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初等中等教育分科会(第33回) 議事録

1.日時

平成16年12月21日(火曜日) 10時~13時

2.場所

如水会館 3階 松風の間

3.議題

  1. 義務教育に係る諸制度の在り方について
  2. その他

4.出席者

委員

 木村分科会長、國分副分科会長、小栗委員、梶田委員、加藤委員、渡久山委員、橋本委員、横山委員
(臨時委員)
 市川委員、今井委員、高倉委員、西嶋委員、野村委員、平出委員、藤崎委員、船津委員

文部科学省

 結城文部科学審議官、近藤文部科学審議官、山中初等中等教育局担当審議官、前川初等中等教育企画課長、塩見教育制度改革室長、木村教育課程企画室長、その他関係官

5.議事録

午前10時1分 開会

(○=委員、●=事務局)

(1)分科会長より、12月17日に開催された総会で決定された事項について下記のとおり報告があった。

 これまで中央教育審議会では義務教育をめぐる様々な課題について、各分科会、部会ごとに検討を行ってまいりました。例えば、本分科会では義務教育制度について検討を行っておりますし、本分科会のもとにあります教育行財政部会、教育条件整備作業部会におきましては、義務教育における経費負担の問題について、また、教育制度分科会のもとに置かれております地方教育行政部会においては、教育委員会制度の在り方について審議をしているところでございます。
 こういう状況のもと、御承知のとおり、11月26日に三位一体の改革についての政府・与党合意がなされました。先刻、委員の先生方はマスコミの報道等で御存じだと思いますが、参考資料1にございますように、義務教育制度については、その根幹を維持し、国の責任を引き続き堅持する。その方針の下、費用負担についての地方案を活かす方策を検討し、また教育水準の維持向上を含む義務教育の在り方について幅広く検討する。
 また、こうした問題については、平成17年秋までに中央教育審議会において結論を得るということが明記されております。
 このことを受けまして、12月17日に開催されました中教審の総会におきまして、中山文部科学大臣から義務教育の在り方全体について、中教審として来年秋までに結論を出すよう改めて要請が行われたところでございます。
 総会としては、この要請を受けまして、先日、鳥居会長から義務教育の在り方に関する検討の論点として試案が示されました。参考資料2でございます。参考資料2にございますように、こういう事項について検討していったらどうだろうかという、鳥居試案が示されました。
 そういうことで、これまでの各分科会、部会における議論を踏まえつつ、これらを一体的・総合的に検討する体制を整備するため、参考資料3にございますが、総会の下に新たに義務教育特別委員会を設けてはどうだという御提案がございまして、これについて議論をし、この特別委員会を設置することが決定されました。
 メンバー構成については、会長に一任ということになりましたが、参考資料2にございますような様々な義務教育の問題について議論をする特別委員会を設けるということが決定された次第でございます。このため、本初等中等教育分科会において行ってまいりました義務教育制度の在り方についても、ひとまずこれまでの審議を取りまとめた上で、これを義務教育特別委員会に引き継ぐ必要が出てまいりました。
 そういうことで、議論が終わりそうだという状況でもありませんが、そういう諸般の事情がございますので、早急に審議を取りまとめることが必要となりました。その辺の状況をおくみ取りいただきまして、御協力を賜ればと存ずる次第でございます。
 なお、教育行財政部会で國分委員のほうから、義務教育に関するたくさんの事柄が各分科会、部会、作業部会というところでばらばらに行われているので、そういうものをある程度取りまとめる必要があるのではないかという御意見が出ました。私も部会長としてその御意見に賛意を示しました。事務局には、全部ひとまず取りまとめていただいた上で、この特別委員会の議論に入っていただきたいという要望をしておきました。
 必ずしも各分科会、作業部会の議論の足並みがそろっているわけではございません。しかしながら、こういう状況でございますので、ひとまずそれぞれの分科会、作業部会の議論をまとめて、特別委員会に引き継ぐということにしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

(2)資料1に基づき、事務局より説明をした後、意見交換を行った。

委員 木村分科会長
 前回の議論は、専ら課程主義・修得主義、それから年齢主義・履修主義、その辺に集中したものですから、あまり修文は多くなっておりません。今日はできるだけ全般的に御意見をいただければと思います。
 前回見ていただいておりますので、大体おわかりかと思いますが、ただいまのような区分をいたしますので、それについて、どういう角度からでも結構ですから、御意見を賜ればと思います。なるべくたくさんの意見を盛り込みたいため、当然、 両論併記といいますか、様々な意見がこの中に入ってくると思いますが、それを特別委員会に引き継ぐという形にしたいと存じますので、様々な角度から御意見を賜ればと思います。

委員 横山委員
 1ページの下から3行目に、「すべての国民が一定水準の教育を受けることのできる制度」とございますね。実はこの「制度」の中身として、実際の教育行政の現場で一番問題になるのは、義務標準法なのです。国庫負担制度以前にね。義務標準法というのは、ある一定の学級規模、上限を決めるわけですよね。これは一定水準の教育を保障する制度として考えていいのかどうか。もしそうならば、ぜひその文言を、「等」ではなくて、入れてもらいたい。これは教育行政の前場では一番問題になる話です。

委員 木村分科会長
 問題になるというのは、解釈が様々ということですか。

委員 横山委員
 いや、そうじゃなくて、「義務教育費国庫負担制度や教科書無償制度等」の「等」の中にたぶん入っているのだと思いますが、「等」でくくらないで、その文言、義務標準法によって一定水準が保障されている、その制度の1つだということを明示してもらいたい。

委員 木村分科会長
 事務局どうですか。

委員 前川初等中等教育企画課長
 よろしいと思います。

委員 市川委員
 2ページ目のアンダーラインの部分で、上から13行目くらいで、「例えば、今の学校での指導は言語が中心だが」とありますが、学校での指導が言語が中心と言われると、たぶん学校では、何も言語だけではなくて、活動もいろいろやっているし、図や表や絵も使うし、視聴覚も使うしみたいなことを、たぶん学校としては言うのではないかと思うのです。
 次に、「子どもは本来視覚優位」というのも、心理学的に確かに大人に比べれば視覚優位かもしれませんけれども、むしろ活動優位という言い方をすることもありますし、むしろ言語の発達を促すので、学校ではやはり言語が大事だという意見も出ると思います。
 最後の「学びの方法論を考える取組が不足」というのは、もう少し具体的にどういうことを指しているのかということを補足しないと、ちょっとわかりにくいような気がいたしました。

委員 梶田委員
 実は私もここのところがひっかかっていました。私も心理学をやってきた一人として言うと、これを見て、古い話ですけれども、活字文化から映像文化へというマクルーハン革命ということを言われたときの、あの話に非常に似ているなと思います。あのときは、活字が廃れるという話だったのです。言葉が廃れる。映像文化になる。そんなことに全然なっていません。あのときも、いろいろな心理学者等々からいろいろなデータを出しながらの議論があったのです。日本では、いわばテレビの文化の問題だけになってしまいましたが。
 このように入れると、誤解を招くと思います。例えば、言語が中心でなければいけないという考え方を私は持っております。読み書きをきちんとやらないから、学力が落ちるので、こんなものは当たり前です。コミュニケーションというのは言語ですから、人間が抽象的な思考ができるようになったのは言語なのですから、映像というのは、具象的なものを乗り越えていったから、人間がいろいろな知的な操作ができるようになったわけです。
 そんなことを考えますと、前後が違うのですよね。前後に関係なくこれが入っているのは非常にミスリーディングだという気がいたします。
 したがって、これを削除するかあるいは学校の指導については、これは言語が中心なのがいけないみたいに書いてありますが、言語の位置づけを含め、多様なメディアの活用なども工夫されているがというような、少し多様性を持って記述するかですね。
 それから、「本来視覚優位」ですが、私は、どういうデータで言えるのかなと思っています。しかも、子どもといっても、ピアジェではないけれども、具体操作の時代から形式操作の時代、全然違うわけです。視覚優位だなんて言われたら、発達心理学をやってきた人は失業するだろうと思います。
 ここのところは、ともかく今の学校での指導における言語の位置づけ、そのほかのメディアの位置づけ等を含め、子どもの発達を考えたり、学びの方法論をもっと考えていくべきであるみたいな膨らみを入れていただければどうだろうかと思います。

