審議会情報へ

中央教育審議会

1999/7 議事録   
少子化と教育に関する小委員会(第7回)議事録

  議  事  録 

平成11年7月19日(月)13:00〜15:00
霞が関東京會舘  35階ゴールドスタールーム

 1.開    会
 2.議    題
      少子化と教育について
 3.閉    会

出  席  者

委員
    河合座長、小林委員、志村委員、木委員、俵委員、中島委員、森(隆)委員

専門委員
    安藤専門委員、下田専門委員、鈴木(清)専門委員、鈴木(り)専門委員、楢府専門委員、広岡専門委員、牧野専門委員、山谷専門委員、山脇専門委員

事務局
    森田政務次官、佐藤事務次官、今村審議官(生涯学習局担当)、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官


○河合座長  それでは、ただ今から中央教育審議会の「少子化と教育に関する小委員会」第7回会議、第17期としては第3回の会議を開催いたします。
  皆様方におかれましては、御多忙の中出席いただきまして、誠にありがとうございます。
  本日は、「少子化と教育について」の審議を行うことといたします。
  まず、事務局から配付資料の確認をお願いします。

<事務局から説明>

○河合座長  それでは、これから審議を行いたいと思いますが、これまで申し上げてまいりましたとおり、「少子化と教育について」どのような内容を取りまとめるかについては、相当な工夫が必要かと思っております。これまで皆様のお知恵を拝借しながら、取りまとめについての基本的な考え方を整理してまいりましたが、本日は、これまでの御審議を踏まえ、さらに御意見をいただこうと思っております。また、このあたりである程度論議の方向性を見出すことも必要であると思います。
  なお、議論に入る前に、都市部以外の地域からの意見を伺うという意味から、下田専門委員から御発言をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

○下田専門委員  それでは、皆さんがなかなか知る機会のないような農村地域の内容について、10分という時間をいただきましたので、御紹介したいと思います。
  「農村地域における女性と子ども、子育ての実態」ということで、まず初めに農村の現状ですが、私は皆さん御存じのとおり、群馬県です。富士見村は人口が2万人に達しましたが、最近は純農村ではなく、前橋市のベッドタウンということで、非農家の方の流入人口が増えていまして、混住化が進んでおります。そして、全国の農村地帯と変わらず、農業就業者人口が減っています。といいますのは、農家の後継者がなかなか農業では生計を立てにくい、経済的自立ができない、生活水準が低いといったような理由で、身近な他産業に移行するという傾向もありましたし、就職できるということもありまして、後継者不足で、そういう意味では過疎化も進んでおります。
  また、減反の影響もありまして、遊休農地もたくさん増えています。人間の背丈ほど草が伸びて、放棄されてしまっている優良農地もたくさん村内には点在しております。
  そういう中で、今、非常に問題となっておりますのが、私のやっております畜産を含めまして、環境問題、畜産公害、糞尿処理とか、汚水の問題、悪臭の問題、こういった問題があって、大変な問題を抱えている部分もあります。
  その中で、農家の子育てと子どもの生活今昔ということですが、やはり混住化が進んでおりますから、農家の子どもたちについて昔と今を考えてみますと、遊びの形態も孤立化したり、マスコミの影響とか、情報通信網の発達で、コンピュータゲームも農村地帯にもたくさん普及しておりますので、子どもの外遊びが非常に少なくなっています。孤立化しているという印象が強いです。
  農村生活の中に、農繁期、農閑期というのがあります。施設型になりますと、年間を通して労働力は一定しておりますが、自然相手に天候とともにする農作業については、非常に忙しい時期と暇な時期があります。暇な時期ですと、子どもたちと親が一緒に何か体験をする、遊ぶといったことができるのですが、忙しい時期になりますと、親たちは農作業にいそしむということで、子どもがどっちかといいますと放任、野放しにされているというケースも、農家の子どもたちには実際にあります。
  家族関係ですが、少子化の問題で、母親、父親と子ども、いわゆる核家族の問題が今まで非常に議論されてきたと思いますが、農村地帯においてはまだまだ2世帯、3世帯、異世代間の同居が非常に多いわけです。大家族がまだまだあります。富士見村の場合は混住化が進んでいますし、独居老人もおりますので、村の平均ですと、2.8人から3人ぐらいが一世帯の家族の数ですが、子どもを育てながらおじいちゃん、おばあちゃん、つまり、2世帯、3世帯が同居している場合は、5人ないし8人ぐらいの家族も実際あります。ですから、母親が仕事で忙しいとか、いい仕事をなさっている女性農業者もたくさんいますが、その中で子どもを産んで育てる場合に、自分が子育てができにくいときに、だれにそれをゆだねるかといいますと、夫である父親よりは、おじいちゃん、おばあちゃん、祖父母というケースが多いんです。これが現実だと思います。
  次に、農村の女性の地位と労働ということですが、子育てをしながら、おじいちゃん、おばあちゃんに任せるということになると、母親、父親の子どもに対する希望とか、将来の展望とか、そういったものがなかなか伝えにくかったり、母親の思うような子育てがなかなかできないというのも現状です。
  その原因の一つとしては、農村の女性はほとんどがいわゆる農家の嫁と言われる立場で、男性と女性の一つのカップルが新しく家庭を持つというケースが少ないですから、女性が男性の両親と同居するというケースが8割以上で、圧倒的に多いというのが現状なのです。農家の女性の地位が向上したとか、しなければいけないとか、今、盛んにそういった推進事業が地方では行われていますが、現実の問題とすると、やはり女性の地位は非常に低いです。
  実際に男性と同じもしくはそれ以上に仕事をしていても、嫁は労働力というようなことが現実にありますので、女性の地位は、皆さんが思っている以上に非常に厳しいものがあります。
  私の場合は、大家族の中ではありましたが、両親とは別の作目、農業の中にもいろんなものがありますが、私たち二人は養豚をやっていましたので、最初から労働報酬はある程度のものが確保できましたから、大部分の農村女性の立場から見ると、私のほうがもしかしたら特殊だったかもしれないんです。全体に農村地域の実態ということで申し上げていますので、平均的あるいは大多数の方々が置かれている場合を申し上げているつもりです。
  農村の女性自身として、農家に嫁いで、こんなはずではなかったという方が非常に多いのです。というのは、最初は結婚する段階で、当事者同士が様々な話をして、納得したつもりでも、大家族の中の一員であるという意識でいきますと、なかなか希望どおりにいかなくて、自分でそれを開拓して何とか自分の地位を手に入れようとか、農作業を共にしていく中で、積極的に自分自身で自立しよう、精神的にも経済的にも自立しようとか、それから自分の地位を向上させようという女性は、現実の問題としてまれだと思います。
  農村の女性が、農作業以外に、子育ての面であるとか、地域の仲間たちと組織をつくって何かをしていこうといった場合に、なかなかリーダーシップをとれる方がいないんです。この点では、いわゆる農業改良普及センターであれ、農業技術課であれ、行政機関にゆだねる部分が多いんです。こういった行政側の組織が、地域の農村女性たちに問題提起をしたり、会場を提供したり、組織の運営・企画をしたりしまして呼びかけをしますと、それに賛同した人たちが組織をつくって活動をする。最近はこれが非常に多くなっております。
  私の個人的なことですが、体験を通して、少子化と教育、子育て、男女共同参画の観点から申し上げてみますと、私は前回もその前も申し上げておりますけれども、やはり農作業の中においては、男性と女性が共同で作業をする場面がたくさんあります。その中で、どうしても肉体労働が多くなると、女性の体格、体力からしますと、女性が男性と同じように労働することはまず困難です。確かに最近は体格もよくなって、肉体労働をしている女性もたくさん見聞きしていますけれども、現実の問題としますと、例えば雄豚と雌豚を使って交配をする際に、雄の体重は150キロから250キロぐらいあるわけです。これを上手にできない場合には、40キロそこそこの私が肩で支えたりした経験があるわけです。ですから、農村地帯でのそういった作業においては、男性と同じことがまずできないということが、20年間で身にしみました。
  職業的な観点から取り上げても、やはり男性と女性ではそれぞれに適した部分がある。女性は、生まれ立ての子豚の面倒をきめ細やかに見る。これは軽作業ではありながらも、養豚経営のポイント、ポイントにおいては非常に重要な部分で、ストックマン、ストックウーマンといわれている、分娩にかかわる部分は非常に大事なものですから、そういったものは女性が担当する。また、力仕事であるとか、危険を増すものは、女性にはちょっと難しいものがあると思います。
  子育てについても、男女が共に農作業の労働時間を同じにしてて、男性が家庭の中で家事をしたり育児をしたりすることは、技術的なものはできると思いますが、仕事の面で男性がたくさんいい仕事をしていただかないと、子育てもままならない。今現実の問題として、農村地帯では、やはり男性が外でといいますか、農作業に専ら従事して、女性が子育ての時期にはそちらに専念するという感覚が非常に強いです。
  ですから、前回も話が出ましたけれども、私は男性と女性の適材適所ということを何度も申し上げましたけれども、女性に適しているものは女性がすべきだし、男性のほうが適しているものは男性にお願いして、もし女性に不都合があったときに、男性がそこをフォローしてくれれば、これはありがたいという感覚です。逆に男性だって困るときがあるわけです。いろんな問題も不都合もあるわけです。そういうときに女性が応援する。
  男女共同参画社会というのは、例えば私が男社会である議会の中に入っていったというのは、男性にとってかわって女性が何とかしようとか、男性に任せられないから女性が何とかしようという感覚ではなく、やはり女性にしか見えない部分、女性の思考のプロセスで考えて、さらにいいものを築いていこうという意味で、私は男女共同参画社会を考えています。もとより微力ではありながらも、あえて自分なりに自分の考えで見詰めて、男性をフォローしながら、お互いに共同して、さらにいいものを築いていこうと思っています。私は自分が社会の中でできることをやっていきたいということで、男性が築いてきたこれまでの社会の不都合な部分を女性がフォローするという意味では、女性が社会に進出するということは、農村においても、都会においても、これは非常にいいことだと思っています。

