資料1 第3回体育・保健体育、健康、安全ワーキンググループにおける主な意見(未定稿)

□体育・保健体育、健康、安全に関する資質・能力について

1.資質・能力の三つの柱「個別の知識・技能(何を知っているか、何ができるか)」について

(体育の視点からの意見)

○ 小学校、中学校は特に小中一貫の教育を進めるという視点で考えると、校種ごとに例えば資質能力をまとめた場合に記載ぶりをある程度の統一感をもって表記する等の工夫が必要ではないか。

○ 運動やスポーツに対する課題発見や課題解決が体育授業の核になるときに、思考力・判断力・表現力に必要なベースになるための知識や技能をしっかり身に付けておくということは、とても大切であると考える。

○ 個別の知識や技能の知識というのと、思考したり、分かって、そして、判断しながら表現をするために必要な知識という知識もある。あるいは、社会的な態度とか、あるいは、人間性に関わってくることを実際に行為できるために必要な知識というのが恐らくあるだろうと考える。そこで、その知識のベースの知識と、ここの左側でいう知識とのしつらえをどう考えていくのかということについて、少し意識しながら検討していくことが必要ではないか。

○ 現行の指導要領では、体つくり運動はいわば技能ではなくて運動ということでおいてきたところであるが、体つくり運動は各運動を実はうまくやっていくためには、それに必要なやっぱり技能というのはあってしかるべきだろうと考える。

○ 運動教育とかムーブメントエデュケーションを実際に展開していくために必要な技能ベースの情報とか、あるいは、それに関わる知識も、実はイギリスやアメリカの例を見ても、しっかり例示されて書き込まれていることを考えると、現行の学習指導要領では、体つくり運動というのは技能ではなくて運動としてきたけれども、ここを技能、あるいは、技能の知識、個別の知識や技能の中に一括して含むのか、あるいは、やはり現行の指導要領どおり、それは運動という位置付けのままで行くのかというところは少し意識しておいた方がいいと考える。

○ する、見る、支えるというようなところから見たときに、するということに関わる技能あるいは知識ということのほか、見るとか支えるということに関わる知識というものはどういうものなのか、あるいは、それに関わる技能というようなことがあるのであれば、そういったことも示すことができるのではないか。

○ 例えば審判の仕方とか競技会の運営の仕方とか、実際に競技会を運営するときに、人とどういうふうに関わるかだとか、それから、その計画をどういうふうに作るかだとか、それは計画を作るための知識は必要であるし、人を動かすためのスキルも持ってないと運営はできないということになる。

○ 例えばスポーツを見る人たちのマナーだとか、それから、サポートする人たちのマナーだとか、この手のものはそういうことがあるということを知っているかどうかで全く行動の仕方が変わると考える。

○ いいプレーがあると拍手するということがあると、その場の雰囲気は変わる。そういう意味では、これはいわゆる宣言的な知識という形で、こういうものですということについては知っておいてもらわないと、スポーツにどういうふうに関わっていくのかが分からないということであるし、それは放っておいて分かるものではない。長い時間掛けて、見るときの作法だとか、人と関わるときの作法というのは作り上げられてきているわけですから、それは誰がどういう形で伝えるのかということは当然問われるだろうと考える。

○ 子供たちが、例えば動くと体ってあったかくなるよねとか、その自分のきょう、コンディションが悪いよねというのはどういうところから分かるかだとか、この手のものは自分の体についての理解というように捉えれば、これはアメリカ等で小学校の4年生とか5年生の子供さんたちが身に付けておくべきフィットネスに関わる知識となる。動くと心拍数が上がるだとか、それから、動く前にはどういう栄養の取り方をすればいいとか、終わった後にどういう栄養の取り方をすればいいかとか、この手のことも知識といえば知識であると考えられる。

○ そういう意味では広がりはあると思うんですけど、それは、今お話ししたように、宣言的知識という、事実に関する知識であって、課題をどういうふうに解決するのかというその方法に関するような知識だとか、それから、なぜそれがいいのかという、理由に関する知識だとか、こういうものというのは整理できるのではないか。

○ これは保健の方とも絡むと思うんですけども、ディシジョンメーキングスキルって、こういう言い方をしますよね。アメリカの保健のナショナルスタンダードははっきりそういう書き方をしていて、自分たちである意識を持って、それをベースにしてちゃんと意思決定をしていくためのスキルがある。

○ いわゆる態度に関わるような、例えば規範に関わるような知識とか、人とコミュニケーションをするときに知っておくべき知識はあると思う。だから、コミュニケーションスキルだとか、こういう言葉がある。

○ 個別の知識や技能というところに全部包括するのか、それともその思考判断、思考力・判断力・表現力、あるいは、学びに向かう力、人間性等というところにも分散させるのか、しっかりと整理する必要があるのではないか。

○ 欧米でやられているムーブメントエデュケーションみたいに、もう少し大きな枠として作っていくのか、あるいは、それ以外のものとして拾っていくのか、そこが技能とかというところにつながっていくのではないか。

○ 高校で、緩やかでいいから、指導法みたいな、運動を指導していくとか伝えていくとかというところの仕方、コミュニケーションの持ち方、これは知識というところではないかもしれないが、そのようなことも、高校生になったら、生涯スポーツに向けてやっていくべきではないか。

○ 社会に開かれた教育課程ということを考えていくと、余りにも学校体育と地域スポーツが隔離していて、地域のスポーツ指導というのが学校体育とは全く違った方向から行われているということがあり、そういう意味で、その土台作りみたいなものもこの保健体育の中で身に付ける必要があるのではないか。

○ 高校生ぐらいになると、随分技能にも差が出てきますから、幼少ではなくても、できる子ができない子にどのようにサポートするとか指導するといったところも、非常に大事な視点かなと考える。

