これまでの小学校部会における主な意見

(○:第1回における意見、●:第2回における意見、◇:他の教科等別ワーキンググループ等の意見等)

「社会に開かれた教育課程」の視点に立った、小学校の教育課程の改善

■発達の段階(低学年・中学年・高学年)を踏まえた学習・指導の在り方

○ 低学年の指導と高学年の指導の在り方は相当違ってきているのではないか。小学校は学級担任の教師による全科指導が基本で、教科ごとの検討はもちろん必要であるが、小学校教育全体の在り方を示す必要がある。高学年の場合には中学校との連携接続をどうしていくかということが重要。また、現場では教科担任が広がってきている現状を踏まえると、教科担任の持つべき部分と、学級担任が指導すべき部分をある程度めりはりを付けられるようにする。これは学校ごとのニーズに応じながらだと思う。また、中学校を見通した上で、生活指導の在り方についてもかなり立ち入った配慮が要るかと思うので、そういうことについても検討が必要。

○ 低学年については、個別の教科での検討とともに、全体的な在り方を考える必要がある。幼児教育を通して育ってきた子供の力をどう生かすかという観点で低学年教育を考えていくことが重要。スタートカリキュラムなどでも、子供の学びというのはゼロからではなくて、既に幼児期に学んだものをベースに次に行くんだということは共通している。その点を打ち出していくと良い。スタートカリキュラムは今のところは生活科の解説書に書いてあるだけで、学習指導要領自体で明記されているかどうかは微妙な書き方になっているので、もう少しはっきりさせた方が良い。同時に、低学年教育が幼児教育で得た力を発展させるという意味でどうあるべきかということを、低学年教育の独自性として出す必要がある。その際、例えば、算数で言うと計算力、国語で言えば文字の読み書き等狭い意味でのスキルに終始しやすい傾向があるような気がする。それはそれで大事だが、もう少し広く子供たちの考える力、思考力、学びに向かう力等を教科ごとにおいてもしっかりと伸ばしていくということが必要ではないか。

○ 小学校一年生の終わりぐらいから二年生の始まりぐらいでかなりの学力差が出てきているということがわかってきている。そのまま放置すると、結局それが小学校高学年までの学力差に拡大していくので、十分小学校の学習に乗り切れない子供たちへの指導の配慮が必要だと思う。幼児期から小学校低学年の学力を決めるかなり大きな要因として、語彙量がある。語彙量をどうやって拡充していくかということは、幼児教育の課題でもあると思うが、小学校教育の課題でもある。家庭における親と子のやり取りが大きな要因になると思うが、さらに教師と子供のやり取りということと、もう一つは読書指導。どのような本を読むかということが重要だと思うので、これらも踏まえて、低学年教育の充実をお願いしたい。

○ 小学校の場合は、一般的には学級担任制であるが、高学年になってきたときに、知的なレベルも高くなってくるので、教科担任制や教科を分担することは、大切な指導の形態ではないかと考えている。これは、教員の側の専門性も生かせるし、結果的に多忙感の軽減にもつながる。また子供の側から見たときに、高学年になると個性が出てきて、教員と「うま」が合うか合わないかということが出てくる。子供たちが一人の学級の担任とだけ朝から帰るまで一緒にいるというのではなく、様々な教員と触れ合うことができることによって、話ができる教員を見付けることができる。いじめや不登校が問題になる中で、担任の先生でなくてもいいから相談をしなさいということを呼び掛けている学校も多い。様々な教員が教えることによって、子供たちは相談しやすい先生がわかるということ。また、一人の子供を多くの教師が見るということになるので、メリットが多いのではないかと思う。

○ 小学校一年生が終わった段階で既に一年生の内容がしっかり理解できていない子がいるという現実がある。今度の学習指導要領では、その内容を履修するだけではなくて、それを確実に修得していくという考え方が必要。ただ、それぞれの学年で修得できたかどうかを正しく評価して、そして、それが修得できていない子たちをどうサポートするかということを考えていくと、教員の今の仕事の仕方ではそこまで手が回らない。やはりチーム学校の考え方で、社会と結びつきながら学校の教育を実践していくことが重要。また、これが小学校の教員の仕事だと思っている内容の中でも、それをチームに任せるようなことができないかどうかということも含めて検討されていくことが必要。

● 一年生で一年生の内容、二年生で二年生の内容という今の基本的な仕組みについても、もう少し一人一人に応じた調整の幅を付けられるべきではないか。知的能力というのは、例えば、IQで示される知的能力については、同じまま推移するのではなくて、何年かたつと随分大きく変動するらしいということが分かってきている。二年生のときには二年生のことができなかったけれど、三年生になったらそれができるようになる子供も確実にいると思われる。そうすると、義務教育段階の内容を必ずその学年で習得しなければいけないのではなく、中学校の三年生までに何とか追い付けばよいというぐらいの幅を持って教えることができれば、全ての子供たちが学習を分かり、しかもきちんと社会に出ていけるという、そんな教育が実現できるのではないか。


■特別支援教育の在り方

○ 子供たちの多様化、発達の格差、特に発達障害のある子供たちのことを考えると、個人差に対応できるような教育課程の編成が可能になってほしいと思う。特別支援教育の枠組みの中では特別な教育課程編成が可能になっているが、通常の学級に在籍する子供たちはその恩恵が受けられない。例えば、学習障害の中には読み書き障害という障害があり、聞く話すは普通にできるのに読み書きが難しいという子供が、大体5%ぐらいいる。そうしたことを踏まえると、小学校の漢字の学習については、とめはねはらいまで正確に書くことを子供に要求するかどうか。精確にとめはねはらいをしないと丸にしないならば、それによって子供たちは自尊感情を低めているという現状があると思う。過度の習熟を求めないようにすることも考えるべきで、時代の要請で新しい内容が増えていくわけだが、その分、今後必要性が薄れていくようなものについては軽減していく。そのことによって新たな課題に集中的に取り組めるようにする。そういった軽重の付け方を工夫していく必要があるのではないか。

● 発達障害の中に、読み書き障害と呼ばれる、聞く、話すは普通にできるのに、読み書きが難しい学習障害の一つがある。これは、実は使用する言語の特性によって表れてくる割合が違うと言われており、英語を使用する場合には、特に困難が高く表れるということが、ほぼ確実だと言われている。日本語の場合には、表記の方法が、平仮名、片仮名、漢字という三種類を常に使っていることが読み書きの困難を軽減しているという可能性が指摘され、一方、英語の場合には、アルファベットという少ない文字数のみを使っており、非常に複雑なルールに従って書かなければいけない。そのため、日本語の読み書きは普通にできるのに、英語のみ読み書きにつまずく子供たちが現れる。これから小学校に英語の読み書きを導入する上で、その点を、指導する教師がきちんと理解した上で配慮していく必要がある。

