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初等中等教育分科会(第32回) 議事録

1.日時

平成16年12月10日(金曜日) 14時~16時

2.場所

如水会館 3階 松風の間

3.議題

  1. 義務教育に係る諸制度の在り方について
  2. その他

4.出席者

委員

 鳥居会長、木村分科会長、小栗委員、田村委員、渡久山委員、中嶋委員、橋本委員
(臨時委員)
 市川委員、今井委員、河邉委員、高倉委員、角田委員、永井委員、西嶋委員、野村委員、平出委員、藤崎委員、船津委員、宮崎委員、森川委員、若月委員

文部科学省

 結城文部科学審議官、近藤文部科学審議官、田中生涯学習政策局長、銭谷初等中等教育局長、樋口初等中等教育局担当審議官、山中初等中等教育局担当審議官、前川初等中等教育企画課長、塩見教育制度改革室長、戸渡教職員課長、木村教育課程企画室長、その他関係官

5.議事録

午後2時 開会

(○=委員、●=事務局)

(1)事務局より、資料1に基づき、これまでの「義務教育に係る諸制度の在り方」についての主な意見について説明した後、意見交換を行った。

委員 渡久山委員
 全体的には私がお話しした意見も随分入れていただいていますが、羅列的でありますから、徐々に整理しないといけないと思います。昨日、PISAの話がありましたが、修得主義と履修主義の問題については、日本の義務教育では真剣に考えていかなくてはいけない1つの課題ではないかと思います。
 というのは、七五三と言われるだけではなくて、義務教育段階で十分な学力保障がないままに、結局、年齢で卒業し、中学から高校へ入る。そういうことを考えますと、それがひいては日本の高等教育にまでひきずっているのではないだろうかと思います。分数のできない大学生と言われるようにひきずっていくのではないかと思います。
 そうであれば、学力の面において、日本の子どもたちの裾野の広がりは必ずしも十分でないのではないかという気がします。ただ、大学によってはすばらしい学生がたくさん入ってくるということもありますから、そういう面では逆に階層化ですね、2つに分かれているのか、3つに分かれているのか分かりませんけれども、そのように学力における広がりが出てきているということがありますから、基礎・基本のどこまでを義務教育、特に小学校段階、あるいは中学校段階で学力保障していくかということは、もっと具体的な目標を設定して、真剣に取り組まなければいけない問題ではないだろうかと思います。
 ここの議論では、教育条件の整備の問題についてはほとんど出ていません。ただ、考え方だけが出てくるのですが、これは教育条件の整備ともセットになってこなくてはいけないだろうし、あるいは教員の教え方の問題ともリンクしてきますから、総合的に検討しなければなりません。どこかでそういうことをしておかなければ、何となく片一方は理念だけ、片一方は条件だけというようなことになりかねないのではないかという気がして、そのようなことも含めて、分科会としてはトータルでの議論もさせていただけたらと思います。

委員 高倉委員
 課程主義、修得主義などの概念について、きちんと整理していただきまして、本当にありがとうございました。
 課程主義と例えば年齢主義というようなことを注の枠の中で考えてみますと、前のほうは昭和16年まで、それからその後というような区切りで、制度的にはそのとおりでございます。ただ、課程主義、修得主義を考える場合に、日本の古い制度の場合には、キャッチアップポリシーと結びついた意味での課程主義、修得主義は否めなかった事実ではなかろうか。今日、私どもが仮に課程主義や修得主義にウエートを置いて義務教育の再構築を考える場合に、それはキャッチアップポリシーというものとはきちんと線を引いて、新しい今日的なものを盛り込んでいくという点を鮮明にして議論を進めていくことが大前提になるのではなかろうかと思います。

委員 野村委員
 私も修得主義を主張してきた者の一人ですが、やはり今度のOECDの学力の問題とも関わりますけれども、また、無学力な子どもの問題があります。学力が低いどころか、学力の全くない子どもが非常に多く輩出されてきているという現状から、国民として、あるいは個人的に見れば、ある意味では人間として、これからの生涯を生きていくために、どうしても身につけさせておかなければならない基礎・基本を、それぞれの学年ごとに明確にして修得させるという修得主義をとらせるべきではないかと思います。
 その一方で、やはり義務教育段階というのは、自分の持っている様々な可能性があると思いますが、その様々な可能性の一部しか開かれないまま、大人になっていくことが多い。例えば理科に非常に力のある先生に受け持たれた子どもたちは、文系的な能力が非常にあったかもしれないのだけれども、その理科の先生に受け持たれたことによって、自然科学的な目が開かれて、理系のほうに進むという場合が少なくない。調査をすると、大抵そうです。小学校時代、中学校時代にどんな先生と出会ってどんな教育を受けたかによって、文系とか理系が決められる。実は、その反対の面もあったかもしれない。義務教育段階というのは、様々な可能性があり、持っているものが十分に開かれて、その中で得意な学科、分野をそれを基盤にして伸ばしていくという側面が一方ではあるのではないだろうか。
 実は飛び級という場合に、そういう可能性が開かれないまま飛び級をすると、それとは違うものを本当は持っていたのだけれども、それが開かれないまま飛び級で上がっていくようなことも起こってくる。飛び級は成績のいい子どもを伸ばすという意味があります。しかし、成績のいい子どもは、ほかの分野もそういうものを持っていたはずだ。だから、義務教育段階では多面的な能力を開いて、その上で、その子の得意な学科、得意な領域を伸ばしていくようにすべきではないか。その部分がこれまでの意見の中にあまり問題にされてこなかったような気がするものですから、基礎・基本に加えて、そういう部分を考えていかなければならないと思い発言します。それが義務教育の仕事の1つではないだろうかと思います。

委員 小栗委員
 実力がなかなか上がらないというところからいきますと、修得主義が出てくることは理解はできるのですけれども、実は現在でも高等学校、大学というのは修得主義であるはずです。御承知のように、高等学校でも同じ修得単位がとれたといっても、生徒の学力は千差万別であります。極端な話ですが、同じ高等学校卒業という資格を持っていても、それで同じテストをしてどういう結果が出るかといえば、極端に上下がある。これは高校だけではないと思います。大学の卒業でも同じであると思います。
 そうしますと、全国統一テストをして、それに通った者だけを小学校卒業とするということに本当に踏み切れるのかどうか、私はちょっと自信がない。それをやるとすれば、ずっと卒業できない子どもは当然出てきます。そういうことを国民が本当に承知するのかどうか。これに関してはかなり抵抗が大きいと思います。今、高校の現状からいいますと、それぞれの学校で認定しているわけですから、緩やかな修得主義で、何とか97パーセントの進学率をカバーしていますが、高等学校卒業認定の国家テストをやるということになると、どのぐらいのレベルの試験をやるかによるのですが、これがあまりやさしくなりますと、いわゆる進学校と呼ばれている生徒に関しては、その試験はほとんど意味がない。解けるのは当たり前ということになって、むしろ勉強しなくなるかもしれない。それから、あるレベルの生徒に関しては、小学校と同じように何回受けても、高等学校は入学はしたけれども卒業はできないという現象が起きます。これを行うということに関しては相当広範囲の国民的なコンセンサスが必要になってくると思います。保護者が納得するかどうか。現場の人間といたしまして、今の段階で保護者が納得するとは思えません。その辺も含めてお考えおきいただきたいと思います。