○河合座長  ありがとうございました。
  ただ今の御発言も踏まえて、自由で結構ですから、皆さん御討議をお願いしたいと思います。どうぞ御自由にお願いします。
  今日、ちょっと方向性のようなことも私が申し上げましたが、少子化というのは、教の面でいうとプラスの面もあるし、マイナスの面もあるということも申し上げました。何かございませんか。

○  そもそも少子化とは何ぞや、ということを考えたんでございます。確かに団塊の世代に比べて、今は18歳人口が非常に減っているというようなことを、大学に関係しておりますと常々伺うんでございますが、これは比べたそのもとが異常に大きかったわけでして、もう少し長期的に50年、100年で見て、実際、少子化というのはどういうものを指しているのか。
  それから、例えば女性の未婚化・晩婚化ということが出てまいりますけれども、夫婦で子どもを全カップルが二人ずつ産めば、それなりには種は存続していくわけです。しかし、結婚しない人もおりますから、出生率は「2.α」ぐらいは必要かもしれませんけれども、そのくらいが日本のような社会でやはり理想というような見地があって、それより低いものは少子化につながるということなのか。

○河合座長  おっしゃっているとおりでして、全体的に時間を長く見れば、今の少子化ということがすぐに問題かどうかはわからないぐらいだと思うのです。ところが、御存じのように、夫婦の単位で考えると、「2」あれば現状維持です。それが「1.いくら」となったので、みんなショックを受け過ぎて、何か急に日本の国が縮小していくようなイメージを持ったので、これがいろいろなところで言われてきたわけですが、先生がおっしゃるように、ある程度減ってピタリととまれば、これはあんまり少子化の心配は要らないんでございます。ただ、数字として「1.37」ということがあったので、やはりこれは考えねばならないというところからきていると思います。我々の議論も、その辺は、相当広い見方で発言していただいても結構だと私は思います。

○  今の御発言に補足する形でよろしいですか。
  少子化の定義については、厚生省の専門家にお聞きしたところ、数字的な定義はないそうなんです。高齢化については、65歳以上の人が総人口の7%以上を占めると、その社会は高齢化していると言われ、14%以上になると高齢社会と呼ぶそうです。ところが少子化に関してはそのような数字的な定義はないのです。
  ただ、人口置換水準といって、今の人口を維持するためには一人の女性が2.08人産まなければならないのですけれども、日本の合計特殊出生率は、1.38になっております。団塊の世代が生まれた、昭和22年から昭和24年までの3年間は、大体4.5人ぐらい生まれたベビーブームでしたが、3年間で終わりました。一方、第2次世界大戦が終わった後の欧米諸国のベビーブームは10年ぐらい続き、2人以上生まれていたらしいのです。
  戦後、第一次ベビーブームが起った半面、物資も食糧もなくて子どもは生み控えられ人工妊娠中絶も認められ少子化は徐々に進みました。それが一度、1966年のひのえうまの年に1.58まで数字が極端に落ちたときがあったのです。1989年には1.57となって、ついに丙午の1.58よりも下がってしまった。そのためこれでいいのかと、政府はかなり焦ってしまった。
  人口問題研究所の先生たちにお伺いすると、2.08という人口置換水準に近い出生率を保っている国は、先進国の中ではアメリカくらいです。フランス、イギリスあたりでは1.7〜1.8ぐらいです。徐々に人口は減っていくのは仕方ないけれども、1.7とか1.8ぐらいあると、それほど急激な減少ではないので、行政も対応しやすい。政府としてはできればそのぐらいの数字を目指したいというのが本音のようです。

○  今のお話を伺って、そんなに深刻ではないのかなと思ったんですが、先日、NHKで少子化のことを何度か特集してやっていたテレビを見たんですけれども、この調子でいくとどんどん人口が減っていって、2000何十年には日本人が一人になるという、かなりショッキングな感じでその放送はつくられていたので、もし具体的な数字とか、そういうグラフが手に入ったら見たいと思いました。
  あと別の話題になるんですが、下田専門委員に御質問というか、前回の発言の中で、「多様な家族形態を許容するという発想は都市部のものであって、都市部以外では必ずしもこのような考え方が当てはまらないケースが多いということも念頭に置くべきであろう」という御発言がありましたが、本日、せっかく「農村地域における」というテーマでしたので、そのあたり、どれぐらい都市部と感覚が違うのかなということをお聞きできればと思いました。例えば、シングルで子どもを産むという女性が御近所にいた場合、その受けとめ方はどんなふうなものかと思いました。

○  もし農村地帯でシングルというと、やはり普通ではないという評価ですね。子どもを産むというのは、ちゃんと男性と女性が結婚をして子どもができるという感覚でいますから、普通ではないという見方を非常にされます。
  ちょっと余分なことかもしれませんが、男性のよさとか、女性でしかできないものとか、そういったもので、一つの家庭の中で子育てをしていくとなれば、できれば男性と女性がいて、父親と母親がいて、家庭の教育力といいますか、家庭内の理想的な教育ができるという感覚が私自身もありますし、農村地域、私どもの周りでは、実際にはそういう見方をされますね。もしそういう方がいると、例えば片親だから、欠けている部分を何とかフォローしなければいけないというので、父親は必死になりますし、もしお父さんがいない家庭であったら、母親が父親の代わりもとか、父性として行われるべき教育、父親としての子どもに対する教育について、皆さん真剣にとらえて教育なさると思うのです。
  前にも「シングルマザー」という言葉がこの席でも出ましたけれども、農村地帯でそういうことが容認されることはなかなかないと思います。

○  随分感覚が違うんだなという。私はこの会の初めに、私は都市部に住んでいるんですけれども、自分が産むギリギリの年代の女性では、結婚はまだしたくないけれども、子どもを産むにはタイムリミットがあるので、産みたいという人はかなりいるんです。仕事をするということが女性の人生にとってごく自然のことになってきているし、その中で、そういう部分のフォローがないと、未婚化・晩婚化の中で少子化を防ぐというか、少しでも歯どめをかけることは難しいのではないかという感じが私自身はしていたんです。ただ、東京だけが日本ではありませんから、むしろ農村地域というか、東京以外で暮らしている人もかなりいるわけですから、その辺のギャップが随分あるんだなという感じを持ちました。

○  先ほどの委員のお考えに、私自身がやっていることは全く同じわけです。つまり、私も30歳のときに、子どもを持つにはやっぱり妻がいるべきであると思って結婚したわけです。家庭の団らんというのは大事だと思って、家庭の中で子どもを育ててという、いわゆる家族主義の人間です。
  ただし、今の他の委員の方の問題提起は私は大事だと思うのですが、世界はそうでないことが非常に増えているのです。それがいいか悪いかというときに、私が30歳の時の家族主義、家族団らん幸福主義を固く守ると、今の議論が出ると思うのです。
  といいますのは、お話を伺っていて、私もつい先月ですが、私の今までいた同じ職場の女性が、夫なしで子どもを産んだのです。私はその勇気をたたえている一人です。しかし、その人の出合う困難というのは、たぶんフランスだったらば、はるかに小さいだろうと思うし、北欧だったらもっと小さいだろうと思います。私は外国の大学へ行って経験しておりますが、女性の助手が教授の授業を手伝ってくれたりするのです。その人が子どもがいなくて、養子養女を4人持っているという人だったので、またよくもいろいろもらい込んだものだと思ったんですが、それが肌の色がいろんな種類のお子さんをもらって大学の助手をやっているんです。小さなベルギーのまちですから、さすがに有名になったようですけれども、そういう人が胸を張って生きているのです。
  そうすると、私なんかは古めかしいから、父親がいないとやはり大変なんだろうと思うのですが、でも、世の中には父親が早死にする人もおりますから、そういう人が異常な人になるようでは困ると思います。そういう点は、北欧はさらに日本と非常に違っていると思います。そういうことをこれからの教育で子どもが学ぶ問題にしなければいけないだろうと私は思っているのです。
  そうしませんと、私の知っている、同じ職場の女性のような人の後に続く人がなくなるだろう。続く人がなくなると、少子化はますます進むだろうと思います。そういうときに、人間とか、家庭とか、幸福とか、倫理とか、そういったようなものを教える科目の中で、そういういろんな家庭があっていいのだというふうに踏み込むのか、それともやはり伝統的な家庭が一番いいよと教えるのか、私は30歳のときは後者だったんですが、今や前者になりました。やはり40年の間に変わったのです。それはやはり教育の大問題として文部省も考えなければいけないのではないかと思います。

