということが実現していませんと、先ほどのオレゴンであるとか、クイーンズランドのように高等学校の側から、あるいは中等教育の側から大学の入学者選抜を組み立てていくという発想は出てきません。そういう意味において、高校教育をどのように充実させていくかということが大変重要な問題なのだということを申し上げておきたいと思います。
  私の報告は以上でございます。

○坂元座長代理    どうもありがとうございました。大変示唆に富む御報告をいただきました。
  それでは、ただいまの荒井専門委員の御発表に対する御質問も含めまして、これから約1時間ほど初等中等教育と高等教育の役割分担について討議を行いたいと思いますので、どなたからでもよろしくお願いいたします。

○  先ほど高等学校のカリキュラム等について、一つの例として物理が出てきましたが、確かに物理  I  Bの教科書採択数は、資料にあるように化学や生物に比べて少ないわけですが、大学入試センター試験で物理を受験科目にする受験者数は生物の受験者数よりも上です。学生の質ということでは、やはり優秀な生徒が物理を履修しているということがあるわけです。そういう面では、私は「物理  II  」をここまで履修するというのは大変な国ではないかと思っておるんです。それは大学から見れば、まだまだ物足りない面もあると思いますけれども、そんなような感じを受けたわけです。

○  先ほど荒井専門委員のお話を伺いまして、大変すっきり理解ができた気がいたします。大学からの選抜に対する考え方はよくわかりますが、高等学校のほうから積み上げ方式である基準を定める方法はよく理解できますが、高等学校教育の中身は、学校形態の違いもありますし、構成も違います。つまり、教育内容がどうなっているのか、実際にある期待は水準あるいは、基確子科としてはこれだけの分量の修得とか、具体的表示が出来ると国民全般あるいは、先生方も理解した上での努力を御願いし易いと思います。果たしてアメリカとかオーストラリアで御説明の内容がうまくいっているのかどうか、私にはよくわかりませんが、理想的であるように見えますけれども、その実態はどう評価したら良いのでしょうか。何か一つの理想について、もう少し踏み込んだ御説明がありますと、納得し易いように思います。この点補充いただけますと非常にありがたい。
  質問ではなく意見になりますが、高等学校と大学の接続は入試が問題になりますが、日本の場合は税金を使って大学入試センターが活躍しております。高等学校水準(期待する到達度)に達しているかどうかという観点から合否をOpenにして頂き、要すれば各大学毎の選抜(二次入試)を受ける方法を定着させる。大学入試のための資格試験としての性格を明確にし、合格者には奨学金(または私立学校助成金)の切符を交付する制度としてゆくのが望ましい。大学の活性化と   Globalization、加えて高等学校の標準化にもよい効果をもたらすのではないか、と思います。

○  その質問に関連してですが、私がちょっと伺おうと思ったのは、高等学校から積み上げていって選抜していくというのは、これからの方向として、あると思っているんです。その場合、高等学校に進むときや科目の選び方で、恐らくカウンセリングがアメリカとかオーストラリアの場合でも多く行われているのではないかと思います。つまり、自分自身が発見できない、何をやりたいのかわからない。その辺が今の日本の学校の中で欠けているところだと思います。人間は平等だというので、そういうことをあまり問いかけてはいけないみたいなところがあるので、その辺のところで情報があればお話しいただきたいと思います。

○  今の御質問と似ているんですけれども、大学側が求める学力という考え方と、高等学校が積み上げてきている学力はちょっと内容が違うんですね。そこのところが食い違っていることがいつも大きな問題になるような気がするんです。これは大学側でも大きな問題だろうと思いますし、高等学校側でも問題が大きいわけですね。
  例えば、大学の側から「今の学生は論文一つ書けない」「問題を発見できない」という厳しい御注文があるわけです。それじゃそれを入試でどういう形であらわしているかというと、実際あらわされていないという実態があるわけですね。これは高等学校側の入試で要求されている学力と、大学側が受け入れてから身につけさせようという学力の違いが現実に大きな問題になって、いつも現場では苦しむんですけれども、その辺の改革がただ単に高等学校の積み上げて大学入試を考えるという方式でうまくできるんだろうか。高等学校の教育を変えるという一般的なお話で、そうなんだろうなとは思いますけれども、もうちょっと具体的にお教えいただけるとありがたいと思います。

