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初等中等教育分科会(第27回) 議事録

1.日時

平成16年 9月10日(金曜日) 13時~15時

2.場所

如水会館 2階 オリオンルーム

3.議題

  1. 義務教育に係る諸制度の在り方について
  2. その他

4.出席者

委員

 鳥居会長、木村分科会長、國分副分科会長、梶田委員、田村委員、渡久山委員、橋本委員、横山委員
(臨時委員)
 市川委員、今井委員、河邉委員、高倉委員、永井委員、西嶋委員、野村委員、平出委員、藤崎委員、宮崎委員、森川委員、若月委員

文部科学省

 近藤文部科学審議官、銭谷初等中等教育局長、樋口初等中等教育局担当審議官、前川初等中等教育企画課長、塩見教育制度改革室長、常盤教育課程課長、篠原外国調査官、その他関係官

5.議事録

午後1時 開会

(○=委員、●=事務局)

(1)事務局より参考資料1-1から1-3について説明。(質疑なし)

(2)事務局より資料1に基づき説明を行った後、意見交換を行った。

委員
 1ページの「1」の最初の「○」の考え方が、相当違ってくると、義務教育の組み立てそのものがまるで変わってきますよね。例えば、本来は子どもたちの権利であった。これは法解釈上にいろいろな考え方があるのは事実ですが、実際には戦後教育の中で私が受けてきたのでも、今よりもかつての義務教育は強制、あるいは義務的な側面が強かったような気がするのです。ここのところは権利であり、なおかつ義務的な側面は当然あるわけですね、国家的課題からすれば。ここのところが、「○」の1つ目のような解釈ですと、この後の義務教育の組み立てはまずできないような気がするんです。ここは私はものすごい違和感があります。

委員
 我々の学生時代というのは大昔ですけれども、当時の行政法の田中二郎さんが、学校と刑務所は特別権利関係だということを盛んに御説得されました。そういうものかなと思って聞いていましたが、今や特別権利関係だというようなことを言う人は誰もいないわけでありまして、普通の社会の中の1つだという理解が世の中の理解になっていると考えられます。そうなると、この権利であったのが、義務というようなことは終わっているのではないかと思います。普通の社会で、必要に応じて学校に来ている生徒が学んでいるという形になっているのが実態ではないか。かつては特別権利関係というのは通説だったそうでありまして、昔はそれで全部整理されていましたから、こういう権利義務の議論が出てくると思いますけれども、今はそういうところは終わったのではないかと思っております。ちょっとこういう区分けは現状では当たらなくなっているのではないかという気がします。

委員
 今問題になっている点は、私の意見を発表した部分の文言ですが、これはあくまでも法的な権利義務関係ではなく、一般論としての子どもにとってかつては学校というところは行かせてもらえるところであったという意味での権利である。そして、今は万人が行かなければならないところに変わっているという点において、義務もしくは強制的な要素を帯びているという意味でありまして、法律的な意味での権利義務関係ではないということを補足しておきたいと思います。

委員
 権利というのは、教育を受ける権利は憲法に規定されているわけで、その憲法に規定している能力に応じて教育を受ける権利という文言を、教育基本法にも維持したいと思う気持ちはあるんですが、これは内閣法制局の意見等もあって、憲法でいう権利文言をそのまま教育基本法には書かないという考え方で50何年きちゃったわけですね。今回の教育基本法の改正についての中教審の審議でも、大体そういう方向で我々は納得して、教育基本法のほうでは、能力に応じて教育を受けることを保障するという言い方で基本法は書くとなっているわけです。果たしてそれで我々がこれからやっていっていいのかどうかという問題はあると思います。
 それから、その問題については、3ページの上から4番目の「○」が、もう1つ大事なことを言っていまして、「1」として「国家・社会の構成員として相応しい最低限の基盤となる資質の育成」のためにやるのだから、学校に来なさいということを暗に意味していると思うのです。一方では「2」番で、「国民の教育を受ける権利……」、括弧して「(学習する権利)」と言っていますけれども、この2つですね。2つというのは、「2」の中が2つに分かれていまして、「教育を受ける権利」というのは、先ほど申しましたように憲法に書いてある権利ですけれども、一方、「学習する権利」のほうは、我が国の法律体系の中では何ヵ所かに出てくるけれども、容表的には書かれていない。特に教育基本法に「学習する権利」をうたうかうたわないかは一度中教審で審議しましたが、結局、書かなくてもいいのではないかということで、通っちゃった。ただ、1ヵ所だけ答申の中に、その文言は残してあるという状況になっています。そこのところ少し御審議いただければと思います。

委員
 子どもたちの学習への権利というのは、今の近代的な法体制の中でも、あるいは社会的にも、それは認められていることだと思うのです。特に子どもの権利条約あたりを含めても、もちろん日本国憲法においても認められている。だから、法的なだけではなくて、やはり市民権としての、あるいは基本的人権としての教育への権利というものはあるだろうと思います。
 ただ、ここで強制されることによって変質しているというのは、今のように学校へ行かなくてはならない、あるいはそれも就学主義というか、あるいは履歴主義というか、そういう形のものだけではなくて、戦前の就学義務であったのを何となくそのまま引きずっている面も社会的にあると思うんです。ですから、自ら権利があるから自分が学校に行くのだというような子どもたちの認識というのは十分になされているかどうか問題だと思います。
 また、教育における私事性みたいなものを考えていきますと、学び方についてもっと自由でなければならないという考え方もありますし、特に学校選択の問題等を考えていきますと、保護者の教育を受けさせる義務についての問題も内容的にも違ってきていると思うのです。
 ただ、今の公立学校のより多くの場合、何となく変質という言葉が適切かなと思うのは、学校に好きでも嫌いでも行かざるを得ない。だから、不登校になる。これはだから、今度は学びからの逃避という言葉が出ているんです。学ぶ権利どころか、学習からの逃避、あるいは学びからの逃避という形で、自らの権利を放棄している、あるいは放棄させられていると見てもいいと思いますけれども、そういう状況が起こっている。
 それはなぜだろうかというと、1つには、十分に勉強がわかる、あるいは学校が楽しいというような雰囲気にない。だから、入学当時は、生き生きしたまなざしの子どもたちでも、2年、3年とくれば、全く元気がなくなってしまう。それは現在の学校の持っているマイナスな面ではないかと思うのです。なぜだろうかというと、実はカリキュラム全体を見ますと非常に豊かで、あるいはそういう形で確かな学力や生きる力等をはぐくむような形のものになっていますし、知識的にもそうなっているのですけれども、だんだん受験体制の中に組み込まれていって、最終的には日本の今の学校教育の最も規定しているものは、受験教育というような感じのものになっていないか。だから、カリキュラム自身も受験に全部シフトしてなされていく。
 例えば、よく言われるのですけれども、高等学校あるいは中学校の現代史のあたりは試験に出ない。受験に出なければ現代史はやらない。ですから、日本の子どもたちが、日本がアメリカと戦争を知らなかったというようなことを、マスコミでそんなことを言う人たちがいますけれども、それは現代史がなかなか受験に出ないから、受験のためにそれを勉強する必要はない。こうなってくると、カリキュラムが、今実際に学校で学習されている内容が、そういう意味では変わってきている。そこに変質している。本来あるべき義務教育が、変質という言葉で表現されるような格好になってきているのではないか。こういう面もあって、この文言になっているのかなと思うのです。
 今、委員の先生からのお話はそういう意味とは違うかもしれませんけれども、学校自身がもっとそれを本来あるべき姿に持っていくべきだろう。ですから、そういうことで考えたら、ここをもっと生かして積極的な意味でとらえ直してみたらどうだろうかという気がいたします。