委員 木村分科会長
 先ほど申し上げましたように、原則として両論併記、いろいろあった御意見をこの中に盛り込みたいのですが、確かにただいまのような御意見があると思いますので、少し御本人と相談をして、私のほうで相談して修文をしたいと思います。

委員 梶田委員
 ちょっと待って。

委員 木村分科会長
 どうぞ。

委員 梶田委員
 両論併記でいいのですけれども、根拠のあるものとないものを分けてほしいと思います。

委員 木村分科会長
 それはあります。

委員 梶田委員
 ですから、御本人と相談してくださるのもいいですが、私から言えば、明らかにこれは根拠のない話です。ですから、そういうものを次の特別委員会に引き継いだときに、私は困ると思いますので、ちょっと強い言い方になりまして申しわけありませんが、その辺の表現の問題をよろしくお願いいたします。

委員 木村分科会長
 わかりました。

委員 橋本委員
 私も今のところは全く同じ意見でした。ですから、それ以上はここではつけ加えません。その上の「○」のところです。2ページのところです。「学校教育の中で躓く児童生徒が出て」云々というこの3行に係ることですけれども、この中で、「落ちこぼれ」という言葉が適切かどうか。ここは「○」の2つ目と、下から3つ目の「○」ですか、ここにも1行目の文末のほうに「落ちこぼれ」と書いてありますが、この言葉遣いが適切かどうかということを感じております。
 また、ここの3行の中に、いわゆる学校教育の中で十分な手だてができなかったことへの一種の反抗のあらわれとして不登校に至るケースは、いわゆる学級崩壊に至るケースもあるのではないか。「あるのではないか」と言われているので、断定はされていないのですが、果たして本当にそうなのか、このあたりは疑問に思うところです。
 また、背景の家庭教育のことなどほとんど触れていないわけですけれども、学校教育の中での重要性はよくわかっているわけですが、背景が何であるのかということが触れられていないために、この文章も誤解を生むのではないかと思っております。
 それから、一番下の「○」印です、アンダーラインが引いてあるところですが、2ページから3ページにわたってのところですが、「我が国では学校教育において学ぶことへの動機付けが不十分なため」、本当に「不十分」と言い切ってしまっていいのかどうか。今の義務教育の中でも、義務教育以外の幼児教育も含めてですけれども、不十分な部分もあるかもしれませんが、本当に基礎・基本をどのように定着させるかとか、人間形成をどのように行っていくのかとか、そのことで真剣になってそれぞれがかかわっております。そういったことで、かなり言い切っている文章がありますが、これをこのまま出していいのかどうかということについて、内容を吟味していく必要があるのではないかと思っております。

委員 平出委員
 私も、「落ちこぼれ」という言葉をそのまま使っていいのかどうかということを若干心配しております。それと同時に、「今の学校での指導は言語が中心だが」云々ですが、ここはおそらく委員は、特別支援教育を想定して、彼自身がそういう学問的な背景がありますものですから、そういう中で発言されたことだと思います。それにしても大きな言葉足らずであるかと思いますので、ぜひ委員にお会いして、訂正していただきたいと思っております。

委員 高倉委員
 最初の1ページの「制度をめぐる課題」の最初の書き出しのところですが、ここに義務教育の構造として、保護者の就学義務、それから地方公共団体に対する設置義務、それから経済的な困難なものに対する市町村の経済援助の義務、この3つがきちんと書かれてあります。これは大変結構なことですが、ただ、日本の場合、制度的にはこれにさらに加えて、子どもを労働に従事させることによって就学を妨げてはならないという避止義務という言葉が果たして一般化しているかどうかわかりませんが、それが制度上きちんと書かれていることは確かです。ただ、そういった義務というのは、映画の「おしん」の時代には必要だったのかもしれませんが、今は必要ないのか。それはいろいろな議論があるところでしょうが、やはり現行法にきちんと書き込まれ規定されていることは、ここに義務の構造、義務の3つの柱ではなくて、4つの柱としてきちんと書いておいたほうがいいのではなかろうか。今後、どのような社会変化が起こってくるかもしれませんし、移民の問題、イミグレーションの問題などなどが、いろいろな影響を及ぼしてくるということを考えた場合に、制度上規定されているということと、今後予想されることまで念頭に置けば、やはり4つのことはきちんと書いておいたほうがいいのではなかろうかという感じを持っております。

委員 野村委員
 9ページの修得主義の点ですけれども、昨年5月に出ました『学校教育辞典』を遅まきながら調べてみましたら、ここでプレゼンテーションをしていただきました安彦先生の執筆で、修得主義について書かれているのです。それによりますと、高等学校の学習指導要領は修得主義に立っているということの説明がなされております。義務制の場合は履修主義だけれども、高等学校の場合は修得主義だということです。
 できれば、『学校教育辞典』の文言をそのまま入れるかどうかは別にして、この括弧の中にそういう記述が必要なのではないだろうかと思います。私たちはいつの間にか高等学校も課程主義あるいは履修主義になっていて、修得主義であるということについて十分理解していないところがあるのではないか。高等学校の教育が修得主義に徹していくならば、それは義務制の学校の教育についても非常に大きな影響を与えてきて、それによって、修得主義的な考え方が入ってくるのではないだろうか。そのように思いますので、そこのところについて、コラムの中に入れていただくような配慮もお願いしたいと思います。
 それから、「知の教育」と「知識の教育」が、我々の審議の中でそれぞれが混乱したまま、自分の考え方を述べている節があるのではないだろうかと思います。知の教育という場合には、卓なる知識の教育とは違って、やはり知性、創造性、感性、あるいは発見創造したときの発見創造する追求にわくわくするような感動も入りますし、発見創造したときに発見の喜びもあります。そこには感性とか、情操がありますし、知的追求をするには一定程度の強い意思が働かなければなりません。知の教育というのは、そのように統合的なものだということで、ただ単なる知識の教育と知の教育とは異なるものだと思います。
 それから、1番目の修得主義のときに申し上げればよかったのですが、基礎・基本について、基礎・基本の内容を明確にすべきだという意見がこれまでも出てきましたが、何を基礎・基本にするか。基礎・基本が大事だと言いながら、基礎・基本の内容についての共通理解が、小学校、中学校、あるいは小学校のそれぞれの学年ごとに明確にさせなければならないのではないか。明確なようで、共通認識されていない。それを明確にすべきではないか。この修得主義の問題も、あえて修得主義ということを義務としなくても、現実に基礎・基本をマスターさせるということになれば、修得主義的な考え方を持ち込まざるを得ないと考えられます。
 ただ、基礎・基本を共通理解するために、それを明確にしますと、基礎・基本を教えさえすればいいというのと、基礎・基本は絶対教えなければならないというのと同じように考えられますけれども、ある意味では全く違うわけです。基礎・基本を教えたら、それで終わりだというのではなくて、基礎・基本はすべての子どもに保障することで、それ以上のことをやるのが教育だというようになると思います。そういうことをも加味した修得主義的な考え方について、どういう形で表現するかということになろうかと思います。
 それから、7ページの「自己決定能力や公共性の感覚などのパブリックマインドを育成することが必要」についてですが、戦後の教育の中で、戦争中の全体主義教育の反省として、個の人格の確立ということについて強調し過ぎたがゆえに、公共性の感覚などパブリックマインドを育成することが、非常に後退したところがあります。共生の時代において、やはり他者のために生きる人間の教育というのは重要で、そのことの欠如したことが今、子どもの間に様々な問題を引き起こしているということからすれば、自己決定能力とは、別に公共性の感覚などのパブリックマインドに1つ柱を立てて、強調すべきではないだろうかと思います。
 これはこのまま肯定するわけですけれども、そのように自己決定能力と公共性の感覚などのパブリックマインドの育成というのは、別の柱として立てるべきではないだろうかと思います。