○  今のやりとりに関係あると思うのですけれども、私は前回、社会全体として望ましいこと、例えば人口があまり急激に減るのは望ましくないというようなことにもちろん留意しなくてはなりませんけれども、それと結婚するとか、子どもを産むとかいうのは、個人の決定の中でも最も個人的なものですから、そこで個人の決定権、個人の決める権利を100%認めるということとを、ちょっと別枠で考える必要があるのではないかと思うわけでございます。
  それともう一つ、高学歴の女性が社会に進出して、子どもを産まなくなったといいますが、そこに一番欠けている視点は、女性だけでなく、男性も女性もそれができれば存分にやりたいという点ではないか。仕事もやり、家庭も持ち、子どもも育てたいという人が大多数だと思うのです。それが一部の人がなかなかやりにくくなっているのは、それを支援する体制が社会に欠けているからであって、少子化について、特にその意図ではないのかもしれませんけれども、未婚化・晩婚化というと、すぐ「女性の」というふうに見て、その人たちの個人的な選択を、社会全体のことを考慮に入れていないというふうにつなげることは非常に危険だという気がいたします。

○河合座長  どうもありがとうございます。
  全体的なことと個人のことをパッと短絡的に結びつけると、非常に危険な考え方になってしまいますね。その辺はどんなふうに我々が考えていくか、物を言うか、非常に難しいところだと思います。
  結婚とか、こういう問題は、男とか、女とか、どちらかだけに言うということでは絶対にないと思います。男と女、全く同じ問題だと思います。

○  自己決定を大切にしたり、多様な生き方を大切にしたりすることは、とても大切なことだと思いますけれども、私は自分が子どもがいるものですから、問題は子どもがそれをどう受けとめているかというので、ちょっと疑問に思うことがあります。例えば中学生の子どもが帰ってきて、「今日は離婚について習った。お父さんが暴力なんか振るった場合に、離婚したほうがお母さんも子どもも幸せだ」と言うわけです。果たしてそういうふうに教えたかどうかわかりませんけれども、そのように受けとめてくるわけです。
  今、テレビとか、雑誌とか、友達からの情報で影響を受けているというのが8割で、家族から影響を受ける子が1割、先生と活字の本からが1割という状況なんです。テレビ、友人、雑誌というのは、多様性ばかり言うわけです。それも相当商業主義的な多様性ばかり言うわけです。そういう中にどっぷりいる子どもたちが、本当に自己決定という重さを今の時点で担えるのか疑問です。それは逆に言えば子どもに対する愛情がないし、残酷なことになるのではないかという気がするんです。
  もちろん産む、産まないは本人の自由ですし、結婚する、しないも自由なんですけれども、今、子どもを授かって、産み育てることの恵みとか、御縁をいただいて男と女が家庭を営むことの恵みとか、それがあまりにも言われなさ過ぎる。実際、いわゆる標準家庭というところに育っている子どもだって、自分の個室に入って、夕飯をテレビを見ながら一人で食べるみたいな、いわゆる家庭をやっていないわけです。今、そういう現状だという時代認識に立って、どういうふうに伝えるかというのを考えないと、恐ろしいことになるのではないかという気がします。
  この前のある調査では、売春するのも本人の自由というのが、男女高校生で6割になっていますし、それから覚醒剤を使うのも本人の自由という男子高校生が27%います。それから、今度ピルが解禁になると、ピルをどう使うかというような使い方のことが雑誌に出てくるわけです。そういう風潮の中での自己決定というと近視眼的になるし、無責任だし、甘えの中での自己決定だということをやはり大人たちは見てあげていく必要があるのではないかという気がします。

○  前回もちょっと申し上げたんですが、自己決定というのは、自己が社会との関係で社会的責任も分担した、そういうバランスの上で考えるべきだと思うのです。ですから、自己決定は自己責任であるということを忘れてはいけないんですが、自己決定して自己責任を果たさない典型がクレジットカード破産で、社会にも迷惑をかけている。自己決定権と子どもの教育がどうかかわるのか。子どもを授かることも自分で決定したら、これは民法でも820条で、親権者は子どもの教育、監護の権利と義務を有する、親の義務なんです。それも自己決定の場合、どこまで視野に入れているのかという問題があると思うのです。
  最近、私はあることで児童の権利条約を見ているんですが、児童の権利条約の第14条では、第1項では憲法と同じように内心の自由、信仰の自由とか、表現の自由とか、いろいろ言っているので、そこだけ読んでいる人が、子どもにもそういう権利があると言っているんですけれども、第2項を見ますと、親がそれを適切に指導するとか、環境を整備するとか、「指導」という言葉も入っている。そういうふうに考えてくると、親は子どもに対する義務を自分の仕事とのバランスの上でどう考えたらいいのかということと、少子化によってそういう趨勢がどのくらいずれてきているのか、ずれていないのかといったような検討があるのか疑問です。
  もう一つは、他の委員の御提言、非常に興味深く聞いたんですが、ジェンダー論、わかりやすく言えば男女共同参画と家庭教育とどうかみ合うのか、そういう研究論文があったら教えていただきたいんですが、どうもあまりないようなんです。ただ、父親も家庭教育に参加すればいいんだ、いいんだと、総論はあるんですが、そこのところがどんなふうになっているのかということを、どなたか御存じの方があったら教えていただきたいと思うのです。

○  他の委員の御発言の中で、男と女とそれぞれの特性があって、役割があるという農村の中での役割のことをおっしゃって、それを受けての御発言だと思います。男女共同参画社会の実現のためには、性役割を見直そうということが大変大きな問題というか、スローガンになっている。つまり、固定的な性による役割分担を排そうということで、これが男にとっても、女にとっても生きやすい社会をつくる絶対条件でありまして、ある部分では子育てに関して、例えば女にしかできないとか、女だけがその役割を持つべきだというのは、固定的な役割分担の考え方で、父親も子育ては十分できる能力と力がある。子育てというのは広い範囲にわたっていて、男性にはこの能力がないというのも男性の力を限定してしまいますし、女性には理数系は得意でないとか、自然科学ができないということで決めつけて子どもを教育してしまうことがないようにということだろうと思うのです。
  お父さんが子育てに参加をというのは、今まで女性の領分として、父親は仕事の世界だけで生きていけばいいと考えられていたものを、もっと家庭の中に入ることによって、父親自身も子育てをする楽しみ、それから子どもがお父さんとのかかわり方の中で、子ども自身も発達がよりよくなっていくということやら、お母さん自身がひとりだけで背負わないということで、精神的にゆとりを持っていけるとか、いろんな面でお父さんの子育て参加はよいという、私もそこのところの研究を一所懸命やっているんです。つまり、お父さんが参加すると子どもの発達もいいですよというふうに言わないと、なかなか参加できないので、それを一所懸命やっています。
  お母さんと同じでいいか、あるいは男らしい役割があるのかということについては、はっきりしないところがまだあります。つまり、父性とか、母性とかいっても、人間的なものであって、重なるところがすごく多くて、父親的なというんですか、これが何だかわからないんですけれども、お母さんが非常にピシピシとやっていく。家庭の中では、子どもに対してしつけをするときには割にお母さんのほうがピシピシやって、お父さんのほうが慰めたり、疲れて帰ってきたお父さんが温かく対応するとか、ちょっと考えると逆の役割をしていて、それでもバランスがとれているということがありますから、固定的に考えないほうがいいのではないかと思っています。
  ですから、私はジェンダー論と家庭教育というのは矛盾することは全くないと思います。つまり、女だけに子育てとか、家庭生活の役割を当てはめてきたという社会の固定的な考えを取り外していかないと、少子化というのは絶対に解決していかないことであって、社会全体が子どもを産むこと、育てることに関心を持つ。今までそういう見方がなかったというところが大きな問題で、これを社会全体が考えていかないと、子どもを産むというのはつらいし、大変だしという、負担感が女にも男にもかかってしまうのではないかと思うのです。経済、政治の男の論理からいくと、子育てというのは本当に面倒で、マニュアルはないし、なかなかわかりにくいところで、今までは「女子どもの領域」となっていたところに、それこそ目を向ける必要があるんだということが、今、私たちが少子化の問題を議論していく最も基本的なことではないかと思います。

