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中央教育審議会大学分科会

2001/11/07議事録
中央教育審議会大学分科会将来構想部会(特別会)

中央教育審議会大学分科会将来構想部会(特別会)

(注)当日数名の欠席者が出たため定足数を満たさず、正式な将来構想部会ではない会合としての扱いとなった。
日   時      平成13年11月7日(水)15:00〜17:00
   
場   所      文部科学省別館大会議室(郵政事業庁庁舎11階)
   
議   題
 
(1) 大学等の設置認可の望ましい在り方について
(2) その他
   
配付資料
 
資料1 将来構想部会(第2回)議事要旨(案)   (略)
資料2 大学等の設置認可の在り方及び教育研究の質の向上方策について
【具体的な論点例】
資料3 これまでの設置認可手続の簡素化、審査の弾力化について
資料4 America's Best Colleges 2002 (U.S. News & World Report社)について
資料5 ABA (American Bar Association) の行う適格認定について
資料6 英国における教育評価をめぐる状況
資料7 我が国における大学評価の現状
資料8 大学等の設置に係る制限及び抑制方針について
資料9 入学定員の増加概要(昭和61年度〜平成13年度)
資料10 13地域における収容率
資料11 同一県内における同一分野の学科の設置状況
資料12 日本における大学設置認可にかかる基準等について
資料13 大学分科会の今後の日程について
出席者
(委      員) 鳥居泰彦(会長),高倉   翔(副部会長)の各委員
(臨時委員) 天野郁夫,荻上紘一,黒田壽二,島田Y子,関根秀和の各臨時委員
(専門委員) 大南正瑛,鈴木忠,中津井泉,松本浩之の各専門委員
(文部科学省) 結城官房長,林大臣官房審議官,工藤高等教育局長,石川私学部長,清水高等教育局審議官,板東高等教育企画課長   他
   