委員 小栗委員
 3ページの真ん中から上の「皆が同じでなければならない」という部分にかかわってくると思いますが、これからの特別委員会の中で、この部分の議論をしっかりしていただきたいと思います。といいますのは、憲法には、「国民はその能力に応じ、ひとしく教育を受ける権利を有する」と書いてあるのですが、この部分をとかく国民は、「国民は等しい教育を受ける権利を有する」というふうに誤解をしているきらいがあると私は思っています。能力に応じれば、等しい教育というのは本来あり得ないわけで、能力に応じという区別化教育はあり得ることだと思うのです。現に習熟度別授業は行っているわけですから、それはいいのですが、ここでやはり区別化教育はあり得るのだということは、しっかり議論をしたほうがいいと思います。それがどうも国民の中にはまだわかっていないという感じがしています。
 とかく区別化教育を行うというと、それだけがすぐに我が子の将来を決定してしまうというように思いがちであります。結果的には、親がハウツーに走るという危険性を現在も抱えている部分であるわけです。ですが、この問題は避けては通れないと義務教育の問題に関しても思っております。ですから、ぜひ特別委員会の中で、この件について議論をしていただきたい。本来は国民がもっと価値観を多様に持つということが一番いいことだと私は思っているのですが、現在の保護者の状況を見ていますと、この点に集中して考えるといいますか、行動するきらいがありますので、その辺のところの議論をぜひよろしくお願いしたいと思います。

委員 船津委員
 ただいまの意見に賛成して、お願いしたいと思っております。戦後、同和教育の視点から、このことが大問題になって、現在、地対法がなくなって、一応の成果が上がったという政府見解のもとに、いろいろと教育の場でもそのことが反映し始めているのですが、先ほど先生がおっしゃったようなことは、保護者、特に教師は、すべて能力は同じだということが、無限の能力ということで同和教育では叫ばれたのですが、そのことは今もって論議があまりなされていない。能力に応じて等しくというところは、ほとんどタブー視されたのです。そのことが今日も引き続いているという、現場と保護者の一部かもしれませんが、考え方としてはまだまだ大きな考え方として残っているということを、議論の中で、次の会で審議していただけたらと思います。

委員 加藤委員
 3点ほど申し上げたいと思うのですが、1つ目は、今、幾人かの方がおっしゃった等しくとか、平等主義とか、その辺について、私はよく感ずることがあるのですが、行政の在り方としていろいろな場面で、本来、平等・公平というところの領域は理念としてはあるべきだと思うですが、現実にはそれにそぐわない実態が進行していることに関して、例えば今の学校の中で、体力にしても、学力にしても、二極分化のような状況が進展していることについて、義務教育といったときにどちらを主体に物を見ていかなければいけないのか。
 先ほど「落ちこぼれ」という言葉はいかがという御意見がありましたが、言葉は確かに適切でないのかもしれませんが、しかし、現実にそういうものがあることは事実なわけで、行政や教師の側の在り方として、物の見方といいますか、そういうもののある種転換が求められているのではないか。目標はどこかに置くにしても、どこに視点を置くのかという点で、そういうものが1つあっていいのではないかと思います。
 2つ目ですが、例えば今、小学校や中学校に教員以外の方がかかわっていく。例えば経済同友会の方が講師となって、授業の一部を担われるということをお聞きして、それを推進しておられるということを聞くのですが、もう一歩踏み込んで、もう少し一般に教員資格を持っていない方でも、教室で教えることの補助をするのはどうかということを、ある場面で私は申し上げたことがあります。
 そういう教員資格を持っていない方が補助的に入ること、例えば体育の授業ですとか、ほかの算数や国語でもいいと思うのですが、そういうところにきめ細かく子どもたちをサポートするといいますか、補助できるようなことを推進するということは効果があるのではないかと思っているのですが、それをどこかで書いていただくことはできないかどうかということであります。
 3点目が、「義務教育の目的、目標」のところにおそらく関わると思いますが、高校全入時代ということになっておりまして、高校ぐらい出ないとというような、あるいは高校が大学の予備校化しているという話もあるのですが、それ以前の問題として、中学を修了すれば社会人として一人前であるのかどうか。かつて私どもが育った時代には、中学を卒業して、手に職という世界に入っていく人が、中学校で1割から2割近くいたわけです。そういう人たちが国民として一定の尊敬をもって受け入れられることというのは、中学を終えれば社会人として十分であるという概念があったからだと思うのです。本当に15歳まででいいのかというのはあるかもしれませんが、私はそういう意見を持っております。そういうことをどこかでもう少し明確に書いていただくことはできないかどうか。これはぜひ御検討願えればと思います。

委員 高倉委員
 能力に応じて等しくの問題が議論されておりますので、若干私のコメントを申しあげたい思います。
 第1番目に、ちょうど昭和50年代に、いわゆる能力派と等しく派の対立というのか、対決というのか、それがいろいろな場面で展開されたことを思い出すわけでございます。これは等しく平等派に対する、あるいは等しく万能に対する問題提起であったのではなかろうかと思うわけですが、その後、あまりそれから展開していないように思います。
 第2番目に、能力に応じてということに対する考え方はいろいろな考え方があって、また、それにずっと変遷が見られたのではなかろうか。最初に、能力に応じてというのは、能力以外のことでは、人間、教育の場から排除されないということで、能力以外の属性、身分の問題などが、等しくと一緒にして、等しくを補強するものとして能力主義が考えられたということがあろうかと思います。2番目の段階といいますか、その次には、上級学校への進学機会は、能力以外のものでは差別されないのだという、言ってみれば進学競争の正当化みたいなものに使われたのではなかろうか。3番目、これが私はだいぶ気になっているわけですが、能力に応じてということについて、ある憲法の教授が、その方が有斐閣から出された本によりますと、能力に応じてというところの中に、身体的能力に応じてというものも含めて書いてあるわけです。だから、身体的な能力というその中身は申しませんが、それによって教育の場から排除されるのは当然といいますか、問題のないことなのだということが書いてあったということです。
 同時に、私、大阪におりましたときに、障害を持つ受験生を教員養成大学に入学させるかどうかということを巡っていろいろ議論があり、そして、最初は不合格、後で合格に訂正したという事件がございました。そのときの教授会の議論の中で、なぜ排除をしたのか。2つありまして、1つは、能力に応じてと書いてあるではないか、だから身体的能力が不足しているのだから不合格だ、それで多数決で通ってしまった。もう1つの理由は、教員採用試験に身体的な条件がいつも条件になってくるので、卒業してから苦しい思いをするよりも、入口のところでそれは御遠慮いただいたほうが親切というものだと。これは屁理屈ですが、そういうことが行われたことは確かなのです。
 いずれにせよ、身体的な条件と能力に応じてというものが結びついて考えられていたことは事実でございます。そういったことを経て、今日では、能力に応じてというのは、いわゆる個に応じた、インディビジュアライゼーションの原理ではないかということで、だんだん定着してきているのではなかろうか。これは常識的なことだと思います。
 そこで、能力に応じての再考というよりも、能力に応じてという表現の今日的な意義とか、今日的な課題に対して、もう少し勇敢にといいますか、もう少し歯切れよく書き込んでおくことが考えられていいのではなかろうかと思います。