○  おっしゃることはよくわかるんですが、私は、ジェンダー論が出る前から、もう20年以上も前から、父親が母性原理の機能を家庭で果たして、母親は家庭教育で父性原理をやっても構わないと言っていたので、その点、今の委員の方と同じなんですが、お伺いしたいのは、性的役割で固定化するのではなくて、性的役割と教育的役割との関係を構造的にはっきりさせないと、ただスローガンで父親の家庭教育参加と言っていても、実効的なものにならないのではないか。だから、そういう研究がございますかとお伺いしたんです。

○  実は私は結婚当初、父親が職業的な面もあったし、大家族ということもありまして、子育てで母親ができない部分は  ―どっちかといえば嫁は労働力でしたから、現実として子育てで母親にかわる部分は、祖父母、曾祖父母もいましたから、そちらがやっていたんです。父親はじゃ仕事をしたかといいますと、前にも何回か申し上げましたが、本当に外出の多かった人でしたから、ほとんど私が3人の子育てと大家族の中の嫁という立場と農作業は自分でやってきたんです。ですから、精神的な自立とか、経済的な自立とか、そういったものも実は初期の段階で持ちました。
  ところが、確かに子どもを育てることは男にはできないかもしれないけれども、女はできるんだという意識が20年くらい前は強かったんです、農村地帯では。都会もそうだったかわかりませんけれども。それで経済的にも、精神的にも自立しようということで、私はその分一所懸命頑張ったわけです。というのは、3人の子どもを持った母親ですから、父親の分もフォローして、自分で一所懸命子どもを育てようという意識と、それから子どもを育てるのには経済的にも非常に負担がありますから、この部分を何とかしようということで、仕事も一所懸命しまして、そういうことも全部クリアした。ところが、やはり離婚はしなかった。
  というのは、先ほど他の委員の方々がおっしゃっいましたけれども、家庭の中で、子どもから見て、自分のうちにはお父さんがいて、お母さんがいるというときに、周りの子どもたちもみんなそうですし、私はちょうどそのころ、もしかしたら10年後には学校のクラスの中で、お父さんだけのお子さんとお母さんだけしかいない子どもがパーセンテージでどのぐらいになるだろうか。もしかしたらそういう世の中がくるのではないかということを想定して、そういう本を書いたら売れるかなと思ったこともあったんです。
  ところが、自分自身を考えてみますと、そういった意味で、子ども3人を大学まで出すのにいくらかかる、ではそれだけのものをキープしよう、それから精神的にも女が一人で生きていくために心も強くなって、体格こそ小さいけれども、いろんなことが何でもできるようにということで努力して、結果として離婚をしなかった。一人でも育てられるという確信は得たけれども、離婚をあえてしないで、やはり父親がいて、母親がいて、子どもがその中でいろんな教育的要素として父親からもらうもの、母親から授かるものがありますし、そういった思考のプロセスの上で、いろんなことを考えました。確かに田舎で暮らしていまして、そういった研究論文とかに遭遇する機会もなかったですし、そういう方にめぐり会う機会もなかったので、体系的な総論的なことはわかりませんけれども、それなりに家庭の中で、子どもを育てる上での教育的要素であるとか、世の中には男性がいて女性がいる、親は子どもの身近な手本という意味も含めて、やはり離婚しなかったと、今振り返ってみますとそんな感じがいたします。

○  自己決定によって多様な生き方が、これからどうしても不可避的なものになるだろうと思います。生まれてくる子どもの数も、そうそう昔のように多くなることはないだろう。これだけ都市化しまして、しかも労働力の移動が頻繁に起こる社会では、簡単に子どもをたくさん産むこともできないし、それから、そうそう人々はみんな結婚して子どもを生んでというスタイルに統一されるとも思いません。
  前にいつだったでしょうか、国立婦人教育会館で合宿があったときに、たまたま女性の方が3人の子どもをしっかりと育てておられて、専業主婦なんですけれども、お弁当も欠かさずにきちっとつくられたという話を夜されていまして、「ああ、いい話だなあ」と思って聞いておったんです。そこへ年配の男性の方  ―阪神大震災で亡くなりましたけれども  ―が見えまして、自分たちは共働きでいかに頑張って子どもを育ててきたか。保育所をつくるとか、そういうことの運動をずっとやってきて、お互いに共働きで頑張ってやってきたという話をされました。「それもすばらしいな」と思いました。
  人はそれぞれの必然的な生き方を持って生きていくわけですし、我々はそういう人たち一人一人に自己決定、自己責任を持って生きてきたということの誇りを持っていただけるような教育をするべきだと思うのです。これがこれからのというか、昔からそうなんだろうと思いますけれども、自分の責任でもって決定を下して、自分流の生き方をしてきた人が、人生に対して喜びを持てるように、社会に生まれてきたことの祝福を感じることができるような教育が必要なんだと思います。自己決定はでたらめなことをやって、何でもかんでも害毒を巻き起こすということではありません。それは自己決定ではなくて、自己無責任でありまして、決定には必ず責任が伴うべきものです。自己決定には責任が伴うんだということを、小学校、中学校、高等学校のときから教えていくということが大切なんだと思うのです。
  論点を一つずらすような話になって申しわけないんですが、少子化ということを考えた場合に、マイナス面は大きいとは思うのですけれども、プラス面も決して小さくないと思うのです。そのことの一つが、先ほど座長もおっしゃいましたように、教員一人当たりの子ども数が減ってきて、個に応じた教育をしっかりする可能性が少なくともあるということです。多様な生き方がある意味では必然的になってきており、そして同時にまた多様な生き方をそれぞれの子どもに即して、きちっと手厚くきめ細かに教えていくチャンスも、例えば一クラスの子どもの数が減るということになっていくと、そういうチャンスも広がっていくのではないでしょうか。そこのところの兼ね合いで議論することも必要かと思います。

○  今、他の委員の方の御発言で、プラス面について私も考える必要があると思っております。
  子どもの数が多くなるということのプラスを考えるよりは、子どもの数が少なくなっていくほうがずっと考えやすいと思うのです。私なんか1学級60人ぐらいで学校教育を受けて、机と机の間がやっとこ通れるというような時代でしたから、そのことから考えると、学校教育の中で、本当に一人ずつに目が向くようになったと思います。40人学級、あるいは学校によってはクラス編制の関係で、本当に人数が少なくなってきて、ある意味では戦後の子どもたちが本当に大勢いて、一人一人の命が大事にされなかった時代から見ると、子どもが少なくなることによって、子どもがある意味では大事にされるようになったということが言えると思うのです。
  その意味で、学校教育のことを考えてみますと、人数が多くて受験戦争も激しかった時代というのは、競争でとにかく生き抜くということが多かったと思うのです。ようやく子どもたちが一人ずつ自ら学んで、自ら考えるということに、今度の教育改革も向いてきていまして、その時間的なゆとりとか、スペースのゆとりとか、そのプラスをうんと生かしていく必要があると思うのです。例えば、家庭科のお話をさせていただきましたが、実践的な活動が非常に多い教科ですし、それから問題解決的な学習ができますので、それができるということを学校教育の中でこれから大いに生かして、少子化のよさを生かした教育が進展できるようにという方向で、ぜひ進めていっていただければと思います。

○  この間、家庭科の見学に行かれましたけれども、あれも子どもが少ないから、あれだけ十分できたと言っておられましたね。あれで60人もいたら絶対できないです。

○  一律に何十人学級と別にやらなくても、ぜひ半分ぐらいの教室もできるようになってきているということを生かしていただけると非常にありがたいと思います。

○  少子化で少人数学級を実現するのはいいことで、私もプラス面だと最初は思ったんです。だけど、よく考えてみれば、少子化しなければ少人数学級ができないなんていう国も情けないなという気がするんです。外国では少子化でなくても少人数学級はあるわけです。そういうふうに考えてくると、それは何か少子化のおまけみたいなものでね。他力本願になるので、やはり少子化のプラス面はもっとほかに求めるべきではないか。
  少子化という量的な変化について、教育という特に人間の質を問題にする場面で、どういう問題が出てくるのかという提言はまだあまりないのではないかと思うのです。今、企業が創造的人材を求めておりますが、単純に言えば、人口が減れば優秀な人も減るし、悪い人も減るはずなんです。教育の質をどのように考えるかということのほうがむしろ大事なのではないか。ですから、単純に少子化を契機に少人数にしようとか、漁夫の利をしめるようなことだけではなくて、もっと真剣に考える。
  今、教員養成の初任者研修で、初任者を担任につけないようにするとか、少人数学級だけではなくて、いろんなことを考えられているわけですけれども、もっと多面的にこの問題を考えなくてはいけないのではないかという気がします。

