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大学の教員組織の在り方に関する検討委員会(第6回)議事録・配付資料

1 日時   平成16年3月17日(水曜日) 10時〜12時

2 場所   三田共用会議所 第3特別会議室(3階)

 議題
(1) 大学の教員組織の在り方及び職の在り方について
(2) その他

 配付資料
資料1   大学の教員組織の在り方に関する検討委員会(第5回)議事要旨
(※第5回議事録・配付資料へリンク)
資料2   教員組織検討委員会(第5回)における意見の概要
資料3   これまでの審議における社会科学分野及び医学分野についての主な意見
資料4   各分野における教員の構成(PDF:109KB)
資料5   論点の整理(案)

参考資料   大学の教員組織に関する関係条文等

(机上 資料)
  教員組織の在り方に関する基礎資料
  高等教育関係基礎資料集
  大学審議会全28答申・報告集
  大学設置審査要覧
  教育指標の国際比較(平成15年版)

5 出席者  
(委員) 黒田玲子委員
(臨時委員) 安西祐一郎(安西座長)、荻上紘一(安西座長代理)、天野郁夫、生駒俊明
野依良治の各臨時委員
(専門委員) 伊藤文雄、小野田武、川村正幸、鈴木昭憲、堀江孝至、森脇道子
山本眞一、四ツ柳隆夫の各専門委員
(文部科学省) 遠藤高等教育局長、清水高等教育局審議官、清木大学課長、杉野専門教育課長 他

 議事
 事務局から資料についての説明があり、その後教員組織の在り方について自由討議を行った。

(○:委員、●:事務局)

委員  人事の流動性という話が何となくアカデミアの世界だけで限定した議論しか今まで出ていなかったのではないか。新しい制度設計で、アカデミア以外の社会との人事の交流が阻害されるようなことがないようにしていただきたい。

委員  若手教員のための職についてというところで、助手と助教授だけ挙がっているが、講師という考え方、或いは場合によっては助手相当の職務を行うような職種というものが実態に応じてあるのか分からないが、そういった現在の大学の実態に合わせて議論をするのか、それとも助手と助教授について特に重点的に検討をする方が良いのか。

委員  学校教育法で教授は何々、助教授は何々、助手は何々と書かれても、その部分で、その教授、助教授、助手の3区分があるので、それで議論してはどうかということだと思う。確かに条文には講師も入っているが、ただ講師は、かなり広い意味範囲に定義されているかと思う。特に「助教授は教授を助ける」、「助手は教授及び助教授を助ける」という、その部分が一番の議論の焦点ではないかと思う。

事務局  もちろんこの委員会では、大学の基本組織全体をご議論いただくということであるが、そもそも議論の発端としては、特に科学技術基本計画など、科学技術或いは研究サイドからの提言が多かったと思うが、助教授や助手について、法令の規定の上でも、もっと独立性を持たすべきではないかというような提言があったので、そういう流れから特に助手、助教授というところに焦点を当て、そして更に教授、教員全体についてということになっているところである。

委員  若手教員のための職ということになると、確かに講師というポストは学校教育法上は「置くことができる」職になっているが、実質的には教員の構成比が段々変わっていく中において、あまり変わらない部分の1つでもある。そうすると、今まで従来、助手が果たしていた仕事の一部が講師のところに移っているのかもしれないし、医学部等も含めて講師というポストや制度的に定着しているところもあるので、それを含めてやはり議論して、キャリアパスとしての講師の問題というのも扱う必要があるのではないかと思う。

委員  組織をどうするかということを考える場合、実効がある為には、そこに入る人達がどうであるかということだろう。ここまで日本の大学の教育・研究体制がこうあったということは、それなりの理由があってこうなってきたのだろうと思う。アメリカのシステムが仮に良いとするならば、そのシステムを動かしている人材というか、それにそぐう人がいるということ。だから、この制度を考える場合、若手の、これから教員になる人達がどれ位の力を持っているのかということが大事で、この評価がないと、なかなか上手くいかないと思う。若手の独立は大変大事であるが、本当に今、学位を取った人達が大学の教育研究に一人であたれるだけの力を持っているのかどうかということがやはり大事だと思う。
 初等・中等教育や理科教育の問題にしても、理科を教える力の無い、或いは理科を教えることが嫌いな人達が教えているというところにやはり一番大きな問題がある。一度、修士或いは博士が、各分野においてどれ位の力があるのかという分析、評価が必要ではないかと思う。また、日本語が書けない人達が今、大学教授になっているが、これは学生を教えられるわけが無い。力の無い人が卒業研究や、論文の作成を指導をしているようでは、やはりその下に人が育つわけが無いと思う。
 どれ位国際水準があるのかということを評価しない限り、仕組みだけを考えてもあまり良くならないのではないか。これは鶏と卵の問題であろうが。