● 英語の特性を考えるならば、読み書き障害の著しい子供については、中国語又は韓国語を外国語として習うという選択肢も与えるべき。中国語の場合には漢字というある程度親しみのある文字を使うということ、韓国語の場合には、表音文字というよりは音節を表す文字であるから、日本語との親和性が高く、さらに、非常に近隣の国で仲良くする上で有益である。

■幼児教育、中学校教育との円滑な接続の在り方

○ 幼稚園・保育園と小学校の連携、小学校と中学校の連携ということを考えながら小学校のカリキュラムを考えていかなくてはいけないが、今回の学習指導要領の改訂では、高校を卒業する時の姿がどうあるべきかということをイメージしながら、幼稚園から高校三年生までの全体の中で、小学校一年生から六年生の果たすべき役割ということを考えていく必要があると思う。低学年、中学年、高学年、または各学年で育てるべき力ということを考えていく必要がある。それを基本的に考えながら教育課程を編成していかねばならない。

○ 中学校は教科担任である一方、小学校の場合は教科担任というよりは、教科をある程度分担して、教師が得意とするようなところの教科を分担しながら指導していく。問題行動も、中学校から小学校に下りてきている現状、高学年の子供も多面的に見ていく必要がある。一人の教員ではなくて、色々な教員が関わりながら育てていく必要もあると考えている。教科を分担しながら子供を指導していくことにより、得意・不得意も含めて、長所・短所も明らかになって、伸ばせるところは専門的に伸ばしていくような視点も必要ではないかと思う。また、本当に多忙な小学校の先生にとって、教科を分担することによって負担軽減につながっていくことも期待できるのではないか。

○ 私立の幼稚園や保育所の教育方針、保育方針が小学校とつながっていない。これは大きな問題だろうと思っている。小学校に入学したときに、子供の課題の早期発見、早期支援につながっていない。また、非認知能力を鍛えることが将来の人間性に大きく影響を与えるという話もある中で、幼児のときに非認知能力をどう育てていくかも大事であり、これは小学校の低学年までつながっていくように思う。保幼小の連携という中で、私立をどう巻き込んでいくかということをその一つ視点として考える必要がある。

● 小学校と就学前教育とのスタッフが全然違う。小学校の先生で幼稚園や保育所でも指導したことがあるという人は非常に少ない。そのつなぎの部分(小学校の最初の段階)に、小学校も就学前教育も知っているという人を何らかの形で入れていく必要があるのではないか。また、高学年は高学年で、中学校との接続の部分について、現状では、教科担任制を取り入れている傾向が強くなってきている。小学校と中学校の大きな分かれ目は、教科担任制であるのか学級担任制であるのかということ。そのつなぎをうまく行うべき時期に来ている。

● 幼児期との関連で、小学校の学びとどう結ぶかということについては、入門期の学びについて考えておくことが必要である。一年生は入学した当初、当然のことながら教科横断型である。だから、生活科などと関連させて、各教科が入門期においてどのようなことを学習内容としていくのかということが大事になろう。

■家庭、地域・社会との連携の在り方

○ 学校が今までの教育課程の考え方を少し変えていかなければいけない。また、社会に開かれた教育課程とはどういうものであるのかというところから考えていくと、地域のコミュニティの核としての学校というものをもう一度認識し直す必要がある。地域を巻き込んだ教育課程を編成するためには、校長の力量が問われてくる。その学校の教育目標があって、学校の子供の実態、地域性、みんな違うわけであって、そこの学校でどういう子供を育てたいのか、どういう資質・能力を求めていくのか。そういうところを明確にしていくことが大切。いかに地域の財、人を有効に取り込んでいくのか、それをじっくりもう一度考えていく必要がある。

○ 計算というと、世の中一般は技能の習熟に限定してしまう。そこの風穴をどう開けるかということになると、「目標の社会との共有」という観点から考えると、計算あるいは計算力ということによってどのような力、資質を育成しようとしているのかということについて、先生方はもちろん、社会一般の方との共有ということが必要になる。今まで基本的に普通に言われている言葉の意味を再確認して教える。教育関係者はもとより、世の中の人にもきちんと理解をしていただく。こういう姿勢をどういうふうに打ち出していくかということが重要。

○ 学校現場は今すごく大変な状況で、地域の力を借りて社会と共有・連携するということにおいては、いかに多くの地域の保護者、大人が学校現場の中で何に協力ができるのかという具体的なことを示していくことが必要。確かに子供は大人との対応は大変上手になっている。一方、子供同士や、年下の子との対応があまり得意ではない。小学校は六年間という幅があるので、学校の中で六年生から一年生までで縦の結び付けをさせて、高学年が低学年を指導したり面倒を見る。また、低学年の子は年上の中学年、高学年の子に対して対応をどうするかということの中から学んでいくこともある。例えば、登下校の瞬間を地域の方々が学校に出入りしていることによって、学校や通常の大人が見えない部分を見ていていただき、この子はどういったところを気を付けてあげた方がいいんだろうか、今後の指導においてどういったポイントを学校にお伝えして、学校と地域と連携していったらいいんだろうということにつながっていく。また、家庭の保護者の再教育にもつながっていく部分もある。多くの地域の大人、保護者が学校に関われる具体的な仕組みを作ることができればいいと思う。可能であれば、自分のエリアだけではなく他のエリアと、ICT等も活用して、他のエリアではこんな学びをしているということについても何かできるような形でカリキュラムの中で入れていけたら、多様性や、他者を受容するというところにプラスに働くのではないかと思う。

○ 保護者の学力、学歴と子供たちの学力を見たときに、相当格差が出てきている。この二極化という問題をどうしたらよいのか。その点も考えておかないと、例えば英語も好きな子と嫌いな子がはっきり分かれてしまうということになってくる。学力の底上げには、家庭学習、つまり宿題等をしっかりチェックしてまた返すというようなこともどのようにしたら定着させることができるか。そういった点も検討の余地があるように思う。

小学校教育を通じて育成すべき資質・能力

■小学校における教育課程が育成を目指す資質・能力について

(教科横断的な取組を通じて育成すべき資質・能力)