○  少子化といった場合に、少子化だけ取り上げますと、いいか悪いかという議論になると思いますが、日本の場合、一番深刻なのは少子・高齢化が同時に進行していくことだろうと思います。少子化で人口が減っていないのは、平均寿命が非常に伸びている。ここ20年間に10歳ぐらい伸びているわけです。こういう面があるということを考えないと、ただ少子化だけで、プラス面、マイナス面だけを拾うのは非常に危険ではないかという思いがございます。
  もう一つは、他の委員の方がおっしゃいましたように、確かに少子化という形で、学校で、例えば先ほどおっしゃいました家庭科の教育でも、教室が物理的に十分対応できるというのは非常に大きい。これは完全な条件だと思いますけれども、ただ、教員の数、クラス編制をどうしていくかということは、また別の考え方があるのではないかと思っています。
  もう一つは、少子化への対応の中で大事なのは、もちろん家庭の子育てが大事なんですが、それ以上に地域でどのように子育てにかかわっていくかということが、少子化のキーポイントになるのではないかと思っています。というのは、家庭だけで、お父さん、お母さんだけで育てるということは非常に大変だろうと思います。ある意味では、都会でも非常に少なくなっていますが、地域での子育て機能の支援が充実していれば、お父さん、お母さんの負担の軽減は大きいのではないかとう気がしております。教育サイドからどれぐらいこういうことを持っていけるかということになると、一挙に学校教育の中でそういうことを教えるのはなかなか難しいんですが、時間をかけながらこれからやっていかなければいけないのではないかと思っています。

○  よくわからなくて、自分でも結論が出ないのですが、私が高校のときに、受験競争が大変激しかったわけです。今、48歳ですけれども、2、30年前は本当に受験競争が激しかったと思います。今は大学の定員が生まれてくる子どもの数よりも多くなるのではないかと言われるくらい、子どもの数が減ってきて、その分受験競争は緩和されるはずだと思うのですが、一方で大学生の学力が落ちているだの、いろんなことが言われるわけです。
  私が高校時代に痛切に思っておったのは、私自身はすごい受験エリートだったんです。全国模試なんかをやると、いつも2番目とか、3番目に出るくらいでものすごく成績がよかったんですが、心の中で非常に強い不満がありました。それは「何でこんなばかばかしいことをやっているんだろう」という不満でした。特に大学へ入ってから一層強く感じたのは、例えば中学、高校と猛烈に英語の勉強をしたのに、大阪の万博で白人のウエートレスに英語で話しかけて、ちっとも会話ができないんです。6年間、英語を一所懸命勉強していて、会話がさっぱりできなくて、むだなことをしたんだろうかという疑いがふと出ました。
  教育全体の在り方に絡むと思うのですけれども、何も子どもの数が減ったから、そして受験競争が緩和されるから、教育がうまいこといくという話ではないんだと思うのですが、受験競争の緩和ということがプラスの意味を持ち得るのではないかと思うのですが、そのあたりはどうなんでしょうか。

○  先ほどから、結婚とか子育てが非常に大変で、負担感があるからちゅうちょしてしまうという話が出てきているんですけれども、うちの子どもなんかも「子どもを産むのは痛いから産まない」とか、「時間がなくなるし、お金もかかるから、子育ては嫌だ」とか、いろんなことを言っているんですけれども、「おまえさんたちはそんなちっぽけな自由が欲しいか」なんて私はしょっちゅう言いいます。つらくて大変だからこそおもしろい。それから、思いどおりにいかないことの中に恵みがあるということを、やはり先輩たちは今の後輩、子どもたちに伝えてやるべきだろうなと。そういうところではちょっとおせっかいぎみかもしれないけれども、愛情のある言葉かけ、それから行動を見せることが大事ではないかと思います。
  女性でリーダーシップをとれる女性がなかなかいないとか、現状を切り開いていく女性がなかなかいないなんていうお話がありましたけれども、これは結婚生活にも言えて、結婚生活なんて思いどおりいかないんですね。大体男は抑圧者だし、それをどうやって闘って、いくらかでも自分の思いどおりにいくような現状に直していくかというのは、そういう気迫みたいなものを女性は育てていかないといけないと思うのです。思いどおりいかない結婚だから「しないわ」じゃなくて、思いどおりいかなくて当たり前なんだから、それをいくらかでもよくするという気概と忍耐力、体力ですね。それから、コミュニケーション能力です。やむを得ない離婚てあると思うのですけれども、最近気になるのはコミュニケーション能力がないために離婚しちゃうみたいなところがあって、それではちょっともったいない。ヨーロッパの生涯学習では「生きる力」の定義の中に、コミュニケーション能力とか、ユーモアのセンスというのもあるわけですね。だから、そういうユーモアのセンスとか、コミュニケーション能力がある。それから、忍耐力、体力がある。それから、思いどおりにいかなくて当たり前なんだと思えるようなたくましい人生観、世界観を持った子どもたちを育てていく必要があるのではないかと思います。
  協調することはとても大事だし、先ほど座長が、過保護・過干渉、チャレンジ精神をなくす、競争がなくなる、それはマイナス面ではないかとおっしゃいましたけれども、その部分が若者たちの考え方を大きく左右しているような気がするんです。ですから、切磋琢磨する部分もたくさんその場面を用意して、うまくいったら自信を持つ。それから、うまくいかないことは徹底的に惨めな体験を自分の中で抱えて、それと向き合って、より強い自分をつくっていく体験が大事です。今の学校教育って競争させないで、ほわんとぬるいような感じですけれども、あれでは子ども自身が自信も持てないし、人を本当にすばらしいなと思う体験も持てないと思いますので、その辺、家庭科だけではなくて、すべての場面でそういうことを意図的につくっていく必要があるのではないかと思います。

○  今、リーダーシップの話が出たんですが、高校生ぐらいですと、例えば学校で受験をした場合、男子の定員、女子の定員を別々に設けている場合は、必ずしも女子のほうが最低ラインが低いということはなく、逆に女子のほうが高かったりする例もいくつか聞きます。それから、文化祭とか、体育祭などのリーダーシップ、生徒会長にどんどん女性が進出しているので、クラスで何かをまとめるというのを見ていましても、女性がかなり強くなっているので、子どもたちの中では男女関係は変わっているのではないかと思います。
  ちなみに、高校生ぐらいでは、男子を呼ぶとき、女子を呼ぶとき、お互いにほとんど呼び捨てが一般的であったり、それからうちは子どもが小学校1年生ですが、小学校1年生の子どもたちもお互いのことを呼び合うときに、「君」「さん」という言葉をつけていないので、それがいいか悪いかは別としまして、力関係においてはちっちゃい子も、女性もも強気になっていると思いました。
  少子化のとらえ方はいろいろあるわけですが、これだけ社会が変わってきた場合、今までの考え方ではいけない、どこかを変えていかなければならないんだというところが根本にあると思います。社会が進歩して、さらに上のレベルを求めるときには、やはり多様性を認めていかざるを得ないんですが、その多様性が現在のところでは、どちらかというとわがままを出したほうが得のような、そういう面が見れらなくもないです。私たちは、多様性を認められるからには認めることもしなくてはならないとか、主張するからには受け入れることもしなくてはならない。物事を総合的に考えさせる、見させるという能力を学校の中ではいろいろな場面でつくっていかなければならないと思います。
  あと具体的な言葉として、今まで「男らしさ」「女らしさ」とうことに対してすごく反発がありますが、これからの社会に向けて本当の意味での「男らしさ」「女らしさ」というのをもう一度再定義する。ジェンダーとか、性差をすべて含めて、本当に人間の尊厳に基づいた「男らしさ」「女らしさ」を理解できるような方法を、教育の上で考えたいと思います。

○  まだ皆さんの論点の流れが見えていないところもあるのですが、少子化ということをこれまで考えてきて、やはり今一番必要なのは、基本的には根本的な考え方を改革することだと思うのです。それはどうしたらいいのかといいますと、結局、男性の自立が足りないのではないかというのが、日ごろ思っていることなんです。自立というのはいろいろな意味がありますが、経済的自立をしている男性は多い。今、女性も経済的な自立をしだした。精神的自立というのもある。そして、家庭科などにもかかわってきますが、生活的な自立をしていない男性が非常に多いだろうと思うのです。
  会社の上司や同僚を見ていましても、奥さんがいないと生活できないというのが多い。「いや、自分はできるよ」と言っても、それは食事をコンビニのお弁当で済ましたりとか、コインランドリーで洗濯をするというようなことで、実はきちんとした生活は自分自身ではできないという男性が多いと思うのです。経済的、精神的、そして生活的な自立ができている大人同士が結婚したら、その上では子どもをうまく育てていけると思うのですけれども、生活の自立ができない方が、女性にもいるんだろうと思いますし、またそれが増えていると思いますが、そこの部分を、今から育つ子どもたちに植えつけていく必要があると思うのです。
  特に男の子を持っている友人などには、「きちんと自立する子どもを育ててね」なんて言っているのですが、そういったことで、きちんとした自立ができる大人を男女ともにつくることが、これからの家庭教育、そして学校教育の課題ではないかと思っています。

