高等学校の地歴・公民科科目の在り方に関する特別チームにおけるこれまでの主な意見(未定稿)

1.歴史教育について

<「歴史総合(仮称)」>

○ 「グローバル」という言葉が非常にたくさん出てくる。例えば歴史だと、「自国のこと、グローバルなことが影響し合ったり、つながったりする歴史の諸相」「自国のこと、グローバルなことを横断的・相互的にとらえる力」と二項対立的に捉えられているように思われる。グローバルなことというのは自国の中にも入り込んできており、決して自国とグローバルというのは対立するものではない。
○ 高校では世界史が必修であり、小・中学校では日本史を中心に教えてきた。高校では、世界史必修がグローバル化のための教科・科目として十分機能してこなかった。今回、高校で「歴史総合(仮称)」と、日本史と世界史の新しく科目を作るということは大変よい。世界史的知識は非常に必要である。是非、世界史的な基礎・基本は、小・中・高のトータルで育成するようにしたい。
○ 大学入試で4単位科目を2科目要求される場合がある。高校で「歴史総合(仮称)」と「地理総合(仮称)」が2単位ずつ必履修になるとすると、受験科目によっては「2単位+2単位+日本史を4単位+世界史を4単位」と、合計12単位を高校でとらないといけない場合もありうることは課題である。
○ 近代の区切りは、日本中心の時代区分ではなく、世界で共通の尺度で時代区分した方が応用が効く。
○ 今までは、事項を教え過ぎるということがあった。生徒が調べたり、資料に基づいて議論したりできる科目にしたい。
○ 教育の対象とする範囲の始まりについて、15、16世紀あたりから始まるという案も考えられる。
○ 転換の軸とは、歴史を動かすエンジンと理解した。近代化については産業化という方が捉えやすいと思うが、例示された捉え方もあるだろう。
○ 歴史には大きくかわる時期と比較的安定的な時代がある。例えば、ナポレオン戦争後から第1次世界大戦までは安定し、その後大きく変わり、また、冷戦期は安定的であった。ここでは、世界システム論的な捉え方が重要になってくる。歴史がものすごく変わる時と安定している時で、どういう力が働いているか。この2つの発想法が要るのではないか。
○ 歴史の教育においては一次資料と年表は必須。地理は地図、公民は統計や政治家の演説などが一次資料となる。このため、こうした資料がそれぞれ教科書に入っている必要がある。
○ 高等学校に進学する生徒が98%を超えるというような状況の中では、全ての子供たちで、どの内容を共通に学ぶかという絞り込みが重要である。
○ 次の教育課程や「歴史総合(仮称)」、「地理総合(仮称)」、「公共(仮称)」については、目標、内容、方法の3点から構成しようとしている。知識が中心の学習を克服して、内容を通して何を身に付けてくるかということを目指したい。
○ 歴史や地理の学び方が、社会の中でどのように生きてくるか、社会人になったときにどのように生きてくるかを考えていきたい。歴史教育では、小学校は人物中心に学ぶ。中学校では通史となり、全体像はわかるようになるが、個人や集団の果たした役割を学ぶことはなくなり面白みが減る。議論に当たり、内容の選択は重要だが、その理解を通じて子供たちに何を身に付けさせたいのかを考えることが重要。高等学校の授業はどうしても先生が講義されることが多い。やはり子供たちが調べたり、疑問を出したりして一定の何かをつかんでくる、学んでくることが大事なことではないか。
○ いわゆる近代が始まる以前の初期条件から見るという視点が必要ではないか。
○ 地域間相互作用が古くからあったわけで、特に近隣との地域間相互作用の視点を常に入れていってほしい。先進的部分の国だけが注目されるだけではなく、例えばマレーシアや太平洋の島々、アフリカはどうだったかという視点も世界史の中に入れていきたい。
○ 生徒の意欲を伸ばしていくことが重要。社会科で、歴史の転換点を学ぶということは、18歳選挙権の件も含めて、彼ら自身が何かを変えていくという力、社会を変えていく当事者なのだということを自覚するために、希望を持てる重要な内容なのではないか。
○ 指導する内容毎に必ず各学校で扱う内容と選択できる内容を設けてはどうか。生徒が自ら学べる余白の時間を取り入れたい。最近のAO入試でも何かを調べ抜いた経験が評価されるようになってきている面もある。
○ 時代区分については、近代について幾つかの説がある。もし、開国以前か、さらに100年さかのぼる18世紀後半にした場合、近世史、江戸時代が二分されることになり、江戸時代という時代概念との整合性が問題となる。教育的な配慮が必要ではないか。また、西洋基準の近代像でいいのかどうかは問題である。
○ 東日本大震災以降、変化を伴う転換より、変わらないことの大切さ、変わらない日常が重要視されてきており、例えば一日2食の生活が3食に変わったときやお正月を家族で祝うようになる等生活文化から見た歴史の視点なども必要。
○ 時代をさかのぼって学習する場合には証明をしていく必要がある。その証明の手段として文化財や歴史的遺産について学ぶ等、もう少し広い歴史をトータルに扱うような視点が必要である。
○ 政治的な区切りだけで時代を区切ることに難しい面がある。「歴史総合(仮称)」では、少しグローバルな視点での経済史、文化史といった視点からの転換を教えることも必要ではないか。
○ 継続と変化、原因と結果、類似と差異というのは非常に哲学的な問題である。何かの現象が起こったときに、それの原因を指定するというのは非常に難しい。何かの原因を述べても、それは一つの物語にすぎず、断定できるものではない。学説も蓋然性の高い一つの見方。高校生に求めることは難しいのかもしれないが、一つの見方だけが決定的な真実ではない、答えがないといったことも教えられるといい。
○ 東京都では平成22年度から日本史の必修化ということで、そのために「江戸から東京へ」という教材も作成したところ。これは、従来、日本史Aや日本史Bを履修させてきた学校は日本史A又は日本史Bを履修させ、日本史を履修していないところは「江戸から東京へ」という科目を設けて指導するというものである。「歴史総合(仮称)」の意義は分かるが、高等学校は多様であり、入試等の問題も踏まえ、学校ごとに多様な選択は認められるのかどうか。
○ 私は立場上、世界史の中の日本史という捉え方をしている。このため、近代という時代区分については、ペリーの来航以降と考えている。また、近代化については、各国で進められてきた近代化が広まり、世界が一つになったという意味で第1次世界大戦に大きな意味があったと考えている。日本の学校における教育なのだから、日本の立場という視点があるのは当然で、それを基に世界を見ていくという考え方がふさわしいのではないか。
