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中央教育審議会

1999/3 議事録   
少子化と教育に関する小委員会(第4回)議事録

  議  事  録 

平成11年3月1日(月)13:00〜15:00
霞が関東京會舘  35階  ゴールドスタールーム

 1.開    会
 2.議    題
      少子化と教育について
 3.閉    会

出  席  者

委員
    小林座長代理、森(隆)委員

専門委員
    安藤専門委員、鈴木(り)専門委員、楢府専門委員、広岡専門委員、牧野専門委員、森(正)専門委員、山口専門委員、山谷専門委員、山脇専門委員

事務局
    富岡生涯学習局長、御手洗初等中等教育局長、小松幼稚園課長、本間総務審議官、寺脇政策課長、その他関係官

意見発表者
    中   原  美  恵  氏(ちば心理教育研究所副所長・臨床心理士)
    佐々木  宏  子  氏(鳴門教育大学教授)


○河合座長  それでは、時間になりましたので、始めさせていただきます。
  ただいまから中央教育審議会の「少子化と教育に関する小委員会」、第4回の会議を開催します。
  皆さん御多忙の中出席いただきましてありがとうございました。
  本日は、「少子化に対応した教育関連施策について」御審議をいただくこととなっております。これに関連しまして、ちば心理教育研究所の中原美恵副所長、それから鳴門教育大学の佐々木宏子教授から御発表をいただきたいと考えております。
  その前に、配付資料の確認をお願いします。
<事務局から説明>

○河合座長  それでは、ヒアリングを行いたいと思います。ヒアリングに関しましては、発表者からあらかじめ御提出いただいた資料をお配りしてありますので、適宜御参照ください。
  初めに、中原美恵さんを御紹介いたします。中原さんは、現在、ちば心理教育研究所副所長であるとともに、臨床心理士として小学校のスクールカウンセラーなどをお務めになっていらっしゃいます。本日は、「家庭教育相談から見る親の悩みについて」、短くて申しわけありませんが、20分ほど発表いただきまして、その後、10分ほど質疑応答を行いたいと思います。
  それでは、中原さん、よろしくお願いいたします。

○中原意見発表者  よろしくお願いいたします。ただいま御紹介いただきましたように、私はスクールカウンセラーの仕事をしております。また、ちば心理教育研究所と申しますのは、いわゆる開業の心理相談室でして、夜間も開いておりますので、共働きのお父さん、お母さんたちが御一緒にお子さんのことで御相談に見えたり、先生方が子どもたちへの対応について御相談に見えたりします。
  スクールカウンセラーの仕事も4年になりますけれども、小学校、中学校、高等学校といろいろな学齢期の子どもたちの相談に乗ってまいりまして、その傍らでとても思い悩んでいらっしゃるお父さん、お母さんたちにもたくさんお会いしました。そういう仕事の中から、21世紀をつくっていってくれる子どもたちのために、今、私たち大人がどんなことができたらいいだろうかと考えているところをお伝えしたいと思います。こういう会にお誘いいただきましたときに、とても楽しい会で、いろいろ刺激的なことをみんながお話しくださるので、どうぞ自由に発言してくださいということでお誘いいただきましたので、私の考えをいろいろお伝えさせていただいて、その後でまた皆さんから刺激していただけたらと思います。よろしくお願いいたします。
  それでは、資料(※1)の3枚目のほうをまず御覧いただければと思います。
  私の仕事の中で、相談の仕事と申しますのは、少しでもだれかに話を聞いてもらうと気持ちが楽になるかもしれないとか、一人で考えているよりはだれかと一緒に考えたほうが今より少しはましな状態になるのではないかとか、少なくとも他者に対する信頼感を少しはお持ちの方でないと、相談の窓口にはなかなかいらっしゃれないんですね。そこで、そういうお気持ちを内にお持ちになりながら、それでもとても用心深く相談室にいらっしゃる方たちの心境を思いますと、今まで人とかかわることで、それから人に自分の弱みやうまくいかなさを伝えることでいかに傷ついてきたか、いかにその方たちが不利な立場に置かれてきたかという痛みをとても感じます。
  相談の仕事の中で、それを繰り返してはいけないということを私の心の中に置いて、せっかく『もう1回だれかを頼ってみよう』とか、『もう1回だれかとのかかわりの中で自分の力を引き出していこう』と思われた方たちに、人との関係の中で生きていくことの喜びとか、心強さとか、そういったものをもう1回再生していただけるような、出会いの窓口になれたらいいなといつも思っております。
  特に子育ての問題は、今日、とても負担感や苦しみやつらさを多く感じる仕事になっています。本来は喜びや楽しみ、子どもとのかかわりの中で癒されたり、とても豊かな心の仕事として実感できるはずのことです。それがなぜか責任の重さがふくらみ、現実に思うように子どもが育っていかないと、自分のやり方がどこか間違っていたり、自分の力が足りないために子どもを不幸に追いやっているのではないかというような、何か責められる気持ちが強くなって、つらさや苦しさを生み出しているように思います。そういったつらさや苦しさを抱えていらっしゃる方たちが、傷ついたり、心を痛めているという状況をまず何とか支えていけないかなというのが、私の実感としてはあります。
  おわかりになりにくいかもしれませんが、資料の3枚目の左の端に書いてありますように、「負担感、苦しみ、とらわれ、こだわり」の大きくなってしまった子育てがあって、それは親になる人、親になっている人に「責任」という重圧を与えている。それをどうしたら解放していけるのだろうか。それをどうしたら「喜び」や「安らぎ」や「癒し」や「楽しみ」のある子育てへと変えていけるのだろうか  ― ということを考えたいと思います。
  まず、思いどおりにいかない子育ての現実にぶつかりながら、揺れたり、困ったり、苦しかったりするその人たちに、だれかが共感し、サポートするかかわりを持っていくことでしょうか。一番大切なのは、そのつらさや苦しみを抱えているその人、思いどおりにいかない現実に出合っているその人の思いを汲んでいくことだと思っています。人は思いを汲んでもらう体験を通して、その人の心の中にゆとりが生まれ、何か自分の持ち味を生かしていく、そういう力が引き出されるのではないかと感じます。それは私たちのような専門の心のサポーターと言われる人とのかかわりばかりでなく、学校の先生方、友達、家族などのごく身近な人から一対一でその思いを丁寧に汲んでもらうという体験をその人にどれだけ保障できるかが、大きなポイントではないかと思っています。
  思いを汲んでもらう体験をして、少しそのつらさや苦しさが緩みますと、今までのとらわれやこだわりが少し解けてきて、そこからやっと自分を開いていくことができるのです。自分の本当のつらさとか、『本当は自分は子どもをうまく愛せないでいるのかもしれない』といった心の奥にある恐れのようなものも語る勇気が出てきます。そして少し勇気が出てきたところで必要になるのが、専門家のサポートとか、一対一のケアではなくて、やはり仲間の中でそれを分かち合う、シェアをする体験なのではないかと思っております。
  誰かに丁寧に思いを汲んでもらう体験は、まず一対一のかかわりを窓口にして始まるのですけれども、そこから同じようなつらさや痛みや苦しみを持っている、同じように揺れながら何とか前に進もう、子どものために力になろうとしている親たちが、お互いに思いを分かち合い、支え合い、共に子どもを育てる方向を模索していけるような仲間を持つことが力強いサポートになるのではないかと思っております。
  実際には家庭教育学級という組織が、歴史的にかなり古くから展開しておりますけれども、家庭教育学級が、では本当に分かち合い、支え合い、共に子どもを育てていこうというような、心が開けるグループとして育っていっているだろうかと考えますと、現状としては、毎回毎回違う講師の講話を聞いて刺激されて、一人一人のお母さんたちが物を考えて帰ってということが比較的多いような気がいたします。
  私は、私の子どもたちが卒園した幼稚園で、お母さんたちの「子どもの心を聴ける人になるセミナー」というワークショップを毎年開いているんですけれども、それは私が連続してその幼稚園の希望されるお母さんたちとかかわっていきます。そこで取り組むことはお互いの思いをシェアしていくことです。ですから、幼児期の子どもを抱えていて、どんなことが喜びであり、どんなことがつらさや負担になっているのかというのを、心理的なワークの体験の中で分かち合うことをとても丁寧にやっていくようにしています。
  そうしますと、何かが解決したとか、何かを深めたということではなくて、本当にお母さんたちがほっとして、その人らしく自然なかかわりを子どもとできるようなゆとりと言ったらいいんでしょうか、そういうものが生まれてくるんです。お母さんたちの表情がとても温かいものに変わっていくというのが私の実感でもありますし、幼稚園の先生の実感でもあります。
  子育て支援にかかわる人が、「表」の上のように、その人の何かどこかまずいところや、「もっとこうしたほうがいいよ」ということを早目に指摘したり、教えてしまうことは、今、とても危険なような気がします。自信がなくて、自分のやり方で本当にこれでいいのかと迷っている方たちに、正しいやり方をしている人や、正しいやり方を教えたい人が近づいていくことは、お母さんたちにとってはとても脅威になるんだという実感もあります。
  たまたま私はそこでは卒園生の親ですので、少しは身近な存在ですし、今、まだ小学生と中学生の思春期の子どもを持っておりますので、「お母さんをやっていくということは、本当に楽じゃないね。でも、小さな楽しみや喜びって、見つけていくとけっこうあるものよね」というところで、一緒に話ができ、一緒に思いをシェアすることができます。そうした時間がとても豊かなものをつくっていくような気がいたします。
  もとの資料のほうを見ていただきたいと思います。2枚目です。私は高等学校でもスクールカウンセラーの仕事をしています。その中で、子どもたちが訴えてくることは、「本当に自分がここに生まれてきてよかったのか」、「本当に自分の存在や誕生を周りの人、社会は喜んでくれているんだろうか」、そういう不安がものすごく深く横たわっております。
  また、彼らは他者とともに生きる生き方  ―誰かに相談したり、誰かと一緒に工夫しながら生活を豊かにしていったり、自分の力を生かして人とともに社会をつくっていくような生き方―  をするのか、それとも自分の本当の姿は絶対人には見せず、弱みや傷は絶対に人に悟られないように、そういうガードを張って、自分で自分を守って生きていく―個別的な生き方のほうがいいのか、どっちにすればいいのかという悩みで、相談室を訪れます。
  そのとき彼らは、先ほど申しましたように、相談室に来て私に会っているわけですから、やはり「人間」に絶望はしていないわけです。「ひとりで生きる、そのほうがいいさ」って言っている生徒の中でも、やはり人に触れてほしいとか、寂しさや孤立感を埋めたいという思いはとても深いようです。
  ある中学3年生が、ちょうど今頃の時期(3月)ですけれども、推薦入試で自分が一足先に合格が決まった。それを教室で大喜びをしたらば、先生にものすごく叱られた。「これから受験を控えている友達がいるのに、おまえは何て無神経なやつなんだ」というふうに叱られたそうです。先生の言葉が彼に了解できなかったわけではないようでした。でも、『うれしい自分が、どうしてうれしいと言っちゃいけないんだ』というふうにずうっとそのことが引っかかっていたようです。
  高校生になって、彼は、「あの時ほどうれしいことはなかった。自分はただ先生にどれだけうれしいかを伝えたかった。久しぶりに自分の喜びを誰かと分かち合えたら、どんなにうれしかっただろうか。だけど、それを誰もしてくれなかった。それで、自分の本当の喜びや心の中のことを人に出すのはやめよう。何か評価されることだったら頑張ってやるけれども、自分の本心をだれかに打ち明けたり、だれかにわかってもらおうと期待するのはやめようと決めた。」と語りました。けれども、それでは寂しいから、彼はテレビゲームにはまり込み、他にも何かのめり込めるものを求めていきます。
  先ほど見ていただいた資料の3枚目の図の上のほうに、人との関係をあきらめ、もうひとりで自分を守ってやっていくしかないという心境になったとき、激しい愛情希求が生み出す何かへの「こだわり」とか、「とらわれ」とか、「し癖」と呼ばれるようなものが心の中にしっかり広がっていきます。そうなると、それをとかして、人とともに暮らせる人になっていくためには、ものすごく大変な道のりを必要とするのではないかという実感を持っています。本当は、分かち合い、支え合い、ともに生きる ― そういう生き方の中で、自分の本来の持ち味や力をやはりだれかのために生かしたい。それを通して、だれかに喜びや幸せをもたらせる自分でありたい。そういう思いを子どもたちはみんな持って暮らしているのではないかと思っております。
  その意味では、大人の方たちへの実際の支援はもとよりですけれども、私は、子どもの時代から人とともに生きる力、本当に人とともにやっていくことが、ひとりで囲いをつくって頑張っていくことよりも、楽しみや喜び、それから自分の持ち味を本当に生かしてやっていけることにつながっていくよというような体験、実感を、子どもたちにどうしたら用意していけるだろうかということを考えたいと思っております。
  高校生の子どもたちも、保育園や幼稚園に行くと、とても生き生きとしたいい顔をします。学校ではさえない顔をしている子どもたちが、「お兄ちゃん」って飛びつかれたり、キャッキャッと素直に喜ぶ子どもたちとの触れ合いの中で、癒され、救われ、何かを取り戻していくような気がします。そういうことを子どもたちにもっと縦の関係の中で体験させていきたいし、親になることの準備教育をそんなところから進めていきたいです。みんなで分かち合い、シェアしながら成長していけるような、そういう環境を子どもたちの中にどうしたらつくっていけるだろうかということを真剣に考えていきたいと思っております。