委員
 権利とか、義務という言葉がそのままで出てくると、何か非常にごつごつしてという感じが私はどうしてもします。結局、権利というのは、人間という生物的な種は、どうしても学ばなければ、あるいは教育を受けなければ、人間になれないわけですよね、一人前に。つまり、初めからプログラムとして、アリやハチみたいにいろいろなことが植え付けられていれば、それなりに年数がたてば、いわゆる成熟だけでいろいろと社会生活もできるようになるし、あるいは例えば巣のつくり方とか、全部生活上の技能も修得できるわけですけれども、人間の場合はオープン・プログラムなのです。オープン・プログラムだから、具体的なことは全部後で学ばなければしようがない。
 そういう意味、人間の基本的な権利といいますか、人が生まれてきたら、本当に一人前の人間になるためには、いわば権利として学ばなければいけないし、教育されなければならないというものはあると思うのです。これは社会的なものでなくて、人間というものの基本的な在り方としてね。権利の問題というのは、そういうことだと思います。人の社会に生まれてきたのだから、やはり一人前の人間になるように教育の機会が与えられなければいけない。それを活用しなければいけない。
 ただ、目標意識がわからなくなると、よくありますわね。人間というのは、ほっておいたらみんな立派に育つものだみたいなね。一時期、いろいろなところで言われましたけれども。その場限りといいますか、間違った人間観がはびこってきますと、勉強するのは義務になっちゃうのです、学校へ行くのは。結局は、これをやらなきゃ人間になれないというところであれば、権利であったものが、何でやっているかわからんけれども、行かされるんだ、勉強させられるんだ、これこれやらされるんだという、そんな義務感になってしまうのではないか。そこのところは、裏腹だというね。権利であり、義務であるという、そういう基本的なとらえ方をしておかなければいけないかなと。
 受験もそうだと思うのです。受験という制度は、民主主義社会では不可欠な制度だと思っております。ただ、これが何かを突破するだけの勉強になって、しかも、何のためにやっているかわからない。しかも、それがある社会的な役割を自分が獲得するための1つのチャネルづくりではなくて、社会的にプライドを持てるための唯一の道みたいなとらえ方に、いわば変質というか、堕落というか、目標が見えなくなって、形骸ばかりがひとり歩きするといいますか、そういうことになるから、受験というものが非常にまずくなっているのだろうという気がします。
 そんなふうに考えますと、権利とか、義務というのをどこかで使わんといかんときには使わんといかんでしょうが、あまり表に出さないで、どういう社会になろうと、「2」の3番目の「○」ですが、日本の社会を構成していくときに、どの程度の知識を持ち、力を持ち、あるいは関心を持ちという最低限のものがなければ、日本の社会は交通標識1つ立てていいのかどうなのかということになるわけですから、国民として最低限必要な能力の育成は考えなければいけない。これは誰も異論がないと思うのです。そして同時に、人として生まれたのだから、1つの権利と言うとおかしいんだけれども、やはりより深く生きるとか、あるいは人とより上手に手を組み合って生きるとか、そういうことを教えてもらう、自分の身に付けるための教育機会を保障してほしいという、それもあるべきだと思うのです。
 繰り返しますけれども、かたく言うと、これが義務とか権利という話になりますけれども、その言葉が今までのいろいろな歴史的ないきさつの中で、若干のかたいニュアンスがついているとすれば、できるだけそれを避けて、どうしても必要なら、この2つの機能をどうやって制度的な仕組みとして保障するのかというあたりで議論したほうがいいのではないかという気がいたします。

委員
 今の話から敷衍したことなのですけれども、これは実際に私、最近経験したので、〈へえー、そういうことがあるのか〉と思ったんですが、ある若い人と話していたら、ちょうど広島の時だったのですが、広島の原爆はソ連か中国が落としたというふうに思っているんですね、その人は。アメリカが救ってくれたというふうに理解をしていたわけです。話をしていったら、アメリカと戦争をしたということが彼の歴史観の中には欠落しているのです。「いや、何十年か前にアメリカと戦争をして、日本が負けたんだ」と言ったら、びっくりしているわけですよ。「そんなことをしたの?」というようなことでね。これは本当にあった話なのです。
 歴史の話が出ましたけれども、現代史をちゃんとやっていないということがあるのだろうと思うのです。それは受験のせいだけにはできないような気がします。というのは、現代史について、この間、新聞で、ドイツとポーランドが戦後の歴史についての共通理解の合意ができたということが報道されていましたが、我が国は、翻って考えてみると、今、韓国とやっているようですけれども、中国とはまだ全然やっていませんよね。これだけ時間がたってもまだそういう歴史の評価についての合意ができていないという問題点を残したまま、子どもにだけ歴史の認識ができていないというふうに言うのは、なかなかに難しいのではないかという感じがしました。
 その点からこの権利義務の話を考えてみますと、義務教育というのは、その人間の人生の座標軸になる最低限のものを身に付けさせるということではないかという気がします。人生の座標軸は何だというと、先ほどから話が出ている権利義務という言い方でいえば、その人間の基本的人権です。これは専門家の意見を聞くと、基本的人権の中核は、自律的人格権だ、つまり自分の人生は自分がつくるのだと、こういう権利がある。これが基本的人権なのだという説明があるわけです。この自分の人生をつくる、人生の座標軸の根幹になるものを身に付ける。そうなると、歴史教育なのですね。ですから、歴史教育を義務教育で議論する場合にはちゃんとやる必要があると思います。これは全員が共通で学べることだろうと思います。それ以外のことは、義務教育で一生懸命教えるものからは外してもいいのかなと率直に思っております。
 大まかな話ですけれども、そうなると、権利義務というのは、結局、その人の基本的人権を保障するための場が学校だという理解を徹底させていくことが必要になるのではないかと考えています。

委員
 これまでのことと共通すると思いますけれども、義務教育の目的・目標についてですが、今、子どもの間に多発している問題行動は、子どもたちの異議申し立てと受けとめるべきである、あるいは足に合わない靴をはかせていることに対する反乱・異議申し立てであるという意見がありました。私は、足に合わないというのは、大きさではなくて、学校という靴の形が合わなくなっているのではないかということを、何度目かの会のときに申しました。それは制度ないしは学校の在り方が子どもの足に合わなくなっている。それに対して異議申し立てをしている。大きく社会が変わって、学校教育の機能が大きく変化しているにも拘わらず、それに対応できていない。義務教育が目指すものが変質しなければならないのに、変質しないままきている。それに対する反乱ではないだろうか。
 そういうことで、社会の変化によって変質した学校教育の機能から考えて、義務教育は一体何を目指すべきかということについて、現代ないしこれからの時代を分析・展望しながら、ワーキンググループなどをつくって、そこで検討しなければならないと思います。私は学校教育の中心は知の教育だと思います。20世紀も知の世紀でした。けれども、環境破壊などを惹き起こした。その20世紀の「負の遺産」を克服するために、21世紀は新しい知を創造しなければならない。その新しい知を創造するために、義務教育段階で何を最低教えなければならないのかということについて、ワーキンググループなどで検討して、この会で審議をすべきではないだろうかと思います。