委員 平出委員
 私もただいまの意見に賛成でありまして、7ページの6行目ぐらいからありますように、年齢主義と修得主義は二項対立的なものではないという考え方をしていきたいと思います。小・中学校段階でいわゆる修得主義が徹底されますと、恐らくはただいま話がありましたような、高等学校、大学が、今後どのような教育状況になるのか、大変危惧いたします。
 例えば大学では、工学部あたりでは、JABEE絡みで、それぞれ国際的なある水準を保障するということを各大学で検討し始めておりますし、私立の文学部とか、経済学部も含めて、何とか大学スタンダードと称して、それぞれ学力を保障するカリキュラムとか、評価を実施する大学がだんだん出てきていますが、まだまだいわゆる修得主義、学力を十分に保障するというところまではいっていないのではないかと思います。そういう意味で、小・中学校段階で、この修得主義を徹底しますと、それ以降の教育は大変大きな混乱を生じてくるのではないかと危惧いたします。
 そういうことで、ここにありますように、年齢主義を基盤としつつ、具体的な指導方法として修得主義の視点、あるいは実質的には修得主義を実現させるような努力を様々な形で取り入れていったほうが現実的だという感じがいたします。

委員 市川委員
 私もただいまのお二人の先生の意見に近いのですが、確かに必要最低限のことは修得してほしいわけですけれども、その責任を個々の子どもに課して、修得できなかった子は落第であるという形にするのは、日本においてはかなり抵抗感が大きいし、問題が出てくるだろうと思います。
 私がここに書いたのは、例えばそういう全国一斉テストをするにしても、それで修得が十分でないというのは、むしろ学校を指導するべきであって、個々の子どもに対して留年なり落第という形で持っていくのは難しいのではないかということです。それから、その基準を決めるときに、どうしても何が必要最低限なのかという議論が起きてくると思います。どの教科のどれが必要最低限か。指導要領の中でも一種の重要度、ランクづけのようなことをきっとやらざるを得ないと思いますけれども、これは非常に難しい作業だと思います。また、芸術系の教科なども入ってきますと、何が必要最低限かということが更に難しくなります。また、それによって子どもたちの学習が偏ってしまったりということが起きてしまいます。
 先ほども出ました小学校、中学校などでいろいろな可能性を開くということは、私も大事だと思います。それは必要最低限ではないかもしれないけれども、ぜひ経験してほしいというのが、特に芸術系の教科などでもあると思います。そういうものも含めて経験してもらうという形がいいのではないかと思います。
 ただ、日本ではこれまで必ずしも修得主義ではなかったのですけれども、勉強すればやはりメリットはあるということはとられてきたと思います。つまり、高い学力を身に付ければ、その先、いろいろな進学先が開けてくるというメリットによって、子どもたちが勉強する。それは今でも保たれていると思いますし、履修主義をとったからといって、子どもたちがみんな勉強しなくなるかというと、必ずしもそうではないと思いますので、制度としての修得主義は少し難しいのではないかと思っています。

委員 角田委員
 結論から言うと、私も履修主義でよろしいのではないかと思っているわけですが、もちろん最低限の基礎・基本はマスターした上で、義務教育ですから、出してあげたい、出さなければいけない。これは現場の人間として当然思っているわけでございますが、一体何を検定をするのか。学力とは何かということを考えたときに、今でさえ学力というものが、どうも知力に偏り過ぎてきている傾向がある。特に学力テストということの表現が行われてきたときに、知力のほうにかなり傾きが出てきたような感じがするのです。小学校教育あるいは義務教育というのは、知・徳・体をやはりバランスよく保っていくことが大事だろうと思っています。必要最低限の知の側面は維持しながらも、しかし、それがもっと偏ったときに、非常にゆがんだ形になってくるのではないか。今の保護者の状況を見ていて、非常にそのことが心配であります。
 したがって、もう少し日本人全体が習熟していかないと、この修得主義を導入することについては難しいのではないかと思っているところです。

委員 森川委員
 今の件につきましては、私も今の学校の置かれている状況、背景、特に小・中といいましても、今の学歴主義的な考え方が背景に厳然としてありますので、そういう点から言いますと、これまでの考え方の中に、多少、子どもたちの能力に応じてということは入れていいと思うのですが、そういう点を十分配慮しなければならないと思います。
 義務教育の目的のことで、これは現在、学校教育法では、小学校、中学校の目的につきましては、普通教育という概念を使っているのです。初等段階の普通教育とか、中等段階の普通教育。普通教育の概念については、議論の中ではあまり出なかったのですが、これはおそらく例えば専門教育に対してとか、あるいは職業教育に対しての概念として、これまで普通教育という概念、コモン・エデュケーションとジェネラル・エデュケーションなのか、いろいろな議論があったようですが、これは内容から見て、義務教育の小学校段階、中学校段階、それぞれの中に何か共通にくくる概念が必要なのではないかと思うのです。基礎・基本とか、あるいは子どもたちにどうしても身に付けさせたい最小限のミニマムの能力という議論はあるようですが、何かこれまで使ってきた、特に学校教育法に示されているような、普通教育というあいまいな概念ですけれども、こういうものを少し詰めておかないと、小学校と中学校と教育は同じなんですかという話になりますので、初等段階と中等段階における普通教育の概念をどうするかということが、もう少し詰めなければならないのではないかという意見です。

委員 宮崎委員
 検討の方向性の中で、子どもの心身の発達についていろいろ書かれたり、身体の発達の状況から、義務教育の仕切りの検討もすべきという御意見がたくさんあったのですが、私は子どもの学びの中身の点からも少し考えていく必要性があるかなと思っています。現在の学校教育の中で、特に小学校、中学校、ほかもそうですが、言語による指導が中心で、言語による経時的な処理をしていくことが教育の一番のポイントになっていると思います。しかし、最近わかってきたことでは、子どもが視角優位で、なおかつ同時処理、例えばどんなことかといいますと、通常の学校では、今、3時45分だとすると、3時というのを聞いて、45分という言葉が出ることを受けて、子どもは判断していくわけです。つまり、言語で教育をしているわけです。ところが、言語では全くついていけない子がいて、時計を見せたら3時45分というのがパッとわかる。つまり、同時処理をするというタイプの子どもたちが結構多いということです。
 つまり、学校の教育の中で、教え方、方法に関して、子どもたちの学びを具体的にもう少し検討していく中で、義務教育の中での履修主義や修得主義のことも考えていかなければいけない。そういう時代に来ているのではないかと思っています。
 では同時処理が優位な子、つまり視角優位のお子さんたちが能力がないかというと、決してそういうことではなくて、かなりレベルの高いお子さんたちがいるわけですが、現在のところお客様になっているという状況があります。
 その点では、ここにもたくさん心理学の専門の方 ―私は専門ではないので、これ以上申し上げられませんが、そういった視点からの発達の状況や学びをとり入れていくような方法論も考えて、子どもたちの能力問題、学力問題を考えていく必要性がある点もぜひ検討していただければありがたいと思っています。
 もう1つ、2ページ目の検討の方向の就学猶予免除の問題ですが、免除規定というのは、現在、訪問教育等が整備されていますので、免除規定というものに関しては、今後、検討が必要だと思いますが、猶予規定という観点は、今後の就学の弾力化という視点から考えて、ぜひ残してもらいたいという意識で申し上げたつもりだったのですけれども、ここは反対になっているような気がします。就学猶予免除規定のうち、猶予規定は残すにしても、免除規定の検討はすべきではないかというのが、私の立場で思っていることです。