○河合座長  それでは、皆さんのほうから何か御質問がありましたらお願いします。

○  ありがとうございました。私も全く同感なんですが、今のお話の中で、分かち合い、支え合い、ともに育てていく体験の中で、一番大切なのはパートナーとしての夫の役割だと思うんです。そういう意味では、家族というものの中での認められる体験とか、妻を支えていく視点が私は重要だと思うんです。その辺をもう少し教えてください。

○中原意見発表者  ありがとうございます。資料の2枚目の「5)親世代の人間関係で気がかりなこと」というところに、私が感じているところを少しまとめました。今、先生が御指摘くださったように、何でもなく進んでいるときは、御夫婦の中で、思いをくんでもらえないとか、本当にシェアできないということに対する危機感はあまり目立たないで済んでいるようです。でも、子育ての中では必ず問題が顕在化するような刺激が起こりますので、そのときには親世代は、「とてもこの人と私は思いをくみ合えない」とか、「本当に大事なことをシェアできない」と感じ、深い寂しさや挫折感を味わいます。それが子どもとの関係をまた難しくし、揺らぎが起こるということはたくさん実感します。
  それと同時に、例えば妻の親が重大な病気だとか、死に至るとか、そういう家族の大きな喪失体験をしたときも同じようなことが起こります。そういう悲しみとか、大きな課題や思うようにいかないことに出合っていくときに、家族がお互いの思いをシェアしたり、共に取り組むことができる関係になっていくところを支えていく仕事はとても大切だと思います。

○  ありがとうございました。お話の中で、子ども時代から人とともに生きることの喜びを体験させたいということで、幼稚園、保育園の場に生徒が行くと、とてもいい表情になるというお話がありました。それから、資料の冒頭に、直接お話になりませんでしたけれども、乳幼児との触れ合いの機会を通してお世話することの喜びを十分体験させるというのを、「2)親になることを積極的に支える体制が必要ではないか」の「(1)」に書いていらっしゃいます。「学校教育の中でも『親』準備教育を」と。大変関心があるのですが、スクールカウンセラーとして、あるいは高校生を実際に御覧になっていて、幼稚園や保育園と学校と交流してどういうふうに効果があるかを、もう少し具体的に例を出していただけるとありがたいと思います。

○中原意見発表者  まだ具体的に私自身がそれほどたくさんプログラムを進めているわけではないんですけれども、一つにはピアヘルパーといって、子ども同士が相談に乗って支えていくといいましょうか、分かち合っていく仕事を、ある訓練をした子どもたちが中心になって、子どもグループの中で広げていこうということを少し始めております。それにはやはり年齢差があったほうがいいような気がします。高校3年生の生徒が高校1年生の相談に乗る、これがギリギリかなという感じなんです。できれば学校の枠を超えて、高校生が中学生の相談に乗ったり、小学生の遊び相手になったりということを、私はもっと進めていきたいと思っているんですが、私の力ではまだうまくいきません。とりあえず、学校の先輩・後輩の関係の中で広げていくというところでは、取り組みやすいと思いますし、社会教育の中ですと学齢の壁をもっと低くして、異年齢グループの体験が可能になるという感じがいたします。
  ただ、聞き手は、「指示は一切しない」ということで、ただただ聞くというところに徹するということでスタートするんですけれども、ただ聞くというのはとても大変なものですから、ピアヘルパーの子どもたちを支えるために、グループでシェアリングをしたり、私が彼らの相談に乗ったりということは、力を入れてやっております。
  保育園でというお話では、私が直接ではないんですけれども、髪の色のちょっと違う生徒たちを連れていったらば、そういう子のほうがうまく子どもたちと折り合いがつくし、子どもたちがどんどんそういうお兄さんのほうに近づいていく。何か安心感やスーッと近づけるものをそういう子どもたちが持っているのではないかというお話を受け入れ側の保母さんがされていて、そういう場は生徒にとってもものすごく貴重な体験の場所になっているなと感じたものですから、御紹介させていただきました。

○  きょういただいた資料の3枚目の中で、「『他者』からの評価、批判、攻撃」で、右に「〈専門家?〉」とあります。たぶん行政で何かをしようというときに、専門家の機関を置きましょうということになりがちだと思うのですが、「専門家」をここに置かれた理由と現状を教えていただきたいと思います。

○中原意見発表者  ありがとうございます。大事なところを聞いていただけてうれしいです。「〈専門家?〉」と書いてありますけれども、要するに専門家という人がえらそうな顔をして会ってしまうと、傷を広げてしまうような気がするんです。専門家の顔をしないで会えるぐらい「専門家」である必要があるというふうに私は感じています。どうしても自分の専門性にこだわり、指導・助言をしてしまうことで、目の前の方を傷つけていくことがあるのではないかという気がしておりまして、そういう意味です。

