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中央教育審議会大学分科会

2001/09/21議事録
中央教育審議会大学分科会/科学技術・学術審議会学術分科会大学改革連絡会(第2回)議事録

中央教育審議会大学分科会/科学技術・学術審議会学術分科会大学改革連絡会(第2回)議事録
     
日   時 平成13年9月21日(金)10:00〜12:30
     
場   所 文部科学省別館大会議室(郵政事業庁庁舎11階)
     
出席者
(委   員) 鳥居泰彦(中央教育審議会長),阿部博之(科学技術・学術審議会長),茂木友三郎(中央教育審議会副会長),吉川弘之(大学分科会長),生駒俊明,井村裕夫,荻上紘一,岸本忠三,黒田壽二,佐々木毅,野中ともよ,山崎正和,鳥井弘之
(事務局) 小野事務次官,青江文部科学審議官,御手洗文部科学審議官,結城官房長,田中総括審議官,工藤高等教育局長,遠藤研究振興局長,石川私学部長,井上科学技術・学術政策局次長,板東高等教育企画課長,合田大学課長,清木主任大学改革官他
     
議   題 (1)大学の構造改革の在り方等について(自由討議)
    (2)その他
 
配付資料
 
資料1 大学改革連絡会(第1回)議事録(案)(略)
資料2 国立大学の再編・統合についての検討状況
資料3−1 世界最高水準の大学づくりプログラム−国公私「トップ30」−
資料3−2 大学改革連絡会(第1回)における「トップ30」関連の主な意見
資料3−3 分野別専攻等数
資料4 大学改革連絡会の今後の日程について(略)
   
議   事
  (1) 「大学の構造改革の在り方等について」事務局が資料を説明した後、自由討議が行われた。
  (○:委員、●:事務局)
     こういう新しい試みをされること自体については、今までとは違ったポリシーを示されたということについては評価しないわけではないが、ただ全体として、この前も議論が出たが、一体何なのかということについて私も改めて確認をさせていただきたい。
   つまり、これは300専攻を選定するという話なのか、30大学を選定するという話なのかがわからない。つまり300専攻を選ぶということは、結果として30である必要はないので、いろんな大学がある得意分野を含めれば30を超えるものになるということは、論理的に幾らでも考えられるのではないか。その2つを予定調和的にするということは、ある意味で非常に不透明な感じを与える。あるいは300専攻というのをもし単純に、非常に形式的に議論すれば、30にはならないかもしれないし、あるいは30よりも多くなるかもしれない。一体どちらの枠が中心であるかが少し、あるいは相当不明確であるということについて、もっと明らかにしてもらう必要がある。
   そして、さらに、実務的な話になるかもしれないが、例えばそこの生命科学にしろ何でも結構であるが、これそれぞれについて30専攻ということのようであるが、これの間の相互関係はどういうことになるのか。バイオサイエンスは一体何専攻にする、生物学は何専攻にするという形で、大学の実態に即すると、薬学とか農学は同じだなんて言われても困るので、これをどういう形で割り振りを考えるのか、あるいは割り振りを考えるということを公表した上で審査されるのか。それとも何もわからないままに、どうする、こうするという話で考えるのか。その辺は現場的にいうと、これは大変なことで、これもよく私にはわからない。文字どおり300専攻を、例えば生命科学なら生命科学について、30であろうか、ここについては幾つ、ここについては幾つという形で横並びで、とにかく日本中で競争をオープンにさせて選ぶということになるとすれば、またそれなりのアプリケーションの仕方が考えられるのではないか。
   その意味で政策の一般的な議論とは別に、さらに踏み込んでいくと、これは私の入り口的な問題提起であるが、これを含めてもっと議論をしていただく必要があると思うし、特に私がきょう申し上げたことについて何らかの答えをいただきたい。
     私は前回の議事録をさっき読ませていただいて考えたのであるが、今の委員の話とも関連するが、この前は大学のいいところを30選んだほうがいいんじゃないかという意見が2人か3人ぐらいの方から出ている。私は教育者ではないので、ただ常識的に考えているだけの話であるが、あそこの大学はいいよという大学がある。だけど、一方、あそこの大学はあそこの学科だけいいよという、あるいはどこの専攻がいいよという言い方もするが、おそらく世間一般の常識はそうじゃないかという感じがする。それから、ヨーロッパのことは私はわからないが、アメリカは時々行くので比較的わかるが、アメリカでもやっぱりあそこの大学はいいよということは、あそこは例えばビジネススクールがいいよとか、特定の分野だけいいという大学等があると思う。
   30という数字であるが、30の大学を選ぶとすれば、例えば10でも15でもいいのであるが、大学全体を選ぶのと、大学全体としてはどうかなと思うけれども、特定の分野だけいい大学を選んで、それをつぎ合わせると、イメージとしては大体30ぐらいになるという選び方のほうが世間一般に常識的にわかるんじゃないか。私は教育者ではないから、トンチンカンなことを言っているかもしれないが、そんな感じがするということを申し上げておきたい。
     まず、第1点目の300と30、あるいは大学と専攻組織の関係である。
   まず、30というのは、あくまでもシンボリックな数字であるという点を理解いただきたい。それから、大学をいわば丸ごと評価して選定するということは、考えてみると極めて難しい面がある。大規模な大学もあれば小規模な大学もあるし、総合大学もあれば単科大学もあり、大学丸ごと評価というのは極めて難しい点がある。それで、教育及び研究の視点に立って選定する場合に、これは学問分野別に行うべきではないかと考えてみた場合に、分野ごとに大学丸ごとではなくて、大学院の博士課程の組織というところに着目して、選定してはどうかと私どものレベルでは考えてみた。したがって、委員がおっしゃったように、ある組織が選定される大学というのはおそらく30にはならず、もっと多くの数になる。ただ、これを通じて、最初に申し上げたように、大学六百五十幾つかのうちの5%程度は世界のトップレベルになってほしい、30大学に育ってほしいといういわば気持ちを込めた数字である。
   それぞれの分野ごとにどう選ぶのか。それぞれの10分野で、またはさらに細分野があるが、指摘のとおり、細分野間では同じ基準で比較できないというのはもちろんある。したがって、例えば細分野ごとで見ると、それぞれのトップ1、トップ2、トップ3ぐらいずつが選ばれるということになるかのもしれない。そして、あらかじめどの細分野ごとに幾つずつを選ぶということを示すということは、これも意見をいただきながら考えていきたいと思うが、あらかじめ示すというのはなかなか難しい面があるのではないか。いずれにしても各大学がそれぞれの分野でどういう組織を伸ばしていくかということを考えていただいて、どの分野で競い合いに参加していくかという形で名乗りを上げていただく。それを見ながら試行的にやっていくというほかにないのではないか。
     これは私からの質問でもあるが、私は前回欠席したので、どういう議論があったか十分理解していないのであるが、この提案には予定調和的な楽観論というのか、要するに30大学を選ぶと丸ごとはできない。しかし、専攻は評価できる。専攻を300選び出すことは多分可能だろう。しかし、そうやっていくと、300選んで浮上してきた専攻が属する大学というのは、多分、学長を含むマネージメントが非常に優秀なので、選ばれた専攻は今多分潜在的にはいい専攻であろう。
   したがって、300専攻をずうっと何年も選んでいるうちに、次第にそれが30大学というものに集約してくる。こういうプロセスが専攻で、結果が大学なんだと。こういうことを考えているとすると、そこには一つの過程というか、前提が入っていて、いい専攻というのはある大学に集約してくる。ということは、最終的な姿として、ある専攻はいいけれども、ほかの専攻はだめだという大学群を想定せず、いい専攻が出るところは結局はいい大学になっていくんだと。こういう一つのモデルなんだけれども、それはいいのか悪いのかという、そこの価値判断がやっぱりあると思う。場合によったら大学が30じゃなくて、結局、専攻がいいところというのがたくさんばらばらにあって、要するに大学というのはある専攻に集中して、ほかの専攻はだめになってもいいんだというマネージメントをするとすれば、そういう状況が起きるのではないか。しかし、それは想定していない。それを想定していないというのはある価値判断があって、大学というのは序列がつくべきなんだと。こういう前提であるが、それを認めているのかどうかというのはこの提案の中で考えられているのかどうかという質問である。
     なかなか難しい質問で軽々に答えることができないが、繰り返しになるが、結果としてぴったり30の大学がトップレベルにあるということでは必ずしもなくて、そういう結果を目指すためには、より多くの大学でトップレベルの組織が選定されなければならない。そのためには、分野ごとに大学院の組織を選定するということになると、この概算要求の段階では300という形になっており、専攻などの総数3,000に対する約1割に当たるが、それぐらいの組織を対象にすることによって、結果的にそういうところにつながっていくのではないか。そういう意味では先生指摘の予定調和というのかどうかはともかく、そういう考え方が背景にはあるということは言えるのかもしれない。
     私も前回、欠席してしまったので、前回そういう議論が出たのかもしれないが、これを目的と方法論というふうに考えてみると、方法論に縛られて議論が進んでいくような印象を受ける。
   方法論というのは何かというと、ご案内のように、日本の今の経済状況は大変なところに来ている。文科省が422億円というお金をぼんと新しくうつというのは、「やったぜ、ベイビー」という感じの中で、これ、どうするかねっていう、まず本来、方法論であるべきところが「があーん」と来て、どういうふうにするという、そのロジックが感じられてしまうのが非常に悔しいというか、悲しいという気がする。だから、そうあってはいけないと思う。
   それで、資料3−1の趣旨のところで、1の(1)(2)(3)を通じ@からCまで、世界に誇れる教育研究組織の確立と4番まであるが、422億円の話をわきへ置いといて、戦後の今までの高等教育の中で世界に誇れる教育研究組織が確立できてきたのかこられなかったのか。2番目、研究者、特に若手研究者に世界最高水準の教育研究環境が提供できていなかったのかどうか。3番目、国際社会に通用する人材育成機能がなぜ強化されてこなかったのか。