委員
 関連しまして3ページの3番目の「○」の「教育を受ける権利(学習する権利)」、これはこういうふうにさらりと整理されておりますけれども、これは中身が全くイコールという意味で書いたのではないと思います。私どもは「教育を受ける権利」と言った場合には、足に合わない教育が準備されて、足に合わないけれども、それを受ける権利があるんだという意味合いでも使われるでしょうし、それに対して「学習する権利」といった場合には、何を学習するかというのは、自分でチョイスしてそれを学習するというような、要するに自分の足に合う中身を選択して学習する権利という意味合いで使われるのではなかろうかという気がいたします。
 ということになりますと、「教育を受ける権利」と「学習する権利」を全くイコールで考えるという意図は、ここではないと思いますけれども、ここをどういうふうに仕分けして考えるのかという議論も必要なのかなと思います。それが第1点です。
 第2点は、教育の権利義務というのはあまりギラギラ議論するのはいかがかという御発言がございましたけれども、そのとおりかなと思います。
 と同時に、委員の方から権利放棄というようなことも御発言になりました。私、今まで教育を受ける権利ということに関連して、大体、日本で教育を受ける権利が意識されたといいますか、認識されるようになったのは、残念ながら昭和30年代、いわゆる教育裁判というものが盛んになってきた、その時点からであって、それ以前というのはほとんど意識されない。憲法の規定というものも、それを特に取り上げた本はほとんどなかったというのが事実でございます。
 それはさておきまして、教育を受ける権利というのは、昭和30年代以降、非常に強く認識されてきたにもかかわらず、ただ1点、教育を受ける権利というのは放棄することが許される権利なのか、それとも放棄することが許されない権利なのかという議論は、これはほとんどなされてきていなかったのではないだろうか。そのあたりの議論も今の時点できちんと議論しておく必要があるのかなという気を強く持っております。

委員
 履修主義と修得主義というのは、現実に履修主義をとらない限り、今の学校制度は成立をしないという現実があるんだと思います。例えば普通の小・中学校に障害者学級が置けるのも、履修主義であるがゆえにそういう体制がとれるのであって、これが修得主義であったらとれないですよね。これは非常に矛盾を内包した制度だと思うのです。ただ、現実に教育行政を遂行する上で、では修得主義でやりなさいといった場合に、何をもって修得というか、非常にまた難しい問題がありますが、現実の教育行政の運営はできないような気がします。

委員
 明治時代は修得主義をとっていたわけですよね。ですから、当然、原級留置というか、1年生をひどい場合には6年間やって退学をするというようなことが通常であった。したがって、4年卒業というのも非常に少なかったということも事実でして、就学のありようが大変難しかった、あるいは就学率が上がらなかったというのも現実なわけです。
 履修主義に転換をしたときの話を私はお伺いしたくて、この間質問をしたんですが、そこで十分な論議が戦後されていないというか、何となく履修主義に転換をされたというのが事実だと思います。
 問題は、ここに出ているように、何を修得するかということについての考え方が、先ほど委員の方がおっしゃったような形で、義務教育が人生の座標軸をつくるものだという考え方で、ある程度の整理をしていくという考え方も1つあるのだろうと思うんです。だから、修得主義というのは現実にはなかなか難しい問題をたくさんはらむだろう。大事な要素なのだけれども、どこまでそれが貫徹できるかというのは大変難しい問題だと思います。私自身も明治から昭和にかけての義務教育のありようについて考えたときに、そんな印象を持っております。
 そのことと関係して、教育を受ける権利という視点で1つだけ申し上げておきますと、4ページのところに、学校教育法第23条の就学義務の猶予免除、これは私もちょっとお話をしたのですが、少なくとも就学免除規定という観点は、教育を受ける権利を放棄させるという視点が結果的に残っているわけです。この問題はきちんと整理しておく必要があると思うのです。猶予は大変貴重な視点で残すべきだと思いますが、免除規定というのは現段階では、例えば障害児教育にあっても、いわゆる訪問教育の制度が整備されたりしておりますので、教育を受ける権利という視点からも、免除規定というのは、今後、きちんと検討したほうがいいと思っております。

委員
 修得主義とか、履修主義という言葉もあまり生で使わんほうがいいんじゃないかなという考えを持っております。実際、今の学習指導要領は、どっちかといえば修得主義でできているわけです。少なくともあの12月26日の一部改正の告示で、最低基準であるということが言われた。最低基準ということは修得主義なのです、基本的にはね。これをどの子にもみんなそういう力までつけて、そして、これがだめだったら補習もやってくださいというところで言っているわけで、私はイコールとは言いません、基本的にはその考え方が強いと思うのです。
 教育行政の上ではということをおっしゃいましたけれども、教育指導のほうからいうと、カリキュラムというのは積み上げになっていまして、あるところでこのことがわからなければ、次の学年でこのことがやはりやれないという基本的な構造になっております。したがって、ある意味での修得主義的なものがなければ、学校は積み上げの、例えば9年間なら9年間の積み上げの教育はできません。
 ただ、先ほど御指摘のように、これの運用の仕方にはいろいろとありまして、皆さん御承知だと思いますけれども、今から30年ほど前に、国立教育研究所が日本の学校の100年史を10巻ぐらい出しております。その初めのほうを御覧いただきますと、統計がざあっと出ておりますが、明治の初めのほんの数年間ですよ、これは非常に厳格な修得主義できました。したがって、どこの村でも、1年生ばかりやたらと多いのです。公開試験で2年生になれるかどうかやるわけです。ですから、2年生が大体5分の1から10分の1に減るわけです。3年生がまた5分の1から10分の1です。これを何年間かほんの短い間やったわけですけれども、これでは結局、学校というものが回らないということになって、原則としてオートマティック・プロモーションです。年限による自動的進級制度を採用して、やっと学校が回るようになった。つまり、校舎の問題でも、教員の問題でも、結局は厳格な修得主義ではできないわけです。
 したがって、最初の私の発言に戻りますけれども、修得主義とか、あるいは履修主義というのは生の形で使わないで、基本的な構造は積み上げですから、これができて初めてこれができるというね。例えば、繰り上がり、繰り下がりもできないのに、掛け算を教えたってどうにもならんわけですからね。そういうふうなことはあるのだけれども、1つは特別支援教育、障害を持っている子どもには、それと別の考え方で運用する。これはまさに年限でいいと思うのです。それから、特別でない場合でも、あまり厳格なことをやると、教育行政というのは、普通の子どもの場合でも回らないわけですよ。ですから、中できちんとある学年でこれこれがわかるようにする。こういう力がつくようにするという努力を重ねながらも、運用自体は柔軟といいますか、オートマティック・プロモーション的なものをやっていかざるを得ないというのが、大きな社会制度としての学校の問題ではないか。
 だから、どっちに振るかではないと思うのです。今言ったようなことを踏まえて、どこの点で余裕を持たせていくか。積み重ねですから、ある意味での修得性、いわゆるマスタリーという言葉を使ったりするのですけれども、マスタリーというようなことをある意味では積み上げていかなければいけない。だけれども、かなり余裕を持たせなければ、制度としては回っていかないという形になるのだろうと思うのです。

委員
 1つは、履修主義、修得主義の議論がなされておりますけれども、往々にしてこの議論というのは、学習指導の原理を議論しているのか、それとも義務修了認定の方式を議論しているのか、そのあたりがごっちゃになっていると思うんです。今の委員の方の御発言というのは、どちらかといえば学習指導にウエートを置いての御議論かと思います。私、前にリポートが当たったときには、義務修了認定の方式をそういった言葉で呼ばせていただいた。2通りの呼び名があって、まあ、いろいろな呼び名、あるいはいろいろな考え方があってよろしいかと思いますが、どちらの議論をしているのかという仕分けが1つ必要ではなかろうか。
 第2点は、ちょうど私がリポートしたときに、なぜ履修主義になってきたのかということの御質問をいただきました。それはマキシマムグロースというものが前面に出てくることによって、いわゆる障害者教育の義務化等々が可能になったというような発言をさせていただきました。それは間違いではなかったと思いますが、若干不足した説明だったのかと思います。
 今答えるとすれば、国際的な流れとしてミニマムエッセンシャルズという考え方から、マキシマムグロースという方向に大きく流れが変わっている。これが第1点だと思います。その背景にあるのは、学習する者、就学する者の多様化でしょうね。
 第2番目に、日本の古い制度を考えてみますと、例えば6・3の後の3の段階というのは、戦前の場合にいわゆる中学校の系統、2番目に高等女学校、実業中等学校の系列、3番目に小学校の高等科の系列、3本立て、トライパーティティズム、ドライタイルングでしたよね。それを束ねなければならないという点で考えていきますと、それを束ねることを現実的に考えていったらば、それはやはり修得主義よりは履修主義という縛りをしなければならなかったのではなかろうかということが第2番目です。
 そして、第3番目に、この前申し上げましたように、どうしても特殊教育、当時の言葉でいえば特殊教育、盲・聾・養護学校の義務化、養護学校は54年までずれ込んじゃいましたけれども、それを書き込んでいく場合に、履修主義を前提にしなければそれは到底書けなかった。それ以前で考えれば、大正12年の特殊教育というやつは、あれは学校の設置の義務化であって、学ぶかどうかということの話ではなかった。それを大きく転換させる前提になったと認識しております。