○ 「歴史総合(仮称)」の方向性はよろしいと思う。今後の検討に当たっては、学習課題の設定とはどのようなものか、各学習はどのようなねらいで行うか、どのような状況であれば成果があったと評価できるのかなど、サンプル的な資料を見つつ議論を進めたい。
○ 近代や現代などの概念は重なりあっているもの。近代とは何か、現代とはなにかという点から考える必要がある。
○ 日本と世界で近代の始まりの時期が異なることは、このような見方があるということ自体を教えることに意味がある。19世紀後半の帝国主義の時代に、日本はどのように組み込まれていったのかを考えさせることが重要である。
○ 「歴史総合(仮称)」の科目としての意義は、従来、授業時間がなくなり近現代史に関する指導がおざなりになるという課題があることによると考えられるので、「歴史総合(仮称)」では、なるべく近現代史について指導することとし、前近代史については近現代史の理解のために何が必要かという観点から考えるのが適当である。
○ 歴史を考える際の因果については、複数の視点を考えさせることが重要である。教育のしやすさの問題と、限定事項を同時に教えるという難しさがある。
○ 世界の枠組みの中で日本が動いているということを示すために、高等学校においては、小中学校とは異なる区分で示すことが必要である。
○ 1970年代から始まる第3次産業革命という捉え方も重要である。経済が政治を動かすという見方をすると時代が捉えやすくなる。
○ 歴史はアジアと西欧二項対立的なものではなく、世界システム論的なものを取り入れて考えさせるとよい。
○ 原案は時代の転換の軸と考察の手立てが1対1対応をしているようにみえる。この考察の手立てはそれぞれ有効な手段であるので、それぞれにかかるものであることが分かるようにしたい。
○ 原案は、時期や概念、主な内容など歴史の中身を教えることを中心としているように見える。それよりは、歴史の学び方やその学びを通じてどのような力が育まれるかという観点から考えるべきではないか。例えば、事象の結び付きや問いの立て方はいろいろであること、観点によって歴史の見方や解釈があることを身に付けさせることなどがある。
○ 従来、日本史Aと「歴史総合(仮称)」違いは、歴史を広く理解するとともに、自ら議論して今の問題を捉えられるようにすることである。中学校の公民的分野の学習を地理や歴史で引き受けて、生徒が課題を設定しつつ学習していくことが必要だろう。現行の日本史Bでも課題の設定や資料の活用ということが規定されているが、教科書には付け足しのように記述されており、一貫したものとしては出ておらず、学習として十分機能していないのではないか。
○ 「歴史総合(仮称)」の「総合」のイメージは、内容を総合するとのイメージが強い。方法や生徒に身に付けさせる力の「総合」というイメージを持たせるようにすることが重要である。
○ 現代史についてはどこまでなのかを議論することも必要である。
○ 生徒に対する学習の動機付けを考えれば、現代にある問題提起を受けて遡って考えるようにすることが重要である。日本の中だけで考えることで、満足したり満足していなかったりする部分がある。大交易時代は違和感がある。中国、インド、アフリカを含めて不均衡に歴史は進んでいるということを理解させたい。昔は欧米が中心だったかもしれないが、20世紀は多様な時代である。現代には、封建的で物理的な暴力のある国もある。現代的な問題を設定し、だからこうなっているのかと考えさせる指導をしていくことが必要である。
○ 比較という概念を考える場合、西欧と日本の比較ではなく、西欧とアジアの比較を行い、アジアの中の各国(中国、東南アジア諸国等)と日本とを比較するというような日本が属するカテゴリーと世界とを比較すべきではないか。
○ 地図と年表がないと歴史の関係性は見えてこない。歴史において地図を活用すること、地理において歴史的に考察すること、などのように歴史と地理を融合させることが地理歴史科として重要であることを示していくべきではないか。
○ 神戸大学附属中等教育学校の歴史基礎の単元はそれぞれどれくらいの授業時数が配当されているのか。資料4の6ページの学習題材として挙げられている事項は大体適当かと考えるが、歴史基礎の中では概ね網羅的に取り上げているのか。
○ 授業時数は主題ごとに10時間程度が配当されている。主題の設定に始まり、調査や考察を行った後、主題の追究を行う構成となっているが、主題学習に使う範囲で指摘の学習題材はほぼ取り上げることとなる。
○ 「歴史総合(仮称)」で一番重要なのは、日本史と世界史のリンケージを付けて考えること。その際の手立てとしては、同じキーワードで語るということだ。
○ 世界の中の日本であり、アジアの中の日本でもある。神戸大学附属中等教育学校の歴史基礎における「イ 近代国家の成立」「ウ アジアの近代と帝国主義」「ア 現代の始まりと二つの世界大戦」あたりは、欧米と日本の置かれた立場が対照的に異なる部分である。このような内容も含んでいるのはよろしいと思う。
○ 近年、国際社会では激しい考え方のぶつかり合いが見られる。オープンであったフランスの考え方が狭くなってきているとの指摘もある。ここでは、自国の歴史、文化を相対化してみることが重要だ。自分が信じているものを侮辱されたときの怒りを想像する力を身に付けさせることが必要である。
○ 育成すべき資質・能力として、「国際社会に主体的に生きる日本人としての自覚と資質」とあるが、グローバル社会や地球市民という視点を持つ必要があるのではないか。
○ 欧米では寛容という概念で社会を構築してきた歴史がある。学習題材として「寛容」を取り入れてはどうか。
○ 中学校では日本史を中心に指導が行われている。そこから、グローバル社会を視野に広げていくことは重要だが、世界史的な知識がない中でどのように広めていけるか、教員の資質が問われる。
○ 教員に足りない部分を補うため産業界が手伝うということが進められてきた。これは世の中が変化し、思考の仕方が変わってきたからである。2000年にクロスカリキュラム作成の教員研修を行った際、社会科の教員が一番理解を示してくれた。どのような知識が必要か、知識をどのように使うかを伝えることにより、学ぶことの楽しさや意義を生徒に分からせることが重要である。産業界からは、概念を応用し活用でできる人が求められている。「歴史総合(仮称)」では、問いを設けて学習をするが、教員の質問力が問われる。