○ 各教科の目標を達成することを目指すと同時に、教科横断的に育成が望まれるコンピテンシー、汎用的な能力の育成が必要になってくると思う。思考力、言語能力、情報活用能力、課題解決能力のような力というのは、教科の文脈の中で育てられていくことが大事である一方で、それ自体を取り出して指導していく場面も必要になってくる。そうなったときに、例えば、生活科や、総合的な学習の時間の在り方が重要になってくると思う。各教科と生活科や総合的な学習の時間との関わりを考えながら、教科横断的にどうコンピテンシーを育てていくかということがとても大事になる。

○ 非言語能力というものも大事だと思う。言葉だけでなく、音でコミュニケーションがとれるような、その非言語のところはやはり教科の特性というのを十分に出すべき。教科の横並びを、全部同じように並べるのではなく、その教科の特性をきちんと踏まえて、しっかり汎用的な能力というものを見ていく必要があると感じている。

○ 子供が多様化する中で、個に応じた指導ということが求められる。その子供の学び方や学習スタイルに応じた指導という、学習集団を作っていくということも必要ではないかと考えている。

○ 学びに向かう力というのは大変重要。小学生は知らないから余計に「はてな」がいっぱい出てくる。「どうして」、「わからない」、「どうしたらいいの」。それが時間が進むに声が小さくなって、ついには言わなくなってしまう。よく聞く話である。問いや疑問というのが自然に出てきて、すぐ決着がつかなくても、それをプールしておいて、いつも頭の隅に置いて考えが進めていけるような環境、これをどうしていくかというのは小学校で大事なことになるのではないか。決着がつかなかったものは次の学習への楽しみとして残しておくべきだというような形で、カリキュラムの構成が立てられないか。算数・数学においては特に、正しいことを正しいと主張することにものすごく苦労している。世の中は正しくないことがたくさんあって、それにだまされることもたまにある。ということは、正しくないことにどうお付き合いしていくかという問題もバランスよくやっていく必要がある。これは資質・能力の二番目の柱。言語力との関わりの中で、教科横断的にも整理できると思うので、その点を検討していく必要がある。

○ 総合的な学習の時間における教科横断的な学びと、各教科の学習における学びを相互に関連付けながら充実を図っていくことが今回求められている資質・能力を身に付けていくことに大変有効なのではないかと思う。この点については、総合だけで言及するのではなくて、総則の中に位置付けていく方向があると良い。

● 情報活用能力を教科横断的に育むということは重要だが、その場合に、情報活用能力を教科の内容の文脈の中で育てる場合が有効なものと、そのスキルだけを取り出して育てた方が有効なものがあり、その両者をある程度区別して考える必要がある。

● 情報活用能力のスキルを取り出してトレーニングする場面は、どのようにどの時間に育てると良いかというのは割と具体的に示すことができるが、教科の文脈の中で資質・能力を育てるということについては、学習指導要領での書き方が難しい。教員が教科指導をする際、何年生のここの部分ではこういうことがこの教科のこの中でできるのではないかということが明らかになっていた方が、自分のアイデアと方向性とが一致しやすいが、その書き方が具体的になり過ぎてしまうと、今度はそこで教員のそれぞれの教科の中にどういうふうにそれを横断的に盛り込んでいくかとか、それから、学校としてどういうふうにそれを盛り込んで、その教科を特徴付けていくかという独自性が薄れてしまう。そういう意味で、教科の文脈の中でこの情報活用能力をどう育てるかということについて、どのように指導要領の中に示していくかということがとても大事になる。

● 情報活用能力との関連で言えば、ローマ字学習は新しい活路になる。これまでローマ字の学習は、どちらかというと、社会生活の中で駅名などに使われている、あるいは英語学習の基礎をなすという理由で行われてきたが、これからの情報活用能力との関連で、キーボードの入力という点で極めて大事な力になっていく。文字学習の一つの活路となる可能性がある。

● 教科横断的な学びは、総合的な学習の時間が担ってきている部分が大きく、これからもまた鍵になっていく。ただ、総合と称してキーボードの操作の仕方だけを学んでいるというような、総合の狙いとしている探究のプロセスを大事にされない中で、とりあえず教科に入らないものは総合でというような、そんな傾向もこれまであったのではないか。それぞれの教科でスキルをしっかりと必要に応じて身に付けて、総合の時間にはそういったスキルを使って探究的な学びを進めていくというようなことも、一つ教科との関連でも、総合的な関連ということでも厚みが増してくるのではないか。

● 教科横断的な学びとして、ESDについて、これは取り組んでいくべき重要な課題であり、検討をしていただきたい。

● 教科横断的に取り組むべきことはたくさんあり、その中から何を取捨選択していくのかというときに、地域の実情、あるいは特色から地域社会の中の問題を子供たちが捉えて、それが発展していくという視点が必要。それが総合やいろいろな教科の絡みの中で、どう関連付けられるのかというところも考えていかなければいけない。

● これからは、ESDという大きな視点、そういうものでカリキュラムを考えていくという、大きな捉えの中で考えながら、横断的な活動を目指していくということも必要。持続可能な社会の担い手となる子供を育てるというところを一番の基盤としながら、カリキュラムを作っていくという視点も大切。

● 学校現場の中で、今、ESDという言葉が余り出ておらず、子供たち自身もよく理解できていないというところもある。もちろん先生方も全て理解しているわけではないので、こういったことも入れて、カリキュラムを組んでいくのが良い。

(資質・能力の育成と、各教科等の充実の方向性について)

○ 小学校六年全体を考えると、当然発達段階等によって異なる。算数・数学の場合だと、一応四年までと、中学一年まで、高校一年まで、高校三年までという感じで今カリキュラムが作られている。四年までは数・量・形についての対象概念についての理解を中心に。四年の途中から五年にかけて、図形で言うと平行、垂直、あるいは、合同等。数についていくと公倍数、公約数といった関係についての概念が加わる。それによって思考の質が広がりと深まりを持つ。中学二年から、証明、論証が入ってきて、説明の質が格段に上がる。それぞれの時期にそれぞれのことについてしっかりとした理解と習得をし、それを活用した探究をしておかないと次の学習に進んでいけない。その構造が、算数・数学の固有のことなのか、あるいは、概念を基に思考を深めたり広げたりするという学習から見たときに、他教科との関わりがあって、ある程度のくくりでうまくくくれるのであれば、そういうことを明確にしていくということで、指導の重点が一層明確になって、資質・能力の育成に深く関わっていくのではないか。

○ 一般にカリキュラムは新しいことが増えていくように見えていて、コアになるような、例えば、「1」という概念の把握の仕方が学習にともなって広がりと深まりを持って大変意義深いものになっていくという認識が欠けているように思う。算数だと「1」とか「三角形」のように、各教科における急所にあたるようなもの、そういったものの示し方をどうしていくかということが重要。

