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中央教育審議会大学分科会

2003年11月13日 議事録
中央教育審議会大学分科会  大学の教員組織の在り方に関する検討委員会(第1回)議事要旨

中央教育審議会   大学分科会
大学の教員組織の在り方に関する検討委員会(第1回)議事要旨

1  日時      平成15年11月13日(木)15:00〜17:00

2  場所    経済産業省別館944会議室(9階)

  議題
(1)   座長の選任等
(2)   自由討議(教員組織の在り方、教員の職務内容等)
(3)   その他

  配付資料
資料1   大学分科会及び大学の教員組織の在り方に関する検討委員会の概要
資料2   大学の教員組織の在り方に関する検討委員会名簿
資料3   大学の教員組織の在り方に関する検討委員会の公開について(案)
資料4   教員組織の在り方に関する基礎資料
資料5   大学の教員組織の在り方に関する検討課題例(案)
   
参考資料 中央教育審議会関係法令
参考資料 中央教育審議会への諮問事項について(抜粋)

(机上資料)
高等教育関係基礎資料集
大学審議会全28答申・報告集
大学設置審査要覧
教育指標の国際比較(平成15年版)

5 出席者  
( 委  員 ) 中嶋嶺雄委員     
( 臨時委員 ) 安西祐一郎(座長)、井村裕夫、荻上紘一(座長代理)の各臨時委員
( 専門委員 ) 伊藤文雄、小野田武、鈴木昭憲、福田康一郎、森脇道子、四ツ柳隆夫の各専門委員
(文部科学省) 結城文部科学審議官、遠藤高等教育局長、林科学技術・学術政策局長、井上科学技術・学術政策局次長、清水高等教育局審議官、高塩高等教育局審議官、清木大学課長、杉野専門教育課長   他

  議事
(1) 座長に安西委員(慶應義塾長)、座長代理に荻上委員(大学評価・学位授与機構教授)が選出された。
(2) 座長から挨拶があった。
(3) 事務局から資料についての説明があり、その後大学の教員組織の在り方などについて自由討議を行った。

   (○:委員、●:事務局)

   助手を中心とした若手の教員の組織の在り方は、大学審議会時代から長い間の懸案事項であり、大学審議会でも変えるべきという意見が多かった。この機会に十分検討していい形に変えることが重要である。総合科学技術会議等においても、若手研究者の独立性を高めるということは非常に重要であろうというのがほとんどの方の意見である。学校教育法に「〜を助ける」との規定があるので、若手研究者は独立しなさいというのは、法律に違反するとを勧めているようで後ろめたい気持ちがあったが、オリジナルの仕事をするのはやはり若い年齢が多いので、若手研究者が独立して仕事ができるという環境づくりを行っていかなければならない。もう一つの問題は、テニュア制を日本で導入するかということである。ドイツはアシスタントを廃止してジュニアプロフェッサーとし、6年で成功しなければ駄目という形で導入している。それに似た制度を日本も導入するかどうかいうことが一つ問題になる。若手研究者を支援するための研究費については各省とも工夫しているが、日本では要件が35歳以下若しくは助手でないとならないとし、60歳の助手が研究費を貰う例もある。若くて能力を持った人にお金が行くようにしいといけない。例えばテニュアのついていないアシスタントプロフェッサーのような制度を作り、そういうところに若手研究者向けの研究費を優先的につけ、思い切ったチャレンジをしてもらう。そういう制度がどうしても必要と考えている。理系では全ての教員がバラバラになってしまうと研究がやりにくくなるので、競争的研究資金を増やし、その中からポスドクを採用することができる制度を作れば、そういったことはある程度解決するのではないか。知り合いのアメリカのノーベル賞学者を訪ねて行って驚くのは、「助ける教員」がいないということである。教授とポスドクが数十名ほどで研究室を運営している。そういうフラットな組織が日本でも作れれば望ましいと思うが、そこに持っていくのにどのような問題があるのか。そのあたりは、かなり考えないといけない問題ではないか。