○ 神戸大学附属中等教育学校の教育はよいが全国でできるのかどうか。学校現場の実態を踏まえて検討することが必要である。
○ 「歴史総合(仮称)」については、例えば、次のような構成で考えることができる。
まず、イントロダクションとして、近代とそれ以前の時代の違いについて指導する。
次に、近代のはじまりについて、「国民とはなにか、国民はいかにして生まれたか」、「国民国家と産業革命は世界をどう変えたか」、「植民地支配はアジアをどう変えたか」、「日本は植民地支配の脅威にどう対応したか」について問う。
次に、革命の時代(第一次大戦から第二次大戦まで)について、「第一次大戦はなぜおこったのか」、「「民族自決」とはなにか」、「なぜ共産主義とファシズムが登場したのか、共産主義とファシズムはどのような世界をつくろうとしたのか」、「なぜ金本位制が崩壊したのか、金本位制とはそもそもどのような体制だったのか」、「日本はなぜこの時期に「時期遅れ」の帝国建設を試みたのか、なぜそれは時期遅れだったのか」について問う。
次に、冷戦の時代について、「冷戦とはなにか」、「「自由世界」と「社会主義世界」における政治経済システムの組み立てはどう違ったのか」、「「封じ込め」とはなにか」、「米国は東アジアと欧州をどう立て直そうとしたのか」、「「自由世界」における日本の位置と日本の選択(吉田ドクトリン)」、「戦後が終わり、日本が経済大国になったとき日本はなにをしようとしたのか」について問う。
最後に、21世紀の世界と日本について、「第四次産業革命の進展する中、われわれの社会経済文化の基盤はいまどう変わりつつあるのか」、「国家の役割はどう変化しているのか」、「冷戦の終焉はアメリカを中心とする「自由世界」の世界的拡大をもたらさなかった。では、一方で、新興国、アジア、中国が台頭し、また一方で、国民国家が破綻し、ジハーディズムが台頭する中、世界はどう変化しているのか」、「われわれは歴史を振り返り、未来を展望して、どのような日本と世界をつくりたいのか、またはつくるべきか」について問う。
○ 資料9-1と9-2について、「大衆化」という言葉には、違和感がある。ここで最も言いたいことは「参加」が拡大すること。ヨーロッパでは政治参加が19世紀後半から拡大し、植民地支配に置かれたアジアやアフリカではナショナリズムという形で登場するが、それを一言で「大衆化」というのは少し無理がある。「参加」と言う言葉で理解させた方がよいのではないか。
○ 「アジア・アフリカ」という言葉はほとんど死語のようになっていて、むしろヨーロッパとアジアで、世界の中の日本ということを教えた方がよいのではないか。
○ 資料9-2の「自由」と対立する言葉は普通は「平等」になる。「富裕と貧困」も今の日本や多くの国で考えると「成長と分配」の方が問題をよく捉えている。「統合と分化」も少し考えた方がよいのでは。
○ 「民族主義」と言う言葉はある特定のタイプのナショナリズムを教えてしまうことになるのであまり賢明ではない。ジャポニズムやポップカルチャーというのも教えるほど重要な概念なのか疑問。むしろ金本位制のような、グローバル化に直接つながってくるような概念を教えておいた方がよい。
○ 「公共」の中で教える民主主義あるいは大衆社会の在り方というものと、歴史総合の中で教える大衆化の在り方が重なって教えられることにならないよう調整が必要。
○ 現代的な諸課題につながる歴史的な状況でa~eの観点があるが、社会・文化の観点からマジョリティーとマイノリティーという観点で捉えると、アイヌやジェンダーなども出てくる。こういった観点からの切り口を入れてはどうか。
○ 女性が政治に参加する、社会に参加することは重要。「大衆化」だと捉えられないが、「参加の拡大」なら捉えられる。
○ 教育課程企画特別部会の論点整理で、歴史総合は近代化と大衆化とグローバル化を一つの視点として構成することになっており、これを基盤とするのは重要な前提。近代化も18世紀後半から現在まで、大衆化も19世紀後半から現在まで続くような形で社会を捉える視点であって時代概念ではないが、時代とつながるような題材とか考察を深める問いのようなものを出すなどの工夫をしてきた。近代化は何をもたらしたか、大衆化は何をもたらしたかなど、問いの立て方は検討の余地がある。
○ 単元の中に生産の問題や生産方式の問題が出てきており、今でもSNSなどを含めて非常に重要な大衆的な動きが出てきているという意味で、大衆化も捨てがたい。
○ 「社会・地理歴史・公民ワーキングとりまとめ(たたき台案)」について、9ページ下から4行目科目「歴史総合」の目標についての部分「…多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養される日本国民としての自覚や我が国の歴史に対する愛情、他国や他国の文化を尊重することの大切さ…」を、「…多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養されるグローバル化する国際社会に主体的に生きる日本国民としての自覚や世界とその中における我が国の歴史に対する愛情、他国や他国の文化を尊重することの大切さ…」に変える。科目「歴史総合」が過去の歴史自体を学ぶというより、現代の課題を解決していくための未来志向的な科目であることや日本と他国・世界とを二項対立的に対立させる戦後(冷戦)期からすでに70年たち、グローバル化が急速に進展している今日、そして2030年代に生きる高校生にふさわしい態度目標にする方がよい。同様に、11ページ上から15行目科目「日本史探究」の目標についての部分、12ページ 上から4行目科目「世界史探究」の目標についての部分「多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養される日本国民としての自覚や我が国の歴史に対する愛情、他国や他国の文化を尊重することの大切さ…」を、「…多面的・多角的な考察や深い理解を通して涵養されるグローバル化する国際社会に主体的に生きる日本国民としての自覚や世界とその中における我が国の歴史に対する愛情、他国や他国の文化を尊重することの大切さ…」に変える。「歴史総合」「日本史探究」「世界史探究」は、いずれも「地理歴史科」の科目であるので、統一した方がよいため。また、「地理総合」「地理探究」、あるいは小、中学校とも統一する必要が生まれるかもしれない。

