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大学教育部会(第7回)議事録・配付資料

1. 日時
  平成18年10月6日(金曜日)14時〜16時30分

2. 場所
  財団法人都道府県会館 402会議室(4階)

3. 議題
 
(1) 学士課程の教育内容・方法の改善について
 
【意見発表】   川嶋太津夫氏(神戸大学学長補佐・大学教育推進機構教授)
安岡 高志氏(東海大学理学部教授・教育研究所所長)
土井 真一氏(京都大学大学院法学研究科教授)
【自由討議】  

(2) その他

4. 配付資料
 
資料1   第3期中央教育審議会大学分科会大学教育部会(第6回)議事要旨(案)
資料2 我が国の大学の競争力強化と国際展開について
(※大学分科会(第56回)議事録・配付資料へリンク)
資料3−1 学士課程教育に関する主な答申の経緯
資料3−2 学士課程教育に関するこれまでの大学審議会答申等の主な提言について
資料4−1 学士課程教育の現状について(基本データ)
資料4−2 学士課程の教育内容・方法について(参考資料)
資料5 これまでの答申における提言内容と設置基準の規定について
資料6 「学士課程教育のカリキュラムのあり方」(神戸大学学長補佐・大学教育推進機構教授 川嶋太津夫氏)(PDF:145KB)
資料7 「学士課程の教育方法(授業改善・評価等)の在り方」(東海大学理学部教授・教育研究所所長 安岡 高志氏)(PDF:516KB)
資料8 「法科大学院制度の創設を踏まえた法学部教育の改革」(京都大学大学院法学研究科教授 土井 真一氏)
資料9 大学分科会関係の今後の日程について(案)

(参考資料)
  高等教育局主要事項 −平成19年度概算要求−
(※大学院部会(第36回)議事録・配付資料へリンク)

(机上資料)
  大学教育部会関係基礎資料集
高等教育関係基礎資料集
大学設置審査要覧(平成18年改訂)

5. 出席者
 
(委員) 木村孟(部会長),江上節子(副部会長)の各委員
(臨時委員) 石弘光,菰田義憲,永井順國,中込三郎,菱沼典子,森脇道子の各臨時委員
(専門委員) 北原保雄,黒田薫,高祖敏明,小杉礼子,高塚人志,竹内洋,土井真一,本田由紀の各専門委員
(文部科学省) 藤田政策評価審議官,辰野高等教育局担当審議官,小松高等教育企画課長,安藤私学部参事官,伊藤大学改革推進室長 他

6. 議事

  (□:意見発表者,○:委員,●:事務局)

 
(1)  事務局より,「学士課程の教育内容・方法の改善」について説明があった後,有識者から意見発表があり,その後,質疑応答が行われた。意見発表と質疑応答の内容は以下のとおりである。

