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中央教育審議会

1999/8 議事録   
少子化と教育に関する小委員会(第8回)議事録

  議  事  録 

平成11年8月31日(火)13:00〜15:00
霞が関東京會舘  35階  ゴールドスタールーム

 1.開    会
 2.議    題
      少子化と教育について
 3.閉    会

出  席  者

委員
    鳥居副会長、河合座長、小林委員、志村委員、木委員、中島委員、森(隆)委員

専門委員
    渥美専門委員、安藤専門委員、下田専門委員、鈴木(り)専門委員、楢府専門委員、広岡専門委員、牧野専門委員、森(正)専門委員、山口専門委員、山谷専門委員、山脇専門委員

事務局
    森田政務次官、富岡生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○河合座長  それでは、ただ今から中央教育審議会の「少子化と教育に関する小委員会」第8回会議、第17期としましては第4回の会議を開催いたします。
  皆様方におかれましては、御多忙な中、しかも今日は随分暑い日ですけれども、御出席いただきまして誠にありがとうございます。
  本日は、前回に引き続き、自由討議を行いたいと考えております。
  まず、今回の配付資料の確認を事務局からお願いいたします。

<事務局から説明>

○河合座長  自由討議にいたしますので、どんどん御意見をお願いいたします。どなたからでも結構です。

○  私はある県で「すこやかチャイルド」とか、そういう子どもの相談事業に携わっているのですが、他にも例えば「いのちの電話」とか、いろんな相談事業があって、それが横に連携されていないところが大きな問題なのではないかという感じがしているんです。保健所は保健所で相談事業をやっているし、それぞれがばらばらなので、それらをネットワークするようなシステムが必要ではないかと思うし、それからそれぞれによって子育て相談の在り方でも、例えば法律的にかかわるものとか、いろいろあって、それらをお互いに支え合えるようなシステムが導入されるようにすることが必要ではないかと私は感じております。

○  一度「家庭科」について意見を述べさせていただく機会をいただいたり、学校視察の機会を設けていただいたりしましてありがたく思っております。関連したことがいくつか出ておりますが、「家庭科」という教科名を出すことに何か不都合がございましたのでしょうか。お尋ねしたいと思います。
  例えば、「異学年交流」とか、「異年齢交流の機会を拡充する方策を検討する」というところで、「総合的な学習の時間を活用した工夫」をとあります。教科として、中学校や高等学校で幼児との触れ合いということが出ておりますので、これは当然ではありますけれども、活用、工夫どころではなくて、むしろ教科を一層充実ということでもいけるかと思います。
  「教育面から少子化を是正するために」の意見の中で、「男女が協力して子育てに当たり」という意見ですけれども、これも「家庭科」教育に関連してきます。また、「学校教育では、男女共同参画の考え方に立ち、男女が共同で責任を果たすべきことなどしっかり教える必要がある。」との意見も関連してきます。
  それから、今までの意見の中に、空き教室を利用して、託児所を学校の中で設置する。それに生徒などが参加するということがございますけれども、託児所となるとかなり責任が重いかもしれないのですが、学校の教室にちょうど調理室があると同じように、保育室の設備を置くということで、近所の子どもたちとか、近くの保育所、あるいは幼稚園の子どもたちが遊びに来ることができるというような設備があれば、生徒たち何百人を外へ連れて出して、触れ合いの機会を持つよりも、もっと異年齢交流もできるし、生徒たちが男の子も女の子も幼児と触れ合うという経験もできやすいかと思うのですが、「家庭科」に関連して、教科名を挙げていただければと思います。

○  二つ申し上げたいんですが、一つはいままでの意見の中で、「少子化の進行により、競争を通じて鍛えられるたくましさや活力が削がれるおそれがある。」と「少子化により学校において一定規模の集団を前提とした教育活動が成立しにくくなったりすることや競争心の希薄化といったマイナス面の影響が生じると考えられる。」で、「競争」とか、「競争心」という言葉が出てまいります。最初のところに出てくる「競争」ということと、次のところへ出てくる「競争心」はちょっと違うのではないかと思いまして、私の感じていることを多少申し上げたいと思います。
  「少子化により過度の受験競争の緩和など、ゆとりの中で個に応じたきめ細かな教育を行う環境が整いつつあると考えられる。」との意見がありましたけれども、私は自分が高校時代によく「ハイスクール」を「灰色のスクール」と書いて「ハイスクール」と読んだり、「受験競争」でなくて「受験地獄」と言ったりしたような高校時代でした。中学、高校から、何でこういう受験勉強をしなければいけないのかというのが非常に強かったんですね。今、子どもの数が減って、受験競争が緩和されているというのは、私は肯定的に受けとめているんです。競争がなくなって、何だかみんな軟弱になって心配になるというよりも、むしろそれが一人一人の伸び伸びした向上心を刺激する大きなチャンスになるんだというとらえ方のほうが、むしろしっくりする。
  また、少子化により、「兄弟同士の切磋琢磨の機会」とか、「親の過保護・過干渉」云々というのは、これは「競争心が希薄化する」というよりも、むしろ甘やかされることによって、「向上心が衰える」というふうに言うべきことなのではないかという気がするわけです。「競争」と「向上」ということはちょっと次元も違うだろうし、受験競争が緩和されて、そこで自分の持っている本来の向上心が大いにチャンスを得るということもあるわけですので、何かそういうことを少し配慮していただいたほうがよろしいのではないか。何か競争がなくなる、競争がなくなると言うのは、ちょっとあざといような感じがするというのが1点でございます。
  もう一つは、少人数学級といいますか、我々は40人、50人というようなクラスで勉強してまいりました。子どもの数が減れば、それに応じてティーチング・スタッフを減らすのではなくて、むしろ1クラスの人数を減らすことも可能なわけですし、それはこれからの子どもたちにとっては大きなプラスになるのではないかという思いがあります。1クラスの数を減らすということがうたわれていないんですが、書いてもいいのではないかとふと思いました。

○  私も、「競争」という言葉が随分たくさん入っているなという印象を受けました。今、委員の方がいわれた他にも、「高い競争力をもつ社会を維持」するということで、ここでも「競争」が言われております。一方、独創性や創造力を育成したいということも併せて言っておられましたが、どうしても競争するというと、一つのゴールに向かってみんな同じ道を走っていって、だれが早いかというイメージがどうしてもありますので、やはり表現をもう少し考えたらいいのではないかと思います。
  それから、今、学校の人数のことが出ていましたけれども、アドバイザー制  ―言葉はまた別として、20人なら20人、今までのクラス担任のような、この学生についてはこの先生が何か把握をしておくというようなシステムを取りながらも、一つのクラスの中でいろいろなことを学ぶという時代は過ぎていっているということを、今おっしゃったように、どこかで入れていくといいのではないかと思います。
  もう一つ、教育面から少子化を是正するための方策として、「企業内保育所の設置」という意見で、「文部省において率先垂範」するということが言われておりましたが、別な意見として「男女が協力して子育てに当たり」ということも言われておりましたが、この辺、文部省ができるかというと、どうかと思うのです。総理府の1998年か1997年の調査では、共働き夫婦と専業主婦の家庭で、妻の家事・育児時間が約3時間と約5時間となっていたんですが、夫に関しては14分と16分という、全然お話にならないほど時間が取れていないことがわかっています。男女共同で育てるということであれば、文部省職員あるいは教員が子どもの育児期間中に育児時間が必ず取れるようにするとか、1時間早く退庁しなくても、5時半に退庁するとか、何かそういう起爆剤のようなことが一つ入れられれば、家庭に父親が帰ってきて、子育てを母と父でできやすい環境ができると思いますので、教員からか文部省職員からかわかりませんが、そういうことができたらいいのではないかと思います。