<歴史科目の改訂の方向性>

○ 「歴史総合(仮称)」をスキップできないような仕組みとするためには、新選択科目との関係性が重要だが、難しい。具体例はあるか。
○ 主題学習に当たっては教員が地域を指定している。その際、調べやすい地域と意図的に調べにくい地域を指定し、身に付けた知識が応用できるところとできないところがあることを知らせるようにしている。これによりもっと学んでみたいという思いを持たせ、B科目につなげている。
○ 「歴史総合(仮称)」は近現代史を対象としている。新選択科目である「日本史」「世界史」は時代を遡って指導するということにしてはどうか。一から勉強するとなるといろいろな問題が生じるのかもしれない。
○ 現行学習指導要領の検討を行っていた際、遡りの指導ができるかについても検討を行ったことがある。歴史を遡って検討するということは無限の選択肢から考えることができることになる。教える人、教えられる人それぞれが歴史の分かった人同士でゼミ形式で行うことはできるにしても、全高等学校で行うのは無理がある。ヨーロッパでは、なぜ歴史事象がこうなったか調べてまとめる作業が行われるが、小学校段階から取り組んでいるものだ。小学校段階から調べて議論しているならともかく、高等学校からとなるとどうか。
○ 「歴史総合(仮称)」は歴史の転換点に着目して指導するものである。これを歴史全体に貫いて考えてはどうか。世界史、日本史は絡み合ったものであることを前提として、転換点等を踏まえて指導することとしてはどうか。
○ せっかく「歴史総合(仮称)」で世界史の中の日本を学ぶなら、新選択科目で日本史と世界史を分けるのはなぜなのか。理想的には、同じ考え方で他の時代も学べばよい。
○ そもそも「歴史総合(仮称)」を設けるのはなぜか。今がどのような時代であるかをつかませるためである。国民国家、科学技術革命、産業化等や世界が一つになったことなど、それまでの時代とは異なる時代であることを教えたい。世界史で言えば、それまではそれぞれの文明が世界そのものであった時代である。「歴史総合(仮称)」で学んだことの対照となることを教えるということではどうか。
○ 世界史、日本史のB科目はそれぞれ4単位だが、現在の高等学校では、大学受験に対応するため、選択を含めて8単位くらい指導が行われている。それぐらいしないと、教科書もやりきれない。
○ 「歴史総合(仮称)」の眼目は現代の問題を扱うことであろう。新選択科目は日本史、世界史の区分ではなく、古代から中世、近世から近代といったような区分も将来のオプションとしては考えられる。
○ 新選択科目は3単位とすることも考えられる。地理歴史科で必履修科目各2単位に加え、新選択科目を各3単位指導すれば10単位におさまる。
○ 「歴史総合(仮称)」で歴史教育の押さえるべき点は押さえ、それをもって日本史、世界史を指導していく。そうして初めて深く考察させることができるのではないか。
○ 15年ほど前になるが、アメリカで、全体からは歴史教育のスタイルを学び、その後、特に関心のある時代を学ぶようになっていた。ビジネスの世界では、日本史又は世界史だけの話が出てくるということもでもない。
○ 資料7の12ページに世界史探究の目標として、日本国民としての自覚や我が国の歴史に対する愛情、他国や他国の文化を尊重することの大切さについての自覚を促すとある。最終的にはそうなるかもしれないが、直接的には世界にはいろんなことがあって、我々や地球、人類の歴史はこうなって、こう動いてきたということを教えているので、少し違和感を覚える。
○ 探究科目で使う材料は、例えば何か資料を読む場合でも、ポイントがわかるような副教材的な資料ではなく、生の資料全体をあらかじめ読んで授業に臨まないとわからない。その資料の解釈の仕方が多様であって、歴史の多様な解釈があるのだということも学ぶような授業スタイルについてもっと検討いただければと思う。
○ 今と大して変わらないような日本史と世界史をやるのであれば、歴史総合をその前に持ってくる意味は無いのではないかと思ってしまう。新しい科目として作る場合「世界の歴史と日本」「日本の歴史と世界」というタイトルで考えるべきではないか。
○ あくまでここで示しているのは大きな内容項目なので、学習指導要領に求められる資質・能力としてこれを具現化していくかが、今後の大きな課題。
○ 歴史総合が近世から始まる。近世の前半と近世の後半の田沼時代からの近代化というところが、一つの内容を構成するときにどういう説明の仕方になるのか。探究科目の方も近世という言葉だけをめぐっても不整合があるように感じられ、整理しなければならないと思う。
○ 総合科目と探究科目の関係を整理しないといけない。歴史を通して現代的な課題をどこまで理解できるようにするのかという役割のようなものを、歴史総合は現代的な課題の方に重点化して、探究の方は課題を見通すために歴史のどういうことに課題の萌芽的な部分があるのかを見つけ出すことが大事。
○ 探究科目はクエスチョンのようなものを提示した上で、それを解き明かしていくという章構成でないと探究にならない。世界は多様なのでいくつかのタイプに分けて、どうしてこういう多様性があるのかという大きなクエスチョンがあって、それを日本史探究では、日本について事例研究的に解き明かしていくスタイルにならないと、今の講義の仕方がそのまま続く可能性がある。
○ 社会・地理歴史・公民ワーキングとりまとめ(たたき台案)(地理歴史科の科目構成)の3つ目の「○」にある「・・・諸事象(の関係や関連)を把握し、(現代につながる諸課題を読み取り、)その解決・・・」に(  )を追加してはどうか。