委員 田村委員
 今の履修あるいは修得にかかわる議論ですけれども、現状は履修主義が中心になってやっているわけですよね。その現状に対する批判がもしあるとすると、今回の問題が世論に支持される危険があるという問題意識を持つべきだろうと思うのです。履修主義でそのまま現状ではいかないと現場が持たないという議論をするのではなくて、履修主義と修得主義、どっちをとったら世の中が納得するのか。修得主義にしたらこれだけのことをしなければいかんし、これだけお金がかかりますよと。履修主義なら、今までのやり方をこのように変えるとか、このような議論の展開をしていく必要があるという気がしております。つまり、現状に対しての批判的な勢力が非常に強くなってきているわけですから、そのことを意識して議論しないと、今こうだから、これしかできませんよという議論で終始してしまうと、何のためにこの会を持ったかわからなくなるのではないかという心配がありますので、その辺はどのように整理して議論したらいいのでしょうか。
 個人的には、私はやはり履修主義でいくよりしようがないと思いますが、今のままではどうしようもないから、入口と出口を少し変える、流動化するというのでしょうか、入口に関しては前から言われているのですが、実は午前中、ある地域の小・中の校長さんたちと懇談してきたのですが、今、小学校の校長先生方はかなり悩んでいます。小学校1年生の問題です。これは何とかしなければいけないだろうと思います。
 それから、出口の部分でいえば、現実的にも公立が中高一貫校を始めるという時代に、義務教育を含んだ制度設計を始めているわけですから、流動化は始まっているわけです。それを踏まえて、どういう議論を展開していくかということで進んでいかないといけないのではないかという気がするのです。履修主義でいかないと、いろいろな面でもたないと思うのですが、それで世論が納得するかどうか、その辺の見極めをしないとこの議論が意味のあるものにならないような心配があるものですから、ちょっと発言させていただきました。

委員 若月委員
 今の問題ですけれども、今日いただいた資料を見ますと、児童生徒に学力を保障するために……。この問われている学力の中身がどのように規定されているのかわかりませんので、それによって履修主義なのか、修得主義なのか、議論がまた改めて始まるのだと思います。しかし、とりあえず現在の学習指導要領を前提として考えた場合に、基本は今までやってきたような年齢主義という1つの日本の教育文化といったらいいでしょうか、こうしたものを今動かすということは、国民感情として難しい部分があるでしょう。ただ、今回のOECDの報告もそうですが、いろいろ抵抗がありますから、今までどおりにしましょうということになると、いわゆる学力低下に対する社会の不安や要請といったものにどう応えるかということが、全く出てこなくなるわけであります。
 したがって、現在の学習指導要領を前提とした場合、やはり年齢主義といったようなものは基本的に置いておきます。ただ、それで今までのとおりやっていたのでは、学力といった点について、今、下がっているから、下がっていないからというよりも、これからの国際社会の中の日本人ということを考えたときに、やはり学力を考えなければならないと思います。
 私はこのときに、実は修得主義という主義という発言をしているのですが、今日いただいた資料でいくと、やはり履修主義のほうが現実なんだなと。ただ、こういう部分では履修主義といったようなものを、きちんとこれから学校の中で、1つの指導体制といったらいいでしょうか、仕組みとしてしっかり入れて、学力といったようなものを、ここでしっかりと歯どめをかけると、そういったことで学力の保障をしていきますよという提言が、現状に対しての具体的な提言になるのかと思っております。

委員 藤崎委員
 私も同じような意見ですけれども、いきなり修得主義をとるというのはなかなか難しいと思います。もちろん、それに近い形を考えていかなければいけないとは思います。やはり学力を考えたときに、知的な部分にばかり目がいきますが、特に義務教育段階では、まさに心の面であるとか、基本的な生活習慣とか、自立のための準備期間ですから、そういった意味でも広くとらえると、修得主義というのは無理だと思います。
 ただ、それぞれの段階で、ただ履修するだけではなくて、できるだけ修得に近づけるようなシステムを考えなければいけない。挨拶がきちんとできるとか、これくらいの掛け算はできるとか、最低のレベルからグレードをつけるとか、そういう努力はしないといけないと思います。
 それから、学力というときに、先ほどからお話が出ていますけれども、やはり子どもたちにいろいろな学習を経験させて、全部修得させるというのは難しいですが、経験をさせて可能性を広げてあげるという、そういうところが大事なのではないかと思っています。

委員 永井委員
 検討が必要な背景の部分に対しての意見と、それから義務教育で何を身に付けさせるべきかというところにまたがることだと思いますけれども、私は日本の子育て観、子ども観が、定まっていないというか、混乱している状況にあると思うのです。例えば戦後の日本の子ども観、子育て観を単純化すると、保護と規制の枠の中にとじ込めて、大急ぎで成長させてきた歴史という言い方もできるのではないかと思います。裏返せば、自己決定能力を小さいうちから、意図的、意識的に訓練をしていく風土がないといいましょうか、そういう傾向がある。そこの部分をもう少しバランスよく考えていく必要がこれからはあるのではないかと思います。つまり、自由な選択と自己責任とのバランスの中で、可能な限り小さな大人、小さな市民として扱う場合、徐々に仕組みを考えていく必要があると思います。
 その意味で、ところどころ、市民性の教育とか、あるいは市民生活、職業生活、文化生活を含む人間力という言葉が、あちらこちらにちりばめられていることに触発されて、私は公共性の感覚といいましょうか、パブリックマインドを意図的に身に付けさせていくような教育システムを考えていく必要があると思います。これは実は日本だけの課題ではなくて、アメリカにおいてはサービスラーニングという教授法、あるいはイギリスにおいては2002年度から市民教育の必修化とか、あるいはこの市民教育は、たしかスウェーデンやフランスにも広がっているということを聞いていますが、そういった観点から考えていく必要があるのではないかと思います。
 そうすれば、例えば教育基本法絡みで、この中教審が出した「新しい『公共』」という概念であるとか、あるいは大学分科会が出した「2世紀型市民性を育成する教育」というところとも連動していくのではないかと考えます。その意味で、あえて追加として意見を述べさせていただきました。

委員 橋本委員
 義務教育の年代は、小学校1年生から中学校3年生までを考えてみましても、著しい発達をしていくときで大事な時期だと思っています。幼児期に入ればなおさらですけれども、その中で、学習や様々な活動、体験や経験を通しながら成長していくわけですけれども、よく知・徳・体と言われるわけですが、当然、知・徳・体は大事なことで、あと技ということをいつも考えます。知・徳・体・技が大事ではなかろうか。生活していくための技能や技術、これらも小学校、中学生のときに学ぶ、また、さらにそれが基礎になって、高等教育を学んでいく、また、経験をしていく、そういったことが大事ではなかろうかと思っております。基礎的なことを身に付けさせるということで重要な、そのときに、義務教育の年代で、一人一人の子どもたちの可能性をどのように広げてあげるか。そのためには、いろいろな経験 ―経験というのは、当然、学習を中心としたものや体験や経験がすべて入ってくるわけですが、それらを通して、広げさせてあげる。自分を見詰め、自分のよさをどのようにこれから生かしていくのかということを考えていく。それがまた自立に結びついていくのかなと思っております。修得主義とか、履修主義が、先ほど理論づけでありましたけれども、修得主義の難しさ、こういったことも感じております。