委員  では、本当に独立してやり得る若手の教員候補がいたとして、それが助手に入ってきて、本当に今の大学に与えられた条件の中で、独立してその能力を発揮し得る条件が整備されている大学がどれ位あるのかということも考えないといけない。教員、大学の組織の面から言うと、例えば支援技術職員のような人たちが充実していないと、結局優れた能力がある若手がそういう意味でも使われてしまって、それがまたそういう働きをしてくれないと、日本の大学が研究面で機能しないという実態があるのは事実だと思う。
 だから、若手の研究者が伸びるための条件整備には何が必要であるのかということを考えておかなければ、呼称を変える位のことではどうにもならないと思う。その辺も議論して頂いた方が最終的には良いのではないか。

委員  今の意見については、普段から不思議に思っていることだが、それならば、それにふさわしい編成を何故大学サイドは今までとらなかったのか。10人の人をもし雇えるのであれば、教授は1人でいい、助教授は1人でいい、助手は1人でいい、他にそういう技術支援者の方が4人要るならば4人とすればいい。それをしないのが一番理解できない。その辺の何か根底にあるものというのは何なのか。文化的なものなのか、或いは競争原理が働いてないためにそういうことになってしまったのか。

委員  東大の生研は講座制ではなく研究室制度を取っていて、教授になっても1人で仕事をしていた。昔は今のように「特任」や科研費で人を雇うことも出来ず、すごく縛りがあった。研究費は潤沢で不便はないが、「スペース」と「人」が一番ない。アメリカの研究制度を採って、尚且つ上手くいっているのは、場所も実力があれば取れるし、人もどんどん雇える制度である。だから講座制で某大学でがっちりとやっているところは、教授になるとどんどん配下が増え、お金がどんどん増える。研究室制度を取っているところは、年を取った先生が非常に辛く、やっていけない。研究費は潤沢になっても、自分の研究を拡張することができないという縛りがあるということが、非常にフラストレーションになる。
 今の点に照らし合わせると、実は講座制は上手くいっていれば非常に良い制度であるということ。研究室制度にして、助教授を独立させ、助手を独立させた時は、年をとった教授で非常に優れた先生はどうやって研究をするのかという問題が生じる。だから、必ず制度的にそれを担保するものを併せて考えないといけない。教員組織を考える際、独立させるという観点は非常に良いが、では、優れた先生にどうやって研究をやってもらうのかということも併せて制度化していかなければいけない。制度化した時に、雇った人がファカルティーメンバーかどうか。例えば、いわゆる研究教授というのがアメリカにはある。リサーチプロフェッサーにはハーバードではテニュアを持たせ、そしてファカルティーメンバーにしていない。そういうことを併せてやらないといけない。駄目な助教授、助手を置いておいて、優れた教授、すごく業績があった人をどうやって皆でバックアップしていくのかというシステムを併せていかなければ駄目である。
 マンパワーを置かないとできないということと、場所を取れないということが研究室制度の大きな弊害である。教員組織だけをいじったら、まさに研究ができるのにできない状態になりかねない。できる人なのに今度はまた悪平等が発生することにもなる。そこを必ず担保したフレキシブルな制度にしないと上手くいかない気がする。

委員  議論が複雑化してきているが、問題点は、今の教員組織が学校教育法や設置基準で厳しくコントロールされていること。何々を置かなければならないとか細かく規定してあり、これがある限りはなかなか自由な組織編成ができないので、これは変えなければならないだろうと。その根幹にあるのは講座、学科目制で、これが助教授が教授を助けるという役割の元にあるので、ここをどうしても変えなければならないということについては、ほぼコンセンサスがあると思う。
 その先のレベルの問題は、組織として大学が一体どういった人選、構成になっているのかという話で、これは具体的な例が色々ある。領域によって違うのは、それぞれの学部なり、大学なりによって考え方が違う、或いは必要性が違うということだと思う。そこの実態に見合ったような組織編成ができるような仕組みを作る必要があるだろうというのが2つ目。
 そこから先は、今度は個人レベルの話になり、どういうキャリアパスが若手の教員にとって良いのかということと、その組織の仕組みが上手くマッチするかどうかということだと思う。
 また、更にその先に行くと、キャリアパスを辿っていく場合に能力評価は一体どうするのかということになるが、ここは報酬にしても研究所のポストにしても職務の内容にしても、大学がかなりフレキシブルに編成できないと動いていかないわけなので、ここでどのレベルまで話を進めるのかということで大分話は違ってくる。とりあえずは学校教育法と設置基準を何とかしないと何も出来ない。そこから先は、最近では自由になっており、新しくできる大学の人的編成は、アカデミックキャリアパスを通ってこない人たちがほとんどを占めているところもあり、フレキシブルになりすぎているのではないかと思うくらいである。そういうことも踏まえて、どのレベルまで議論をするのかを最初に決めないといけないのではないか。