  【川嶋太津夫氏(神戸大学学長補佐・大学教育推進機構教授)の意見発表:「学士課程教育のカリキュラムのあり方」】
   現在,日本ではこれまでの教養教育と専門教育という二項対立的考え方から,4年間一貫で学士課程教育を捉える方向に変化している。一方,英米では,アウトカムズ志向でアセスメントに重点が置かれている。学士課程教育のカリキュラムが問題とされる背景には,1高等教育のユニバーサル化・長期化,2学生,教職員,機能,設置者等の多様化,3知識基盤社会におけるグローバルな視点の必要性,4生涯学習社会がある。このような背景の中で,「大学とは何か」や「学位が持つ意味は何か」が改めて問われている。学位については,国際的通用性が必要であり,その観点からの問い直し等が現在議論になっている。
 日本では,平成3年(1991年)に大学設置基準が大綱化され,科目区分が廃止され,4年一貫教育となった。大学評価・学位授与機構が行った「国立大学の『教養教育』に関する試行的評価」によれば,どの大学も「教養教育と専門教育の有機的連携」を謳っていたが,大学は依然として「教養教育と専門教育」という捉え方しかできず,4年間で学士課程教育をどうするかという視点は希薄だったのではないか。現在では,国立大学の例であるが,いわゆる「教養科目」の単位数は約3割まで減少している。また,教養教育は初年次教育と専門教育の双方から圧力を受ける状態になっている。さらに,「教養教育」「専門教育」の意味が曖昧化し,理工,農,医療,家政,芸術といった分野では「教養教育の専門化」が起き,一方で,人文社会科学,教育学系では,「専門教育の教養化」が起きている。いずれにしても,教養教育と専門教育の境界が曖昧になってきている。これらを4年間の「学士課程教育」として如何に総合化・構造化するかが課題である。
 アメリカでは,現在,Undergraduate Educationに対する国家的な危機感が募っており,「高等教育の将来に関する連邦教育長官諮問委員会」が設置され,議論されてきた。そこで議論になったのは,高等教育に対するAccessibility,Affordability,Accountabilityである。また,具体的な検討課題としてoutcomes,assessment,quality,disclosure,scholarship,accreditation等が挙がった。高等教育がそれへの投資に見合った成果を出しているかについて,Accountabilityの観点から,アウトカムを標準化テストで測定すべきという議論もあったが,高等教育関係者から猛反対を受けたようである。また,平成12年(2000年)以降,有力10大学で改革の検討・試みが行われている。例えば,ハーバード大学ではコア・カリキュラムを廃止し,一般的な配分方式に変更した。一方,テキサス大学オースティン校では,コア・カリキュラムを強化し,それを責任持って実施するためのユニバーシティ・カレッジを設置した。このようなアメリカの学士課程教育の改革のキーワードを見ると,特に,コンピテンシー/スキル,ラーニング・アウトカムズが中心となっている。つまり,これまでの「学士課程教育の目的は何か」から「学士課程教育はどのような成果を生み出すべきか」に変化してきている。
 学士課程教育については,大学関係者間で「リベラル(自由)教育」であるという共通認識があるようだ。中でも,Association of American College and University(AACU)は,昨今リベラル教育に関するアウトカムズについての研究を行っており,それについて4つの事項を挙げている。それが,1知識に関するアウトカム,2技能に関するアウトカム,3個人や社会に対する責任感,4Integrative Learningであり,4こそが様々なものの見方を総合的に考える能力を身につけさせる21世紀の教養教育の在り方であると述べている。また,ミルウォーキーのアルバーノ・カレッジでは,アウトカムを重視したカリキュラム,Ability-Based Curriculum(ABC)を編成し,注目を浴びている。アルバーノ・カレッジでは,全ての学生がCommunication等の7つのアビリティを身につけた上で卒業することになっている。この7つのアビリティとはGeneral EducationMajorを通じて身につけるものであり,いわば知識とアビリティをクロスさせ,両方身につけさせて卒業させるというものである。それについてのアセスメントも非常に体系的な仕組みを持っている。一方,大規模大学では,デューク大学が平成12年(2000年)に編成したカリキュラムでは横軸に知識領域,縦軸にスキル領域をとり,マトリックス・カリキュラムを編成し,同様の考えの下で教育を行っている。
 次にイギリス,ヨーロッパの動向である。現在,全欧州規模でボローニャ・プロセスという大きな取組みが行われている。この中でも,各国の学位水準を同等にすることが大きな取組みとなっており,学士課程段階のアウトカムは何かが枠組みとして作られている。イギリス自体もNational Qualification Framework(NQF)の中で,Batchelor DegreeHonor Degreeとはどのような能力を身につけた者に与えるものかが明確になっている。それに加え,分野毎にSubjectBenchmark Statementあるいはそれを各大学でより具体化したProgramme Spacificationによって達成水準が標準化されている。それをQAAが評価することでアウトカムの達成が保証される仕組みになっている。イギリスでは,デアリング報告以降,高等教育と労働市場あるいは生涯学習社会との関係が重視され,全ての大学生にいわゆる「ジェネリック・スキル」を身につけさせた上で卒業させることが求められている。各大学は,Personal Development Planningという仕組みを今年度から必ず実施しなければならなくなり,これにより学生がジェネリック・スキルを身につけているかどうかを査定する仕組みが導入された。
 このような国外の状況から,今後,日本の学士課程教育を考える際の問題の再設定を行いたい。まず,教養教育,専門教育を分けて考えるのではなく,4年間一貫した学士課程教育として捉え,議論することが必要である。また,アウトカムあるいは学位の同等性,国際通用性の観点から,「学士」とはどのような能力を有する者かという議論が必要である。21世紀型市民とはどのような者で,どのような能力,知識,属性を持った人間が日本の大学を卒業し,学士号を取得するのかという議論が必要である。「我が国の高等教育の将来像」でも謳われているように,学位とは能力証明のことである。他方,同じ学士でも,そこに至るまでの過程は非常に多様化しているが,学位は国際的に同等でなければならない。また,来るべき社会は「確実なことは不確実なこと」という社会であり,現在,2人に1人は学士を取得する状況にあっては,そのような者たちにどのようなアウトカムを身につけさせるかという議論は必要である。従来どおり,どのような授業科目を並べればいいのかというインプットの発想ではなく,どのようなアウトカムを設定すべきかという議論が必要である。さらに,それらが本当に達成されたかどうかのアセスメントに関する議論も必要である。これまで我が国の高等教育をめぐる議論の中では,アセスメントの議論は殆どされてこなかった。これまでどうしても教育の部分に目が行きがちだったが,重要なのは学生がどれだけ学習したかである。その学習を如何に喚起させるかという観点の議論が必要がある。大学でよく言われているのは,如何にInvolvementを学生に学ばせるかにシフトすべきかということである。それは教授法の改革にもつながり,アクション・ラーニングやアクティブ・ラーニングという教授法の改革が今後必要である。また,それを支える組織的基盤が日本の場合は脆弱である。例えば,アメリカではファカルティ・オブ・アーツ・アンド・サイエンスという組織で教養教育を担当しており,そのような組織がないとしっかりとした教育はできないだろう。
 最後に,学士課程教育とは,カリキュラム,ペタゴジー,アセスメントの3つがセットになって成り立つものである。出発点はどのような学士を養成するのか,その学士はどのようなアウトカムズを持っているのかということである。これについては,社会からの要請や大学のミッションからの要請,それぞれの学校運営からの要請もある。これからの学士とは,自らの人生を切り開いていける自律的な学習者のことではないか。