○荒井専門委員    貴重な御意見ばかりで、どういうふうにお答えしていいか難しいのですが、一つは私の話の最初のほうで、アメリカの大学入学が種別化の道をたどっているということを申し上げたかと思います。「オープンドア」「セレクティブ」「コンペティティブ」と区分けした形のデータを御紹介したわけですけれども、御質問の一つにありましたように、大学側から求める学力と高等学校側から求める学力が食い違ってしまうのは当然だろうと思います。それがしかし、大学の側が主体的に働くことによって選抜が可能な大学のグループと、それから高等学校の側から積み上げていかなければいかんともしがたいというグループが存在することもまた事実なのではないかと思っています。
  大学が例えば試験科目で5教科を課そうが7教科を課そうが、志願者が食らいついてくるような大学というのはいつの時代にもある。ここでどういう選抜を行ったらよいのかというのは何十年と議論をされてきたわけです。それはそれで一つの到達点というのがあるいはあるのかもしれませんけれども、全くというほどに手がつけられてこなかったのは、大学側から期待するというところとはどうしてもズレてしまう学力層といいますか、そこに現在非常に多くの受験者たちが集まっている。そういうことを考えますと、どこの大学のグループで入試の問題を考えるのか、あるいは改革の問題を考えるのかということで、どうしても幾つかの観点の違いが出てくるのではないかと思います。
  それから、例えばアメリカの場合に進路指導が  ―それはカウンセリングという表現であったかと思いますが  ―重要になるのではないかということの御指摘ですが、全くそのとおりだと思います。これもまた最初のほうで御説明しましたときに、選抜の妥当性が問われていた時代からプレイスメントの時代への転換があったと申し上げましたが、このプレイスメントというのはまさしくどれだけ適切な進路指導が行えるかということにかかっている。このために、学力というものも一つの情報にすぎなくなってくるわけです。
  アメリカの場合に1959年に「アメリカン・カレッジ・テスティング・プログラム」というテスト機関が発足しておりますが、そのテスト機関が目指したことはプレイスメントそのものであります。
  SATというのは適性テストであるとずうっと標榜してきました。これがどちらかというと知能テストから発展してきた総合テストのタイプだといたしますと、ACTというテストは教科別の試験でございます。英語、数学、理科、社会という教科別に分かれておりまして、そのテストでもって学力プロフィールを描き出す。一方で、出願時に97項目にわたる興味検査というものをやりまして、その志願者がどのようなものに興味を持っているのか、その興味がどういう職業と結びつくのか。36カテゴリーに分かれた職業の中から四つほどを候補に挙げまして、その職業に就くためにはどういう学部でどういうプログラムで学習したらいいのかということを情報として提供する。それがACTというテストプログラムのほぼ全容でございます。
  そういう努力の上で、言ってみればプレイスメントへの転換というのが、軌道に乗るのはそれなりに難しかったわけですけれども、60年代から70年代にかけてACTが急成長していったというのは、そういう需要がはっきりとあったからだと思います。適切なお答えになっているかどうかわかりませんけれども、カウンセリングに関しては当然そういうことの努力が必要だということでございます。
  このことは、実は臨時教育審議会で提案されました新テスト、現在の大学入試センター試験のときにも、情報提供に関して努力が必要だということは言われていたわけですけれども、それをうまくそしゃくして新しいシステムに組むところまで至っていないというのが現実かと思います。
  それから、高校教育の積み上げによって入学基準あるいは入学者選抜を構成していくことにつきましては、私も十分に説明できなかったということは、私自身が消化できていないところが多分にあるからでございますけれども、繰り返しになりますが、すべての大学における入試をこういう形でというのは大変無理があるのではないかというのは、私自身もそう思っています。
  ただ、発想を変えなければ50%近い進学率、人数にしますと80万人が大学・短期大学に入っていくわけですけれども、その上位10万人のことだけを考えていてはどうにもならない。残った70万人あるいは60万人をどうするのかというときに、やはり高校教育のベースから考えていかなくてはだめなのではないか。そのための示唆としてオレゴンなりクイーンズランド州のことを御紹介したわけですが、十分にそのことの御説明が行き届かなかったという点があると思います。

○  今の荒井専門委員のお話は大変興味深く伺いましたが、話には聞いたことがあるんですけれども、具体的に36のカテゴリーにわたって職業を具体的に紹介して、それに対してアプローチしたいと思う人は、こんなふうに進みなさいというようなアドバイスができるということは、日本の場合は必ずしも徹底しているわけではないし、我々がもっとそういうことを考えていかなければいけないと思います。先生はたぶん御研究の成果をいろいろ印刷物にしていらっしゃるのではないかと思いますが、その辺のところを至急勉強させていただきたいと思いまして、勝手なお願いで恐縮ですが、選んで何か御提供いただけますと非常にありがたいので、そのお願いを申し上げたいと思います。

○  今までの委員の方の御質問とそれに対する荒井専門委員のお答えを伺っての感想が一つと、質問が二つあります。
  感想のほうですけれども、私、現場にいませんので、多少概念的な感想ですが、接続の議論のときに入試がどうあるべきかという話と、それから高等学校の教育と大学の教育がそれぞれどうあるべきかという議論と、二つがごっちゃになっているのではないかという気が伺っていていたしております。先ほど荒井委員がおっしゃったように、高等学校の教育がそれぞれどうあるべきか、それから大学は大学でどうしたいかということで、綱引き合いというか、お互いに譲り合いというか、押しつけ合いということなわけですから、それぞれがどうあるべきかという議論がないと、入学試験をどうするかという議論にはならないと思います。
  そのときに、荒井専門委員がおっしゃったように、50%以上の生徒が大学に行くということですから、一律に同じことではあり得ない、差があるのは当然であって、差があるということを前提に、それぞれの教育がどうあるべきか考えるべきだろうという気がします。それと入学試験の在り方というのは全く無関係とは申しませんけれども、別個に考えても極論すれば考えられる。例えば物理の話であれば、別に入学試験でそれが要求されないとしたって、例えば「物理  II  」を取って、成績が「3」以上でなければいけないとか、そういう条件を満たさないとこの学部には進学できませんということだってあり得るわけなので、整理して考えないと議論が混乱するのではないかというのが感想です。
  それから質問ですけれども、先ほど物理とか数学についてお話がございましたが、例えば論理的に考えられるとか、論理的に表現できるかとか、そういう指導をきちんとしているか、そういう部分で高等学校の教育と大学の教育でお互いに要求が満たされていないところがあるのかどうかということを教えていただきたいと思います。
  もう一つは、先ほどの「表1」ですけれども、アメリカの高等教育が「エリート段階」にあって、中等教育が「マス段階」にあるときの考え方で、選抜の公正性、能力主義的選抜ということがありましたけれども、アメリカにおいて能力主義的な選抜でない選抜の公正性  ―言い換えますと、特に能力主義的選抜との関係において、選抜の公正性というのはどういう概念としてとらえられているのかということを伺いたいと思います。

