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参考4

第9回中央教育審議会における主な意見の概要(案)

1   日 時     平成14年6月5日(水) 16:00〜18:00

場 所 ホテルフロラシオン青山「ふじ」(1階)

議 題 教育基本法の在り方について(特に、学校教育について)

配付資料  
  資料1   学校教育に関する検討の視点と委員の意見の概要
  資料2   教育基本法に関する委員の意見の概要
  資料3   教育基本法・日本国憲法(条文)
  資料4   今後の日程(案)
  参考1   学校教育に関する資料
  参考2   学校教育に関する主な提言事項
  参考3   教育基本法の規定の概要
  参考4   第8回基本問題部会における主な意見の概要(案)

出席者  
  委 員: 鳥居会長、木村副会長、市川委員、梶田委員、國分委員、佐藤委員、永井委員、西室委員、森委員、山本委員、渡久山委員
  事務局: 小野事務次官、御手洗文部科学審議官、田中総括審議官、近藤生涯学習政策局長、矢野初等中等教育局長、工藤高等教育局長、銭谷文化庁次長、寺脇生涯学習政策局審議官、玉井初中局審議官、加茂川初中局審議官、名取主任社会教育官、山中生涯学習政策局政策課長、高橋主任教育改革官、その他関係官

概  要  

鳥居部会長より配布資料について、資料2を中心に補足説明
    見直し全体に関し、1現行法で規定されている普遍的な理念は残しながらも新しい教育基本法はどうあるべきかを検討していく。2現行の憲法の枠内でも見直すべき点はあり、憲法を変えない限り基本法は変えないという考え方は採らない。3基本法の中に振興基本計画の根拠規定を設ける。の3点については、部会としては概ね集約されたものとしたい旨説明。また理念的規定に加えてどの程度実定法的な根拠規定を置くかについては色々な意見があり、今後の議論の中で検討したい旨説明。

〈自由討議〉

  就学年齢の根拠はあまりはっきりしない。国の財政状況が許すならば、就学年齢が何歳であってもそれに応じた教育をすればよいのであって、諸外国との比較をすることに意味はないと思う。就学年齢については、あまり議論をしなくてもよいのではないか。

  就学年齢の問題については、一律に考えようとするならば、相当の時間をかけ検討する必要がある。現在の就学年齢の根拠は学校教育法であり、学校教育法マターとして議論すれば足りることである。大事な事項だから、基本法に書き込むべきという判断はあり得るが、1回2回で結論を出す問題ではない。ただ、一つ考えられるのは、ある子どもは5歳がベターというように「適当な年齢に達したら」という弾力的な書き方が法制上あり得るかどうか。誰が判断するかは難しいが、ここに弾力性を持たせるというやり方もある。
ただそうすると、保育園との関係もあり、そこについて一定の方向性がないと踏み込んだ意見が言えないこともあり、こう考えると基本法の中に書き込んでいくのは難しいと考える。

  学校教育法上、幼稚園は学校であるが、その目的については不明瞭な書き方になっている。この部分の書き方を工夫することは可能だろうか。

  就学ということの意味を考える必要がある。学校の意味を、組織的集団的な教育機関であることに求めるならば、保育園も学校に整理できるかもしれない。義務教育の機関を概ね何歳から何歳までと書くのは必要があれば乳幼児からやってもよい。「義務教育」の開始年齢については、乳幼児は必要な社会的な支援や保護を受ける権利を有する等の原理原則を定めればよいのではないか。また、現在では幼稚園に3歳から入園できるが、3歳児の遊びにはインタラクションは見られない。集団でいることが子どもにとって効果的であるのは、4歳児以上であり、同じ幼稚園児でも、3歳児と4歳児以上では違いがあることを認識すべき。一方で、知的発達という側面から見ると、1歳くらいからいろいろなことが教えられる。このように、発達心理学の成果は進化しており、昔考えられていた「学校」「就学」というイメージで議論してはならない。

  幼稚園についてはどうすべきか。

  発達科学上、今の年長児はかつての小学校1年生と同じことができるという研究成果があるので、5歳児の就学もおかしくない。とはいえ、この段階では個人差が大きいので、1年程度であれば親や社会の判断で弾力的に運用できるようにするという政策判断はあるのではないか。