委員 梶田委員
 今の能力ということで、関西とか、九州北部におった者というか、仕事をしてきた者にとっては、この辺がいかにセンシティブな問題かというのを痛感しておるわけです。私も16年東京で仕事をして、関西に行って一番面食らったのはこれなのです。あらゆる区別は差別であるというこれがまかり通るところでして、御承知だと思いますが、7、8年前まで大阪は、大阪市を含めて特に北部は、指導要録も書いていないわけです。文科省の人は、お国で決めたらそのとおりやっているとお思いでしょうけれども、大阪市を含めてどこも、判が1つ押してあって、つまり、名前を書いて、「特記事項なし」というこの判が1つだったのです。私が箕面市の教育委員をしたときに驚きまして、それで前面改定、ショック療法をして、見たい人には見せますということをやりました。指導要録でさえそうなのですよ。ましていわんや、今おっしゃった習熟度別云々というのは、なかなか難しいのが大阪、兵庫の一部の実情です。
 ということで、私はその辺を何かの形で、憲法の理念を打ち出すことは大事だと思うのです。能力に応じてということをですね。このことを1つ申し上げたい。
 もう1つは、ただし能力というのは、この場合には教育の目的といいますか、理念とのかかわりでの能力であって、知・徳・体であれば知・徳・体。今、身体的なものは違うのだということを、どこかで書かなければいけないのではないか。これはノーマライゼーションということで、できるだけ身体的な障害のあるなしにかかわらず、同じような形で社会生活ができるようにしようという努力を行ってきているわけです。学校でもそうですし、行政のあらゆる部分で行ってきておりますから、これと混同されないようにすることが非常に大事なことだと思います。
 ただし、知的な障害の場合は、幾ら頑張ったってあるところ以上の抽象能力は持てないわけですよ。非常にわかりやすいのはダウン症などの場合ですが。そのようなことを含めて、概括的に憲法の理念に基づくというところはあっていいのではないかという気がします。
 もう1つは、地の文を読んでいて、まあ、両論併記の部分は「○」でいいのですけれども、地の文のところに、教員の問題をどこか最初のほうに出してほしい。今回の義務教育費国庫負担法の問題をどうするかという問題は、教員の給与の問題なのですね。給与の問題がどうして問題になるかというと、下手するとこれが配置の問題にまでいってしまう、濃淡が出てしまうという心配があるわけですよね。そうすると、義務教育を支える基本的な条件の最大のものの1つは、教員の配置と質の確保であるという、この文言を「はじめに」でもいいし、あるいは「義務教育制度をめぐる諸問題」の最初のところでもいいですが、やはり教員の問題は言っておいてほしい。これをしないと、今、当面の義務教育費国庫負担法がいわば教員の問題をめぐって展開されているというところが薄れてしまうのではないかと思います。

委員 今井委員
 1ページから2ページにかけての文章で、義務教育制度についての文章ですが、諸問題があるからこそ制度に関する議論がなされているとは思うのです。また、生徒には、例えばいじめ、不登校、校内暴力、学習意欲の低下等の問題とか、また、現場では保護者のニーズに十分こたえられていないという諸問題はあるとは思うのですが、それ以上に、成果もあるのではないかと考えています。非常に短い現状を指摘する文章だとは思うのですが、もっと成果の部分も書いていただければありがたいと感じました。
 例えば、委員の方から提出いただいた、保護者の現在の義務教育に対する満足度については、確か60パーセントを超えて70パーセント近くあったのではないかと記憶しています。仮にこの3行、4行で終了するということになると、非常にネガティブな印象がまず最初に植えつけられてしまうのではないかと考えますので、検討いただければありがたいと思います。

委員 橋本委員
 先ほど基礎・基本の明確化というお話があったのですけれども、義務教育の知・徳・体を基盤とした基礎・基本については、現在、学習指導要領があり、それで示されているということで、これが大変重要なことであります。
 もう1つ、義務教育の目的が、この中に2点示されておりますが、特にもう1点議論しておかなければならないと思っていることが、義務教育の目的の国家社会の形成者としての資質という面があるわけですが、これの基礎・基本は何なのかということが、本当にどこにおいても議論されていない。特に義務教育の年代の人格形成が重要であると言われているのですけれども、どうしても知・徳・体の学習面とか、いわゆる知の部分とか、それは最も重要なことで大事なことですが、もう1つ人格形成、どのようなことが資質としてということを、ぜひ議論していただきたいと思っております。
 そのためには、特にどのような大人に育成したいのかということがあるわけですが、今、学校においては、外国籍の子どもたちもかなり入学してきていますので、本来ならばどのような日本人に育成してもらいたいのかということの議論ということを考えているわけですが、その外国籍の子どもたちへの配慮も含めて、ただ日本人ということだけではなくて、やはり大人になるための基礎・基本といいますか、このあたりのことをお願いしたいと思いました。

委員 渡久山委員
 制度の問題で、特に財政的な義務教育制度の問題ですけれども、これは1ページ目には言葉として出ております。3ページにも国による財政基盤の保障という言葉が出ているのですが、日本の義務教育を支えてきた最も根幹は、やはり財政的な裏づけをきちんとしてきたというところにあると思うのです。ですから、このような義務教育の制度、あるいは目的・目標を実現するためには、どうしてもきちんとした財政確立が必要だということについて、「1」の一番最後なのか、どこかで項を起こして書くなどした方がいいのではないかと思います。
 その際に、国庫負担法の問題だけでなくて、現在、家計における教育費の増大の中で、結局、階層化の中で、具体的に教育を受ける機会均等の保障が十分ではなく、それにもだんだん格差がつきつつあるという実態等を踏まえて、この辺は、義務教育制度の中でひずみとして出ているといいますか、課題として出ている問題ですから、この辺を指摘しておくことも必要ではないかという気がいたします。

委員 市川委員
 全体的な書き方に関する意見ですけれども、読んでおりますと、割とはっきり賛成の立場としては、こういうものがあるといって、その下に意見が出ている場合と、何々に関しては次のような意見があったといって並んでいる場合があって、ただ羅列されている場合には非常に読みにくいなという印象を持ちました。今回、1つ1つの御意見は、かなり多様なものが出ていますし、できるだけ多様なものという方針は私も結構だと思いますし、両論併記してあるというのも、難しい問題については当然だと思いますが、できれば何らかの整理をした上で、これに関する意見はこうであるという形で出していただいて、さらに地の文で、どういうところが論点なのだみたいなことも出していただけると読みやすいと思います。どういう観点からすると、こういうふうに意見が分かれてくるというようなこと。
 それから、もう1つは、例えば14ページですと、文部科学省の調査結果ではということが出ています。これは文部科学省の調査ですし、参考文献に当たるもの、普通の論文ではそういうことが多いと思いますが、地の文のほうでは、一番後ろに参照できるような資料名をつけていただけると、後からこれをまた引き継いで次の委員会にいくときもいいのではないかと思います。
 もう1つは、これは前にも出てた細かい点なのですが、7ページの例えば下から2番目、「義務教育に英語を導入することは賛成できない」。個々の御意見なのでこれはよろしいと思いますが、次の「総合的な学習の時間のように目的・目標があいまいなものはできるだけ避け、目的・目標を明瞭にした科目を繰り返し行えるカリキュラムとすべき」。これらが1つの意見の中に一緒になっているのがちょっとひっかかりました。「義務教育」というのは、「小学校教育」の間違いではないかと思いました。
 それから、これが一緒になっていますと、英語というのは非常に目的や目標がはっきりした科目で、しかも繰り返してやることが結構比較的多い科目ではないかと思います。そのことが何かむしろ、これは総合学習の話であって、もちろん総合学習のネガティブな御意見というのも、意見ですからよろしいと思うのですが、この2つが一緒になって出ているということと、あと前後の文脈から言うと随分違う話が出ているように思いまして、先ほどのような整理した上で、それぞれの意見を埋め込むということをやってみれば、少しこれはほかのところに移したほうがいいのではないかと思われるものも出てくるのではないかと思いました。

委員 平出委員
 これは一番最後の「その他の課題」というところに入るのかもしれませんが、広く義務教育の在り方等という観点から、例えば少し話題を狭めて、幼小連携にしろ、小中連携にしろ、当然ながら地域の住民の参画・関心等がなくして達成できないと考えられますので、ぜひ地域の参画ということに関してつけ加えていただきたいと思います。
 それとの関係があるのではないかと思うのですが、東大の教授と一時、ティーチング・スタッフに関する研究をやったことがあるのです。メディカル・スタッフが病院などではよく話題になるのですけれども、ティーチング・スタッフということで、学校教育を担う当事者は先生だけではない、その周囲の人たちが積極的に参加しなければ、今後、成り立たないだろうという観点で、簡単な報告書をまとめたことがございます。ぜひそういう観点からも義務教育の在り方を問題にするということをつけ加えていただきたいと思います。