   資料1の「大学の自主性・自律性の一層の確保の観点」というのは、間違いなくマネジメントの問題で、教員組織の在り方を検討するというのはポストの問題なので少しずれているのではないか。「2.」は我々もぜひ議論してやらなくてはいけないこと。「3.その他」は、大きな問題で、やはり人事の流動性をどのようにシステム改革とともに行うかというのはすごく大事な観点である。しかも人事の流動性という問題は国内だけではなく、インターナショナルに人が動く仕組みを作らなくてはどうにもならないのではないかという思いがあり、「3.その他」は「2.」に匹敵するような検討項目があるのではないか。

   資料で医療系の助手の数の多さを見て認識を新たにした。旧帝大のように従来から講座制を取ったところには文系でもこういう問題が残っているのではないか。私立大学、公立大学などは、そもそも始めからそういう講座制ではなく、或いは大講座制とか学科目制になっている気がする。助手の仕事はというのは本当に限られている。しかし助手が実際に授業を担当するというのは、語学のイントラクターなんか初歩はむしろ助手の人の方が教授よりもうまいということがある。助手の実態はいろいろ違いがあるが、その実態をもう少しつめていただけるとありがたい。もう一つは、ポスドクとか若手研究者の養成と関係があるが、大学院修了後のプロセスを若手をエンカレッジするようなシステムにしていくことを考える必要があるのではないか。

   議論が大学における研究の視点から行なわれているが、教育における助手の関り方を整理してほしい。研究の面だけで言えば、例えばポスドクで助手を変えることが可能かもしれないが、教育の面の関り方によっては単純にポスドクでは置き換えられない。そこの仕分けをきちんとして議論してほしい。

   助手の職務として研究面と教育面と両面あるが、教育面について基準の制約のために例えば講義がもてないなどの制約がある。ドクターを取ってある年数を経た助手の方だと十分に講義する力量がある。今我が国の教員体制の中で、教員数の絶対数が不足している状況で、その縛りは現場においてかなり大きな足かせになっている。大学院を出てそこから伸びていく研究者・教育者に育っていくキャリアパスの中での助手の位置付けを、今の状態でここから先大きな足かせをを作ってしまった状態が生じてくると思う。

   医学部の附属病院が助手を抱えており、現業みたいな仕事に携わる教員の数が多いのは良いと思うが、大学の講座というのは教育のため作られ、それに付随して研究を行うことになっているが、実際には助手が授業担当をすることが多々あるのが現実である。大量の助手を抱えながらも教育に携わらなくてはならない。しかし科目担当者になれないという制約がある。それを何とかしなければならない。具体的には各大学で内規を作り可能にしているというのが現状である。それを制度上きちんとしてほしい。

   私学では、社会科学系、人文のところはもうほとんど助手がいないも同然である。医学系と社会系でいろいろ条件が違うのでいろいろなところを目配りしないといけないが、社会科学系や私学の短大の実態では、助手を採用するということは非常に少ないということが実態である。そして若手の活用は大前提になっており、30代、場合によっては20代の人の教育プログラム開発が勝負である。柔軟なシステムを全く新しく作っていかないと、とても生き残れないのが現実であり、様々な責任者のの集まりのところでは強い声が出ている。設置基準に沿わないといけないというのはもうとうに実態は越えてしまっている。

   助手が、講義・授業を担当してはいけないという根拠はなにか。また、多くの大学がそういう実態にあわせるよう対応をかなり長年に渡ってやってきているという事実に対し、文部科学省の見解はどのようなものか。

   助手の授業の担当については、大学設置基準で、講座・学科目においては主要な科目を教授、助教授が担当するという規定や学校教育法の「助手は…を助ける」の規定を踏まえ、助手の教員資格については、学士、ないしはそれと同等の能力がある方ということで緩やかな規定になっている。教授・助教授・講師については、教育上の能力が大学教育を担当するに相応しい能力を持っていることが大学設置基準に規定されているが、助手についてはそのような要件がない。これらをあわせ、禁止してはいないが望ましくないということであろうかと思っている。助手が実際に授業を担当しているということについて指導していくというものではない。