○ それぞれの校種が、その発達段階的に上の校種の下請けではないという前提がまずあるべき。その前提を共有できていないというところがまだあるのかなと思う。まずその前提の基礎を作る段階というのが大事。外国語活動が話題になっているが、学びのプロセスの根っこを考えていくと、それは言語とは何か、人間とは何かということにまで通じるようなものだと思う。外国語活動に触れる初期の中学年段階での体験的理解という言葉も印象的。例えば、英語で他の言葉を通訳してもらうと、英語が近くなることがあった。文法を分析して理解させるということの前に、そういった相対的な理解を育むために、文法の違いや、色々な言葉が世の中にあることなど、体験的認識というものを何らかの形で入れられればよいと考えている。

○ 子供の体作りや体力・運動能力というようなことは必要。現場で子供たちを見ていると、手先だけではなく体全体が不器用であったりとか、例えば、まっすぐ立てないとか、常に体が動いているとか、滑らかな動きができない、そういったことから生じて、鉛筆が器用に持てないから字も枠の中に上手に丁寧に書けないといったことがある。そういう視点も、今の子供たちの体を作っていくということにおいては、一般の学校においても重要になってきて、何らかの策をとっていく必要があるのではないか。

○ 高学年における英語の教科化について。今まで小学校の先生の努力もあり、子供たちは意欲も関心も増してきている。ただ、高学年では、母語で行っている学習内容や、やり取りをしている内容と、当然のことながら、外国語でやり取りしている内容には大きな落差がある。当然、言語の自然な習得のようなわけにはいかず、中学校になればかなり意図的に学習するという段階に入っていく。そこの接続が今のところはうまくいっていない。いろいろ体験的に活動して、意欲は高まってきたけれども、実際言おうと思っていることが言えない。それに対して、意図的に学んでいくにはどうしたらいのかという段階が小学校の高学年だと思う。そこに文字言語、読み書きを入れるということで、改めて母語とは違う言語システムを明示的に理解することができるようになるわけで、そうすることによって言葉というものを相対化するという力が付いた上で、中学校の学習に入っていくことができる。小学校高学年の知的な発達段階に、これまでの外国語活動に基づきつつも、中学校とつなげていくための書き言葉を加えた学習をある程度まとまった時間をとってカリキュラムの中に入れていくということが必要な段階に来ている。

○ 体育については、現行の学習指導要領の中では、小学校から高等学校までの12年間を見通した系統立てた内容で、四年ごとのまとまりでうまく体系化されており、学校の先生方は目標、指導、評価の一体化という中では、今回の学習指導要領に寄り添って、今ちょうどうまく機能しているところ。面白い授業や子供たちの反応も見えてきて、個人的にも、十分定着してきつつあるということを思っている。一方で、中学校につなげるという意味でも、また、小学校五、六年生という発達段階を考慮しても、運動経験はもっと持たせてやりたいと思う。そういうことで、運動好きにするとか、運動経験を増やすことで、もっと運動をやってみよう、もっと健康に向かってみようという気持ちも膨らむのではないか。

○ 全国体力・運動能力、運動習慣等調査の結果から、いろいろな成果も出てきてはいるが、残念ながら中学校二年生の女子においては、運動の二極化ということが言われている。特に中学二年生の女子が運動離れしているという状況は、この女の子たちが将来大人になって、母親になり、子供たちにどう関われるかということを考えたときに、やはり運動が好きでやってきたお母さんは、子供たちにもそういう運動経験をさせるというような意識になると思うが、そうでないところは、子供もなかなか運動に親しむことができない環境で育ってしまうということも考えられると思う。何より子供の頃に運動にあまり興味がなく、経験がない場合は、将来の健康課題にもつながってくる。将来の日本を支える今の子供たちが健康であること、体力をしっかりつけておくということは大事なことだと思う。

■言語に関する能力の重要性について

(言語の役割及び言語に関する能力について)

○ 外部の方が今の子供を見たときに感じることとして、大人に対する対応がうまいということがある。しかしよく見ると、子供同士は挨拶をしないということが指摘されて、これにははっとした。子供は就学前に、保護者だけでなく、いろいろな幼児教育機関に通っていて、多くの大人と接触している。小学校に入ってからも、小学校に支援員の方が大勢入っていたりして、何か困難があるとすぐ大人が声をかけてくれて、言葉を差し伸べてくれるということがあって、大人との接触は結構ある。ところが、肝心の子供同士のコミュニケーションというのがあまりうまくいっていない。これは昔であれば、就学前に子供同士の遊びなどの中で培われてきたものが、現在はないということだと思う。子供が十分自分で言葉を使えない前に、大人とのコミュニケーションで、言語能力に長けた人とのコミュニケーションをやって、察してもらったりしながらうまくやってきているわけだが、未熟な者同士の同年代のコミュニケーションというのに困難を抱えていて、それが特に最近の小学校の低学年での暴力行為が増えているということなどにつながっているのではないかと最近思うようになってきた。従来学校の中で、カリキュラム横断的に言語能力を養っていくということが言われていて、それは学習のための言語であったわけだが、生活の中の言葉のやり取り、特に子供同士のやり取りというのが難しくなってきているというのが最近の大きな課題ではないか。これは例えば、国語の時間の中でディスカッションやディベートをするといったことでは、なかなか解決ができない問題ではないかと思う。大人が多くて子供が少ないという環境の中での子供がどういうふうに言語能力を身に付けていくのかということについては、小学校のカリキュラムを考える上で一つの課題として考えていく必要がある。

◇ 子供は、乳幼児期から身近な人との関わりや生活の中で言葉を獲得していき、発達段階に応じた適切な環境の中で、言語を通じて新たな情報を得たり、思考・判断・表現したり、他者と関わったりする力を獲得していく。

このように獲得される言語に関する資質・能力は、育成すべき資質・能力の中でも特に重要なものの一つである。それは、言語というものが、子供たちの学習や生涯にわたる生活の中で極めて重要な役割を果たすものであるからである。

学校という場において子供が行う学習活動を支えているのも、言語であると言える。教科書や教員の説明等から新たな知識を得たり、事象を観察して必要な情報を取り出しながら自分の思考をまとめたり、友達の思いを受け止めながら自分の思いを伝えたり、クラスで目的を共有して協働したりすることができるのも、言語の役割に負うところが大きい。