委員 渡久山委員
 私は先ほど申し上げましたけれども、年齢主義が間違っているということを言っているわけではありません。それから、完全な修得主義をとるべきだという話をしているわけでもありません。ただ、日本の場合、最近の高校卒業して以降の子どもたちを見ますと、フリーターとか、ニートという形で、自分の人生の生きざまや目当てをほとんど失いながら生きている若い子どもたちが多過ぎるのではないか。
 それは、1つは私の感じでは、きちんと基礎・基本が十分に理解されないままに学校教育を終わっている。そういう中で、きちんとした知識、あるいは技能、また、はっきり申し上げて意欲まで含めてなくなってきつつあるからであり、それをどうするかということが非常に気になるのです。
 例えば、七五三と言われるのを、もう少し目標を立てて、8割ぐらいの子どもたちがわかるようにしたらどうだろうかという感じのことを、システムとしてつくり上げていく。どなたかも言われましたが、教え方、学び方も含めて、そうしていったらどうだろうかと思います。
 ですから、例えば学力といった場合、知識だけでなくて、ひょっとすると今の知・徳・体、どちらも十分でない。要するに教育課程が十分にできていない、乖離している状況ではないかと思うのです。例えば体育でも、部活動をしない子どもたちは、何も体育をしない、学校体育でもやらない。そうすると、体力も結構落ちている。そのようなことを考えると、今、義務教育段階での最も大事なことは、学力だけでなく、知・徳・体と象徴的に言われますけれども、それぞれのことが結局、指導要領の到達度との乖離問題をどうしていくのかという観点で考えていくのが大事ではないかという気がして、そういう意味での発言をしているのです。

委員 若月委員
 補足なのですが、ぜひお願いしたいことは、2ページの検討の方向の4つ目、ここの「○」印ですけれども、この辺はどういう形にせよ、この次の答申の中にはきちんと、この段階で表明をしておいていただきたいと思います。

委員 木村分科会長
 4つ目というのは、財政基盤の問題ですか。

委員 若月委員
 そうです。

委員 野村委員
 先ほども述べましたように、今、子どもたちの中に、学力の高い子どももいる一方で、低学力どころか、全く学力のない無学力な子どもがいる。また、学びから逃走している子どもたちがいる。この子どもたちをどうするのか。7ページには、年齢主義と修得主義は二項対立的なものではないとあります。もちろんそうですけれども、後のほうに、現行制度では年齢主義だが、実際に教える教員は修得主義的な考え方で指導しているとなっている。果たしてそうでしょうか。多くの先生はこれをやっているかもしれませんが、もしこういう形でやっているのであれば、無学力な子どもたち、学びから逃走している子どもたちがこのように多く生まれるでしょうか。先生の中には、教えさえすればもうそれで終わりだという先生がいるのではないか。先生不信の意見を出して申しわけありませんが、そのように思うわけです。
 私は、何とかして中学に入ってもついていけるようにということで、6年生のうちに一所懸命になって特別補習をやって、責任を持って中学に送り出している先生を多く知っています。各学年でそういうことをやることによって、2年生、3年生に送り出されていく。そういうやり方をとらなければならないのではないか。あまりにも無学力な青年たちの話をある委員から聞きました。日本とアメリカが戦争したことも知らない、原子爆弾をアメリカが広島に落としたことに驚くような青年がいるという。国際化の時代にあってこれでよいのか。そういうことからすれば、修得主義的な考え方を持ち込むべきではないのかということで、ずっと申し上げてきているわけです。

委員 船津委員
 補足になるかもしれませんが、私、今の教育改革の定着、見直し等、すべてを肯定する中で、将来的に進むべきことも大変重要であうと思っておりますが、今の教育の中で、学校現場で何が起きているかといえば、先生、学校を含めまして、親、子ども側に対して応えきれていないという事実だろうと思うわけです。いじめ、不登校をはじめ、いろいろな意味で、学校、先生方に、子ども、地域、親が非常に不信感があるというのは、応えきれていないということです。これはどこに原因があるか考えますと、履修主義であれ、修得主義であれ、今の学校の文化といいましょうか、空気といいましょうか、こういったものは、従来の55年体制を含めまして、旧守的な考え方がまだまだ現存している現状があるのではないかと強く思っています。
 そういった中で、今の教育改革で何が大切なのかということを意識改革する意味で、各種研修会が行われ、研究指定校も行われておりますが、子どもたちはある意味では、少しずつよくなっている、あるいは生徒指導的な面でも、そう考えられる部分もあるのですが、すべて二極化していると思うのです。先ほどから出ていますように、何もしない社会人になる子どもたちのことを思えば、現場で既にそういった一かたまりがある。また、学校で研究指定校もあったりして、学校が非常に活発化しているところで、子どもたちがすくすくと学力をつけているところもあるわけです。では、学校の学力として、一般的な標準テストで、やはり二極化の傾向が非常にあるということで、いわゆる中間層、いわゆる義務教育で育て上げなければならないところの部分の一番肝心な学力というところは、なかなか充実しないという現実を思うときに、教育改革の基本、今までの内容知から方法知へという大転換をした中で、まだまだ先生方の意識が改革されていないということを強く思います。背景の中に、乖離として出てはいるのですが、もうちょっと何か具体性とか、分析的なものがあれば、1ページ目の検討が求められる背景の中に、こういった問題があってもいいのではないかと思いましたので、つけ加えさせていただきます。

委員 今井委員
 もしかしたら背景の中に含まれるのかもしれませんが、勉強がわからない生徒たちの存在があって、現場は何をしているんだという考えがあるのは十分承知で、自分たちの努力不足も考えなければならないということは思っております。
 一方で、もし何らかの形で作文があるのであれば、例えば教育の立場から社会に対する要求みたいなものを出してもいいのではないかと考えています。例えば、保護者の子育てに対する責任の要求とか、これは国民会議のほうでも随分アピールされた内容ですが、ほかには例えば勉強がわからないということに関しては、例えば勉強すれば、努力をすれば報われる社会にもなってほしいし、例えば企業がどういう形で子どもたちを採用するか。今、高度なレベルで企業は戦っておりますので、即戦力なり専門的な知識や技能を持った方の就職がなされるのですけれども、そこに至るまでには非常に厳しい勉強が必要であると思うのです。
 しかし、ごく一般的な努力をすれば、就職する立場になれる、なってほしいと思うのですが、企業へのお願い等々、保護者、就職に関するお願い、また、努力をすれば報われるのだという社会に対するお願いも、もし書いていただければありがたいと考えております。

委員 市川委員
 とにかく高校を出てもなかなか職に就こうという意識がなかったり、いわゆる社会で求められているような常識がなかったりということは、しょっちゅう耳にすることです。ただ、それを修得主義という形で、学習指導要領の内容をどれだけ修得したかということで、何か縛ってしまうことに対する難しさや疑問がたぶん出ているのだと思います。
 最近、よくシンガポールの高校生たちの学習意欲のようなものが比較の形で出てきますが、いわゆる底辺校と言われているような高校で、正確に言うと向こうでは高校とそれを呼んでいないのですが、学習意欲が落ちない。日本の子どもたちであれば、中学、高校で成績下位の子どもたちが非常に意欲を落としてしまうのに、それがあまり落ちないといいますか、非常に高い学習意欲を保っている。研究者などの話を聞いてみますと、やっている内容そのものも、自分がこれから生きていくためにどういうことが必要かということで、昔の日本でいえば、実業高校のような形になるかもしれませんが、設備投資とか、あるいはいい教員を配置するということで、誇りを持ってそういう教育を受けられるようなことをつくっている。
 日本ではなぜか普通高校に行くのがいいことだというふうに社会全体でなってしまって、普通高校に行けばいわゆる指導要領の国語とか、数学とか、英語とか、そういうものにかなり重点を置いたカリキュラム、いわゆるアカデミックなことでやっていかざるを得ないような環境があって、どうしてもそこで学力が遅れていれば、ますます意欲がなくなる。その結果、恐らく自分が就職してからの仕事にも結びつかないまま、結局、フリーターになったりニートになったりしてしまうということがかなり出ているのではないかと思います。
 ですから、先ほどから出てきた学習の仕方などについても、しっかり指導していく。アカデミックな学習についていけるような指導をすることはもちろんですが、中学生や高校生ぐらいになってから学ぶことの中身を、一方では考えていかないと、なかなかこの学習意欲を保っていけないのではないかと思います。
 これも先ほどのお話と関係しますけれども、市民生活とか、あるいは最近、キャリア教育ということをよく言われるような、職業生活に関することは、中学生や高校生にとっても随分必要感というか、やはりこれから生きていくために大切なのだということが実感されるでしょうし、大人も説得しやすい領域ですから、いわゆる修得主義と言うときにも、アカデミックな中身をどれだけ修得したかだけではなくて、そういうことをきちんとカリキュラム内容にも入れていって、修得させるという側面が必要ではないかと改めて思います。