2.地理教育について

<「地理総合(仮称)」>

○ グローバル、ローカルという問題について、地理では、スケールの大きさを変えることによりものの見方が違う、多様な見方ができるということを扱っている。例えば、日本のスケールでみると稲作は一般的だが、世界のスケールでみると稲作は一般的ではない。
○ 地図の活用については、小中高校の各段階において、スキルはそれぞれどこまで達成するのかを示すことが重要。
○ GISは技術そのものというより、古い地図に新しい地図を重ね合わせると見えるものがかわるという捉え方をすると、教員も受け入れやすくなるのではないか。
○ イギリスでは知識の重要性の見直しが進んでいるというが、それは探究の後に身に付く概念的知識というもの。その概念的知識は、実践力や応用力、他教科との関わりに反映していく。概念的知識を地理でどういうふうに育成していくかが課題。
○ 地理は空間的、歴史は時系列という捉え方が一般的だが、地理、歴史双方に縦軸・横軸が重なった両軸があり、相互に関連しているということを理解してもらうことが必要。
○ 地図は、視点を変えた地図や様々な要素の入った地図などいろいろな地図があり、地図をうまく使うと、ビジュアルに地理教育ができ、自分が今いるところはどういうところなのか等、生徒に関心を持ってもらえるのではないか。
○ 地図やGISの学習はグローバル化や防災等広く関わるものであり、原案はそれを最初に学習するという考え方に立っていると理解できる。(3)において、持続可能な社会づくりを取り扱うが、ここには十分アクティブ・ラーニングを取り入れられる。
○ 「地理教育国際憲章」の5)地域には、変容を示しており、各国ベースでの考えを入れることができることから、ここに日本的な要素を入れることが可能である。
○ 小学校では社会科の中で地理を学び、中学校では系統地理や地誌のディシプリンを学ぶ。高等学校ではそれを踏まえて、政治や経済の問題を含めた主題に基づく学習を行うこととなる。この意味では「総合」は適当な表現と考えられる。
○ 原案の(2)については、アイと構成されているが、コンテンツベースの積み上げとなっているように見える。イシューベースとして順序を考えると、イからアという順に直した方がよいのではないか。
○ GISや地図活用を生徒に指導する。地理に関わる概念を学ぶとともに、地理的な概念を使ってどのように問題解決をできるようになるかが重要である。
○ 原案はGIS、グローバル化、ESD、防災等、高等学校地理で必要となる要素を網羅していると思う。ESDについては(3)の生活圏でとどまらない場合には、(2)で出てくる可能性があるため、考慮して構成を考える必要がある。
○ 学力との相関から見て、どこまで思考力・判断力・表現力の育成を意識するかが重要である。
○ 空間を捉える概念は重要である。中国やアジアから日本を見るとどう見えるかなど複眼的な見方があることを指導することが重要である。
○ 地理的な見方や考え方について指導することが重要である。一方、歴史については、歴史的思考力、歴史的な見方や考え方、歴史的技能とは何かが不明であり、はっきりさせる必要がある。
○ 地理は地面が中心となりがちであるが、海洋に力点を置いて指導することも重要である。国境の問題や北極圏の下には資源が多くあり紛争の種となっていることなど指導すべきことがある。また、宇宙空間についても、人工衛星が過密になるなど問題も生じてきているので、いずれ地理の中で扱ってはどうか。
○ 地理ほどテクノロジーを使うことにより多くのものがみえるものはなく、学習の動機付けがしやすいと思う。ぜひ導入部分には地図の活用などをいれてもらいたい。
○ 歴史的な地図と重ね合わすことで、地理と歴史の関係を学ぶことも可能になると考えられる。紛争地帯で国境がどのように歴史的に変わってきたのかということを学ぶだけでも大きい。
○ 地理オリンピックでは3つの問題が出される。マルチメディアを使って4択の中から答える問題、論理性を問う記述問題、フィールドワークである地域を調べて将来どのようにするかをまとめる問題だが、日本の子供は記述問題とフィールドワークが苦手である。「地理総合(仮称))」では、主題学習を事例地域を通して学び、フィールドワークにつなぐ。しかし、それだけでは取り上げない事象や地域があり、分からないことが出てくる。それをさらに広い観点から学ぶ必要が出てきて、新選択科目につながる。「地理総合(仮称)」で課題を発見し、それを他の事象や他の地域と関連付けて追究するのが新選択科目というイメージとなる。
○ 系統地理的考察とは、いくつかのテーマから考察をするもので、規則性などを見出していく。地誌的考察とは、地域ごとのその地域の特徴を見出すもの。新選択科目の(1)の系統地理的な考察において、記載のもの以外にも、今日的には観光や交通・通信などを加えてもよい。
○ 「地理総合(仮称)」の「問い」が高校レベルの問いとしてこれでよいかと考えていたが、選択科目とのつながりについての説明を聞いて理解した。
○ 新選択科目で(1)、(2)は現代世界を扱っているのに、(3)が現代日本なのはなぜか。
○ 日本人は宗教や文化に関する理解が弱い。ビジネスでも人間関係やバックグラウンドが問題になる。日本は世界の中でどのような位置に置かれているかが分かっていない。表層的なものではなく、本質的な部分から指導すべきではないか。
○ 地政学も学ぶべきとの意見があるが、地理環境が政治や文化に影響を与えているということなら、現在の歴史教育や地理教育の中で取り扱われていることだが、ことさらにそれを取り出して指導するとなると難しい。
○ トランスナショナル、インターナショナルの両者を考えているのが、今の政治学である。地政学というと国家戦略のように捉えられかねず、また深い知識や論争を知らない人が教えると危険である。
○ 地図は多面的に見る必要があるということを伝えたい。
○ 地理総合の考え方は、いわゆる主題的に考えてどういう現代的な課題があるか、その課題に対して、今度は探究の方で、より深い知識がないと解けない。地理としては系統的な見方と地誌的な見方があって、さらに総合で出た議題を深めていくことになっている。地理については総合と探究がシステマチックにつながっていると考えている。