委員  教育研究の仕組みの問題はどんな委員会でも全体論になるが、この委員会としては何かやはり1つでも突破できればそれが他に色々と役に立ってくるのではないかと思う。学校教育法の条文そのものを非常に堅く解釈して、大学側が自己呪縛というか、そういう方向にあるのかなと思うことはあるが。助教授というのは30代後半というのは本当にいわば、資金も取れるし、十分独立してやっていけて、能力もある人は、かなりいるわけだが、ところが助教授であるが為に、教授を助けるのだという、この条文の縛りが何となく意識の下にある為に、色々なことができない。そして逆に組織側としてはそれを逆に使い、助教授なんだから働けという、そういうことはやはりあると思う。教授に何故しないのか。私学の場合は講座制は殆どとっていないので、教授にしようと思えばできるのにも係わらず、教授にしない本当の理由というのは助教授で置いたままの方が使えるからではないか。その裏にあるものはやはり大学の財政基盤の問題である。先程の支援の職員の議論にしても、結局は大学の人事がずっと年功序列で昔からきていて、年齢が上がると教授になってしまい、教授ばかりが溜まってしまって、それで全体の人件費がどうしても膨張する。それを抑えるには新職員を雇えないし、そして若手を上に上げることも出来ない。

委員  最近、中国などから若い人が留学で来るが、彼らのほうが圧倒的に生活力というか、自分で生きていくという意思が見られるように思う。はたして中国と研究で本当に対抗していけるのかという心配をしている。ある会社では、夏にNIPの学生をインターンで採って、一緒に日本の会社の方と暮らすようなことをしているが、そこの会長が言うには、日本の最高の会社の若手社員でもとても彼らと競争していけるわけがないと。それ位の実力の相違はあるように思う。他にもそういった証言はやはりたくさんあるわけで、日本のマスター、或いは日本のドクターを取って、大学にいる人、或いは立派な会社におられる方は、同じアメリカ、或いはヨーロッパの経歴を持っている人と見比べると、やはり相当実力に差があるのではないか。

委員  関連して言うと、それは1つは技術の分野の問題もあると思う。やはり圧倒的に日本が負けている技術の分野がある。特に教育が負けている分野だと言っていいのではないか。まさにその分野では手も足も出ない位の差がついている。やはり日本の大学院は教育という視点が極めて乏しいので人を育てていない。それの蓄積が今たくさんたまって、それがポストドクターのレベルにまで尾を引いている。ポストドクターの制度を作ったが、まさに玉石混淆としている。その状態と、助手の資格にあったところを少なくとも理工系は整備をしたい。そうしないと、インターナショナルな戦いに太刀打ちするだけでシステムが出来ないと思う。かなりクリアな目的意識を持ってこの席に臨んでいるが、またこの問題というのは大学の教職員全体を含めて考えなければならない。

委員  色々な分野で国際競争力がなければいけないと思う。ただ、多くの研究者なり技術者なりが、日本の国でしか働けない。こういう人がやはり一番多いのではないか。日本の一流大学の教授や助教授にしても、日本の大学だから務まるのであって、同じくアメリカ、或いはヨーロッパの一流大学では務まらないと思う。これは言葉の問題もあるが、言葉の問題を除いてもやはりそうだろう。やはりこの状況を変えない限り、いくら仕組みをいじっても、やはり形を整えるだけで、国際競争力は持ち得ないと思う。ジャパニーズスタンダードと国際的なスタンダードが色々な意味で非常に乖離があるように思う。

委員  ある大学の工学部の土木系が、将来自分達の後継者を育てる時に任用する際のパスを意図的に変えていたことがある。具体的には、助教授に任用するのは、社会に出てあるレベルの活動を経験をしてきた人から登用するということ。高専では、むしろ助手という形をとった時に、始めから1人の教師として扱うため、それを指導してくれる人達の層が薄い。若手が伸びていく上で少し問題がある。そうであれば、むしろある学部の土木系がとったように、一旦外に出て外の経験を積んだ人達をむしろ助教授クラスに初めからとる。助手のポストは振り替えて、教員層の厚みを持った教育体制を敷く。同時にそれは社会と大学との間での多様な交流のきっかけにもなると思う。やはりそれぞれの教育を目的とする機関ごとに、それぞれのキャリアパスを工夫しながら、それをお互いに交換しあいながら活動するような組織を作ることが良いかと思いう。全部がいつも同じ形の体制でやるというのではない方が良いのではないかと思う。また、学部ごとに、かなり助手や助教授の様相が違う。それを考えるを、今言ったような、多様なフレキシブルな形態が組めるところまで議論は進んでいるのではないかと思った。なるべく前に進めるような議論をしていただきたい。

委員  制度設計そのものはもう非常にフレキシブルになっているので、どういう能力を持った人を助教授に任用するのか、教授に任用するのか、各大学が自由に決められる。問題は文部科学省の政策としてこういうことをやらなければ構成が変わらないというのではなく、各大学がどうしてこんなにたくさん教授を作るのかということ。能力を無い人を教授にすることは、文部科学省が決めているのではなくて、各大学が決めるべきことなので、助手を何人置くか、教授を何人置くのかについては、これからは人件費の枠内で各大学が自由にできるので、そのことをアピールするのは良いと思うが、制度としてここで議論する問題ではないのではないか。ここではあくまでも制度をフレキシブルに組めるようにするということを議論すべきではないかという気がする。

委員  学校教育法第58条の一行目だが、ここで、置かなければならないという必置の職として助手が規定されていることについて、今話されていたようにフレキシブルな運用ということで少し変わるのかなと思う。