   それで、世界と日本丸の中にある高等教育に入ってくる若者、あるいはそこに従事している教育者の水準というののミスマッチがもし起こってきているんだとすれば、それはどこに理由があるのかということをしっかりと確認しておかないと。じゃ、ここにお金を振り分ければ、金というニンジンでこれらが達成できると考えていて、しかもそれも今他の委員がおっしゃったように、それをプロセスとして揺さぶりをかけるという危機感を持ってもらうために、こういう専攻があるんだというふうに呼びかけるのであれば、もうちょっと違うアプローチをしないと、これは平等と公平とみんなに機会均等だよ、予定調和もあって、結局、選ばれるのはこうでしょうみたいな形のことで前回の議事録を拝見させていただいたが、結局、個別の単位で、今までの科研費のような形とどんなものなのという形になるのだったら、これはタックスペイヤーに対して申しわけないという気がする。
   したがって、ほんとうに世界に誇れる教育研究組織というのは、例えば高等教育のどういう大学がそうであるかというイメージがもしあるんだとすれば、こういう大学を日本に持とうよというふうにして、皆さんやりたい人、手を挙げてくださいと言ったら、それはやってくれと。それで、やるためにどういう目論見書が書けるのか、図面がかけるのか、それに対してはお金が幾らかかると東大は考えるのか、阪大は考えるのか。それを見ていく。それを単年度予算ではなくて、3年間の中でどうする、5年間の中で見て、これが達成できてなかったら、それはあなたたちの大学で金を集めてタックスペイヤーに返してくれとか、そういう今までになかった形の大学教育関係者、あるいはそこへ行きたいと思う若人たちに、日本では今までなかった大学編制を考えているらしいよ。こういう柱のオファーが必要なのではないか。
     最初、僕も大学を選ぶのか、専攻を選ぶのか、この前、他の委員は学長の顔を見て30を選べとかいうふうに言ってたが、大学を選ぶとなると非常に抽象的になって、透明性がなくなる。だから、専攻を選ぶ。専攻でも、突出した大学は工学もいい、理学もいい、医学もいい。したがって、幾つもの専攻がトップの中へ入ってきて、それが寄せ集めになると大学としては突出したものになる。あるいは1つだけすばらしいものがあるとしたら、そこだけがもらって、そこの大学はそこだけが光輝くということで、この仕組みで多分いい大学を選ぶということにはなるだろうと思う。
   しかし、この前、僕は言ったのであるが、これは単に科学研究費を倍増というか、倍増にもならないが、ある程度増やしているだけのことになるのではないかという心配がある。ここに経費の使途というのがあって、トップレベルの外国の大学との共同研究、シンポジウムの開催、トップレベルの研究者を招く、大学院博士課程の学生のためTA、RAを増やす。これはみんなやっていることで、今までのところへちょっと上積みするだけであって、いい研究者が日本へ来るということはお金ではないということはみんな知っているわけで、そこへ来ることが果たしてキャリアになるかということがいい研究者を呼ぶことにも、いいシンポジウムや学会をやることにもつながるので、幾らお金を出したってだめなわけで、したがってこういうことをすることによって、そういうふうに将来なっていくようなことを考えなければならない。
   そのためにはどうすればいいか、この金をどう使えばいいかというのを考える一つの例であるが、例えば青色レーザーの研究者を、僕が学長になる4年ぐらい前に、工学部に呼んできたらどうやとか言うたけれども、なかなかそれはすぐいかんで、普通の教授会で選考していると、なかなかぱっと呼んでくることにはつながらない。あるいは医学部なんかでは助手ぐらいのところにいっぱい先端の人がおるのに、ヒエラルキーのもとでその中へ埋もれていっている。大学院の大講座制にしたといっても、ヒエラルキーは医学や工学の分野ではなかなか崩れてこないで、教授、助教授何とかのヒエラルキーが厳然として存在する。それで、若い人の意欲をつんでいるという面がある。
   それならこのお金をほかから出して、学長あるいは専攻長に任せて、こういう人、こういう人、こういう人を全部5年間なら5年間、教授、助教授にする。それの費用として使うと。あとはその人らがそういうふうになればビジュブルになるから、競争的研究資金をとってきて研究をすればいいので、研究費をその上に足すといって、今の大学の仕組みの中で足していったって、あんまり構造改革にはならないのではないか。だから、そういうふうな仕組みで、この前、科学技術総会のCOEの問題なんかはそういうことを考えられたと思うが、15億円は出すと。それで、そこで人を呼んでくるなり、若い人を教授にするなりしてしろと。そういうふうな仕組みのそれぞれの専攻長、あるいはそれぞれの学長にそういうアイデアを出させて、それで今までの実績とこれからの将来性を考えに入れて上から選んでいくというのを幾つもつくっていったら、いいものができてくるのではないか。
   ここに書いてあることは共同研究、シンポジウム、研究者の招聘何とかかんとかという、まだいまだに設備の購入、コンピューターとか、こんなものはそこらにはいて捨てるほどあるんじゃないか。そこへそれを足すという発想ではだめではないか。
   しかし、こういうふうにトップ30にするということは、もしそういうふうにすれば、そこの大学がいい大学になるためにはいい研究者を育てよう、いい研究者をリクルートしてこようというインセンティブになることは間違いないわけで、そういう競争が働いてくるので、これは非常にいいことであるが、どういうふうに使っていくかということを考えたらもっとよくなるんじゃないか。
     先生の指摘のとおりである。経費の使い道は基本的には、先生がおっしゃったように、学長なり、あるいは研究科長なり専攻長、これがトップレベルになっていくためにこう使えばいいというふうに自由に使っていただきたい。ただ、あくまで例示としてどんなものがあるかというのを示してみたつもりであるが、何せ発想が貧困なので、このようなものしか浮かばなかったわけで、先生の指摘のとおり、自由に使途の制限を設けず使えるようにしたい。
     自由にして、教官の定員の構造を抜本的に揺り動かしていくような仕組みの起爆剤になるような使い方をしていただきたい。
     内部でいろいろ議論しているが、300というのは予算の積算の根拠で出しているわけで、300にこだわることは全くない。それから、今年の422億円も当然査定があると思うので、私どもとして、例えば一つの考えであるが、ある大学が生命医学のバイオが1つ選ばれたと。それからもう一つ、化学・地球科学の化学が選ばれた。ほかでも情報のところでも選ばれたということになると、例えば3つが選ばれたとすると、その大学に対して3つ分のお金をある程度どーんと差し上げることを考えないと、今でも422を300で割っても1.3億円ぐらいにしかならないわけで、それではほんとうにインセンティブを与えられない。したがって、結果としてまとめて、使途もかなり自由にして、それにさらに、例えば施設整備費をその場合は優先的につけるということも含めて、ある程度どーんと使用することで、世界に通ずる大学の研究にしたいということがある。
   最初に30ありきというんじゃなくて、30じゃなくてもいいし、10でもいいわけであるが、世界レベルに通ずる大学を支援したい。そのために一応コンペのような形はとるが、大学全体の視野を見ながら国として重点的な支援をする。その場合の評価の委員会についても、国がそのまま評価するというんじゃなくて、評価の場を客観的なものを設けて支援していくいこうということである。これが若干、事務的な資料のような感じがし過ぎるので、インセンティブが与えられないと思うが、結果が30ありきじゃなくて、世界に通用する大学づくりを支援したいというところにねらいがあるので、かなりそこはフレキシブルに考えてよい。もちろん科研費もそれに後から合わせてつけることもあり得るし、施設整備を別につけることもあり得ると思うので、それら全体をあわせて世界水準に育成していこうという気持ちがあるということも理解いただきたい。
     私の場合、大学とは関係ないところにいるので、社会がどう見るかなという視点から考えていくと、ともかくこういうことをやって、もしほんとうにうまくいったとすると、あらゆる分野で、10分野ということはあらゆる分野ということであるが、ここで国際水準で、世界のトップレベルの大学が30ずつある。あらゆる分野で30ずつ世界トップの大学がある。こんな国ってあるんだろうかと。それで、そうやって約束して始めたとして、せめてその半分の15ぐらいはなってくれないと、国の政策って何なんだろうと、こういう感じがする。
   そうすると、私なんかはどっちかというと、分野別でやるんならせいぜい3ずつぐらいやるのはどうかという感じがしているが、30選んで、それがあらゆる分野ですべて世界のトップへ。そんなうまいことをやれる国というのはないんじゃないかと思うので、やることと標語が一致するようなことを少し考えないとまずいんじゃないか。
     私も少し違った見方をしている。現実は、今までやっている文部行政というのは、科研費の取得分布を見ると、各分野で大体10まででトップが決まって、あとはどんぐりの背比べになって、非常にはっきりと10までは差別化されている。専攻ごとに多分集めると、大学で少しばらつきがあるけれども、見えていて、旧帝大と新しくできた国立大学。慶応、早稲田が多分10位以内に入ったり入らなかったりしている。だから、今までやっていることとそう変わらない。要するに非常に大きな違いは、今まで大学を差別化しないという方針で来ていたことを顕在化して、それを差別化するというファクターのほうがずっと大きいと思う。
   それで、2.8億円が専攻にいくのかちょっと今わからなかったが、大学に全部足していって、中で使うのかどうかよくわからないが、専攻に2.8億円いくとすると、その専攻がどのくらい外部資金を持っているかというのに対して何%になるかというのを知りたい。私も調べたが、メモリーがあんまりはっきりしないので、何%ぐらいで、インパクトはどのぐらいか。当然そういういいところは、多分10億円以上の外部資金で研究をやっているんじゃないかと思う。そうすると、2.8億円というのを設備購入に使えと言ったら、これはほとんど意味がないので、むしろ非常に科研費が使いにくいのはそのほか、例えば科研費でシンポジウムをやれるかと言うと、シンポジウムの費用は別個に請求しなくちゃいけない。手間も大変だし、つくかつかないかわからない。
   だから、むしろ研究を支援するようなものに自由に使えるような公費だとすれば、これは多分、世界のビジビリティを上げる。要するに日本に世界で認知されているトップの分野がないかというと決してそんなことはなくて、すごく多い。私の知っている情報関係、特に半導体関係は世界トップの大学がたくさんある。だけれども、そこが総合的なアクティビティで世界にビジビリティを出せないという事情があった。個人レベルではやっていた。
   したがって、非常に大きなインパクトは、むしろ公式にこの専攻がいいんだということを文科省がはっきりと宣言する。そうすると、新聞が多分取り上げてくれて、それが回り回って世界に回っていく。こういう効果のほうが大きいのではないか。だから、重要なのは、研究費の使い方をどこまで自由化できるかということだと思う。