  【川嶋太津夫氏の意見発表に対する質疑応答】
 
委員  アメリカではAccountabilityの観点から,アウトカムを標準化テストで測定すべきという議論の際に大学教員は反対したという説明があったが,理由は何か。

意見発表者  卒業時点でいわゆる標準化テストを学生に受けさせて教育の成果を評価しようということに対して,結果を参考にするのは構わないが,最終的に大学教育,学士課程教育の成果を評価するのは教員あるいは大学であるという立場から反対したようだ。しかし,一方では,標準化テストを導入すれば,それぞれの大学教育プログラムの短所が明らかになるという利点もある。

委員  連邦教育長官諮問委員会報告書では,評価についても触れており,アメリカのアクレディテーション・システムがその機能を失いつつあり,その原因は大学関係者のみが評価を行っている点にあると述べている。ステークホルダーが評価に関与する等の抜本的改革が必要であるとの意見が出て,評価関係者の反対を受けた。しかし,アメリカにはアクレディテーション・システムを統一したいという潮流があるようである。現状では高等教育を受けている本人や親でさえ,大学が一体何をしようとしているのかわからないということが根底にあるようである。

委員  教養教育は国公私を通じて広く行われているものだが,認証評価制度が始まり,評価機関の観点にも教養教育の充実度や改革の取組み具合が含まれている。現在の多様化した社会の下では,どのような評価が実態に即していると考えるか。アウトカムを重視すべきとの意見であったが,実態が伴っているところはまだ少ないのではないか。

意見発表者  学士課程教育の議論では,アウトカム等の出口部分からさかのぼって考えることが必要ではないか。その立場に立つと,教養教育と専門教育を分ける考え方はあまり相応しくなく,4年間でどのような人材を育成するか,そのためにどのような授業科目を展開すべきかという考え方に転換すべきである。「教養」の概念は,個人により考え方が異なるが,出口はある程度共通しており,そこに至る筋道は各大学の目的に合致していれば,ある程度違いがあっても良いのではないか。

委員  知識とコンピテンシーと分ける,あるいは,ナレッジとコンピテンシーをマトリックスにして考えるという方法は,アメリカ,イギリスの大学では共通認識となっているのか。

意見発表者  明確にその方針を打ち出しているのは,アメリカのアルバーノ・カレッジやデューク大学であるが,AACUのリベラル・エデュケーションに対する報告書等を見ると,方向性はマトリックス的な考え方になっている。4年間を通じてアウトカムを身につけさせるカリキュラムへの転換は,アメリカの大学関係者が提唱しているようだ。
 一方,イギリスについては,マトリックスよりもスキルズに重点が置かれているようだ。イギリスでは基本的に専門教育を大学3年間で行うため,知識よりもスキルに重点を置いているようである。

委員  アメリカの産業界ではResponsibilitiesを評価する様々なツールがあるが,大学において,このような分野を評価する方法論やツールにはどのようなものがあるか。

意見発表者  アセスメントについては,日本でも今後開発しなければならない。社会的責任,倫理観をどのように大学で評価するかについての方法論も,今後検討しなければならない。心理学的調査や行動観察等を通じた多角的な方法によって評価は可能ではないか。

委員  21世紀型市民の中身について考えていくのであれば,大学生として共通に身につける部分と,個々の専門分野別に身につけるべき部分を分けて考える必要があるのではないか。その上で21世紀型市民について考える際,最近いくつかの省庁等が「まるまる力」を定義しているが,これらは,課題解決能力やコミュニケーション能力等,抽象的なものが並んでおり,一体これらをどのように教育し,評価するのかが明確になっていない。このような「お題目」的なものを掲げるだけではなく,もう少し踏み込んだ形で21世紀型市民の中身について議論すべきである。その上で,共通部分と個別部分を分けて定義することは可能なのか。