○荒井専門委員    御質問のほうに先にお答えしたいと思いますが、論理的な能力であるとか、あるいは思考力とか、そういう抽象的なレベルでの能力期待に対して、高校教育のほうで養成されたものと大学側の期待とがずれているのかどうかということについては、私どもの大学入試センター研究開発部の柳井教授のほうでこれに関する調査がございます。そこでは、この間にはだいぶギャップがあるというふうに結果が出ています。
  それから、大学入試センターではございませんけれども、大学の教員側が期待している学生の能力と学生自身が高等学校で培ったものとは相当にずれているということを示す、その種の調査結果はかなりございますけれども、それが果たして御質問のお答えになるのかどうか、私はあまり確信がございません。
  2番目の選抜の公正性ということでございますが、これは「エリート段階」にある中等教育から「エリート段階」にある高等教育へといったときに、家柄とか、あるいはどの階層の出身であるとか、あるいはどの地域の出身であるとかということが相当に作用した時代があったわけです。そういう点から、むしろ学力というもののみに選抜の指標を限定していくことが、当時にあっては公正性と言われるものの保障だったんだと思います。ところが、これはその後、1960年代になりまして、例えば公民権法等が公布されてから、マイノリティーに関して学力基準をそのまま適用することはかえって公正性を欠くんだという形になりまして、社会的な公正性の概念が相当変わっていった。それは入学者選抜のほうにも大きな影響を与えていくということがあったかと思います。
  それから、最初のほうで、本来高校教育はどうあるべきなのか、あるいは大学教育はどうあるべきなのかというところから議論を組み立てていかなければ、どうも混乱を招いてしまうのではないかという御指摘でございますが、全くそれはそのとおりだと思います。ただ、高校教育はどうあるべきか、大学教育はどうあるべきかということの議論を始めたのでは、恐らく45分では終わらないということの気持ちがあったものですから、むしろ接続という局面において高校教育あるいは大学教育はそれとどういう関係を持つのかということに話を収れんさせたというつもりがございました。ただ、理念的には今の御指摘のとおりで、本来それぞれの教育課程あるいはその対応を枠組みとして用意した上で、接続を議論するというのが正攻法だと私も思います。
  もう一つ、ちょっと余分なことでございますけれども、高校教育を中心に大学入学者選抜を組み上げるという先ほどのオレゴン州とか、クイーンズランド州の発想は、これまでの高校教育が高等教育の側にずうっと引きずられてきたという事情は日本だけではなくて、アメリカにおいても、オーストラリアにおいても、恐らくヨーロッパにおいてもみんな同じような関係にあったのだと思います。ところが、高等教育というのがいわば「ユニバーサル段階」に近づく、あるいはそこに突入するという時代にあって、高等教育の変質そのものが中等教育の自律性をもう1度復活させるといいますか、そういう可能性を示し始めたというのが、オレゴン州などが果敢に改革に取り組み出したきっかけになっているのではないかと思います。
  結局、冒頭で申し上げましたように、アメリカのハイスクールというのは市民のための完成教育であった。それを進学準備教育に切りかえなければいけなかったというのはどういうことかといえば、大学は学術の府ですから、普遍的な物の考え方、あるいはある種の法則性に乗っかった思考方法がそこで支配的にあるわけです。いわば地域的な多様性を曲げてその教育内容に乗っけていかなければいけなかった。
  ところが、大学自体も多様化して、変わってきましたし、科学なり学術と言われるものもそれほどリジッドなものではなくなってきたんだということもあるのだろうと思います。学術そのものが変わってくれば、実は市民の教養であるとか、あるいは日常性みたいなものに立脚して、その上に乗っかる学術というのだってあるのかもしれない。そういう意味で、中等教育がもう1回復権をするということの時代的な転換が今起こり始めているといいますか、そういうものをオレゴンなどの教育改革を見ていると感じるわけです。
  ですから、高等教育の側に引きずられてきた中等教育、高校教育の自律性をどのように蘇生させるのか。それは実は高校教育のありよう、あるいは大学教育のありようそのものをもう1回問い直すことにもつながっていくのではないかと思います。