     私は総合科学技術会議にいて過去3年ほど考え、あるいはやってきたことは、日本の大学を種別化していかないといけない。しかし、それは自然にそうなるようになるのが一番いいわけで、またそうならなかった大学も努力をすればそうなれると。そういうものになったほうがいいということを考えた。
   今はどうかわからないが、私が調べたときには、上位の10大学に70%ぐらいの科研費がいっていたと思う。そこに30%の間接経費をつけると、その間接経費はその大学が自由に使えるので、それをうまく利用して教育機能の充実とか、さまざまな施策をすることができるだろう。そういう形で今まで私どもはやってきた。
   そこへ今回こういう形が出てきた。これについては、今ここで私の意見を特に申し上げようとは思わないが、私が希望したいことは、さっきからの意見のように、これは既にいろんな施策で大学へ金が入り出している。そこへ入ったこのお金が有効に使われなければ、単に30大学を指名しただけであって、結局あまり役に立たなかったということになると非常にぐあいが悪いだろう。だから、やるからにはできるだけ有効に使っていただきたい。そうすると、今の日本の大学で欠けていることが幾つかあると思うが、人材育成機能が世界の他の大学に比べて足りないのではないか。これは学部も大学院も両方とも教育機能が非常に不十分であると思っている。だから、こういった大学はこの分野がいいというふうにもし指定されたら、これをできるだけいろんな形で人材育成に使ってほしい。研究費のほうは、どれだけ増えるかわからないが、ある程度増えていく予定であって、間接経費もできるだけつけてほしいという要望をしている。そうすると、そちらのほうはいい研究をすれば自然に入ってくる。そうすると今度は、人材育成が今まで極めて費用が不十分であった。例えば国立大学の図書館は非常に不備であるし、大学院の学生の公費とか、そういうものも非常に安かったので、何らかの形で人材育成にできるだけいくようにしていただきたい。だから、その辺でまた評価もしていただければ、少し違った意味のお金として使えるのではないだろうかと私は考えている。
   それから、質問を幾つかしたい。これはどんな予算が通るかわからないが、さっき1大学当たり1.7億円とかおっしゃったが、その順位によって差をつけるのか、それは平等に30大学に配分するのかという点。それから、専攻を選ぶのは学長なのか。だれが専攻を選ぶのか。それから、一番難しいのは評価である。これは研究の評価だけだとまだやれるかもしれないが、見てみると教育とかいろんなことも書いてあるので、そういうものをどうやって評価するのか。その3つの点をお聞きしたい。
     まず、順位により金額に差をつけるのかということであるが、私どもの構想では仮に30選ぶとして、それに順位をつけるということでは必ずしもないのではないか。むしろ自由に使えるようにということを申し上げているが、どういうふうに使うことによって伸ばしていくかという構想を聞いて、その構想に応じて必要な資金を配分するということにしたい。また、分野によって、自然科学と人文社会でそれぞれ必要な経費も差があると思う。そういうことで、いずれにしてもランキングによって金額を書いていくということでは必ずしもないということを申し上げておきたい。
   それから、だれが選ぶかという点であるが、これは資料3−1の3の選定の仕組みのところにあるように、大学として、つまり学長として、どの研究科のどの組織に応募するかということを判断いただきたいと考えている。
   それから、評価をどうやって行うか、特に教育についてどうやるか。ここが極めて悩ましいところで、その点についての示唆もいただきたいということでこの連絡会でも議論いただいているわけで、私どもの案としては、3ページにあるように、1つは客観的な評価指標、もう一つは大学の将来構想である。客観的な評価指標の中での教育についての実績という点では、例えば研究科を修了した学生が研究所あるいは社会的にどういう活躍状況にあるのか、あるいは外国での活躍状況はどうなのか。その辺をどういうデータを使ってやるかというのはこれから考えていかないといけない面はあるが、そういう指標も含めて、またこれから研究だけではなくて、社会的あるいは学術的に貢献する人材育成をどうやっていくのか、大学としてあるいは研究家としてどういう構想を持っているのか、そういう構想も聞きながら評価をしていくのかなという感じでいる。
   あと、金額であるが積算としては、1年目に5分野で各30専攻平均ということなので、1年目は5掛ける30で150。したがって、422を150で割ると平均2.8億円。ただし、これはあくまで平均であり、1億円から5億円ぐらいの範囲内で計画に沿って使えるお金というイメージでいる。
     話を戻して、いろんな重要な意見が幾つか委員から出てきたので、それを少し整理しておきたい。
   私が非常に重要だと思うのは、これはもちろん大学の一環であり、きょうは議論しない独法化の問題もあるんだけれども、要するにずうっと大学審議会というところを中心に議論してきた。そういう大学改革の一つの思想というのがあって、それは一口でいうと多様化ということだった。いろんな制度とか、政策のコンシステンシーを失ってはいけないということは常に考えなきゃいけない。いいアイデアだけぽっと出して、さあ、やろう、やろうでは、前のせっかく営々として築き上げてきたのがまたおかしくなる。これはもちろん文科省だけじゃない。ほかの日本の政策官のコンフォーミティというか、コンシステンシーが乱れている。これは今、ジャパンプログレムだと私は思う。ある経済政策と別の教育政策がほんとうの意味で、1人の個人というのは両方受けるので、個人の中で整合できるのかというと、あるいは環境政策と経済政策が非常に矛盾するんじゃないかとか、そういうことがいっぱい出ている。それを政策立案者は非常に考えなきゃいけない。
   そういう観点から今度は文科省の中の大学問題というのを考えて、多様化という話をしていた。多様化をどうやってつくるか。それは競争なんだと。競争といっても、実は経済競争というのは教育・研究を行っている大学にはなじまない。そして、ある種の公的に設計された競争空間をつくろうという議論があった。先ほどの言葉をかりれば、今回、差別化しようという一つの宣言をしたということになるんだとすれば、これはここで一種の競争空間を提供したということになる。
   この競争空間が、他の委員が指摘したように、多様化じゃなくて、逆に相似形の序列をつくることになってしまうんじゃないかという疑念がいっぱい出ている。文科省はそうじゃないんだ、自由にやってくれと言うが、その自由にやるということが表に出てこない。例えばこういうお金の使途という形でぱあっと例題が出てくるというこの発想自体、こういうものがむしろ出てこなくなるということがほんとうは大事なので、これがぱあっと浮かんでくるということは、政策立案側に大学のイメージがあるとすれば、相似形で、他の委員がおっしゃったように、同じことをやったらますますそれが巨大化したところと小さく行っているところが並ぶだけで、これは多様化ではない。
   実は多様化というのはかなりはっきり議論したが、例えば教育の面に特化する大学があってもいいし、研究に特化する大学があってもいい。そういった多様性を生むというのが実はずうっと我々大学が考えてきた一つの路線だったし、その意味で、例えば法人化も受けようかということを大学当局は決意しているんじゃないか。それは自由度が与えられるということであるから。
   そのこととトップ30というのは、政策としてほんとうに整合的なのか。その点はこの委員会として十分結論を出しておく必要がある。少なくともそれだけは出しておく必要があって、先ほどの議論もそこにみんなかかわってくる話なのかなという気がする。
     実は前回の会議で、私も今の委員の考えと共通するものを頭に置きながら質問をした。これまでの大学審議会では、多様性ということをつくるに当たって大学のいわば学問的なリーダーシップ、つまり学長の権限強化ということを強力に言ってきた。要するに大学自体のリーダーシップが強力に発揮されて、多様性を推し進めるように環境をつくるという観点から見ると、今回の場合、スクリーニングのプロセスの中で大学単位の学長のリーダーシップが発揮されるのか、あるいは学界のリーダーシップが発揮されていくことになるのか、そこがどうも不明瞭だということで私は質問申し上げた。
   今回の議論の過程の中で、だんだんと教育、人材育成というところにこの際重点があるのだということになってきたので、そうなってくると、私の先ほどの二項対立でいえば、学長のリーダーシップに重きを置くという印象を受ける。もしそうならば、それにもう少し徹底的なことを付加してもいいんじゃないだろうか。実は前回、私は半分冗談に、10大学の学長に40億円ずつ渡して、自由に好きなことをやっていただくのがいいだろうと申したが、案外冗談ではないような気もしてきた。つまり、その学長あるいはその大学でそれをどういうふうに選ぶのかというサイドの問題があるが、今、他の委員がおっしゃったように、仮にうちは教育に徹するんだということでアプライしてくるということもあり得る条件をつくれると思う。
   いずれにせよ、私はプラクティカルな人間であるので、今年400億円を文教の予算として新たに確保することは賛成である。したがって、多少今年は拙速であってもいたし方ないと思うが、それをとるに当たって少し先のことも考えておいたほうがいい。今年だけの予算ではないだろうから、とりあえずはこうするが、長期的にはもう一つ別な考え方を持つということを考えるべきだろう。
   実はこれから先に入ると細かい話になるが、スクリーニングのやり方自体を従来の科研費と同じような方法でやっていいのかどうか。仮に学界にイニシアチブを許すにしても、そこでのスクリーニングのあり方というのが問題だろうし、それから今度は学長のリーダーシップを強める方向にいく場合にも、それを選ぶ委員の中には場合によっては外国人を入れてもいい。世界の大学運営のリーダーたちに参考意見を聞くという知恵もあっていいだろうし、いずれにせよ今の状態が中途半端であることは明らかなのであるが、それを十分腹に据えた上で現実論に移ったほうがいいかと今思っている。
     先生方の意見に反対なわけではないので、賛成のところはたくさんある。今トップ30というのはシンボリックな数だとしても、世界最高水準の大学をつくろうという意気込みを文部科学大臣ないし文科省が持っておられるということで意見を申し上げたい。
   先ほど他の委員が言われたことにも関連するが、世界最高水準の大学をつくるというのは、大学だけでできることと国にやっていただくことと両方ある。先ほどの資料3−1の趣旨の(3)の@に世界に誇れる教育研究組織の確立ということで、大学の多様化ということであるから、今、研究大学を一つの例に挙げるとすると、外国の一流の研究者が教員として日本の大学に来たいという魅力をどうやって確保するか、学生が日本のそういった最高水準の大学にぜひ来て勉強したいという魅力をどう確保するかということに関して申すと、例えば外国人の研究者が日本に今来たいと必ずしも思ってないというのはお金の問題ではない。