委員  これからの競争力を持った人間を育てていく、研究成果を出していくことと教育の問題もあるが、その為の制度、そして仕組みのところで、文部科学省にこうやって欲しいということにここである程度絞っていったほうが良いのではないかと思う。それには、今指摘があった学校教育法第58条、そして大学設置基準に「こうならなければいけない」ということが書いてあるので、こういう文面だけでも絞ってみてはどうだろうか。

委員  先端研が最初にやった特任教授としてどんどん人を雇ってくることができるというのは、今の制度の中で何を使ってそのようなことを行っているのか。あのようなフレキシブルなシステムは非常に良いと思う。テニュアでない先生がどんどん来て、研究なり、産学連携なり、どんどんやっていただくというフレキシブル制度は良い。ただ、コアは大学の根幹の部分はしっかりとしておかなければならないが。給与も本当に法人の長の自由だと言いながらも、法人の長はどうも良く分からないので、常々見ながら一生懸命自己規制をかけているので、これを取り払われるような制度を是非作って欲しい。

委員  競争力を持った学生を育てるということについては、大学の数も非常に増えているので、いわゆるトップレベルの大学は別として、大学生の学力というのは、これは当たり前の話だが、今50%以上の18歳が大学に行く時代なので、その分布は変わらないとすると、昔と比べると学力低下しているのは統計的に当たり前の話だと思う。ただむしろ学生、或いは高校生が目標が見えないというか、研究者になるにしても、研究というのは面白くて、どういうパスがあってということが、昔はそれほど考えないでも良かった。今は色々な多様な社会の仕組みとコミュニティと重なっているので、色々な興味があり、また大学側の受験生の奪い合い競争になっているので、厳しくやればやるほど逃げるという面もあると思う。そして、大学に入った後も、厳しい学科には行かないという面も全国的にはあるのではないかと思う。だから、その中で何か目標を持ってこういうことをやりたいからやるんだという、そういうことのほうが大事で、そういうことが見えなくなっているというのが、今の若い世代ではないかという気がする。それには助手の在り方というのをもっと柔軟にして、若い時からがんばればがんばれるのだという、そういうことを打ち出していけば、そういう若い人達に対する目標というものが見えてくるような気がする。

委員  学生の奪い合いになっているということだが、本来は優秀な人材を集めて優位の人材を輩出して、それぞれの大学が社会的に存在感をアピールする。こういうことが本来の趣旨だろうと思う。ところが、理工系では、実はそうではなくて、中を構成している教官、教員、研究者達が自分達の戦力として使い尽くす為に良い学生を集めようというインセンティブが働いているように思う。これが、大学の使命をというものを構成員がどう考えているかということだろうと思う。優秀な人材を育てて世の中に出す、もちろん研究と教育の両方をやらなければならないが、本当優秀な人材を出していくということを大学の使命として考える。そういうことが構成員全体にり徹底するということが大事ではないか。それが徹底しているということが、アメリカの大学を成功に導いている一番大きな要素ではないかと思っている。

委員  この問題で私は平均値が下がるという以上に問題なのは、優秀な人が大学に行きたがらなくなっていることではないか。大学教授の社会的なステイタスが低下していないので。皆、大学が悪いと言うわけだが、だから教員制度はやはり大学の先生のステイタスを上げる方向に向かないといけない。今心配しているのは、昔は大学へ行った方は放っておいても、一番良い大学に行きたくて、それを制限するのをどうするかという話だったが、今は逆ではないか。その点を非常に心配している。いかに大学の教員を優遇して社会的なステイタスを上げるかという制度設計をする必要があると思う。

委員  18歳人口がずっと減少して、もはや物理的に学生数とそれに見合う受入れ人数とのバランスが悪い。良い大学は問題が無いが、そうでない大学はそもそも学生の応募者をサポートする。今までは入学者選抜ということで成り立っていた大学と学生の関係が、最近は学生確保という形でもっている。そして良い学生は大学に来ないという話だが、何となく分かるような気がする。それと同時に大学が養成する人材というのは、昔から言われていることだが、必ずしも研究者や技術者だけではなく、様々な人材が大学に入って出て行くわけなので、そういった多様な人材養成に対応し得るような教員組織の在り方ということを考えていただければと思う。ある大学はもちろん将来の研究者、技術者を養成する為に力になる教員スタッフをそれなりにそろえなければいけないし、また別の大学ではもっと多様な職種に対応した教員スタッフをそろえる。そうやって分野ごと、大学の性格によって随分と議論が違ってくるので、その辺の取りまとめをどうするかというと、大変難しい話ではないかという気はする。

委員  社会科学分野、法科大学院について見た場合、多くの大学が、法科大学院の出身者を、博士課程等における研究者、後継者にしていくということを考えている。ところが、法科大学院を出て試験に通れば、法曹として活躍できる。収入も相当な収入をあげられるという中で、果して本当に優位な人材が大学院に、博士課程等に来て、また、外部から先生として迎えていくことができるのかという、かなり大きな問題が出てくる可能性があるのではないか。これは、法科大学院というのはある面で非常に法律の法曹としてのベーシックな教育というものを目指してきたということで、実は大きな問題があり、将来を考えると、やはりアメリカ型の高度な研究も行うというものでなければ必ずそういう今の後継者養成という面で大きな問題が生じてしまって、我が国の法律学会全体のレベルの低下を招くのではないかという危惧を持っている。
 そういう意味で今議論されている若手教員の養成というような形で、そこでなかなかフレキシブルな形を考える必要性が出てくるのではないかと思っている。だからそういう意味でその辺は自由な制度設計ができるような形にしていただければ、将来的にもそういうもので対応は可能かもしれないというような気持ちでいる。