意見発表者   Problem solving,Decision making,Team working等は日本,アメリカ,イギリス共通のアウトカムである。一方,共通のシラバス的な到達目標の設定という取組みは一部では行われている。しかしながら,アウトカムをどのように具体的な達成目標としていくのかについては,各大学,教員が考えていくべきものである。折衷的であるが,ある一定の一般的なレベルのアウトカムを作った上で,それを具体化する際に,各大学の個性が入っても良いのではないか。全てを標準化すると,大学の存在意義がなくなるのではないか。

委員  ハーバード大学がコア・カリキュラムを廃止する一方,テキサス大学は逆に強化しているとのことだが,それぞれどのような問題認識に基づいて決定したのか。また,出口管理の強化については個人的には賛成だが,他方,教育の成果を卒業時の判断のみで判定できるのかという疑問もある。評価については,長期的に判断すべきものもあるのではないか。

意見発表者  ハーバード大学がコア・カリキュラムを廃止したのは,1カリキュラムの内容が多様化し,コア部分が形骸化した,2教員の自由度を確保する,3学生の科目選択の自由度を高めるためである。一方,テキサス州を含めたいくつかの州では,州全体でコア・カリキュラムを定めており,ジェネラル・エデュケーションの一貫性を高め,一定の体系性を持ったカリキュラムを学生に受講させるため,テキサス大学はコア・カリキュラムを強化した。評価の視点について,いくつかの大学では卒業後数年単位でフォローアップを行っているところもある。

  【安岡 高志氏(東海大学理学部教授・教育研究所所長)の意見発表:「学士課程の教育方法(授業改善・評価等)の在り方」】
   授業評価にはいくつかの性質がある。1学生の成績,在学年数,学問的能力(クラスの平均点)と授業評価の結果は無関係である。2受講者数が30名以下で評価が高くなる。3担当科目・年度が変わっても評価は安定している。4文系教員よりも物理科学系の教員が評価が低くなる傾向にある。5研究能力(論文数)と授業評価は無関係である。6教員の年齢が高くなるとともに評価が低くなる。そして,授業評価の結果と学生の学習到達度の間には緩い相関関係がある。
 東海大学では平成5年(1993年)から組織的に授業評価を導入した。この10年間に全科目の総合評価の平均が3.6から約0.3ポイント上昇している。「やや良い」「非常に良い」の場合は「4」とし,「普通」以下の場合は「3」とする二択の設問で考えると,平成5年(1993年)の場合には,約60パーセントの学生が「4」をつけたことになるが,現在では,約90パーセントの学生が「4」をつけたことになり,これは大きな進歩であると考える。授業評価の結果を高くするということは,それだけ学生が吸収する量が多くなっているということができる。
  1学問的能力については,入学直後の英・数・国の基礎学力試験の結果から英語の基礎学力と英語の授業評価の総合評価が無関係であるということから明らかである。微分積分学の総合評価と数学の基礎学力の関係も同様に無関係である。2について,受講者数が40名から200名の間では評価結果に殆ど変化がみられないが,30名以下になると評価が急に高くなる。3については,よく経験するところである。4について,茨城大学理学部の調査では,数式が出てくる授業ほど評価が低くなる傾向があり,文系学部に比べ,理・工学部の評価が低い理由が説明できる。東海大学では平成17年度(2005年)から教員評価を実施しているが,学部により状況が異なるため,評価基準は学部ごとに定めている。慶伊富永氏の「大学評価の研究」によれば,学問分野別に過去5年間の論文数を調査したところ,分野の中でも論文数にばらつきがあるため,学部のみならず同一学部の学科間でもこのような事情を考慮する必要がある。5について,研究業績と授業評価の関係について科目区分ごとにみても,外国語以外は差は殆どない。6について,職名別にみると,講師が最も高く,助教授,教授の順に低くなっている。年齢別評価でも,年齢を重ねるごとに総合評価は低くなる傾向にある。30歳代と60歳代で評価項目毎に比較すると,後者が前者を上回った項目はなかった。特に,「話し方」「板書・OHP」「学生参加」の項目で大きく差がついている。これら3つの項目の中で,授業評価の総合評価に及ぼす影響が最も高い項目,つまり年齢による差が大きい項目は「話し方」である。
 以上から,授業評価の集団としての意見や結果は信頼できる。また,主観的評価も客観的評価と同様に必要である。評価には達成目標が必要であり,達成目標によっては主観的評価でしか測定できないものもある。その達成目標を達成することが組織の発展につながるとすれば,授業評価は有効である。そこで,達成目標のない改革は効果が上がらないことを説明したい。
 スイスのローザンヌにあるIMD国際経営開発研究所が毎年「世界競争力年鑑」を出しており,この中の一つの項目に「大学の教育力は国際経済競争に対応しているか」という項目がある。日本のこの項目の順位は低い。私はこの結果を真摯に受け止めるべきだと考える。大学生・大学院生の勉強時間の調査結果を見る限り,絶対的に時間数が少ない。この結果は日本の大学の教育力を示している側面もあると考えられ,この状況ではIMD調査で結果が低いのも致し方ないと言える。
 東海大学では,平成5年(1993年)から単位制度の機能化を目指した教育改革を行っている。卒業単位124単位の持つ意味は,1単位45時間であることに鑑みると,学生が1日8時間勉強して取得できる単位数ということになる。シラバスについては,単に講義の内容を示すだけではなく教室内では45時間の内15時間しか学修しないので,教室外の30時間をどのように学習しなければならないかを示さなければ意味がない。また,学生に対して成績評価基準を明示すべきである。セメスター制の導入により,短期間に集中して授業が行えるメリットがあるが,単に導入すれば良くなるというものではなく,1単位取得のために45時間学習させるための仕組みでなければならない。キャップ制も一度に多くの科目を履修することによる消化不良を防ぐために導入されたものだが,現状のように,学修しなくても単位が取れる状態でキャップ制を導入すると,学生はますます勉強しなくなるのではないか。GPA制度は,卒業単位を取得してもGPAが低いと卒業させないことで,学生の質を保証するものであるが,現状の日本ではこの方法は用いられていない。これらのシステムは全て,単位制を機能させるためにあるシステムであるにもかかわらず,これらを導入した際に,各大学が単位制度を機能させるために導入するという目的意識をもっていたかどうかについては疑いがある。よって,単位制を機能させる,学生に勉強させるという目的がなければ,これらのシステムを導入したからといって必ずしもうまくいくとは限らない。
 東海大学理学部化学科では,平成10年(1998年)から組織的教育により問題発見・解決型の人材育成を目標としてきた。理学部では,1セメスター内に中間試験を2度実施するなど,学生が勉強せざるを得ない環境をつくることを目指した結果,学生は授業及び授業外を合わせて,1日8時間の学習時間を確保している。このように,具体的な目標を定めて改革を行っていく必要があるのではないか。
 今後は,自己点検・自己評価の在り方が重要になる。そこで,まず決定すべきことは「何を実現したいのか」という具体的な達成目標の設定である。次に目的を達成するために,組織構成員の「行動目的・目標を何にするか」という共通認識の決定が必要である。そして,「目的達成を何で測定するか」という評価指標を決定し,最後に「評価基準」として評価の状態を決定することが必要である。