言語が果たす具体的な役割については、これまでの各種会議等の議論の成果 を踏まえ、以下の三つの側面から捉えることができる。

(1)創造的思考(とそれを支える論理的思考)の側面
(2)感性・情緒の側面
(3)他者とのコミュニケーションの側面

学校教育においては、地域や家庭とも連携しながら、上記の三つの側面に関わる言語 に関する資質・能力を養っていくことが求められる。

(資質・能力の育成と言語能力との関係について)

○ いわゆる言語能力について、例えば、いろいろな言語の違いに気付いていくとか、その言語の違いから文化の違い、ものの考え方の違いなどに気付くということ、その土台を小学校のころから少しずつ体験させていくというのは非常に大切なことだと思う。その際、単純に明示的にこれはこうだよ、あれはこうだよ、日本語と英語はこう違うんだよと、上から教え込んでも子供は多分気付かないと思う。一番大切なのはそういうものに自ら気付いていけるような体験をどれだけさせていくことができるか、どれだけそういう環境を整えることができるかということが大事。

● 英語の場合、文字の教え方というのにも、いわゆる分析的なフォニックスのような形で一つ一つの文字に分析して文字を教えていくというやり方と、いわゆる単語を一つ、ホーワードアプローチのような形で読み書きを教えるというやり方など、まだ具体的にどれがいいというようなことは決まったものは何もない。そういう文字指導の在り方に関して、アメリカでもいろいろな形で実験されており、きちんと調べた上で、英語に関しても、そういう学習困難のある生徒に対して文字指導をどうすればいいか今後検討する必要があるのではないか。

● 就学前教育の機関がいろいろあるということ、また、家庭の言語環境が様々であるということもあり、明らかに学校へ入ってくる前の、語彙力も含めて言語能力にかなり差がある。実際、母語である日本語の読む能力にかなり個人差がある。他教科の学習も全て日本語で書かれた教科書を使って行われており、そのことにより更に差が広がっていくことになっている。母語であるが故に、実態として子供の日本語による情報処理能力に、小学校の低学年でかなり差ができているということが余り認識されてきていないのではないか。それがその後の学びに、どんな分野の学びについてもかなり決定的な影響力を持っている。実際、その後の中学校以降の勉強においては、ある分量の文章をどのくらいのスピードで、しかも確実に読んでいけるのかということが、それ以外の発信能力にもかなり影響してくる。基礎的な言語能力の育成というのは、小学校段階では、教科横断的にかなり意図的に考えていく必要があるべき課題である。

◇ 言語は、子供たちの学習や生涯にわたる生活の中で極めて重要な役割を果たしており、全ての教科等における資質・能力の育成や学習の基盤となるものである。したがって、言語能力の向上は、学校における学びの質や、教育課程全体における資質・能力の育成の在り方に関わる重要な課題として受け止められる必要があり、その発達の在り方を踏まえながら、国語教育や外国語教育、その他各教科等の学習の在り方を考えていく必要がある。

言語能力は、発達段階に応じて、まずは母語を通じて獲得されていくことが基本となり、母語の能力が、言語能力の獲得やあらゆる学習の基盤として極めて重要になってくる。また、多様な言語や文化を理解したり、いろいろな価値観や背景をもつ人々と対話したりするためには、外国語の能力も極めて重要となる。外国語を学ぶことによって、母語の学習では気付かなかった言葉の働きや仕組みへの気付きを得ることもできる。

学校における言語能力の育成においては、こうした母語と外国語の役割なども踏まえながら、国語科や外国語科における教育それぞれを充実させるとともに、相互を関連づけて充実させていくことなどが求められる。

加えて、言語能力は、国語科や外国語科のみならず、全ての教科等における学習の基盤となるものである。例えば、「論点整理」が提示した資質・能力の三つの柱に照らせば、以下のように考えることができる。

1)個別の知識・技能
     学習内容は多くが言語によって表現されており、新たな知識の獲得は基本的に言語を通じてなされている。また、言語を使って、知識と知識の間のつながりを捉えて構造化することが、生涯にわたって活用できる概念の理解につながる。
     具体的な体験が必要となる技能についても、その熟達のために必要な要点等は、言語を通じて伝えられ理解されることも多い。
   
2)思考力・判断力・表現力等(教科等の本質に根ざした見方や考え方等)
     教科等の本質に根ざした見方や考え方の獲得は、各教科固有の学びのプロセスを通じて行われる。このプロセスにおいては、情報を読み取って吟味したり、既存の知識と関連付けながら自分の考えを構築したり、目的に応じて表現したりすることになるが、いずれにおいても言語の役割が極めて重要である。
   
3)学びに向かう力、人間性等(情意、態度等に関わるもの)
     言語を通じて他者とコミュニケーションをとり、相互の関係を築いていくことにより、チームワークや思いやりなどを育むことができる。また、子供自身が、学びに対する自分の心理を言語化して意識し統制していくことが、いわゆるメタ認知の獲得につながる。

このように、言語能力の向上は、学校における学びの質を高め、教育課程全体における資質・能力の育成に欠かせないものであり、義務教育の初期段階を担う小学校教育において、重要な課題として取り組んでいく必要がある。

(様々な資質・能力と言語の関係について)

● 情報活用能力の基盤は、多くの部分を言葉の能力が担っている。総合的な学習の時間は、これを活用したり、応用したりしていくことになる。情報活用能力を効果的に習得するためにも、あるいは発揮するためにも、言葉の能力をどのように育てていくことが大事なことになっていく。

● 言語活動としての外国語習得の場面を、教科横断的に外国語の時間以外、全教育活動の中にいかに盛り込むかも重要。

◇ 言語能力は、資質・能力の育成の基盤となる重要な役割を果たすものであることから、様々な資質・能力と密接に関連している。特にコミュニケーション能力や非言語能力等との関係性については以下のとおり。

コミュニケーション能力については様々な定義があるが、文部科学省の有識者会議 においては「いろいろな価値観や背景をもつ人々による集団において、相互関係を深め、共感しながら、人間関係やチームワークを形成し、正解のない課題や経験したことのない問題について、対話をして情報を共有し、自ら深く考え、相互に考えを伝え、深め合いつつ、合意形成・課題解決する能力」と定義しており、教育課程企画特別部会における議論においても当該定義が援用されていたところである。

この定義を言語の働きに照らして整理すれば、コミュニケーション能力については、言語の働きのうち【3】他者とのコミュニケーションの側面を軸としつつ、他の側面(【1】創造的思考(とそれを支える論理的思考)の側面、【2】感性・情緒の側面)にもしっかりと支えられた能力として育成される必要があることが分かる。教育課程全体の議論においてコミュニケーション能力を議論する際には、上記のような視点から育成すべき資質・能力が明確となるよう整理することが求められる。