○  荒井専門委員のお話の中身でちょっと質問ですが、私自身は中等教育は本来の市民完成教育であるべきで、それが進学準備に変質されていったという問題については共感しています。中等教育を進学準備に傾斜させないで、中等教育というのは人生選択の一つの大きな参入ポイントであるわけですから、例えば将来の職業選択にかかわるようなキャリア教育についても、高等学校の普通科できちっとしていくということも含めて、市民教育の一つの完成した形として、中等教育それ自身として追求していくべきだという考え方については共感するわけです。
  それに関係してお尋ねしたいんですけれども、そうした試みで始まったアメリカのオレゴン州のPASSの中身の問題ですが、今のお話を聞けば、内容領域と技術領域の組み合わせでもって、新たに「プロフィシェンシー・エリア」をつくって、そこで入学者選抜をしていくということですよね。この内容領域と技術領域をクロスして定義される新しい領域というのは、具体的に一体どのような中身なんでしょうか。これは単なる教科の学習とか、教科の学習で出てくる単なるテストのスコアで線引きしていくというようなことでもないわけですよね。その中身自体について興味がありますので、少し説明していただければと思います。

○荒井専門委員    「プロフィシェンシー・エリア」というのは、先ほどの例えばクイーンズランドで示した表で言いますと、「教育要素」というものに近いと考えてもいいのではないかと思います。6種類の内容領域と9種類の技能領域を組み合わせますと54のエリアができるわけですけれども、これは組み合わせの中で欠けるものもありまして、たしか46ぐらいの数にしかならないのですが、それぞれのエリアに関して評価をするスタンダードみたいなものが事細かく決まっています。
  それについて、各高等学校の先生方が、レポートであるとか、授業であるとか、実験であるとか、あるいは時に簡単なクイズみたいなことをやることもあるようですけれども、それでもって評価をしていく。ですから、その子どもが履修した全体がプロフィシェンシー評価という形で出てくるわけです。その中のどのアイテムを選抜に使うかというのは、それぞれの大学の学部等で決めた「プロフィシェンシー・エリア」のスコアを選び評価を行うという形のようです。
  これは先ほど言い忘れましたけれども、2001年からオレゴン州立大学システムの中で入学者選抜の方式として実施される形で、現在のところはまだ使われていないのです。プランとしてはそういう形のものになると聞いております。

○  ただいまの中等教育の重要性とそれの社会的な完成教育としての位置づけが復権してきたということは、私も大変大事な問題だと思います。あわせて、社会全体の安定性、それから多様な総合力を上げる意味でも、それは非常に大事な問題であるということは了解をしております。
  今、あえて申し上げたいことは、10万人程度のほうはあまり問題がなくて、70万人のほうが非常に大きな問題を抱えているというお話ですが、日本において、よく国際的にいろんな意味の競争がなされている状況の下で一つの国の将来を考えるという視点があったときに、過去の例えば明治維新のときの教育問題の立て直し、それから第2次世界大戦の後の立て直し、いろんな経緯を経て現在に至っているわけですが、節々で教育問題の根本的なある見直しと、それから教育が担う多様性ですね。悪い意味でのエリートではなくて、ある意味でのエリートに対する対応の仕方が考えられてきたように私は見ておるんです。
  もう一つ、外国の例では、アメリカとソ連の宇宙開発競争でアメリカがおくれをとったときに、アメリカが理科教育を根本的に立て直して、対応をとったという事例もございます。
  今、日本は大変困難な状況にある中で、次の世代のリーダーになる人たちへの配慮といいましょうか、それへの教育の体系をどうするかということもあわせて考えていかなければならない問題だと思います。
  たまたま私どもの大学に数年間、NASAの研究者が教授で滞在したことがありますが、彼らがアメリカで創造性教育をどうやってきたかという話を何回も聞かされたわけですが、そのやり方をうちの大学院の学生たちに聞かせたら、うちの学生たちは「私たちはアメリカに生まれなくてよかった」と。なぜかというと、激烈な競争のもとに置かれています。とても日本の受験勉強の競争どころではない。
  今の社会全体の基盤を強化していくための教育と、それからトップグループを育てていくための教育・選抜の在り方と2本、もっとたくさんあっていいんですけれども、多様な選択肢で議論がされていかなければいけないのではないか。
  私は大学にいてかなり長いこと教務委員会をあずかっていたんですが、どうしてもそういう立場で物を考えますと、底辺をどうやって救うかというほうへ話がいっちゃうんです。反対に上のほうは放っておいても何とかなるさというのが今までの日本のやり方だと思います。伸ばすものを正しく伸ばす、チャンスをうんと与えてやる。NASAの研究者については、ずっと幼稚園時代からクラスを4クラスぐらいに分けて、伸びるやつはどんどん先へ伸ばしていく、そういう教育をしてきていたと思います。
  今度、高等学校の内容で接続問題が出てきたというのは、ある程度みんながわかるレベルで平均値を取っていくという行き方になるかと思いますが、当然、大学との間に段差が生じます。そのときに、高等学校生の側にも、標準はこうだけれども、自分で学んでもっとハイヤーレベル、例えば大学の2年生修了レベルまでの勉強は独自にできるような体系ですね。そういうものをアメリカなんかではやらせているようです。そういう能力のある学生は、いきなり大学の2年生、3年生に行く。下のほうの1、2年生の飛び級をやって大学の教育をやっている。反対に日本は、今、3年生から大学院へ飛び級という、学校教育の頭のほうを切るような飛び級を考えているわけですが、向こうはちょうど反対で、導入教育部分を飛び級してもいいだけの力量を判定して、大学へ入れている。
  そんなこともありますので、ぜひこの小委員会の中でも、ゼネラルな部分とそうでない部分と少し多層な議論をしていただければというのがお願いでございます。