   それぞれの大学は助手は学科の科目の担当者にはなれないということで動いてきていると思うが、助手は教授・助教授の職務を助けるということなので、助けるのだから担当者にはなれないということなのか。

   学校教育法の規定と大学設置基準の講座制・学科目制の条文の「教育上主要と認められる学科目は、原則として専任の教授または助教授が担当するものとし、主要学科目以外の学科目については、なるべく専任の教授、助教授または講師が担当するものとする。」、「講座は、原則として選任の教授が担当するものとする。」の、こうした規定と資格要件の規定が相まって、禁止しているわけではないが望ましくないということになる。

   助手がそういう能力を持っているとそもそも想定していないのではないかと考えられる。現実問題としては、医学部だとその分野において助手が一番の権威になっている場合が多くあり、総論は教授がやり、後は助手が行っている例もある。規定は規定としてあり、一方、実態としては、講義をするにふさわしい人が講義をする。ただそれは責任者ではないというのが実態である。つまり規定の問題というよりも、そうなっている実態を踏まえて、職の在り方や教員組織を今後どう考えていくという問題。

   専門職大学院の観点から、実際に教員組織の編成の中で実務化教員を考えるのは非常に難しい。実際に私たちが授業評価しても学生にニーズに応えたことがないので、やはりもうちょっと専門職大学院の中で考えていかなくてはならない。助手については、今、若手の研究者を確保しようとすると、経済的な支援がなければいけない。大学院の博士後期課程の学生が助手の形についていることによって、あくまでも助手は教員組織の中に入ってしまうと学生は助手にはなれない。むしろ博士課程の後期課程の学生が助手を兼ねるようなことになると学生は研究しやすくなるし、経済的な面で助かるのではないか。

   私立大学と国立大学、理系と文系で教えた経験からすると、実態は組織によって全く違い、私学は講座ということはまず考えにくい。それを、講座制か学科目制かということしかないので、講座制に当てはめて講座制の人数でくくっており、大学の実勢からかけ離れている。助手について言えば、これからの日本の国の高等教育の在り方は、短大・高専も含めこの委員会が十分議論し、見直すのだったら今見直さないといけない。

   高専は一種工学部と似たスタイルの学問領域・教育体系を持っているが、高専においても若手教官の主力は助手であり、ドクター、ポスドクを経たり、企業で研鑽を積んだ者が助手をつとめている。そういう人の活用が高専の活性化、いわゆる技術者教育の活性化の中で大事になる。

   助手やアシスタント・プロフェッサーのポジションがインターナショナルに確保されないと、そのグレードも含めて人事の流動性が確保できない。研究教育の非常に高度に進歩した国々の間では流動性を保てなかったら鎖国状態になるのではないか。助手的なものがアシスタント・プロフェッサー的な立場になることもあるし、今助手が行っている様々な雑務的なこともサポートする職務として切り出し、それを担う人が存在しなかったらできない等、助手については比較的シンプルに考えてきたが、問題は人文社会系とか医学系とかそれぞれの分野でかなり違いがあるということ。ここの折り合いをどのようにつけるかが大事である。

   国際的な通用性からいうと、日本で助手としている人がアメリカや、ヨーロッパなりへ出かけていくときに推薦状等の必要な書類を書くことが多いが、助手を直訳してアシスタントと書くとほとんど通用しない。アシスタント・プロフェッサーということであれば自分の国のアシスタント・プロフェッサーと同等なレベルのものであるという理解を受け入れる。アシスタントというと、リーチング・アシスタント、リサーチ・アシスタント、大学院の学生がやって来るのかというような受け止め方をされ、そういう意味では国際的に対等な交流ができにくいような状況にある。

   理工系はもうインターナショナルスタンダードになっているのではないか。むしろ人文社会系、特に医学の分野はかなり教授が少なく、下にかなり若手がいる医局の構図をどのように考えるかが課題である。