○  最初にいくつか御発言があったことに関しても話させていただきたいと思います。最初に、少子化とか、男女の役割分担意識に関して地域差があるのではないかというお話がありました。少子化有識者会議の分科会の委員で関西からいらしている委員の方に聞きましたら、大阪でも東京とは全く違う状況だと言われました。女性でも働くという意識が強いのは、東京周辺の一部の女性にすぎないということを指摘されて、私自身は非常に残念だと思った経験があります。
  それから、分科会には九州の漫画家の男性がいらしていて、「東京の女性たちがこんなに仕事をしたいというのを聞いてすごく驚いた。私自身も仕事なんかしたくないのに、どうして東京の女性たちはこんなに仕事をしたいと思っているのかわからない」などという発言もありました。それから、大阪の大学の先生のお話だと、「奥さんの下着を外に干せるかどうかが男性の自立度のチェックだ」とおっしゃっています。普通、男性の家事分担というとごみ捨てとおふろ掃除なのです。私が講演するたびに聞いた話では九州の男性はごみ捨てもなさらないらしいです。「僕はごみ捨てぐらいしてもいいと思っているのに、妻がそれを許さない」と言う30代の男性もいました。「もしかしたら、あなたは九州出身ではないですか」と聞くと、大抵「そうだ」とおっしゃるのです。やはり地域差はかなり強いですね。
  去年、地方自治体の男女共同参画社会視察のための海外研修に中央区の代表として加わって行きました。県庁や町役場などに勤めていらっしゃる地方公務員の女性の方たちだったのですけれども、意識差は随分あるということは感じました。男女共同参画のための視察に来ていながら、「女性の幸せは何といっても子どもを産むことですから、あなたも子どもを生まなければ一人前ではないわよ」という発言もありました。私たちが東京で話していても全国平均と比べて、大きなギャップがある。そのギャップをどうやって埋めていったらいいのかということを考えることも大切だと思います。
  それから、20代〜30代前半の未婚の女性たちに聞きますと、家事・育児すべてを一人でこなしてきたお母さんを見て、「私はああはなりたくない」と言う人が多いのです。「あんな苦労はしたくない。だから、結婚はしたくない、子どもを産みたくない」という方が多いのです。これまでの男女の役割分担が及ぼしてきた影響がプラスではない場合もあることを、ここで指摘させていただきたいと思います。
  それから、少子化時代の教育という本題に入らせていただきます。私は、子どもたちの間で結婚をどう思うかとか、子どもをつくる、育てるということがどういうことなのかと、話し合う時間をつくってほしいと思います。今後、「総合的な学習の時間」が入ってくるので、その中の討論の課題としても積極的にとりあげていただきたいと思います。
  最近「十四歳  見失う親消える子供たち」という本を読みました。高校時代に援助交際なんかしていた広島の女子高校生が、大学入試に失敗してアメリカの大学に留学したところ、アメリカでは生徒の間でディスカッションが盛んで、性の在り方に対しても討論するのだそうです。結局、結婚前の性交渉は、みんなで話し合ってやめることにした。それはどうしてかというと、もし子どもが生まれたときに自分たちは責任を取れない、責任を取れないことはやめましょうということになったのです。そういう話し合いから援助交際をしていた女子学生は性行為というものに対して初めて尊いものだと感じるようになったということです。ですから、結婚や育児に関しても生徒たちに話し合わせて、議論を深めていくことが一つのカギになるのではないかという気がしました。
  また、総理府が今年発表した「少子化に関する世論調査」によると、「結婚に対して喜びや希望を感じるか」という質問の中で、未婚の男女の24%が「感じない」と言っています。
  「結婚に対して負担を感じるか」と聞くと、女性は未婚も既婚も40%が「負担を感じる」と答えています。未婚男性の38.4%も「負担を感じる」と答えているのです。
  どのような負担かというと、男性は未婚も既婚も70%近くが、「経済的な負担」をあげています。女性の場合は、一番多かったのが「家事負担」で38.8%。次が「仕事と家庭の両立」(37.5%)。それから「経済的負担」がきて35.6%。「行動の自由が制約される」という理由が35.5%。女性の場合はさまざまな負担が30%台で、あがっている一方、男性の場合、負担と感じるのはほとんど「経済」です。2番目の負担が30何%と半分に減っているのです。
  「子育ての楽しさ、つらさについてどう思うか」と聞くと、「楽しさとつらさが半分ずつ」と答えている未婚女性の割合は40%です。ところが、「楽しいほうが多い」と答えた割合が、既婚女性で多く6割近いんです。案ずるより産むがやすしというか、実際に子どもを育てている人は、つらさもあるけど楽しさのほうが多いと感じているようです。未婚女性の方が、子育ては「つらいほうが多い」と考えているところも、少子化の原因の一つがわかるだろうと思いました。

○  先ほどジェンダーと教育というのはコントラディクトリーではないという御意見があったんですが、私もそのとおりだと思うのです。最近、ひょんなことで民法の関係で、日本の民法というのは、一親等、二親等、三親等というのをいろいろ規定しておりますが、夫婦についてはゼロ親等なんです。御夫婦もいろいろおありでしょうが、最近、世にいう一親等的夫婦だとか、そういう議論があるやにお聞きいたしますが、一番知り合っているというか、お互いがわかり合っているのは夫婦のはずですし、それはいい面も悪い面も含めてですね。そういう意味では、信頼もあれば、わかり合っているがゆえに、憎しみもあったり、いろいろする関係が夫婦だろうと思うのです。そういう意味で、先ほど他の委員の方がおっしゃられた、特に男の側から見ますと、私自身も含めて生活技術的な自立といいますか、生活対応力という意味での反省みたいな思いは、日本の特に我々の世代のような者には多いんだろうと思いまして、その辺はおっしゃられるとおりかなと思ってお聞きしました。
  ジェンダーのことやら何やらを含めて、子育てという作業という言い方をしたらおしかりを受けるかもしれませんが、子育てという仕事は、一つは家事その他にかかわるハードの世界が大変だ、そうでないという論理と、一方、子育てにもソフトと言っていいのかどうかわかりませんが、例えば家族愛だとか、勇気だとか、人間として育っていくのにいろいろ覚えていくコンセプトみたいなものがあるでしょう、と。そういうハードもソフトも含めて、家族といいますか、とりわけ夫婦は自らの子どもたちに対する分業があるんだろうと思います。その辺、特にソフトの部分は口で言うだけでなくて、親の生活を子どもたちが見ながら覚えていく部分もいろいろあったりしてと。
  こういう議論をしますと、「やっぱり古いのね」ということで、最近の議論はすぐ十把一からげですぐ「そういう議論は古い」というところへ追い込みかねない危うさみたいなことを、私自身は時々感じることもあるんです。
  そういう意味では、先ほどの多様性、自由  ―自由というのは、当然、自律とか、規律、責任で裏打ちされるはずですが、そういった感覚の議論を今することは、あるいはそういうことを子どもたちに訴えることも含めて、「縛る」「ダサい」といったことですぐ切り捨てる、そういう風潮もちょっと恐いなと、そんなことも思うことが多いわけです。
  先ほどシングルマザーのお話がありまして、特にヨーロッパでそういう現状がいろいろあることもお聞きいたしますが、親の選択と子どもの親の選択に対する受容性というんでしょうか、もっと平たく言えば、子どもがシングルマザーという生き方をしたお母さんを、たまたま自分のお母さんはそういうお母さんだったということを、ある年齢になりいろんなことを感じ始めたときに、肯定的なものとして受けとめるのか受けとめないのかという  ―それはどちらが正しいんだか私にもよくわかりませんが、受けとめる人も多いのかもしれませんし。そういう内面に踏み込んだ、このペーパーの中にも「深み」という表現がありますが、その辺のことについて、今、日本の社会は全体的にだいぶ混濁して議論が行われているのではないか。
  取りとめない話になってしまいましたが、生意気な言い方をすると、深みのある社会のためには、これは単に少子化とか高齢化ということだけでなく、もっと社会の本質的な問題だと。ちょっときれいごとになってしまったかもしれませんが、感想だけです。