○ 知識を考えるときに、体育、運動に関わる、スポーツに関わる知識は、たくさんある。限られた時間の中で、それを本当に必要なのかどうなのかということを厳選して入れていく必要があり、そうしないと結局、現場ではそれが子供たちに伝わっていかないという結果になるのではないか。

○ どういう知識が必要、それは知識・技能に入れるか入れないかも含めて、思考力に関わる知識や学びに向かう力、知識に関しても同じであるけれども、どういう知識が本当に体育固有のものとして必要なのか、全ての子供が、どんな仕事に就くとしても、国民の教養として、この知識は必要だよという厳選するという視点がこれから載せるときには必要なのではないか。

○ 小学校で言えば、やはり知識は活動や運動に伴った知識が必要なのではないか。

○ 「個別の」知識・技能ということなので、領域や種目それぞれの視点でどうかというよりは、体操やスポーツ、ダンスなどにどのような共通性があるのかとか、どういうことをきちんと押さえてなければいけないのかというような知識の取り出し方が必要なのではないか。また、そうしたものが非常に簡単なレベルから、多少複雑なレベルに発展していくような捉え方というのが必要なのではないか。

○ スポーツに関するマナーやエチケットに関わるような考え方では、スポーツというのはなぜ皆がこうして楽しめるのかという視点から考えることが重要である。種目別にいろんなマナーやエチケットはあると思うが、全体としてなぜマナーやエチケットというのが必要なのかということも考えられるのではないか。

○ 知識という視点では、ルールという側面もある。単に審判の仕方だとか、そういう意味でのルールではなくて、簡単に言うと、サッカーなどは手や腕を使わないという非常に面倒なルールなわけであるが、どうしてみんな嬉々として、普通の生活だったら、ルールを守りなさいと言ったら、嫌がるのに、スポーツであるとなぜむしろ自ら求めてルールを守ろうとして、そして、楽しめるのかということを考える知識もあるのではないか。

○ 何か非常に根本的なところを簡単な説明の仕方、もう少し難しい説明の仕方、更に難しい説明の仕方というふうに、何か知識として積み上げていくような、そういう共通の部分があるのではないか。

○ 現在小学校では、知識の記載は、思考・判断だけで特記されていない。知識の記載を変えていくということは、あくまでも「する」というベースにとって一番優先順位の高い順に変えていくということが必要であるのではないか。ただし、これは1年生から本当に必要かという問題、これはやっぱり検討課題として議論していかなければいけない。

○ 知識の観点で文化の内容を含めて言うと、例えば現行の指導要領はよくできていて、個別の領域種目に関して学ばなければいけない、特に「する」ということに関わる知識は各領域で。それ以外の共通に、sportsに共通するところで言えば、これは体育理論で引き取るというような形で、うまい形でのすみ分けをしてきている。

○ 「支える」とか、あるいは、「見る」というところでの知識が本当に十分なのかということは検討していかなければいけない。かつては、学校体育は校門を出でず、社会に行かない。学校体育の中だけでスポーツを盛んにやってもしようがないと言われた時代が確かにあったが、今、逆に言うと、地域スポーツが学校に入れずというような状態、これはつまり学校と地域の中でうまいスムーズな連絡、連携が取られてないといったことが多少なりともいえるのではないか。そこで、開かれた教育の在り方ということを考えたら、そこで検討していかなければいけない知識というのは確かにあると考える。

○ 発達段階に応じて、社会的な要請も含めて、スコープとシークエンスの関係でいうと、どこが交点に交わってくるのかということを、このそれぞれの三つの資質・能力の柱に応じて、知識を一度挙げてみる必要があるのではないか。

○ 高校現場では、できる生徒とできない生徒の差が出てくる。それは特に女子は、体がだんだん動かなくなってくることもあって、意欲だけの問題ではないと考える。高校生だと、できていても、分かっている生徒と分かってない生徒、できないけれども、こういうふうなことは分かるという生徒はすごく運動に対しての意欲が高まったりとか、運動、スポーツが面白いというふうに感じる子もいるので、評価を考えたときに、難しいと感じる。

○ 評価を検討する会で議論することになると思うが、知識では、分かっているけれどもできない、できないけども分かるという、そこをどちらも評価するというような多分観点にもなってくるのではないか。

○ 知っていてできない、知っていてできるというのと知らなくともできるというのが体育の特有な部分ではないか。知識と技能、それが一緒になるということは、ある意味ではとてもいいことだと考える。今までそれぞれになっていたのが、両方を一緒にすることによって、よりいい形に持っていけるのではないか。

○ 現行指導要領で出ている知識の部分、知識ベースのところを技能の中にも入れ込んだ形で考えるところについては、それでいいのかということ。議論が必要だろうと考える。

○ 個別の領域等になればなるほど、資質能力として要求されることが現場におりていったときに、何を主眼において体力を高めていくのか具体的になったとき、今の現行指導要領で掲げているところを簡単に例えば置いたときに、何が足りないのか、何がいいところとして生きるのかみたいなことも検討することが望まれる。

○ 知識と一言で言ってもいろんな知識があって、ほかの二つの視点のところにも関わってくるというところをどういうふうに整理して、そして、大杉室長からも言われたように、分かりやすくそれを現場に落とし込んでいくかというところが一つの論点であると考える。

(保健の視点からの意見)

○ 子供の発達段階に応じて、スコープが広くなっていくという基本的にはいい考え方なのではないか。

○ 小学校の保健領域のけがの防止ということでは、確かに、小児の死亡の疾患別の順位を上げていくと、不慮の事故というのが年齢群においてはかなり高位を、1位、2位、3位の中に入ってくる。したがって、けがとか事故というのは非常に重要だと思うが、けがだけでいいのかと考える。医療の世界では事故という言葉を、不慮の事故という言葉を使いますけれども、世界的には、インジャリー、傷害という言葉が普遍的になっていますので、けがという言葉を検討する必要があるのではないか。