  就学年齢の弾力化ではなく、一貫校など学校制度の弾力化で対処すべしとの意見もあり、これがいちばん現実的ではとも思うがどうか。

  幼稚園と保育所の問題が未解決であり、また、幼稚園に就園義務のない現状では、幼稚園についてあえて触れず、そのままでいいのでは。また、一貫校という発想についても、カリキュラムが一貫していればよいと思うが、たとえば幼小一貫を構想すると、小学校は「幼稚園教育の基礎の上に」行われるはずだが、果たしてこういう考え方ができるのか。まず、基本法では原則論を議論するべきである。多様化、弾力化は文化的・経済的豊かさの反映。仮に例外、例えば幼小一貫については、現行の制度下でいろいろ実験するというスタンスで臨めばよい。

  幼保一元に触れない方がよいという議論には、幼稚園と保育所の目的の違いなどを考えると十分理由があると思うが、他方でこれを求める考え方があるのも事実。幼保一元をポジティブに言う必要はないかもしれないがその可能性も否定しないような書き方にすべき。

  学校教育法を見ると、各学校種の目的規定は制定以来変わっていないが、教育目標に関する規定については改正が加えられている。

  念頭に置いてほしいのは「発達」という視点である。6・3・3・4制の変更は難しいかもしれないが、例えば小学校を前期後期に分けることで3年を単位とする学校制度を整え、それを様々に組み合わせることができるような仕組みを構想してはどうか。特に、思春期発達が小学校高学年段階まで早まってきている現在、小学校1年生と6年生を同じ基準で扱うことは無理な話である。また、過疎の進展という事態も考えねばならない。集落から学校が消えるのはたいへんな事態で、その集落そのものもやがて消えてしまうことになる。必要な教員数が今より増加する可能性もあるが、幼稚園と小学校の低学年については、財政的に無理をしてでも、政策的に集落に残すべきだ。それより年長の児童については適正規模を追求してもよいが、低学年の児童を遠く離れた学校までスクールバスで運ぶのは無理な話である。このような、小学校の分割、あるいは、多様な連結が可能になるような学校システムの在り方を、教育基本法に盛り込んではどうか。

  今の委員の発言では1幼稚園3年・小学校前期3年・後期3年・中学校3年・高校3年の3年を単位にしたコンセプトが必要  2過疎化・少子化対応のため新しい仕組みが必要とのことだが、これは明治5年の学制制定当時の考え方に似ている。全国を大学区−中学区−小学区に分け、2万近い小学校ができた。そういう状況が今必要だということか。

  基本法には、普通教育は9年とするという定めがあるのみで、その刻み方は学校教育法で決めている。幼稚園3年・小学校前期3年・後期3年、小学校5年・中学校4年、小学校4年・中学校5年などの切り方は学校教育法レベルの話で、教育基本法の議論ではない。制度論として、6・3・3制を原則とし、設置者の判断で地域の実情に応じて選択できるようにするという政策のチョイスがあるのではないか。

  諮問では、基本法の見直しと同時に振興基本計画の策定が言われている。現在議論されていることは直ちに基本法改正にはならないが、振興基本計画に盛り込まれ閣議決定を経て、学校教育法の改正に結びついていくのだろう。
資料1の2頁目、飛び級や飛び入学、また編入学についてだが、選んだ学校が自分の進路や発達段階に合わないときの逃げ場としての編入学が不十分な現状がある。

  飛び級・飛び入学・編入学は個性に応じた教育の1つということができる。ドイツでは、学校制度が4本立てで相互の「転入学」が多いが、日本では高校から専門学校に移っても高校は「中退」となってしまう。中退が悪いという発想や雰囲気を改めるべきである。

  高校については、最近は編入を進めている印象がある。振興基本計画でさらにそれを推進するのはよい。多様な学校を認めるようにすることが必要。
    飛び級・飛び入学の裏には留年・落第もあり、これができる方がよい場合もある。日本では1年に1学年進むという考え方が強いが、個人の習熟の度合いに応じて年限の弾力化をするという、飛び級と留年の両方の要素を含んだ表現が適当ではないか。学制発布後すぐの数年間は年限が弾力的だったが落第が多く、それで自動的進級制度になったという経緯も押さえつつ、どの程度飛び級・飛び入学を認めていけばいいか、を考える必要がある。原則は1年1学年進級であり、飛び級は例外であるということを押さえないと、飛び級制度だけが一人歩きしてしまう。