○  具体的な例で何かございますか。

○中原意見発表者  カウンセリングの勉強をされている先生が相談に見えた保護者にお会いになるときに、カウンセリングの勉強を自分はしてきて、学校内では一目置かれているので、そういう「専門家」として会わねばならないというふうにどこか気負ってしまったために、相手の方に本当に触れていくとか、思いをくむとか、同じ立場で分かち合うということが難しくなってしまうなということをそばで見ていて感じることがあります。
  適切な例ではないかもしれませんが、「専門家」ということで、自分のほうが物をわかっているとか、自分のほうが力があるとか、そういうことを相手に感じさせてしまえば、そのシェアするかかわりは難しいだろうなと思います。

○河合座長  言うならば、専門家の顔をしている人は専門家でないんです。そこは非常に大事なところです。

○  一つ御質問させていただきたいんですけれども、どちらかというと専門家がこういうやり方が正しいのよということではなくて、仲間内の中で分かち合い、支え合いながら、ともに育てていく体験を持ちながらやっていくというお話があったと思います。全く同感だなと思うんです。
  実はコミュニティがなくなっているとか、昔はそういうものが自然にあったものが、今は、仲間内の中で支え合うような共同体みたいなものがなくなった結果、それがあえて必要だとおっしゃっているんだと思います。展望がないと言ってしまうと寂しいんですけれども、都市化の中で働く場と生活の場が離れてしまっていて、地域のコミュニティもなかなかよりどころになり得なくなっています。例えば保育園に預けにいくといっても、急いで預けて、急いで引き取って帰ってきてしまい、保育園の中での親の連帯があるかというと、個々バラバラに保育園を利用しているという中で、家庭教育学級もなかなか機能しない。知識を与えるときだけは個々バラバラに与えるけれども、よりどころにはなり得ない。非常に必要なんだけれども、どういうふうにしたら仲間がつくり得るのかということに、あまり明るい展望がないように思うんですが、そのあたりについてはどんなふうにお考えになっているのかなと思うんです。

○中原意見発表者  私は現時点で言うと、「学校」という仕組みがとても可能性があるなと思っております。なぜかといいますと、学校はだれでも、どの親でもかかわってくるところなんです。ですから、公民館の子育て講座ですと、特別な方しか触れることができない部分がありますけれども、学校ですとどの親も子どもを通してつながっているというところがメリットです。学級担任の先生が、学級通信とか、懇談会の活用の仕方とか、連絡網で回し合いながら親のつながりを静かにつくっていくというような工夫の中で、実際に静かに親たちが支え合い、かかわり合っているような実感を私自身は体験の中で持っています。それは、ごく自然な出会いからグループとして成長していける貴重なチャンスだと思うし、積極的に生かしていけるのではないかと思います。
  何かをちゃんとやるために集まりましょうではなくて、お茶飲みの延長ではないけれども、子どもを育てるのはそう楽じゃないから、みんなで話し合いながら一緒に考えていこうよというようなことが少しずつ広がっていく。それを発信していくのは、やはり学校、学級担任の力が、小学校の場合には非常に大きいなと感じています。
  保育園や幼稚園でも同じようなことが少しずつ広がっているのを感じますので、絶望的ではないなと思っています。

○河合座長  まだまだ御質問があると思うんですが、時間がありますので、どうもありがとうございました。
  それでは、続いて佐々木宏子先生を御紹介いたします。佐々木先生は、現在、鳴門教育大学教授で、発達心理学が御専門であります。本日は、「少子化に対応した幼稚園関連施策について」、これもまた20分で申しわけありませんが、20分ほど御発表いただいて、その後、10分ほど質疑応答をしたいと思います。よろしくお願いします。

○佐々木意見発表者  御紹介いただきました鳴門教育大学の佐々木でございます。このような場所でお話をさせていただきましてありがとうございます。
  時間もございませんので、早速、お手持ちの資料(※2)に沿って話を進めさせていただきたいと思います。
  テーマは「少子化に対応した幼稚園関連施策について」ということでございます。大きく分けまして、1点が「幼稚園の現状及び推移等」、2点目はそれを受けまして、「幼稚園をめぐる少子化問題とその対策」というふうに分けさせていただきました。
  まず1点の幼稚園の現状ですが、「少子化の中での幼稚園の在園児数の減少」という問題がございます。この問題は、いろんなところでデータなどが出ておりますので、既に先生方はよく御存知かと思いますが、我が国の年間の出生数が昭和24年の269万人をピークに、昭和40年代はおおむね200万人前後、そして平成に入り、最近は120万人前後で、合計特殊出生率が平成9年で1.39というふうになっております。毎年、この出生率が変わるものですから、なかなか覚えにくいんですが、1.39が出ましたときに、私なりにどうやって覚えようかなと思って、「ああ、子どもはノー・サンキューなのか」という覚え方をして、すぐに覚えてしまいました。
  少子化の問題というのは、労働市場とか、あるいはそれを受けて消費市場、医療、年金、いろんな分野で多く論じられておりますが、教育の分野においてもかなり大きな影響を及ぼしております。
  幼稚園教育の分野においては、幼稚園数は昭和60年度をピークに減少しております。幼児数も全体としては昭和53年度をピークに、4歳児、5歳児ともにわずかずつ減少しておりますが、3歳児については増加の傾向にございます。
  少子化時代の幼稚園をめぐる問題の一つに、やはり幼稚園のクラスの減少とか、あるいは閉鎖というふうな経営的な問題が一つはあると思います。
  次に、「少子化時代の幼稚園の意義と役割」ですが、これは私の前にお話をなさいました中原先生の中にもかなり色濃くその内容が込められていたと思います。従来、幼稚園というのは、社会の中で伝統的に要求されていた役割があったんですけれども、少子化の中で、幼稚園に課せられたテーマはそれだけにとどまらないだろうという時代に入っています。もっと地域の子育て支援活動にかかわることが必要であり、実際に様々な施策が行われていることも事実でございます。
  幼稚園が目指す教育目標というのは、家庭や地域そのものと非常に強く連動していることも御存知のとおりだと思います。これは幼稚園の教育目標を家庭の中へまで敷衍するということではなくて、幼稚園が地域の支援に回るということは、逆に家庭の本来の機能、つまり家族がお互いに愛し合いながら、家族であることを楽しみながら、子どもというものを産み育て、発見していくというような人間というものを相互に確認し合っていくという基本的な場。あるいは、地域においてはその地域の仲間集団であるとか、自分が住んでいる地域がどんな形で営まれているのかということを学ぶ。そういうふうな独自の機能を持っておりますけれども、そういう機能が年々、少子化の中で衰退をしていっているということで、それに対する支援も幼稚園に課せられた大きなテーマの一つではないだろうかと思います。
  それから、共働きの家族が抱えている様々な子育ての上での困難な問題は、本当にたくさんございます。特に女性の社会進出ということもございますし、最近の経済的な不況という問題もありますし、それから先ほど中原先生がお話しになりました、子どもが少なくなったから育てやすいという側面と同時に、非常に人間関係が難しくなってきたという側面もございます。
  それが、家庭の中だけで孤立化する母子の問題という形にもつながっていくのではないかと思います。
  また、親の生活優先からくる子どもの発達への望ましくない影響もございまして、これはどうしても子どもと親との力関係のバランスが壊れてしまいますと、親が先に生きるといいますか、親の生き方が優先されてしまうという問題が一つ。もう一つは先ほどのヒアリングのお話の中にもあったように、親自身の子ども時代に兄弟・姉妹も少なく、あるいは幼い子どもを周辺に見ることもなく、そういう中で育ってきて、子どもというものの特性がだんだんわからなくなってきてしまうという二つの問題点から、望ましくない状況が出やすいのではないだろうかと思います。
  そういう問題の解決についても、積極的に幼稚園が自らの施設と教育機能を広く社会に提供するということは、当然望まれていくだろうと思います。
  幼稚園をめぐる少子化の問題ですけれども、まず「少子化時代に育つ子どもの『生きる力』をはぐくむ保育教材、保育指導の開発」が要求されてくると思います。これは少ない人数の中で、どうやったら子どもたちが自ら「生きる力」を身につけていくんだろうか。平成12年度から施行される新しい幼稚園教育要領も以前の平成元年のものにも述べられていますが、子どもは遊びというものを中心にしながら、自らが生きていく力を内面にはぐくんでいく。遊ぶことによって、人間関係とか、コミュニケーション、あるいは友達との遊び、けんかなどを通して、感情の抑制とか、表現能力の育成、また様々な知識や思考力を培う学習が総合的にはぐくまれていくと考えられます。
  「生きる力」というものは、複雑な要因が絡み合っております。幼児は、遊びの中で自らが課題を見つけ出し、そして自分がありたい自分を周辺のおもちゃとか、材料を使いながら役割を演じ、様々な大人のふり、物まねを自分の中に取り込みながら、広く世界の解釈、人間の解釈をやっていきます。そういう点でも、遊びというものが子ども時代の一番中心的な、基本的な発達を促す原動力であるというのが、我が国でも広く定着しておりますし、これは国際的に見ても多くの研究者あるいは多くの保護者によって認知された問題ではないかと思います。
  2番目に、資料の2枚目でございますが、「預かり保育の質的向上と改善」の問題です。幼稚園における預かり保育、いわゆる午後の保育ですが、地域の様々な実情と要求に応じて拡大してきております。平成9年度の調査によれば、公立330園(5.5%)、私立3,867園(46.0%)で実施されております。
  この預かり保育というのは、私がおります鳴門教育大学がございます鳴門市においても、かなり早く、昭和57年から行われております。しかし、預かり保育の実態、あるいは実践的な研究が今まで外へ出る機会はございませんでした。そこに資料として2枚、4枚目と5枚目に、このような資料がこのたび出てまいりました。昭和57年以来ずっと続けてきました鳴門市の場合、歴史的に3歳までは保育園、しかし4歳以上は幼稚園で教育を受けたいという根強い保護者の要求から、こんなふうな形になってきてしまったんですけれども、平成10年では4、5歳児の89%が市立幼稚園に在園しております。その中で、「午後保育の概要」というところがございますが、希望する子どもたちだけが5時半まで保育を受けるという形になっております。
  この午後保育に関しましては、それが多様な形で論争になるとか、あるいは研究成果が広まるということなしに今まであったわけですけれども、今度の新幼稚園教育要領の中には、預かり保育がきちっと定式化されまして、「教育課程に係る教育時間の終了後に行う教育活動」というふうな形で明記されました。そして、配慮事項等も述べられております。
  鳴門市の場合、資料の4枚目を御覧になっていただきますとおわかりかと思いますが、たくさんの課題が挙げられ、なおかつその課題への対応も述べられております。例えば課題の(1)ですと、「家庭生活に比べて疲労やストレスがたまりやすい」とある。ではどうすればいいのかということで、担当保育者と保護者とがきめ細かく情報を伝え合う。あるいは、(5)の「午後保育の指導計画をどのようにすればいいのか」ということで、お手持ちの資料の5枚目にございますような形の指導計画が立てられています。あるいは(8)のところの課題にございますように、「午後保育に対する保育者の意識はどのようにして変革していけばいいのか」ということで、課題の対応のところの右側のページにありますが、担当者を集めて、午後保育がどういう意味を持つのかという研修が行われる。そして、最終的には今後の取組という形のものになっております。
  このように預かり保育というものは、今後の少子化への対応の一環として、今からもたくさんあり得る多様な保育形態の一つという形で工夫されていくことが必要でしょうし、そのためには子どもの立場を尊重した保育形態の在り方、あるいは適切な設備備品、何よりも大切な保育者の資質・人数・配置、予算措置等が今後対応を迫られる大きな問題になると思います。
  3番目に、「満3歳児保育の可能性をめぐる諸問題」でございます。3歳児保育の就園率は増加傾向にあるんですが、従来、3歳児保育といいますと、満3歳になった翌日以降の学年の初め、日本ですと4月が新学期でございますので、そこから一斉に入園をするということが慣例でした。しかし、少子化が進行する中で、早くから遊び相手が欲しい、母子が孤立することの懸念等、発達の上でも重要な問題が指摘されております。そうだとすると、満3歳になった段階で幼稚園の就園ということも、今後、少子化対策の一つとしてあり得ることだろう。そのためには、随時入園に伴ういろいろな問題が生じるでしょうけれども、それも慎重に考慮しつつ考えられなければいけない問題点ではないだろうかと思います。
  4番目に、「幼児教育の地域におけるセンター的役割」でございますが、これは先ほどのヒアリングの中原先生もお話しになりましたし、実際問題としていろんなところで取組がなされております。資料の2枚目の一番下のほうにもございますように、園庭・園舎を開放したりとか、未就園児の親子登園日を設定して親子で一緒に遊んでもらうとか、あるいはカウンセラーによる子育てカウンセリングとか、あるいは子育てシンポジウム、それからお母さん方の子育てサークルの活動の支援とか、かなり興味深い活動が行われております。このようなものがもっと地域の実情に応じて多様化していくことが望まれます。いろんな形で幼稚園が使われることによって、そこで様々な悩みとか、あるいは様々なアイデアが持ち込まれることによって、子どもだけではなくて保護者もそこで一つの人的なネットワークをつくることによって、地域の中で子どもを育てることに対する共通認識を高めていくことが、可能であろうと考えられます。
  それから、「(5)幼稚園・保育所の施設の共用化等、弾力的運用」ですけれども、これも幾つかの都道府県で行われております。特に過疎地におきましては、子どもの数が少なくなりますから、幼稚園と保育所が別々ということも経済的に多くの問題を抱えております。そうしますと、幼稚園とか保育所の合築の問題とか、あるいは教育内容、保育内容の共通化、教師・保育士による保育の合同化が当然その中で要求されていくだろう。今後、ますますそのような形が進むに従って、これからの保育者というのは、養護・保育・教育についての総合的な能力が必要とされていくでしょう。
  それに対して私どものような教員養成をする大学、あるいは養成機関におきましては、幼稚園教諭・保育士の免許と資格の両方の取得が必要とされる時代がもう来ています。実際に岡山大学が一番最初にその問題についてスタートを切られる予定だと聞いております。国立大学の教育学部等においても、幼稚園教諭免許と保育士資格が同時に取得できるようなシステムは、今後も重要な問題として残されるだろうと思います。
  最後に、「幼稚園保育料減免のための助成」でございますが、所得に応じて経済的な負担を軽減するような措置が現在も行われておりますが、それにしても第2子、第3子を望む御家庭があれば、やはり経済的な負担は大きくなっていくだろう。その負担の軽減を図るためにも、今後さらに制度の充実が望まれるだろうと思います。