  【安岡 高志氏の意見発表に対する質疑応答】
 
委員  東海大学では,他大学に比して先進的な取組みを行っているが,それらを他大学に応用して普遍的なものとすることは可能か。それとも,東海大学に限定したものか。
 また,授業評価の活用方法についてはどうか。アメリカでは,教員のテニュアや給与にも活用されているが,日本ではそこまでやるのはなかなか困難である。授業評価を教員の資質向上のためにどの程度活用したら良いか。ラディカルに考えるべきか,それとも個々の教員の自己啓発能力を高めるためのみに用いれば良いのか。

意見発表者  授業評価の性質のうち,1から4の性質がアメリカの事例と同様であるということからも,東海大学の取組みは他大学に応用できるのではないか。
 授業評価を教員評価に用いるかどうかについては,積極的に利用すべきと考える。その際,組織構成員が積極的に達成目標の指標として授業評価を用いることができるように,教員の意識改革を図っていくことが重要である。

委員  授業評価の結果は学生に対して公表しているのか。公表しているとすれば,教員の名前は公開しているのか。また,教員が評価結果に対してコメントすることが可能な体制になっているのか。

意見発表者  公表している。Web上で学生が回答したものをそのまま公開している。コメントする機会は設けていないが,他大学の例では国際基督教大学がコメントを公開している。東海大学では,Teaching Awardという表彰する取組みを行っているが,これはねらうことのできる上位10パーセントの教員にしか効果がない。公開は全ての教員に対して少しずつ効果があるので,大学全体としては公開することの方が効果的であると考える。

委員  企業の研修と比較しても,理工系の評価が低く,文科系が高いというのは同じ傾向である。また,評価項目について,双方向的なものについては高い評価が出るという点,年齢の高い講師になると,双方向的なスタイルが取りにくくなるため,評価が低くなるという点も同様である。このように,指標の違いにより評価結果には多少のばらつきが生じるため,それを補正しないと,結果だけがひとり歩きし,公平な評価ができなくなるのではないか。