○  いくつかコメントがございます。前の2人の委員の方の御意見に私も基本的に賛成でございます。例えば、「競争」というのは、ちょっと誤った印象を与えるのではないかという気がいたします。
  全体につきまして、コメントさせていただきますと、まず、「少子化は環境負荷の軽減、住宅、交通問題の改善等プラスの影響もあるが、社会全体として見れば、少子化は社会の活力を削ぐものであり、マイナスの影響が大きく、是正されるべき状況である」との意見がありましたが、少子化そのものをマイナスととらえたことが前提となっておりまして、これは前にも少しコメントいたしましたし、私がこの中央教育審議会に加わらせていただく前にも、こういうことは議論されたことかもしれませんが、少子化をどのように定義していらっしゃるのか。それによっては、私は必ずしもこれが是正されるべきと言い切れる問題かどうか、少し疑念があるわけでございます。例えばかつてのように、国際的に人口がまだ増え続けている中の日本という国で、4人も5人も6人も各家庭に子どもがあって、人口がだんだん増えるということを目標とされているわけではないと思います。
  それに続いて、少子化を基本的にマイナスととらえているからであるかとも思うのですけれども、全体の流れとして「少子化が教育に及ぼすマイナス面」をまず論じ、次でプラス面を論じていらっしゃるわけですけれども、ここは私の少子化についてのどちらともつかない態度から見ますと、たとえ少子化が基本的にマイナスであったとしても、どのようにプラス面を生かすかということを先に扱うほうがプラス志向ではないかという気がいたします。
  それから、非常に細かいことになりますけれども、「少子化が教育に及ぼすプラス面」として「少子化に連動して人的・物的資源は減らすことはしない」と。これは私、大変賛成なんですけれども、「少子化に伴い、人的・物的資源は全体として相対的に減少すると考えられるが」の意見に関しましては、これはちょっと矛盾しているのではないかという気がいたします。
  最後にもう一つ、細かい点ですけれども、「少子化が教育に及ぼすプラス面」として、「大学の学部・学科等の教育目標に即した教育の実施とこれと一体となった厳格な成績評価の実施」との意見がございましたが、この「厳格」は、先ほど委員の方がおっしゃった「競争心」対「向上心」にもかかわるかと思うのですけれども、何でも数で割り出して「厳格に」というやり方が、今まで日本ではあり過ぎたのではないか。もっと一人一人の子どもなり生徒を全体として認めて評価するほうに動いているのではないか。それだったら「厳格」よりは、むしろ「適正」とでも言ったらいかがかなという感じがいたしました。

○  少子化というのは、世界の現状を見ますと、日本だけで起こっている問題ではなくて、特に先進国ではどこでも起こっている問題です。ただ、やはり一つの危機感はあるのではないか。それは急激な少子化だろうと思うのです。例えば、18歳人口がついこの間220万人だったのが150万人を割るというような、あっという間に減ってくるというのは、これはやはり一つの危機だろうと思います。ただし、今の日本には1億2,000万人余りおりますけれども、この日本列島に1億8,000万人、2億人入ったらどうなるかというと、考えただけでも恐ろしい過密状態なので、環境を大事にするという点からいって、もう人口が増えないほうがいいのではないかとも考えられます。ただし、急激に若い人が減るということが問題だというとらえ方を私はしておりますが、いかがでしょうか。
  2番目は、国際的な競争というのはやはりあります。これを否定することができないです。日本だけ国際競争をやめたというわけにはいかないだろう。ではなにが問題かといいますと、今まで競争という名前で日本で行われてきた教育に問題があった。一つ思い出すのですけれども、以前、この中央教育審議会の「幼児期からの心の教育に関する小委員会」の専門委員の方が非常にいいことを言われた。何をおっしゃったかというと、日本の子どものほうがアメリカの子どもよりもできる。しかし、アメリカの子どものほうが「ambitious」だと言ったんです。日本の子どもは「ambition」がない。たかが大学に受かるぐらいが人生の目標。全く「ambition」がない。なぜだろうと言うのです。
  この「ambitious」という言葉を日本語にどうしていいのか。「野心的」と言うと、何か腹黒いみたいになってしまいますし、私のような古めかしい人間は「高い志」と言いますけれども、今、「高い志」で通じるでしょうか。何かこの用語を考えていただいて、競争のところに置いたらいかがかと私は思います。
  最後に、やはりここに学科名を一つだけ出して、この学科を推進しろというのは変ではないかと思うのです。私自身は「家庭科」のない古い世代でございますから、「家庭科」教育を知らないんです。どこまで「家庭科」は教えないといけないのか。母親が今まで教えていたのが、母親が手を抜き出して、学校が背負わされているのか、随分問題があると私は思っています。ですから、「家庭科」のような問題は教える必要があるだろうと、私はそれは思います。ただ、やはり学科名を出すのは避けたほうがいいのではないかと私は思います。

○  競争の問題は、国際的に言えば、絶対にあるわけですから、あまり日本的甘さの中に入ってしまうと負けてしまいますので、表現をどうするにしろ、やはりこれを何か置いておかないと、オリンピックを見ていてもわかりますけれども、何となく日本人はニコニコと負けていく傾向があるというような気がしますので、「アンビシャス(ambitious)」というのはいい言葉なんだけれども、日本語になかなかピッタリのがないんですね。「野心」と言うと、みんなマイナスにとってしまうんです。また、「アグレッシブ(aggressive)」という言葉もそうです。「アグレッシブ(aggressive)」というのは、実はほとんどプラスの言葉なんですね。ところが、日本で「アグレッシブ(aggressive)」を「攻撃的」と訳すと、絶対よい意味には使われない。その辺のことはどこかに書いておいてもらわなければ困りますので。全部競争をなくしてしまうと、そこはまた問題だと思います。

○  志のことなんですが、クラーク博士が「Boys, be ambitious!」とおっしゃったんですが、あの後ろにいろいろ言葉があって、「for Christ」とか、「for God」とか、神に対してアンビシャスであれという意味です。人間というのは神から様々な賜物をいただいているから、それを命がけで一所懸命伸ばすということは、生きる使命であるというような考え方が、日本はキリスト教の国ではありませんが、必要なのではないかと思います。やはり勝とうとしていく中で人間の強さと弱さを知って、勝とうとしていく中で、本当にすばらしい人の姿が率直に見えてくるという、健全なる競争心はぜひ必要だと私は思っています。
  というのは、今、余りにも教育現場では競争させない。それぞれの人がいいところを持っているんだからというきれいな言葉で、競争の場面を徹底的に排除しようとしている。それは逆に言えば、評価しないことにもつながっているんです。ですから、子どもたちは自分に何が与えられているのか、自分にどんな力があるのか、そういうのがわからないから、ものすごいストレスであり、フラストレーションである。そういう現実の中で、確かに「競争」という言葉を多く使いますと問題かもしれませんので。でも、現実を踏まえながら書き加えたり、書いたりしていただきたいと思います。
  それから、子育て相談員という意見があるんですが、これは保健所の保健婦さんが相談で回ったりするんですが、非常に高飛車な言い方でですね。ですから、相談員というとまた何か自分は専門家で、意見してやるみたいな。もちろん法律とか、いろいろ具体的な専門的な場所でのそういう場面も必要かもしれませんけれども、むしろ何か子育てパートナーみたいな、アメリカでオッパイばあちゃんというボランティア組織を取材したことがあるんですが、普通の素人のおばあちゃまたちが産んだばかりのお母さんのところへ行って、ただクッキー食べておしゃべりするだけで、井戸端会議しているうちにお母さんが楽しい気分になって、お乳が出てくるみたいな。そういうパートナーっぽい発想も必要ではないかと思います。
  それから、地域を対象とするスポーツ関係、文化関係のクラブ活動の育成・支援という意見があるんですけれども、平成11年6月に生涯学習審議会が「生活体験・自然体験が日本の子どもの心をはぐくむ」答申を出しまして、民間教育機関との連携ですね。既にある地元の機関と連携してやっていくことが、活力ある活動をつくる一つの力にもなるかなと思っております。
  それから、小学校・中学校での学校の空きスペースの活用とか、学校間交流というのがあるんですが、ここも中央教育審議会「今後の地方教育行政の在り方について」の答申の中で学校評議会制度について言っていますので、地域の人々に学校運営に参加していただくみたいなことと、こちらでもちょっとお話ししたことがあるんですが、ある地区で、公立の全部の小学校で、地元の人に入っていただいて放課後の遊び場活動というのをやっていますし、ことしは中学校でいくつかやはり放課後、学校のいろいろな教室を利用してバンド活動をやったり、おしゃべりをしたり、映画鑑賞をしたり、これは中学生が自分たちで企画してやっているんです。子どもたち自身が企画して、ある種の運営もするというような。それは日本じゅうどこの学校だってすべて一斉にやろうと思えばできることですから、そのようなプログラムをぜひつくっていく。中学校の卒業生で大学生になっている子が、個人的に勉強を教えにきたりもするんです。そんなことはいくらでもできるので、そういう活動をぜひ進めるように、もうちょっと強く書いていただけたらと思います。
  ほかに東京都のある区では、ある中学校に民間保育所を入れまして、空き教室を利用して保育園も運営しているんですけれども、小学校・中学校の空き教室に保育園とか、あるいは場合によってはデイサービスで健康なお年寄りの方たちに来ていただいて、本当に異年齢で地域の中で拡大ファミリーみたいな感じで、学校が活用されるといいのではないかと思います。京都の小学校を取材しましたときに、元気なお年寄りたちが床暖房のある教室に集まっているんですが、床暖房を置いているだけで、子どもたちが何にも言わないのに休み時間になると、床暖房の部屋にペタッと座りたくてゾロゾロ行くんです。「さあ、ボランティアの時間です」とか、「生徒は、じゃ体験活動に行きましょう」というのではなくて、そのように施設を工夫するだけで、日常的に学校自体が地域の拡大ファミリーのような活用されるというケースがありますので、そこら辺もちょっと研究したらどうかと思います。