○  家庭像をどういうふうに描くかというお話ですが、シングルマザーとか、あるいは離婚した家庭を、親は選択していくでしょうが、子どもはそれにくっついていく形になります。子どもの側から見て、シングルマザーの子ども、あるいは離婚した夫婦のどちらかについていっている子どもが、家庭についての教育を受けていくことになるので、子どもがどう見るかというところが大事だと思うのです。子どもは親が選択した結果にくっついていくだけ  ―どちらについていくかということは選ぶことができますけれども、そういうせいもあるのかもしれませんが、大抵どういう形でか傷ついていて、親が離れたということを、自分でどのように理解しようかということで、もがいて解決していくような気がしています。
  家庭というものにはいろんな形があっていいんだと。例えば、別れた結果、あなたが今いるような形もあるということは、やはりどこかで肯定してあげることが必要だと思うので、一般的な家庭というのはこうで、そうじゃない家庭は外れているんだという形での表現ではやはりうまくないのではないかと思います。表から見たところで、実際、多様性が認められていく中で、置いていかれている子どもたちのフォローをどうするか。その子たちが親になってどう選択するかということにもそれは影響すると思いますが、別れた結果の子どもたちをどうフォローするか。ただ家庭はいろんな形があるんだよということを教えるだけでは追いつかないような気がします。でも、子どもが減ってくるということで、一人一人に目が行き届く。うちのクラスにはこういうタイプの子たちがいるんだとか、あるいはうちの学校にはこういう子がいるんだということを、いろんな先生がきめ細やかに配慮していけば、ただ教科書の内容を教える以外に、子どもの心に配慮した働きかけができるようになるのではないかと思います。
  そういった意味で、教科書に載せた家庭像をもう少し深めて話すことに関して、先生方も学ぶ必要があるでしょうし、同じように少子化で、ディベートの能力とか、コンピュータなどについて、今まで十分できなかったことができるようになりますが、それについて先生方は教育を受ける必要があるだろう。例えば、先ほどマイナス面のほうで、競争する力は弱くなるだろうという御発言もありましたが、小集団の中でも競争する力をつけていくことは十分可能だと思うのです。自分でやってもむだだとか、先頭を切って手を挙げても損するだけだみたいな経験は、周りの大人に自分が任されてこなかったとか、信頼を置いてもらえなかった、責任を持って何かやらしてもらったことがなかったというところから出てくるような気がします。一人一人に目が向くようになって、ただ学力だけの視点からではなくて、いろんなところから子どもに責任を持たせて、あるいはグループの討議、あるいはグループでのゲームでもいいと思いますが、いろいろ活躍をする場を先生が提供できれば、子どもの自己責任能力のようなものも育っていくのではないかと思います。
  それから、男女役割について話がありますが、今、私の家庭は単身赴任中なので、男女の男のほうが抜けておりますが、それは他の委員の方の言うハード面でもソフト面でもきついものがありまして、単身赴任の研究などを見てみたりもしました。夫の役割としてどういうものが母親の精神的な衛生にきくかというと、実際的にどういうことをやってくれるかというのもありますが、夫の精神的なサポートがきいているという研究もあって、もちろん技術的な援助、実際に自立していくというところも大事ですが、男女あるいは人間対人間でコミュニケーションして、私とあなたはわかり合っているということを、どういう形でか学んでいくことも大事だと思います。

○  今日は、なかなか話の焦点が絞りにくくて、全体としてどのように進めていけばいいのか難しいなとつくづく思っているんですけれども、前回のときに申し上げたかと思うのですけれども、少子化という問題の中で、「家庭」ということについて、もう1回整理していく必要があるのではないかということを、今回も痛感しているんです。
  現実には、働く構造がすごく変わってきております。今でもそうかというのはわかりませんが、農村のように、太陽が上るとともに働いて、日が沈むとともにみんな働くのをやめて、家に帰って御飯を一緒に食べる。あるいは農作業に行って、家族協力して仕事をして、近くで子どもを遊ばせながら仕事をするというような中での家庭の在り方と、3次産業における家庭の在り方は違ってきます。サービス業というものが、今後、24時間のサービスを世の中から求められるということは、夜中でも働く、早朝でも働くという人間がたくさん出てくる世の中になる。働く構造がそのようになってくる中で、男も女もある意味では仕事をしたいということであれば、それぞれが自分で働いていくことができるようになっていきます。
  そうなったときに、果たしてそこで子どもを育てていく基本的な単位である家庭がどのように変容していくのか。父親がいて、母親がいて、温かい家庭があって、みんなで夕食の団らんを囲んでいるといった、幻想としてはそういう家庭があったらすばらしいと思うのですけれども、現実の世の中の動きはもっと過酷で、なかなかそういう状況が許されていかないのではないかと思います。
  人間は、やらざるを得ない状況においては、例えばお洗濯も手で洗濯しなければいけなければ、だれかが手で洗濯するわけですけれども、今は電気洗濯機がある。最近では、クリーニングに出せば、それすらしないでも済んでしまう。御飯もコンビニで買えば済んでしまうみたいになってくると、最後に家庭に残されてくる機能は、一体何であるんだろうか。その中で家庭教育が語られるときに、一体それは何なんだろうかということが、もう少し情緒的ではなく整理されていかないと、何かある日突然バラ色の家庭論になったりして、現実は全然違うということになる。
  この間もNHKのテレビを見ていると、子どもの描いた絵というのは、我々の想像以上で、夕食は自分ひとりで子ども部屋で食べているとか、御飯とおせんべいが夕食であったりとか、そんなような絵を見てしまうと、現実の過酷さみたいなものを痛感してしまいます。家庭というものの持つ機能は精神的なケアみたいなものしか残らないのか。ただ、もしそれがものすごく大事なことであれば、本当にその部分をどういうふうに家庭の中で担いながらやるのか。あるいは生きる、生活していくことを、根本的に家庭の中できちっと担っていくということであれば、そういうことを意識しながら家庭生活を営んでいくということも必要であろうと思いますので、もう1回その辺をしっかり押さえたい。
  私自身としては、家庭は多様化することを前提としながら、社会システムとしてそれをどのように補完していくのかということを考えていかないと、家庭教育の重要性を語っていてもだめなのではないかという気がいたしております。

○  一つ、ちょっと別のことなんですが、少子化の社会がなぜ悪いのか、悪くないのかということですが、私はこの中でたぶん年上だろうと思います。例えば日本の政府、とりわけ政府の政治家の地位の高い人は大体年とった人が多い。そういう人たちから見ますと、子どもが少なくなるというのは、兵隊が少なくなることに結びついている。私は少なくとも年寄りですから、生まれたときに個人ではなくて、少国民として育てられたんです。それは将来の戦争の戦力なんです。ですから、戦争中あるいは戦争前の日本社会というのは残酷で、私の友人で小児麻痺になった人は、先生から「おまえは一人前の兵隊になれないから役に立たない人間だ」と言われたんです。それはひどい差別だと思いますけれども、そういうことを言われているわけです。
  ですから、年とった人は人口が減っていくと言うと、「さあ、日本の兵力が減る。弱くなるんじゃないか」とすぐそっちのほうへいってしまうのです。今、政治家の方はどうもそんなことを考えているのではないかという心配があります。
  そういうふうなことから心配してもらうのは非常に困るんです。というのは、日本の人口は、明治維新の時にたぶん3,500万人前後だったと思います。それがこれだけ増えてきたのです。人口が増えるとどうなるかというと、経済効果が当然あるわけで、日本企業というのはすべて右肩上がりで、つまり人間が増えるから、物が売れるわけです。これからは逆に右肩下がりになっていくわけです。それに企業が必ずしも対応ができてなくて、こんな状態になっているというのが一つ。
  もう一つは、兵力がないと思っているんですが、湾岸戦争とか、コソボのいろいろな戦争を見ていますと、今、兵隊が大勢で突き合い切り合いをする戦争なんてなくなってきた。ですから、兵隊が少なくなるなんていうことをあまり心配してもらいたくないと私は思っているのです。これは文章に書きにくいんですが、根本思想として、特に政治家の人にそういう人が非常に多いということから、急激に減ることは社会保険の破綻とか、問題が起こると思いますけれども、3,500万人からここまで増えたんですから、人間にとっていい環境を保つためには、むやみに増えないほうがいい。本日聞いていますと、地球の人口は60億になったというんですが、私は「大丈夫か。これは地球全体が危ない」と思うのです。けれどもこれは、日本だけいくら減ってもだめで、むやみに人口が増えるところが地球のある部分に随分あるわけですから、これを世界の問題として取り上げないといけないと思います。これが少子化の基本的な見方なんですけれども、どうなんでしょうか。
  もう一つ、私も余計なことをたくさん言いましたけれども、お話を伺ってみると、これは先生が大変だと思いだした。現代の人間の問題、愛情の問題、家庭の問題まで踏まえて、小学校や中学校の先生が子どもに応対するというのは大変だと思うのです。実を言うと、私たちが子どものときの先生も大変だったんです。私が育った環境の中では、大金持ちの子どももいましたけれども、夫婦でほうきとはたきでなぐり合いしているような家の子どももいたわけですし、8人兄弟もいたし、一人っ子もいたし、いろんなのがいて、しかも家庭がゴタゴタしていると、みんな隣近所に見えてしまう。いろいろな家庭の子どもに、先生は昔から応対していたわけですが、今、話を聞いてみると、ますます先生が大変になった。先生に立派な人材を集めるより方法がない。
  このことはこの委員会とはあまり関係なくて、申しわけないのですけれども、ただ、日本の国が今考えていないことで、昔やっていたことは、昔は師範学校というのは授業料は免除でした。今、東京学芸大学は授業料を取っています。家が貧しくても優れた人間は、先生になればいい。大学までただで行く。そのかわり、後で先生をしなさいというようなことを、国として考えなければいけないのではないか。これは先生が大変になってきて、少子化の問題ではないけれども、学力低下の問題とか、いろいろなことがあるわけですが、やはり立派な人が先生にどんどんなっていく国をつくらないと、何を議論してもだめだと私は思いはじめています。
  それで、この間、天野郁夫さんの「学歴の社会史」を読み返してみましたら、師範学校というのは昔、授業料がなかった。それから、軍隊の学校がただだった。軍隊と教員について明治時代は優れた人材を多く集めた。ですから、学芸大をただにするぐらいのことをぜひ考えていただきたいと思います。余計なことを言って申しわけありません。