委員 宮崎委員
 4ページに、義務教育で何を身に付けさせるべきかとありまして、先生方に細かくいろいろお書きいただいてあり、そのとおりだと思うのですが、実は先日、ある県の小学校の先生方が出された学び方のルールについて書かれた本を目にしました。特に低学年の時期に、必要な学び方のルールを徹底させる教育をしているのです。例えば、手の挙げ方、返事の仕方、人の話を聞く聞き方、それから学習メモのとり方、文章の仕方、それからお友達の意見に対するこちら側の回答の仕方といったことを徹底することで、子どもたちが能力をぐんと身に付けているし、必要なルール、約束事、今でいうソーシャル・スキル・トレーニングまで含めて教育がされている。しかも、集団の中での自己トレーニングもできている。言ってしまえば、法則化に近いような徹底した訓練をすることで、子どもたちの学力を高めている事例にぶつかりました。
 義務教育で、ここで書かれているような中身は重要なのですが、そのときに具体化する中身が、今、各学校で模索されているのではないか。そういう事例を挙げながら、具体的に義務教育ではこういうことをすべきだというものに持っていかないと、必要な学力を身に付けさせるのだという言い方だけでは、もう済まなくなっているのではないか。そういう全般的な論議よりは、もっと細かい事例で書き込んでいくような必要性、そのことの方がずっと子どもたちの能力、あるいはスキルアップするという面があるのではないか。そんなようなことも、今、求められていることではないかと思いました。

委員 河邉委員
 後ろのほうで、就学の時期についてですが、四角の中には、賛成の意見、それから一定の幅で弾力化すべき意見、慎重な意見とありましたけれども、私の主張の繰り返しになるかもしれませんが、就学年齢の引き下げには反対です。それは現行の小学校の教育を前提にして考えた場合であって、この間、意見発表をなさった岡山大学の附属小学校のような、抜本的に改革するような小学校教育を考えれば、それはまた別の問題かもしれませんが、そのように感じております。
 7ページの一番下の「○」のところで、発達の前傾化を考えれば、早めてもいいのではないかという御意見がありますが、もちろん幼児の姿を見ていますと、発達が進んでいるなという側面と、明らかに遅れているなという側面がありまして、むしろ発達がアンバランス化している。その遅れている側面が、実は学力の基礎となっている部分が大きくて、例えばコミュニケーション能力とか、自己を表現する力、あるいは社会生活を喜ぶ意欲や態度、そんなものが20年ぐらい前から随分遅れているように感じます。ここのところをしっかり育ててから、教科学習を始めるべきだと考えますので、むしろ就学年齢を引き下げるという発想ではなくて、幼児教育をさらに充実していくことが必要だろうと思います。
 御存じのように、日本の幼稚園教育は、いろいろな幼稚園があって幅が広いものですから、まだまだ幼稚園教育要領の示すねらいが必ずしも達成されているとは言えないので、幼稚園教育の充実を図ること。それから、生活を主体とした体験の中で学ぶというやり方を、小学校につなげていく幼小連携のカリキュラムの開発を進めていくこと。それから、今、ちょうど岐路に立っていて、保護者のための保育サービス化しつつある幼児教育に歯止めをかけて、質の高い幼児教育を展開していくために、何らかの行政のバックアップをしていただく。その3点ぐらいが実は必要で、就学年齢の問題はその後からまた、小学校教育のこともいろいろ考えて、抜本的な改革がなされた後で検討されるべき問題ではないかと感じています。

委員 高倉委員
 全体として義務教育について、就学義務ということを動かすことのできない前提として議論が進んでいるように思います。現行制度からいえば、そのとおりで結構かと思いますが、私は前に意見発表したときに、就学義務に対応して教育義務というような考え方での議論も必要ではなかろうか、それは義務を強調するということよりは、むしろ保護者の希望が反映されるという、そこのところを強調するという意味で、教育義務的な考え方も大いに議論しておく必要があるだろう、そういうつもりで申し上げさせていただきました。
 したがいまして、8ページのところの下から3番目の「○」、「例えば」云々、このあたりは、私が何かの発言をしたような気もいたしますけれども、この「例えば」というところは、言ってみれば、これまで今日議論してきた年齢主義とか、あるいは課程主義、修得主義、履修主義というようなものとは違う、これは果たして確定している言葉かどうかちょっと自信はございませんが、年数主義と呼ばれるような義務教育のパターンが、この「例えば」のところに示されております。その中で、繰り返しますが、「保護者の希望が反映され」というそこのところを強調すれば、それを年齢主義という形で実現していく形と、それから教育義務というような形で考えていく、2つの考え方があるのではなかろうかと思います。
 そのように考えた場合に、長くなって申しわけございませんが、教育義務的な発想から、義務教育をとらえ直す、そのようなポイントも必要なのではなかろうかと思います。

委員 藤崎委員
 前の方の2ページあたりの検討の方向というところにかかわるのかもしれませんが、いろいろな見直しをしなければいけないという中で、学力というのは、今、非常に問題になっている。学力とは何か、基礎・基本とは何か。学力を高めるためには、授業時数が多いほうがいいですよね。そんなのは当たり前ですが、授業時数の問題、それから、指導方法の工夫改善、そういうことはあります。
 しかし、皆さんもお感じになっていると思いますが、私は、やはり意欲だと思うのです。意欲を育てること。それから、自分で学ぶという姿勢、自学自習。今、生徒の様子を見ていると、一方的に与えられるものだという姿勢でいます。非常に残念なのですが。学習というのは自分でやるものだという意識を持たせないといけないと思います。家庭学習もほとんどやっていない、そういう状況があります。
 ですから、授業時数が多ければもちろん良いのでしょうが、限られていますので、例えば体育でも週に2時間とか3時間で体力がつくでしょうか。技能がものすごくアップするでしょうか。もちろん学び方を教えて、それが休み時間とか、放課後とか、部活動とか、そういうものに発展していって、体力も技能も向上する。その自分でやる部分が、今、非常に足らないと思っています。ですから、学力アップのためには、時数の問題、指導方法の工夫もありますが、意欲の問題、意欲を育てること、自分で勉強する姿勢を育てること、家庭学習を大事にすること、そういうことをやらないと学力は上がらないと、そんなことを感じています。