○  子育て相談員のことですけれども、相談を本当に専門にしている人は、だれも高飛車ではないんです。高飛車な人は半専門家というのか何というのか、専門家でない人でして、本当に訓練された人はそういう人はいないんです。今の場合、ちょっとそういうことが入っていますので、難しい。

○  「少子化についての基本的認識」の問題ですが、一方では少子化が進む、一方では国際的な人口が非常に増加しているというのが現実だと思います。とすると、日本の政府機関が予測したように、急激な人口減少が21世紀の半ばまでに進むといたしますと、日本の国の経済的な規模を維持するとすれば、当然、人口が増えた地域からの外国人労働者、それから今、文部省でもいろいろな形の留学生交流を活発に進めておられますし、各地方自治体も国際交流を活発に進めておりますが、いろいろなレベルの仕事に就く外国人の人々が、今よりもはるかに多数、日本に入ってくるであろう。そういう中で、少子化をどう考えるかということも、我々としては整理しておいたほうがいいのではないか。
  つまり、ここにある少子化というのは、一民族構成というか、日本民族の中での少子化の進行ということだけれども、将来の日本の社会がもう少しヘテロな構成になっていくことについては、ここでの範囲外かもしれないけれども、社会の現実はそのようになっていく可能性があるので、そのあたりの問題について少し考察しておかなくてもいいのかなという気がいたします。間違っているかもしれませんが、我々、多少外国の研究をやっておりますと、そういう点はかなり気になることであります。
  以前、仕事の関係で中国に行ってまいりまして、若い歴史学をやっている友人と話をいたしました。彼らも「あなた方のようななだらかな少子化でなくて、一人っ子政策が進んでいるわけだから、ガタッと減るんだ。私たちの少子化のほうがずっと大変なんだ」と言っていましたが、その場合の少子化も中華民族の少子化  ―あそこは多民族国家であって、今以上のヘテロな構成を考えたわけではなかったと思うのです。余分なことでありますが。
  もう一つの問題は、少子化と教育との関係であります。少子化と高等教育の関係について、今まで若干発言してまいりましたが、本日は、「少子化が教育に及ぼすプラス面の活用について」というところで、先ほど御指摘のありました「大学の学部・学科等の教育目標・目的に即した教育の実施とこれと一体となった厳格な成績評価の実施」とか、「社会人、職業人等の高等教育機関への受入れを拡大するため、多様な入学者選抜の実施、マルチメディアの活用を含めた履修形態の多様化、教育内容の充実、修学年限の柔軟化を推進」ということは確かに言えると思います。
  「厳格な成績評価」というのは、これは他の委員の方のおっしゃるように「適正」のほうがいいかもしれませんが、こういうことは確かにできるだろう。
  ただ、もう少し積極的に高等教育から少子化に働きかけていくという面について考えるならば、教養教育なり、あるいはそれぞれの専門教育の中で、人口問題、あるいは少子化問題、そうした問題についてもう少し積極的にカリキュラムの中に入れて、学生に訴えかけていくことが必要ではないか。今、どの大学でも主題科目というものを立ち上げて、現代社会の基本的な問題にかかわるようなテーマで、教養教育の講義の柱にしておりますけれども、そういう中で、非常に重要かつ深刻な少子化という問題について、いろいろな角度から問題提起をしていくことは必要ではないか。私の感じでは、この問題について話しますと、学生はかなり敏感に反応いたします。その点、大学教育の中で、少子化の状況的な問題だけではなくて、今まで御議論にありました教育に及ぼすプラス・マイナスの問題、それが全社会的な幼児からの教育体系の問題であることを含めて話していくようなカリキュラム構成を考えることも意味があると思います。

○  日本の少子化に伴って、外国の人が入ってこられるという問題は、論じ出すとすごく難しいことではないですかね。非常に難しいですね。

○  難しいと思います。でも、考えてみたら、これだけ大きな経済的なパイがあって、それをどうやって維持していくかということは、これからの技術の進行にもかかわりますけれども、ものすごく深刻な問題だろうと思います。

○  国際的な競争力の問題が少し出ているんですけれども、私は教育の中では単なる競争ではなくて、自己の確立、自立、そして自己決定権を養うような教育が必要ではないかと思います。その点で自分自身がきちんとしていれば、評価をされたときも、できる、できないがきちんと自分の中で整理ができるかと思います。逆にそれができていないと、今の教育では個性化を重視しているんですが、それはただのわがままでしかないような方向にも向きかねないので、そこら辺のところが入ってきたほうがいいのではないかと思います。
  それに伴って各種のサービスが出ているのですが、これを読んでいる限り、とてもきめ細やかで、いろいろなものを出してきていて、まるでデパートのショッピング街の中を歩いて、あれもあります、これもありますというような、ちょっと手を出せば、すぐに表面的なことだけは手に入るような感があるんですが、子どもたちという視点を考えた場合、自分たちで企画するとか、自分たちでつくっていく、数は少なくてもいいけれども、中身を濃くするようなゆとりの時間の使い方を文章の中で入れられたらいいかなという気がしました。
  これは仕方がないことかもしれないのですが、「少子化の教育に及ぼすマイナス面」の中でも、「児童館、保健センター、婦人会館等福祉、医療、女性関連施設との連携・協力の推進」というようなことで、どうしても育児は女性かなというイメージがこのあたりからは感じられました。

○  今の委員の方の意見には全面的に賛成なんですが、まず「少子化が教育に及ぼす影響について」ですが、「少子化により、兄弟姉妹同士の切磋琢磨の機会の減少や過保護・過干渉」とあるんですが、ここで以前に、あまり兄弟の数は変わっていないという発表がありましたよね。兄弟の数は変わっていないけれども、地域の子どもの数が変わっているんだというような発表があったと思いますので、この表現は一見正しそうですが、本当にこれでいいのかどうかという疑問があります。
  それから、過保護・過干渉というのは、子どもの人数が5人、6人いたころから、今は2人、3人よりもずっと減っていて、過保護・過干渉になりやすいという論旨なんでしょうけれども、過保護・過干渉というのは子どもの数の問題ではなくて、例えば父親が帰ってこない家庭での実質的な母子家庭であるとか、女性が働きたいのに何となく働けなくて、そのエネルギーの行き場が子どもにいっているとか、いわゆる少子化だけではなくて、現代社会全体が持つ問題がこういうところにあらわれているのではないかという気がしています。
  「少子化の原因である未婚化・晩婚化」の話ですが、これはここでも何回も議論されたんですが、その次に、「教育の在り方がこの決定に大きな影響を与えていることも事実であり、家庭や学校などにおける教育面での対応も重要」だという表現がいいのだろうか。つまり、未婚化・晩婚化がここでは実は正しくないんだと言っているようなふうに読めてしまうんです。ですから、ここは私はこの表現は疑問に思います。
  もう一つ、今、日本で子育て相談みたいなものがいろいろありますけれども、本当のプロフェッショナルな相談をするところが、実は児童相談所だったりするんですが、児童相談所に相談をしたことによって、いろいろ社会的な問題を起こしていることも随分あります。日本は本当のプロフェッショナルな相談、それからボランティアなどでもできるような相談みたいなものがきちんと分けられていなくて、確立されていないのではないかという疑問をいつも持っているので、何でもかんでもこのように相談所みたいなものがあるというよりも、きちんと技術を持ったところをつくる。それから、ボランティアみたいなものをつくるというような確立が必要なのではないかと思っています。