  資料1の4頁、学校の役割についてご意見をいただきたい。これは、基本法の前文、第1条、第2条に関わってくること。これについては、資料1の4頁には「人格の陶冶、道徳教育、教養教育、基礎・基本、知識・技能教育、体育・スポーツ、芸術教育」が挙げられ、また資料2の9頁下から3つめに、ジョスパン法でいう「学び方を教える」が抜けているものの、「人格形成、能力開発、知識伝授、知的生産、文明の継承」が学校の機能として挙がっている。学校の役割は、社会から付託された使命と国権の付与という性格でよいのか。

  国民の大多数は仕事を通じて社会に貢献している。そのような意味では、職業教育の視点を入れてほしい。

  教育勅語には、「学を修め業を習い」という1節があった。それをそのまま真似することはできないが、こういった視点を新しい表現として考えることは必要ではないか。

  現在の条文「勤労と責任を重んじ」では、精神論になっていて社会で自律していくことにつながらない感じがする。

  学校の役割をどの程度書くかについては、家庭・地域の役割と関連させなければならない。今の学校教育法には、それぞれの学校種の役割は定義しているが、学校全般の役割は書いていない。この問題については、学校教育法レベルで規定すればよいのではないか。

  現在、学校の役割を書くということは、生涯学習社会における学校の役割を書くということである。しかし、生涯学習とは何かよくわかっておらず、生涯学習振興法でも敢えて定義をしなかった。社会教育が即ち生涯学習という考え方もあるが、普通には、社会教育・学校教育を通じて生涯学習をするという理念のことである。生涯学習について基本法にどう規定するかで、学校教育をどう書くかが決まる。

  韓国の教育基本法3条は「すべて国民は、生涯にわたり学習し、能力と適性によって教育を受ける権利を持つ。」とあり、生涯学習と社会教育とは別に規定されている。

  資料1の視点10に「学習者の権利」という規定があるが、そうすると全て国が保障しないといけなくなる。「生涯学習社会の実現を目指す」といった程度であれば規定してもよいと思うが、学習する権利には踏み込むべきでない。
    高度情報通信技術が発達し、従来の学校での「読み、書き、計算」が変わってきていると考えるが、検討の視点に「高度情報通信技術」という言葉がない。これからは「読み、書き、論理」であり、「創造性」が重要である。eラーニングで代替できるものも増えており、そういう視点で考えると、学校教育のやるべきことは、社会や集団の中で生きるための考え方や行動の仕方を教えることではないか。学校の役割そのものを書かなくても、社会の変化の中での学校・家庭・地域の役割を考えることが重要。

  行政は決して私的な領域には踏み込んではいけない。民主主義はプライベートな価値観を保障するものであり、その点をふまえて国は何を保障すべきかを考えるべきである。生涯学習の考え方を大前提として考えてよいが、「生涯学習に努めなければならない」などと規定してはならない。家庭教育も同じで、「かくあるべし」となってはならない。学校に関する規定は改正の点でも中心にならざるをえない。それは学校は行政が責任をもって設置するものであるのに対し、家庭教育は行政が関与しないものであるからである。

  基本法は理念法であるとすれば生涯学習を規定する際もその理念を書けばよい。個人の行う学習活動についてではなく、生涯学習全体を活性化するような書き方はできないか、家庭教育についてもあまりにも現状が惨憺たるものなのでもう少し頑張ろうということ。

  「生涯学習の権利」という文言を盛り込むのか。

  現行の第3条は言葉としては出ていないが、まさに生涯学習の規定であり、すでにその権利があるということ。基本法3条を整理すればよいと考える。実際にやるかどうかは個人の自由だが、やりたい時の支援を行政がどこまでするかという問題。