委員  私共の社会科学系から言うと、教員組織というラインの軍隊組織で、,助手、専任講師、助教授、教授、そのプロモーションというのはどちらかといえば教授会との人間関係でもっているのではないか。もっとフラット化されてきても良いのではないかという気はする。もう1つこのビジネススクールの場合は、多様な教員組織を作ることが一番の鍵となっており、特任教授、客員教授もあり、そして産業界のニーズに応えていく場合と、色々な教員組織というものを作っていかなければならない。それをこういう軍隊組織の中で考えていくのは、全く合わないような気がする。

委員  その点については、この委員会でかなり色々なご意見を頂いているので、大学分科会で今グランドデザインの議論をしているので、座長から非常に闊達な議論があったということを伝えてはどうか。

委員  先程から自然科学系の話ばかりが出ている、相当深刻な問題が社会科学系、人文系もある。ロースクールを作るのは良いが、ロースクールで教える先生の養成はどうするのだと。東京大学の、学部卒を採って直ぐに助手にして、論文を書かせて助教授に上げていくというシステムはこのままで行くと完全崩壊になる。伝統的な法学の研究者養成のシステムというのは根本が変わらなければ駄目なのだが、そういう問題を全く無視してローロスクールができた。他の基礎法学の人達は大変なパニック状態になっているということが分かる。しかも実定法でもロースクールとの関係で、研究者、将来の教員をどうやって養成するのか。こういう問題はビジネススクールも多分同じだと思う。どんどん外からノンアカデミックのキャリアの人達が入って来る。これからできる新しいタイプのビジネス系のスクールは、教員の資格というのは一体何なのかということ改めて問うている。専修学校と大学院というのは曖昧になってきている。問題は、アカデミックプロフェッションと呼ばれてきた大学の教員を中心する人達を、全体の再生産構造をどうするのかという問題に係わっていると思う。その中で特に重要なものは若手の人達で、若手というのはそういう職業の入口なので、そこのところを整備しないと逃げられてしまう。逃げるのはけしからんと言ったって、それは何の力にもならないわけで、逃げないようなきちんとしたシステムを作らなければいけない。経済的にも保証しなければならないし、社会的なプレステージの、職業人としてのプレステージの問題もある。そこもきちんと整備しないと、研究、研究と言って、研究にばかり金を出しているうちに、日本の大学教授の養成システムが崩壊して、結局のところ研究もだめになってしまうという状況になりかねない。

委員  教員の果たす機能というか、役割が急激に求められるものも変わってきていると思う。大学院からすぐ教員に採用することはもう社会科学系、ビジネス系、そして短大、教育型の大学の場合は非常に少なくなってきているはず。何故ならば、その有効活用が難しいということや、本人の能力が教育面ということでは非常に低いからである。勿論、研究と教育というのは不可分ということが大前提ではあるが。
 そしてもう1つは、民間の研究機関や企業で専門職としてやっている人を採用というのが比較的今、数としては多くなってきている。大学院から企業に行き、大学というキャリアパス。その場合にもやはり採用すると、相当教育しなければならない。つまり専門職としてやっていける力をつける為には。短大の観点で言うと、採用したらすぐに、やはりその学校としてのプロジェクト、教育研究のプロジェクトに直ぐに入ってもらい、あるいは実践、これを直ぐに行う。そうやって育てなければ専門職として、とても教育型の大学でやっていく専門職としてはとても耐えられないというのが現実である。
 そういうことから言うと、ここの学校教育法で助手を置かなければならないとなっているのは、少し足かせになる。入ったら直ぐに教育実践をやれるようにするということから言っても、そういう人を置くことができるという方に、義務付けしない方が現実に沿っているのではないかと思う。

委員  医学部に関して言えば、入学ってくる人自身の目標は決まっている。それを達成するために大学で受ける教育がどうあるべきなのか。これは文部科学省から決定されているが、モデルコアカリキュラムについて全ての大学で約3分の2位の時間を割いている。その他3分の1のところは自由度のある教育をやっていくということで、それを実際にやっていく為に何を目標にして行うのか。その目標を達成するためにはどういう項目が必ず出来なければならないのかというのがすべてできている。以前、学務関係の委員をやっている時に、科学部の先生方に入ってくる学生に対する教育目標を持っているか、達成目標というのはどういうものなのかということを確認した際、それが明確でないということに非常に大きな違いを感じた。例えば法科にしても或いは工学にしても、卒業する段階でカリキュラムはきちんとクリアして卒業していくとは思うが、その段階でどういうことを達成していることが望まれるのかということが明確にされていない。そういう点で大きな違いを感じる。
 もうひとつ、卒後においては医者になるが、かなりの人は臨床系に入る。臨床系学科の更に研究に入ってくる人もいる。このプロセスにおいてはそれぞれ特徴があるので、助手、或いは講師というステップを踏んでいく中で、重要なことは、いかに評価していくのかということだと思う。過去におけるような年功序列的な任用をしていたのでは非常に発展性が無いということで、最近の医学部における状況はかなり変わってきている。少なくとも研究面ではこれだけの業績はあげるということを条件にしないと上にはあがれないと。卒業してやっている人達に対して大学にいて必ず評価をされるところを作らなければいけないのではないか。