委員  産業界では目標管理制度が普及しているが,目標設定を高くすれば評点が低くなる傾向がある。そうすると,達成しやすくするため目標を低く設定しがちである。授業評価についても,教員が授業における学習到達度をかつてよりも低く設定する傾向はないのか。
 また,前期,後期で評価結果に高低があるが,これはなぜか。

意見発表者  たとえ学習到達度を高く設定したとしても,学生が吸収できなければ意味がない。その意味では,学生に合った授業を行うことは効果的である。しかし,指摘のように達成しやすい目標設定をすることはあり得るのではないか。
 春学期,秋学期で評価に高低があるのは,春学期は新入生が,大学と高校の授業のギャップを感じ低く評価する傾向があるからではないか。

委員  国立大学から私立大学に移り,授業評価を初めて経験したが,学生は教員のことをよく見ているという印象を受けた。受講生が少ない方が評価が高くなる傾向にあるというのも実感した。そのような経験から,少なくとも多くの私立大学では,授業評価の性質について一般化できるのではないか。一方,大学院については事例が少なく断定できないが,学部と大学院では授業評価の性質も異なるのではないか。
 現在私が在籍している大学では,授業評価の結果が本人以外閲覧できないことになっているが,これは公開すべきであると考える。個人的には,教授会自治が強く,組合の力が強い大学では授業評価等の教育改革の取組みとマイナスの相関があるように感じる。評価が芳しくない教員に対してアドバイスが可能な体制にすべきではないか。また,一般的に評価結果の使い方はどうなっているのか。

意見発表者  授業改善以外には評価結果を用いないという条件で始めた大学が意外と多い。授業評価を最大限活用している大学の例として高知工科大学がある。
 授業評価が授業の成果を問えるような方法になれば,今後かなり利用できるのではないか。しかし,現状では,日本の大学では評価結果を公開している大学は増えているが,結果を利用している大学は少ない。