議事
   事務局から資料についての説明があり、その後大学等の設置認可の望ましい在り方について自由討議を行った。
  (○:委員,●:事務局)
     認可制度と評価制度をセットにしてどう考えるか。アメリカでは、設置認可の緩やかな所はアクレディテーションが厳しく、設置認可が厳しい所はアクレディテーションが緩やかであり、両者を合わせて一つと考えているようだ。日本は厳格な認可制をとってきたが、これを今後更に弾力化する方向で議論するのであれば、評価制度をもっと整備・充実する必要がある。評価制度はまだ確立しているとは言えない状況であり、そのことも踏まえて議論をお願いしたい。
     日本は高等教育にかけるコストを私学にかなり依存してきている。戦後の急激な高等教育需要にこたえるための方策だったが、高等教育のコストを私学に依存せざるを得ない国の財政状況もあったように思う。従って、国は、私立大学について許認可や質の保証には責任を持つが、財政上の責任を持たない以上、大学の学部・学科の設置は定員の枠内で基本的に自由化されるのが望ましいのではないか。また、評価も大学の連合組織体で行われるべきではないか。大学基準協会やJABEEのように、今後作られるであろう非営利の評価機関の評価結果を国が様々な形で参照することについて、一定のルールを作り互いに協力し合うことは国益として大事だと思う。許認可にも評価にも、各大学は大変なコストを使っている。非営利の様々な第三者評価機関に対する国の補助の在り方についても考える必要があるのではないか。
     大学設置・学校法人審議会の審査は、確かに弾力化されてきているが、部分的な緩和を積み重ねてきたため、全体として整合性に欠ける。学科が改組・転換する時は、新旧の物が類似である場合も、かなり異質な場合もあるが、教員審査の免除という前提の下でその可否が問われている。このような状況下での判断は難しく、弾力化が進められた故に中途半端な形になっていると思う。大学の定員の枠内での改組・転換に関しては原則として申告制にする等の方法を採らなければ、審査に差し支えるのではないか。弾力化は様々な要因の下で徐々に進行するだろうが、目標を立てその過渡期としての施策を作る必要がある。
     大学基準協会は、現在アクション・プランをたて、大きな改革を進めている。私学は第三者評価により画一化されることを懸念しているので、画一化されない評価基準が出来れば評価を受けるようになるだろう。大学の設置認可の簡素化・弾力化は、整合性が取れておらず、設置の際の基準は最低基準を割り込むようなものになっている。大学がきちんと成り立ち、教育が出来るかが不明確な中で認可している気がする。認可制度を維持するのであれば、最低基準をどうするのかについて議論すべきだ。学部の設置認可を自由化すべきという声も聞くが、大学は学部によってその性格が決まるのであり、これを自由にすると大学自身の在り方が問われることになる。教員構成も学部により全く異なるので、基準を設ける場合に、このことは必ず踏まえる必要がある。弾力化を進めれば、大学は自由設立となり、第三者評価を中心に社会評価と合わせて評価する方向になるのではないか。ただし、日本では国の認可を受けたことで国民が安心出来るという面がある。大学を自由設立にすると社会的混乱が起きる恐れがあるので、認可制度は残すべきだ。その上で認可制度と第三者評価を組み合わせるシステム作りが必要だと思う。
     評価には大変な労力がかかるので、ルーティン化する部分を作る必要がある。大学側も評価に耐え得る資料の整備や組織作りをしないと教育研究の時間が割かれてしまうだろう。イギリスで教育評価に対して手厳しい批判があるのは、大学側の負担が非常に大きいからである。日本でも評価を導入することで質を保証しようとしているが、上手く評価を使いこなすまでには相当時間がかかるだろう。日本の大学は学部が基礎となり学問領域と対応していたが、昨今はその関係がルーズになり様々な名称の学部がある。そういうものを評価の対象とする際にどうすべきか、今後学部教育の評価をしていく場合に当然問題になるだろう。文部科学省は専門教育は大学院でと考えているようだが、学部の名称はかえって専門教育重視になっている。設置認可も評価の問題も従来の枠組ではうまくいかなくなってきている。学部・学科の枠組を含め、どこまで認可や審査の対象にし、どう弾力化するのかを判断すべき時期なのではないか。
     大学評価・学位授与機構で評価を行うにあたっても、大学における学問領域と学部の対応関係がルーズになってきている現状を目にする。たとえば、これまで教育学部と言われていたものの中に複合名称学部が続出しており、新課程と称して、場合によっては教育とはかけ離れたコースを設置している事実もある。それらを評価するには、教育学の専門家だけでは手に負えないので、個別に対応しなければならない。評価と設置認可の両方がセットとして重要だとしても、その前提として、学問領域と学部等の対応関係が非常にルーズになってきている現状にどう対応していくべきか、ということを深刻な問題として受け止めている。