委員
 私はこの間意見を申し上げたときに、修得主義というものについてもっと関心を深めるべきではないかということでお話ししたのですけれども、それが非常に気になるのは、実は子どもたちの学力の問題なのです。七五三とよく言われていて、それは解消したのかということ、そうでもなくて、この間、研究所から出てきた学力調査の中でも、きちんと証明されたような感じがするのです、要するに七五三の状況が。
 そうなりますと、小学校に100人入ってきても、結局、小学校を卒業する段階では70人くらいが学力を保証されている。中学に入るとそれが5割ですから、45人ぐらいになってくる。高等学校ではそれがまた3割ぐらいということになってくると、100人小学校に入った子どもたちが、まともに教育課程を修了していくのは15人くらいしかいないという形になるわけです、統計的に見れば。それでいいのか。日本の今の教育の活動の中で、子どもたちの学力保証がそれでいいのかと考えた場合には、我々は修得主義をもっときちんと、修得主義と言わなくても、何しろもっと子どもたちに勉強がわかるような状況をつくっていく必要があるのではないか。そうでなければ、今のように学力がきちんと身につかないままに進級していく。だからこそ大学に入っても、結局、分数ができないとか、小数ができないという話が出てくる。そのようなことを考えて、私は非常に残念だからということで、そのことを提起したのです。
 そういう意味で言うと、今、委員の方が言われたように、例えば義務教育の認定ということであれば、12歳、15歳までは教育を受けなくちゃならない。それは1年でもいいし、2年でもいい、3年でもいい、極端にいえばそうです。しかし、実際に勉強していく子どもたちには、今、ほとんどが絶対評価ですから、ある程度のきちんとした絶対評価ができていくわけですから、そういう中で学力を保証していくことが必要ではないだろうか。
 特に今、学校の場合、学びの共同体という感じで、何しろお互いにしっかり勉強しようじゃないかという学校づくりが始まっているんです。単なる受験のための学力だけの学習という体制ではなくて、みんなが一緒に学んでいこうという学校づくりもできてきているわけですから、そういうところにずっとシフトしていって、教育条件もそういう意味で改善をしていくということをもっと大事にしていかなければ、日本の初等教育も、中等教育も、十分な学力保証をされないままに年齢だけとっていくということになっていかないかという憂いというもので私はお話ししたつもりなのです。ですから、ここでもそういうような考え方はある程度生かしてほしいと思っているのです。

委員
 今の修得と履修という問題は、これからますます議論がされるテーマになるかなという気がします。というのは、国として膨大な金を使って教育しているけれども、成果が上がっているのかという効率みたいなところから、いわゆる財政的な論理が優先して教育に割り込んでくるという構図が定着しつつあるわけです。それに対する反論として、私は履修でいいと思っているのですけれども、ある程度効率も言わざるを得ないと思いますから、その用意はする必要があるだろう。
 履修でいいと思う理由は幾つかあるのですけれども、基本的に先ほど現代史の問題で申し上げましたが、あれは大人社会がちゃんとやっていないから、子どもに現代史が教えられないのです。同じように履修と修得といえば、日本の社会というのは履修社会なんです。つまり、能力があるからというので、転々と転勤するとアメリカのように有利にならないのです。日本は損するのです。つまり、年金とか、いろいろな条件を考えると、明らかに転々としたら損するようにできている、社会の仕組みが。そうなっているにもかかわらず、アメリカ的なグローバリズムと称して、思想を強引に導入させようというのは、大人の社会でも無理だし、子どもの社会でも背景としてそういうことをやることが社会的になじむのかという議論を考えるべきだろうと思います。
 大検の答申をまとめるときに、実際にアメリカで調べていただいたレポートを読んだのですが、アメリカのようなところでも、キャンパスライフを経験したかどうかというのは非常に重要視されるんです。ですから、高校卒、中卒といろいろな段階での卒業にかわるいろいろな試験があるんですけれども、その試験を通って資格を取った人と、普通にキャンパスライフを経験して卒業した人の比較ということでいうと、社会的にやはり目に見えない差がある。これは乗り越えられない差があるのだと思います。つまり、キャンパスライフというものが与える人間としての成長の価値みたいなものが確実にあるから、そういう評価をされるのだと思うのです。アメリカのような社会でも評価されるというのは、何もなければ評価しないでしょうから、間違いなくあるのです。我々もそれは何となく感じているわけです。
 ですから、履修原則でいいと思いますけれども、これからますますグローバリズムということでアメリカ的な考えが入ってきますから、評価について無視するわけにいかないだろう。これは覚悟しなければいけないから、何らかの形で、何かの形の評価は言わざるを得ない、それからやらなければいけないと思いますが、原則は履修だということをはっきり主張すべきだと思います。私の個人的な意見はですよ。そのことに意味があるのだということをよく説明する必要があると思います。
 成長の段階で、人間というのは、一定年齢になるまでは一人前になれないわけですよね。よく言われているのは0歳から20歳まではそうだと言われているわけです。精神発達で自立が完成するのは20年かかると言われているわけですから。その間は教育する必要があって、その教育の中に共学といいますか、共に学ぶという体験をすることが、実は精神発達上も非常に役に立つということが証明されているわけです。幼児教育なんかその点、特にはっきりしているわけです。幼児教育というのは、知的なことを教えることじゃないんです。共同生活をして、同じことをみんなでやるところに意味があるわけです。それで人間は、社会性みたいなものが自然にその場で育っていくわけです。それを完成させるという意味でいえば、履修主義は非常に意味があると思っているのです。日本の社会もそれに価値があると思ってやってきたのだと思うのです。
 それを全部修得だけでいくというわけにいかないだろうということを主張すべきだろうと思いますし、修得も説明しないと、税金が出てきませんから、そういう時代だとは思いますけれども、履修についてもうちょっと自信を持って言ったほうがいいのではないかと個人的には思っております。