○河合座長  ありがとうございました。
  御質問はありますか。

○  資料の4枚目を拝見いたしますと、鳴門市では市立の幼稚園がすべて小学校に併設されている。そこで給食なども小学校と同様に完全給食にされているとあります。そこにまた4、5歳児の89%が在園しているという、ある意味では非常に恵まれた地域であると思われますが、3歳児までの保育所というのはどういう設置者による保育所で運営されているのか、またそれが父母の需要を満たしているのかどうかという問題が一つ。
  もう一つは、こうした環境ですと、小学校へ入ってからの学童保育についても、何かユニークな体制があるのではないかと思われますが、そういう点について御教授いただけたらと思います。

○佐々木意見発表者  就学前児童と保育所の入所児数というのがございますが、後でお手元に届けてもよろしゅうございますが、例えば平成9年度の場合ですと、ゼロ歳児の16.3%、1歳児の37.4%、2歳児の45.6%、それから3歳児の64.3%というデータがございます。ところが、それが突然鳴門市の地域の慣例と申しますか、4歳児になりますと4.3%、5歳児は1.5%と激減いたします。そのように入所児数は、かなりの数の保育所がございますし、それによって満たされていると思います。
  鳴門市の場合は公立の幼稚園が非常に多うございます。保育所は公立保育所は11か所、私立は12か所です。
  さらに、学童保育ですけれども、学童保育も児童館がその役割をかなり大きく担っていると私は聞いております。

○  ありがとうございました。3歳児の就園率が上がっているということで、これはそういう社会的なニーズがあるのだと思います。今の幼稚園の設置基準では、1学級の幼児数が35人ということです。そうすると、これはちょっと多過ぎるのではないか。特に先生が御指摘されました3歳児の保育の随時入園とか、いろんなことを考えたときに、この数をもう少し抑える必要があるのではないかと私は思いますが、どうでしょうか。

○佐々木意見発表者  資料の2枚目のところでちょっと漏れてしまったんですけれども、「少子化時代に育つ子どもの『生きる力』を育む」というところで御説明すべきだったと思いますが、学級編制の基準とか改善がかなり大きい要因を占めるだろうと思います。実際に35人が幼稚園の場合は原則といいますか、それ以下ということになっておりますが、例えば保育園の場合ですと、その数がかなり違っております。3歳児の場合には20人に1人、4、5歳児の場合は30人に1人という形で、かなりゆとりがあります。もちろん制度も違いますし、目的も違いますけれども、そのような数字がございますので、この問題は今後、学級編制、あるいは子どもたち一人一人を見ながら「生きる力」をつけていくときに大きな問題として残されるだろうと思います。

○  乳幼児を育てている母親を取材していて感じるんですけれども、「子育てが面倒くさくて、嫌いで、できるだけ長く預かってほしい」とか、あるいは「書道も、リズム体操も何でも幼稚園で教えてくれるわよ」「あ、それはいいわね」っていう形で、早期教育への期待で預かり保育に期待するという方たちも増えていますが、そういう薄っぺらな利便性だけで人は育たないわけで、同時に母性・父性を育てるプログラムとか、地域社会の創造というようなプログラムが大事だと思います。
  先生の資料の中でも、家庭の教育力を高めるための働きかけをどのようにしていくかとか、あるいは甘えたい気持ちや不安をどのように受けとめていくかとか、さっきもおっしゃいましたけれども、母の会のプログラムみたいなものがあって、お母さんたちが参加して預かり保育をやっていくとか、そのようないろいろなプログラムが大事だと思います。例えば、地域のおじいちゃん、おばあちゃんたちに来ていただくとか、何か鳴門市でおもしろいプログラムで成功しているものがあればお話しいただけませんか。