     評価については、評価結果の公表の在り方や、評価により問題があるとされた場合の扱いや改善のための方策に関してきちんと議論し整理しないと、時間と労力をかけて評価を行っても効果が上がらないのではないか。
     結果については、どんどん公表して国民が誰でも見られるようにすることが必要だろう。評価された機関のダメージに配慮して当該機関にだけ結果を知らせて公表しないというのは好ましくないと思う。インターネットを活用する等して可能な限りオープンにし、受験生等が自由に見て大学を選ぶことが出来るようなシステムを作ることが必要ではないか。
     評価の在り方や公表の仕方に関して、教育を受ける側には様々なタイプの学校が必要であるが、特定の機関が一つの物差しで測るのは非常に難しいことだと思う。国公私立に関わらず各大学の個性をどう上手く表現できるかが重要だと思う。
     アクレディテーションについて、特に機関に着目したアクレディテーションの場合は、その機関の使命を明確にし、その使命に応じてどれだけ成果を上げているかを評価していくことが必要である。大学評価・学位授与機構も、分野別評価の場合には、特に機関の目的・目標を明確にし、それに即して評価をすることが大前提になっており、特定の機関を一つの物差しで測ることは避けるという姿勢が示されている。日本の場合、とかく画一的な物差しで測る傾向があるがその弊害をどうするか。
     大学評価・学位授与機構による評価を受けたある大学は、「非常にいい経験であり、反省させられる点もあった。また、評価委員が大学の資料を読んで的確なコメントをしてくれ、今後の改善を図る上で役立つ。自己点検評価や外部評価と異なる新鮮な体験であった。」というような意見を寄せているが、評価の一側面を上手く表現してくれていると思う。イギリスでも、教育評価により改善が起こったが、ある程度改善が行われ評価の効果があったので、今後は例外的な部分だけの評価でよいのではないか、ということになってきているようだ。一方、国立大学の場合には独法化に伴って運営費交付金の配分等もあり、私学の場合も既に私学振興事業団は3割位は傾斜的に配分しているが、今度は傾斜配分部分の4割位が文部科学省によって配分されるとすると、この評価をどう考えるかという問題がある。質的向上のための評価と、資源配分のための評価は切り離して考えるべきで、そうしなければ大学に大きなダメージを与える可能性があると思う。
     大学基準協会と大学評価・学位授与機構の評価の大きな違いの一つは、コストの問題だと思う。大学評価・学位授与機構による評価コストは予算で設定されている。大学基準協会のようなアクレディテーション団体では会員がまかなっている。評価をする場合のコストを誰が負担するのかは、国立大学が法人化した時の問題や私学との関係も含めて大きな問題だと思う。
     規制緩和により大学は様々な形でかなりのことが出来るようになっているが、その状態を大学自体はどの程度意識的に受け止めているのだろうかと思い、私が携わっている雑誌で、国公私立の全大学長と理事長にアンケートしているところ。規制緩和について、「更なる緩和がまだ必要である」「もうこの位でいい」「その他」の選択肢を設け、各意見についてどのような理由でそう思うかを伺っている。また、日本の場合に評価システムで大学の質を担保出来ると思うかについて、「担保出来る」「評価システムだけでは不充分で、別の新たなシステムが必要だ」「その他」の選択肢を設けた。回答がまとまった段階でお目にかけたい。既に回答があったものを見ると、規制緩和についての各大学の考えは「もっと必要だ」「もうこれ以上はいい」というものが相半ばする。前者については、緩和政策自体を望んでいるというよりは運用面の様々なチェックがルール化されておらず不平等なところや問題があるので、いっそのこともっと緩和してほしいというような答えであった。評価についても、回答は両面あった。大学内部も揺れていて、設置認可システムがこれでいいのか、 日本の評価システムが不充分な段階で緩和が進んでいってよいのか、迷いが見えていると思う。
     大学の評価は、まだ準備段階に近いのではないか。各機関の使命に着目し評価する方法は、各機関の個性を活かせるというメリットがあるが、他方で資源配分は非常に重要な課題であり、大学・大学教育はこうあるべきだという一定の基準に基づいてクライテリアを設定することが必要になってくる。第三者評価の法的位置付けについては、どこまで踏み込むか現段階で判断することは非常に難しいのではないか。各評価機関が一定程度成熟するまで待ち、その期間は認可制度の緩和を一気に行うのは避けるべきではないか。