○事務局  いくつか御説明といいますか、コメントのようなことを申し上げたいと思います。
  まず、少子化というものがマイナスの影響が大きくて、是正されるべき状況だという表現について、いろいろ御意見があったわけでございますので、またこれを踏まえて表現を少し工夫したいと思います。ただ、ここで掲げたような対策で、子どもの数が現在よりも増えるということはたぶんあり得ない。むしろ問題は、厚生省の「厚生白書」等を見ましても、あと数年後におそらく人口のピークはまいりますけれども、現状のままでいきますと、50年後には人口が1億人ぐらい、2100年の状況では中位推計では6,700万人ということで、現在の人口の半分近くに減ってしまう状況が起きるということと、これは何度も御説明があったと思いますけれども、老年人口  ―厚生省で老年人口と使っておりますので、老年人口と申し上げますけれども、これが2050年には現在の15.7%からその倍以上、32.3%に達するという状況がございます。
  もちろん、先ほど来御指摘がありましたような環境面にとってはプラスではないかとか、あるいは交通渋滞とか、狭い住居環境が改善されるとか、そういう面はありますけれども、やはり相対として考えた場合には、非常に社会全体の活力を削ぐことになって、やはり問題だという前提に立っておりますので、基本的にはいろいろな対応を行って、少なくとも厚生省の予測で行われている異常な少子化が少しでも起きないようにという基本的なスタンスをここでとってみたらいかがであろうかと思います。もちろん、この点については御議論を十分いただきたいと思いますけれども、とりあえずここではマイナスの影響のほうが大きいのではないというとらえ方であります。
  それから、「少子化が教育に及ぼす影響について」というところの記述で、兄弟姉妹同士の切磋琢磨の機会が減ってしまうとか、あるいは過保護・過干渉ということは別の原因もあるのではないかとか、あるいはデータ的には裏づけられていない話ではないかということがございましたが、そのとおりでございまして、昭和40年代前半以降、子どもを持っている家族の兄弟姉妹の数は2.1人、あるいは2.2人ぐらいということで、ほとんど変わっていない状況があるわけでございます。それ以前を見ますと、昭和10年代にまでさかのぼりますけれども、子どもがいる家庭の子どもの数というのは4人から3人いた。比較の時点が古過ぎるということであれば古過ぎるわけでございますが、その時点から比べますと、子どもの数が減っていて、男の子と女の子という子どもの構成を考えますと、自然にお互いにけんかをしたり、いろんなことで学んでいく機会が減っているという問題はあるのではないかと思います。
  過保護・過干渉の件でございますが、これは御指摘のとおりでございまして、実はたぶんこの問題は、住環境が以前に比べればよくなって個室化が進んだとか、テレビが個室に1台ずつ入っているとか、あるいは家庭の電化が進んで、主としてこれまで子育てに当たってこられたお母さんの時間というのは、従来に比べると自由時間が多い。前のようにおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住んでいて、その介護に時間をとられているということも、核家族化が進んでおりますから、そういう状況も減っているだろうということで、家庭内の省力化も非常に大きな問題であって、実際にこれを文章に書き込む段階では、そういうこともしっかり書き込みたいと思っております。
  それから、「厳格な成績評価」についてですか、その意図するところは子どもの数が減ってまいりますので、高等教育ではしっかり子どもに付加価値をつけて社会に送り出していただきたい。付加価値をつけるためには、大学教育のカリキュラムをしっかり組み立てていただいて、それをしっかり身に付けて社会に出ていくかどうかということを高等機関の責任において評価をして、判定をしていただいて出してもらいたいということでございます。高等教育関係者に大変失礼でございますが、これまでのように、ややもすると入れた以上はとにかく出すんだというようなことでは、これからの21世紀の厳しい国際競争社会では成り立っていかないのではないかという論旨でございます。
  もう一つ、少子化に連動して人的、物的資源を減らすことはしないという表現がございまして、少子化に伴って必要な資源は全体として相対的に減少するという、この間に矛盾はないのかということでございます。これも言葉足らずでございまして、まとめますとこうなってしまうので、あらかじめおわびをいたしますが、子どもの数が例えば4分の3に減ったから、機械的に人間も施設もスペースも4分の3に減らす、そのような機械的な連動で減らしはしないということであります。そうは言っても、全体的に学校教育に必要な資源は、これまでに比べれば相対として減るではないかという指摘でございますが、最後の結論部分は「そのために必要な人的、物的資源を優先的に確保」ということで、こちらの気持ちはあらわしているつもりでいるんです。相対的には減るけれども、機械的には減らさないというのが趣旨でございます。

○  中央教育審議会でありますので、要するに日本の教育をこれからどうしたらいいかということを考えるのが私たちの使命だと思うのです。少子化はどうして起きたのかとか、少子化はどうしたら防げるのかとか、そういう分析はもちろんこの部会では必要ですけれども、そのタコつぼに陥ってはいけないのではないかと思うのです。そういう意味で、なるべく少子化そのものについての分析の枝葉を落とす必要があると私は思います。
  2番目には、少子化という問題のとらえ方ですけれども、日本の教育の将来ということとのかかわりでいうと、少子化というのは別の考え方をすると、明治の初年というのは日本の人口が3,000万人で、今の4分の1。そして国力は非常に低かった。それは経済力も、国際政治の交渉力も、それから防衛力も低かった。そういう状況のもとで、経済力がどんどんついていく、それから国際交渉力がつき、防衛力が備わっていくというプロセスを支えながら、人口は結局1億2,000万人まできた。それが結局、豊かな社会を生んで、豊かな社会が人の心に大きな変化を生んだ。その大きな変化の最たるものが、教育の崩壊にも影響するようないろいろな心の緩みだったり、あるいは先ほど来何人かの方のお話にも出ていたと思うのですが、宗教心の喪失であったり、ディシプリン(規律)の喪失であったり、いろんなものに出てきたのだと思うのです。これを直すのには100年ぐらいかかるのだと思うのです。それなのに、人口のほうは100年分に近い減少をわずか数十年でやってしまう可能性がある。だから、人口だけが減っていって、国力を増大させる、もしくは現状維持をすることが不可能になっている。そういうことを子どもたちに教育することをどうやっていったらいいかというのが一番大きな問題なのに、どうやら私たちはそのことについては何も議論してないのではないかという気がします。
  今からちょうど10年前の1988年にレーガンが大統領をやめる直前に「Nation at Risk(危機に瀕する国家)」という膨大な報告書を出しましたが、要するに今の日本でいうと学級崩壊などの現象に象徴されるような教育の危機がアメリカにもきていたわけです。それを現象面を取り上げて言うと、要するにディシプリンの喪失、学力の低下、そして学校側は教育能力の低下。そしてその原因の最たるものが、極めて率直に先生の質の低下と学校の質の低下だと言うわけです。そういう現象はなぜ起こったのかというと、アメリカの社会が余りにも長い間、教育、学校の先生の社会的地位と待遇を低く維持し過ぎた、それから教育の現場において先生は圧倒的に女性のほうが多いという事態が起きた、そういったようないろいろな現象からこれが起きたのだということを率直に分析したわけです。
  アメリカではいくつかの州で、「Nation at Risk」をもとにして新しい動きが出てきていますが、例えばカリフォルニア州では、多くのとは言いませんが、一部の公立学校で制服を採用するとか、それからかなりの公立の小・中学校が経営そのものは民営化していく。民間企業に完全に学校の運営を任せている公立学校が増えてきているわけです。そのことによって、学校が生き返ってきていることは事実だと思います。その延長線上で、最近では学校全体ではなくて、授業ごとですけれども、男女共学をあえて男女別学にする授業を今試みていて、そのことが子どもたちに大変評判がいいという学校があるんです。これもまた私たちにとっては見逃すことのできない現象で、少子化のことだけを議論しなさいという文部大臣の御下問というか、文部省からのこの審議会への宿題は、やっぱりもうちょっと議論そのものは広めにやらしてもらわないといけないのではないかと思うのです。これが私が今申し上げたい点の一つです。
  そういうことを含めて、実は先々月、私はある県立高等学校で1年生から3年生まで全員と父兄300人ぐらい、合わせて1,300人ぐらいの方にお話をしたんです。話の内容は、ふだん聞いたことがないだろうから話させてくれということで、一つは人生について。その人生についての中で、教養の問題とか、心の問題とか、物を考える座標軸として古今、東西、森羅万象というふうに三つの座標軸を見ましょうという話をしました。
  2番目に、日本の問題ということで、日本ではまだ国境が定まっていないところが3ヵ所ある。そして北方領土などに至っては北方4島と言うけれども、4島のうちの北の2島の択捉、国後はサンフランシスコ講和条約で放棄しているということを、なぜ学校で教えないんだろう。なぜ教科書に書かないんだろう。そんな話をしました。
  それから、一番大きな問題は、たぶん県立高等学校だから日教組系の先生もたくさんいたでしょうけれども、あえてアメリカでの保守と革新の定義と日本の保守と革新の定義は逆転している。革新と呼ばれている政策から出てくるものは、全部大きな政府を生んでしまうんだ。その結果、国家公務員59万人のうちの約20%に近い人たちが実は国立の先生たちなんだ。都道府県の公務員120万人のうちの10数%が先生なんだ。市町村公務員130万人のやはり10数%が学校の先生なんだ。君たちを教えている先生なんだ。それを支えるものは何でもかんでも国でやりましょうと言ったらば、大きな政府になるというようなことを話したんです。
  そしたら、350人の生徒から手紙がきました。そのうち3人は極めて私に対して批判的でしたけれども、残りの全部が「こんな話は初めて聞いた。何で学校でこういう大事なことを教えないんだろう」という手紙なんです。私たちは率直に子どもたちに語りかけることを忘れたのではないか。だから、私は今何を言いたいかというと、レーガンさんが分析してなかったもう一つの問題、それは学校が語りかけるべきことを怠っていることがある。それは心の問題や規律の問題や何は罪であるかという問題、そういったようなたぐいの問題ではないかと思うのです。
  そういうことを少子化問題と一緒に議論しないと、人数が減った結果、どうとかこうとかという問題とか、人数が減るのは女性の晩婚化の問題とか、そういう問題に落ち込んでしまうと、せっかく文部省からいただいた宿題に小さな答えしか出ないのではないかという気がするんです。もう少しゆっくり時間をいただいて、急ぐのかもしれませんけれども、もうちょっと広めの議論ができないかと思うのですけれども、いかがでしょうか。