○佐々木意見発表者  おじいちゃん、おばあちゃんのいらっしゃる家庭が多うございますし、それから地域の結びつきも非常に強いところでございます。私がちょうど預かり保育を見ていたときもそうですが、おじいちゃん、おばあちゃんがお迎えにいらしたりということがあると、保育者が子どもたちの様子をきめ細かく伝えたりということもかなり意識的になさっていました。それから、保育者自体が、「あのお父さんも私が幼稚園で預かったし、そのお子さんも預かった」というふうに、地域ぐるみでよく御存知のところなんです。そうすると、お父さんがお迎えにいらっしゃると、「あなたが園にいたときはこうだったけれども、あなたのお子さんはこうね」ということが、語られているというおもしろい場面にもよく出合います。
  そういたしますと、鳴門市の地域の特性なんでしょうけれども、大都市で行われているようなプログラム、つまり知らない人同士が集まっているところで行われているようなプログラムの開発とはやや違ったものが要求されるのかと思います。教師も地域の中に溶け込んでおりますので、そんなふうなところでのおつき合いの層が非常に厚いと思っております。ですから、特に預かり保育のところで、おじいちゃん、おばあちゃんを含めた特別傑出したプログラムを私は知りません。ただ、幼稚園が父母会なんかで公開されるときとか、あるいは今、年度末で学習発表会とか、様々な催しが行われておりますが、そういうときでもおじいちゃん、おばあちゃんがたくさんいらして、そこである種の交流があったりとか、運動会なんかでも地域の方がかなり来てくださって、それが地域のある一つのコミュニケーションの場としてまだ機能している部分は多いような気がいたします。

○  ローテーションの中にボランティアグループを入れちゃうとか、そういう考えはあまりないんですか。

○佐々木意見発表者  私は、そういう在り方が今後かなり要求されるだろうと思います。これは私個人の考えですけれども、幼稚園児と年長者との交流の場がないといった場合、特に私どもの大学などは教育学部ですから、学生がボランティアで入っていくとか、あるいは地域のおじいちゃん、おばあちゃんがもちろん入っていってくださるとか、あるいは時には地域で子どもたちの目に触れるところでいろいろな活動をなさっているお店屋さんとか、そんなふうな方が入ってきてくださるとか、地域とか家族の雰囲気が漂うような役割の方が、その中にどんどんボランティアとして組み込まれていくことは、すごく重要だろうなとは思います。

○  ちょっとお尋ねしたいんですけれども、今、そういう形で、幼稚園が地域における子育て支援のセンターになっていく  ―資料の2枚目の最後に書いてあるように、大変多面的な活動支援の場として役割を果たしていく必要があると。ただ、この時間外のことも含めて、あるいは親子登園日なんていうのは土曜日、日曜日にするのか、あるいはもっと小さい子どもの親の支援の場所にもなるというようなことについて、それを全部できるような資質を幼稚園の先生に要求すべきなんでしょうか。学校はもっとスリム化しよう、家庭へと言っているところですね。
  私はちょっと思うんですけれども、そういうオリエンテーションがあるかどうかというのはすごく大事だと思うんです。さっき出たように、高校生が幼稚園の中へ行って子どもと一緒に遊ぶというのはとても大事な活動だと思いますけれども、今の幼稚園は外から人が入ってくるのは困るというか。違う人が入ってくることによって一緒に育つという気持ちを園の人が持ってくださるかどうかというのはとても大事だと思います。何もかも幼稚園の先生に要求するつもりはないんですが、どのように考えるとよろしいでしょうか。

○佐々木意見発表者  たぶんその地域のありようとものすごく強く関連していると思います。午後保育なんかも鳴門市の市民といいますか、保護者の強いニーズの中で、本当に地域が望む、地域が生み出した保育形態だと思います。そうであるとするならば、教育要領とか、法的な目的はあるかと思いますが、もっとその地域のありように根づいた支援、あるいはその地域のありように根づいたものとして外部の人たちが幼稚園の中に入ってきてくださることは大切だと思います。
  ですから、恐らく農村には農村のニーズがあるでしょうし、大都市には大都市で地域として欠けるものがあるでしょうし、それが何であるのかということを、保護者と幼稚園の先生方がともに考えられて、その中で、「じゃあうちはこれをやってみましょう」という形の取捨選択。そうでないと、本来の幼稚園の教育活動に支障があるでしょうし、また外部からの様々なボランティアが無原則に入ってきますと、保育そのものが成立しなくなりますから、その辺は当然園の方針、あるいは保護者との話し合いの中で、あるものが選択されていってしかるべきだろうと思います。

○  それを判断する園長先生の研修というか、教育はできるんでしょうか。

○佐々木意見発表者  それは既に地域支援の問題では、幾つかの先導的な試みに予算がついておりますので、なさっているところもありますし、そういう実践的な試みは既にかなりの都道府県で行われておりますので、新しい研修の形態はおのずから明らかになってくるのかなとは思っております。

○河合座長  それでは、時間の関係がありますから、後でまた時間がありますので、一応佐々木先生に対する質問はここまでにしていただきます。どうもありがとうございました。
  それでは、次に事務局のほうから「子育てに伴う教育費負担の軽減方策について」、資料の説明をしていただきたいと思います。よろしくお願いします。
<事務局から説明>

○河合座長  それでは、ただいまの説明について何か御質問などありませんでしょうか。
  特にないようでしたら、これから15時まで、本日のヒアリングの内容を踏まえて、「少子化に対応した教育関連施策について」討議を行いたいと思います。前にも申し上げましたが、教育に関連するテーマを中心に議論をいただきたいと思います。
  それでは、どうぞお願いします。

○  先ほど幼稚園のほうのお話をいただいたんですけれども、その中で預かり保育の問題が出ていたかと思います。私は百貨店に勤めておりますが、第三次産業というのはだんだん営業時間が拡大している一方で、労働時間が短縮しています。例えば、お店が開いている時間は年間3,000時間以上あるんですけれども、勤務時間は1,860時間という形で、シフト勤務とか、交替制とか、週休2日は確保されているんですが、必ずしもみんなが土・日に休むわけではないという就業形態が非常に多くなっています。今後、ますますそういうことが増えてきたときに、今、預かり保育の問題についても、5時半というお話がありましたけれども、祝日に働く人、日曜日、休日に働く人も出てくると思いますので、幼稚園についても、このあたりの時間延長とか、休日における活用の部分についても、もっと検討していく必要があるのではないかと思っております。
  そうなりますと、当然、幼稚園のサービスに対するニーズは高まりますので、コストがかさんでくるということがあると思います。最後のほうのお話にもありましたが、幼稚園と保育園の問題をどうやって関連づけながら、行政としては少ないコストで、サービスをいかに強化できるかという部分について、総合的に考えていく必要があると考えます。

○  先ほど時間がなかったのでお聞きできなかったのですが、鳴門市の資料で「8園で合計15名の午後保育担当臨時教員を確保し」というのがあります。この「午後保育担当臨時教員」というのは、資格の関係はどうなっているのか、ちょっとお教えいただきたいと思います。先ほどの最後のほうの御説明の中で、ボランティアの人たちなんかあんまり入ってくると、支障やら何やらという御発言があったけれども、それはどういう意味なのか、もう一度御説明をいただきたいと思います。

○佐々木意見発表者  資格は全部有資格で、幼稚園教諭の免許を持っている方でございます。
  ボランティアはまた別の話題であったかと思うんですが、家庭支援活動のところでの話題であって、それは今後の可能性をめぐる議論だったかなと思っております。

○  午後保育のところに資格のない方々が参加をされることについて、どうお考えでしょうか。

○佐々木意見発表者  正式の免許を持った人たちがきちっとついていて、なおかつそこである種の行事や午後保育に一つのカリキュラムが組まれて、そこに様々な人たちが子どもたちの環境を豊かにするために入ってくるということを、幼稚園自体あるいは保護者の人たちが望むならば、それはまた多くの可能性をもつだろうというふうには思っております。

○  いろいろと話を伺っておりまして、学校や幼稚園に関する期待が拡大しているというか、いろいろな役割を求められていることを感じたんですけれども、学校というところはもともとは勉強する場ではなかったのかなと思うのです。それが例えば家庭や地域の力が低下したので、その分、学校でやってほしい、家庭でしつけができないので、学校でしつけをしてほしい。そのような論理でどんどん広がっていった場合、それを教員がやるというのも限界がありますし、またある意味では筋道としてはおかしいのではないかという気がいたします。
  例えば、今、心の悩みを持っている生徒がたくさんいるんですが、そういう生徒はやはり保健室に行ってしまう。保健室の先生は、そこで担任とは一線を引いたところで話を聞いてくれるから話せる。また、教員も保健室の先生と連携はとるけれども、自分はカウンセリングなどの専門家ではないので、少し違う立場から子どもを見ていくことができる。多少そういう制度が確立しているとは思います。
  これからもう少し地域の連携を深めるような役割をしてほしい、それから家庭で悩んでいる父母を助けてほしいというような場合は、教員以外のいろいろな資格を持った方々に学校にスタッフとして加わっていただけるようなシステムがどうしても必要になるのではないかと私は思います。そういう話になると、すぐ人的予算ということで、なかなかつけてはいただけなくて、せめて教員研修でもということになるんですが、教員にも限界がありますし、いろいろな立場の人がその場に集まれるように、そういう方面からもぜひ考えていただきたいと思います。