委員 横山委員
 これは特別委員会に引き継がれるわけですよね。そうすると、特別委員会の鳥居会長試案でも、単に今争点になっている義務教育費国庫負担の問題だけではなくて、それを包括する義務教育全体のものを明らかにしようという構想になっていますね。そうは言っても、現実には来年度の秋までというのは、18年度概算要求に向けての議論ですから、その中で、当然、焦点は義務教育費国庫負担制度をどうするかということになってくる。義務教育の重要性というのはうたい上げて、指摘をされているわけです。義務教育の重要性というのは、今回、一連の三位一体改革の中で何の議論もなっていないわけです。ただ、財政的に担保する手法として、一般財源か拘束性のある負担金なのかという議論をしているわけです。そこのところを、今後、特別委員会でも最大の争点となると思うのです。今申し上げた財政問題は、既に作業部会で結論、中間報告を出していますね。それを引用してもいいのですが、やはりここでも特別委員会に引き継ぐ議論の重要な課題として、その点はぜひ指摘しておいていただきたいと考えています。

委員 野村委員
 先ほど能力に応じて等しく教育を受ける権利ということから、人権教育のことが出てきました。人権教育について、特に1ページの、我が国の義務教育制度をめぐる課題で、いじめの問題です。いじめられる方はもちろん、人間の尊厳性を否定されるわけですが、いじめる方の子どもも人間存在を否定するようなことはしたくないが、そうせざるを得ないような状況の中で、いじめるという行動を起こしているわけです。最近の子どもの問題、人間存在を真っ向から否定するような子どもの事件が起こったときに、多くの子どもたちがそれに対して否定的ではなくて、私の中にもそういう思いがあるということを共通に言っているわけです。そうしますと、これまで長い間、真剣に様々な人権教育をやってきたのですが、これまでの人権教育を真っ向から否定するようなことが子どもの中に起こってきている。これをどのように義務教育段階で受けとめるかということについての議論をしなければならないのではないか。
私は結論的に言えば、今の子どもたちは命に出会わせる教育が不足しているのではないかと思います。何が問題で、人間存在を真っ向から否定するような行為をあえてやるのか考えてみなくてはならないと思います。しかも、それについて、自分の中にも共通しているものがあるというように子どもたちは思っている。そのため義務教育段階でも、人権教育を改めて問い直しをしなければならないのではないだろうかと思います。そういうことが義務教育の現代的課題の1つとしてあるのではないかと思います。

委員 藤崎委員
 3ページの課題に対応するための検討の視点についてということで、たくさん並んでおりますが、課題の中には大きな課題として、やはり学力問題があると思うのです。学力とは何かということも難しいところがありますが、いわゆる学力を高めるためには、もちろん授業時数が多いほうがいいです。授業時数の確保であるとか、指導方法の工夫・改善、当然だろうと思います。これが大切であることは間違いないのですが、一方で、子ども自身のことですが、今、私らが見ていて、どうも指示待ちというのか、教えてもらうという、姿勢が強いですよね。つまり、子ども自身に自分で勉強するのだという、自学自習の習慣をつけさせたい。あるいは、これは前から言われていますが、自ら学ぶ意欲。自ら学ぶ意欲といっても、一遍につくものではないと思います。その前に自分で勉強しないといけないのだという自学自習の習慣をつけさせる。そして、自ら学ぶ意欲をはぐくむ。そういうことが大事ではないかと感じております。
 ですから、どのようにというところは難しいのですけれども、学力問題に対応して、こういった自学自習の習慣、あるいは自ら学ぶ意欲を培っていくことは大きな視点になると感じております。

委員 市川委員
 私も自学自習の習慣をつけるような子どもに育ってほしいというのは全く同感なのですが、ただ、それが現場に伝わるときに、自学自習を促すために、小学校の低学年のころから、とにかく自分でやりなさいということを言って、授業でも先生がきちんと教えないということになってしまうことがしばしばあるということを、非常におそれています。自学自習の習慣がつくためには、やはり教えられるという経験があって、自分で自分自身でもやっていくというように徐々に移行して、育つものだと思います。結局、自学自習というのは目標であって、だから、できるだけ先生が教えないで教育するのがいいというようなとられ方をされてしまうことを、むしろ非常におそれていますので、その表現といいますか、また、実際にどういう指導法の研修がなさるのかというあたりが、むしろ重要なのではないかと思っております。

委員 渡久山委員
 7ページに知・徳・体というのがありますが、実は義務教育の中で、これはスポーツ・青少年分科会で出たのですが、学校体育が2時間とか3時間しかないため、クラブ活動とか、部活動で、体育系のものをとっている子どもたち以外は、ほとんど体育をしない。ですから極めて基礎体力がついていない。それで高等学校へ行って、体育関係のもので何かやろうとしても追いつけないということがありまして、この中に「知・徳・体」という「体」ということが出てきますが、ほかにほとんど出ていないような感じもしますので、教育課程や教育内容のところで、義務教育段階における体育、あるいは体づくりをどうするのかという問題は、非常に大きな課題ではないかという気がします。7ページに1つ「体」という字があるのですが、義務教育段階での子どもたちの体力づくりをどうするかということで、これは非常に大事な課題として、指摘しておく必要があるのではないかと思います。

委員 市川委員
 体育は大事だと思いますが、やはり今の時間数が少なくなっているというのは、それなりの理由もあって、その結果少なくなってしまったのだと思います。ただ、子どもの体力が落ちているからといって、学校の体育の時間をもっと増やすべきだという仕方で増やしましょうというようにはすぐにならない。私はむしろ日本の子どもたちの体力が落ちているのは、社会体育への参加でありますとか、学校外への参加をしてみようというように、うまく機能していない、環境もあまり整っていないためであると思います。
 ですから、子どもの体力をつけるためには、ただ学校の義務教育での時間数を増やすというだけではなくて、社会教育的な場に出ていって体力をつける。学校はむしろそういうことを動機づける場であって、また、それを促すような仕組みを社会の中でつくっていくべきではないか。特にまた、部活のような問題は、今、ものすごく大きいと思いますが、少子化で学校が小さくなって、部活が立ち行かなくなって、子どもの体力も部活だけで支えていけなくなる。そのときに、社会体育の中でもやってくれればいいのですが、例えば学校以外のスポーツクラブでは、試合への参加がなかなか認められないとか、特に中学・高校になるとこの問題が非常に大きくて、どうやって子どもたちが魅力を持って社会体育にも参加できて、試合に出られるとか、そういう場を確保していくかという体制をつくることが、一方では非常に大事だと思っています。

委員 渡久山委員
 今のような議論が出ているのです。要するに、執務時間内における体育の時間を増やそうということではなくて、もっと義務教育段階における子どもたちがもっと体育に親しんで、もっと運動ができるような環境をつくる必要があるのではないか。それが社会体育へのシフトもあるだろうし、また、競技スポーツというだけでなくて、やはり生涯スポーツとして、ずっと健康増進のために生涯スポーツをし得るような基礎体力、あるいは体育に対する理解とか知識とか、そのようなものを若い段階からつくっておくべきではないか、あるいはやるべきではないかということです。ですから、執務時間内の体育の時間を増やせという議論ではなくて、そういうことが言われています。

委員 橋本委員
 学校の区分、学校間の連携のところになりますが、15ページの2つ目のパラグラフですが、「本分科会では」というところの、望ましい学校の区分の在り方、学校間の連携の在り方について議論を行った。その中でというところで、「6―3制そのものについて見直すべきだという意見もあったが、……多くの意見が出された」、ここの文章は、私はとても重要だと思っており、賛成です。
 それぞれいろいろな御意見をいただいている中で、義務教育の区分については、5・5制が望ましいとか、幼児教育の1年は小学校の就学を行って、5・5制とか、4・5制とか、いろいろなところにそういう数値が出ているわけです。先ほど委員の方からも話がありましたが、課題と成果、成果と課題と言ったらいいでしょうか、これを1つ明確にしていく必要があるのかなと思います。例えば現状の6・3制の成果と課題は何であったのだろうか。その課題が出てきたときに、区分を変えることの必要性は何なのか。現状の成果もきちんと見た上で、今後どうすべきかという議論が必要ではなかろうかと思っているのです。
 数値について、このようにやったら望ましいということが出ておりますので、例えば4・5制とか、5・5制となった場合に、これは発達段階のことを考え、身体的な発達も考えていると思いますが、いろいろな発達段階を考えてそれが望ましいという御意見だと思います。仮に55制または45制の最後の「5」ですね。これは小学校の5、6年生と中学の3年生までを考えた「5」だと思いますが、一番思春期の難しい時期に、本当にこの5年間の難しい時期の中で、携わっている方々はよくわかると思いますけれども、なぜ今、小学校の高学年から中学生にいろいろ問題行動があるのだろうか。
 ただ単に心が発達していないから、どうのこうのという問題だけではなくて、この思春期のとらえ方といいますか、そのあたりも明確にしていかないと、仮に5・5制がよい、それでスタートしますという自治体が次から次に出てきたときに、どういうことが起こるのだろうかということを、中学校に携わっている一人の者として大変心配しております。中学生の年代は難しいです。今、小学校の高学年も思春期に入ってきておりますので、難しいです。ただ難しいと言っているわけではなくて、これは反抗期であるとか、いろいろ世の中で言われておりますが、著しい成長期なのです。その成長期の中でのとらえ方をせずに、区分を語れないなということを私自身は思っているわけです。