委員  東海大学の授業時間は90分か。

意見発表者  そのとおり。

委員  授業時間の長さも年齢を重ねると評価が低くなるということの一因ではないか。50分授業にすれば,教員も学生もより授業に集中できるのではないか。

意見発表者  授業開始後何分で授業を始め,授業終了何分前に授業を終えていたかについて学生が調査したところ,90分授業の正味授業時間は79分であった。

  【土井 真一専門委員の意見発表:「法科大学院制度の創設を踏まえた法学部教育の改革」】
   法学教育は法科大学院制度の創設とともに激動期にあり,今後多方面からの意見をもとに制度を安定させていく必要があると考える。
 法科大学院制度は,司法試験という点による選抜ではなく,法学教育,司法試験,司法修習を全体として有機的に連携させ,プロセスとしての法曹養成制度を整備すべきだとの方向のもと,平成16年(2004年)4月に法曹養成に特化した専門職大学院として開設された。平成18年(2006年)4月1日現在,74校,入学定員5,825名となっている。標準修業年限は3年であるが,法学既習者については,2年で修了が可能となっている。少人数クラスでの双方向,多方向型授業により,理論と実務を架橋する教育を行っており,授業評価等授業改善が積極的に導入されている。法科大学院修了者を対象に,新司法試験が実施される。平成18年(2006年)3月に第1期修了者2,176名に対して同年5月に新司法試験が行われ,9月に1,009名の合格者が発表された。受験者2,087名に対する合格率は48.3パーセントであり,各法科大学院ごとの受験者数及び合格者数は法務省ホームページに掲載されている。なお,合格率が30パーセントに達しなかった法科大学院も16校あり,当初,修了者の7〜8割が合格するような教育を行うという目標が揺らいでしまっている。
 法科大学院設置により,1法学部の在り方,2法学研究者養成の在り方の2つが課題となっている。
 法学系学部の現状について,平成18年(2006年)4月現在の入学定員は36,813名であり,これは4年制大学の入学定員総数約562,000名の約5パーセントに当たる。従来から,法学系学部卒業者は法曹に限定されない多様な進路をとっていた。これは法学士に対する多様な社会のニーズがあったことによる。しかし,このような進路動向が法学部教育にかねてから影響を及ぼしており,狭義の法律専門家,法曹養成の役割を期待されつつも,それに特化できない状況にあった。その結果,リーガル・リテラシーの習得を目指すジェネラリスト教育としての法学教育という側面を併せ持つことになったが,この点については,法的素養を持った人材を社会に輩出することで社会におけるリーガル・リテラシーの底支えをしてきたとも考えられる。ただ,実際には法曹を輩出する大学には偏りがあり,全ての法学部が法曹を輩出してきたわけではなく,また,ジェネラリスト教育と言いながら目的が明確でないままマスプロ授業で教育を行ってきたという面もある。法科大学院開設後は,新しい法曹養成制度の下で法曹人口は増大する。そうすると,多くの法曹が各分野に進み,その役割を拡大していくことが予測される。そのような状況の下で,法学士に対する社会的ニーズがどのような方向に進んでいくのか,現時点では十分に予測がつかない状況である。
 法科大学院教育と法学部教育との関係について,高度専門職業人教育としての法曹養成教育は原則として法科大学院で行うことになっており,法学部では法曹養成教育を行わないことになっている。しかし,法科大学院に法学既修者コースを設けたため,現実には法学部教育が法曹養成の基礎教育を担うという事態を招いている。法学既修者コースが今後どのような位置づけになるかによって,法学部,法科大学院の在り方に大きな影響を及ぼすだろうと考えられる。さらに大きな問題は,法科大学院開設に伴う高度専門職業人教育の在り方一般をどう考えるかである。専門職業人教育は現在,専門職大学院,学士課程,修士課程それぞれで行われ,多様な形態をとっている。高度職業人教育をどのようなシステムで,どの課程で行うことが適当かについて検討する必要がある。あらゆる職業人教育を専門職大学院で行うことは,大学院の性格に鑑みて適切ではなく,専門職大学院で高度専門職業人教育を行うことが相応しい分野は何かを考える必要があり,その前提として「学士課程教育とは何か」ということを考える必要がある。
 専門職業人教育が高度化している要因は,大きく2つあると考えられる。1つは社会の構造や科学技術の高度化に伴い,各々の専門職に固有の知識・能力が高度化しているためである。法律分野でも,新たな法律の制定や判例の蓄積に対応していく必要がある。もう1つは,専門職業人にとって外在的な知識・能力が重要になってきているためである。社会全体で専門分化が進展し,各々の分野で高度な専門的知識・能力が必要とされるが,その一方,各々の専門分野だけでは社会・経済活動が完結せず,共同作業が必要となっている。このため,他の専門分野に対する理解力,自らの専門分野を他分野の者に分かりやすく説明する能力が要求される。とりわけ,プロジェクトをマネジメントする際に指導的役割を果たす人材を育成していく上で,これらのいわゆる「第2の能力」が重視される。人をまとめ動かしていくためには,専門的能力も重要であるが,最終的には,健全な良識と深い人間的洞察力が必要であると言える。しかし,両者の目的を同時に実現するのは困難であり,限られた時間内にどのように両者のバランスを図っていくかについて悩んでいるところである。
 今後の法学部教育の方向性として,1教養教育,2法学専門基礎教育,3準法曹など進路に合った職業人養成の3つの論点がある。1については,「教養教育とは何か」についての論争がある。教養教育の意味として,古典的意味での教養と法学以外の分野に関する基礎的知識修得の2つがある。古典的意味での教養は輪郭が崩れつつあり,現代社会において何が求められているのかが必ずしもはっきりしないという問題がある。いずれにせよ,この2つの意味での教養教育の実現には他の学問分野と法学との連携がなければ実現しない。さらに,法科大学院では他学部出身者及び社会人を3割以上受け入れることとなっており,法科大学院,法学部が,それぞれのレベルで,この問題にどのように対応すべきかを考える必要がある。そこで,現在議論されているのが「法学教養教育」の創設である。法解釈学といういわば実務的な部分を抑えて,法学を素材にしながらも他の学問分野との連携が図れるカリキュラムが編成できないかについて議論している。法学部教育はこれまで資格試験のための教育も担っていたため,それに対応して実務的な解釈論を行い,批判的分析や方法論的関心は研究を志す者に対し,大学院レベルで行ってきた。法科大学院の設置により,この体制が崩れた一方,修士段階が法科大学院に代わるため,博士前期課程,修士課程において従来型の教育ができなくなり,法学研究者養成にとって問題となっている。このことからも,基礎的学習は学部段階でしっかり行うべきとの意見もあり,そのために,法学教育を含めた学部教育を充実させていく必要がある。そして,そのための制度的な課題として,副専攻制度や学士課程の早期修了の問題についても議論する必要があるのではないか。2については,ジェネラリスト教育としての法学教育という側面と法科大学院への準備教育という側面がある。また,3に特化すべきとの意見もある。
 今後,法学部がどの方向に進むべきかについて,議論を重ねる必要があるが,それには前提となる制度的な問題が山積していることに注意する必要がある。第1に新司法試験の問題がある。法科大学院の定員と新司法試験合格者数の間には不均衡があり,このままでは合格率が低い状態のまま推移する可能性がある。そうすると,過剰な受験競争が再燃する可能性があり,過剰な受験競争が再燃すれば,法科大学院教育自体の創造性が阻害され,受験教育の前倒しが起こる。これがさらに法学部教育に悪影響を及ぼしかねない。特に,新司法試験で高い合格率をあげるためだけに,学部教育の強化を図るということになれば,法学部改革の方向性に大きな制約を与えかねず,それが教養教育の推進にとって最も大きな阻害要因となる。これまで法学部で教養教育が軽視されてきた最大の理由は,学部段階で受験教育が早期に行われていたからである。さらに,今後,新司法試験制度と並行して予備試験制度が実施されるが,これは法科大学院を経ずに法科大学院修了と同等の能力を有することを認定する試験であり,運用次第では法科大学院制度そのものが崩れるという危険がある。
 第2に法科大学院設置に伴う教育負担の増加がある。高等教育の充実のため,必要な教員は措置すべきであるが,一方で負担を省みずに法科大学院を設置し過ぎたという側面もあり,今後どのような形で調整していくのかが大きな問題である。
 第3に学部教育の成果を評価する方法の開発がある。法科大学院で法学未修者及び社会人を3割以上受け入れることが義務づけられているが,他学部出身者の履修状況を評価することは困難であり,評価方法の開発についての検討が必要である。
 最後に学士課程と法科大学院間での人材の流動化と改革の進め方がある。法科大学院入学者に占める自大学,自学部生比率は低下している。京都大学では,平成18年度入試合格者に占める自大学の卒業生の割合は52.6パーセントであったが,関西のある国立大学では自大学卒業生の割合は11.9パーセントであった。この結果,法学部や他の学士課程と法科大学院との関係の整理は大学ごとの対応だけでは不十分となり,結局,各法科大学院の入学者選抜制度が強い影響力を持つようになってしまう。これでは,入試偏重という大学入試の抱えていた問題が,大学院レベルで生じる可能性がある。
 法学部あるいは法科大学院が抱えている課題は,広い意味でガバナンス,マネジメントにおいて指導的役割を果たす人材をどのように育成するかという問題である。以前,天野委員が「法科大学院に関わる問題を法科大学院特殊な問題ととらえるのは危険である。むしろ大学院教育あるいは高等教育全体との関係を見失わないようにすべきである。」と指摘していたが,同感である。これまでは,高度専門職業人教育や研究者養成については大学院を重点化する前提で,学士課程ではどのような教育を行うべきかを議論している。しかし,現在学士課程に在籍している全ての学生が大学院に進学するわけではないため,学士課程でも4年間で完結する教育が受けられるような制度設計する必要がある。法科大学院創設に伴う法学部改革の問題は,法律家,法学者だけではなくて,幅広い見地から検討する必要があるのではないか。