○  先ほど他の委員の方の未来の家庭像の話ですが、それが多様化する。私もそうだと思うのですが、今の家庭を構成している絆が細くなった、それはなぜか。外部依存度が高まって、洗濯はクリーニング屋、食べ物はコンビニ、どんどん外へ外へと外部発注して、娯楽はディズニーランド、生産は工場、消費はデパート、コンビニというふうになった。昔の大家族は全部家族の中でやっていたんです。そういう絆が縦横無尽だったから、離婚もできなかったんです。ところが、今やほとんど外部発注で、残された家庭の絆は愛しかないと、ある学者は言うんす。その愛が切れたら離婚。当たり前のことなんです。今、非常に脆弱な家庭になっているという現状から、最近は愛まで、心の問題まで自立できなくて、カウンセリングで外部依存なんです。大学の保健管理センターとか、電話相談とか、みんなそうなんです。ですから、人間どうなっていくのかと私はいつも思うのです。
  そういうことを考えて、少子化ということに話を絞りますと、少子化の構造分析をしなければいけないのではないかと思うのです。つまり、1人っ子の家庭はいくつ、2人っ子はいくつ、3人、4人、8人はとか、そういうものを押さえた上で、先ほどいった性的役割と教育的役割との相関構造をはっきりさせて、他の委員の方のおっしゃったようなソフトを考えなければいけない。ソフトの端緒として、文部省でおつくりになった「家庭教育手帳」がありますが、私は何遍も言いますが、あれをバージョンアップしてもらいたい。
  前回の総会で申し上げたので、専門委員の方はお聞きでないので、あえて言いますと、教育のことをここで考えているわけですから、子どもを育てるためには何をすべきかということを考えなければいけないので、社会の情勢がこうだから、仕方なくこうなっていくだろうというのではだめなので、我々がここで考えるべきことは、社会の流れは経済とか、そういう人たちに任せて考えてもらえばいいので、我々は教育の観点から考えると何が一番大事なのかということを考えて、教育で社会を変える、そのくらいの意気込みがなければいけないのではないかと思うのです。
  アメリカの大学教授とだいぶ前に話していましたら、アメリカでは子どもの教育のために離婚を我慢すると言うんです。「いつまで我慢するんですか」と聞いたら、「いや、40ぐらいまで我慢する」。そうすると、子どもは大体高校を出るから、高校を出れば自分で判断力があるから、別れる。ですから、アメリカでは40歳過ぎの離婚者が非常に多い。そこで、生涯学習で、大学でそういう離婚をした夫婦相手のセミナーが大繁盛だという。そういう幻の主婦みたいなものを何と言うんですかと聞いたら、displaced homemakerとか言っていましたが、何と訳していいかわからないんですけれどもね。ここでは社会の流れで少子化にどう対応するかという教育の問題もありますが、少子化に対する教育として、社会をどのくらい変えられるのかということもちょっと視野に入れていただきたい。以上です。

○  私が申し上げたいなと思ったことは、他の委員の方がほとんどおっしゃってくださったので、若干だけ述べさせていただきますと、現実がどんどんこうなっていくだろうというのは、一面、現実としてあるわけです。その現実というのは、利便性  ―生活のレベルとか、企業活動でいえば利益とか、いろんなことの延長線上でいくんですが、中には利便性追求一辺倒のものでも、社会全体でそこまでの利便性を求めていくのは本当なのかという議論をしなければいかん切り口がいっぱい日本に出てきているのではないか。そんな思いもありましたものですから、発言させていただきました。

○  今回、未来への提言ということでしたので、思うことがあるんですが、今の子どもたちを見ていると、自分ではっきりとこうだと選択し、発言していく自信みたいなものが多少欠けているような気がします。例えば結婚に関しても、これはしなければいけないとか、するものという感覚はあまりないかもしれませんが、人生設計を立てていく上では、する予定のものぐらい。ただし、できないかもしれない、相手に選ばれないかもしれない、選択されないかもしれない。ある意味では受け身的な問題で、家庭科の授業で、例えば裁縫でボタンつけぐらい自分ができないと、将来困るよと言うと、やってもらえる人がいないからやらなくてはいけないという、そういう発想になっているところもあります。本当は自分が将来、子どもにやってあげる、性差を超えて、時間がある人がやる  −これは結婚後の夫婦間での家事分担などについてのことですが、そういうところにはまだ結びついていないんです。
  それはいいとしても、教育というものですが、学校が今大変とは言われているんですが、教育は学校だけで行われるものではないと思います。強いて学校だけで行われるものといえば、本来は学問ではなかったかと思います。少子化の問題に関しては、社会、家庭、それから地域などの協力も不可欠ですので、その辺で総合的に教育を行うという観点をぜひ入れていただきたいです。
  また、そういう教育を行うための環境、それもやはり社会、学校、家庭、それぞれの方面から、例えば社会であれば、いくら家庭で子育てをと言っても、家庭にかかわる時間を持たせてもらえないような社会構造では不可能ですので、環境を整えるという部分も、ぜひ考えていただき、何らかの形で入れていただきたいと思います。

○  先ほど他の委員の方が、少子化の構造分析について述べられたことに関連して一言申し上げます。今、意外に四、五人子どもを持つという方が増えていて、全く産まない方、一人だけという方と二分しているようです。
  それから、別の委員の方が、兵隊さんと少子化の関係についておっしゃいました。先進国の中で少子化が一番先に問題になったのはフランスです。19世紀にドイツとの戦いでは全部負けました。ドイツには若い兵隊が多かったけれども、フランスは若者が少なかったという経験から、フランスは今でも国力として若い人材が必要だということを公言しているようです。
  御存じのように、日本でも戦時中には「生めよ殖やせよ」というキャンペーンがありました。去年、橋本前総理が少子化有識者会議を設置したときも、政府は、子どもを何人も産みたいという人がいるのに、その数だけ産めないという現状を改善したいと思っている、つまり「産めよ殖やせよ」ではないということを強調しました。小渕総理大臣も同じことを言ってらっしゃるのです。国が半ば強要的に子どもを生ませたいと思っていると考えられては困るというのが政府の立場です。
  私は国際政治を専攻しましたので、つい国際紛争という観点から世界を見るくせがあります。今の人類の構造を見ますと、先進国を1とすると、発展途上国、アフリカ系、イスラム系など大体1:1:1ぐらいでバランスがとれているのです。ところが100年後のイスラム系などを見ましたら、インドやアフリカ人、イスラム圏の人々が増えて、先進国を1とすると、ほかが9ぐらいに増えてしまいます。100年後ですから、今とは全く環境が違い教育も進んで、発展途上国の人々の考え方も変わっていると思うのですが、誤解されるのかもしれないことを承知であえて言いますと、宗教の違いで何千年も殺し合いが行われているような地域もありますから、100年後の人口バランスから世界がどういうふうに変わっているだろうと、私自身は安全保障の面からも懸念しています。世界全体では人口が増えていくので先進諸国は人口が減っても、環境にいいのではないか、ということをおっしゃる方も少なくありません。しかし、人類に対する責任を考え、先進諸国の少子化という問題を私自身は考えております。この考え方については、先進諸国の傲慢さが表れていると批判されても仕方がないと思っております。

○  実は次への疑問を残したいと思っているんですが、先ほどから性的教育というか、父性と母性の話を他の委員の方々がしていらっしゃいまして、座長の本を読みますと、日本は父性的社会であったことはない、ずうっと母性的社会であったということを随分書いていらっしゃるので、父性とか、母性というのは何なのかというのが私はとても疑問に思います。次にでも議論になったらおもしろいと思いまして、よろしくお願いいたします。

○  両方、必要です。

○  いや、両方必要ということではなくて、座長の本ですと、「今まで父性社会であったためしがない、日本は」というお話もあって、私もなるほどなと本を拝読して思いますので、父性、母性とは何かというのが、ジェンダーの話をするときには必要なのではないかと思っております。

○河合座長  少子化の問題は大変深く、広く、難しくという感じが、話をするほどするんですが、こういう中から何かまとめねばならないということを私は考えさせられていますので、随分難しいんですが、皆さんの援助を得て何とかやっていきたいと思っております。今日は、どうもありがとうございました。

(大臣官房政策課)

ページの先頭へ