○ 一次予防の知識は非常に重要だと思うが、むしろ環境整備について、例えばプールでの事故だとか、プールの吸水口の事故なんていうのがあったが、そういう環境の整備というのも実は大事なことであり、そういう点についても子供たちは知っているべきではないか。

○ 中学校の保健分野に心身の機能の発達とあるが、思春期というのは、今、先進諸国では非常に延びていて、世界的には10歳から21歳まで、これが先進諸国の定義であることから、中学校では遅いのかもしれない。性ホルモンが出てくることによって心身が劇的に変わるというわけであるから、むしろそうした具体的な内容にすべきなのではないか。

○ 高等学校ですが、生涯を通じる健康とあるが、これは健康的な食生活だとか、適切な運動をするとか、あるいは、健全な生活環境を小児のうちから身に付けるということが大事だということではないかと思うので、この辺はもう少し、将来を見据えた知識を中学校、高等学校のときから持つべきではないか。

○ 中学、高校生ぐらいになりますと、将来の自分の健康に対する基礎をつくるという点で、私はこの命のすばらしさと限界についてもう少し教える必要があるのではないか。

○ 命の限界については、周産期死亡というのは25から30歳ぐらいが一番低いというようなことを子供たちはやっぱり知るべき。それから、若年妊娠、その結果というのは社会的にもいろいろ問題があるということも教えるべきではないか。

○ 35歳から40歳を超えると、20代の女性に比べると、妊よう性は10分の1以下になる。つまり、妊娠しにくくなる。そういうようなことを、つまり生命の限界というのがあるんだということを、やはり、中学生では早いかもしれないけれども、高校生の方たちは男も女も知るべきではないか。そういう将来の自分の健康に有益な情報、最低限の情報はこの時期にやはり教えておくべきではないか。

○ 性のそれぞれのジェンダーというか特徴で、女性だけが知っていればいいというものでは恐らくなくて、男性と女性がお互いにやはり知っておくということがすごく重要で、そういった視点も保健の中に組み込めたら素晴らしいと考える。

○ 技能を、応急手当ての技能で、捉えているところ、これ以外にももっと広げるかどうかということについて、思考力・判断力のところとか、あるいは、人間性のところにあるけれど、ここにも、例えば意思決定をするとか、行動選択する、あるいは、コミュニケーションするというある意味、技能といえる。したがって、広げるかどうかということに関してはかなり慎重に検討する必要があるので、余り広い意味での技能を取り上げるというのは少し無理があるのではないか。

○ 技能として記載されているのは応急手当ての部分のみということであるが、例えば小学生のけがの防止であると、止血などができるか、できないかというこの技術の部分を評価するということになってくると、保健指導とのすみ分けの部分では難しい部分が出てくるのではないか。

○ 中学生の傷害の防止のところでは、心肺蘇生法ができているかどうかということを評価するのではなく、やはりそこのその心肺蘇生の意味であるとか原理原則を学ぶのが保健の学習であると考えるので、ここにある応急手当ての技能の捉えという原理原則を原則としたものを位置付けていくということが大事ではないか。

○ 技能をどこまで広げていくかという議論については、やはり意思決定だとか、子供が学んだ知識を基に、まとめたり、記録したり、情報を収集したり、また、表現したり、そうしたものが想定されるかと思うが、そうした中で、何をこの技能に位置付けていくかというところを精選した上で整理をしていく必要があるのではないか。

○ 本当に技能として捉えるというのだと、応急手当てしかないが、思考判断とか、人間性、向かい合う力、ここに全部繋がっていって、保健の分野での技能というと、学んだことを生かして、より自分の課題に気付いて改善していこうというところの力が保健でいう実践力なり、行動力になるといえるのではないか。

○ 今まで、技能というのは保健にはなかったが、ここに位置付けられたことは、内容を少し考えていかなければ、この技能をどう現場では評価していけばいいのか、評価の材料としてやればいいのかというところが混乱すると考える。

○ 現行の学習指導要領は、保健・安全に対して小中高と12年間、日本の国民として学ぶべきミニマムが系統的に作られているのではないか。

○ 知識・技能といったところの技能では、他教科とかを見てみると、資料の活用技能といったことを取り上げている教科もあるようだが、この保健学習でいう知識・技能というのは、学習の成果としての意味合いが一つと、あとは、思考判断のためのリソースになるといった意味合いもあるのではないか。

○ 3層構造でいくと、その核になるといった意味合いで、私は現場で教えているときは考えていたので、そういったこの3層構造の核になるということを考えると、広げないで行くのがいいのではないか。

○ 今後10年ということで、新たな知識といったところも新たに入るのではないか、そういったことを考えると、時数的にも、小学校は実は3、4年生では4時間、5、6年生では8時間という時数の中で、教えるべき内容が盛りだくさんになり過ぎて、現場が混乱する可能性が大いにあるのではないか。

○ 技能に関して、慎重に、安易に広げないようにという考え方は基本的に賛成ではあるが、保健指導におけるモータースキル(いわゆる動作スキル)と言われるような、うがいとか手洗いとか、いろんなことをやっているわけだけれども、そうしたものをもう一度しっかり見立てて、考え直してみることも一つはあるのではないか。ただ、時間的なことやいろいろなことがありますので、先ほど言ったように、慎重にということではあるが。

○ 保健の技能に関しては、保健特有の技能でなければ、不用意に入れるべきではないが、ストレスマネジメント、それから薬物乱用や性などに関わる拒否スキルのようなものがひょっとしたら中学、高校において検討の余地があるのではないか。