   したがって、この予算要求はうまくやれば、一つの大きいインセンティブを与えることができるかもしれないが、これが仮にうまくいっても、世界最高水準の大学にするためには、ほかの点で、他の委員が言われたように、どうすれば世界に誇れる教育研究組織の確立ができるか。2、3、4の議論はあるが、そういうことを一緒に考えて補完、どっちが補完かわからないが、トータルのプログラムをつくって、その中で今回予算要求されたものがうまく位置づけられる必要があるのではないか。そうでないとお金がただ使われてしまって、結局、世界最高水準かどうかというのは、自分が思っていたってしようがないので、海外からの学生とか研究者がそうだと思ってくれなきゃいけない。そうするためには、キャンパスの整備も含めていろんなことがあるわけで、そこを総合的なプランをつくっていただいて、その中で今の422億円の位置づけをしていただくことが必要ではないか。
     今、問題提起されたことについて、私は非常に短絡的に考えていて、まさに多様化で研究大学と教育大学を区別したほうがいいという意見をいろんなところで言っているが、このトップ30は研究大学である。それ以外が教育大学で、グレーゾーンがある。これは非常にはっきりしていると思う。世界水準での大学で、研究をやってない大学はないと思う。カレッジレベルではすごくいい人のがあるが、これは世界水準とはなかなか言わない。だから、これはここのトップ30は研究大学を定義するものであって、したがって博士課程を持つ専攻を選ぶというのには専攻である。その中で教育という言葉が出てきたので、非常に紛らわしくなる。これは研究を通じての研究であって、ターゲットは研究者を養成するものであることが第一義に来ているように思う。
   ただ、それについては私は若干意見があって、博士課程の学生が企業で働くということがアメリカでは普通であるし、その人たちが世界を引っ張っている。それこそMIT、スタンフォードのPHDを持っているのが経営者になっているので、もしそうだとすれば、ここの教育の定義をもっときちっとやらないと非常にミスリーディングになるのではないか。例えばファカルティデベロップメントの実施状況と。これは学部レベルの話であって、これは入れるべきではないし、学生による授業評価も学部レベルの話であって、専攻にこんなのを持ち込んだらとんでもないことになってしまうので、ここはどういう大学が世界水準かというのをはっきりさせた上で養成を考えていただきたい。
     今、先生がおっしゃった、30より上は研究大学で、あとは教育大学だという話なら非常にわかりいい。だけど、世界のトップの大学をつくると言っている。30選ぶと日本の30番目を争うことになる。日本の30番目を争うと、これは世界のトップになるのか。
   つまり幾つ選ぶかというのは競争のレベルを決めることになる。世界のトップを目指すというなら、先ほど科研費がトップ10で7割占めて、そのトップ10の中で争ってもらって、3つぐらいに絞られるというのが世界の水準になるということである。言っていることとやっていることが全然違う。
     今、完全に意見が分かれたような気がする。教育を大事にするということを今回の制度で考えていく。これはなぜそういう意見が出てきたかというと、実は差別化するぞという宣言はしなかったけれども、科研費という非常に厳しい評価制度があった結果、結局、10大学ぐらいに集約していく。これは科研費において評価が効いていたからであり、つまり研究費というのがかなり特定大学に集中しているという現実が、結果的に差別化はしないぞ、しないぞと言いながら差別化できた。
   だから、いわゆるそういうアプリケーションを出して選ぶということをやれば、これが評価なので、私は実は評価というのはそれしかないと思っている。抽象的な評価なんて幾らしてもだめである。これは余談であるが、要するにそういうお金のついた評価をすれば、必ずそれは結果が出てしまう。それについて今度また出してきたら、これを科研費と同じようにしたらば、それは結局、同じことが起こって、ただ、今の状況の差別が拡大するだけである。それでは意味がない。我々が考えていた多様化ということについて一歩も出てこない。こういう問題がある。
   だから、そこのところは非常にプラクティカルな問題になってくるが、この選定を何でやるのかということをイメージしないと、それが結局、日本の大学をどうするかということにつながっていく。それは何かというと、多様化をどうデザインするかということのイメージがまずあって、その結果、例えば科研費とは違う、科研費を補完するようないわゆる選択基準をつくることによって、科研費では実現できなかったより深い多様化、我々が望んでいた多様化が実現できるか。こういう問題設定が今ここで出てきたような気がする。これについて、先ほどからよくわからないというか、文部科学省側からそれはこれから皆さんで考えてくれと責任回避をしたような気もするが、事実それは大学側の責任でもある、大学がみずからそういうものを選んでいくとすれば。そういったことが少なくとも現時点でははっきりしてないので、むしろきょうの時点ではその辺をきちっとデザインするということをお願いして、次回に一体どっちの方向でやるのか、その多様化はどういう多様化を生むのか。今までの科研費がつくってきた多様化について別の仕組みを導入するので、それが新しい多様化を生むのにどういうふうに有効なのかという、このシナリオをきちっとつくる。その上で先ほど委員から問題提起されたことへの議論に入っていくんじゃないかと思う。
   今のは質的な分布の話であったが、今度はこのやり方で量的に世界の水準というのが幾つぐらい出てくるのかという話はまた別途やらなきゃいけないし、お金を出しただけではだめなので、例えば建物についても、現在、国立大学だけについていえば、研究者はたくさん出るが、施設費がとれないとか、そういう仕組みを改めていかなければ、まさにレベルが上がらないという問題が背後にある。
   だから、そういう意味ではまた同じように、さっきの話になるんだけれども、制度の間のコンシステンシーをつくるとすれば、そうやっていろんな差別化を容認しながらいろんな大学をつくるとすれば、例えば施設に対する手当てという、今度は建物の建設に関する施策もきちっとコンシステントなことをやらなきゃいけないということになる。そうでないとまた矛盾になってくる。だから、かけ声倒れという指摘が、非常に厳しい状況ではね返ってきてしまうような気がする。
     私が人材育成というのを申し上げたのは、学部教育の意味じゃなくて、大学院における人材育成という意味で申し上げたのである。これはあくまでも大学院の博士課程で選定するので、これは学部の教育ではなく、結局、研究大学をつくるというアナウンスメントになる。
   現在、日本に幾つ研究大学があるかというのはよくわからないが、3年ほど前にアメリカのカーネギー分類で調べた。アメリカにはそのとき研究大学が125あったが、同じ分類を日本に持ち込むのはもちろん非常に問題があるが、仮に同じ分類を持ち込んでみると17しかなかった。だから、30という数を大学で選ぶとしたら、研究大学といえないのが入ってくる可能性も随分ある。ただ、専攻単位で選ぶと一部の大学にどんどん偏るかもしれないので、そういう意味ではかなり違ってくるんじゃないかという気がする。
   したがって、今まで大学の多様化ということが叫ばれながら、それが現実には起こらない。すべての大学がミニ東大になろうとするという傾向が日本では非常に強かったので、それをある程度変えていく一つのモチベーションになるという意味では、意味があるのではないだろうかという気がする。
   しかし、さっきも申し上げたように、既にかなりの程度に多様化は現実に起こっている。そうすると、こういったお金の使い方であるが、それについては先ほど他の委員がおっしゃったように、これはかなり学長のリーダーシップにかけるということにしないと、既にかなりお金の入っているところにわずかに、どれだけ来るかわからないが、文部科学省の力で満額をとるかもしれないけれども、なかなか難しいだろう。そうすると、一つの大学にいくのは比較的わずかな金になるので、むしろ学長が思い切ってこれを使って、新しい分野を日本で開いていくとか、あるいはその大学の得意な分野をもっと伸ばしていく。そういうふうに使わないと、国際シンポジウムをやったりなんかしているうちに消えてしまうのではあんまり意味がないんじゃないか。
   総合科学技術会議で、さっき他の委員がおっしゃったように、日本の大学が新しい分野になかなか展開できず、情報にしろバイオにしろ随分おくれてしまったということがあるので、それを何とか変えていきたいというのでやったが、これは学部長のリーダーシップにかけたが、なかなかいいアイデアが出てこない。だから、そういう意味で、日本の大学が自分で自分の大学をどうしようかという構想する力が非常に衰えているんじゃないかという心配をした。しかし、こういうことでお金が入っても、学長のリーダーシップにかけないとお金は生きないだろうと思う。
     そうすると、こういうふうに解釈することになるのか。最初に他の委員の疑問というのがあって、@からCはなぜ実現しなかったのかという反省のもとにこういう制度が出てきたという、そのシナリオをきちっとわかるようにしてくれと。これは特に大学の外にもわかるようにしろということである。
   そうすると、既に話が出たように、今までの科研費という一つのコンペティティブなものがあって、それによってある種の多様化はできた。しかし、それは非常に不十分だった。それはなぜかというと、あくまで科研費というのは研究者レベルであって、大学のマネージメントの外にあった。それでは今度の費用で、先の質問に対して回答ができるとすれば、このお金は学長あるいは学部長にいくからなんだと、非常に単純にいえば、そういう話になっているのか。
     おっしゃるとおり、対象となる組織を研究科の専攻というふうに申し上げているが、これは結局、学問分野ごとに、この分野ではこの大学、この分野ではこの大学というイメージを想定いただければどうか。アメリカなり、あるいは日本でもいろんな民間の評価も出ている。それはもちろん大学の総合評価というコーナーもあるが、ある分野ではこの大学という評価をやっている例が多いかと思う。それをそういうことに結びつけていく手段というか、方法として、研究科の専攻という組織に着目しているというふうに理解いただければと思う。