委員 梶田委員
 私は前に意見発表をさせていただいたときに、私の資料の中にも出ているのですが、特に義務教育は2つの全く違うもののバランスで考えなければいけない。あるいは、両方をねらっていかなければいけないということを申し上げました。
 どういうことかというと、社会の側からの教育と個人の側からの教育ですね。社会の側からというのは、よき社会人になることです。あるいは、1つの社会の構成員となること、これはとても大事な課題です。もともとの義務教育はそれでいった。だけども、だんだん個人の側からの、社会にとっての有為な人材の育成ではない部分が根幹になるのではないかということが言われて、これが学習権という考え方になっている。人間の側、個々の人の側ですね。これは結局何かというと、一人で生まれて、一人で生きて、一人で死ぬというこの人間が、自分の人生そのものをどう生き抜いていくかということの土台づくりをするのは、義務教育段階であろうということが言われてきたわけです。
 ですから、社会の側からの教育課題、それから個々の人の側からの教育課題、両方をにらみながらということについて、どこかに記述が欲しいと思います。我々が使ってきた言葉で言うと、我々の世界を生き抜く力と我の世界を生き抜く力という言い方を、いつも私はしてきたのですが、そういう2つの面がないと、義務教育はまた新しい形での、外側から型はめになってしまうのではないかという恐れをぬぐえなくなるだろうと思います。今の議論は両方のバランスだと思うのです。そういうことを入れておいていただければと思います。

委員 加藤委員
 先ほどの冒頭の説明ですと、今回の議論が新しくできる検討会の中に反映されていくだろうと思いますが、その中で、会長試案の中の「1」の「(2)」に、「社会規範、道徳」とあるわけです。今、ほかにも意見が出ていましたが、この中にはもちろん記載してあるのですが、命とか、あるいは思いやりといいますか、そういう社会規範や道徳ということでもあらわせるのかもしれないのですが、教育基本法の問題のときにも随分議論しました倫理観とか、例えば宗教の領域に極めて近いようなものを、どういう言葉であらわせばいいのかということはなかなか悩ましいのですが、例えば道徳も倫理も一緒だというふうにとらえられる方もいらっしゃるかもしれませんが、倫理はもう少し根源的なものだとすれば、そういうことを何か伝達していただいて、それはぜひ含めていただきたい。育成すべき資質能力の中の非常に重要な要素ではないか。「2」の領域に入るものだと思いますが、社会規範、道徳ということで十分に含まれるということであればよろしいのですが、それではあらわしきれない、もう少し根源的なものが随分議論されてきたような気がしますので、その点についてぜひ留意をしていただければと思います。

委員 國分副分科会長
 先ほどから能力に応じてということで、何人かの方から御意見がありまして、私自身もいろいろな段階で、いわゆる平等、平等ということで、いじめられたとか、苦しんた経験をたくさん持っておりますので、基本的には大賛成です。
 一方で、逆の見方をしますと、例えば明治以降、戦前の教育といのは、当時の富国強兵ということから、画一的な教育をやることによって、個人は多少犠牲にしても、トータルとして成果を上げるといいますか、効率を求めるということで、戦前の画一性の教育が維持された面があったと思うのです。戦後は逆に平等ということから、画一性が維持されてきたと見ているのですが、それがさすがにもたなくなって、呪縛が解けたように、習熟度別学級編制であるとか、個に応じた教育であるとか、いろいろなことがやれるようになってきて、私は流れとしては正解だと思うのです。
 一方で、今度は逆に多様化、個性化というのがあまりに言われ過ぎて、画一性のよさというものが、画一性というのは悪であるということから、何か画一性というものが全部だめだというふうにどうも見られてしまう。しかし、先ほどから、義務教育について、基礎・基本ということがありましたが、これはまさに画一的に教えなければならないことだろうと思います。それから、例の負担金の議論で、ある新聞の社説などでは、地方に任せることによって、その地方独自の多様な花が咲くという表現で、一般財源化を支持するような論説がありましたが、一定の水準を維持した上で、多様な花が咲くならいいですが、一定の水準以下で多様な花が咲くのでは困ると思っています。
 そういう意味から、先ほどの能力に応じたという点は大賛成なのですが、一方で平等というか、画一というか、それのよさを何か書いておかないと、どこか悪者にされてしまって、かえっておかしくなるのではないかという印象を持ちましたので、以上申し上げておきたいと思います。

委員 木村分科会長
 いろいろ宿題をいただきました。本来であれば、もう2、3回論点整理のようなところまで持っていって、例えばこういう見出しにさらに加えて、もう少し小見出しをつけて、同じような意見をまとめるということを、従来そのような方向でやってきて、それをベースにして答申を書いたのですが、それをやるべきなのですが、御承知のとおりの切迫した状況でございますので、なかなかそれができないという状況でございます。
 そういうことで、できるだけいただいた宿題を、事務局、それから副分科会長と御相談しながらやりたいと思います。全面的に宿題をこなすというところまではいかないと思いますが、何とか少し御趣旨を生かして、今日の御意見も取り入れる。それから修文をしたいと思いますので、よろしくお願いしたいと思います。時間的な制約がございますので、どの程度できるかどうか、私自身も自信がありませんので、その辺は、逃げるわけではございませんが、あらかじめ申し上げさせていただきたいと思います。
 それでは、本日、この件についての議論は以上とさせていただきます。
 本日御欠席の委員もいらっしゃいますので、御欠席の委員には書面でまた御意見をお伺いするということもやって、最終的に取りまとめたいと思います。後で次回の日程等についての御報告がございますけれども、次回は来年1月に予定されておりますので、そこで取りまとめたものを御報告するということにしたいと思います。よろしくお願いいたします。
 それから、現在、アメリカから毎年600人、小・中・高の先生が日本に来られているのです。200人ずつに分けて3回、8年たちましたが4,800人来られていますが、私は毎回、1時間45分、その先生方とお話しして議論をするのですが、画一性と多様性についてはアメリカでもかなり議論がありまして、アメリカのいくつかの学校でこういう実験をしたのだそうです。アメリカというのは、特別な学校以外はスクールユニフォームがないわけです。ある学校について、スクールユニフォームを導入したのだそうです。そうしましたら、アメリカは今、御承知のとおり、達成度評価ということで、一斉試験をやっているのですが、そのスクールユニフォームを導入した学校の成績が断然上がったのだそうです。恐ろしいことがあるものだなと思って驚きましたが、そういうところにも教育のおもしろさというか、不思議さがあるようですね。
 もう1つ英国が子どもたちの成績調査を徹底的にやっているということは、御存じの先生方も多いと思いますが、アメリカも実はやっているのです。膨大なお金を連邦政府から出すようになったということだけではなくて、膨大なお金を州のプロポーザルによって渡して、子どもたちの成績管理を始めたのです。実は、IBMの人が私のところへ来て、それを教えてくれたのです。日本でもこれをやらないとえらいことになりますよと、商売にきました。私は関係ありませんが、大変なことをやっているようです。義務教に関しては、アメリカもイギリスも相当本気でやり始めたということですから、いろいろ御意見をいただきましたが、日本も相当頑張っていかないと、あっという間に差がついてしまうのではないかという気がしました。