○ 慎重にという大原則の下に、こうした10年先を見た改定においては、もう一度その足元から、これまでの研究成果を踏まえながら、欧米での知見も踏まえながら、技能というのを考えていくべき。

○ ここでいう知識はまさに保健特有の固有の知識を述べるべきで、「思考力・判断力・表現力」にもそれぞれに関わる知識・技能があると思われるがそれらについてはここの「知識・技能」で書くわけではないというのは当然だと考える。

○ 保健固有の知識といったときに、論点整理で示されている少子高齢化、疾病構造の変化というような中で、現代的課題を解決する能力、資質を高めるといったときに、どんな改善が必要なのかというと、たくさんのことがあると考える。

○ 例えば、二次予防、三次予防ということも視野に入れざるを得ない時代になってきた。ただ、どの程度入れるかというのはこれもかなり慎重に、時間的な現実も踏まえながらということになろうかと考える。またがんなど、新しい科学によってより明らかになってきていることを踏まえた改善、知識の見直しというのもあるのではないか。

○ 臓器移植というようなことも技術的に可能になってきた時代において、15歳でドナーの意思表示ができるという法律があるわけだが、その辺をどう考えて、内容にどう反映していけるのかというような議論も必要かと思う。

○ 高校の現行の三つのまとまりに関しては、前回の学習指導要領の改定でも少し議論にはなった、小中高の系統性という点で分かりにくいので、もう一度ここを議論して考え直してもいいのではないか。

○ 保健の授業自体が限られた時間の中で、子供たちにどのような知識、そして、技能を伝えていくのかというところで、キーワードとしては、やはりこの10年後を見据えたといったところで検討する必要がある。今ある現存のものから、未来に向かって何が必要なのかと、そして、余り広げ過ぎずに、やはり限られた時間の中なので精選してというようなことがキーワードになるのではないか。

○ 個別の知識や技能も、思考力・判断力・表現力等とつながるものである。そのことを常に意識した上で、子供たちに何を知識として身に付けさせていくことが大切なのかということを確認し精選していかなければならないと考える。また、どこで評価するのか、あるいは、評価のどの部分にウエイトを置くのかといったことについても、つながりを意識する中で内容を考えていくことが大切ではないか。

2.資質・能力の三つの柱「思考力・判断力・表現力等(知っていること・できることをどう使うか)」について

(体育の視点からの意見)

○ もう少しでできるわざの段階にチャレンジしていくと、そこに、遠回りではあるけれども、近付いていくというその方法等を教えると、子供たちはより意欲的になった。この自己の課題を設定するといったところが、まずそこのところができるということが大切なのではないか。

○ 個別の知識や技能がないと、実際にはこの思考力・判断力・表現力等にはなかなか広がらないのではないか。また、小学生に期待するような思考力・判断力・表現力と中学生に期待するものと高校生に期待するものは、どういう達成度のレベルの違いがあるのかということは論議する必要があるのではないか。

○ 自分の課題を見付けるといっても、自分にとって何が適切なのかということを判断する指標がないと先に進まない。何が課題かということが分かっても、解決方法が分からないともうそれ以上行けないということになると考える。

○ 解決方法を考えて試したところで、その解決方法をどう評価していいのかということが分からないと、自分が設定した課題の解説方法が適切であったかどうかが分からないままになるので、自分の設定した課題の解決方法、あるいは、その課題と解決方法との関連性等を評価できるように要求するのであれば、それはどの年齢層で、どういう課題であれば、そうした要求が可能なのかということは考える必要があるのではないか。

○ 思考力・判断力・表現力等と言われているもので、期待できるような達成度のレベルだとか、あるいは、どのような状況であればそれはクリアできそうなのかということは併せて論議をする必要があるのではないか。

○ 体育の授業のところで、子供さんたちがチームの中の役割を持つというのは、チームとして自分たちがどういう役割を持ってチームの成長に貢献するのかということを学んでいくという意味では、結構大事なことを学んでいくことになる。それはいろんな体育の授業で学ぶ技術だとか知識の獲得と関わってしかできないことなので、ほかの教科でも同じことをやっているわけではないと考える。

○ ストラテジックナレッジとタスクをどういうふうに分類していくのかということはやっぱり重要なテーマなのではないかと考えるが、ここで今やらなければいけないかというと、そうでもない。むしろ、作成協力者会議のレベルで具体的なレベルに応じてやるという方向の方が、具体論で話ができるのではないか。

○ 保健で学んだ知識、これを体育の思考・判断・表現力でうまく生かせる方法はないのか。逆のこともまた言える。むしろ、そこのクロス関係も少し検討していかないことには、子供たちにどんないわば情報が提供できて、それこそ、個別の知識や技能、あるいは、思考・判断・表現力というものが付けられるのかということが、そこの方向も視野に今入れていくことが必要ではないか。

○ 知識や技能を身に付けたから、思考判断ができるといった一方向で解釈してはいけないのではないか。

○ やはり思考力・判断力・表現力というのは、思考したい、判断したい、表現したい、伝えたい。あるいは、自分からこういうことを自ら積極的に考えたいという、そこはベースとしてなければならないのではないか。

○ 活用というと何か知識や技能の広いものが身についていて、そこから何か引っ張り出してくるというような、そういうイメージであろうが、まず、問いみたいなものがあって、何々したい、何かこれを解決したいというのがあって、そのために、どういう知識や技能というものが必要なのかという視点から知識や技能をとらえることも重要なのではないか。

○ これからの社会を見据えたときに、いろんな環境が変わってきている.その中で、例えば,ICTの活用はこれからますます増えてくる.これからの社会の中で、ICTをどういう形で活用し、体育の中で生かしていくのかも重要ではないか。

○ これからの社会の中で求められる思考力・判断力について、分析したり、比較したり、価値付けたりとか思考・判断の具体の中身について検討していく視点があるのではないか。