  生涯にわたる学習の権利を有するということをはっきり書くことが必要。学習したい人をサポートする仕組みを作ることが必要。

  権利については、気を付けて議論しないといけない。「学習」の範囲は広いが、行政が支援・サポートするのはこのあたりまで、という線引きをはっきりさせるべき。

  教育基本法のうち、教育の機会均等や育英奨学を定めた部分は、憲法の規定に近い内容。憲法にある内容なのだから敢えて再掲しなくてもよいと思うが、これを削除しようとすると憲法に絡むことは扱わないという考え方との関係や、憲法関係規定をとること自体を議論する人も多い。どう考えるか。

  前文をしっかり考えれば、「憲法に基づいて」でかなりの内容を包含できる。

事務局  制定当時の文部省の答弁を見ても、教育の機会均等は最も大切と考えて、あえて明示した経緯がある。

  男女平等が憲法に書いてあるのに男女共同参画社会基本法法が制定されており、別にだぶってもかまわない。第3条の機会均等の規定は、普遍的な文言で書かれており国際化が進む時代だからこそ残すべき。

  男女共学の規定は、男女共同参画社会基本法が法律化されたことを考えると、そちらに力点を置いた書き方もある。

  教育基本法で、法律に定める法人が学校を設置することができるとなっているが、NPOなども増えており、解釈を変えることも考えられるのではないか。

  何度も申し上げるが、憲法にかかわる規定についてはそのままにすべきである。
    第1条の「教育の目的」では、当時強調すべきと考えられた徳目を明示し、それ以外は「人格の完成」に閉じこめている。今の時代に強調すべきものは何か。閉じこめられている中から何を引っぱり出すかを検討すればよい。

  学校の役割は、学校教育法レベルで書けばよい。憲法は政治レベルのものであり、憲法の大原則が教育上の大原則とは必ずしもイコールではない。

  憲法は政治上の原則ではなく、個人の権利を保障するものである。憲法と教育基本法第3条は一体。具体に実現する手がかりとして法律で繰り返して規定することはよくある。また、基本法第6条の学校が高等教育を含むのであれば、学校という概念を整理し直す必要がある。また、奨学についても経済的なものだけでなく他の能力に着目する必要があるのではないか。

  基本法の「人格の完成」から、高等教育や人間としての諸能力の育成を引っぱり出せば、憲法論議に戻ることなくいけるのではないか。「学習者の権利」は規定しなくてもよい。「教育を受ける権利」で十分である。

  国会での憲法論議との兼ね合いの問題があり、慎重に考えながらやる必要がある。飛び級や飛び入学は有効なのかは現場の感覚からは疑問。外国でも成功例とそうでない例があり慎重に議論すべき。中高の接続も、慎重に反省や研究をしつつ進める必要がある。転学は、手だてを講じつつもっと大胆にやってよい。いずれも、学校法以下でやるべきことが多いのではないか。

  地域・家庭の連携とあるが、地域や家庭とはそれぞれ何を指すのか。社会の変化により崩壊している地域や家庭を前提にする議論は空しい。

  家庭や地域は崩壊しているのではなく、多様化しているのであり、それに対応することを学校を考えるべき。個人化がアトム化しないように、教育が発信していく必要がある。

  それは家庭に踏み込むことになるのではないか。

  韓国の基本法では、「保護者はその保護する子女又は児童が正しい心を持ち、健康に成長するよう教育する権利と責任を持つ」とあるが、これは法律が私的なことに踏み込むことになるのか。

  「関与」と考えるか「踏み込む」と考えるかの問題。

  基本法第10条は、戦後、教科諸問題をはじめ常に解釈が争われてきたが、教科書訴訟についての最高裁の判決によって解釈は確定している。それに沿って、条文自体は整理し直すべき。

  資料2の18頁、地方分権推進会議で義務教育のナショナル・ミニマムについて考えているとあるが、分権会議では義務教育費国庫負担制度について議論しているのであって、ナショナル・ミニマムという漠然とした言葉に寄りかかってあらゆる予算の拡大をしてきた国の行政について反省すべきという態度で議論はしているが、中教審を無視して義務教育のレベルについて勝手に決めるつもりはなく、ここの表現は適当ではない。

  事務局で本日の意見を整理してもらい、今後の議論の進め方を相談する。今日の意見を吸収した資料を作って次回議論し、それで総会に上げたい。

[文責は生涯学習政策局政策課]

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