○  少子化の教育に及ぼす影響ということを考えまして、きょうは参考になるお話を伺ったのですが、技術的なといいますか、実際政策に出る問題と、もう一つは価値観の問題と二つに分けて申しますと、技術的な問題では、佐々木先生からいただいた資料の3枚目の「(5)」「(6)」などは、現在、どこまで政策として取り込まれているか、あるいは今後取り込まれる必要があるかどうかという問題があると思います。非常におもしろいことを書いておられたと思います。私、幼稚園教育はあまり詳しく知らないので、もしも取り込まれていないならば、これを参考にして政策化できるのではないかと思います。
  もう一つ、私、娘に3人子どもがいて、つまり孫がいるわけです。今、地方都市の郊外の公団住宅に入っておりますが、3人の子どもを入れるには、あの住宅は非常にぐあい悪い。現在は一番上の女の子が小学校1年に入って、次の女の子が幼稚園、次はまだ2歳の男となっているわけです。けれども、彼らを見ていますと、彼らが大きくなったときに、あのうちでは大変だろうと思います。そういう点で、日本全体の住宅政策など多くの政策が少子化的に現在なっている。それを大転換するわけですから、そこまでここでは論じられないだろう。ただし、生活環境という面では少子化に極めて有利に日本の政策は続けてきたということです。
  これは20年ぐらい前に大学の教室で、当時は文化一類という法学部、経済学部に行くクラスで、ほとんど男で、3人ぐらいしか女性はいなかったんですが、「長男は手を挙げろ」と言いましたら、ほとんどが手を挙げたんです。つまり、上に女の子がいても長男ですから。したがって、既に少子化が始まっていて、子どもは二人なのです。一人目の男か二人目が男で上が女ということです。少子化というのは突然起こったのではなくて、かなり前から起こっているのです。
  それに応じてどういうことが出てきたかといいますと、私の世代は、とりわけ長男は親と対立していく存在です。意見が合わない。合わないのに対して、学校の先生は話がわかってくれると思っていた世代です。しかし、1968年ごろから親はよく話がわかってくれるけれども、何で教師はこうわからないのかという大爆発が起こってきました。歴史的に言いますと。
  これは何だろうと思うと、つまり家庭の中の儒教の崩壊だと思います。私が子どものときに親と論争して、最も親の強い点は、「親の恩を忘れたか」と言われると、子どもは必ず負けるんです。今、親の恩などだれも言わなくなってしまった。ですから、私は儒教の崩壊と思っています。
  儒教はともかくも、基本的に親がやはり子どもに教えることというのがあると思いますが、それがそのころからルーズになっているのではないか。これはだけど、文部省が国家権力で取り締まることではないので非常に難しいんですけれども、親子が対立しますと、親の言い分で非常に強いのは、「学校へ行って勉強してみろ。おれのほうが正しいぞ」と言う。なぜならば、学校へ行くと、親を敬えとか師の影は三尺去って踏まずとか、倫理観が全部教えられますから、親が勝つようにできている。ところが、しばらく前から、雑誌・新聞・テレビなどで見ていますと、「私の子どもは最良の友達です」という父親がぞろぞろ出てきて、私は驚いたのです。それはもう30年ぐらい前ですから、その人たちは今、管理職ぐらいの年の方だろうと思いますが、そういう世代が出てきた。ですから、少子化問題というのが道徳とか倫理にかかわってきたのが、2代目になってきたという気がしています。
  この前、根本会長が、やはり教育というのは価値を教えることだとおっしゃって、私もそう思います。幼稚園でも子どもに語り聞かせる何らかの人間としての基本的な価値があるだろうと思います。それが我々のころは完全に儒教でいっていますから、逆に言うと論理整合性があった。今、論理整合性がなくなったのに、どういうことを価値として与えるべきか。私なりに考えがありますけれども、ただ価値観というのは人によって非常に違いますから、国がまとめることは極めて困難ですが、それにもかかわらず何かあるだろうと思うわけです。それがどうもなくなっているのではないか。
  最後に言いますと、だいぶ前ですけれども、高校生、中学生ぐらいが半日ぐらい教育テレビで議論した中に、有馬文部大臣も出演されました。あのときの子どもたちの話し方を見ても、私が中学生、高校生のときには、文部大臣に対してああいう言葉遣いはしなかったろうと思うわけです。「あなたは……」と平気で言っている。私などはそういう点で、たぶんああいうところに出たら緊張しただろうと思います。幸いにして私の孫に聞いてみますと、学校へ行って非常に緊張しているようで、それは結構なことだと思ったのですが、世の中はうちの中とは違うということがわかってきた。これはうちの教育が成功していると思って安心しておりますが、いつ爆発するかわかりませんけれども。価値の問題と少子化とどう絡むかというのをちょっと考える必要があると思います。

○  今、他の委員の方がとても大事なことをおっしゃってくださったんですが、儒教という言葉を使われたので、もしかすると皆様の間に、おじいさんが何か言ってるという反応があるのかもしれないと思って、私、フォローさせていただきたいんです。
  只今のお話しについて申し上げれば、私自身が自分の持っている小学校、中学校、高等学校、大学のそれぞれの教師たちと語り合うとき、常に出てくる反応なんですが、「おまえ何古いことを言ってんだ」という、要するに世代ギャップ論で終わってしまうことが多々あります。私はこれは世代ギャップの問題、世代の違いの問題としてはいけないと思うんです。そうではなくて、世代がどう変わっても変わってはいけないものの一部が日本で失われた。そのことをどうリカバーするかというのが、今、我々に問われている。
  そのリカバーの仕方にはいろいろありまして、短期的には、現在の問題の一つは、戦後50年の教育の歴史の中で若い人たちが耐える力を失ったとか、あるいは最初に説明してくださった中原先生の資料の3枚目のお書きになった図で言うと、「他者からの評価、批判、攻撃、指摘」等々を受けた場合の反応がマイナスの方向に出てしまうという現象が起こった。あるいは、他の委員の方の話にありましたように、親に対する愛と礼節といったようなものとが混然一体となったものが、本来親子の間には必要なんだという感覚が突然のように失われたといったような現象。今、三つ挙げましたけれども、それらをどうリカバーするかのうち、本人が耐え切れなくなってパニックになったりする、そういったたぐいの症状、医学的に言えばパニック・ディスオーダみたいな現象をどう治すかというのには、確かにカウンセリングというテクニックも重要です。しかし、それは短期的な問題なのではないかと思います。長期的には、やはり我々が失ったものをもう1回取り返すのにはどうしたらいいのか。この中央教育審議会はその両方の問題を取り扱うべきなのであって、一方だけに偏るのは間違っていると私は思うのです。
  その意味では、今回、何となく雰囲気として、高校生や中学生や小学生が幼児たちと遊ぶ時間を必修化すれば何とかなるだろうという雰囲気が感じられるんですけれども、私はそれだけでは片づかない問題だと思います。教育の中でもっと根本的に、幼年期には幼年期の鍛え方、少年期には少年期の鍛え方、青年時代には青年時代の鍛え方が含まれた教育を取り戻す必要があると思います。
  自分自身の経験では、私は5歳のときから剣道をずうっとやらされましたから、ぐったりしているときでもショックを受けたら、例えば人にどなられたとか、攻撃を受けたとか、先生から理不尽に怒られたとか、先輩から理不尽な叱責を受けたという場合、私の体の中にはたぶんアドレナリンがバーッとわいて、私は攻撃態勢に移る。ですから、私はつらくても乗り越えます。ところが、私の子どもたちを見ていると、そうではないんです。「助けてくれ」になっちゃうわけです。その「助けてくれ」が高じて、私自身も自分の子どもで経験しましたが、数年にわたって不登校になったり、あるいは学校に行きたくないという気持ちが常にわだかまっている状況になったり、いろんな思いをして私自身も苦しみました。しかし、考えてみると、これはカウンセリングだけではなくて、一方では、さっきから繰り返していますが、鍛えることを私が怠ったためだと思っています。
  そういう意味で、中央教育審議会の審議の方向を座長と会長にぜひ誘導していただいて、皆様の御協力も得て、広い視野の答申にしたいと思います。なぜならば、前回出した答申があるんです。前回出した答申の骨子は、「親はしっかりしろ」「家庭はしっかりしてくれよ」ということを訴えたはずなんです。ところが、その話がゴチャゴチャになってしまうのでは本当に困りますので、もう一遍私はそのことをあえて申し上げたいと思います。

○  いま、お二人の委員のお話をお聞きして同感いたしました。第1回の会合のときにも、私は少子化とは価値観の問題ではないか、と申し上げて、根本会長からもご賛同いただき非常に心強く思った経験がございます。世代を越えて継承するものが価値であって、いま、それが日本人に失われている、というご指摘は全くその通りだと思っております。
  鍛えるということに関連して申し上げますと、私の知り合いの武道家の方が地元の非行少年や不登校の子どもを集めて武道を教えたいということで、財団法人化するために活動しています。私もその活動に共感を感じております。先ず第一に、日本の伝統、芸術や心が失われているので、それを継承することができるのではないか、ということ。それから、不登校の子どもや非行少年に武道を教えることに対しては、格闘技であると言って批判する方もいますが、武道は、先ず礼節を教え精神を鍛える。また、柔道の技は介護にも役立つ。彼が教えている子ども達は、身体障害者の方たちを海外派遣するという慈善事業にも協力して、車椅子を押すというボランティア活動を行い、非常に感謝されているそうです。
  つまり、いまの子ども達は、先ほど中原先生のお話にもありましたが、全般的に自己評価が低く、自己否定型だと言われています。その自己評価のあり方が学校などでは成績に頼りすぎている面があると思います。その他に、武道とか何か精神や肉体を鍛えることなど様々な評価の対象があって、自分自身に自信ができれば、他人へ思いやる心も育まれて、それが結局「生きる力」になるのではないか、と思っております。