○ これからの社会をイメージして、生涯スポーツや卒業後にスポーツを楽しむためにどうすればいいのかという視点で育成すべき思考力・判断力・表現力を考えていく.自己や仲間の課題に応じてもそうですけど、社会や場面の状況に応じて、例えば,運動ができる子とできない子が一緒にスポーツをするときに、どうしたらいいのかというような、これからの社会に必要な資質・能力を高めていく思考力・判断力・表現力について考える視点があるのではないか。

○ それぞれの特性に応じた楽しみ方を楽しむためのめあてを持つ場合には、やはり子供たちが「知識」として「何がポイントなのか」ということを知っていないと、めあてが持てない。「知識・技能」と「思考力・判断力・表現力」というところは行きつ戻りつの部分があるのではないか。また、子供たちが「できた喜び」を感じた時、「どうしたらできるようになったのか」ということを友達同士で教え合ったり、伝え合ったりすることが、表現力につながっていくのではないか。
○ 運動を教える、運動を伝える力という、これこそ、運動観察も含めて、体育特有のものではないか。仲間の運動をサポートするとか、そういう視点も含めて、とても重要なものではないか。

○ 個別の知識や技能に当たるのか、この辺の運動を伝えていくとか、運動を表現していく、教えていくというところがこの表現力に入ってくるのかどうなのかというところを少し整理して考える必要があるのではないか。

○ 体育は、「学力の要素」を現行の『学習指導要領』の中で〈技能〉〈態度〉〈知識、思考・判断〉としてとらえて、4つの観点で評価を行ってきた。特に、小・中学校においては、指導内容が体系化された中で、目標→内容→評価のプロセスが定着してきたのではないか。

○ 運動を中心とした学習活動の中で、「わかる」【知識】と「できる」【技能】の関係は、座学を中心とする他教科とは、異なったものが存在すると考える。体育・保健体育の独自性を鑑みたとき、「資質・能力」レベルでは可能かもしれないが、新たに「3つの柱」で指導内容から評価までを捉え直していくことは、現場での混乱を招くことになるのではないか。

○ 課題、運動課題解決のプロセスに必要な思考判断力を書くということであればこれでもいいだろうが、ほかの教科やほかの領域で培えるものは省いて、本当にここに書いてあるように教科の本質に根ざしたものを示すのであれば、それは何かということを整理していかなければならないのではないか。

○ 思考したいという、これがすごく大事な部分だろうと考える。思考されているのではなくて、思考させられているのでもなく、思考したいと思って、したいと思ったら思考できるという力が大切。今の子供たちのまさにアクティブラーニングが狙っているようなところなのではないか。

○ この三つの力でいうと、この書き方だと、個別の知識・技能があって、こういうふうに矢印が出ているように見えがちですが、実はそうではなくて、三角形になっているので、こっちが先とかこっちが後とかいうことではないという共通の理解をする必要がある。

○ 今までと大きな違いは何かといったときに、資質と能力でもって指導内容を三つに区切るということだと考える。体育に関して言えば。それは何かというと、様態とかプロセスを書くわけではなくて、それによって、具体的などういう能力が身につくのかということがそれぞれの三つのところで、例えば、机上資料でいうと、学びに向かう力、アビリティがやっぱりここで問われてくるということ。

○ 学びのプロセスというものに対してきちっと資質・能力と関係させて、一体化させて捉えていくことが非常に重要。なぜなら、この20~30年間、めあて学習という。その中で、本当にその中身が学びのプロセス、体育固有の学びのプロセスとして提示できるようなレガシーというものをどれくらいつくってこられたのかという、そこの部分にも関係してくる。これは多分、保健も、保健行動だとか、意思決定だとかということと関連する内容であると考えるが、共通の課題がそこにあるのではないか。

(保健の視点からの意見)

○ 資質・能力という点から書き上げていっているものですから、それぞれの校種でその学ぶ内容とか、活動まではいかないとしても、学ぶ内容との対応といいますか。小学校であれば、例えば基礎的な知識を身に付けるということ書くのであれば、まずは、情報を集める力の前に、学んだ知識を選んだりとか、それを次の段階としては当てはめてみたりという学習が、そういう能力があっていいのではないか。

○ 中学校のところで、健康情報を収集しというところも、身に付けた知識を活用するということであれば、一応、健康情報を選択・収集しみたいな話になるだろうし、分析するといっても、具体的に何をするかということだが、これまでの保健の成果とかで見ていくならば、比較したりとかまとめたりというような、そういう力なのではないか。

○ 高校の方になると、健康的な社会づくりということで、自他と、要するに個人生活だけではなくて社会生活に広げてあるので、その辺は力の違いが分かると思うのですが、今のところ、まだその辺の整理があんまりできてないような感じがするので、知識・技能とつながるような形での整理をする必要があるのではないか。

○ 思考力・判断力・表現力は小中高と違いを出しにくいというのは基本的にあるのではないか。知識・技能のように明確に小中高と、違ってくるわけではなくある程度、やむを得ないのではないか。

○ 健康に関するメディアリテラシーというのは非常に重要になると思うが、情報教育の方でも、情報活用能力というようなことを議論し、各教科でもそれを引き取って議論をしてほしいというようなことが総則部会でも言われていた。保健に関しては、ここにそうした具体的な提案がもう出てきていると思う。

○ グローバル社会というか、シンク・グローバリー・アクト・ローカリーという言葉なども叫ばれている今日、高校では、もう少し国際社会における健康問題、例えば感染症をはじめとして、そのような視点から学習することも重要と考える。

○ 健康に関する課題の中には、正解のない健康課題というのがあるのが現実ではないだろうか。その辺も視野に入れた課題解決に関わる思考力・判断力の育成の学習を高校では考えてもいいのではないか。