○  今まで広めにやってきた感じもあるんですけれども、なかなかこの問題は難しくて、確かに少子化ということが前面に出ていますので難しいんですが、我々は少子化だけではなくて、教育と大人化のほうもちょっと考えて、大きい話もしてもいいということですが。

○  今のお話からしますと、また矮小化する話になるかもしれませんが、「少子化と教育」ということで、「少子化」という言葉を冠した議論なんでいたし方ない面もあろうかと思うのですが、先ほど事務局も、これで少子化がどうなるものでもないという気もするという感想を少し述べられておりました。例えば、先ほども御指摘があったんですが、「未婚化・晩婚化」という言葉が使われておりますが、その後「教育の在り方がこの決定に大きな影響を与えていることも事実」とあって、この「事実」というのはどういう事実なんだと。要は早く結婚しなさい、一人でおったらいけませんよということを全然教えていない、そんな次元ではないのかもしれませんが、いずれにいたしましても、「教育の在り方」という言葉を使うならば、こういう現象に対して、その中身は何なんだということは当然問われるんだろうと思います。
  それから、同じような意味かもしれませんが、「教育面から少子化を是正するために」で、「生命が時間的、空間的『広がり』と『深み』をもち、世代から世代に受け継がれていくべきものであることをしっかり教える必要がある」との意見がありましたが、これは今の委員の方の御発言にもたぶん同じような御感想があるのではないかと思いますが、ここで言う「広がり」とか、「深み」というのは何なんですか。人間愛とか、夫婦愛とか、それこそ人生観とか、家族とか、もう少し普遍的なものではないかと思うのです。その中身をどんなものだというふうにとらえて、そのとらえ方がこのメンバーの中でそう異論がなければ、そういったものをしっかり教えるんだというふうにもう少しブレークダウンして書かないと、こういう表現はいかがかなということでございます。
  3点目は感想ですけれども、「競争」という問題についていろいろ御議論があるわけですが、「競争」というのは、ある意味で勝者と敗者みたいな世界をイメージさせる言葉で、「競争」の背景には相対というよりは絶対の世界みたいなものがあり、その絶対的なイメージ世界で「競争」に伍していけるという感覚の部分と、「向上」というのはどうも相対的なイメージで、何も言葉の定義で決めつける必要はないんですけれども、その辺のことについて、先ほど来の皆さんの御議論は何か混濁といいますか、両面あるのではないでしょうか。そういう意味では、その辺の言葉を使うのなら、もう少し詰めて議論しておく必要があるのではないか、そんな感想でございます。

○  少子化と教育ということで、私は今期総会の最初のときに申し上げたのですが、少子化というのは人間の量的な変化で、質的な変化をあらわしていない。ですから、先ほどから他の委員の方がおっしゃるように、教育の質の問題に触れていない。私は最後に申し上げようと思ったんですが、人間がどう変わったかということが、基本的認識にもあまり出てこないんです。たくましさや何とかが削がれとありますけれども、「経済成長……」、経済が真っ先に出てくるんですが、これは我々は生きていかなければいけませんから、仕方のないことですけれども、少子化によって人間がどう変わったか。特に少年犯罪が増えている。少子化なのに少年犯罪が増えているといったようなことをどう考えたらいいのかということです。
  前にも申しましたが、少子化になれば、いい人も少なくなるけれども、悪い人も少なくなって当然なのに、悪い子どもがどんどん増えている。そういう中で、企業は創造的人材の育成と言う。したがって、ここでは一人一人個人を大切に、独創的、創造的というのが出てきて、人間の心とか、人格というのが出てこないんです。競争は悪いと言いながら、競争の中身を見ると、やっているのは知識の競争で、人格の競争とか、心の競争は全然やってないんです。だから、先ほどどなたかおっしゃった高い志とか、アンビシャスとかです。最近、日本青少年研究所の調査でも、青少年の夢の比較というので、日本人が一番夢がないんです。そういう意味で、地方公共団体で、夢をキーワードに教育政策、教育行政を考えているところがかなり出てきているんです。私も地方へ行くたびに、「夢、夢」と最近言っているんですが、私自身あまり夢がないので説得力がないんですけれども。
  ここで言いたかったことは、「少子化」という表現自体が量的な表現になっているので、質的にこれを表すとどうなるのかということを、カウンターパートに置いておかないと、議論はどうしても少人数学級とか、そちらのほうへ傾斜していくのではないかということです。
  それと絡んで申しますと、少子化という量的なものにしてもマクロ分析だけで、少子化のミクロ分析といいますか、構造分析、例えば都市で少子化なので、地方ではそうではないとか、職業別にインテリは少子化だとかそうでないとか、そういうものがなければ教育的な対応ができないのではないかと思うのですが、そういう分析は今までなされたのかもしれませんが、一応教育の問題を考えていくのに押さえておく必要があるのではないかと思うのです。
  第2点目は、細かいことですが、「子育て」という言葉が非常によく出てくるんですが、私は「子育て」という表現自体に反対なんですけれども、そういう議論をしていても、言葉が定着したから繰り返しませんけれども、一言だけ言わせていただきますと、子どもを育てるというのは大変なのに、「子育て」と表現を簡略化することによって、事実行為である子どもを育てることまで簡単だと思い込んでいる。だから、それは子捨て、子殺しと同じ並びの言葉だと言っているんですけれども、こうなった以上は仕方がないとして、子育てというのは、子どもが生まれた妊娠中から子育てが始まっていると考える節が見えるので、それはいいんですが、ほかのところはどうも生まれてからのことに重点がいっている。子育てのスタートをどこで考えるかという共通理解がないと、議論がどっちかへまた傾いてしまうのではないか。生まれた後という、そういうことになるのではないかと思うのです。
  第3点目は、全体のトーンですが、対策を考えるときに、いろいろ便利にしようとしている。幼稚園、保育所、いろんなところで整備しましょうと。「便利」がキーワードなんですね。これではますます人間の依存心が増大していくので、厳しさの要素が非常に少ないのでないかと思うのです。苦労があって初めてその後に楽しさがあるのに、何となく便利に、便利にというふうになっていることは、これは社会全体の風潮ですが、これでいいのかどうか。ローマ帝国が滅びたのは、ギリシャから奴隷を連れてきて、最初の奴隷は医者とか、教師とか、養成に手間暇かかるのを奴隷として連れてきた。だんだん人間もそうなってきている傾向があるのではないかと思うのです。ですから、もうちょっと苦労するということを考えなければいけない。何でも便利にお世話しましょうという感じになっていいのかなという気が一方ではいたします。
  それから、いろいろな提案があるんですが、これは教育行政の守備範囲だけではできないので、ほかの省庁のことは越権行為になるのかもしれませんが、せめて共管事務でできる範囲ぐらいでは、もう少し提案してもいいのではないかということです。
  最後に申し上げたいことは、重点施策はどれなんだろうか。いろいろなことが書いてありまして、家庭科から小学校・中学校・高等学校・大学、青少年、社会人教育、どれもこれも全部大事なんですけれども、中央教育審議会第1次答申の「第2部  第2章  (1)これからの家庭教育の在り方」に、「家庭教育は、乳幼児期の親子のきずなの形成に始まる、家族との触れ合いを通じ、『生きる力』の基礎的な資質や能力を育成するものであり、すべての教育の出発点である。」とありますが、私は、家庭教育が出発点なら、これを一番最初に書くべきで、そこからやるべきではないかというコメントをした覚えがあるんですが、そういう答申の継続性を受け継いでいけば、教育の原点は家庭なので、他の委員の方が家庭科で頑張っていらっしゃいますが、家庭科をさらに発展させて、家庭で何ができるのかというのをまずやってみて、その上に、小学校・中学校・高等学校は何ができるのかということに、展望が開けていくのではないかと思うのです。このままですと、全部大切でございます、ハイ、終わりで、結局、何もできないで終わってしまうのではないか。重点順位といいますか、それを示すべきだと思うのです。