委員 野村委員
 今のこととも関連しますが、学力形成には理解→習熟→定着が必要ですが、学校教育というのは時間が限られておりますから、どうしても理解させることで終えざるを得ない。これまでは家庭で習熟させて、定着させて、次の時間にその習熟、定着したものをもとにして、さらに高次の理解をさせてというサイクルで動いていたのですが、社会が変わり、家庭が変わって、習熟、定着させる部分が、家庭教育、社会全体の中に欠如してしまっている。そうした中で、学校で理解させていくものだから、習熟、定着をさせないまま進むということが起こっているのではないだろうか。そういう社会の状況を考えたときに、学校教育の中で、これまでのサイクルと変わってきている現実も踏まえなければならないのではないかということを、今の御意見をお伺いしながら思いました。
 2番目の問題としては、就学の時期のこと、それから学校区分のこととの関係ですけれども、これまでも専門家の意見を聴取しながら議論を進めてきたわけですが、幼稚園教育でやることは一体何か。それから、小学校の低学年の発達段階というのは、現在、どういう状況なのかを明らかにしながら両者の関係を考えなくてはならない。それから、ある心理学者によれば、3歳児の時期に第1反抗期があって、中学・高校が第2反抗期で、その間の小学校3年生、4年生は中間的反抗期の段階だと言う人がおります。これまで意見を聴取した中では、5年生、6年生と中学年との間に、いろいろな面で明確な差があると。今の教科書の教材でも、小学校5年生、6年生の場合は、人間とは何者とか、人生いかに生きるべきかということを考え始める時期で、それに見合った教材が既に用意されているといいます。ドイツの場合でもグルントシューレとギムナジウムなどの中等教育段階との関係について意見を言いました。
 これまで、小学校中学年と高学年の間には明確な差異があるということについて言われてきました。そういう意味からすると、もう一度、幼稚園、小学校の低学年、中学年、高学年との間にどういう差異があるのかということを明確にしながら、6・3制をどうするのか、5・5制にするかどうかということについても検討しなければならないのではないだろうかと思います。
 3番目は、5年生から教科担任制をとっているという場合に、中学校と同じ考えで小学校の5年生、6年生の教科担任制をとることには問題があるであろうと思います。中学校の教科担任制と小学校の場合の5年、6年の教科担任制の場合はどう違うのかという考えに立って、教科担任制を導入するのでなくては問題です。そのことについての検討をしないまま導入すると、これもまた大きな問題が出てくるだろうと思います。

委員 橋本委員
 10ページの上から4行目のところですが、そこに年齢ごとの発達の区切り目はあるがということで、それからさらに2行目に、「学校種の中で完成を目指すのではなく」云々と、こういう文言がありますけれども、私もちょうど小中連携教育を行って3年目になるのですが、各校種間が完結型の学習ではなくて、接続が大変必要ということをしみじみと考えさせられております。もっと早く行えばよかったなというのが実感でもあります。
 今、幼稚園、小学校、中学校との連携教育も行っているところですけれども、今まではどちらかといいますと、中学校の立場ですと、3ヵ年間で学ぶ内容、この内容はわかりますけれども、小学校や幼稚園でどのような生活をし、学んできたのかというその学びの接続が見えていなかった。しかし、今、9ヵ年間の学びを見た時に、その中で、いかに教科間の接続、また学習、さらに指導内容や指導方法の工夫がどのようにされているのかということがわかり、いわゆる相互に研修を深めたことによって、子どもたちの意欲もさらに高まるということがわかってまいりました。
 そこで、先ほどから、意欲ということが出ておりますが、私も先ほど、意欲を高めること、これが一番の課題であるということをメモしたわけですが、これが学習意欲、活動意欲、すべて意欲という形でとらえてよろしいわけですけれども、子どもたちが意欲をなくしている、障害している要因は何なのだろうかということを探る必要があるだろうと思っています。自校においては、一人一人の子どもたちの様子がよくわかっておりますので、何でつまずいているのか、どういう要因があるのかということは見えているわけですが、小・中学生のいわゆる義務教育の子どもたちの学習だけではなくて、すべての活動も含めてですけれども、意欲を疎外している要因は何か。このようなことが意識調査の中ででもあれば、お示ししていただけると幸いです。

委員 若月委員
 3つあります。まず1つは、義務教育の年限についてですが、下げるとか下げないという固定的な何かをするのではなくて、そろそろ弾力的に物を考えたほうがいい時期に差しかかっていませんかという提言は、ある程度必要ではないかというのが、1点目の意見です。
 2点目、9ページですけれども、ここに「(4)学校の区分、学校間の連携」で、「6-3制の見直し」というのが出ています。うちの場合、実は6・3制の見直しという言葉は非常に誤解を招き、苦労しているところであります。この6・3制の見直しというものをポーンと出しますと、うちの区民は、4年制の小学校ができるとか、5年制の中学ができるとか、よその区へ行くと、中学校の年数が違うのですかと、そんなところから説明しなければならなかった。したがって、この6・3制の見直しというのは、あくまでもカリキュラムの編成上のものであるといったようなことを、ぜひこの中では配慮して書いていただきたいというのが、2点目の意見であります。
 教員の中でも、6・3制の見直しというと、学校教育法の6年、3年まで変えるのかということがありますので、この辺の表現は十分に配慮する必要があると思います。
 それから、3点目です。学校間の連携の話が出ているのですが、ここで連携といって、また連携をしましょうという答申は、私はあまりおもしろくない。何度も言われていることですが、一体何をどのぐらい連携したのか。私の知っている範囲では、その内容は、全部とは言いませんが、非常に貧弱であり、形式的であり、おざなり的なものが多いです。
 したがって、何のために何を接続するのか。今までの連携の在り方について、もう一度この時点で連携を見直しなさい、見返したらどうですかという提言をしない限り、ただ連携と言ったところで、全く現状は変わらないだろうという気がしますので、その辺の配慮をしていただければありがたい。

委員 田村委員
 2点ほど申し上げさせていただきます。1つは、7ページになるのでしょうか、就学時期の問題で、幼小連携の中で義務教育をいろいろと考えたほうがいいのではないかという議論をしたほうがいいという考えです。
 要するに連携することによって、学校が変わらないと意味がないのです。ですから、幼小連携であれば、小学校が変わらなければしようがないという話です。幼小連携、あるいは小中連携の中で実態を見ていると、前にもお話ししたかもしれませんが、幼小連携でうまくいくのは、小学校の先生ではなくて、幼稚園の先生が出てくるとうまくいく。それから、小中連携ですと、中学校の先生が出てくるとうまくいかなくて、小学校の先生が出ていくとうまくいくというような実例もあるのです。
 その辺のところを考えると、学校が変わらないから、接続をさせることをうまくするという発想ですと、連携はうまくいかないし、意味がないと思います。連携をきっかけとして、学校が変わるということですね。要するに小学校がそのままで、連携することでうまく受け入れるのだというのではなくて、連携することで小学校が変わるということを期待して、意見を申し上げていることが1点です。
 2点目の学力の問題ですけれども、これは、今回、PISAの結果も出ているわけですが、個人的な感想を言うと、全体が下がったというよりも、格差が広がったという結果ではないかと思っています。そのことは、今後、ますます広がっていくわけです。残念ながら、我が国の学力というのは、大学入試が縛りになっていたわけです。ところが、大学入試が今後ますますやさしくなってくるわけです。試験なしで入れるという状況が展開していけばいくほど、その格差はいよいよ広がっていくだろう。しかし、難しい大学は依然として非常に厳しい試験をやっているし、これも当分の間続くでしょうから、その部分は保障はできるわけです。それは国の構造としてそうなっているのだということを訴えないと、これは現場ではやりようがないという面が出てくるのではないかという気がします。
 もう1つ言いたいのは、PISAの結果、日本の順位とアメリカの順位について、4つの項目を見ると、全部アメリカのほうが下なのです。しかし、アメリカ人はそれを全然気にしていないのです。つまり、15歳とか、12歳という年齢で、そんなに気にしていない。問題はその先だと考えているのです。ですから、問題はその先だというふうに日本人全体がよく考えられないと、ちょっと混乱するのではないかという気がしております。
 これは実際にお話ししたかもしれませんが、読解力が世界一だというのでフィンランドに調べに行った方から、フィンランドの人が言っているということで聞いた話ですけれども、その理由は、フィンランドというのは人口が非常に少ないものですから、子ども向けのテレビの番組は全部、吹き替えができないのだそうです。すべてスーパーインポーズといいますか、要するに字幕でテレビを流すそうです。フィンランドの子どもは、字幕を一所懸命読みながら、漫画を見ているそうです。それが原因ではないかとまじめに言っているフィンランドの関係者がいたそうです。社会のいろいろな仕組みが、その程度のことは支えるのだろうと思います。あまり大げさに考えないで、しかし、一番問題は、15歳から始まって、大人になって、例えば科学的リテラシーとか、関心というと、日本は世界最低なのです。これが問題なのです。そういうことについて、これは問題だということをぜひ言っていただかないといけない。これはマスコミの方もいらっしゃいますが、かなりマスコミの責任もあるのではないかと思います。そこのところを誤ると、日本の教育を考える場合に、問題が本当の意味で解決しない。そういう危険があるのではないかと思います。もちろん低くていいと言っているのではないですが、それは私は大した問題ではないと思います。将来、つまり15歳以降の方が問題だ。しかも、それは今後、大学入試がやさしくなってきますから、ますます格差が出てくるのです。格差が出てきてもいいのかどうかということを議論する。アメリカはそうなのです。要するに難しい大学はものすごく難しい入試をやっているけれども、やさしい大学は全くやっていない。ですから、学力にものすごく格差がある。それで国として何の問題もなくできていると言う人と、そうでないと言う人がいて、議論が分かれるのですけれども、その辺は冷静に分析して議論しないといけないのではないかと思っております。