委員
 学校教育あるいは義務教育が、履修主義か修得主義かのどちらかの決着をつけるということは、私は不可能な議論だと思っているんです。というのは、3ページ目に書いてある御意見は、これはもっともだと思います。つまり、教育の目的として国家・社会での基盤となるような資質を育成するということ。これはある程度国民共通の基盤としてしっかり持ってもらわないと困るものがある。
 もう1つは、個人の学力なり、これから生きていくための必要な資質を備えていく。これは教育でよく自己実現と言われることだと思いますが、それの基礎となるような力を修得する。これはかなり権利的な要素も強いと思います。
 これは私の意見ではないのですけれども、この2つにかなり集約されるというのはもっともな議論だと思うんです。ただ、そのときに学校教育の中を見てみれば、この社会的な基盤となるようなこと、かなり共通に修得してほしいというものもあれば、これは義務教育の中ではやるけれども、ぜひ経験はしてほしいと。例えば芸術的な科目とか、国語教育の中の1つをとらえても、これは新聞を読める、ニュース聞いてわかるくらいの、国民の基盤として必要なものもあれば、それがたとえできなくても、例えば国語の中でも文学的なものとか、これは何も1番目の「○」でいう、「これだけ修得していれば生涯にわたってとにかく生きていける」というものよりは少し広がったといいますか、より生活を豊かにするために、こういうものも経験してほしいと。
 ですから、学校教育の中で、これは選択でなく、みんなが例えば音楽を受ける、それから美術や芸術教育も必修として受ける。しかし、それは、それができないと生きていけないから困るというものよりは、そういう経験をしてもらって、自分の将来の文化的な生活を豊かにしてほしい、そういう経験のために、あえて必修としてやってもらおうというものだと思います。ですから、それがもしできなかったとしても、例えば必修でみんな縦笛をやるわけですけれども、縦笛ができなかったら、これは落第だということはとてもあり得ないことで。どの教科の中にもそういう要素、例えば数学1つとらえても、そういう基本的な要素と、その先にむしろ文化として経験してほしいというものがあると思いますから、そういうものは当然履修主義的な色彩が強くなってくる。
 ですから、指導要領の中にいろいろなことが出ていますけれども、あれは必要最低限といいますけれども、やはりあの中にグレードというものがあって、これはぜひ国民として修得してほしい、ここから先は文化として経験してほしいということがあるのが実態だと思います。
 もう1つ具体的な話になりますけれども、私もそういう意味では、基本的には履修主義でいいと思うんですが、ぜひ必要だというものについては、きちんと修得してほしい。履修主義だけでいっていると非常に甘くなってしまうということがあると思います。そのときに、個々の子どもを判定して、この子はちゃんと修得していないから落第だという、個々の子どもを判定するのではなくて、むしろ必要なものは、学校としてその学校がどれくらいきちんとそこの子どもたちに必要なことを修得させているのか。学校を評価していくということは必要ではないかと思います。ですから、個々の子どもを見れば、それは障害のある子どももいるでしょうし、必要なことが修得できなかったという子もいる。しかし、その子を落とす落とさないという話ではなくて、学校全体としてどうも必要なことがそこで修得されていないということであれば、学校の改善を図るように力を入れていくという方向で評価していくべきではないかと思っています。

委員
 3ページの一番下の「○」は、たぶん私が言った事柄ではないかと思いまして、履修主義か修得主義かということについて責任を感じるものですから意見を述べます。
 私は、今の子どもたちは低学力だけではなしに、全く学力を持たない無学力の子ども、おしゃれと遊ぶことしか考えないような子どもたちが非常に多くなっている。ある特定の子どもたちがそういう全く無学力になってしまっていることを危惧するわけです。そのことによって、就職もできず、犯罪を犯し、麻薬・覚醒剤に手を出すようなことも起こっている。あの子どもたちの人生を考えたときに、これでいいのかという、そういうことから発想して修得主義を強調したわけです。生涯を人間らしく生きるためにミニマムな資質能力を体得させる修得主義を主張するのです。
 また、個人の問題だけではなしに、そういう子どもが増えてくれば、日本の将来は一体どうなるんだろうかということも心配です。子どもの現実を考えたときに、個人のこと、国家社会の将来のことを考えて、高度な複雑なこれからの社会を何としてでも人生を生きていけるような力をつけて社会に送り出さなければならない、社会形成者として育成しなくてはならないということから、修得主義の提案をしたという思いがあるものですから、責任上、補足をしておきます。
 それから、委員の方から先ほどありましたアメリカと日本が戦争をして、日本が負けたことについて驚いた人がいたという事実、広島・長崎に原爆を落としたのはアメリカであるということを知って驚いたという無学力な青年がいたというのは、歴史教育の問題だけではなしに、そういう学力を持たない子どももが事実出てきているわけで、現代の国際社会を生きていく、日本人としての在り方、国際社会の中での個人の在り方、社会人としての人間の在り方をしっかり押さえなければならない。そういう意味で、修得主義を述べたわけで、履修主義を否定したわけではございません。

委員
 まず権利と義務の話が最初に出ました。今日お配りいただいた3ページの「義務教育の目的・目標について」の上から2つ目の「○」は、これはたしか私が申し上げた意見だと思います。
 この中に、実は「1」番として、権利とか、義務とかというとげとげしいじゃないな、何と言ったらいいでしょうね、非常にシビアなごつごつとした表現ではなくて、「1」番は、私は国民としての義務という意味でこれをお話ししました。
 それから、子どもたちの一人一人の個性や特性にこたえていくことが必要なんだというのは、当然、子どもたちの持っている権利といったようなものを少しでも学校が受けとめる。そういう意味で、義務教育といったようなものを、権利とか、義務とかというシビアな概念で規定するよりも、義務教育の性格づけはどういうものなのかという中で、こういう表現で私は自分の意見を言った記憶がございます。したがって、あまり権利、義務といったような文言を前面に押し出すということには、個人的には私はあまりなじまないという印象を持っています。
 それから、2つ目の、今盛んに議論されました年齢主義といわゆる修得主義でありますけれども、まず結論から言いますと、これはあまり二項対立的に考える必要はないのではないだろうか。というのは、日本の教員を現実に見てみますと、制度としてはそれこそ、年齢主義でやっています。しかし、学校の先生たちの意識は、一生懸命修得主義の気持ちで現実に毎日、毎日、子どもたちに接しているということは間違いのない事実だと思うわけです。したがって、制度として年齢主義だとか、修得主義とかという二項対立的なもので決着をつけるのではなくて、基本的には年齢主義といったようなものは、ある意味では今の日本の、あるいは社会の構造と言ったらいいでしょうか、人々の意識に合っているだろう。これを積極的に変えていく意義といいましょうか、理由は見出せないと思っています。
 ではそんなことで学力が、先ほどちょっと出ましたけれども、「大学を出たって分数ができないじゃないか、それをどうするんだ」と。確かにそうした問題はありますが、それを履修主義といったような形で、また現場におろしていったときに、果たして先生方はどのような受けとめ方をされるだろうか。そして、先生方はとっくに年齢主義という中で、実質的には履修主義といったような、要するに学習指導要領に定められたミニマムスタンダードですね、あれを一生懸命達成しようとしているのが現実でありますので、ここでもあまり二項対立的に、「こっちだ、こっちだ」というような表現は、やはりこれもなじまない。ともに必要である、両方大事なのだということで、制度として基盤に置くのは年齢主義といったようなものを継続していくのだ。内容や何かについて、あるいは指導方法とか何とか、具体的な方法については、修得主義的な視点を十分に入れて学校がまさに努力をするべきところではないだろうか。そんな整理の仕方のほうがいいのではないかと私はそう思いました。

委員
 あまり早くからいわゆる知的な学習を始めたら、これから長く続く学校教育が学び疲れてしまう、そういう状況が現状起きていると思うのです。その知的な学びの基盤をつくるのが幼児教育で、幼児教育の目標は心情、意欲、態度を育てることですから、今の履修主義か修得主義かということになれば、修得主義というわけにはいかず、丸ごとの生活の中で様々な体験を通じて、これから始まる学びの基礎をつくっていくわけです。
 たぶん5ページの、項目「4」の最後の「○」は私の発言だと思いますけれども、その基盤を形成する家庭とか、地域の教育力は本当に低下しているので、今、幼児教育部会でもいわゆる3~5の幼稚園教育の機能をもっと拡大して、深めて、広げていこうという話し合いをしています。ですから、就学年限のことを考えるときに、あまり軽々に就学年齢を早くして、発達が早まっているから5歳からという考え方よりは、知を支える基盤をしっかり形成させてから、学校教育を受けさせる。幼稚園も学校教育ですけれども、そちらの方向に重点を置いて、幼児教育と小学校以上の学校教育とのよりよい連続性を求めていく方向性が望ましいと考えています。