     どうも今の説明だとますます混乱するような気がする。つまり研究分野ごとにこういう分類表をつくると、まず予算的に分野ごとの大ざっぱな枠組みを立てなければならないことになる。そうすると、それぞれが多少の大小、重点の置き方はあるだろうが、固定された土俵の中でむしり合いをやるというだけのことになってしまう。大胆に分野を超えるとか、あるいは現在、花形の分野ではないが、非常に重要な基礎的な分野もあるだろう。早い話が、バイオといったら今は先端、花形であるが、生態学はほっといてもいいのかという議論も必ず出てくる。こういう議論をやり出すと面白いが、おそらく1年2年議論だけにかかってしまう。だから、思い切って学長のリーダーシップをゆだねて、この分類表にかかわらず自大学の従来の実績及び人材配置から見て、これだというものを出していただく。
   昔、竹下内閣のときに、各自治体に1億円ずつばらまきをやった。大変評判が悪かったが、私は思想はよかったと思う。というのは、政策をいわば受ける側にゆだねて、それぞれの自発性で頑張る。中には金の塊を買ってひんしゅくを買った例もあるが、とにかく初めて中央省庁が予算の使い道のはしの上げおろしまで決めなかったという点では、あれはおもしろい構想だった。
   今回は、例えば学長に政策コンクールをお願いする。つまり、うちの大学はかくかくしかじかの青写真を持って、この専攻を中心に大いに頑張るんだというのを出していただいて、それをスクリーンにかけて、30だろうが、17だろうが、選べばいい。そうすると、今の分野別の問題、大変面倒な学問論というのを避けることができる。学長が出される以上はフィージビリティを十分考えて出すだろうから、結果としてはすぐに実りが出てくるという気がする。
     何で世界の最高水準と呼べるような日本の大学が1つでも2つでもどんと屹立するような形で出ないのかという質問があったが、振り返ってみると、去年の12月まで大学審議会でずっと続けてきた議論というのは、先ほどの話のとおりであるが、大きく分けると、1つは日本の文教予算が海外の大学に比べて十分についていないということと、それから政府の文教予算だけではなくて、国公私立を含めてどの大学にせよ、世界の民間資金が大学についてこない。国内は最もひどくて、お金を出そうという国内の民間団体が極めて少ないという、貧困状態であるということがまず背景にあった。それを改善するために大学審議会もいろんなことを提言してきた。
   2番目に大きな理由は、これは先ほど来、文部科学省にこの次までにという宿題として出たが、その宿題に答えるのは難しいと思うのは、さんざん議論していくと必ず突き当たる問題が、日本の学者集団が学会、あるいは大学の教授会、どこを見てもそのあり方について、世界的な標準から見ると随分おくれた認識を持っている。明治以来の考え方がずうっと続いている。しかも、それが明治以来の非常におくれた組織論であるにもかかわらず、名前だけは民主主義と。要するに学部デモクラシーという名前がついているがゆえに、どうにも動きがとれないというところから来ているところに、いつも大学審議会の議論は行き着いていたと思う。
   そこをどう突破していくかということから出てきた方法論が4つぐらいあって、1つが学長の権限強化、あるいは学部長や研究科委員長の権限強化ということだった。
   2番目は、学生の授業評価であるとか、あるいは第三者評価であるという評価の導入だった。これは先ほど来学部の評価の話と大学院の評価の話が出ているが、今こそ大学院の学生による大学院の評価というのも必要な時期に来たんじゃないかと思っているぐらいである。大学院というのはほんとうに今二極分化しており、丁寧にいわゆる大学院らしい指導が行われる大学院と、君、3年間あるから、3年の間に論文を書いておきたまえ、あとは何もしない、籍だけ置いているという大学院も非常に多いので、大学院こそ評価が必要だと思う。
   3番目は科研費。従来は科研費が非常にいい効果を持っていて、すぐれた研究を選び出していく効果を発揮した。これからは新しい総合科学技術会議も、また新しい分野を発掘していく力を発揮すると思う。だから、それが一つの大きな力を持っていたが、それだけでは大学自身の新しい研究分野の開拓であるとか、従来から行われている研究分野におけるみずからのアップグレードを図る力を十分に発揮し得ない。だから、それを補うものが、つまり科研費が総合科学技術会議の基本計画で執行される、年間4兆円ぐらいになるだろうか、巨額の予算を補うものが必要になってきている。
   4番目は世界の評価である。世界が日本の大学の特定の研究分野や特定の研究者を評価して、例えば資金を投下するとか、予算を投下してくれるとか、仲間に入れてくれるとか、あるいは『ネイチャー』とか『サイエンス』にどんどんPRしてくれるとか、そういうようなことについて日本の学者集団があまりにものんき過ぎたということで、そこにどう刺激を与えるかということなんじゃないか。
   そういう観点に立つと、422億円というのはあまりにも小さな金額ではあるが、使い方一つで新しい刺激を与える効果としては、先ほど来いろいろ議論があるように上手に使えるのではないか。今、挙げた4つの中の1番目の学長の権限強化の道具としても、テコとしても使えるし、それから科研費等を補うテコとしても使えるし、世界の評価を得るためのいろんなアクションの資金としても使えるんじゃないか。先ほど事務方がおっしゃったように、それに付随して、別の予算として施設費とか、そういうものをつけ加えていくということが行われれば効果は上がるだろう。それが私の意見である。
   ただ、1つ質問があるのは、きょう今我々が議論の素材としている資料3−1という資料そのものについての扱いであるが、これはだれが書いて、だれに見せる紙なのか。これはきょうここで開かれている連絡会、連絡会というのは要するに私が会長をさせていただいている中央教育審議会と科学技術・学術審議会の連絡会がこの紙をつくって、これを内閣府あるいは官邸にこれを提出する。今、革命評議会みたいに次々とつくられている、たくさんの評議会のどれかが取り上げてくれて、本気でこれを財務省にやれというふうに言ってくれる道行になっているのかどうなのか。何にもは著者名が書いてない紙を議論して、私たちは空振りしないのかという心配がある。
     これは私ども事務方としては、冒頭に申し上げたように、概算要求をしないといけないので、その事務的なものとしてつくった。同時に、あくまでたたき台ということで、この会議で議論いただくために前回、そしてきょうお示ししている。したがって、意見を聞きながら常に修正しつつ、内閣府などにも説明をしていきながら、かつ実際に実施するときには意見を踏まえて、またすっかり違う形になるかもしれないという資料である。大変あいまいな説明で恐縮である。
     僕も前にも申し上げているが、大学の種別化ということが必要だと。大学院に重点を置いて研究型大学、世界と競争する。もう一つ大事なのは、幅広い教養・文化を身につけた人を育てるカレッジというのも大事だと思う。トップ30が全部そういう研究型大学を支援するということに、この選考の形から見るとそうなる。そうしたら、うちの大学もそっちでなかったら、カレッジで、教養に重点を置いた4年制の大学であったら、大学と認められないのかということになってくるのではないか。だから、両方とも視野にする仕組み。しかし、それは同じ土俵でするわけではなしに、30のうちの20は研究型大学、10はカレッジという形で、お金の額は違うにしても、そういうふうな形になるのではないか。そうすると、種別化は進んでいく。そうでなかったら、みんな同じようなミニ東京大学になっていこう、30の中へ入っていこうというふうになるのではないか。
   それで、研究型大学を選ぶのだったら、ここの選び方でやるんだったら、何もこんな難しいことをせんでも、科学研究費をどれだけとっているかというリストの上から順番に選んだら、それで大体最後の数校が違うぐらいになるので、こんな手間をかける必要はない。それでは意味がない。だから、僕は先ほど言われたように、学長に出させて、ヒアリングでもして、顔を見て選ぶというのも一つの方法ではないか。そうすると、大学全体をどこへ持っていこうとしているのかということで、ユニークなものとしての意味が出てくるかもわからない。特に教養カレッジを選ぶような場合には、そういうことが必要ではないか。
     皆さんの意見を聞いていると、2つに大体分かれてくるような感じがする。
   資料3−1というのは予算のために急遽つくった資料だという話であるが、これはこれとして、ほんとうに世界最高水準の大学、研究機関をつくるということであれば、とりあえずは学長に任すということが大事だと思う。先ほど他の委員が言われたように、学長に計画書を出させて、そこに予算をつける。というのは、審査委員会をこれからつくるということであるし、またこの評価制度というのが全く今確立されてない。どういうふうに評価をして選考するのかということもまだわからない。そういう中で分野を選定するというのは至難のわざだろうと思う。
   だから、422億円を、来年度は10大学に40億円ずつ渡し、好きにやれと言ったほうが効果が上がるのではないか。先ほどの話のように、もし失敗したらお金を返せという、そういう状況もある程度はつけないと社会的に責任を果たすことにならないと思う。やはりタックスペイヤーに対する責任というのがある。だから、それくらい今大学の教員というのは責任を持たなきゃならないと思う。
   今、他の委員が言われたように、何といっても教員の意識改革ができてないということである。その中でインパクトを与えるとすれば、そのくらいのことまでやっていかないと効果は上がらない。科研費の上積み配分みたいな感じになったのでは何にも効果はないと思う。せっかく科研費でトップ10、70%の予算配分をされているということであるから、ある程度の研究分野での評価はでき上がっているだろうと思う。だから、その中で学長のリーダーシップを発揮できるような体制をここでとったほうがいいんじゃないか。一つの意見として申した。
     違った視点から1つ申し上げたい。
   これから政策評価が行われる。これも新しい政策だとすると、いずれ政策評価を受けなくちゃいけない。そうすると、その評価の視点というか、何を評価してもらうのかというのをあらかじめ考えて政策をやらないといけないと思う。今までの議論を聞いていると、評価すべき軸は、あっちのことをおっしゃる方もいるし、こっちのことをおっしゃっている方もいるが、この政策で何を実現しようとしているのか。トップ30で国際競争力があって、世界のトップという話だとすると、多分この政策手段は間違えていると思う。合ってないだろうと思う。何らかのベースをつくるようなスタイルになって、つまり、どういう視点から評価をするのかということを視点に入れて議論をするというのも一つの手のような気がする。
     これまでの議論で一つだけはっきりしている、かなりコンセンサスに近いものは、改めて大学を差別化するということをはっきり言うということである。これまであらゆるこういう文部科学省関係の会議で多様化と言って、内心じくじたるものがあって、多様化というのはいろんなふうに使えるので、もちろん多様化の根源を否定はしないが、この際はっきり差別化だと言ってしまうということは一つのステップだと思う。そこまでここの会議で決めて、その方法をどうするんだというふうに議論していかないと。またもとへ戻ってしまったのでは話にならない。