○  先ほどのお話には共感するところがたくさんありました。私は戦後の生まれですが、青年期や結構当初、両親に手紙を書く場合に呼称を「父上、母上」という書き方をしました。最近は手紙を書く機会は減りましたが、この書き方は今でも変わりません。ごく普通の親ですが、私にとっては最愛の親であり、親に対する思い入れは相当なものがありました。自分の親しかできない親らしさを感じていました。子どもにとっては1人しかいない父であり母であるという意識からそのような表現をしているのです。
  儒教の精神に関連して考えますと、自分の家庭は決して経済的には豊かではなかったが精神的に密度の高い家族でした。礼儀正しく、あいさつもよくしました。お金やものを欲しがることもありませんでした。挨拶は強要されたわけではなく家庭の雰囲気や生活習慣として物心ついたときから自然体でしていたのです。現在、我家では、末の息子が反抗期ではありながらも挨拶だけはしています。
  夫はそれを形式的だと言いましたが、夫の育った環境の違いだと思います。農家の嫁という言葉は今でもありますが、私がこれを励行した理由は、実はやはり一つの体験があったのです。長男が、保育所時代の時同じクラスの女の子に何か親切にしてもらったのに「ありがとう」と言えず、その子はやさしく「どうしてありがとうといわないの」と不思議に思ったのです。長男よりむしろ私がハッとしました。正に子どものシビアさあるいは素朴な疑問が純粋に言葉になったのです。子どもに育てられる親そのものです。我が子に「ありがとう」が言える親にならなければと認識したのです。
  他の委員の方の様々な意見を聞き、しつけを学校や保育園あるいは幼稚園にゆだねる親が非常に増えている感を持ちましたが、それはやはり基本的な生活習慣として、人間として、親が子どもにしなければならない愛情であり、義務であり責任であると思います。長男が中学生だった頃、自分の親を非常に冷たい親だと思っていたのです。理由は雪が降った、雨が降ったといっても「気をつけていってらっしゃい」と送り出す親を恨みがましく思っていたのです。地方では、特に我が県は道路県政と言われるくらい早くから道路整備は進んでいます。一家に2台や3台の車はあります。女性ドライバーも全国的に多い県です。車はとても便利です。子どもが遅刻しそうだ、雨だ雪だといって送って行く親は多いのです。私も、確かに大変だ、かわいそうだと思ってはいましたが、体験を通じて忍耐力や自立心や判断力を身につけることが大切と思い、親も送りたいのを我慢していたのです。これも愛情の一つだと諭しました。今では子どもも親の気持ちを理解していると思います。

○  耐える力、フラストレーション・トレランスと言いますね。私もその研究をしたことがありまして、今の子どもたちになぜこれが低下しているのかいろいろ考えられると思います。その一つは、役に立ったという経験がないというか、私は第1回目のこの会でも「貢献感」というお話をしましたが、子どもはしてもらうことばかりが多くて、自分が相手のために役に立ったことがないということがすごく大きなポイントだと思います。
  さっき高校生とか中学生が幼稚園や保育園に行って、小さい子の役に立てるということの中ですごく喜ぶというのは、逆に言えば、今の若者たちとか、子どもたちに出番がないのだと思うんです。自分が小さい子どもたちに慕われたり、喜んでもらえているという、そのことが耐える力を支える一つのポイントになると思います。余りにも今の子どもたちは、してもらうこと、援助を受けることだけはものすごく多いわけですけれども、自分が人の役に立っているという体験を、社会の中とか、学校の中とか、いろんなところでもっと組み込んでいくことが、耐える力を育てるものになるのではないかと考えています。

○  私は東京の辺境の区に住んでおりまして、皆さんの意見はもっともなんですけれども、もっとひどい状況を子どもの学校で見ているんです。本当に家庭が崩壊している。これはただ離婚が多いとかそういうことではなくて、お母さんは若い男と出て行ってしまった。お父さんもマンションの下の女性のところに入り浸っている。高校生のお姉さんは渋谷に入り浸って帰ってこない。中学生の女の子一人が毎日コンビニのお弁当を食べて暮らしているという状況です。それが一人だけではなくて、あそこにもここにもどこにもいるという状況をたくさん見ているんです。
  少子化のことを言う場合に、子どもをたくさん産めばいいという意見があって、それはそうなんですけれども、やはり子どもを育てていけない親たちというのが子どもを随分産んでいるのではないかという気持ちが本当にしているんです。それならおまえが産んだのは正しいかと言われますと、それは忸怩たる思いはありますが、それでもまあ普通に一応は生活をしているということで勘弁していただきたいと思うんですが。
  今の子どもたちは、やはり親の世代、大人がつくっている。いつぞや半年ぐらい前に、中2の男の子が中3の女の子にいわゆる援助交際を強要したということがあって、その子が逮捕されたというのを聞いたときに、これは本当に大人がつくった犯罪だというふうに非常にショックを受けたし、その子のためにもとても悲しく思いました。ですから、ただ子どもを増やせばいいとか、産めばいいということではなくて、他の委員の方がおっしゃいましたように、家庭をまずきちんとしなくてはいけない。  ―私が言いましたのは例外的なものではなくて、日本全国に蔓延していることだと思うんです。外から見れば家庭の姿を保っているような家庭でも、実は中では崩壊しているということが随分あって、親が幼ない、成熟しきれないまま親になってしまった。自分の欲求だけを追っている親。自分の反省も含めてですけれども、そういうことが多いので、家庭の問題、親の世代の問題を考えないと、少子化だけでは今の子どもたちの問題は語れないと思っています。

○  小学校1年生が入学してくると、6年生が生活に慣れるまで面倒を見ます。あるいは、遠足に1年生と6年生を組ませて行かせる。そうすると、今の6年生はそういった場面に出合ったときに、何をしていいかわからない。もう茫然としているというのが多くなってきているという、小学校からの報告があります。
  中原意見発表者の報告にありましたけれども、子ども同士が触れ合って、そこから学んでいくというのが土台になければいけないんだろうと思います。そういう面では、社会教育の場では事業が展開されているんです。「フロンティア・アドベンチャー」という事業がありまして、10泊前後で小学校から高校生までの集団が5人ぐらいで班を組みまして、野外で生活してくる。あるいは、「少年自然の家」とか、「青年の家」に、地域の小学校なり中学校の子どもたちが10泊前後して、そこから学校に通う。そういうことによって何が変わるかというと、きちんと挨拶ができるようになる。それから、自分の思っていることをきちんと相手に伝えられるようになるということが成果なんです。いずれにしましても、そういうかかわり方を学校現場の中で取り入れていかないと、大人になって子育てが楽しいとか、大切だという思いにはなれないんだと思います。
  ですから、私が勤めている周りの中学校、小学校の、例えば幼児とのかかわりを聞いてみますと、おもちゃをつくっていって遊んでくるとか、あるいはボランティアクラブが行って幼児と接してくる。しかし、これは年に1回か2回なわけです。そういうものをもっと増やしていただきたい。そういう施策を展開すべきだろうと一つは思います。
  もう一つは、これは地域性があると思いますけれども、うちの施設にも託児室がありまして、ボランティアを40名ほどお願いして展開しているんですが、実はその利用率が低いんです。そういうものがあるという私どものPRの仕方も下手なんでしょうけれども、地域社会のいろんなところに子育ての方々が気楽に何にでも参加できるという環境を整備していくことについて、もっともっと財政的な支援を強化していく必要があるのではないかと思います。

○  ごく簡単なことですけれども、少子化現象というのは、最近、フランスでも起こっているそうです。私の教え子がフランスのことを研究しておりまして、先般、そういう報告を受けましたので、「ああ、そうか」と。ただそれだけの話でありますけれども、今後、これが日本の少子化現象とどのように関係してくるのだろうかということも考えておかなければいけないのではないかと思っております。

○  きょうは、二つだけ、自分にもあるいはこの小委員会にも問題提起をしておきたいと思います。高等教育なり大学教育というのが少子化の問題にどのように寄与すべきかという問題が第一であります。
  今、大学におりますと、教師たちはサボっているようでいていろいろ悩んでいると思います。一体どこまで学生の世話をしなければいけないかということなんです。学ばせるために大変なエネルギーが要るわけですが、実は学ぶ主体である学生そのものの価値観とか、生き方にかかわるところをどうやってサポートするか。文部省のほうでも、ボランティア、サービスラーニング、あるいはインターンシップ、ありとあらゆる施策を考えておられますし、各大学ではサークル活動の停滞とか、自治会活動の不振にも悩んでいると思うんです。どうやって学生諸君がこれから生きていくだけの、そして家族を持ち、育児をするだけの人間としての価値に目覚めることができるかということで、大変悩んでいる。やるとしたら幼稚園から小学校・中学校・高等学校でやっていたあらゆること、あるいは家庭でやったあらゆることをやらなければいけないような不安にかられていると思います。しかし、そこを整理して大学では何をすべきかということをきちんと考えなければいけないと思っています。それが第1点です。
  第二は学費負担の少子化への影響の問題です。文部省のほうの御報告で、学費が持っている子どもを産み育てることへの圧力ということで、教育費負担軽減に関するお話がございましたが、にもかかわらず、御承知のように、今、大学・短期大学への進学率は上がってきております。これだけ学費の圧力があるはずなのに、1995年には45.2%、1996年には46.2%、1997年には47.3%と上がってきている。これをどのように考えたらいいのか。もとより学費の圧力が絶対にあるとは思うんです。日本育英会の奨学金だと、国立の場合で年間の授業料を払って1ヵ月1万円ぐらい余分が出るぐらいです。私立ですと授業料の半額程度にしかならないような奨学金ですから、決して十分ではない。奨学金の手当は十分ではないけれども、これだけたくさん大学に入ってくる。このこととの関連で学費の圧力の意味を考えなければいけないだろうと思います。本当に自分が行きたい大学に、あるいは学びたいことを学ぶために行ける奨学金とは何かということを、これから考えなければいけないのではないかと思っております。本人に責任を負わせるしっかりしたローンの構想などもその一つかと思います。
  以上2点、解決はつかないのですけれども、高等教育に従事している者としては考えざるを得ないと思っております。