委員  MBAの専門職大学院で講義をしているが、実務経験者の実務というのは2、3年でオーソリティになり、使い物にならない場合がある。これをどうやってキャリアパスに持っていくか非常に重要な問題であるが、同時並行的にやるとなるとこれは非常に厳しく、客員を入れて実務と両方やるというマッキンゼーなどがきているが、それはそれで良いが、今度は教える内容がきちんと整備されて継続的にならない。専門学校と似たことになる。例えば2、3年実務を経験させて、戻ってまた2、3年教えて、また戻るとか。大変難しい問題である。
 もう1つは、専門職やMBAは研究をやらなくて良いというのは大間違いで、実務からアブストラクトしてエッセンスを出してそれを教えるというプロセス、これが文科系の研究であり、実験はあまりやらなくて良い。そこのところを繰り返しながら、例えばハーバードのビジネススクールなどは、凄い論文を書いてそれを教えていく。それを企業に出していく。専門職大学院というのは、これを同時並行で全部やらなくてはいけないところだが、法科もそういう格好になれば先程のような問題があまり起こってこない。やはりベーシックな研究は一方でやりながら、それを現実にアプライしていくという、専門職大学院はこのプロセスの繰り返しである。そういうキャリアパスを担保するような制度にしないとやっていけない。専門職大学院で1年間教えてみてネタが尽きてしまい、今年はどうしようかと思って苦労している立場から言うと、そこはよく考えないといけない。5、6年経ったら教える内容が無くなる。

委員  今、色々と大変貴重な意見を出して頂いたが、そのかなりの部分はそれぞれの大学で本当は解決していけるものが多いのではないか。大学とは、そういうことが本当に良いことであれば、そういうことをやっているところが勝ち残っていくようにし、また、そういう大学院に優秀な研究者がアプライしていくようになっていけばいいと思う。申し上げたいのは、かなりのことが大学でできることで、多分今後の給与の自由化というか、良い人を採ろうとすれば給与が高くなければ採れないので、それは大学の経営側が努力して、他の人件費を縮めても良い人を採ってくればそれで良い。それはやはりそれぞれの大学でやってできないことはない。給与の関係などについては。その中で特に学校教育法の法文のようなものは文部科学省を関わらせないとなかなかそれは変わらない。そういうところのメリハリも少しあるのではないか。キャリアパスにしても、それぞれの大学が努力したところが報われるようなシステムを作らなくてはならないというのはその通りで、その為の法文で障害になっているところがあれば、それは変えていくということ。

委員  今の話や、先ほどの医学分野の話、実はこれは何を意味しているのかというと、まず1つは競争という意味では、逆に言えば今、分野間でもう起こっているのではないかと思う。簡単に言えば医学系と工学系はある意味では物凄い競り合いの部分がある。その時に今、アカデミアの人材の育成、或いはアカデミアのその種のシステムはアカデミアだけできっちりと動かそうとすれば失敗する。その時にそのアカデミアの、医学なら医学という分野を外側の世界はどのようにバックアップしているか、システムがきちんとできているかどうかが大変大きな問題である。たまたま医師制度というもの、これは国が保証されている形で教育体系をある意味では支えている。私は工学系で思ったのは、それが工学系にはない。あるべきだと思ったのが、JABEEに取り掛かっている原点である。JABEEが段々と普及していくと、そのよその世界の人から工学部の学生は何を目標に教えられているのかということがクリアになってくると思う。そのことがやはり大事である。
 次に考えていることは、工学系の教員の方々のキャリアパスをどうやって専門学会なり、外の世界が支え、且つある意味で認定していくとか、そういう意識も持っていかないと、上手にアカデミアの世界だけではもうとても永続的な進歩するシステムというのは作れないのではないか。
 逆に政府等はそういう外側の動きを邪魔しないでほしい。ひたすら自由にしてほしい。そうすればきちんとしたところがきちんとした結果を出す。色々な力が結集したところがインターナショナルにも強くなっていくのではないか。そういう部門を育てるようにしていかないといけないのではないかと思う。

委員  キャリアパスの問題については、若手の人達が志を持って夢を持っていけるような、そんなパスをセットしていくことが非常に大事であると思われる。その時に、助手というポジションについて中が非常に雑多で、優秀で、社会でも優秀な人達が是非研究者になっていただきたい人が、助手になって何を調べるのか。一方では、研究室を構えてやってこられた一流の先生方はやはり若手の人材がいないと、それは研究室として成果が上がらないというのも実感として良く知っている。最初からこの委員会であったのは、助手として一括りにして、それで常に曖昧に見られるような、そういう体制、組織、名称等。一方で支援の職員なのか、或いは技術系といわゆる支援の職員と教官、教員というのの境目にあるそういう職務が随分増えてきているが、そういうポジションなのか。それともテニュアトラックの将来を背負っていくようなポジションなのかをある程度はっきりさせて、それで人材をピックアップしていくということが重要なのではないか。それは特に理系ではポストドクターと関係してくる。やはりポストドクターというのは、やはり働き手であって、雇用されて、研究でもって働いていく。それで成果を得て、良いポジションになるというポジションだと思う。それと、教育を担うアメリカで言えばアシスタントプロフェッサーの職務というのはまた別であると認識している。