○  資料のことでお伺いしたいんですが、5ページのところに「図6」と「図7」で、補習授業の実施と既習組、未習組を分けた授業の数字が出ております。大学数自体、決して少なくない数だと思いますが、言葉がよくないですけれども、これを実施している大学はかなりまじめで良心的な大学であり、必要を感じても大変だからということで、そのままにやっているという大学も少なくないのではないか。特に必要性を感じるのは理工系の学部だと思いますが、本当は理屈を言えば、文科系の学部だって同じなんでしょうが、そこのところは適当にごまかしてやっているという実態もありはせんかという気がするわけです。
  また、入ってくる学生に対する一つの不満といいますか、さらに言えばそれは高等学校教育に対する不満になると思いますが、このことは裏返せば、大学側も自分の大学で必要とする、あるいは自分のところで実施している教育を受けるにふさわしい入学者選抜をやっていないということも反面意味するのではないだろうかと思うわけです。
  そこで、データ上は出ていないんですけれども、必要性を感じているというのは、この数字よりもかなり多いのではないかという気がするんでございますが、荒井専門委員、いかがなもんでございましょうか。

○荒井専門委員    たぶんおっしゃるとおりなのかなと思います。文系のほうは数字に出にくいということは本当にございますね。我々がこの種の調査に当たりましたときに、理系は正規課程に入れ込むかどうかは別にしても、相当具体的な形で悩んでいるのですが、文系の場合にそのために教養ゼミを組むところは相当良心的といいますか、積極的にその問題を考えているところでして、先生方の中には「文系は問題ないです」と、そう言い切ってしまうところもあるんですね。そういうことで、確かにここにあらわれている数字よりも、もっと大きな数が裏にあるということは事実だろうと存じます。

○  オレゴン州の場合に大学の類型が三つほどありますね。それのすべてにPASSを使うんですか。それとも高等学校からの立場は、コミュニティカレッジとか、「セレクティブ」の一部ということになるのか。いいほうまでといいますか、そちらまで視野に入れているんでしょうか。

○荒井専門委員    私が聞いている範囲では、あそこはまだ一色だと思います。ですから、区分していない。オレゴンの州立大の機構の中については、全部PASSでやると聞きましたけれども。

○  一括で、下の立場からで全部やってしまうのですか。

○荒井専門委員    ええ、やりきってしまうという。ですから、「ケー・トゥ・トゥエルブ(K  to  12)」から「ケー・トゥ・シックスティーン(K  to  16)」への改革という形で、いわゆるスクールシステムとユニバーシティーを分けるのではなくて、全部一緒に考えていくということへの一つの段階としてこのプランが進んでいるんだと思います。

○  まだ始まったばかりの会合ですから、あまり結論めいたことを言う必要もないかと思うんですが、荒井専門委員が最後に言われました政策的な支援を必要としている大学というのは、10万人ぐらいの人が行く大学ではない大学、ですから3分の2か4分の3の大学というような意味だと思います。それから、高等学校の教育をどう改めるかが問題ではないかという、荒井専門委員のその二つの結論というか御感想は、私も大体そう思っておりまして、全く異議はありません。
  ただ、具体的にどうするのかということがそれぞれ問題になってくるのではないかと思います。ちょっと気がついたことを二つ申し上げますと、要するに大学のほうが、実態においては10万人の大学ではないということがわかっていても、自ら種別していかないわけですから、そういうものにどのように政策的な支援の手を出すのかというのは大変難しいということが一つ感じられます。
  2番目の問題ですが、先ほどどなたかから、論理的な思考力をどのようにして試すのか、それから大学教育においてはそれはどの程度必要なのですか、高等学校ではどういうふうにされているのかというお話がありました。これも多くの先生は知ってらっしゃっても、こういうところでそこまで言ってしまうと身もふたもないから言わないんじゃないかということかと思いますが、あえて申しますと、私が今勤めていますような10万人の大学でない大学でも、英語の成績が大体ほかの教科の成績とも、それから文章を書かせても、それから「大学教育を受けるアビリティ」とも平行しているわけです。
  これはきょうの荒井専門委員のデータの3ページの、「英語  I  」「英語  II  」とか、「リーディング」「ライティング」の能力でありまして、今、日本人全体が困っている英語教育ではないか。だけど、論理的な思考力というのは英語の教育と比例しております。そういうことを言うと、かつて英語教育論争というのがあったわけですが、英語だけ試験をやればよろしいというような渡部昇一先生の意見のようなことに落ちついていくのではないかと思うんです。それはしかし、私のような大学でもそうなんです。だけど、私のような大学がそういうことをやってしまうということは、今の入試改革の大勢と反するようですから、その辺をどのようにしていくのか、私自身もこれから少し考えてみようかと思っています。
  いずれこの会議でも、今後出てくると思うんですが、現在の大学入試センター試験をどうするかという問題が出てくる。既に前の中央教育審議会でも出ているような改革の方向、例えば1点刻みにしないとか、複数回の試験をやるとか、いろいろあると思うんですが、そういうことを考える。しかし、そこで現在英語の試験が持っている力にかわるようなものが、そういうところからできていくのかいかないのかというところまで、この会議で議論できるのかできないのかわかりませんけれども、いずれにしてもいろんな意見があるので、一つの例として私は申し上げているわけであります。なかなか歯切れのいいことには今後もならないのではないか。ならなくてもがっかりすることなく、私も一生懸命考えたいと思います。