3.公民教育について

<「公共(仮称)」>

○ 国民国家の中でどのような責任を負うのかという視点は重要だが、国際的な公共性もあり、そのことについてもう少し強調して、他の科目との連続性を図るということを考えた方がいい。
○ 「公共(仮称)」で扱う主体の諸側面の関連が重要。例えば、民法は経済、家族、消費生活、情報等にかかわっている。法的主体といっても法律のことだけを学ぶのではなく、それぞれに関連しているということを学べるようにする。各分野にまたがる教材の選定も重要である。「公民教育に求められる今日的課題への対応」では、例えば契約というのが出てくる。契約に関するトラブルには高校生も巻き込まれるので、契約は今日的な課題だが、同時に、契約というのは我々の社会を構成している1つの考え方である。情報、雇用、金融等にも、これと同様の問題があるので、当面の課題とそれらの前提にある基本的な考え方との結び付きというのにも留意していくことが必要である。
○ 18歳選挙権で主権者教育をどう展開するかということで、あるアンケート調査では、主権者教育を担当している先生方が非常に不安・戸惑いを持っているという現実がある。その際、新聞を活用する教育を強化していくことがよいという結果が出ている。「公共(仮称)」の課題を取り上げる際、関係する専門家・機関同士とどのように連携をして、どういう課題について解決をしていくことができるのかということについて事例を集めて、交通整理をしていきたい。
○ 選挙権年齢の引下げに対応するため、高校生向け副教材を文科省において作成した。その際の議論も、今回の議論に反映させていけるとよい。
○ アクティブ・ラーニングについて、学校現場は熱心に取り組んできているが、どのように学ぶかのイメージをしっかりと共有していきたい。国家・社会の形成者として求められる力を育むための学習方法として、正解が1つに定まらない学び、学習したことを活用して解決策を考える学び、他者との対話や議論により考えを深めていく学び等、副教材では、アクティブ・ラーニング型の学習活動を示している。
○ アクティブ・ラーニングに取り組もうとすると時間が足りない。本校では、模擬選挙など行う際には、総合的な学習の時間も活用している。
○ 政治的中立性の問題があるが、過度に意識させると敬遠されてしまう。そのようなことがないようにしていきたい。
○ 「公共(仮称)」はキャリア教育の中核との位置付けである。私的領域、公的領域とわけて考えた場合、前者はシチズンシップ教育であり、後者はキャリア教育と捉えている。そういったものが有機的に結び付き、全国の高校生に共通して保障されるような科目にしたい。
○ 内容、何を学ぶかということ、学び方、アクティブ・ラーニング的なこともきちんと位置付けた新しい「公共(仮称)」という科目のイメージというのを打ち出すことが重要。学ぶ内容は「公共(仮称)」だけに閉じていない。「公共(仮称)」が成功するためには、学校のカリキュラムマネジメントが機能するかどうか。関連する内容をどのように整理をするか検討する必要がある。
○ キャリア教育の中核となる設定ということで、今回の全体的な改革の中で、この公民科目というのは重要。どんな幅広い社会の中で自分が生きているのかということを捉えられるような教科とするため、正解主義的な指導ではないものにしていきたい。
○ 今までの倫理というのは基本的に先哲の考え方に学び、それをどう自分の生活に生かしていくかということであるが、文献を基にした教育は興味が持たれにくい。今後は、生命倫理や環境倫理などの応用倫理を一層重視していくことが必要である。生命倫理なら生殖、安楽死など高校生にとっても身近な話題が扱える。このほか技術者倫理なども扱ってはどうか。そして、そうした話題を切り口にして、先哲の考え方の理解へと導くのが効果的だろう。ただし、応用倫理を教育として成立させる際の難しさは、評価をどのように行うかということである。
○ 公共の扉において、協力が重要というのはそのとおり。学習活動としてゲーム的なものが入っているのは重要だと思うが、例として示されている囚人のジレンマなどはうまく指導しないと逆の結果を生む可能性がある。協力しない選択が合理的な選択と捉えられるようでは意味がない。その意味では、例示として最後通牒ゲームなども考えられる。
○ いわゆるおかみではなく、公共というものが存在するということを指導することが重要である。世界の中の日本の公共、地域の公共である。また、協力とは押し付けではなく、自然に出てくるものとしたい。「市民社会」という概念と学習内容として捉えることにより、平等な市民が協力し合うという論理が出てくるだろう。
○ 公共はパブリックであり、プライベートと対置するものである。近年、マイナンバーの問題や死者にプライバシーはあるのかといったことも問題となりがちだから、パブリックに加えプライベートについても同時に教える必要があるのではないか。
○ 功利主義は言葉が悪い。本来、それは社会全体としての利益を増大させるという捉え方であり、利己主義とは異なる。その際、社会全体の効用としての「幸福」という概念がキーワードになるだろう。
○ 原案には、結果としての社会的効用と人間的責務とのバランスをとることが重要との考えが示されているが、簡単なことではない。例えば、病気の告知について、本人の幸福を考えた場合、ウソも方便という考えもありうる。その判断は鋭利に対立することがあり、そのことについて取り扱うとすれば、それぞれの利点と欠点を検討してみるというところまでではないか。
○ 経済的な格差とするものとして捉えるのはいかがか。個々の利益を追求するだけではうまくいかない。マクロとミクロ全体から見た豊かさという視点が必要である。
○ 若者の社会参画意識に課題があることからすれば、公共(仮称)においては、動機付けをすることが重要である。社会的な課題が若者にとっても重要であることなど教え方を工夫すべきである。
○ 社会は国際社会も含めて考えるべきである。日本も外国人の受け入れが進み、人的交流も多くある。多様な価値観がある中で調整をしていくことが課題になってくるわけで、このことを指導することが重要である。
○ 個人と全体との関係について、生徒に教えるのではなく、生徒自らが理解していくようにするにはどのようにしたらよいか。例えば、生徒会や部活動で予算取りの中で学んでいくことが考えられる。
○ 自由主義とコミュニタリアンの立場があって、個人に重点を置くか、全体に重点を置くかで判断は異なる。個人と社会との関係を理解させることが「公共の扉」の役割である。
○ 私的な領域についての指導がキャリア教育であり、公的な領域についての指導がシチズンシップ教育と捉えている。これらの根底にあるのが倫理的なもので、倫理や公共の扉がその役割を担うのであろう。
○ 18歳で何ができるようになるのか、社会に開かれた教育課程という観点から学びを捉えたときに、社会の主体となるということを実感できる科目にしたい。そのために、学習の最後に模擬選挙を実施するなどの工夫も考えられる。また、教科書において、各単元で活用問題が示されるようになるとよい。
○ 知識を学ぶだけではなく、国民主権や民主主義、幸福などの価値観を対話を通して実感できるようにしたい。
○ 指導に当たって、個人から入るのか、社会から入るのか、理論的にはどちらもありうると考える。知識を前提として指導していくことを考えると社会から入る方が簡単であろう。しかし、高校段階というアイディンティティを確立していく段階を踏まえた場合、それでよいのかどうか。社会の中で何ができるのかという問題設定自体が問題である。個々人が「主体」であることは重要で、個人は社会の歯車ではなく、各主体が協働しているのが社会であるという捉え方をさせるべきだろう。このため、まずは自分をみつめ、自分を大切にすることを指導する必要がある。