   これは私が申し上げることではなくて、座長がおっしゃることだと思うが、差別化はしなくてはならない。それから、学長であるかどうかは別として、少なくとも大学のリーダーシップを強めなければならない。この2点まではおそらく結論にしてもいいんじゃないか。その上で、今、基礎的な提案が出ている線に従ってどこまで修正するかということじゃないかと思う。
     反対。差別化というのはまだ承認されてないと思う。やはり多様化だと。私は多様化にこだわりたい。結果として差別するのはいいが、ポリシーとして差別化を出す、例えばこれも先ほど指摘があったが、もちろん研究大学として評価される軸も要るけれども、例えばカレッジを評価する仕組みも並行して入れるべきじゃないかという提案がある。それは差別化という言葉から来る序列化とは違う概念が私は非常に強くあって、私はむしろそちらを前面に出すほうが、今までの大学審議会が営々としてきた議論とコンシステントになっていると思っている。
   ただ、2番目のことは大賛成で、学長に権限を与えようというのはほとんど一致している意見であるし、これはまた大学審議会で何回も何回も出て、しかし実際はできないんだという無力感が学長の間にあった。しかし、それはほんとうにやらなきゃいかんということはかなり確実である。先ほどの発言に私は大賛成なのは、要するに新しい提案だと私は提案していたわけで、分野別というのは要らない。これこそ学長が選ぶ。
   枠をはめないというところまで踏み込んで提案するというのはむしろ大賛成で、今までの営々と築き上げてきた議論とそちらはコンシステントと。差別化はだめだと思うが、いかがか。
     今の意見に私は全部反対である。差別化という言葉が悪いなら別の言葉でもいいが、研究大学を定義することをまずやってほしい。次に、教育大学に対するインセンティブは教養教育、専門教育で別個にやる必要があると思う。だから、第一歩として、世界に冠たる大学イコール研究大学だと思う。それを明確化することは、世の中に対するメッセージというのは非常に大事である。それが第1点。
   それから、学長に与えるのは私は反対である。学長経費というのが今幾らかついていると思うが、あれがついたときに何も起こらず、大学は決してよくなってない。だから、非常に重要なのは、アメリカ的に分野ごとにランキングする、分野ごとのランキングが一番大事である。それによって多様化される。大学のリソースをどの分野に投入するかというのは学長が後でやればいいが、まずは分野ごとのランキングが第一歩だと私は思っている。専攻がいいから、分野ごとに学長にお金を渡すというのは私は反対で、専攻にあげるべきである。でも、ピンはねは結構だと思うが。
     私はそれは非常に反対。それはどの専攻に出すかを学長が判断しなきゃいけない。それこそ大学のマネージメントだと思う。そこが一番肝要なところで、横から選考に入ってきてしまうことで学長は要らなくなってしまう。そうして大学がコンシステントな組織でなくなるというところに、実は先ほど来切々と訴えられている委員の言葉があるわけで、これこそやっぱり大学の問題だというのは非常に実感している。学長の権限というのはお金を与えるということではなくて、学長が決定するという学長のデザインというものが生きなければ大学は生きない。
     今おっしゃっている専攻別、分野別ということをもし議論し始めると、保証しておくが、3年はかかる。おそらく結論は出ない。私は文科系の人間であるから、そういう議論をやらせたら得意中の得意なので幾らでもやる。だから、これはあくまで便宜的なもので、便宜的な形なら従来の科研費でやっていることである。だから、科研費というものの従来のやり方が、それはそれでもいいけれども、視点を変えようというなら、方法も変えなければどうしようもないだろう。学長のイニシアチブ、1億円分けてみたけれども、どうにもならなかったという話と、今回の思想を改めて、つまり学部編制や専攻編制も権限のうちに入れた40億円を学長に渡すのとは全然次元が違うと私は思っている。
     1つ確認をさせていただきたい。申請の仕組みというところで、学長が申請するという仕組みをどうもここでは考えているということになると、例えば生命科学でも何でも結構であるが、これはいつ申請、1つということなのか。そこはどういう制度のアイデアなのか。例えば出す数は限られているということになれば、それはおそらく場合によっては、他の大学もそうかもしれないけれども、ここは少なくともトップ30には当然入るんだと。ところが、おまえのところからは数はここだけ限れと言われれば、これは遠慮せざるを得ない。この問題をどうするのかというと、エクセレンシーとの関係で矛盾が起こる。そこのところはどういうふうに例えば考えるのか。それは切り捨てて構わないという問題であると、ここの思想というのはそれでもない。つまり、ほんとうにエクセレントな専攻をサポートするということでもないということに、場合によったらなり得るだろうと。
     ある大学が10分野すべてに名乗りを上げるということは、もちろんあっていいと考えている。
     分野の中の専攻は1つでいいのか。
     1つの分野で幾つの専攻までということは、これまた無責任で恐縮であるが、意見をいただきながら考えてみたい。というのは、先ほどのような悩みを持っている大学もあるかもわからないし、一方で我が大学はこの分野のみという大学もあるかもわからない。それで、10分野のうちの1つの分野の中で、仮にトップ10の大学だけが多数を占めてしまうということになった場合に、それはいわば固定化ではないか、流動性に欠けるのではないか、あるいは意外なところが入ってきて、国公私立を通じた競い合いが行われていないのではないかということにもなりはしないかという心配もあり、そこは意見をいただきながら考えていきたい。
     それは先ほども指摘されたように、結局、数が多くなるのか小さくなるのかという問題などともいろいろ絡むものであるから、我々としてはいろんな意味で、やたらに出すということは論外であるとしても、それはどういう制度設計になるかによって随分制度の効果が違ってくるという点だけ確認をさせていただく。
     話を聞いていて私は非常に不満である。それはここでしか通用しない議論をされている。国民に対してこの施策で何を約束するのかをはっきりさせてほしい。大学にお金が出るから、それの使い道をどうしようかという議論じゃなくて、最初から申し上げているとおり、何を国民に対して約束して、大学をどうするという意向があるのか。それで、ここから出した結果、それがどういうふうになったのかということが評価できるかということが大事である。
   具体的な形で何を実現していくか。資料3−1の1番目に書いてある趣旨はあまりに抽象的で、こんなものは約束でも何でもない。もっと具体的に何を実現するのかをきちんと約束するべきだし、それを約束するのにどういう手段が最もいいかということを考える。もちろん首相にどなたかが怒られて、急いでトップ30というのをつくったらしいから、そういう意味ではちょっと泥縄であるということはやむを得ない側面があるのかという気もするが、少なくとも何を国民に対して約束するのかだけをはっきりしてから議論をしたい。
     それは私が約束する責任も何もないんだけれども、これはかなりはっきしていると思う。それは先ほどから私は強調しているんだけれども、決してこれはぽっと出てきたものじゃなくて、大学審議会で営々として議論してきた多様化問題にのっている。何が多様化かというと、それは教育を受ける者の多様化というのに呼応して、日本の大学も多様化している。多様化というのは、決してばらばらがいいんだということを言っているのではない。それは昔流の日本が一丸となって経済力を上げよう、あるいは明治時代から一丸となって一流国になろうというような時代から、いわゆる子供たちの多様化というのが非常に進んできた。これは当然ある程度社会が成熟すればそうなってくる。それに呼応した大学協議会というのは何なのかという議論をずっとやって、多様化という概念に到達している。
     多様化という話でそう動いてきたことはよくわかる。これは大学政策の中の一部的な政策である。多様化の中の何を実現するのかということをはっきりさせてくれと申し上げている。
     そこが分かれた。だから、研究における差別化なのか、教育を含める、カレッジも含めるという、そういったことができるような装置なのかというのがまだ理解が違う。だから、そこは確かに指摘のとおり、これから詰めなきゃいけない。それで、宿題を出したわけであるが、こういう制度によって何ができるようになるのか。
     この政策は一体何のためのものなのかということであるが、それは先ほどから申し上げているように、日本の大学を世界に通ずる大学に引き上げたい、日本の大学に頑張ってほしいと。それを我々としては支援したいというのが一つ大きなねらいである。
   そのために何をやるのかということであるが、実はこのトップ30以外に、国立大学については、今、国立大学法人を目指した法人格を与えることで、さらに研究や教育を活発化させるための施策も行っているし、委員がおっしゃったように、今まで行ってきた多くの大学改革のための施策の一環で、これですべてということではもちろんない。もちろん14年度の予算を今お願いしているが、これはまだ初年度であるので金額も少ないし、全体的に厳しいとも考えられる。
   しかし、いずれにしても試行的に実施することも含みつつ、そのあり方について先生方のまさにざっくばらんな議論をいただいているが、それらを踏まえた上で将来的にどういう形に持っていくか、その第1年目の議論であるので、確かに私どもとしてもあまりはっきりした原案を示してないし、いろいろ批判もいただいているが、皆様方の意見をいただきながら、最もいい形で日本の大学をほんとうに世界に通じる大学にしたいというのがねらいである。
     私も、目的ははっきりしていると思う。しかも、それは従来営々と積み上げてきた大学審議会の延長線上で考えたのであって、何も小泉さんが気まぐれを起こしたのに飛びついた唐突な案ではないと思う。簡単にいえば、今まで私たちは多様化といってきたが、その中には横の多様化と縦の多様化が一緒になっていた。横の多様化をなおざりにせよとは私は申していない。現に私が奉職している現在の大学は横の多様化で生きている。しかし、1人の研究者、学者としての観点から見れば、縦の多様化が必要であることは明らかなので、それを言葉として差別化と呼ぶかどうかは別問題として、今そこに私たちは一歩来ている。
   もう一つ、この思想自体も既にセンター・オブ・エクセレンシーという奇妙な英語で、従来、文部科学省がおっしゃってきた思想の延長線にあるわけで、これも決して唐突ではない。
   もう一つ、この際、言葉としてはっきりしておくのは、今、日本の国民に対して教育を与える、あるいは知的能力の向上を与えるということ以外に、これだけの水準に達した、あるいは経済的な基盤を持った日本は世界に貢献するという義務がある。研究を通じても世界に貢献するということを、わかっていることであるが、この際言葉に出して言えば、これの金はあって必要だし、非常に戦略的に重点的に使うべきだろうと思っている。