○  荒井専門委員のお話は非常に参考になりましてありがとうございました。
  いろんなところの親たちの集まりで、初等中等教育と高等教育の接続についてという話が最近出るようになりまして、その中で一番多くて、10人が10人言うのは、入りやすくて卒業しにくいと一般的に言われているような声が断然に多いということです。今の段階ですと、入ることと卒業することのウエートの置き方を見たときに、入るということに大変なウエートが置かれ過ぎてはいないか。例えば中学校から高等学校に入る場合もそうですけれども、中学校の校長先生は「うちの学校はあそこの学校に何人入った」というようなことをすぐに言いたがります。「うちはことしはよかった」と、そういうようなことをすぐに言いたがる。そうじゃなくて、そこの学校に行ってしっかりと学んで卒業できるのがどのくらいいるかということになってくると、中学校での受験勉強、そして入学試験の戦争などというようなこともなくなるのではないかという気がいたします。
  入ることがやさしくて、卒業することが難しいというようなことを言うと、今、国公立、私学ということを考えあわせたときに、経営的な面においてもいろんなことが出てくるということがありますけれども、人間1回や2回の選抜というふるいの中で決めるのでなく、大学に入ってからいかに自分を生かしていくことができるかというところに視点を置いてほしいということが、話を聞いていましてうかがえるところです。そのようにしたときに、ついていけない子はどこかへまた移っていく。みんなが行きたい学校に全部が行くのかといったら、とても卒業できないと思えばそんなところには行かなくなる。大学の学生時代、そして高等学校の学生時代ということで見ても、そういうことになるともっともっと幅が出てくるのではないかと思っている一人です。

○  私、大学の教員の一人として申しますと、先ほど来のお話とちょっとずれているんですけれども、「図1」とか、「図3」を見て、「ユニバーサル段階」が近いということはマクロの話としてはわかっていても、自分の大学がそれにどう対応しなければいかんのかということは、一人一人の大学の先生方あるいは教授会での議論などを考えますと、なかなか難しいだろうなと思わざるを得ない。とりわけ、はっきり10万人用の大学の先生ならばともかく、本当は10万人用の大学ではないのに、しかし気持ちとしては10万人のレベルの大学のつもりである先生が多い大学というのは、なかなかここから先の話は難しいだろうなと、これはやや本音に近い感想です。
  つまり、荒井専門委員の話をさらに延長して進めていくと、高等教育と言っているけれども、昔の高等教育とは違って、一種の後期中等教育のその次の教育のような気持ちで取り組まないと、うまい接続はできませんよという話にならざるを得ないと思うんですが、個々の大学の判断に任せるということになりますと大変難しいだろうということになります。
  あと御質問ですけれども、1ページの下の表のマトリックスで、両方が「ユニバーサル段階」、中等教育も高等教育も「ユニバーサル段階」の一番最後のところに、「個人の進学意思」と書いてございますが、御説明があったようにも思うんですけれども、もう少し教えていただきたい。「個人の進学意思」がここに初めて登場する意味合いなんですけれども。
  これも理屈ではなくて感想めいた話で恐縮ですけれども、補習授業  ―私は文科系ですけれども、潜在的な問題としてはもちろんありまして、例えば世界史の基礎知識、日本史の基礎知識がないままで、私は法学部ですが、平気で聞きにくる。昔もいたのですけれども、高等学校で取ったかどうか、入試科目で選択したかどうかといえば、両方やっていない学生なんていうのは幾らもいただろうと思うんです。要するにやる気の問題であって、入学してから幾らでも……。別に高等学校の教科書もやる必要もないわけで、自分で〈自分はちょっと世界史が弱いな〉と思えばそっちの方面を読んでみるとか、要するに意欲の問題だろうと思います。
  そういう学習意欲、大学に行って勉強する意欲のような話なのか、それとも先ほどちょっとお話に出た、こういう職業に就きたいならこういう勉強、コースを取らなければとか、そういう指導をもっと強化する必要があるとか、専らそっちのほうのお話なのか、この「個人の進学意思」というのはどういうことなのか補足していただければと思います。

○荒井専門委員    今のお話だとむしろ前者に属するものです。大学の側によって選抜されるというのではなくて、要するに進学したいという意思があれば、大学で学習できるという状況が、高等教育のユニバーサル化の行き着く先ということかと思います。その観点で言えば、そこで選抜原理と称して、あまり大上段にということにはいきませんけれども、要するにその個人に学習意欲があるかどうかということが、言ってみれば大学に入るか入らないかということの境になる。そういう大学もできてくるということが、ユニバーサル化した高等教育の一つの形態なんだということで申し上げたんですが。