委員  3回目のこの委員会で助手の実態調査の報告があったが、その実態調査によれば、助手というのは多様な職務を担っていおり、ある分野はまさに研究者そのものであるが、ある分野で情報ネットワークの管理であるとか、場合によっては事務補助とか。そういった実態も分野によって実に様々である。英語の名称で何となっているのか、色々と調べてみると、リサーチアソシエイトやアシスタントプロフェッサーなどとなっているようである。優秀な役割をもっと限定的に定義して、これこそが助手であると定義づければ良いのか、或いは多様であるということを前提にしてその運用を各大学にまかせるのか。両方の考え方があるかと思う。

委員  今の意見は実際そうだと思う。実務や色々な役割があったり、それからバラエティがあるというのはいいが、法律上の職務の規定通りにいくと、要するに一本道である。そこに乗らなければ落伍者なのだと。それは多分そうではないという形の制度設計が必要なのではないか。キャリアパスを考える時に、幅が広ければ、それは多様な出口を設定しておいて、そして距離はできるだけ短い方が良い。非常に優秀な人でも何十年もかからなければ、20年、30年経たなければこのパスの頂点に着かないようなシステムでは、やはり若い優秀な人にとっては非常に希望の持てないものになるであろう。もし制度設計をここで考えるとするならば、色々なパスがあって、その出口を非常に色々と考えるのと、もう1つは縦のパスはできるだけ短く考えられるのであれば考えた方が良いのではないか。

委員  前に、助手とポスドクの関係について議論になったがその辺どうなっているのかということと、そして、自由に制度設計ができる、各大学が自由にできるとなると、独法化すると確かにそれが色々とメリットがあると同時に流動性を考えると通用性はどうなのかということもある。ポジションの意味が大学によって全然違うので、そういうことがまちまちにつけてしまって本当に良いのだろうか。規制は減らしたほうが良いのだけれども、それでは勝手にやるということは、外から見た時に日本のシステムは全く分からない。日本の中でも良く分からない。外から来た人は益々分からないことがないように必要なことは少し考えておいたほうが良い。国内、国外、外国を含めて流動性に対してご配慮いただきたいと思う。

委員  助手の問題だが、資料4を見た上で考えた方が良いかと思う。人文系では殆ど助手というポストは無くなってしまっている。社会科学分野でも同様。この分野は制度を変えても助手の問題は殆ど無いと言っても良い。問題は保健分野と理工の分野で、保健分野は圧倒的に助手がたくさんいる。一体こういう助手制度がなくなった時に、こういう助手をどのように医学の分野で扱うのかという問題はある。理学分野でも助手はまだ一定数残っているが、講座制の下で一番プレッシャーが掛かってきたこの人達はどうするのか。工学の分野も依然として助手がいるが、この人達をどうするのか。一般論は一般論として、医学や理工の分野で助手という制度を無くした時に、この人達をどういう身分に振りかえることが可能なのか、どのようにしたら若手のキャリアパスとして有効性を持つのかということを議論する必要があるのではないか。

委員  医学系の場合、基礎系の教育、臨床教育の色々な在り方によって、構成の仕方に違いがある。臨床系だと、助手という名称でやっている人達のかなりの部分が診療に携わる、その比重はかなりある。加えて臨床の現場にいる学生に対して、或いは卒後研修医に対する教育にも係わっている。そういう人達が担う役割というのはおそらく名称が変わっても変わらないであろう。組織としてはかなりピラミッド型の形態を今でも、特に臨床系ではその傾向が強い。そういう組織がある意味では必要である。助手の人達が、研究を行っていく上で自由だというのは非常に良く分かるが、臨床の現場においてそういう人達の行動に対して、あるピラミッド型のシステムの下で行動してもらうということは、これからも求められると思う。ただこれは、旧来型の教授が全面において全てという時代はかなり変わってきている。そして講座の在り方も、例えば内科だと、臓器別に小さいところがすべてピラミッドを形成しているというわけではなく、今は講座の壁を取り払いながら、融合、統合して、そして教育或いは診療に携わるという、そういう方向性にかなり動いてきている。