     このプログラムの目的は非常にはっきりしているという点は、全くそのとおりだと思う。
   その目的を遂行するというか、この事業を遂行するプログラムの骨子が資料3−1に書かれていると考えているが、3ページのところに評価の視点ということが書かれていて、これはおそらく前後関係からすると、選定をする際の評価の視点ということだろうと思うが、こういった事柄の目的がきちんと達成されたかどうかという事後評価というか、説明責任というか、それもあわせて非常に重要なわけで、ほとんど同じ視点になるのかもしれないが、こういったものは事後評価の視点でもあり、きちんとした事後評価をするということを最初から明確にしておくべきだろうと思う。科研費にしても事前の審査はきちんと行われているが、事後評価というのは必ずしもきちんと行われているとは言えないのではないか。つまり422億円使ってどれだけの成果が上げられたのか、どこの大学のどの専攻はどういう成果が上がったか、どこは上がらなかったかということをきちんと評価し、説明をするということをあらかじめ明確にこういうところに記しておくほうがよろしいのではないかと思う。
   それから、ついでに細かいことであるが、評価のところで、先ほど例えば学生による授業評価なんていうのは、学部の話だから要らないという指摘もあったが、授業評価というとそうかもしれないが、例えばその専攻に在籍する、あるいは在籍した者からも研究指導体制がどうであったかというような意味であれば、それは評価の対象になり得ることだと思うので、科研費とは違う視点という意味で、ここに書かれていることが必ずしも適当かどうかは検討の余地があると思うが、人材育成という立場からの評価の軸はぜひとも入れておくべきだろうと思う。
   資料の確認をさせていただくが、きょう用意された資料3−3の分野別専攻数というこの数で、これはどういう数なのか不思議な感じもするが、数学、物理学系の公立のところに一番小さい数字3が並んでいる。3というのはドクターコースの専攻で数えると、公立の数学、物理学系専攻というのは3ではないはずである。つまり数学専攻と物理学専攻というのは別だというふうに数えるのであれば、3ということではないろうし、研究科の数というふうに数えれば、また違ってくるので、この資料は何を並べた数字であるのかを、明確にしておいていただければと思う。
     これは指摘どおり、研究科に置かれる専攻、これは組織であるので数は確定している。それを数えたつもりである。ただ、3というのが正しいのかどうか、それは確認をさせていただきたい。
     科研費の話が出たので、ちょっとだけ説明させていただくと、科研費もプロジェクト型と、そうじゃない基盤的な個人にいくようなものと2とおり大きく分けてある。大きなプロジェクト型については、事前、中間、事後と、しっかりと評価を時間をかけてやっている。個別のような基盤研究費については数も多いし、額もそれほど多くないということで、事前はしっかりやっているが、事後については論文で発表するとか、あるいは次の申請のときにそれを変えてもらって、チェックをするというふうに可能な範囲でやっている。さらに、またこれは総合科学技術会議からも意見をいただきながら、必要な点があれば改善をしたいと思っているが、一応我々としてもやっておるという考えでいる。
     今、先生から指摘のあった評価問題は、科研費については今の事務局の説明のとおりであるが、この問題についてはだれが評価されるのかということでまだ書けないと思う。この費用によって大学自身を変えたのが学長であるならば学長が評価される。だめだったらクビということになるだろうし、そうでなければ専攻が評価されるのかもしれない。それは全く違うと思う。だから、それはまさにこの制度をどうつくるのかに依存して、結果的に被評価者が決まってくるという構造のような気がする。それは非常に大事な点である。いつも言っているが、要するに評価の執行の権限を持つ者と評価を受ける者が同じ人間でなければ絶対にいけないんだけれども、我が国の組織はみんなそれがずれている。だから、それは非常におかしい。そのことがまたジャパンプログレムと、非常に大きな問題と言っているが、そういったこともこういう制度を次々とつくっていく以上は考えなきゃいけない。
     先ほど指摘されたポイントというのは、ここで通じないというのと社会がどう見るかというあの表現を違う表現にすると、これが今、日本の中で大学を改革しようというさまざまな動きの中で、タックスペイヤー、国民にどういうアナウンスメント効果、それは内実がどうであれ、こういう動きがある、さすがだねとか、あるいは変わっていくんだねという、そのアナウンスメント効果はどういうふうに出ていくんだろうと考えたときに、このタイトルは30という数にはこだわらないとおっしゃったけれども、それがまさに他の委員が指摘したみんな、つまり人材という言葉を使われていたけれども、戦後の日本の高度経済成長を経てずうっとやってきたというのは、国民という人員をつつがなく津々浦々、平均値で、まあ、ちょっとという中でいろんな形で人員を育てよう、一丸となってという座長の話があったが、これからはそれの舵を切りかえて、1人1人の子供たち、次の世代を担っていく人材を育成するような形をもっとブラッシュアップして、強化していこうということを鮮明に出す中で、国際的に通用するとか、世界のトップの水準という形で、もし30という数にこだわらないとすれば、大学づくりプログラム、個々人、トップ10でもいい、トップ30でもいい。そのプログラムの名前自体が、差別化して、すげえやつをつくろうぜというふうになったんだなというアナウンスメント効果だと思う。それが先ほど御指摘になりたかったことだと思うが、それをやるんだったら、何年かたったときに、さすがだね、やっぱりこういう大学ができたんだよね、あのとき舵とりしたからということで、ここで決めることが政策評価を受ける。
   まず、外側からはそういう形で、トップ3であれ、10であれ、30であれ、今までになかった大学のマネージメントということが始まったんだという具体的なミッションとそれに向けてのプログラムが提示されなければ、それが科研費であろうと何であろうと、タックスペイヤーは詳しい中身はわからないので、またみんなそれぞれちょこっとお金をもらったんだねという、それしかない。
   だから、先ほど目的がそういうことというのとお金がおりるかどうかという話であるが、今の議論のままだと、私は財政審でも委員をさせていただいているが、具体的に効果が上がるのかというクエスチョンマークが、多分お金を考える連中のクライテリアにはそれでしか映らないような気がする。だから、これはお金というものも、概算要求、いろんなケツカチの問題、デートの問題、時間的な制約があると思うが、それはここに置いといて、本当に世界最高水準の大学ってどういう大学なのと。
   先ほど別の委員からは、各研究の学部ごと、あるいは単元ごとだったらいっぱいあると平気な顔をしておっしゃったけれども、一般の国民からしてみると、その部分も届いてきてないというか、見えてこない。それを、横の多様性、コンシステンシーの話をなさったが、今まで営々と時間をかけて大学の多様化を背中を押しながらやってきて、という中にこれは入っているんだというところから議論をせずに、その多様化でやってきたら、横の多様化をいろんな形で差し上げてきた、フリーハンドを増やしてきたということであれば、今回の新しさの多様化というのは周りからいろいろ言われて、おまえのところだけ持っていくなよ、おれのところへもよこせみたいな激しいやり取りがあるぐらいな差異が出てくるような采配をしない限りだめだと思う。
   だから、先ほどのように世界に通用するのは幾つかあると言うんだったら、その部分をアナウンスメント効果として国民に出す、それが研究大学であるとすれば。もう一方で言われている技術立国だったのに技術に自信がないとか、今まで大学は人員を育成してきて、それが経済界とミスマッチだった。経済界という言葉を使うと軋轢があるかもしれないが、世界の動きとミスマッチだった。これをシンクロさせて、しかもリーダーシップをとる大学をつくるというのは、相当な決意を持って臨まないとできないことだと思う。
   だから、それがどうも私のように大学のマネージメントに携わったことがない者から見ると、よっぽど外にアナウンスメント効果として、実を上げて、新聞レベルでは30校つくるんだ、えっというのが正直なリアクションだったと思う。30校つくるよりも、3校なり何なり。それは日本にケンブリッジ大学を持ってくるとか、MITがいいかどうかはわからないが、こういう大学型になるスキームとして、マネージメントというのはお金の使い方ではなくて、ミッションをプログラムとして書き上げることであるので、そこをやる大学を応援するために422億円あるいは400億円使おうとか、もっと恐れずにやらないと、これは政策評価として評価がもらえないような気がする。
     現場の大学に対して批判を含めておっしゃったと思うので申し上げると、今、日本の大学に、世界的に見て非常にすぐれた実績を上げている研究者はたくさんいると思う。その数は十分だとは言えないし、まだ足らないとも思っているが、これはものすごくたくさんある。
   その一つの物差しが先ほど来何回も出ている科研費で、科研費も充実してきている。問題はありますので、これからもっといろんな改善をしていく必要はもちろんある。ところが、大学というのは本来教育をするところで、教育とか、大学がいろんなことをやっていく組織力とか、学生の生活とか、そういうこととは科研費は結びついてない。研究という面で科研費と連動して、非常に高い水準の教授がたくさん出てきている。みんながそうだとは言わないが。それに対して今わかりやすい例としては、教育であるとか、組織力であるとか、キャンパス整備とか、あるいはさまざまな学生、研究者の居住環境も含めてそういうことを整備していって、あるいは教育としてどういう資格を取れるのかとか、国際的に通用した資格を取れる、そういうことも含めた整備を一緒にやらないと、大学というのは本来教育機関であるので、研究だけでは世界最高水準にはならない。
   だから、私はそこをどうやって補完していくかという一つのインセンティブを、このプログラムで与えることができるようにしなきゃいかんだろうと思うが、それだけではなくて、もっと総合的にいろいろ考えていかないといけないということを現場として申し上げる。
     結局きょうは縦か横かという合意は得られなかったような気がする。
   もう一言。要するにこの際縦と宣言することはいいんじゃないかということに関してであるが、政策として、どちらかというと、縦は序列化ということであるが、あるいは差別化というのは序列化といってもいいが、それはほっとけばそうなるというか、それはかなり自然にできているんじゃないか。それを言わなかったにしても、やはりできている。自然発生的にできたものはしようがないので、ただ、それを人工的につくるということの一般の人が受け取る社会的なひずみというのか、それが私は直観的に非常に怖いような気がする。