○河合座長  今おっしゃったように、少子化というと、どうしても量のほうを考えてしまう。質のほうを考えねばならないということですが、何か質的なことを言ういい言葉はありますか。少子化が行われている背景があるんですね、委員の方がおっしゃっているように。その背景のほうにも注目しろということだと思うのですけれども、それを言う何かいい言葉があるでしょうか。

○  それは、私は前から言っているんですが、社会の変化に対応した教育ということを考えるときに、ほとんどの人は国際化、情報化、最後にちょっと高齢化がついたりする。最近は少子化がつくんですけれども。社会を構成する人間の変化に触れていないんです。
  私は人間の変化で一番大事なのは、大人の幼児化現象。これはローレンツが言っているんですが、大人が幼児化したために子どもの教育がだめになっているので。その大人の幼児化現象のキーワードは、「依存心の増大」ですから、これは便利、豊かさ。その結果、耐性低下、ひ弱になってきた。そういう大きな文明論的な背景で考えないといけないのではないかという気がするんです。ですから、「原因の原因」を考えれば、大人の幼児化を防ぐこと。少子化問題も大人が幼児化したから、少子化になったと考えるんです。
  問題は、ローレンツは、大人は幼児化したけれども、子どもはどうなったかと言っていないんです。私はそれを長らく考えているんですが、いまだによくわからないんですが、大人の幼児化で、子どもは何と表現したらいいんでしょう。それを、大人の子ども、「おとこ」とか、「ことも」という言葉遊びでなくて、これはもっと真剣に考えなきゃいけない。私は先ほど言いました少年犯罪の増加ということを考えると、大人は幼児化しているんですが、子どもは極端に言えば人間として劣化している、そのくらいに考えていたほうがいいのではないかという気がします。

○  「少年よ、大志を抱け!」だけではなくて、「大人になれ」という大人の問題が出てきました。

○  少子化の国が全部大人が幼児化して、子どもがだめになってしまったかというと、そうでもないこともあると思います。私は研究対象がたまたまフランスですけれども、フランスは一番早く少子化した国です。この間も、留学する学生を送り出したときに、私は「あの国へ行って、一つだけ大事なことがある。これからは君のことは君が決めなきゃだめだよ。君が責任を持たなきゃだめだよ」と言ったんです。そんなことは日本だって当たり前なんですね。ところが、日本では自分のことをなかなか自分で決めないし、失敗しても責任は人に依存してしまう人が非常に多い。「あの国ではそれはだめです」と言ったわけです。
  どういうことかといいますと、少子化の社会は日本よりはるかに早く始まっても、自分のことは自分が責任を持つんだという点で、日本よりもしっかりした国としては少なくともフランスも、ドイツもそうだと思います。イタリアもそうだと思います。ですから、そういうことをどうやって教えるかということが一つの問題だろうと思います。これは少子化に直接かかわるかどうか私はわからないですが、他の委員の方も、もう少し広く志のことを考えよと、一言で言うとおっしゃったと思います。それを考えると、親に対しても訴える必要があるし、先生に対しても訴えるものがここになければいけないのではないかと思います。

○  今、委員の方がおっしゃったとおりだと思うのです。ただ、大人の幼児化というのは文明社会の共通の特徴なので、文明社会は大体全部少子化しているんです。少子化の程度が違うので、日本のように極端に少子化して、高齢化が極端に進んだといいますか、今、15歳以下の年少人口よりも65歳以上の老年人口のほうが多いのは、文明国の中で日本だけなんです。これがますます進むわけですから、前回の会議で少子化と高齢化をセットで考えるべきだとどなたかがおっしゃいましたが、私も確かにそのとおりだと思うのです。ですから、文明社会に共通している少子化で、その中での日本の少子化の特殊性ということで、ヨーロッパは、(私はドイツのことは少しわかりますが)ヨーロッパを見ますと、個人独立的な国民ですから、今おっしゃったような自己決定が言えると思うのですが、日本のように民族として集団依存型の国民の少子化というのはまた日本独自の問題として考えていく必要があるのではないか。日本の場合は特に依存心というのが強くなりそうです。

○  まず、中央教育審議会では少子化と教育を考えるというその原点を常に頭に置いた上で、もちろん関連していろいろなことをマクロ的にとらえながら、常に焦点を念頭に置くべきだと思います。
  先ほど来、いろんなお話が出ていましたが、やはり教育の原点は家庭にある。これは日本中のお母さん方が、自分の子どもを自分の愛情と責任で育てるというその辺のところは、昔は家庭の中で親子がたくさん会話や体験を積んで、それを就学して後に学校で確認をしたという教育のプロセスがたくさんあったんです。ところが、今は情報の氾濫であるとか、いろんなことが影響しまして、擬似体験とか、自分たちが頭の中だけで考えて、知識としてはたくさん持っているけれども、それを体験として実践できるというところまでいかないというのも実情だと思います。ですから、子どもの数が少なくなって、過干渉である。
  でも、側面から考えますと、女性が社会に進出して、現代社会で忙しい生活を送っている。そんな中で、お母さん方もたくさん就業しているわけです。女性の社会への進出とか、女性の地位向上とか、労働生産性の面からも女性の労働力も非常に期待されなければならないといっている反面、そういう実情の中から子どもたちに過干渉であるとか、過保護であるとかということは、もしかしたら人間の生活が多様化していて、一部ではそういう家庭もあり、また一部のお母さんは仕事にかまけて仕事に追われて、家庭の中のことがいいかげんになってしまったり、子育てを放棄したお母さんのケースもあるということを前におっしゃった方もいましたね。いろいろ複雑多岐にわたる現代の中で、先ほどのマクロ的に経済とか、教育とか、文化をとらえると、少子化が起こす現象として、少子化の急激な減少がありますと、やはり社会のバランスを失ってしまい、国力の低下、活性化がなくなるといった問題も起こってくると思いますので、その辺も慎重に討議し、また具体的な策もこれから必要だと思います。
  私の知っている農村地帯のことをちょっとお話し申し上げますけれども、保育所の実態を一つ例にとりますと、最近の若いお母さんは、自分の子どもを家庭で育てているよりは、子どもを保育所に預けて、自分はきれいな格好で社会に出たい、仕事を持ってお勤めをしたい、そういう傾向があるんです。昔は厚生省の認可で、保育所というのは保育に欠ける子どもたちのために設けられた施設である。今でもこの認識は変わっていないと思うのですが、女性がもっと社会に進出するために、保育所の充実であるとか、子育て支援ネットワークとか、そちらのほうにウエートがかかっていて、自分の責任やら家族関係の愛情の問題やらが希薄になってしまって、社会に依存するお母さん方が農村でも実際に多いんです。この辺のところについて、自分で努力をして、自分で決定をして、自分で責任が取れるような、親も子育てを体験することによって育てられ、これからの子どもたちも、先ほど他の委員の方もおっしゃいましたが、中学校とか高校で人口の切実な問題を自分たちの身近な問題としてとらえられるような教育とか、家庭教育が大事であるという意識を、学校でも、社会でも当然教えていかなければ、マクロ的にとらえた場合に経済力、国力の低下といった問題が、現実の問題として10年後、20年後に起こってくると思いますので、その辺のところをしっかり考えていくべきだと思います。