     高等教育機関を認可する時には、法的な善・悪の基準を最低限押さえる必要があるが、それと社会を向上させるための基準等全てを含めて議論するのは難しいのではないか。善・悪の境目を明確にするのは官の仕事だと思うが、社会を向上させる基準を設けるのは官でよいのかどうか。たとえば産業界からの要請を踏まえる場合、評価基準のもとは民から出るものであり、官が評価機関として適当かどうか。教育プログラムの評価基準は、善・悪の基準と社会を向上させるための基準との両者につながる形になっており、整理が難しい。これらのことと文部科学大臣や大学設置審議会の権限は全体的にどうつながるのか。どのような視点で議論を進めていくのか。
     設置認可は、あらゆる項目で弾力化してよいのか。内容によっては、もっと厳しくしなければならないのではないか。例えば、大学が持続する能力があるのかどうかは、これまではあまり問題にならなかったかもしれないが、今後は大学の永続性について重点的に審査しなければならないのではないか。将来のことなので難しい問題だが、大学の場合はある程度過去のデータで判断がつくのではないかと思う。逆に特色があり十分継続できる大学には思い切った弾力化を適応してもよいのではないか。メリハリをつける必要があると思う。
     大学基準協会は歴史的に大学全体を評価の単位にしてきたが、平成14年以降は各大学の希望により部局単位の評価を行うことを考えている。日本の教育システムの変化への対応としてそれが大事だと思われるからである。独立大学院や専門大学院、総合大学の中の学部等について、評価の要請があれば対応しようと考えている。大学基準協会の基本的な姿勢は、大学自身が学部や様々な部局を支援する体制も見て評価するべきで、各部局の特性だけに着目していたのでは限界があるということである。専門分野毎の評価機関が将来が出てきた場合に、大学全体を評価する大学基準協会と様々な連携を取ることは有意義だと思う。第三者評価機関の在り方としては、どういう要件を持った者を第三者評価機関と名付けるのか、その主体はどうあるべきか、官、民、独立行政法人がいいのかなど重要な問題があるが、大学審議会の答申にあったように、多元的な主体があった方がよいのではないか。官による評価機関も一つの形であり、お互いに参照し合うというのもよいのではないか。ただ、コスト負担をどうするのかは大変悩ましい問題だ。大学基準協会も、コストを誰が負担するのかという問題をクリアしなければ、国際水準に達せないのではないかと考えている。
     コスト負担と同時に、手間暇がかかりすぎるという指摘もある。私はアメリカのオハイオ州立大学にいた時に、教育学関係の評価を受ける側にも評価する側にも参加したことがあるが、大変な手間暇だった。ただ、評価を受ける側の状況により、3〜5年や10年に一度など評価期間の設定の仕方が工夫されており、大学内部にアクレディテーションに対応する組織もある。日本でもそういうことも含めて考えないと簡単には進まないのではないか。
     学校法人については、基本的に学校教育法と私立学校法とで整合性がない。私立学校法では、理事長はその設置する学校に責任を持つことになっている。学校教育法は教授会が主体になる。そこで、理事長と学長の間のトラブルが起きてくるので、これらを踏まえて私立学校法も学校教育法も改正する必要があるのではないか。また、現状として、大学を設置する際の経費しか持たず、2年目からは全て授業料収入だけで賄うようなものでも認可しているが、学校法人は一つの法人格を持つものであり、これに権限を与える以上、十分なファンドを持ったものを認可すべきだ。今後自由設立のようになっていくと、数年後に廃校となるような危険な学校法人が出てきてしまうのではないか。学校教育法と学校法人との関係を見直し、もう少し厳格なファンド作りを目指すようにするべきではないか。
     特に高度職業人向けの大学院は、学部等とは別の評価になるのではないか。今後は通信制の大学院だけ作るような所も増えると思うが、今のような大学と大学院の設置認可では問題が出てくるのではないか。
     学校教育法と私立学校法の整合性は非常に大きな問題だ。しかし、今私立学校法の大改正を提案すれば、法人のガバナンスというものを理解していない私立学校の教職員が大騒ぎするだろう。学校は組織であり、その根本になるルールを決めるのは学校教育法、私学では私立学校法であるという常識を教職員に持ってもらうようなPRをしなければ、改正について言い出すことも出来ないのが日本の現実だと思う。大学基準協会は昭和22年から国立・私立半々くらいの18校でスタートし、今日のアクションプランによる大改革の前にもプランがあったが、文部科学省の大学設置・学校法人審議会への申請書類とほぼ同じ書類の提出と、大学一体としての評価しか当分はしないということが原則であった。評価委員の先生に薄謝として1年につき1万円を払うことにしたが、それも様々議論がありようやく実現したものである。今後、評価システムを制度的に確立し、評価機関に国費が投入される仕組みにしていくことが必要だと思う。
   
次回の日程
     次回は、11月21日(水)に開催することとなった。

 

(高等教育局高等教育企画課)

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