委員  助手という名称は変えなければならない。やはりそれぞれの教員、研究者が誇りを持ってやるということが非常に大事であろうと思う。助手というのは、子供に職業を言うのが嫌なようである。
 そしてもう1つの問題は、今助手をどのように英語に読み替えているかということだが、私はアシスタントプロフェッサーというのはそぐわないと思う。プロフェッサーというのはやはり教えなければならない。講義をきちんとしなければならないと思う。ところが今はルールで、助手は教えてはならない、国立大学では助手は講義してはならないようになっているのではないかと思う。先程申し上げた本人の能力、研究能力、そして教育能力をきちんと保証した上で、駄目な人が教えるともっと学生が悪くなるので、きちんと保証した上で彼ら、或いは彼女達がきちんと講義ができるようにすべきであろうと思う。それは結局その人達を育てることにもなるもではないかと思う。年齢構成は分からないが、助手で40歳に近い人、超えた人もいるのではないではないか。40歳過ぎまで教えてないで、研究ばかりしていると楽ではあるが、どんどん知識の専門分野が細くなっていく。急に助教授にされたりしてもきちんと教えられない。きちんと講義をすることは大変だが、きちんと能力のある人は、若い時から講義するということが、本人の研究能力を上げることにもなると思うので、そういう意味で規定を正していただければと思う。

委員  助手は教えてはいけないというのは、明文化されているのか。

事務局  明文ではなく、全体の運用として今までの在り方から言うと、助けるということ不可能ではないか、そぐわないのではないかということで。その辺もご検討いただきたい。

事務局  医学部では教えているようである。医学部では1つの講義の中で細切れで、ある時間は教授が教え、ある時間は助教授が教えて、ある時間は助手が教えてというふうになっているようだが。

委員  講義するということが、なぜ大変自分の能力を高め、研究能力を高めるかというのは、国研がなぜ研究者にアクティビティがないかというと、それにあるかと思う。多大な資金を得て、安穏と研究に従事しているとどんどん細っていくということで、教えるということは、色々なアップトゥーデイトでどのように研究が進んでいるのかということを吸収していかなければならない。その中から抽出して講義していくということは大変な努力がいる。また、自らを鍛えていくことになると思う。国研ではそういうことが行われていないので、国研の研究者、始めはいいのだが、また、大事なことをやっているのだが、そこにクリエイティブな仕事がなかなか出てこないという最大の原因ではないかと思う。

委員  助手は科目を持てないというのは、お手元の参考資料の大学設置基準の、例えば学科目制のところに、「教育上主要と認められる学科目は、原則として専任の教授又は助教授が担当するものとし…」と、この「原則としては」と書いてある。「主要な学科目以外の学科目については、なるべく専任の教授、助教授又は講師が担当するものとする。」「演習、実験、実習又は実技を伴う学科目には、なるべく助手を置くものとする。」と。皆原則なのだが、これを暗黙のうちに縛りをかけて、特に、例えば大学院の科目では助手はもってのほかだと。そういうことでやってきているのではないか。かなり大きな規模の研究室等ではそういうチームで研究はチームでやっていくと思う。助手相当の人材というのは非常に重要である。研究のポストドクターの評価というのは、こういうポストドクターのポジションを認知させていくには一方でそこを強化していく必要があると思う。
 医局の問題というのは、やはり助手という名称がなくなったとしても、それに相当する人達は必要であろうということは良く理解できる。できれば、助手相当の年代というか、そういう年代の人達で特に優秀な人達が夢を持てるような、キャリアとして夢を持てるような名称と内容ということがミニマムのところで条文に盛り込まれるような、そういう方向を考えるべきではないか。全体論も結構なのですが、ある程度何か具体的な叩き台を1つは組込ませて頂いた方が良いのではないかと思う。

委員  医学の分野について伺いたいが、助手がそういう役割を果すのは非常に重要だということは分かるが、もし仮にこの助手という名称が無くなった場合に、どういう名称で呼べばその方々が社会的な地位も保てる満足のいく名称になるのか。

委員  実際は、助手の枠の中では特別的な扱いだが、「講師(専任扱い)」という名称で呼んでいる。外部的には講師という身分で対応することを認める方向でやっている。これは大学の中で決められている身分がそれ以外にないので、教授、助教授、講師、そして助手、しかしその中で少しでも社会的にということでそういう対応をしているところ。具体的な名前というのは、英訳すればプロフェッサーの付いたアソシエイトでもアシスタントでもプロフェッサーが付くような名称であることが実際に教育の現場にも係わっているので、そういう人が教育の係わりではそういう名称が望ましいだろうということだが、それを日本語に訳した時に何々教授とするのか、準教授みたいな名称を使うのか、その辺のところまではまだ深く考えておりませんが、講師という枠を少し拡大解釈的に使っているのが現状である。

委員  医学部の助手については、研修医の絡みもあり、助手といってもそれこそ昔の無休の助手とか、色々なしがらみがあると思うので、名称についてはかなり良く検討しなくてはならないと思う。やはり一番大事なことは、若い人達が優れた人達が夢を持って自分の志を見通すことができるような、そういうイメージ、それを与えることである。

委員  もう1点は、任期制の適用というのがなかなか難しいところで、若い人達が、上がつかえていてなかなか上がっていけないというままでずっといるという問題があり、そうするとテニュアとしての資格を得る為に、その評価の部分はきちんとしたものを作っていく必要があるのではないか。従って上の人でもある基準を超えなければ、必然的に外れていくようなものが制度的にも作られていくことがあり得る。

 次回の日程
 次回は、日程調整の上、決定することとなった。

(高等教育局大学振興課)

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