(3)事務局より参考資料4「国際数学・理科教育動向調査(TIMSS2003)」に基づき説明をした後、意見交換を行った。

委員 加藤委員
 これはできるだけ分布を見たいのです。平均だけではなくて、点数の分布ですね。それがどういうふうに移行しているのかというのが非常に重要なことではないかと思います。これは今ここでということでなくていいのですが、検討していく上では、統計というのは平均だけ見たのではわかりませんので、ぜひよろしくお願いします。

委員 木村分科会長
 概略は、今、御説明できるでしょうか。

事務局 木村教育課程企画室長
 その説明が抜けて大変恐縮でございましたが、PISAのほうにつきましては、特に読解力のところで下位層がちょっと増えているということで、学力のバラツキが出てきている。上位層はそれほど変わらないのですが、下位層が増えてきて、OECD平均と同じぐらいになっているということで、バラツキが増えてきている、そういう状況があったことは確かでございます。
 ただ、こちらのTIMSSにつきましては、前回との比較あるいは平均的なレベルの比較を見ても、バラツキについては、むしろ前回より若干縮小しているぐらいで、あまり減っていないのでございますが、少なくともTIMSSの調査結果だけを見ると、学力のバラツキが広がっているということはないのかと思います。ただ、全体の山が上位も下位も、例えば小学校理科でございますが、上も下も下がってきている。要は山自体が下位のほうに下がっているというような、バラツキが増えているわけではないですが、学力が下がってきている。そういう意味では、非常に大きな問題があろうかと思っているところでございます。

委員 木村分科会長
 それから、他の国と比べて、例えばできる子の山ですね、それから成績の悪い子の山を比較した場合、日本の子どもたちのパフォーマンスはちょっと特徴があるのですよね。その辺はどうですか。

事務局 木村教育課程企画室長
 上位層につきましては、我が国も各国と比べて高い状況ではあるのですが、例えば今回、先ほども下のほうに下がったと申し上げましたが、小学校理科でございますとか、あるいは中学校の数学も、上位層が下がってきているという点でございまして、ほかの小学校算数とか、中学校理科は優位差がないということで、あまり変更はないのですが、そういう意味での上位層も若干下がっているという意味もございまして、我が国の中でのトップレベルの層も差ができているという、その辺はゆゆしき問題もちょっと出てきているのかなと思っております。

委員 渡久山委員
 この間、韓国の教員と話していたら、韓国も成績はいい方なのです。しかし、韓国の諸君が言うには、韓国も日本も、学校教育プラス塾教育をやって、それぐらいの成績を上げているというのです。だから、塾がもしもないところと比較して、塾があって、やっとそこまでいっているのだというような言い方をしているのです。ですから、韓国も、日本も、学校段階での教育は必ずしも成功していると言えないのではないかということを言っていましたから、国研あたりで、少しその辺をまた研究していただければと思います。

委員 木村分科会長
 最大の問題は、毎回申し上げていますが、ここで見たらわかりますように、例えば色刷りの1ページ、「数学・理科に対する意識」、中学校で数学と理科を見ますと、「勉強は楽しいと思う」というのが、日本は数学でいうと39パーセント、理科は少し高いのですが59パーセント、国際平均に比べるとはるかに及ばないのです。
 おもしろいことに、台湾、香港もほとんど同じ傾向なのです。成績はいいのですが、好きな子が少ない。さらに日本が極端なのは、例えば数学とか、理科、そういうものに関係した職業に就きたいかと答えると非常に少ないのです。これは国際平均に比べると本当に少ないのです。
 ところが、理科と数学の成績のいい国の中で、シンガポールだけは例外でありまして、シンガポールは今度の成績がいい。この前も成績がよかったのですが、理科とか数学の勉強が好きかと聞くと、非常に多くの生徒が「好きだ」と答えるのです。今年は何ヵ国ですかね、50弱ですね。シンガポールは、平成11年の調査だと上から10番目ぐらいですね、好きな子が多い。日本、台湾、香港というのは、全部おしりに張りついているという状況なのです。
 ですから、何かその辺を工夫しないと、今、マスコミの論調は、ゆとり教育が悪い、時間だというところにいっているのですが、時間でやったのではまた同じことになる。これも何度も申し上げましたが、例のOECDで、大人の科学技術に対するリテラシー、それから興味・関心を調べていますよね。一番理科と数学・算数の時間が多かった人たちが調査対象なのです。それが世界で最低なのです。科学技術に対する興味・関心も低いし、現実に25問の問題を解かせて、世界で最低になってしまっているわけです。ですから、時間を多くするということは本当に意味があるのかということは考え直さなければいけないと私は思っています。
 それに対してイギリスとか、アメリカは、ここにも出ていますけれども、今回はOECDは、イギリスは学校の数が少なくて載らなかったのは残念なのでが、奇妙なことに、あまり成績がよくないのですが、大人になるとリテラシーとか、興味・関心が高いのです。やはり勉強が好きだといいますか、そういうところへ持っていかないと、この問題は絶対解決しないのではないかと思います。
 今、非常に危険な傾向は、時間を増やせばいいという方向へ流れていくのは、私はこれは決してよくないと思っています。

委員 市川委員
 私も今の話の分析と方向に賛成です。東アジアの日本とか、台湾とか、韓国とか、高いけれども、嫌いである。共通しているのは受験がかなり厳しく、勉強を何のためにやっているかと問えば、当然、受験であるという答えが返ってくる国で、大学に入って、受験目的を達してしまえば、これで解放されたという感じになって、大人になれば、それ以上興味も伸びていかないし、知識も剥落していく。これは私たちの時代からずっとあった現象だと思います。最近は受験のプレッシャーが減ってきたので、ここぞとばかりに落ちてきたというのは、当然の面があると思います。
 シンガポールも、確かに試験は厳しい。大学受験勉強が厳しいというよりは、既にそれまでにいろいろ厳しいのですが、私もシンガポールの授業などを見ていますと、何のためにこういう学習をするかということで、かなりコンセンサスが社会にもあって、子どもたちもそれが理解できているといいますか。また、フィンランドも、IEAには参加していないのですが、PISAのほうでは非常に高くて、これもいらっしゃった方などに聞いてみると、ここは大学の受験の圧力とか、試験圧力は非常に少ないわけです。しかし、一体、学習というのは何のためにあるかという動機づけが非常にしっかりしているし、個々の子どもたちが学習につまずいたときのケアというのは非常に丁寧にやって、モチベーションを上げている。
 そういう意味では、ただ時間を増やして、昔のように受験をあおれば改善されるという問題では決してなくて、むしろ学ぶことの楽しさと、プラス大人になってから、学んでいることがどう結びついていくかという面をしっかり見据えるということをやっていかないと、時間を増やして、その中でとにかく反復徹底ということでやれば、この点数は上がるかもしれませんけれども、恐らくIEAのTIMSSの点は、それをやれば相当上がるとは思いますが、そういうやり方で上げたのでは、結局、大学に入ってまた剥落するという昔ながらの現象を繰り返すだけだと思います。

委員 梶田委員
 お二人の先生の意見については、私もよくわかりますし、ある意味で非常に賛成ですが、それだけで済むとは思いません。やはり時間数の問題も考えなければいけない面があるのではないかと思うのです。今回の結果が、今の指導要領の結果だとは必ずしも思いませんが、新しい指導要領になってから、小・中での時間数が主要な国に比べて、特に理数系はかなり少なくなっている。前からの、特にこの10年間の、90年代の終わりの10年間の「ゆとり教育」の結果が出ているのだと思いますが、ただ、これをもとに、これからのよりよい在り方みたいなものを考えていくときには、時間数も枠ですからね。枠の中で何をするかというのは、たたき込めばいいとか、反復練習ということではないと思うのです。これは指導要領の改訂のために、理科なんか実験・観察を非常に強調されてきたことは大事だなと思っております。より一層それもやらなければいけないかなと思います。だけど、実験・観察をおもしろくやるためには、特に理数系の先生方の再教育から何かやらなければいけないとか、御承知のように、東大に入るトップ10ぐらいの高等学校では、ほとんどが中学・高校6年制ですよね。一貫のところがトップ10なのですが、ここではほとんど理科の時間に、実験・観察は実際やっていないということがよく報道されています。こういうところの改善のことも考えなければいけないなど、様々なことを思います。ただ、時間数の問題も、どこかで考えていかなければいけないかなと思いますので、一言申し上げました。