○  ただいま意欲の問題が出ました。私も同感でございます。トップレベルの大学に進学を希望する高等学校生にせよ、それ以外のレベルの大学に行かざるを得ないような高等学校生にせよ、彼および彼女らをエンカレッジする視点は極めて重要だと思います。先ほどお話のございましたQCSのテストで申しますと、こういう中に、意欲とか、動機とか、目的意識とかに関する項目があったらいいと思いました。
  それから、こういったQCSテストに類するものが入学選抜に使用可能だということで出てきたことは、大変評価したいと思っております。しかし、これを実施する段階になりますと、どういうことが起こるでしょうか。もしこれが実施されることになれば、高等学校の先生方の仕事量は極めて増加する。あるいは、第三者機関でこういうものを行うということになりますと、それはそれでまた高等学校生に対してもう一つの大きな試験システムが課されることになる。そういう問題があるかと思います。
  また、高等学校の先生方が調査書と同様にこういう評価を行いますと、生徒の側は、それを知ればキレるという状態も予想されます。
  それなら、もう一歩進んで、こういったテストの類は生徒自身の自己評価という方向にもっていけないものでしょうか。「いや、生徒自身の評価を入学選抜に使うなんて信用できるものではない」という考え方が出てくるかと思いますけれども、できれば教育とか、生徒の進路とかは、もう少し長期的な視点でとらえたい。そして、例えば、生徒が全部いいように評価するケースが出てきましても、面接によるチェックや入学後に同様の評価をすることによって相互比較をしていくとか、そのときだけの一過性の選抜でない形で利用されていけたらいいのではないかと感じました。
  特に、私は前回、アドミッション・カウンセリング入試というのを申し上げました。これは大学進学の相談という、大学側が学生を集めたいがゆえの技術というよりは、大学と高等学校側の先生及び生徒自身とのコミュニケーションの機会が増えることを通じて、初等中等教育と高等教育との接続が改善されればと思います。加えて、ちょうど高等学校生の時期というのは自分を見つめ直し、そして自分のアイデンティティを探り出す重要な時期でありますので、ただ選抜ということでない視点が必要ではないかかと感じます。以上です。

○  若干感想めいたことと一つだけ御質問をさせていただきたいと思います。
  先ほど他の委員の方がおっしゃったように、今回の諮問が初等中等教育と高等教育との接続の在り方ということで、当然あるべき大学、あるべき高等学校、中学校、小学校という、学校論みたいなものをもう少し時間をかけて議論をして、きょうするという意味ではなくて、その上で、学校間をつなぐ接続の在り方としての入試制度というか、選抜制度はどうあるべきか。そこはある程度分けて議論をきちっとすべきではないかという趣旨の御発言については、私も全く同感であります。
  そのときに、前にも一、二度申し上げたことがあると思いますけれども、今の学校制度の6・3・3・4という中では、私個人的に言えば、中等教育、とりわけ中学校に矛盾が集中しているのではないか。前期3年、後期3年と分かれて、その間に前期までは義務教育であるし、義務教育を終えて、事実上97%近くが高等学校に進学しているという状況の中で、高校教育というものは本来どうあるべきか。学校教育法ができた当時は、恐らくまだ高等学校進学率が40数%のときだと思います。
  高等学校について、学校教育法では「高等普通教育と専門教育を施すことを目的とする」というのが目的になっていますけれども、現在、97%が入って、かつ18歳人口が減少していって、近く大学進学率が50%になり、さらに、これに専門学校等への進学者が加わることを考慮たとしても、高等学校卒業者の相当数は職業に就くということです。ですから、「高等普通教育」というか、18歳で大体一人立ちして実社会に出られるというようなそこのところにむしろ重点を置いて、大学は本当に本人の意欲なり、将来の一つの人生選択として入るということで、ある意味では本人が学費も含めて、将来、奨学金を返してでも行くというような、かなり意欲のある者が行くようなシステムにつくりかえたほうがいいのではないか。その意味では、今回、奨学金について、有利子制の分が何倍か増えまして、ああいうのはこれからの大学改革をしていく上では文部省の適切な施策だったと私はそれなりに評価しています。
  そういう意味で、大学教育についても、今の大学教育は  ―私は大学を出てだいぶになりますから、実態を必ずしもよく知り得ていませんけれども、一般的に文科系はレジャーランド化しているというのは、10数年か20年近くずっと言われているわけです。そういう意味では、他の委員の方がおっしゃるように、大学を卒業するというのは、単位認定を含めてかなり厳格にしていくことが重要ではないか。きょう、選抜がどうあるべきかということまで最終的に私の考えもまとまっていませんので、非常に悩んでいるわけですけれども、基本的にはそういう方向で考えています。
  ある種高等学校を出るということについて、一定の自立した市民として職業に就き、社会人として活動していくという意味では、俗にいう分数の掛け算・割り算もよくできないという状況で高等学校を出たということで、果たしていいのか。そういう意味では、高等学校卒の一種の認定みたいな、大学入学資格検定試験にかわる高等学校卒業の一般的社会的な資格認定みたいなものも考える時期にきているのではないか。
  ただ、荒井専門委員の大変示唆に富むお話を伺ったんですが、2ページの「図2」で、「セレクティブ」がアメリカでは7割から8割というのは大変興味深いんですけれども、大学の入学定員との関係で、「セレクティブ」で一定の条件を備えた場合は、希望する者が全部入れる。これを日本の現状で考えると、ある大学に希望者が集中して、資格は満たしておってもなかなか入れないのではないかという気もするんです。アメリカの場合、「セレクティブ」で7割、8割が入っているというのは、大学の入学定員との関係ではどういう現状になっているのか。東京工業大学教授の橋爪さんからは入学定員なんか全部取っ払ってしまったらどうかという大胆な提言がありますけれども、その辺のところを含めて何かわかっていたらお教えいただきたい。