○ 健康情報の読み方について、是非入れていただきたい。健康づくりが非常に大事であるということは、もう世の中全体に認識が共有されていることだ。しかしながら、なぜ健康が必要なのかということは、余り認識がされていないと。やはり、子供が素朴に、「なぜこれを学ぶのか」と問うように、若いうちにしっかりと、「なぜ健康であること、自分の健康を維持することが必要なのか」ということを理解しておいていただきたいと考える。

○ 健康は、人生の様々な夢を実現するため、より良い人生を実現するために必要なのだということを理解しておく必要がある。その延長上のこととして、生命や健康の限界を心得ることも重要で、目指すべきは決して不老不死ではないということ。そういったことも含めた健康の意義を段階に応じて織り込んでいかないと、歪んだ健康観につながりかねない。そういう考え方は必要なのではないか。

○ 学生が模擬授業を考えてやる中で、ストレスな世代、あるいは、時代をどうやってしたらいいのかと、小学校の教材で腹式呼吸をやるだとか、自律訓練法をやるだとか、そうした授業を立案する。そうすると、体と心と動きとというのが合体された形で、学生は柔軟に非常に考えている。日本の子供たちの自己肯定感が非常に低いだとか、体に対するボディイメージがすごく悪いだとか、痩せ願望があるだとか、いろんな体の問題が現代は本当に多い。体育と保健の融合といった視点では、ここ将来10年を考えたときに、別々の考えというのは、もう過渡期だろうと考える。

○ 子供たちは、健康の価値観とか保健学習の価値観というのを持ってはいます。ただ、現実の保健体育の授業の中の保健の授業が好きとか嫌いとかとなると、余り好きじゃないというような結果が出てきている。やはり価値観を持っていて余り好きじゃないとなるとその教え方、学習の仕方に課題があるのではないか。

○ 子供たちは、まず、自分の健康のことを自分の課題として捉えることがまず難しい。そこを捉えさせておいて、それから、望ましい生活、自分がより良く健康でいられるためには、望ましいのはこのようにしていくことであるといったことを考えさせることがとても大事。子供たち同士の話合い、人はどう思っているのか、どんなことをやっているのか、そうしたことを知らせながらも、学びを深めさせていくことが大切。この思考判断表現の中に、そういう活動、子供たちができるようなことが見えてくるとよいのではないか。

○ 内容を考えるとき、あるいは、それを具体的にどう指導していくかというときに、そうしたことを盛り込んで、是非、子供たちの価値観が実際に学ぶ意欲に、そして、学ぶことの楽しさにつながっていけば、もっともっと保健学習は広がっていくと考えている。

○ 健康教育と保健学習とは分けて考えないといけない。これからもう少子高齢化ではなくまさに少子高齢社会になっている。総則の第3に、体育に関する指導というところの体育・健康となったのが多分前の前の改定のときにその言葉が入って、多分この今の状況を見据えて入れたと思われる。健康ということに対してすごく社会的にニーズがあって、健康教育、とても大切だということはそのとおりであるが、今、限られた時数のこの保健学習の中だけでそれを担おうとするのは無理である。今回の教育課程の中にあるように、開かれた教育課程とあるが、地域、家庭と一緒になって取り組まなければならない。学校に来るのは200日。残りの45%は、長期休業か土日で家庭か地域にいる。

○ 学校だけで健康な生活というのを担おうとしてもとても難しいので、学校教育全体で健康教育をやっていく中で、保健学習が担う役割というのは何か、そこで培う思考力・判断力・表現力等というのは何かということで考えた方がいい。

○ 最終的には、知識を持って自ら判断して行動するということが目的だとすると、この思春期の子供たちは非常に難しいと思う。なぜかというと、彼らは知識は持っている。しかし、その知識、例えば悪いことをしても、それだけは自分だけには絶対にそういうことは起きないという変な確信がある。ここが非常にやはり問題で、そういう人たちを、知識を与えることはもちろん大事だけれども、そういう人たちが正しい行動変異、正しい方向に行動を導くというのはなかなか難しいのだという、その前提を基にこの教育をしていかなきゃいけないという課題があるのではないか。

3.資質・能力の三つの柱「学びに向かう力、人間性など」について

○ 現行の学習指導要領等に、子供の体力の課題について取り上げられており、その改善に向け、運動やスポーツを好きにさせることが大切。好きになればどんどんやるだろうし、どんどんやれば体力が上がるだろうというスパイラルアップが期待できる。そうするとやはり体育の授業をどんなに楽しくさせるか、そして、進んで学習させるかというところは、小学校、中学校、高等学校を通じて、続けてしっかりと指導していくことが必要。

○ 現行の学習指導要領の特にこの態度領域というのは、規範的な内容と、あと、情意的な内容、ここの中に愛好的な内容が盛り込まれている。それから、社会的な内容、規範的な内容、情意的な内容という、三大柱でつくられていると理解をしている。大事な点を一つやっぱり確認しておかなければいけないのは、運動の学習だとかスポーツの学習と関わりのない内容が示されるのはよくないと考える。

○ 精神主義とか徳育主義のようなところ、技術に関わらないようなところでの態度、あるいは、規範、あるいは、いわゆる社会的な内容を盛り込んでしまうと、これはよくないだろうということは確認をしておいていいのではないか。

○ 現行の学習指導要領にない決定的なものというのは何かと考えてみると、例えば、障害者、障害のある方に対する配慮事項があるかないかというと、そこを特記は実はされてない。それで、特別な配慮を要する人へのいわば人間性というところを含めて、態度の内容を含めていくと、保健のところともクロスしてくる問題が出てくるのではないか。