また、人間のコミュニケーションや創造的思考などの諸活動は、言語によってのみ支えられているものではなく、言語以外にも、形や色などのイメージや、身体の動き、音の強弱やリズムなどの多様な手段が関係しているものである。こうした多様な非言語的な手段による諸活動に関する資質・能力を、言語能力と相互に関連させながら高めていくことは、感性や情緒等を豊かなものにしていくことにもつながる。このため、学校教育を通じて、芸術教育や体育等の充実を図ることも不可欠である。

また、言語能力の育成のためには、各教科等を通じて、実際に言語を用いて行う言語活動を充実させるとともに、体験活動を通じて、実社会の中で様々な事象に触れたり、多様な他者との交流の機会を持ったりすることも重要であり、アクティブ・ラーニングの視点からの授業改善の中でそれらの充実を図っていく必要がある。

■国語教育を通じた言語能力の基盤形成と外国語教育の役割について

● 英語ができる人は、国語ができる人。英語ができる人の日本語訳は美しい。英文の確かさは、日本文の確かさである。逆は真ならずで、国語ができる人は必ずしも英語ができるとは限らない。だから言葉の力を育む国語(力)が重要となる。

■外国語活動の充実について

● 外国語については、必ずしも英語に全て偏る必要はない。外国語活動であるから、必ずしも英語だけである必要はないのではないか。

小学校における「カリキュラム・マネジメント」の在り方

■「カリキュラム・マネジメント」の意義について

○ 各教科等が小学校の教育課程の中でそれぞれ所期の目的・使命を果たしているのかという視点で、それぞれの教科の現状と課題を精査する必要がある。あるいは、そういうことについてデータを持っておく必要がある。それぞれの教科等の存在理由を考える際、他教科等との連動性、親和性も考慮したうえで、とりわけ小学校の教育課程は考えなければならない。低学年の学力の問題もこれと関係があり、学級経営がうまくいくかどうかが、学級間における学力の指導力の違いにあらわに出ているのではないか。チーム学校というのも、高学年だけのテーマではなくて、小学校の一年生から、どういう形でチーム学校というのを作り上げていくのかが問題となる。そうすると、学級経営と学年経営の連動性や、学校としての全体としてのカリキュラム・マネジメントといったことになるかと思うが、次回カリキュラム・マネジメント等の中で御議論いただければと思う。

● カリキュラム・マネジメントの働きが非常に大きくなっていく。カリキュラム・マネジメントとしての、何とか教育とか、あるいは小学校教育として配慮すべき事項など、全体的に関わるものを、ある程度総則で示すわけだが、同時に、総則だけでは、現場の特に担任レベルではなかなか把握しにくいので、教科にも盛り込む。特に管理職を中心として、何とか教育のカリキュラム化を考えるとして、全部小学校の管理職にそれを作りなさいというのはかなり厳しい要求。そういう意味で、総則に細かいことは書けないと思うが、ある程度は書きながら、指導計画等のサポートや、あるいは、各教科の教科書の中にそういった面に関わる部分を入れて分かるようにするなど、総則の部分と各教科などをどうつないでいくか工夫が必要。

● いわゆる○○教育、現代的課題への対応ということをどういうふうに整理して考えたらいいのか、そこのところはもう一段詰めなくてはいけない。要するに、○○教育を、御説明いただいた調子でいけば、それこそ総則はパンク以外の何物でもなくなるわけで、そのための一つの知恵として出てきているのが、教科横断、あるいはカリキュラム・マネジメント。これまでは学級担任制という制度の中に位置付けて、担任によって随分扱い方が異なることをある意味では許容していた。改めてこういう現代的な課題、○○教育の扱いを、小学校段階における教科横断という視点からどう検討していくのかがテーマになってくる。

● カリキュラム・マネジメントについての検討すべき課題、テーマについては、一つは、内容の関連をどうするのかという教科ごとの関連、相互の関連という柱がある。もう一つは、授業、教育課程に関わる中身を実施していくに当たって、どうリソースを充てていくのか。そして、一つ目の話と二つ目の話と一緒になっていくということ、これが三つ目で、これは言うならば正にマネジメントそのものという捉え方もできなくはない。それがそれぞれの学校における工夫の仕方。

● カリキュラム・マネジメントを進めていくということは、学校の自由度を高める、地域の特色を表に出して、それをどんどんと子供たちとともにということになっていく場合に、もし子供が何らかの形で学校が替わって転校した場合に、ついていけるのか。若しくは、差があったところをどう埋めていくのかということも考えた部分でマネジメントされていくことが必要。

● 高度に発達したメディア社会においては、いわゆるメディアリテラシーが大きく求められている。メディアを、受容・理解するだけではなくて、吟味・評価する面が大事になってくる。それを、発達段階とどのようにマネジメントしていくのか。受容・理解から評価・批評・吟味へ向かう、一般的にはそういう発展段階が考えられるのではないか。

◇ 「論点整理」にまとめられたように、今回の改訂が目指す理念を実現するためには、各学校において「カリキュラム・マネジメント」を実現していくことが重要となる。

この「カリキュラム・マネジメント」については、以下の三つの側面から捉えることとされている。

  (1)各教科等の教育内容を相互の関係で捉え、学校の教育目標を踏まえた教科横断的な視点で、その目標の達成に必要な教育の内容を組織的に配列していくこと。
  (2)教育内容の質の向上に向けて、子供たちの姿や地域の現状等に関する調査や各種データ等に基づき、教育課程を編成し、実施し、評価して改善を図る一連のPDCAサイクルを確立すること。
  (3)教育内容と、教育活動に必要な人的・物的資源等を、地域等の外部の資源も含めて活用しながら効果的に組み合わせること。

■小学校における児童の発達の段階に応じた指導の重要性について

● 小学校の場合の六年間は、学制改革をするわけではないので、それは変わらないが、他の校種と比べると、非常に長い年数。そういう意味で、小学校の低学年と中学年と高学年が同様の刻みでいいのか。例えば、低学年の場合には幼児教育との関連、高学年の場合には中学校教育との関連をもっと強くしていくということも提言されているわけで、そういうことを含めながら、小学校の低学年教育、中学年教育、高学年教育のそれぞれの特徴を生かす。そのためには、指導要領上の改変もいろいろあるとは思うが、やはり学校のカリキュラムをどうめり張りをつけていくかみたいなことをもう少し考える必要がある。