委員
 義務教育の年齢を下げるという意味は、小学校教育を5歳から始めるという意味ではなくて、内容的には義務教育という扱いになるけれども、それは教える内容は現在の幼児教育の内容を展開する。むしろ現在の幼児教育の内容を6歳児、あるいは7歳児ぐらいまでも及ぼしたほうがいいのではないかというぐらいに考えています。つまり、小1プロブレムと言われるような問題が、いろいろな地域で起きているということの全部の原因がそこにあるとは思いませんけれども、1つには小学校と幼稚園がうまくつながっていかない。
 いろいろな国の例を見ると、その辺のところはうまく考えていて、幼稚園の先生が小学校へ行って教えたりしている実例がいっぱいあります。ですから、そういうようなことを意識して、個人的には義務教育を下げるという意味は、そういう意味で申し上げているわけで、小学校教育を5歳から始めるというのは逆だと思っています。間違いになるのではないかと思います。個人的な意見ですけれども。

委員
 個人的な意見ですが、実は私は義務教育を延長すべきだろうという気はとてもしているんです。その場合に、上に延ばすのもあるんだけれども、上にというのは、例えば高等学校で、ある程度義務教育的に見て無償制に持っていくという意味での義務教育であって、決して9年間の義務教育という意味ではないんですけれども、そういう意味で延ばせるのは延ばすほうがいいかなと。
 ただ、5歳児をというときには、これは46答申にも出ていたんですが、あのときには、一時期、非常に盛り上がったことがあるのです、5歳児からの入学というものについて。4歳、5歳とあったのですけれども。ただ1つ、今、一元化の話が出ていて大変苦労されているんですけれども、やはり5歳児から入れて、今いろいろあったように、すぐ学校教育にというわけではなくて、幼児学校的な遊びを中心にして、今、幼稚園でなされているような教育と、今の小学校1年生や2年生や3年生あたりの教育をつないでいってというような意味なのです。そういう形で、集団教育や集団的な訓練とか、あるいは子どもたちを家庭からある程度解放していくにも、そういうようなものが意味が出てくるのかなという気がするのです。もちろんカリキュラムは、それに合わせて変えていかなくてはいけないと私は思っていますが、そのように合わせて変えていく中でやっていく。
 そして、昨日も大学の話が出たのですが、知識社会と言いながら、それにどういう形で国民的な対応をしていくのかという、これが十分なされていない。だから、高等教育だって、結局、幼児教育から始めて、高等教育へどうつないでいくかという、国としての教育プランというのがなければ、ある意味では成功していかないような気がするのです。そういう意味からいうと、今はまちまちになっていますよね。保育園に行っている子どもたちと、幼稚園に行っている子どもたちと全然違ってきて、5歳児を見たら全然違ってきている。ただ、必ずしも幼稚園へ行ってきた子どもたちが、いいとは言えないらしいですね。小学校に入ったら、入った時点では読み書きもいいのだそうです。だがしかし、比較的に見たら、自分のほうがよく知っているからといって、勉強しないというようなこともあって、必ずしもこれが成功しているとは限らないらしいから、そうなると、やはりカリキュラムの在り方をそれに合わせて考えていって、ずっとつないでいってという形ですね。
 それから、義務教育の無償制というものについては、今日もデータがいろいろ出ていますけれども、それぞれの国で無償制については追求されていっているんです。日本は逆コースにきているんです。豊かな国と言いながら、教育に対する無償制に対しては非常に関心が薄いですね、日本の場合。だから、例えば高等教育に対するODAの統計によると、日本のGDPに対する支出は非常に少ないです。そういうことを考えてくると、子どもたちにもっともっと教育を保障していこうという考え方から、義務教育の延長制を考えたらどうだろうかということなのです。

委員
 今の発言とほぼ同じようなことになるのですけれども、子どもの発達が変わってきている。そうすれば、制度の在り方も再検討するというのが普通だろうと思うんです。確かに知的な発達の土台と本体というのが区別できれば別ですけれども、幼稚園でやっていることも、ある意味で知的なものの本体だと思うのです。今の小学校の低学年のカリキュラムの在り方をそのまま持ってきて、それで下に持っていくようなイメージがあるから、5歳児就学はという話になるのだけれども、それはまた別の問題にして、発達前掲現象で、あるいは発達加速現象で、子どもの発達の実態が変わっているということを考えれば、やはりそれに合う制度は考えなければいけない。これが1つあります。
 もう1つは、現実に保育所なり幼稚園なりで5歳児が全部、集団的な教育活動へ行っているという事実があれば、これを義務教育に含めるかどうかという、これは1つ考えるべきだろうと思うんです。義務教育というのは土台をつくる教育ですから、社会の土台であり、一人一人の個人の土台ですから、みんなが行っている、そこから含めて、土台づくりという意味での義務教育の在り方を考えるのが普通ではないかと私はどうしても思います。
 それを1つ制度論としてやりながら、今のままの小学校1年生、2年生のものを持ってくるというのはまずいということであれば、46答申で言われた幼児学校構想ですね、あれはもう1度考えてみたらいい。御承知のように、ヘッドスタートがアメリカであり、あのころからどんどんやってきて、例えばセサミストリートですね。セサミストリートというのは知的な教育なのですよ。まさに知的な教育なのだけれども、ある意味で遊びを通じての知的な教育ですわね。今、保育所や幼稚園がそういうものをやっているかというと、必ずしもやっていないです。遊びは遊びになって、知的な発達なんていうことは少なくとも前面からは消えている。出てくるとすれば、3歳児、4歳児から英語を教え込むとか、漢字を教えるというむくつけのものが出てくるから、幼児教育の関係者の方々にいろいろな警戒の念があるのだろうと思いますけれども。
 もう一度、あのころに言われたいわゆる学校型の授業ではなく、といって今までの保育の具体的な内容でもない、遊びといいますか、広い意味での遊びを通じて、しかし知的な発達を系統的にやっていくということを考えるということは、今、発達の事実が変わっている、あるいは全員が行っている、そのようなことで制度を考えるとすれば、当然その中身づくりとして出てくるのではないかという気がいたします。

委員
 どこかに幼稚園年長組さんには、年長効果云々という文言があったかと思いますが、その周辺の発言はたしか私がしたかと思っております。基本的には5歳児の就学を積極的に検討してみたらどうかという立場であります。もちろんこれも当然のことですけれども、子どもの心の発達プロセスの特性をしっかり見極めなくてはいけないかと思うのですけれども、昨今の都市部における幼稚園では、しきりに知的教育を導入したところがとても人気があるということで、そういうことも考えますと、少し考え直して5歳児入学を考えていいのではないかと思っております。
 それと前半の話に若干関係があるかと思いますが、思い切って5・5制にして、小学校低学年のほうの5というのは、かなりしっかりとした教育をやる、指導をやるということを徹底したほうがいいのではないかと思っております。学習意欲、あるいは知的関心を高める指導内容をそれこそ徹底させる。後半の5年というのは、どちらかといいますと修得主義的な要素を多分に持たせていって、個の伸長、自己形成の基礎を養って、特色ある高校づくりで、普通科だけではなくて、いろいろバラエティーに富んだ高校が設立されてきていますから、個々人の個性・資質に応じた高校に進む。そういうつながりを考えてみたらいかがかと思っています。