委員 今井委員
 主な意見のまとめの中に含まれていないので、質問としてお伺いしたいのですが、教科書の問題です。義務教育は無償であるということで、教科書の無償配付。私が賛成だということではないのですけれども、よく同僚と、あまりにも子どもが物を大事にしないので、教科書を買ってもらったほうが良いという話をしないこともないのです。教科書について、何らかの形で今の仕組みを変えるとかという話し合いを進められているのか、また、検定の問題としても、例えば今回の読解力の問題でも、教科書が仮に読解力中心であるのであれば、さっきのテレビの吹き替えの問題ではないのですが、その部分ではたぶん単純に上がるだろうという話も現場サイドでは行われているようなところがあります。教育の達成度なり何なりの度合いとして、教科書はかなり重要なポイントであるのではないかと考えます。とりあえず、まとめの中に全く入っていなかったので、意見、また質問として発言させていただきました。

委員 平出委員
 7ページの「就学の時期」の1つ目の「○」でございますが、私が相当早くに主張していたことがこれなのです。たった1行しかないのですが。実は幼稚園、いわゆる年長さん組の子どもの心身の発達状況を見ますと、一昔前に比べますと、相当成熟が早まってきているという事実があります。年長組さんの知的活動、体力的なパワーを考えますと、1年早めて就学したほうが、そろそろよろしいのではないかということで発言させてもらいまいた。
 しかし、5歳児の実は遅生まれと早生まれではかなり差がございまして、私立の小学校の入学式などでは、ある私学はわざわざ早生まれさんを対象にしてテストをやる、遅生まれだけでやるというぐらいに個人差があります。その早生まれ、遅生まれの子どもの知的活動と体力というのは、小学校へ入っていつまで平均して続くかという研究が、心理学でかつてあった。それは4年生ぐらいまで平均して続くのですね。5年生ぐらいになって、やっと遅生まれと早生まれというのは、平均しますとさほど差がないという事実があるわけですので、できましたら小学校4年生までを一つの段階にして、そして幼稚園の年長組さん等を含めて5年、今の5、6年生を中学校1、2、3を一緒にして5年、5・5制というのを主張させてもらったわけであります。
 なお、いろいろな意見が出てきて、だんだん自信がなくなるわけでありますが、特に学校間連携を考えてみますときに、中学校の不登校というのは中学1年に非常に多い。高校中退も高校1年に多い。大学も、中退はやはり1年に多い。大学では1年次生に対しての教育をいかに充実させるか、補習教育も含めてオリエンテーションなどを一所懸命やっているのですが、それぞれ学校が、小学校で立派な卒業式をやってしまって、完結させてしまう意識がどうも小学校にあるみたいだ。中学校も中学校で卒業式をやって、涙を流して高校に送り込む。そこで完結。それぞれ完結させる意識が強過ぎるがために、今度、雰囲気が違ったところに入りますと、不適応を起こしてしまう。そういうことも含めて、もっともっと学校間連携の質的な改革ですね。相互に行き来がかなりできるような体制づくりなどをしなければならないだろうという気がしております。

委員 市川委員
 おそらく今の就学時期の問題にしても、学年の区分についても、事実として発達的にどんなことが言えるのかというのは、比較的一致していらっしゃるのではないかと思うのです。4年生と5年生ぐらいの間で、全体として見れば大きな区切りがある。その区切りというのは、昔に比べれば少し前倒し的になっているだろうということとか、それから5歳くらいから、今だと随分発達してきている子どもが多い。しかし、個人差が依然としてあるし、それから先ほど出たように、能力によって随分早い面もあれば、むしろ昔に比べて遅れているというアンバランスな面もあったのではないか。全体としてはどうこうという中で差がある。その場合に、制度としてどういじるか。つまり、全体的に早めるとか、区分を全体として変えようという方向の議論と、私はむしろもう1つ、制度そのものを大きく変えるわけではないけれども、仕組みとして何か補えるものを導入していくということのほうが、現実的ではないかと思っているのです。
 例えば、中には家庭環境の問題などもあって、コミュニケーション能力がちょっと遅れている。このまま小学校に入っても、なかなか授業にはついていけないのではないかという子もいるかもしれませんけれども、そういう子は1年遅らせようということではなくて、学校に入る前に何らかのプログラムを用意する。中心は私は自治体だと思いますけれども、文部科学省のほうでも何らかの支援を行った上で、就学前の教育についての何らかの仕組みを設けることとか、それから小学校と中学校の連携、連携だけでは弱いという話も出ましたので、このままでは中学校に行ってもなかなかついていけないだろうという子どもには、何か5年生、6年生のときに受けられる、法的に行う補充教育のようなもの ―塾と言うと聞こえが悪いのかもしれませんが、それに近いようなものをしっかり仕組みとして用意して、学力保障するとか、そういうことで発達として早まってはいるけれども、個人差も相当あるという状態を、何らかの仕組みを導入して、文部科学省もある程度そういう仕組みを積極的に支援することによって対応していく方策は必要ではないかと思います。

委員 渡久山委員
 今の義務教育、あるいは中・高の連携教育等をいろいろ考えたときに、極めて閉塞的な状況の中で、例えば制度疲労がきているというようなことを言われていることもありまして、大学の先生方といろいろ勉強会をやっているのですが、2つの意見が出ます。就学年齢を1つ前倒しにして、5・5にしていって、1年間義務教育を延長する。ですから、5歳時入学をして10年間、あるいは5・4・4という形で高等学校まで入れて、中高一貫でやっていくという形で制度を考える。そのかわり、今までのように必ずいくつになったら入らなくてはならない、あるいは必ずいくつになったら卒業しなくてはいけないということではなくて、ある程度弾力的なことを考えながら、制度の問題を抜本的に検討してみたらどうだろうか。これはもちろん心理学的な、学問的な研究や発達段階の問題もいろいろあるだろうし、カリキュラムをどのような形でつくり上げるかという問題もあります。そこで、文部科学省もいくつかの実験校がいろいろありますから、やらせているわけですね。そのような幾つかの成果も取り入れながら、大胆に今の義務教育の閉塞状況を打開するために、抜本的な研究をしていくということはいかがだろうかという感じがいたしました。