   講座制の一番悪い例がいわゆる講座医局制であり、それが人事の権限まで握るという非常にまずいパターンになっている。しかも、助手が非常に多く教授が少なく、ヒエラルキーがはっきりした状態になっている。カリキュラム改革等がこれが壁になって全くできない。講座の独自性が強すぎ、縦割りが強すぎ、新しい時代に対応できない。今まさに講座の壁をつぶす方向で今努力していているが実態はなかなか変らない。将来、助手が減ってくる時代にどう対応するかという何か新しい仕組み、基本概念を作らないと多分対応できないのではないか。医局はゆくゆくは蛸壺になるとみている。蛸壺でそれぞれが蛸壺戦争を行っていても変らないという認識をもっているので、ぜひ検討をお願いしたい。

   人文系にいた経験からすると、人文系は何十年もかかってずっと積み上げていく分野があり、そのときにテーマの継承ということが多少あるかもしれない。

   それは人文系でなくてもありえる話。例えば生物の分類ということをやっている人達というのは、1つの制度的な継承性がないところでは、どんどん新しいところに代わっていってしまい、そういうものの担当者がいなくなってしまうということがありえる。そのようなことについてはもっと別な見地からどのように担保していくかということを議論したほうがよい。

   高等教育というコンセプトが必ずしも古典的なものではなくなってきており、そこでキャリアを積んだ者が世の中で十分にスキルを持って仕事ができるという要素があってもしかるべきである。スキル的・実務的な教育を教えるサイドについて言えば、教員の資格を含めて、従来の教授のコンセプト或いは講師のコンセプトが多少変わってくる部分があるので、そのへんもぜひアメリカを是非参考に十分スムースに取り入れるようにしていかないと、良い人材を確保できないのではないか。

   この大きな助手の問題が、ずっと解けなかった問題としてここまできてしまった一番大きな原因はどこにあるのか。

   やはり歴史的な帝国大学以来の一種のモデルを日本の高等教育が核にしてやってきたことの結果ではないか。

   若手研究者の養成のキャリアがダブルトラックだったことが助手問題が解決してこなかった原因ではないか。大学院があって一方で助手があって。助手ということが確かに教育研究の面で教授を助ける面と、将来研究者や大学の教員に育っていく過程である面と2つの面があった。それを旧制の大学の中で講座制という枠で非常に便利に使ってきた。助手の資格も非常に緩いので、これだと思う人は学位がなくてもとにかく助手として置きその中で養成することができた。そういう意味で非常に便利な制度であった。ただ、今は大学院がやはり色々と重点化されて充実してきているので、そういった大学の変化に対応して、大学の制度を設計し直すことが必要だとは思う。

   帝国大学の法学部は特異な助手の位置づけであり、学部を卒業してすぐに助手になる。帝国大学の法学部という明治以来非常に大きな力を持って君臨してきたということももしかしたら助手の位置づけにも何がしかの影響があるのかなという気がする。

   どのようにして講座制をを変えようかずいぶん策をめぐらしたが、根底にあるのはやはり学問体系とそれと連動した講座にあるのではないか。大学教員の帰属意識を調べた調査があるが、それをみると大学への帰属意識よりも専門領域への帰属意識のほうが強いという結果が諸外国等も出ている。やはりその学問を主体に頭の中がもうほとんどそれ以外に考えられない様な思考プロセスになっているのではないかという認識を持った。新しい授業カリキュラム等の改革を行う場合には、これが前面に出てしまうとどうしてもぶつかり合ってしまう。大学の持っている教育、或いは研究の場面をその枠からはずし、そこへ適切な教員を置く形に切り替えていかないと、うまくいかないことを実感した。根底にあるのは学問領域への帰属意識が一番だということがあると認識している。

   昔は学問の領域が今より単純だったが、が学問分野が非常に多様化して、若くともオリジナリティを持ち、学問、新しい知的な創造をしていくことができる状況になってきている。


  次回の日程
  次回は、日程調整の上、決定することとなった。


(高等教育局大学課)

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