● 小学校の六年間は、特に低学年と高学年を見ると発達段階も全然違う。それが同じような指導の在り方で授業等を行っているということは、やはり不自然だと言わざるを得ない。現行の指導要領でも、発達段階、それから、子供の集中時間や持続力に応じて多様な枠組みは取れるわけだが、現実問題としては、45分の授業が基本。学校教育は、集団で学習することの良さを生かした、協働的な学びの部分と、自律した学習者を育てるという個に応じた指導というのを、授業の中でもかなり意識的に切り分けて入れていくべき時期にあるのではないか。日本の場合は、集団による授業研究、指導案を作って、授業をみんなで練り合うというようなことが強調されていて、いろいろな授業が、ある意味一律に、導入、展開、振り返りという形で構成されていく。1単位時間の弾力的な運用を進めるべき。

● 1単位時間については、小学校の六年間、一年生から六年生まで45分を基準としているが、低学年あたりは学習に集中できる時間を考慮してもう少し短くする部分があってもいいのではないか。

● 標準は45分だが、特に低学年の一年生などは15分、まず最初集中できればいい。その一方、高学年は、問題解決的な学習などを行うときには、45分では足らないのが実態で、60分は必要。ただ、このようにしたときに、他の教科との関係が出る。ここがやはりカリキュラムを考えていくときの一つ課題になる。

■短時間学習等の柔軟な時間設定の現状と、効果的な実施の在り方について

● 授業時間の配分については、例えば、短時間学習などは、読書活動、ドリル、あるいは今後外国語活動なども検討するのかもしれないが、いろいろな活用が既に進んできている。従来も小学校の授業時間、45分という単位時間を標準として扱われているが、本来もう少し柔軟な組合せがあり得るが、結局なかなかうまくいかない。それは、授業として難しいということもあるが、算数は50分にしてこっちは30分と組み合わせると、非常に教務上、教員の労働の配置が難しくなることからなかなかやれない。授業時間というのも、カリキュラムを構成する重要なリソースであり、それをどういう配置とか組合せとか順番にするか、もう少ししっかり考えた方がいい。それがマネジメントの仕事であるということをはっきりさせた方がいい。

● 短時間の学習については、記憶再生型の知識と技能の定着を図る一つの方法として有効性が確認されてきている。英語の短時間学習のこれからの可能性というものを非常に実感すると同時に、一方で、もう少し子供たちの生活情報を酌み取れるような活動も是非短時間学習の中で生かしていただきたい。

● 短時間学習について様々な工夫、実践が進められているが、学校の中にゆとりがなくなって、どんどんぎすぎすした時間割になってしまう。集中できる力を付けるということについては非常に良いが、一方で、ほっとできるような学級経営ができるような工夫が必要だろう。

● 授業時間の弾力的な運用――学習指導要領全般にわたって弾力的、あるいは学校現場で様々な裁量ができるという仕組みになっているが、そういったことを、大学院で現職の教員を相手に話をすると、実際にはできないんですよということを非常に強く抗議される。できるとは書いてあっても、どうやってやればいいのかということについて、学習指導要領に明示されていない。個人的に学習指導要領を守って弾力的な時間運用をやろうとしても、学校体制の中で、どうしてもできなくなってしまう。

● 学校での外国語活動や教科としての外国語の学習を充実させるために短時間学習が有効かどうかということの前に、誰が教えて、どういうふうに時間を取るかということと短時間学習の関係ということを考える必要がある。一つは、誰が指導するかという問題。高校の卒業段階でCEFRのB1レベルを目指して、子供の英語の力を高めようとするならば、また、中学校の英語の授業を英語で進めることを目指すのであれば、学校は可能な限り英語の指導にたけた人材を活用する必要が出てくる。二つ目は、どのように指導時間を確保するかということ。全国共通の指導要領に定める時間数には枠があることから、その中でいかに効率よく時間を使うかということが重要になる。その際、担任が指導するのであれば、朝の時間帯に一斉にモジュールの形で英語の指導をするこが考えられるが、専科の英語の教員やALT、地域の中学校の英語の先生に来てもらって小学校で英語の指導をするということになると、モジュールは不都合な場合が出てくる。誰が教えるかということと、どのように時間設定をするかということを併せてマネジメントするということが必要。

● その学習に適切な時間ということを考える必要はないか。例えば、読み聞かせだと、あるいは文章を書くのだと、さらにはディベートだったら、どのぐらいの時間が適切なのか、そういった効果(目標とする学力を育む最適な時間)についてカリキュラム・マネジメントとして考えていく必要があるのではないか。

● 短時間学習については、活動本位になっていはしないか。この時間の中で一体どんなことが目指されるのか。もうちょっと言えば、どんな力を付けることができるのかというような形で、もう少し短時間学習には短時間学習にふさわしい目的、目的的にこれが活用できたら良いのではないか。

● フレキシブルに時間を考えるということは構わないが、総時間からすると、知識と、その知識を使った機械的な練習、活動、文字の練習なども含めた練習と、そして、それを実際にcan doという形でコミュニカティブな目標に向けて使っていくという、この三要素をきちんと含めた形で考える必要がある。その辺をきちんと把握した上で、時間数などを考えていく必要。

● 短時間学習と、いわゆる通常の45分を単位とした学習の有機的な関わりというのをきちんとしておかないと、負担増だけで成果が上がらない可能性がある。既習をすぐ習熟するものと、もっと前に学んだものを維持していくという二つの観点から、内容の多様性をしっかりと整理をして、適切な対応をし、通常の授業をサポートできるような仕組みが作れないか。

● 平成16年以降、小学校での暴力行為がずっと増加している。分からないということが一つ、その原因にあるのではないか。基礎的な部分をきちんと身に付けさせることが授業が分かるということに結び付いていくので、朝の時間は非常に貴重。ただし、そのことが必要のない子供もいるわけで、どのような内容を組み合わせていくのか、検討していく必要がある。

● 先ほど提示された資料の中でも、読書活動、漢字練習、計算練習というものの実施割合は非常に高い。その中でも、授業時間に含めて実施している割合というのは、少ない。ということは、やはりカリキュラムの中にこれを含めることができないというような考え方で朝の短時間学習というのは実施されているということ。それであれば、この時間をどうやったら授業の中に含めるような内容として学校は考えて、それをカリキュラムの中にうまく取り入れるように工夫していくことを考えていかなければいけない。

● 以前に比べると大分、45分と言われても、かなり学校で工夫して、弾力的に運用している。チャイムが45分ごとに鳴っている学校というのが、今、少ないと思う。そういう意味では、あるポイントを決めて、学校ではその中で、やはり学級担任が授業を組みやすいような形でマネジメントを進めているということが、今の現状の中にも見られる。