○ ニュージーランドとか、例えばオーストラリアとかのスタンダードを見てみると、人種的な配慮がかなり書き込まれている。肌の色が違ってもとか、あるいは、外形の違いに応じて区別をしないとか差別をしない、運動やスポーツで一緒にチームを組むときにというようなことがある。向こう10年を見たときに、多分、在留外国人の子供さんたちが結構いるということはやっぱり配慮事項に入れていく必要があるのではないか。

○ もう一つ、多様性ということで、多分、相手を尊重するとか、相手へ配慮するということでは、多様性は含み込めることは大事。例えば、男女平等の問題、男の子と女の子の扱いのイコーリティということについても特記はしていない。男女共修ということについて、方針、方向性はここで、例えば人間性を含めて、どういうようにそういう扱いをするのかということは検討しておかなければいけないのではないか。

○ 多様性を受け入れるとか、多様性を認めるとか、それから、価値観を共有できるようにしていくとか、大切であると考える。

○ 情意、態度に関わるものには、ある一定の価値観をきちんと、例えば健康って大事だよねというのを知っているだけではなくて、そのことをきちんと価値付けていくことができるだとか、それから、スポーツとか運動することって大事だよねって価値付けることができるだとか、そういうことが示される必要があるのではないか。

○ 健康のところにも関わると思うが、自分に対して肯定的なイメージを持てるとか、肯定的な自己像を持てるとか、こういうことは多分いろんな行動するときには大事であると考える。

○ スポーツの価値だとか運動の価値、健康の価値だとかということを認めるだとか、自分に対して肯定的なイメージを持つ、そういう能力、そういうことがきちんとできるようになっていくということは、この学びに向かう力とか人間性というところには何かいい書き方ができるのではないか。

○ スポーツの価値というのをここの体育、健康のこの学びに向かう力、人間性等というところに是非入れていくことが大切。オリンピック、パラリンピックが来て、この間のお話にもありました、これが学習指導要領が出た後のレガシーを使って子供たちがスポーツライフを築いていくという意味でも、スポーツそのものに価値があるんだということを今回のここの学習指導要領の部分では打ち出すのはとても大切なこと。

○ 平成23年にスポーツ基本法ができて、そこにはスポーツは人類共通の文化であるということが前文に明記されていると。それ、改定、振興法が改定されて基本法に改定された初めての改定という意味でも、スポーツの価値ということをここの部分に盛り込むということはとても大切。

○ 障害者差別のこともそうだけれども、人権という視点をここの学びに向かう力、人間性というところに、体育、スポーツも含めて、入れ込む必要があるのではないか。

○ 10年先を考えたら、外国の方が入ってくるということが予想されますし、これから将来そういうことも予想される中で、体育の中、特にこの学びに向かう力、人間性というところに、その人権的な視点を入れるということは、これからの10年、20年を考えたときに、大切な視点ではないか。

○ 保健と体育との関係というのは、こういうところによく出てくると思う。多分、保健の歴史というのは、先ほどの知識だとか思考判断の問題もそうなのですけど、やはり医学との関係というのは常にあるわけです。医学的な知識と、保健的な知識の違いは一体何なのかという問題。それはやはり、多分、保健の場合には、もっとポジィティブに、いわゆる病気になったから分かるのではなくて、病気でなくても、普通に生活している中でよりポジティブに自分の心身の方向性を自ら高めていこうという、多分そういうことでの違いだと考える。

○ 健康の方が病気モデルという、病気にならないようにという、何かそういう必要性の論理と、体育の場合には、やっぱり右肩上がりのいわゆる発育、発達モデル、青少年期モデルというのがあって、それで、ずっとそのモデルを引きずっているものですから、それとの比較で、年齢が行くと当然体力も落ちる、結局は以前と比較してしまうわけですよね。そういう状況の中で、子供たちが、放っておいても右肩上がりになっていくことが前提になる。その中で、いかに生涯にわたってこういう問題を考えることが大事だよといったときに、やっぱりそうではなくなることを比較するリテラシーの対象が必要なのではないか。

○ 学びに向かう力とか人間性の問題というのは、身体を介して、体というものを媒介に、メディアにしていくという意味で、体育と保健というのは非常に共通の部分を持っているはずだし、そこの部分でやはりまず、このカテゴリーの内容や問題を考えていくベースになるのではないかなと考える。

○ LGBTの問題とか、それは小学校、中学校、高校では子供は恐らく隠し通している。まだ日本のこの状況では。でも、体を通した教育だからこそ、そういうことを、していかないと、学校だけは一向に変わらないということではいけないのではないか。

○ 自分の体も大事だし、他者の体も大事だし、そういうことが体育や保健の中ですごく大事にされれば、殺人だとかいじめだとか、そうしたことにもつながっていかない大きな重要な教科だと思うので、そういう特別に配慮が必要なことは、特に体育で体を扱うところでは、すごく重要視した形で何か配慮の事項が必要かなと考える。

○ 体育がすごくいい学習を進めているクラスは学級経営もいいと言われているのは、やはりこの情意面ですとか規範の意識の部分が強い子供たちがいるからだと感じる。

○ インクルーシブ教育も叫ばれている中で、障害サポート級ですとか支援級のお子さんたちが、通常級で交流するときに、体育って比較的に交流することが多いので、やはり誰でも受け入れるということも含めて、検討するべきと考える。

○ 自分自身をみつめて書くというものと、紹介するものと、それから、他者との関わりを意識しながら紹介していくという、そういう部分とにやはり整理して示すということは大事だろうと思う。ある程度の枠組みを示すことで、その学校なりに、また、その先生なりに工夫し、授業を構成していったり、あるいは、評価をしていったりできるのではないか。

○ 体育は、これまで指導内容として「態度」を位置づけ、評価の対象としてきた。豊かなスポーツライフを創造するために学ぶべき内容として、学びに向かう力や教材や仲間との関わり方は、大切な要素であると考える。体育・保健体育においては、今後、「態度」についても、3番目の柱「学びに向かう力、人間性等」との整合性を図りながら、「資質・能力→指導内容→評価」の対象として捉えていく方向性が良いのではないか。