委員 中嶋委員
 この会に出させていただいて少し勉強させていただいている理由の一つは、例の初中局のほうから頼まれて、外国語部会で、小学校の教科としての英語導入について、年度内に結論を出せという要請があるのですが、今、聞いていると、とても導入どころではないという気がするのです。しかし、そうかといって諸外国を見ていますと、これまた随分このことでも本格的にやっているところも多いし、英語というものも1つの学問というか、教科ですから、そういうことを考えると、これまた考え方をもっと練らなければいけないと思っているのです。ここにも小学校に英語を導入することは賛成できないという御意見もありますが、これは私自身もまだ結論が出ていないので、もう少し考えなければいけません。
 ただ1つ、さきほど委員の方の話にもありましたが、知・徳・体に対して感性教育、前から私は申し上げているのですけれども、情操教育をきちんとする必要があると思います。
 私自身は鈴木メソッドのことをよく言うのですが、やはり情操教育もアメリカを見ると、日本の鈴木メソッドにもいろいろ問題があることは、私自身も体験しながら知っているのですが、日本ではお母さんたちが子どもに「どこまで進んだ?」って聞きます。アメリカでは「今日、楽しかった?」って聞くのです。だから、ミュージック・オブ・ザ・ハートみたいに、ニューヨークのハーレムの中でもすごくみんなが生き生きして、成功している例があります。現に鈴木メソッドは日本よりもアメリカなどですごく普及しているのです。
 それらの問題を含めて、義務教育の中にもうち少し音楽とか、絵とか、唱歌とか、みんなで歌うとか、そういう点をぜひ入れていただきたいというのが1つの意見なのです。ここにも、知・徳・体とありますが、そこのところに何という言葉にしたらいいか、要するに感性というか、情ですね。そこをぜひ入れることによって、今、義務教育が抱えている問題が1つの解決を見出すような気がしておりまして、ちょっと意見を申し上げました。

委員 木村分科会長
 我々に課されている課題は、義務教育に係る諸制度の在り方について議論することでありますが、どうしても教育というと、家庭の問題、地域の問題、全体的なシステムに対する御意見がかなり出たように思います。
 そういうことで、事務局も私も、今日いただいた御意見をどう骨子にまとめていくかというのは難しいところがありますが、次回はで、いただいた御意見をできるだけ生かした形の、骨子に結びつくようなドラフトをお出しして、再び御議論をいただきたいと思います。
 この後、もう少し時間をいただきまして、皆様御承知のPISAの調査結果について御報告をいただきますが、委員の方からお話がありました、教育の側から社会に対しても要求していくといいますか、メッセージを出すことは非常に大事だと思います。
 前に何回も申し上げたかもしれませんが、フルブライトで来ておられる年間600人、200人ずつ三つのグループに分けて来ておられる小・中・高のアメリカの先生方に、必ず質問するのです。どういう質問かというと、「担任の子どもたちの親があなた方の悪口を言いますか」という質問をするのです。そうすると、即刻「ネバー」、絶対言わないと。「どうしてだ」と言うと、「だって親から見たら自分たちは仲間じゃないか。仲間の悪口を言うはずないでしょう」、こういう一言なのです。日本の社会はそこのところが非常におかしくなっているのではないかと思うのです。
 確かに、学校なり先生方が、親御さんなり世間の要求にこたえきれていないという事実はあるのですけれども、日本の場合には、先生の悪口を言うことがある意味ではカルチャーになっているのではないかと思うのです。そういうことに対してもメッセージとして出していかないと、日本の教育というのは、我々が課されているような義務教育の制度についてだけ議論しても、なかなかよくならないのではないかという気がするのです。その辺のところも相当大きい要因として、教育改革を考えていかないといけないのではないかと、私は常々思っています。
 もう4,800人来られたので、私はほとんど毎回聞いているのです。「絶対言わない。親御さんは自分たちの悪口を言わない」、一緒に戦う仲間なのだからということで、自信を持っていますね、彼らは。その辺のところも大いに考えていかなければいけないのではないかと思います。

(2)事務局より参考資料1「OECD生徒の学習到達度調査(PISA2003)のポイント」の説明の後、意見交換を行った。

委員 中嶋委員
 これは各高校1年生の調査対象の人口というのはどのぐらいでしょうか。

事務局 木村教育課程企画室長
 これは国際的に150校以上確保するようにというようになってございまして、全体で4,700が、今回、調査の対象となっております。

委員 中嶋委員
 マカオとか、リヒテンシュタインなんかが入っているけれども……

事務局 木村教育課程企画室長
 おっしゃるとおりでございまして、そこに満たないような小国につきましては、ほとんど悉皆のような状況になっているところでございまして、例えばリヒテンシュタインなんていうのは300名ぐらいしか受けれないのでございます。これはリヒテンシュタインの対象となる母集団のほとんど全員に近いような形でテストを受けているということでございます。

委員 中嶋委員
 アジアでは、ほかに、例えばさっきのシンガポールとか、あるいは台湾は場合によるとOECD、国連の基準からすれば入れないかもしれないけれども、目ぼしいアジアの国、もちろん中国も入っていないし。それはどういう対象地域になっているのでしょうか。

事務局 木村教育課程企画室長
 基本的にはこれはOECD加盟国でございますが、非加盟国につきましても、希望があるものについて参加をしてきているという状況でございます。

委員 木村分科会長
 確かに二極化しているためですよね。
 それと最大の問題は、数学と科学 ―読解力もありますけれども、数学と科学について、落ちたとはいえ、日本はかなり高い。だけど、大人になるとひどいことになるという状況ですね。これは本当にOECDの最低ですよね。99年のサイエンス・アンド・テクノロジー・イン・パブリックアイというのに詳しいデータが出ていますけれども、OECD諸国、今、30いくつあるのですかね、最低という状況になっていますから。要するに、動機づけができてないのですね、日本の場合には。成績はいいのですが、動機づけができていない。
 ですから、毎回申し上げますように、TIMSS、IEAの調査で見ると、日本は少し落ちましたけれども、算数・数学、理科は非常に成績がいいのですが、「好きか」という質問に答えると、その数は非常に少ない。これは1つの教育の難しさでありまして、成績のいい韓国、台湾なども「好きか」と聞かれると、ほとんどが「好き」と答えないという状況です。非常に難しい状況です。
 ですから、たぶんOECDの調査ですから、今、たまたま話題に出ましたけれども、シンガポール、台湾は大人の調査については入らないのです。大人の調査をすると、たぶん台湾もシンガポールも同じような状況になっているのではないかと思います。ですから、教育というのは本当に難しいということを感じます。
 先ほど委員の話にもありましたが、シンガポールだけが例外でして、IEA、TIMSSの結果が非常にいい。しかも、好きな子も相当多いという非常におもしろい結果が出ておりますが、そういう状況でございます。いずれにしても、教育は非常に難しいということがこれからわかると思います。
 事務局より、今後の日程等の説明が行われた後、閉会となった。

午後4時5分 閉会

お問合せ先

初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室

(初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室)

-- 登録:平成21年以前 --