○ カギとなる概念は、(2)の中で学ぶことになる。幸福は重要な価値であり、そのために正義を考えるのか、義務として正義を考えるのか。何が重要なのかを考えさせる指導となるようにしたい。
○ 社会の基本的な仕組みについては、生きる上で必要となるシステムであり、指導することが重要である。その仕組みを使うことの意義と限界を知らせることが重要であり、社会的な見方が分からないとそれらは使うことができない。協働の在り方や仕組みの違いは法、経済、政治それぞれで異なっており、法で言えば、裁判という手続を通じて中立な第三者が当事者から話を聞いて判断をすることになり、経済は市場を通じて私人間で調整が図られ、政治は全員が参加して議論を通じることになる。その際、政治、経済、法等それぞれの主体としての立場がバラバラにならないように、公共の扉においてきちんと指導することが必要である。
○ 「歴史総合(仮称)」、「地理総合(仮称)」、「公共(仮称)」の科目間の関係を考えておく必要がある。現代的な課題はそれぞれの科目において扱うことになる。その組み合わせはいろいろで、例えば、紛争の解決といったとき、歴史的背景や地理的な状況などを考えた上で、「公共(仮称)」について指導することもあれば、「公共(仮称)」からということもあれば、3つ同時にということもある。最終的には、学校のカリキュラムマネジメントの問題だとしても、どのような考え方があり得るかは示してはどうか。
○ 中学校社会(公民的分野)において具体性のある題材を扱うことや、家庭科など個人の主体性を育む教科とのすりあわせを考えていくことも必要である。
○ 公共あるいは社会の範囲によって協働の意味や重要性が異なってくることをうまく理解させる必要がある。
○ ルールのもとで競争が行われていること、公正なルールをどう作るかということ、ルールを作る際には公共の考え方が不可欠だということを実感させたい。
○ 信頼を裏切るとどのような罰則が社会には存在するのか、ということも重要なポイントだと考えられる。
○ 私たちが、自分だけのことを考えているわけではなく、他人のことを考えて行動していることが自然であり、それはいいことだということを教える。最後通牒ゲームをやらせて、多くの人が他人にある程度の金額を配分したり、非常に低い配分の提示を受けた人はその受け取りを拒否することを体験させる。
○ 例えて言うなら、これまでの教育はゲームのルールは教えてきたが、ゲームをさせていなかった。今後は、ゲームをさせる上での基本と基礎トレーニングが重要であり、「(2)自立した主体」の部分はそのバランスをうまくする必要がある。
○ 「(2)自立した主体として社会に参画し、他者と協働するために」の「ア 法的主体となる私たち」は、政治的主体によるゲーム、経済的主体によるゲームなどがあるが、例えば、市場と民主主義の関係をまず根本的に考えさせることや、なぜそのようなルールがあるのかということを指導すべきところであり、「法的主体」という用語でよいかどうかは議論があるところ。
○ 全体として方向性が見えてきた。整理されてきたと思う。しかし、「(3)持続可能な社会づくりの主体となるために」の課題例として「持続可能な社会保障」とあるが、適当ではない。これまで「持続可能」というと、社会保障の抑制、削減という意味で用いられており、一方最近は「社会保障の機能強化」という表現が用いられており、政策が揺れている。政治的な意味を持たせない用語の方がよい。また、その他の題材の例では、望ましい姿を示す表現が用いられているように見えることから、例えば、「安心した暮らしのための社会保障」としてはどうか。
○ 「(2)自立した主体として社会に参画し、他者と協働するために」にも社会保障が入っているが、理念や内容等知っておくべきことをきちんと学んでほしい。イメージを持って理解させることが重要である。
○ 「(3)持続可能な社会づくりの主体となるために」に環境が入っていないのはなぜか。
○ 生徒が自分たちの問題として受け止めることが重要である。
○ 公共を英訳すると「publicness」か「public society」か。諸外国では「citizenship」か「civil society」と表現するのだろう。日本も市民社会という考えをもっと出していく必要があるのではないか。公共空間はどこにでもあって、そこは無秩序ではないこと。それは自分たちが作っているものであるということを示したい。市民という語句を嫌うなら、「人々」でもいいだろう。
○ 18歳選挙権により「(2)自立した主体として社会に参画し、他者と協働するために」への期待も大きい。
○ 消費者教育については、現在、家庭科で契約や信用などを取り扱い、個人の家庭生活の視点から指導が行われている。消費者教育推進法では消費者市民社会の構築と言われているが、選択してものを買う際にフェアトレードや企業に伝えるということが出てくるのだが、家庭科の範囲を超えている。
○ 「公共(仮称)」が成功するかどうかは、教科書がどのように書かれるかということだけでなく、外部機関と学校がどのように連携するかがカギとなる。例えば、NIEでは、昨年、ある新聞で取り上げた農業と別の新聞で取り上げた消費の論説を比較する指導が行われていた。その際、教師が自分で選んでいくのは大変だから、新聞協会と今から連携を取って活動することが重要だ。
○ ICTの活用、データベースを充実させることも大切である。
○ それぞれの大項目への時間配分を明確にすることが必要である。
○ 「(1)「公共」の扉」に環境保護や生命倫理が入っているが、ここを強調すべきである。また、両者の間に動物倫理をはさむとスムーズに内容が結合するのではないか。
○ 「(1)「公共」の扉」で生徒が考え、まず何が問題でこのような事態になっているかを環境などの課題で具体的に学ばせ、次に理論を学び、最後、「(3)持続可能な社会づくりの主体となるために」で考察を深める。原案の(1)(2)は理論的に過ぎるのではないか。
○ 全体を読んでいて少し抽象性が高いように感じる。「主体」とか「私たち」と言う言葉がよく出てくるが、「市民」「市民社会」という言葉をもっと使ってほしい。おそらく公民が公的市民であるという理解に基づくからなのだろうが。
○ 問いをたてながら本質的な課題に立ち向かっていくというような今回の改訂は、非常に期待を持っているし、このような学校で学んだことを生かして、自分で問いをたてられる、課題を見つけて解決していける人材を育成していくことが求められている。見方や考え方とか、資質・能力の育成というのが非常に重要で、一方で教員がきちっと実現できるかが課題であり、現場の教員にしっかり伝えて実践してもらえるように社会で使われている用語を組み込んでほしい。
○ 「私たち」がどの範囲という問題について、まさに学ぶ子供達が自分たちの問題として考えることを意味している。まさに誰かのことを言っているわけではなくて、自分たちがそうならないといけないし、また自分たちのことを言っているのだと、そういうニュアンスを強めるために用いられていると理解している。
○ 「市民」ついて、市民という概念をどう定義するのかというのは詰めていくと難しい問題もある。政治システム、経済システム、法的システムといったものによって公共空間が築かれているが、その際に市民社会とか市民的な団体と言ったときにどこを指すのか。少し抽象的というご指摘はあるが、現在の表現をさせていただいている。
○ 様々な主体となる個人を支える家族・家庭や地域等にあるコミュニティーということで、地域における主体としての活動ということをこれから強化していく必要があると思う。
○ 「公共」について「自立した主体として」のところに、どのように学ぶのか、とりわけ教員が探究的に問題を解決していくような授業作りができるような授業モデルや問いがしめせるとよい。
○ 14-1の下、家庭科、情報科、保健体育科と連携とあるが、総合的な学習の時間が探究学習の中核としてある中で、そういったものとの連携をどうするか。