○ 「保健」と「体育」の融合について、「学びに向かう力・人間性等」、特に「愛好的態度」の部分の中で「教科としての価値・意義」を盛り込みながら、「身体」をキーワードに、つながることが出来るのではないか。また、この他にも、「公正、協力、責任、参画、健康・安全」の部分が、最も「体育」と「保健」とつながりやすい部分であるように思う。

○ 保健の、小学校の最初のところで、「健康に関心をもち」ということがありますけど、これは中学校、高校でもやっぱり重要だと考える。

○ 健康に関心を持つという、保健を学ぶというところの大きなきっかけというか取っ掛かりになると思いますし、関心を高めていくということは、そのさらにその先の勉強の意欲を高めてくるということになりますので、小学校だけではなく、小学、高校、中高に入れていただきたいのですが、中高でもし書き分けるんであれば、小学校であれば、自己の健康へ関心を持つということでしょうし、中学校では自他の健康でということで、高校でならば、今度、個人や社会の健康とかいう、関心を持ちという書き方ができるのではないか。

○ 知識と技能に書いてあるように、ここは健康・安全にという、安全という言葉が入れられるのではないか。

○ 関心にあっては、例えば小学校でいえば、「自己の健康・安全に関心を持ち」ということも書き込んでいただくことはできるのではないかと。また、健康の保持増進や回復に併記して、例えば安全の確保のためというようなことなんかもあるのかなと思います。

○ 回復というところに関わって、先ほどのレジリエンスのところが出てくると、出ていましたけれども、割とレジリエンスが問題になるときというのは、大概やっぱり災害があったときとか、大きな事故があったりとか、そういうようなときに関わってきますので、やっぱりその安全のことが関わるかなというふうに思いました。

○ 高校を出てこれから社会人になっていくということを考えますと、この学びに向かう力、人間性等のところに書いてありますが、どのように社会、世界と関わり、より良い人生を送るかということを考えたときに、やはり健康・安全を優先する社会づくりというのがすごく大事。

○ いろんな仕事をしていく中で、健康を後回しにされてしまって、鬱病とかそういうのの大きな問題があります。そういうこともありますから、やっぱり健康・安全を優先する社会づくりということがとても、そういう社会づくりをする態度ですね。そういうことが、高校、特に高校などでは必要になってくるのではないか。

○ 成人が、どういう要因で運動を継続しているかというと、意外と、部活をやっていたりとか、運動部に入っていたりというものではなくて、むしろ、どちらかというと情意面が強い。そういったことが最近の研究でよく分かってきていて、例えば、体を動かすことが面白いとか心地いいとかという感覚を持った、そういう経験を持っている人というのがやっぱり運動を継続しているということが分かってきていることも検討する上での情報となるのではないかと考える。

○ 自分が大学時代に創作ダンスをやったときに、物すごい感動したんですよ。何か物すごい震えを感じたのですね。そういったものというのはやっぱり、別にダンスに限らず、個人スポーツでも、あるいは、競技スポーツでもあると思うし、その辺の何か面白さかとか、もちろん、知識・技能で大分違うと思いますが、悔しさとかいとおしさみたいなものというのはやっぱり体育の中に絶対あるべきものであって、そういったものって、やっぱり情意面として、根底で捉えながら、やっぱりその辺を大事にするということがすごくこれからのいわゆる生涯スポーツに向かって必要なのかなと感じる。

○ 感性のようなところをどのように入れ込んだ記述ができるかと、情意もそうでしょうけれども、五感で感じた、もう生まれたての赤ちゃんというのはまるでそのものだと思う。それがいろんな教育の、音にとか、色とか、学んでいくのだと思いますけども、きっと理屈でしようとすると、言葉の表現もそうでしょうけれども、差異化して言葉にしていくと。そうじゃない部分が抜けてしまわないように、どこかに記述するわけですけどね。この人間性辺りに、感受性とか感性とか、そんなところが入ったら、いいなと考える。

○ 人間性とか健康とかということに対して、その最も基盤になる身体、体の問題そのものがやっぱり一番ネグレクトされてきたのだろうと思う。そういう意味では、体育と保健というのは、やっぱりタッグを組んで、もっと身体の幸せというか、体というのはすごくいとおしくて、とても楽しくて、いつ体力が衰えていったとしても、楽しい体なのだし、いろんな要素がここに含まれているのだということをずっと学び続けられるような、そういうイメージを持つ必要があると思う。そのためのやっぱりエッセンスというのが、この学校期においていかに学べるかということかなと考える。

○ 学習可能性、ランナビリティのないことは書けない。どうやってどうやれば、これが可能なのかということの脈絡がないことは、やはり書いてしまうと、これはもう徳育主義になってしまう。これを文章化して書いていくとなると問題があるのではないか。

○ 特に2020年、オリンピック、パラリンピックを迎えるに当たっては、どうしてもトップスポーツ、勝つということがかなり強調されてくるということも予測ができますので、そういったところとの兼ね合いというか、ところも今回の指導要領には大きく反映されていくべきかと考える。

○ 保健と体育の融合というところで、例えば、体力、運動能力のテストの結果と身長の1年間の伸びをプロットしてみるだけで、身体的な成熟度と体力、運動能力の関係がある程度評価できたりすると考えられる。そうすると、保健の方の発育、発達ということと体育の方の体力、運動能力がリンクしてくるのではないか。

○ 子供たちが、自分のデータとして見ながら、自分の体がいまどうなっているのか、今後どうしていったらいいのかというようなことを、身近なデータで考えていくというようなことが、保健と体育が接点を持ちながら行うアクティブラーニングのきっかけになるのではないか。

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