委員 木村分科会長
 私も時間数が全く関係ないと申し上げているわけではなくて、私はバックグラウンドがエンジニアですから、大いにやれと言いたいのですけれども、今の立場ではなかなか申し上げられないのです。
 日本の子どもたちの教育をどうするか。日本が科学技術基本法をつくったということは大変なことだと思っているのですが、科学技術が我が国にとって大事だというコンセンサスがあるとすれば、当然、理科とか、算数については、ほかの国も一所懸命やっているわけですから、日本もほかのところを多少犠牲にしても、時間数は考えるべきかなとは思っていますが、なかなか個人的にはそれが主張できないということなのです。
 もう1つ、13年、14年の学力の一斉調査がありましたね。あれで小学校、中学校については、平成9年に行ったものと同じ問題を使った部分がありますよね。過去の問題と比較すると、顕著に落ち込んでいるのが数学・算数なのです。理科はあまり落ち込んでいないのです。理科教育についてはかなりの改善があるのですね。実際に観察させようとか、実験させようとか、そういう効果が出ているのではないかと思うのですが、数学については、それがおそらく同じような教育方法をとられていた。その結果、前回と比べて、算数がどのぐらいあったかわかりませんが、小学校、中学校の区別も今つきませんが、50問ぐらい過去と同じ問題をやらせているのですが、中学校については、前回より上位にある問題は1問ぐらいしかないのです。30問ぐらいが前と同じ、20問ぐらいが前より明らかに悪い。理科はそれがばらついていまして、前回よりもいいという数と前回と変わらない、前回より悪いという数はほとんど同じなのです。時間数が減ったにもかかわらず、あまり変わっていないのです。ですから、教え方といいますか、その辺の問題も非常に大きいのではないかと思っているのです。

委員 市川委員
 私も時間は大事だと思うのですが、大事なのは子どもの学習時間が増えることであって、それをどういう形で確保するかというと、必ずしも授業を増やすだけではないと思います。さきほどの体育の議論と似ていますが、学校の授業時間数はいろいろな面で減ってきた。しかし、同時に、例えば宿題は出すべきではないという指導がかなり行き渡ったり、予習などしてこないでいい、むしろ授業で初めて問題をそこで考えましょうと。それを少ない時間数の中でやろうとすると、とてもこれはできないわけです。予習があって、授業があって、復習するというような学習行動が、昔に比べると随分崩れてしまった。
 それから、環境としても、せっかく土曜日が休みななったところでも、むしろ数学教室でありますとか、科学教室というものがあって、ふだん学校でできないような発展的なこともできる、あるいは補充学習みたいなことも受けられる。そのようなシステムが社会の中でできていれば、これはさきほどのまさに社会体育と似ていますが、社会の中でのいろいろな学び方ができる。大学や民間企業、NPOなどもそういうところに協力していくべきだと思いますし、文科省もぜひそういう形での援助をと思います。ですから、社会教育とか、家庭学習も含めた中で、子どもがもっと学習時間を充実できるように、学校はポンプのような役割として、そういうところに出ていこうという動機づけを持たせるような場として機能してくれるほうが、どちらかといえば、これからの成熟した社会での学び方、そこでこそ多様性がいろいろ確保されるというようになっていくといいなと思うのが私の理想です。

委員 野村委員
 学力低下の問題はまさにゆゆしい問題ですが、もっと問題は、大学に入っての学力の剥落現象といいますか、1年生のときが一番学力が高くて、4年生になると学力が低くなるという現象です。それが特に学力の高かった人たちの中に起こっているということです。つめこまれた知識としての学力であり、それは、「勉強は楽しいものと思う」という問題と深くかかわっております。
 もう1つは、生涯教育の問題です。生涯学習社会の中で、幼稚園、小学校の段階から、生涯学習社会を生きる人間の教育として、生涯教育の基礎をつけていかなければならない。これは今日の「1」の議題の問題ともかかわってくるわけですが、これまでも「学校の唱歌、校門を出ず」というようなことが言われてきました。一方では、今、青少年の中に別の方向の音楽好きが出てきている。学校の音楽と、若者たちが今やっている音楽との間に非常にズレがあるのではないだろうか。各教科で学校で学んだことが、家庭や地域の中で生かされ、あるいは社会人になって、それがますます発展していくような、そういう教科観といいますか、そういう教科の在り方についての考え方も義務教育に係る諸制度の在り方についての検討委員会などで検討していただきたい。「勉強は楽しいと思う」というものと、1つは教科観、教科に対する考え方を持ち込むべきではないだろうかということを、今の審議を受けながら考えました。「1」の議題のときに検討するべきことを、あえて今申し上げます。

委員 木村分科会長
 いずれにしても、動機づけですね。動機づけが一番大切で、工学部の例を申し上げますと、1年生のときに入ってきて、前は五月病というのがかなりありましたが、学科所属のために、自分の好きな学科へ行くために相当勉強しなければいけないのです。1年生で勉強させるようにしたわけです。入ってきますと、2年、3年の前半まではだめなのです。多分学力が下がっていると思うのです。ところが、3年になりますと、全部の学科ではありませんが、いわゆる実習に行かせるわけです。ここで学生がガラッと変わってしまうのです。4年生になりますと、4年生の頭から卒業論文をやらせるのです。そうすると、またここで変わるのです。ですから、2年生の初め、3年生の初めぐらいには、どうしようもないと思った学生が、実習に行き、卒論をやることによって、本当に変わります。ですから、工学部は、全部の大学ではありませんが、ある特定の大学については、7割も8割も大学院へ行くのです。別に教師が行けということもありますが、ほとんどの者がおもしろくなってしまうのです。むしろおもしろくなり過ぎて困るぐらいのケースがたくさん出ています。ですから、勉強というのは、その動機づけですね。それをいかにするかということだと思います。

委員 渡久山委員
 私はいつも言っていることですけれども、学校現場で一番困っているのは、不消化のまま進学させていくことです。ですから、いかにわかる授業を徹底できるかということです。
 それから、教科内容が、受験対応にシフトしていくのです。これは無味乾燥だから、興味を持てないです。そのような状況がありますから、これは抜本的に、学校における今の教育の内容の問題と指導方法をやっていかないといけないなという気がします。
 それから、算数ができないというのもちょっと問題が出てきて、三角形の内角の和が180度ということは知識ですよね。しかし、重さの場合は、考えているから、理科の場合は、考え方だけわかっていればできるという。
 そういう面で、積み重ねの必要な教科、特に算数や数学は、小学校の段階からきちんとわかる授業ができるようなことが大事ではないでしょうか。

委員 藤崎委員
 先ほど自学自習ということを申し上げましたが、学校の授業で勉強するというのが基本だと思うのですが、その授業だけではなくて、学校外でも、地域あるいは家庭で、自分で何かを探して勉強するなり、あるいはスポーツをするなり、そういうことを私は自学自習という言葉でお話ししたのですが、そういう習慣をつけていくこと、あるいは、授業の中で、学び方というか、楽しみ方というか、おもしろさを味わわせてあげる、そういうことが大事なのだろうと思っています。
 それから、授業の中で楽しさを教えることは大事です。一方では、基礎的・基本的な知識については、ガンガンと繰り返しやらせないと身に付かないという部分があり、常にその両方が、特に現場では揺れ動くのです。繰り返しトレーニング、ドリル的なことをやる必要もあるだろうし、そればかりだと子どもは嫌になってしまうから、体験的な学習もしなければいけない。悩みながらやっているわけですが、得てしてどちらがよいのだろうという話になって、楽しさを追求させるべきだとか、いや、やはり繰り返しやるべきだ、どっちかという形になりがちなのですが、どちらも大事なのだろうと思いますし、先ほどの話のように、個が大事かとか、一斉が大事かという話と同じになると思うのです。それをいかに限られた時間の中で組み合わせて、あるいは単元によってどのようにしていくか、どちらを重視するかというのは工夫が必要なのだろうと思います。
 事務局より、今後の日程等の説明が行われた後、閉会となった。

午後0時3分 閉会

お問合せ先

初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室

(初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室)

-- 登録:平成21年以前 --