○  今の発言に関して反論させていただきます。今の若いお母さんたちが子どもを自分で育てず保育園に子どもを預けて、きれいな格好をして外に出かけたがるとおっしゃいました。私はそれを批判するのは間違いではないかと思います。保育園に預けると、子どもがいろいろな人格の人と接することができるのです。例えば母親がたった一人で狭い部屋の中で、四六時中、子どもと向かい合って、「ああ、子育ては嫌だな」と思って子どもと接している現状を考えれば、どちらが子どものためにいいのでしょうか。私自身は、お母さんがきれいな格好をして、外で生き生きとした活動をして、家へ戻ってきて新鮮な気持ちで子どもに接したほうが、子どものためにはいいのではないかと思います。子どもは母親の手で育てたいと願う気持ちもわかりますが、子どもがすべてではなくて人間としてバランスの取れた感覚を持つことが母親として大切だと思っています。
  それから、この「少子化と教育について」まとめ案は、非常に広範囲で、まとめるのが非常に難しいと思ったところを、よくここまでまとめてくれたと思います。
  先ほどどなたかが、「競争」という言葉が多過ぎると言われました。数えてみたら確かに多いかもしれないのですが、21世紀の世界で、競争ということが重要な要素になってきます。国民の教育を考える文部省としては、国際競争という概念を除いて教育は語れないと思います。今、文部省は競争力のない子どもたちを育てているということで批判されている面もあるのです。受験競争ということから競争の悪い面ばかり強調されてきたのですが、そうではない意味の競争は非常に大切ですから、文部省としては戦略的に考えていかざるを得ないことだと思います。ですから、表現を少し変えていただく一方で、この考えは残していただくべきだと思います。
  それから、どなたかが言われたように、まるでデパートのようにいろいろな対策案が盛り込まれています。これだけきめ細やかに考えていただいて、すばらしいなと思ったのですが、これだけの対策を行っても少子化の進行は抑止されないと思います。私は少子化に歯どめはないと考えているのです。これから10年ぐらいまではまず歯どめがないだろうと思っております。日本では少子化の原因は結婚しないから子どもが生まれないのです。今まで女性が結婚しなくなった、晩婚化だ、未婚化だと言われたのですが、今では、若い男性のほうが結婚に対する責任を放棄して、結婚したくないと言い出しました。こうなったら少子化対策をしても効果のない世の中になってしまいます。少子化時代の教育とはいろいろなことが考えられるのですが、私自身は人間教育が一番重要だと思っています。ありきたりのことばかり言うかもしれませんけれども、やはり人間としての基本を教えていくことが、少子化時代の教育の基本だと思います。

○  簡単に申し上げます。「少子化」という言葉は量的な側面に偏った言葉であるという御批判がありましたが、それについては、量と質は常に裏腹の関係でありますから、「少子化」の定義を豊かにしていけば、「少子化」という言葉は十分議論に耐え得る言葉だと思います。基本的認識について、先ほど私、国際的な人口増とか、人口移動等の問題から若干コメントさせていただきましたが、ここで3つ指摘されている点も質的な内容をも含んでいる問題だと思っておりますので、これを積極的に活用していく必要がある。
  第2点は、「規律」「心」「何が罪か」ということを、私も教育者としてはそのことでしゃべり出したら切りがない位いろんな問題を持っていますので、基本的には賛成なんですが、こういうことなんです。ここに書いてある保育園なり、幼稚園なり、子育て相談なり、様々な施設が書いてありますけれども、これを実際に運用していこうとしますと、まさに「規律」「心」「何が罪か」ということなくしては動かしていけないんですね。ですから、ここで掲げられていることが実際に行われるということは、そこで教育活動が行われるということであり、そこでは基本的な倫理観についても教えることが条件になるであろう。また、そうでなければいけないと思っております。その両者を考えていけば、文部省の出された多面的な施策の試みはいろいろ活用できるのではないかと思っております。

○  議論の中で、「少子化と教育」の「教育」の中身がもう少しきちっと詰められないと、議論がかみ合っていないなと思うのは、やはり家庭教育というものがあり、学校教育というものがあり、社会教育というものがあり、その機能として、家庭教育としては学校教育で絶対補完できない部分が私はあると思うのです。何かというと、家庭というのは一番小さな共同体というか、社会の単位であり、そこに母親がいて、父親がおり、子どもがいる。そして、その中でしか確保できないような信頼感であったり、その中での貢献感、有能感の育成であったりするものというのは、これはどんなにしようとしても他人様にはできない分野があると思うのです。そこのところが、今、空洞化してきているというか、そこが崩れてきているということが認識としてまずあるような気がします。
  その上に、初めて知識や技術を身に付ける学校教育というものの意味があるわけです。そこのところは私は前から主張しているんですけれども、今の子どもたちは少子化してくる、親が豊かになる、してもらって当たり前人間というか、してもらうことに非常に貪欲なんだけれども、自分が相手のためにお役に立てるというか、喜ばせる喜びが全く養われていないままに学校に入ってくる。そうすると、学ぶということが全く空虚で、そのことが全く根なし草になってしまってきているという感じがするんです。学びが働くということにつながってこない。今、いろいろな事件が社会に起こっています。オウム真理教の問題とか、保険金詐欺の事件を見ても、その子たちの持っている知識や技術がエゴイスティックに自分のためだけに向いていて、それが周りの多くの人たちのためにどのようにお役に立てるかという形で養われていないところに、少子化と教育の非常に大きな問題がある。家庭教育というのは代替できない非常に重要なものがあり、それをサポートするための社会教育のシステムの在り方が問われてきているのではないかと思います。教育ということが十把一からげになっていて、そこの辺をもう少し整理する必要があるのではないかと思います。

○  私もこの小委員会の発足当時から、本当に少子化のことだけを話し合っていればいいのかと疑問に思っていました。つまり、少子化のことと現代の教育問題が密接にかかわっていますし、タマゴが先かニワトリが先かという問題もある。例えば、ここにある過保護・過干渉なんていうのは少子化だけの問題ではなくて、現代の問題であるので、現代社会の問題、現代教育の問題を話し合わないでいって、ただの少子化だけでいいのかというのはずっと思っていたんです。そのように大きくしますと、中央教育審議会のほかの委員会とバッティングする問題があって、そこが忸怩たる思いであったんです。ただ、文明社会が発展したことによって、魂が滅びつつあるということが、日本社会の最も大きな問題なので、それを少子化とリンクさせつつ、何か光を見出せるような方向を話し合っていくべきなんだろうと思います。
  それから、いつも家庭教育という問題が出てきて、実際、崩壊寸前の家庭がたくさんあるというのは、私も取材や何かでいろいろ見ています。昔から家庭教育というのがすばらしかったかというと、そうでもないようなところもあったり、それから家庭教育の崩壊が、母親が仕事に出ることによって崩壊が起きているというのも短絡的な考え方なんだと思うのです。ただ、昔とやはり違うのは、家庭という概念がかなり小さくなってきて、昔はおじさんが家の中にいて、そのおじさんがいろいろな人生のことを教えてくれたとか、おじいちゃん、おばあちゃんがいて何か教えてくれたとか、それから父親、母親の働く姿が割合と近くで見ることができ、その後ろ姿が家庭教育の大きなものだったりとか、そういった多面的な家庭教育があったと思うのです。
  物質文明によって魂が滅びたとさっき言いましたけれども、私たち、ちょうど高度成長時代に生まれて生きてきた人間が、今、親の世代になっているということで、自己反省も含めて、親の世代が実は精神的なものとか、いろんなものが滅びつつあるということがあるものですから、今、家庭教育をどうにかしろ、どうにかしろというふうにアドバルーンを上げても、それはなかなかできない。ですから、どうにかしろというのは声をかけつつ、ですが、昔はそういったおじさんだの、おじいちゃん、おばあちゃんがいたというようなことを、地域や何かで少しでも組織立ててできるかどうかということを考えるのが前向きな行政の在り方かなという気がしています。