委員
 一部うろ覚えの記憶まじりで大変申しわけないんですが、オランダという国は、今、8年制の基礎学校制度になっているんです。それがすべて義務として行われているという現実があるのですが、それ以前は、実は8年制の基礎学校の中で、義務の6年間と義務でない2年間の幼児教育がくっついていた時期があるんです。さらにさかのぼると、これはアムステルダム市内の1つの小学校と1つの幼稚園が近場にある。たまたま合同で実験的プログラムとして幼小一貫を始めようではないかということから始まった。それがアムステルダム市当局の注目を受けて補助金をもらう。そこに国が着目をしていって、国の制度として確立させていく。最初は義務ではなかったけれども、8年間丸ごと義務へと切りかわっていくという手法をとっているのです。
 そのことから申しあげたいことは、様々な形の幼小連携であるとか、いろいろな区切りの実験という言葉は変ですけれども、昔風に言えば先導的試行を展開していく。その中で、ある種の成熟した答えを見出していって、ある意味の全国的な制度化へ持っていくような、時間のかかる話ですけれども、そういうところから着手すべきではないかというのが私の意見であります。

委員
 先ほどの御意見は、例えば幼児教育の部分を、場合によっては今の6歳、7歳、そっちにも場合によっては広げていく必要だって背景としてあるんじゃないかという御趣旨の御意見だったと思うんですけれども、その場合、イメージされているのは、具体的な話で言いますと、幼稚園の教育要領のレベルを小学校のほうに持っていこうとお考えになっているのか、問題意識として。あるいは、小学校の学習指導要領を逆におろしていこうとお考えになっているのか。
 社会がいろいろ変わってきている、社会的環境も変わってきている、そこら辺はよくわかるのです。もうひとつ実感として、5歳から義務教育をもし開始するとなったときに、何かもうひとつピンとこないものが私はあるのです。要するに、教育要領を基盤に6歳から持っていくのか、学習指導要領をおろすのか、先生の今のイメージはどんなものなのですか。

委員
 私の考えの背景には、社会の変化というのがあるわけです。その変化というのは、申し上げたかもしれませんが、明治のときに私たちの国は大きな社会変化を経験しているわけです。これは農耕社会が工業社会に変わった。そうしますと、家庭が大きな激変を迎えるのです。つまり、家族からおやじがいなくなるという現象が起きるわけです。おやじがいなくなることによって、家庭教育はそのときものすごく変わったのだろうと思うのです。ですから、明治のころの学校の先生、教育者と言われる人の書いたものを読んでいると、よく出てくる言葉は、今新しく明治維新からつくった学校教育は、家庭教育がしっかりしてないとできないのだということを書いているのです。これはその変化を体験したのだと思うのです。
 それが正確に今まで伝わっているかどうかわかりませんけれども、今、実は私たちは次の時代の大きな変化を体験しているのです。それはどういうのかというと、知的社会とか、ケルン・サミットから言われたということが言われていますが、別の言葉で言えば情報化社会です。情報化社会、知的社会がどういう家庭をつくるかというと、両親がいなくなるわけです、家庭から。お母さんが働いているのが普通の社会になるのです。だから、今、家庭教育は、両親がそろってやってくれるということを期待しないで、教育を構築しなければいけない時代に入っているのだろうと思うのです。
 その意味で言うと、例えばフランスはかなり先進的なそういう対応をしているのです。その研究者から聞いた話ですけれども、エコール・マテリメールといって、お母さん学校と言っている仕組みですけれども、これは0歳から5歳、6歳、7歳ぐらいまで、エコール・マテリメールの先生が子どもを見ているわけです。それと並行に学校があるわけですけれども、学校教育に幼稚園の先生が参加して ―日本でいう幼稚園の先生ですね。エコール・マテリメールの先生はまた別の資格があるんですけれども、それがずっと見ている。それが子どもの成育と集団教育がうまく重なっていけるんです。学校というのは、集団教育をやるためには、実を言うと家庭でちゃんと教育していてくれないと、学校で集団の生活になじまないから、うまくいかないんです。基本的には小1プロブレムというのはそれが原因だと思っているんです。うまくいくためには、家庭教育にかわるものを学校がやるよりしようがない。それをやるには、今言ったような幼稚園、小学校と区切るのではなくて、分断しないでつなげていくという考え方でいくのがいいだろう。
 そういう考え方で見た場合には、幼稚園が小学校1、2年まで延長するという考え方です。

委員
 幼稚園の分はだんだん減っていく。小学校のある部分も幼稚園におりる部分もあるかもしれませんね。その辺の接続をうまく工夫してやらないと、学校ではお母さん代わりができない。やらなければならない時代になっているのだと思うのです。
 どういう影響があるかといいますと、両親がいないということは、お母さんの意識が、家にいて子育てしているのは自分が損していると思っているのです、若いお母さんはみんな。つまり、自己実現にはマイナスなのだ、子どものために自分が犠牲になっているのだと。一生懸命子どもの教育をしようというよりは、早く終えて自分の自己実現をしたいと思っているのです。だから、幼稚園とか、小学校へ預けたら、全部学校に任せちゃっている。それは先生、体験されているでしょう。そういうふうになっちゃうのです。実際に子どもを育てている、いないという人数がどうだということ以前に、意識の上でも子育てに親の意識がないのです。だから、どこかでやらなければならないから、学校でやったほうがいい。
 一番どうしようもないのは、0~5歳で、0~2と3~5が分断されている。これがまず問題です。これは文科省がちゃんと0~2までやるのだということを宣言すべきだと思います。あるいは、共同でもいいですよ、別に専管でなくても。だけど、0歳からやらなければうまくいかないのだということをどこかで言うべきだと思うのです。総合施設をつくるというのは、そのいいチャンスだと思うのです。それをさらに小学校の接続とつなげていくということで、そのどこかのところから義務教育が始まるのだというふうに思うのです。その際、いろいろな専門家の先生とか、私自身の経験から見ていて、5歳ぐらいからかなと思うのです。
 先ほど5歳児が年長者で、非常に成果が上がるというお話がございました。そのとおりなのです。しかし、成果が上がった年長者は、小学校1年になると、もとへ戻っちゃうのです。退行しちゃうわけです。学校で一番最下級ですからね。それをやらないために接続したほうがいいのです。そうすると、幼稚園とつながっているから、最下級ではなくなるから、意識の上でそのまま成長していくということも考えられるわけです。ですから、切っちゃうということは何とか工夫したほうがいいのではないか。
 あと私立の立場からすれば、中高一貫というのもなかなかいい制度なのですね。これは生きるようにしておいたほうが、日本の国にとっていいのではないかなという気がしています。それはまたその部分が出てきたらまた意見を申し上げますけれども、接続しているというのは非常に意味があるのです。

委員
 学習指導要領が若干おりてくる割合のほうが強いということですね、幼稚園に、5歳に。

委員
 小学校までの学習指導要領の一部は幼稚園におりるかもしれませんけれども、大部分は幼稚園のものが6歳、7歳のところまで延長していくという意識を皆さんが持つ必要がある。実験的にやったところを聞いてみますと、幼稚園の先生が小学校へ行ってやったら、うまくいっているのです。小学校の先生が幼稚園にきたらうまくいっていないのです。それだけ見ても、下から上げていくよりしようがないなというのがわかるんですね。