  【土井 真一専門委員の意見発表に対する質疑応答】
 
委員  法科大学院の創設は,既存の学部や大学院に対して大きな衝撃を与えている。その上で,今後の法学分野の研究者養成はどうするのか。特に,従来の修士課程,博士課程を目指す学生のケアをどうするのか。法科大学院の創設により,その部分が手薄になっているのではないか。
 法科大学院は実務的な教育が中心となる。そうすると,将来的には実務家教員と研究者教員の分化が一層進むと考えるがどうか。両者をどのように識別していくのか。これは,法科大学院のみならず,他の専門職大学院でも同様の問題を抱えているのではないか。

意見発表者  法学研究者養成の在り方については,各大学で対応は様々である。京都大学では,基礎法学や法制史の領域からは,当初から修士課程に進むよう指導している。一方,六法のような実務と密接な関係を持つ領域については,できる限り法科大学院に進んだ上で,研究者養成の道に進むよう指導している。新司法試験の合格率問題は研究者養成の問題にも関係しており,合格率が低い状態が続けば受験指導の方に重点が置かれ,研究者養成の部分が先細る可能性がある。

委員  六法等の主要科目を専攻する者は,法科大学院を経由しなければならないのか。それでは,研究者養成としての教育ができないのではないか。

意見発表者  大学によって対応は様々である。

委員  研究者養成をどうするかについての問題は明確な結論が出ないまま,法科大学院制度が発足してしまった。当時の議論では予測が困難であった問題であり,今後の新司法試験の状況や学生の志向も見極めなければならない。
 5月にOECDの高等教育政策レビューで調査団が来日したが,日本の大学教育に対する彼らの評価は非常に低かった。その最大の原因は,大学の授業が学生に殆どインパクトを与えていないことである。それに比べ,高専の授業を評価していた。少ないリソースの中で工夫がされ,高専の学生に対して,学習意欲を高く与えているとのことだった。高専については,イギリスのデアリング卿も高く評価していた。このことからも,日本の大学教育は考えさせられる部分が多いと感じる。

7. 次回の日程
   次回は,11月8日(水曜日)16時〜18時に開催することとなった。

(高等教育局高等教育企画課高等教育政策室)


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