   外国の大学でも、今、話題に出たケンブリッジ大学というのはすばらしいと。それで、ウォーリック大学というのがある。これはものすごく元気のいい大学で、1960年にできた。ケンブリッジは17世紀からできている。もっと古いところもあるが。要するにウォーリック大学に行って聞くと、ケンブリッジのようにすぐになるんだと。すぐというのはどれくらいだと言ったら、あと500年だと。だから、序列というのはそれくらいにして歴史的に定着してくるものであって、ケンブリッジ大学のキャンパスのほうがウォーリック大学のキャンパスよりも貧しい。ウォーリックはケンブリッジと同じ土地を持っている。ただ、建物は少ないのですばらしい環境で、学生生活なんかはものすごくいい。だけども、やっぱりステータスというのは違う。
   学問の序列というのはそういうふうにしてできてくるものであって、お金を出して序列を積極的につくるというものではない。むしろほっといてできないのが横の多様化ということで、横の多様化はむしろ制度で人工的につくり出すものだと私は思い込んでいた。そういうイメージである。差別化はほっといてもできるし、しかもそれは歴史的なもので、人工的に変えようとしたってそれは変わるものではない。まさにそれは現在の序列を強化するだけだと思う、縦の序列というのは。
     とてもよくわかった。でも、それは私も同じ印象を受けたのは、これが新聞発表に出たときに皮膚感覚として思ったのは、今おっしゃった、おお、そっちに来たかというものを考え、とらえた。だけど、それをいよいよやろうという形に踏み切ったのだなというふうにも思って、私がそのメンバーになったのだという、そういう順番で来た。
   多分、楽曲でもヒットソングトップ30というと、これはヒエラルキーというか、序列で、一番売れているやつと30番目という。
     逆に見ると、評価のほうから来ると、イギリスがサッチャーのときに高等教育機関の評価でやったあれは、結構うまくいった例だと思う。始めたときに私はこれは大変だなと思ったが、結果、非常にうまくいっている。これはあれが下敷きにあるのか。
     議論、プロセスの中ではイギリスのシステムも参考にさせていただいたし、アメリカのシステムも当然参照して議論をさせていただいたが、これは基本的には手を挙げていただいて、それに対して評価をさせていただいて配分するという仕掛けであるので、イギリスのシステムとはちょっと発想が違うのではなかろうか。
     やり方はどうか。まだそこまでは考えてないのか。具体的な選考の方法。
     具体的な選考方法については、このペーパーは一応の提案であるが、議論いただきながらいいものにしていきたい。
     さっきおっしゃっられたことで少し気がかりなことがある。それは大学の横の多様化というか、種別化を政策的にやるというのは反対である。だから、これはそれぞれの大学が選択しないといけない。その選択の結果が悪ければ、大学は衰亡していくし、よければどんどんよくなっていく。だから、そこを政策的にやるというのは問題だろうと思う。だから、本来は縦の多様化も横の多様化も自然にそうなるのが最も望ましい形であって、政府がやっていくということは本来は私は反対である。
   ただ、こういう形で既に出ているので、この制度をできるだけいいものにするのにどうしたらいいのか。これは多分、先ほどから議論しているように、縦の多様化のメッセージになり得る。大体トップ30という名前からして、例えば多様化をちゃんとやっていることがどう受け取られるかというのは、座長のおっしゃったように、私も若干心配であって、既に日本では富士山型というか、大学のヒエラルキーがあるのに、さらにそれを強化するかという批判は受ける可能性がある。しかし、それをやる以上はあえてやらざるを得ないと考える。
     その点は私も十分認める。ただ、政策というのは、大学問題では支援にとどめるべきだと思う。だから、種別化といった場合も、あなたの大学はこうだじゃなくて、種別化を各大学が選べるような、選んだ結果、得をするような制度というのが欲しい。ただ、縦のほうもね。
     今の話は非常にいいと思う。だけど、例えば横に多様化していくときに、教養に特化する大学、学部教育というか、マスターぐらいまでの教育に特化する大学、これが得をするメカニズムというのは何かあるのか。そういうことを言いながら、日本は研究するところが得することを一生懸命やってきて、今回もそれをやろうとしているんじゃないのか。ちょっとゆがんでいるような気がする。
     だから、私は一つの政策としてトップ30を導入するのなら、同時に、今度は学部教育をどうやるのかという政策を打ち出していかないと批判されるし、かなり大事ではないかと思う。だから、今まで学部の教育のための費用が少なかったと思うので、そこを充実していかないといけない。
     今の政府の発想ははっきりしているように思う。きょうの日経新聞の1面に改革先行プログラムというのがあって、学部、学科の改廃、弾力化へ大学設置基準の見直しとあるが、要するに学部、学科の設置基準の見直しをして、規制を緩和して、自由化すれば、あとは自分たちの競争で、教養教育に特化する大学は自前でやっていくであろうと。彼らはそう期待していた。一方はお金を出さない規制緩和こそ、みずから大学が金を集める力を発揮する舞台をつくる政策だと考えながら、一方ではこれをやっているわけだから、そこは軌道修正してもらう必要がある、私に言わせれば。多少財政的な刺激を与えないと、規制緩和だけでは今おっしゃるような教養教育に特化した大学が育つとはとても思えない。
     ごく当たり前のことであるが、現在の文明国において教育というのは制度化されていて、横であろうが、縦であろうが、すべて制度によってリードされているわけで、ここには自然ということは存在しない。だから、縦に多様化するか、横に多様化するかということ、政策そのものも修正を必要とするので、どちらにせよ自然に起こることはない。
   それから、私たちが今縦の多様化を議論しているその背景には、今、日本国民の半分が大学へ進むという異様事態が起こっている。その認識の上に立って議論しないと話にならない。私などは自分が奉職している大学の立場と全く無関係の立場で来ている。私は日々、日本の人口の半分が大学へ来るとはどういうことかというのを実感している。それはおそらく文教問題ではなくて、治安問題ではないだろうか、あるいは福祉問題ではないだろうかと考えるくらいである。それはそれで、しかし私は現状を肯定しているし、横の多様化を少しでも学生のために実りあるものにしたいと日々努力している。しかし、それとは別個に、これは縦の多様化をやらなければいけない。そうでない限り人口の50%の波の中に全大学がのみ込まれる心配がある。
     それでは、きょうは時間が来たのでこれで終わる。
   取りまとめる能力はないが、積み残したというか、さっき宿題と申し上げたとおり、要するにこの制度によって何が起こるのか、何を起こそうとしているのか。これはいわばどういう競争関係を提供しようとしているのかということを明快に、もう少しわかりやすく内外に、内外というのは大学の外の世界がわかるような形で表現しておくことが必要だろうということが第1点である。
   もう一つは、今回は縦の序列化にかかわるものであるが、横の多様化とどういうふうにコンシステントなのかということで、今年だけじゃなくて、この数年間やってきた、あるいは10年来といってもいいが、そういう制度群の間の整合性というものも言及して、それを説明する責任がある。だから、制度群のコンシステンシー。
   一方、制度群が結局は競争環境をつくるわけであるが、その中のだれが競争するのかという問題は大学内の問題があって、それは学長か、悪名高き教授会の理事なのかという、これが別の問題として残っている。しかし、それは当然、どういう大学かということと場としての競争環境ということは無関係ではないので、それについての言及も第3番目に必要なのかという気がする。それはきょうイメージとしてこの議論の中で明らかになってきたが、一度文章にしてみて、それで了解をしていくということが必要なのかという気がする。
   私は思うんだけれども、営々として論じてきたのは競争環境をつくることである。よく言われたように、アメリカというのは私の友人の学長もしょっちゅう寄付を集めに行っている。それは何かというと、寄付を出す人たちが全部評価している。だから、一般社会の寄付者が競争環境をつくっているのがアメリカ。多分イギリスはそれがないので、かなりパブリックな競争環境をつくった。それで、最後に規制緩和だけではだめだという話があったが、そのとおりなので、我が国は完全な社会として成熟してない。ほんとうの意味で競争して、大学がよくなる環境が整ってないので、これをある程度制度的につくらなきゃいけないという状況に置かれている。それは中身はイギリスとは多分違うだろうけれども、そういう意味での人工的な競争環境をつくらなきゃいけないということについては、我々も合意したのではないかと思う。
   したがって、次回はそういう大論文が事務局から出るということで、それを再度議論するということでよろしいか。きょうは大学の再編・統合の話は一切できなかったが、それは次回にまたということで。
     今、話があったようなペーパーについて、十分になるかどうかわからないが、1つは大学審議会当時から3つのキーワードで高度化、個性化(多様化)、活性化という観点、今はむしろ2番目の個性化、イコール多様化というか、その観点から話があったかと思うが、ほかの高度化とか活性化という観点もあわせて今いろいろ指摘もあったかと思うので、その3つをいろんな形で結びつけていくというのが、今回の案なのではないかと思っている。その点について、これだけでトップ30がつくられるわけではないという先ほどからの指摘もあり、全体のいろんな制度設計としては、近く出てくる国立大学の法人化についての制度設計とか、そういった話もあわせてごらんいただく必要があろうかと思うので、次回についてはなるべく全体像、ストーリーがもっと一貫してわかるようなものを用意させていただくように努力したい。
   次回については、資料4にあるように10月3日の午前中ということで、10時半から学術総合センターで開かせていただきたいと思うので、よろしくお願い申し上げる。議題としては、トップ30について9月いっぱいで内閣のほうでのいろんな議論が集約してくるので、概算要求額を確定した段階でまた改めてごらんいただく必要があろうかと思う。また再編・統合の話については、ぜひ議論いただければと思っているのでよろしくお願い申し上げる。
     それでは、これで閉会する。
    ──了──

(高等教育局高等教育企画課)

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