委員
 今、言い損ねてしまったことなので。就学年限のことですけれども、ここの議論で、これは5ページを拝見しても、2つの方向からの意見が出ていて、ちょっと混在しているのが気になったんです。
 1つは、発達も随分変わってきたし、もう1つは家庭間や地域間の格差を何とかもう少し埋めたいということもあると思うんですけれども、1年、全体として早めようではないかと。それは小学校をおろすかとか、あるいは今の年長さんの部分を義務教育化するのがいいかという議論は別として、5歳児から何らかの形での義務教育をしていった方がいいのではないかという議論は、私もかなり理解できるところがあるのです。ただ、これはあくまでも全体として5歳児からやりましょうという話。
 もう1つは、子どもによって、人によっては5歳児からとか、要するに個人差を認めていこうという議論が出てきていますよね。そちらのほうの議論はちょっと質が違う議論だと思っています。つまり、親の裁量によって、うちの子は発達が早いから、1年早く義務教育を、それは5歳児にしろ、6歳児にしろ、就学年限をとにかく早めてもいいのではないか。こちらのほうについては今日ほとんど意見が出ていなかったと思うのですけれども、この中には出ていますね。このことについては基本的にはあまり賛成ではないのです。
 このときに、たぶん背景に2つの考え方があって、要するに発達が進んでいるから、1つ飛び級的に上の学年に入れて、そのクラスの中である程度等質化を図っていったほうがいいのではないか。そのほうが教えやすいし、その子にとっても進んだことができるからいいではないかという意見と、もう1つは、むしろ年齢はそろえて、その中で多様性があるということのほうが、この年代だとむしろ好ましいのではないかと。私もこの年代であれば、どちらかといえば学年をそろえていろいろな子どもがいるという経験をしてもらったほうがいいのではないかと思っています。ただ、そこは考え方の違いがあると思います。
 今日、あまりそちらのほうの話が出なかったと思いますので、もし積極的にこれを親の裁量で、あるいはきっと何らかの試験もそこに必要になってくると思いますが、この子は早く入れてもいいだろう、あるいはまずいというような判定をどこかでやらざるを得ないと思うのですけれども、そういうことまで含めてこれを推進するべきだという御意見があれば伺いたいと思いました。

委員
 6歳になったかならないかというふうに抽象的に考えると、5歳児と6歳児というのは明らかに違うんですが、4月5日生まれの子どもはどうするんだと考えてみると、4月5日生まれの子どもでものすごく発達の早い子が、1年就学を待たなければならない、来年の4月1日までというのを考えてみると、ある種のアローアンスを持たせるという考え方も1つあり得るのではないか。例えば3ヵ月ぐらいの幅で、あるいは6ヵ月ぐらいの幅で、親の選択に任せるというようなことはあり得るんじゃないかと思います。

委員
 あり得るのはすごくよくわかるんですが、これは小学校から中学校に行くときも言える話で、今度は何月生まれということよりも、かなりしっかりと学力を身に付けた子どもとそうでない子どももいるというような。逆にそういう人たちから見ると、生まれた日が何日かということだけで決められるのは不公平であるという意見も出てくると思うのです。今は本当にカチカチに一律でやっていて、1日違えば確かに1年違う。これもおかしいようにも思いますけれども、一応そういう形でやってきた。それを何らかの形で変える。変えるためには、恐らく判定ということが必要になってきて、親が言えば全部認めますという形でいいのかどうか、何らかのやり方で判定が必要なのかとなると、これはかなり大改革になってくると思うんですが、そこら辺の方策も含めた積極推進策が出ているのかどうかを伺いたい。

委員
 例えば医師と相談するとか、先生と相談するとか、イギリス・システムですね。英国でやっているようなシステムをかなり強く御主張になった方がいますから、そこのところは出ています。

委員
 これはたしか私が発言させていただいた意見なのです。例えば、先ほどから話に出ている5歳、6歳の、要するに問題があります。ただ、5歳一律といったとき、例えばうちの幼稚園の5歳児を見ても、これを例えばですよ、義務教育で一律に始めよう、スタートするといったときの、個人差が相当大きい。これは実態として目のあたりに見ているわけです。早める必要も確かに、これはいろいろな議論の中で、社会の変化で、ある意味では大事な視点なのかもしれない。しかし、制度として5歳からスタートということになったときに、これは小学校になるのですかね、小学校に対しての負担は大きくなってくるだろうということは十分に考えられる。私がこれをお話ししたときには、先生が個人差を果たして認めるかどうかということになるのですけれども、私は認めていいのではないかという前提で、このときこの意見を言わせていただいたわけです。
 例えば、先ほどの修得主義とか、その話にも最終的になってくるわけですけれども、その子どもたちがそれぞれの段階で示すその修得状況といったようなものに応じて、結果的に飛び級のような形になるのかもしれません。しかし、そのぐらいのフレキシビリティーといったようなものがあってもいいのではないかという趣旨でお話をしました。
 それを誰が判定するかというのは、確かにいろいろな問題があると思います。ただ、単に親御さんが申し出たから、唯々諾々と「じゃ結構です」というわけにはいかないでしょう。そこには慎重な検討や専門家の意見といったものを入れなければならないだろう。ここら辺は親との十分なコンセンサスを持っていく、合意形成をしていかなければならない部分は当然残っているだろうという、もちろんその問題意識はあります。

委員
 問題は2つあると思うのです。1つは理念的な問題で、要するに発達が早いから、遅いからということで、その個人差に応じて学年を進めるという考え方で、義務教育が通っていっていいのかどうかという理念的な問題です。
 もう1つは、今のどういうやり方でこの子を進めていいか、あるいは遅らせるのかという判断をするのかという、どちらかといえば技術的な問題ですけれども、これは相当のインパクトがあることですので、そこの問題と、その両方の問題についてかなり議論と、いい方策が出ない限り非常に難しいなという気がします。

委員
 就学時期、それから就学年限につきまして、今、お話がありましたけれども、本当にここについては十分に審議する必要があると思っています。
 それから、「6」の「学校間の連携について」、一言申し上げたいと思います。ちょうど今、小・中の連携教育を行って3年目に入っているところですけれども、幼・小、小・中、この連携教育を推進することによって、接続が円滑になるということは確かに言えます。数年前までは連携教育の中では、例えば生活指導にかかわることを連携しましょうとか、また、小学生が中学生に来るときに不安が多くなるから、その解消のために話し合いを持ちましょうとか、そういったことで行ってまいりましたけれども、現在は授業を中心にしながら、また、教育活動、諸活動を行いながらということで、かなり連携教育が進んでいることは事実です。また、一貫校もこれから増えてくると思います。
 そういったことで、地の利がよいだけではなくて、小学校と中学校が離れていても、また、幼稚園と小学校が離れていても、何らかの形で連携をすることによってなんていうことが論議されてくることではなかろうかと思います。今日は時間がありませんので、ここまでにしておきたいと思います。

委員
 スコットランドは5歳でも6歳でもいいのですね。そのときに、どっちにするかというのは、親と先生方が話をするのです。そのときの議論を聞いていると、「成熟した社会だなあ」という気がしました。日本の場合に非常に問題があるのは、早く進むほうがいいという社会的な考え方があることです。その問題があるので、任意選択にしたときに、国民の皆様がどういうふうに動くかということは非常に大きな問題で、そういう意味からいうと大きな技術的な問題があると思います。
 1つ余談ですが、この前、北海道の旭川でPTAの全国研究大会というのがあったときに、たまたま私の友人の獣医で、傷ついた野生動物をずっと面倒を見ておられる方、今や写真家、文筆家で有名な方ですけれども、この方に講演をお願いしました。その講演で非常におもしろかったのは、友人は小清水というところにいたのですが、そこを引き払うに当たって、過去にどういう野生動物が持ち込まれたか、誰が持ち込んだかというのを全部整理したのだそうです。そうしますと、自分でも驚いたと言っていましたけれども、持ち込んだのは小学校4年生まで。5年、6年は皆無だったそうです。それと65歳以上の人。
 彼は、5年生、6年生になると、いわゆる人間になってしまう。4年生以下と65歳以上は人間ではないのではないかと言っていました。ということは、やさしさがあるということなのです。私の友人のいつも呈する疑問は、「一体、子どもって何者なのだ」というものです。その辺も我々は考えていかなければいけないという気がしますね。

事務局より今後の日程の説明が行われた後、閉会となった。

午後3時 閉会

お問合せ先

初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室

(初等中等教育局初等中等教育企画課教育制度改革室)

-- 登録:平成21年以前 --