○  私は今、子育てしている親に近い年代ですから、魂をそろそろ失いかけているかと思いますが、そういう人的なこと、あるいは環境の変化はとても大きいですが、それでも人はいるし、まだ自然は残っていると思います。だから、人に出会う場をつくる、あるいは人に出会うということで、子どもたちあるいはお母さんたちがかなり育つことができるのではないかと思います。
  例えば、今、児童館を見てみると、案外高校生なんかが児童館にいたりする。高校であまり友達をうまくつくれないような、見たらちょっと怖いような子が児童館にいて、地域のお母さんたちから、幼児が利用する場所だからどうかという目で見られながらも、児童館でその子を抱えて、何かの企画に参加をさせたり、子どもたちの面倒を見るようなことをさせていると、だんだん話をしたり、表情がよくなってきたりするというお話も聞いたりしています。
  ですから、ここで子育て支援の場はとても必要だと思いますが、その場のつくり方が大事だと思うのです。今、児童館でも、あるいは学童保育が午前中空いているということで、学童の施設でも幼児グループなんかをやろうという動きになってきていますが、実際、近所の児童館へ行ってみると、まだ一ペアも親子は来ていませんとか、「どこで遊ぶんですか」と言うと、場所も特別何もつくっていないということで、親御さんはたまに顔を出すんだけれども、何もないし人もいないから何となく帰っていってしまうということがあります。お母さんや子どもたちが行って魅力的で、そこにいたいなと思うような場所をつくると、専門家と言われる人があれこれしなくても、お母さん同士あるいは子ども同士でいろんな動きができてきて、そこでできたグループがまた別の場所で活動するということが起きることがありますので、魅力的な空間づくりについても考えていただけたらと思います。
  また、「子育て全般に関する情報提供システムの整備」についてですが、これは具体的にどういう内容かなと思うのですが、区単位とか、市単位でどういう施設があって、相談に関しても例えばどういう相談をどういうところでやっているかということが、できれば民間についてもあわせて、一般の家庭が簡単に区や市を通して得られるような情報をまとめることがいいかと思います。
  それから、子育て相談も24時間、夜中、赤ちゃんが起きて、授乳して、まいっちゃったお母さんが電話することもあるんでしょうが、特に夜中なんかだとそこでの対応が大事だと思いますので、どういう方を配置するか。あるいは、ボランティアの子育て相談員をどのように活用するのか、公民館に座って待っているのか、保健婦さんと一緒に家庭を回ってみるのか、何か具体的なことが書けたらばいいかなと思います。
  幼稚園についても書いてありますが、幼稚園の教育相談、例えば小学校でスクールカウンセラーを派遣していますが、そういう方がそのような形の専門的な訓練を受けた人の協力が何かできるのかどうかと思っています。

○  少子化につきましてはいろんな御意見があると思いますが、私はマクロとして考えた場合には、マイナス面の影響が非常に大きいということから、当然、是正されるべきだという認識は示す必要があるのではないかと思います。ただ、それを最後に「教育面から少子化を是正するために」というところでどのようにとらえていくか非常に難しいと思いますが、「生命が時間的、空間的『広がり』と『深み』をもち、世代から世代に受け継がれていくべきもの」というのがありますが、私はこのことは非常にすばらしいことだと思います。自分が生まれて、社会のいろんな恩恵を受けた中で育ってきた。したがって、今後も子育てといいますか、育児に男性も女性も参加することはすばらしいことである、人間としてすばらしい行動であるということを、教育の中できちっと教えていく必要があるのではないかと思っています。その辺がどう書き込めるかというのは非常に難しいと思いますが、そんな感じがしております。
  それから、「競争」ということでいろいろ議論がありましたけれども、今、競争が批判されているのは、一人一人が知識をいくら習得したかという面での競争が、結局は最終的に進路まで決定するような在り方が問われているんだろうと思います。競争というのはいろんな意味の競争がある。例えば、スポーツの能力でも構いませんし、ほかのいろんな競争があるわけで、そういうものはやはり必要だと思います。
  問題は、競争というのは結局は耐える力を個人個人に養わせるということと同時に、必ず敗者が出るわけです。負ける群が出てくる。その負けた人、負けた子どもたちをどう復活させるかというのをシステムとして用意していくことが非常に大事だろうと思います。1回負けたら終わりではない。敗者復活は必ずあるんだと。これをシステムとして用意していく必要があると思います。そういう意味では、「修学年限の柔軟化」、特に高校までは留年することは、子どもにとって致命傷になる。こういうシステムを何らかの形で救えるといいますか、それが一人一人の個人にとってみれば何でもないんだよということの意識の変化を、この際にぜひ社会的に共有できるような仕組みの変化ができればと思っております。そういう意味での競争と耐える力を養うということでの敗者復活のシステムづくりについて、何かの言葉で入れていただければと思います。
  もう一つ、今、子育ての中で、昔と違うというのでいろいろお話がございましたが、私は家庭の教育も重要だと思いますが、地域の教育力が完全に低下していることが一番大きな原因だろうと思います。これはもちろん、おじいちゃん、おばあちゃんという存在がなくなったこともありますが、地域の中でそれぞれの子どもがいろいろな活動をしている中で、近所のおじさん、おばさんが全く注意をしなくなっているというか、できなくなっている状態です。それは一つは、注意すれば逆に変な目で見られるということと同時に、それぞれの子どもがどこの子どもか全くわからないという状況があるからであると思います。地域の教育力を復活させるといいますか、もう少し高めていくいろんな体制が重要だろうと思います。そういう意味では、先ほど御発言がございましたように、異なった年齢の集団が活動できる空間、場所をこれからどんどんつくって、できるだけそこに参画できるようなシステムが必要ではないかと思います。
  もう1点だけ、非常に細かいことで恐縮ですが、一番最後に、「親と子どもの教育休暇制度の創設」というのがございます。これは今、制度としてはないわけですが、現実問題としてあるんですね。親が自分の都合で子どもと旅行するために、子どもを欠席させるという状況は現実にあるわけです。これはどういうことかといいますと、通常子どもを連れて旅行する場合、大体、土曜日・日曜日を普通の親は考えるんですが、土曜日・日曜日は非常に経費がかかる。日曜日・月曜日ですと安くなるわけです。そのために、月曜日を休ませるというケースはかなりあるんです。これを制度として認めるかどうか非常に大きな問題だと思っています。例えば海外に行く。半年間留学させたいから、それをどうするということとは全く別に、海外に親と一緒に旅行をするために出席扱いするということについては、相当慎重に考える必要がある。細かいことで恐縮ですが、以上でございます。

○  「プラス面を最大限に活用していくため、家庭教育」とあって、ここで「家庭教育」という言葉はここ1ヵ所しかないのではないかと思うのです。それ以下、読み方としては「家庭教育……を対象とした高度の教育の機会の拡充が必要であり」とこう続くのではないかと思います。ここのところで、最初に書いてあるから一番大事だとも読めますけれども、もう少しこれはアクセントを置いていただきたい。特に家庭が多様化しているんですから「多様な家庭教育の在り方について教育の機会の拡充」ということが第1点であります。
  第2点は、「育児や教育にかかる様々な負担や制約を軽減する必要がある」と。すべて便利に、楽にする必要があるというふうに読み取れるので、子どもを育てるのは大変な苦労が多いんだけれども、共働きとか、その他で軽減するということがないと、全部ないものねだりが多くなるので、むしろ子どもを育てるには自己犠牲を伴うんだぐらいのことを書いて、今、子どものために親が犠牲になるという気持ちがないから、車の中に子どもを置いてパチンコをやるわけです。ギャンブルをするために保育所をつくれとか、パートの何ということにもなりかねないので、もう少しおんぶにだっこじゃなくて、自分で努力しなきゃ楽しみもないということをちょっと味の素のように入れていただきたい。

○  いろいろな方が家庭ということに触れられたと思います。家庭ということを問題にするということは、やはり人間の命が生まれて育つということ、そしてどういう環境で、どのように子どもを育てていくのかという、まさにそのことを考えるのが中央教育審議会の役割であったと思います。それであれば、経済発展とか、成長とかばかりを考えてきたときに、今、社会全体として子どもが育つということを真剣に考えるというトーンのために家庭というところに目が向けられてきたと思うのです。職場だとか、経済だけでなくて、家庭なんだと。そのことのために、今、他の委員の方は家庭教育とおっしゃいましたけれども、うっかりすると、大人になった社会教育としての家庭教育と考えられますけれども、それは学校教育の中でも家庭について教育をしていくことが大切だ。それに関連して、「家庭科」はほかの教科と違って、やはり特別にそこの役割があるというふうに思うのです。それがいきなり教科エゴに結びついてしまうところに、やはりまだ「家庭科」に対する軽視の意識があるのかなという思いがあります。
  最初にお尋ねしたように、教科名が不都合であれば、「家庭について考えるための教育」であるとか、「子どもを育てるための教育」とか、「弱い者を育てていくための教育」とか、そういう表現で学校教育の中でもしっかりやっていかなくちゃいけないというニュアンスでつくっていただければありがたいと思っているわけでございます。

○河合座長  時間がきましたので、本日の討議はここまでにさせていただきます。

(大臣官房政策課)

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