<公民科目の改訂の方向性>

○ 「公共(仮称)」に対応した受験科目が当面ないと考えられるが、生徒は熱意をもって取り組めるだろうか。新選択科目である「政治・経済」、「倫理」への関心を喚起するのは間接的な効果に過ぎない。高大接続の議論を待ちたい。
○ 「公共(仮称)」「倫理」「政治・経済」を全て含んだ受験科目にする、などとしていくことも考えらえられるのではないか。
○ 新選択科目、政治・経済の(1)(2)の構成について、国際社会があっちにあって、日本はそれにどう関与するのか、特に「グローバル化する国際社会の諸課題」と言うところに受け止められてしまうのではないか。重要なのは国際政治、国際経済の中で日本という国はどうやって生きていくのかということだが、それが落ちてしまうのではないか。
○ 地域社会にいる人たちが世界の中の自分というものを意識していることがある。それが経済活動であり、政治でもある。インターナショナルだけでなくトランスナショナル・リレーションという、国民国家の枠を超えたような市民団体、企業、自治体などの国際的な関係のようなものもある。政治経済のところでは、TPPであれば政治と経済はつながる、もしくは領土問題も同様。国際問題というのは国内問題を理解しないと解けないし、国内問題は国際的なバックグラウンドが理解できないと解けないというのが現実に起こっているとことを「公共」にしても「政治・経済」にしても教えてほしい。
○ 「公共」は新しい科目なので基本構造をしっかり理解する必要があることからかなり書き込んではいるが、問いなどを付け加えるなど何かしらの方法を検討する必要がある。国内と国際関係、グローバルな関係も統合させないといけないが、政治や経済も同様。全部となると章立てができない状態になる。
  実際に政治・経済を考えようとすると政治システム、法的システム、経済的システムということをある程度理解させないと、より高度なことができない事態になる。(1)で国内が基軸になる可能性はあるが、政治と経済を連携させて考えさせて、(2)の方で国内的な問題と国際的な問題をさらに関係させてという構造をとっている。どこをやるにしても国際と国内の関係に着目させる必要はあるし、経済と法と政治の関係について連携させる必要はあるが、章立てとしてはこのような案となっている。
○ 公民科の科目名を変更したほうがよい。現在の案では、改訂の趣旨がうまく伝わらず、曖昧なままであること、また、「倫理」および「政治・経済」はほとんど改訂がなく、現状のままでよいかという印象を与えてしまう危惧を覚えること。地理歴史科の「地理総合(仮称)」「歴史総合(仮称)」と「地理探究(仮称)」「世界史探究(仮称)」「日本史探究(仮称)」との対応をとった方が、現場の先生には理解しやすく、各科目の役割が理解しやすい。
・変更案・・・「公共(仮称)」→「公共(課題総合)(仮称)」、「倫理(仮称)」→「倫理(課題探究)(仮称)」、「政治・経済(仮称)」→「政治・経済(課題探究)(仮称)」

4.アクティブ・ラーニングについて

○ アクティブラーニングは、まずは、生徒の学習の動機付けという観点から重要である。学習内容が社会と結び付いていることを理解することになるだろう。また、考え方が一つではないということや自分の考え方だけが正しいわけではないことも理解することになる。この学びを通じて、結果として知識ではなく、考え方が重要なのだということを理解していくことができるだろう。さらに、論理的な思考力を身に付けるという観点からも重要である。
○ アクティブ・ラーニングにより、知識が身に付く場合もあれば、思考力が身に付く場合もある。それらの知識・技能、能力とは異なる指導方法というカテゴリの話である。他者が得た知識により、別の者の思考力を高まる場合もあり、そこにはアクティブラーニングの意義がある。
○ 知識習得のための活動もあるが、知識を活用する際のアリティブラーニングが重要である。資質・能力を身に付けさせるための活動であるということを重視したい。
○ アクティブ・ラーニングのメリットは、学ぶ側の動機付けが大きいが、生徒の中から多様な仮説を引き出すこともメリットだと考えられる。様々な仮説について、どの仮説が一番人を説得できるのか、説得するにはどのような証拠やデータが必要かを議論させることが大切である。自然科学でさえ様々な仮説の検証の積み重ねで作られていることを理解するのは難しいが、社会科学は仮説の検証が自然科学以上に難しい。そのため、様々な考え方が併存しているが現実であるということを理解することが重要ではないか。
○ 選挙について体験させても、選挙の仕組みを学んでも、合理的な人であれば、多人数になれば一人ひとりの影響力が小さくなることを理解するだけになる。それでは、誰も選挙にいかなくなるので、社会に生きている義務あるいは倫理として選挙を考える必要があることを理解させることが重要ではないか。

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