● 短時間学習について考える際には、45分授業そのものもいくつものモジュールで構成されているという捉えもできる。語学においては特に、1時間の授業である内容が完全に習得されるということは考えにくく、数時間にわたる内容のつらなり、繰り返しを通じて次第に習得されていくのが普通であると考える。

● 小学校で○○教育、教科横断的な指導を主に行われているのは総合的な学習の時間。多くの学校では、学校全体の計画を策定して、その中で子供たちにどのような力を培っていくのかということを明らかにして、それに基づいて、それぞれの学年でどのような教科横断的な学習テーマを設けて取り組んでいくかということに取り組んでいる。まず、学校が全体計画を策定するということをきちんと位置付けていくことが必要ではないか。

● カリキュラム・マネジメントを行うというと、どう行えば良いかという方法にウエートが置かれがちになるが、大事なことは、学校教育目標と関連させて、それをどのように実現していくのかということである。それを管理職と教職員との相互理解において、いかに実現していくかということである。目標をどのように設定し、それをカリキュラムでどう実現していくことができるかが問われている。計画を見詰めることは、目標を見つめることだと思う。

● 単に時間から入るのではなく、教科の内容、目的をきちんと把握しなければならない。小学校においても、もちろん三、四年生の外国語活動から教科に移っても、英語を通して何ができるようになればいいのか、五年生、六年生が終わった段階にはこういうことができればいいという一つの目標が立ってくるはず。何ができるかというのは、コミュニケーション、そこに到達するためには、それに必要な知識が必要。知識が必要であって、またその知識というものをきちんと練習をしなきゃいけない。練習をしなければ、コミュニケーションに役立てるという活用はできない。知識の獲得も必要だし、その知識を練習する、そして、それを活用して何かが英語でできるようになっていくということを考えてやらないと、ほとんど意味がなくなってしまう。そのためにどれぐらいの時間が本当に必要なのか。短時間学習を含めて、どうすればどういうような目標達成が可能なのかということをきちんと把握していくことが今後必要。

● 各学校においてカリキュラム・マネジメントを円滑に実施していくためには、まずは各学校が自校として育成を目指している資質・能力、それを設定することがすごく大切。総合的な学習の時間はこれまでも汎用的能力を育成してきたし、また、今後もその役割は一層重要になる。今後、学校全体で、また、教科横断的にというようなところを考えたときにも、総合的な学習の時間がそういった各学校のカリキュラム・マネジメントの中核になっていくということが一層必要になってくる。

■各学校の「カリキュラム・マネジメント」を支えるための方策について

● 管理職のリーダーシップの下にカリキュラム・マネジメントを進めていく上では、一人一人の教員がカリキュラム・マネジメントをしっかり行える力が必要。そのためには研修の充実や、しっかり研修の体制を整えること、それから、指導主事としての支援が求められる。そういった支援体制をしっかりしていくことが大事。

● 教員養成の中で、全体的なカリキュラムというものについて、学生に理解をしてもらうというのが非常に難しい。免許法上の教育課程論等については、四校種で共通解説をしながら一科目等をやっているが、カリキュラム全体を見通すような知見を持って、新任教員を養成段階から行っていく必要が出てきていると認識。ただ単に教科に通底するような課題を検討するというのは、総合的な学習の時間ができたときに、ある程度その内容は受け止められるようにはしてきているが、現実には、課題解決型の学習というものを十分理解して学生が新任教員として巣立っていくというところにはまだ至っていない。養成段階で教科指導の内容の定着もままならない中で、なかなか教科横断的な、課題学習的なものをこれからどうやってやらせていくのかというのが大きな課題。

● 四年間で教員養成をして現場に出すといったときに、大学内でよほど頑張っても、コンセプトを伝えても、現実役に立つところまで行くのは大変難しい。例えば、初任者を二年くらい副担任的な扱いにして、その間にベテランの先生と組んだりして、カリキュラム・マネジメントに関わる内容、方法に関わるオン・ザ・ジョブトレーニングをきちんとやっていくというようなことも併せて是非進めていただきたい。

● 実際に指導する先生方に非常に不安感がある。依然として地域差、学校差、教員差があり、これをどうするか。特に英語力。担任がやるとなってくると、保護者の方も高学歴の方がいて、小学校の仮に担任がやっていて、あのレベルねと言われると、不信感ばかり出て困ってしまうという心配を先生方は持っている。加えて、教科になってきた場合の指導力についても心配を持っている。それに対しては、行政サイドの連携をしっかり取って研修体制を組んでいくということが必要。その際に、中核教員を育てようと今やっているが、本当に指導者、中核教員を育てる場合に、どのレベル、どの人たちを引っ張り出せばいいのか。

● 学校がゼロからのスタートすることは大変難しい。モデル校とかをセットして、その効果的なカリキュラム・マネジメントの方策などを広く知らせて、学校が取り組みやすい形にすることが重要。

● 現代的な課題に対応した様々なことを行っていく中では、いかにも小学校のスタッフが少ない。教育課程の改善をてこにした、小学校の教員定数の改善に結び付かない限りは、どれだけのことを言っても絵に描いた餅であるとしか言いようがない。

● 短時間の学習時間について、今後それを活用していくという意味では、教材とか指導の仕方についての実践的な研究がもっと必要。計算のドリルで言えば、それぞれの子供にとって、適切かどうかは分からないわけで、むしろ個別的な学習で診断し、それぞれに対しての課題を与えて、フィードバックして、次の段階に進むようなことというのが必要なはず。もう少し賢い時間の使い方があるような気がする。朝の読書時間についても、朝、例えば15分、週3回だと45分、読書活動をすることによって子供たちの言語力が上がるということについては、それ自体としては、ほぼ期待できない。言語力の中核は語彙であり、重要なのは、あらゆる時間における教師と子供の言語的関わり方。短時間を活用するなら、指導の仕方とか教材とかをもう少し提供できる形、また、それを促す姿勢が必要。

● 英語の短時間学習の可能性を考えた場合には、課題として、教材・教具の開発とか準備、そういった条件整備というのが重要になってくる。それあっての学習になってくる。

● 人口5,000人未満の人口の町村では指導主事もほとんどおらず、指導主事がいても、校長退職者の生徒指導的な指導主事を入れているのみ。そうなってきたときに、町村の場合に、カリキュラム・マネジメントという形で、校長を中心にやろうとしても、なかなか大変。全体的なサポート、県を含めてサポートをどうやっていくか、どういう支援をしていったらいいかということを考えないと、絵に描いた餅になってしまう。

お問合せ先

初等中等教育局教育課程課企画室