○荒井専門委員    まず、アメリカの大学は原則として入学定員がございませんので、定員の上でひっかかりはないんですけれども、「コンペティティブ」に相当する大学は、実数にしますと150から200ぐらいの大学の数になるわけです。そうしますと、行きたい大学というのは「コンペティティブ」のほうに集まっておりまして、「セレクティブ」は州立大学関係が多いことになりますが、志願倍率等から見るとそれほどの偏りは生じていない。こうした構造が1979年から92年の調査まで、全体枠としてはほとんど変化していないんです。そういたしますと、それ以前の状況がどうであったかということにもよるんですが、「セレクティブ」という方式がそれなりに受け入れられて安定をしていると観察されます。

○  荒井専門委員のお話は大変興味深く、幾つかのことを考えながら伺っておりました。まとまりもなく申し上げてみたいと思います。
  第1に、非常に関心を持ちましたのは、オレゴン州の内容領域と技能領域といいますか、「プロフィシェンシー・エリア」の考え方でございます。これと結びつけて考えましたのは、今回の教育課程の改訂で非常に大きく関心を持たれています「総合的学習」。これを一生懸命に高等学校のところでやったということについて、入試についてどのような位置づけがなされ、評価がなされることになるのであろうかというのが第1点でございました。
  そういうこととあわせて考えてみますと、私は内容領域と技能領域を結びつけてとらえる考え方は、「総合的学習」の位置づけ方に結びつけてとらえることもできるのではないか。このことは高等学校の多様化ということとかなり関係があるのではないか。入試との関連で申しますと、一つの大きな問題は普通科、職業学科、そして職業学科もまた農・商・工というふうに種別化されて、それが入試に関して序列化されているというところが一つの問題で、学習内容の質というところまでいっていないのではないか。
  例えば、中央教育審議会の第二次答申で提言されたそれぞれの大学のアドミッション・オフィス等で、「総合的学習」にどんな取り組み方をしているかという、高等学校の評価がどのような形でなされていくんだろうか。こういうことが関係あるのかなと思いました。
  申し上げるまでもなく、現在、高等学校の総合学科はかなり高く評価されています。この総合学科の中身は、先ほどありました技能領域と言われるものを、単なる教科の領域というようなことだけでとらえないで、それを結び合わせてとらえるという学習の質を問題にしているのではないかと思いました。
  その点から、入試の改革に関連していつも言われることは、さっきも申しましたように、多様化されたものが大学の学部とか、専門分野とか、そこへのつながりの中で、袋小路にならない改革を考えなければ行き詰まってしまうということでございます。
  したがって、これもよく言われていることですが、現在、総合学科のような改革に非常に取り組んでいるところで、大学入試にも関連しながら大学のほうで評価されているのは、御承知の「産業社会と人間」。これは「総合的な学習」に見合うものだろうと私は思っております。それと課題研究です。これは先ほどの技能領域に関することを非常に重視した高等学校の学習を大きく評価している。これを大学との接続に当たって考えられないか。例えば工学部というようなところは、もう少し職業学科の工業学科について評価の考え方を変えたらどうだろう、開かれたものにしたらどうだろうということが強調されているのは、以上のようなことと関係があるのではなかろうか。そういった点から、高等学校の多様化という問題と、中等教育と高等教育の接続の在り方の問題が考えられないか。これから考えてみようと思って伺っておりました。

○坂元座長代理    どうもありがとうございました。
  それでは、定刻を過ぎましたので、本日の議論はここまでとさせていただきます。
  荒井専門委員、どうもありがとうございました。御議論の中で、高等学校の教育、大学の教育そのものの在り方、それからそれを踏まえた両者の接続の御議論が随分深まったと思います。
  今後の審議の日程でございますが、資料を御覧いただきたいと存じます。会議の時間、場所等につきましては、おおむねこれまで御案内したとおりでございますが、本日の御審議を踏まえまして、第3回の小委員会につきましては、「高校教育の現状について(高等学校における進路指導、学習指導等の状況)」について御審議いただくことといたしまして、岡本専門委員に高等学校の教育課程及び進路指導について総論的な御説明をお願いいたしますとともに、多様な進路希望への対応とか大学との連携の取組につきましてお詳しい聖学院大学教授、元伊奈学園総合高等学校長の西本憲弘先生からヒアリングを行いたいと思います。
  第4回の小委員会につきましては、「大学教育の現状について」及び「大学教育を受けるのに必要な能力について」御審議いただくことを考えております。
  委員の皆様方には、これまで同様にプレゼンテーションをお願いすることがございますので、その際にはよろしくお願い申し上げます。
  それでは、本日の会議は終了いたします。
  次回は、1月26日、火曜日、13時から、霞が関東京會舘・ゴールドスタールーム、霞が関ビルの35階でございます。「高校教育の現状について(高等学校における進路指導、学習指導等の状況)」について、ヒアリング等を踏まえ討議を行うことを予定しておりますので、よろしくお願いいたします。
  本日はどうもありがとうございました。

(大臣官房政策課)

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