○  他の委員の方から、ざんげを含めて覚悟を持ってやろうという御趣旨の話をされましたが、2世代にわたる問題だろうと思いますけれども、文部省の皆さんも含めて、あるいはきょうは根本会長もお見えですが、そういう覚悟を持っておやりになりますか。失礼な言い方だったらお許しをいただきたいと思います。
  それから、他の委員の方から、育てていけない親のお話というか、お気持ちはよくわかるんですが、少子化の議論というのは、そういうことも含めて論点がいろいろあるものだから、議論がどうしても混濁するといいますかね、そんなことも含めて、これからの論議で我々ができるかどうかわかりませんが、その辺の論議の仕切りを座長のほうでよろしくお願いしたいと思います。

○河合座長  わかりました。覚悟を聞かれたからではありませんが、本日は会長が御出席いただいておりますので、ここで一言お願いいたします。

○根本会長  皆様御苦労さまでございます。私、第1回に出席させていただきまして、きょうは第4回の小委員会でありますが、皆さんのお話を伺いながら感じたことを若干申し上げます。
  少子化問題というのは側面が二つございまして、一つはいかにして少子化を抑制していくのか。ただ、この小委員会に問われているのは、少子化を前提とする教育の在り方をどうするのかということだと思います。しかしながら、前者の抑制の問題と少子化を前提とする教育の問題はお互いに関連してきておりますので、少子化抑制の問題についてまず申し上げたいと思います。
  先ほどからお伺いしておりますと、何よりも教育費用が非常に過大である。先ほども消費支出の中で15%ぐらい占めているという話がありました。私どもの数字では可処分所得の20%ぐらいという数字も出ております。それから、住宅が非常に狭い。今、政府が空間倍増計画というようなことを言っておりますけれども、とにかくこれを早くやらなくてはいけない。そういったクオリティー・オブ・ライフについて、国家あるいは私ども産業界を含めまして、これをまずやっていくことが、子どもを産み育てることに夢が持てるし、社会の構築にとって非常に大事だと思います。同時に、我々としては学歴社会を絶対に打破しなければ、幼稚園から塾に行くようなスタイルになるわけでございますので、これは真剣に打破していかなければいけないと思います。
  それから、男女共同参画型の社会を実現するというのは、第1回のときにどなたかからスカンジナビアの例を挙げて、教育が、打破するための第1の取っかかりになるんだという御発言がございましたが、女の方が働きやすい環境を整備して、働くことによって、子どもを産む。やや逆説的になりますけれども、そういうことになるのではないかと思いますので、ぜひともこれは女性が働きやすい環境を整備しなければならない。そのときの雇用のスタイルでございますが、NPO型のスタイルを考えるべきではないか。アメリカは現在、NPOで働いている人が1,500万人おりますが、そのうちの1,000万人がお給料をいただいているNPOのアルバイターなんです。正式のきちっとした1週間働くというスタイルではなかなか難しいかもしれませんけれども、週に二日働くとか、そういったようなNPOスタイルが日本においても絶対に必要ではないかと思います。
  次に、少子化を前提とする教育の問題でございますが、まず少子化を云々する前に、我々の時代認識をどうするのかという問題でございまして、私が大変気にしておりますのは、我々が今推し進めております地球規模の市場経済、明らかに市場経済というのは欲望と欲望の交換によって成り立つわけでございまして、そこに抑制がなければ欲望が正義だというような倫理観、それが拝金主義につながっていくわけです。それから、情報通信革命、これは拒否することはできません。しかし、この情報通信革命というのは、かつての我々が目と目を見合ってお互いの心を読んで対話をするような社会ではだんだんなくなってくる。つまり、バーチャルリアリティーの世界に閉じこもる。先ほどの委員の方がかなり悲観的なお話をされましたが、まさに村上春樹の『ノルウェイの森』の中に迷い込んでいっちゃうような、そういった両方の問題というのは、人間性疎外をいかにして克服するかという問題でございまして、その問題が教育の問題としても絶対にある。これは大人の問題でもございます。
  そういう中で起こる少子化現象。これは今もお話がございましたが、成熟化した社会においては避けて通れないユニバーサルな問題だと思います。1.3なのか、2.0なのかということでございまして、結局、少子化問題というのは成熟社会。成熟した先進国社会がこれをいかにして克服してきているかというところを、我々はよく見る必要がある。
  その際に、私は五つほどのアングルがあると思っております。一つは家庭教育、二つ目は幼稚園・学校教育、三つ目は地域社会、四つ目は我々産業社会、そして国家というような五つのセクターから、この問題をどのように考えていくのかというアプローチも一つあると思います。
  一方、少子化問題を我々大人の側から論じておりますが、子どもの目から見て、少子化というのは一体どういうことなのかということを考えてやる必要がある。私は4人兄弟でございましたが、常に上の影響を受けながら今日まで育ったわけで、いまだに姉は私を呼び捨てにしております。1.3のような御家庭がどういうことを意味するのか。そういう意味では、委員の方のお話の中にもありましたが、3人のお子さんを恐らく大自然の中でお育てになって、御両親の後ろ姿を見ながら、お子さんたちも恐らく一緒に働いたりなんかして、ある意味では理想的な環境の中でやっておられると思います。やはり子どもたちを教育する際に、自然といいますか、天然から学ぶということと、それから働くということの意義を教えていく必要がある。
  そして、昔の人は一体どういうことだったのかという、原理主義者的な育て方をする必要があるわけで、そのためには、学ぶということもさることながら、よく遊ぶ。遊ぶときは徹底して遊ばせる。よく学び、よく学びというような今の緊張状態の中で子どもを置いておいたら、絶対に子どもは育ちません。したがって、子どもたちを緊張の中から解放してやる。そして、遊ぶことの中に知恵を求め、危機管理能力も育てていく。先ほどの話にもあったように、剣道を5歳からやっておれば、常にアドレナリンがバッと出てくるわけでございますから、そういう育て方をしていく必要があるのではないか。
  家庭教育ではやはりお父さんの役割も大事な存在になるわけでございまして、夫婦が連帯していかにして家庭教育をやっていくのか。それから、幼稚園、学校は、今、私が申し上げたようなこと。地域社会というのは、NPOをはじめとして、保育施設を充実するとかいろいろな問題があると思います。それから、我々産業社会も学歴社会を打破して、男女共同参画型の雇用形態に持っていく。国家は国家で、日本国家をどういう方向に持っていくのかという国家像をはっきりと明示して、国民に希望を与えることが必要ではないか。
  かなり大ぶろしきを広げましたけれども、これはまとめ方が座長にかかわっておるわけでございますが、セクター別に整理していくのも一つの手ではないかと思っております。まだ言いたいことはたくさんありますけれども、このくらいで失礼させていただきます。

○河合座長  どうもありがとうございました。
  残念ながら時間がきましたので、本日の議論はこれまでとさせていただきます。
  少子化ということに結びつけて話をするのが非常に難しいという感じを持っています。教育全般に関してはいろんな意見が言えるんですけれども、それが少子化とどう関連するかとか、少子化との関連で話をするのが非常に難しい。それをまとめるのは大変で、来年から病気にでもなろうかと思っていますけれども。
  そんなわけで、第16期の中央教育審議会としましては、本日が最後の小委員会になります。これまで御多忙のところを御出席いただきまして、誠にありがとうございました。時間も限られておりまして、第16期の任期内に何らかの報告をまとめるところまで至りませんでしたが、皆様の御協力をいただきまして、かなり議論を深めることができたと思います。
  来る4月8日には、第16期の締めくくりの総会が開催されますが、その際には、本小委員会の審議状況について、私のほうから報告を行いたいと思っております。
  その後、第17期において、引き続き審議を進め、議論を詰めていくこととなります。
  それでは、きょうはちょっと延長をしましたが、ありがとうございました。
  第16期としての「少子化と教育に関する小委員会」の会議は、これをもちまして閉会にいたします。次回は、改めて開催通知をもってお知らせしますので、どうかよろしくお願いします。
  どうもありがとうございました。


※1、※2  この資料については、文部省大臣官房総務課広報室にて閲覧できます。

(大臣官房政策課)

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