資料14 教育課程部会幼児教育部会(第6回 平成28年3月30日)における主な意見(未定稿)


資料14  教育課程部会幼児教育部会(第6回 平成28年3月30日)における主な意見(未定稿)



1.幼稚園教育要領等全体及び総則の構造の在り方について


○ 小学校の総則に関しても、資質・能力の教科間の関係とか、カリキュラム・マネジメントとか、アクティブ・ラーニングの三つの視点からの指導方法等について検討がなされている。小学校との接続を考えると、それぞれの学校段階の特質はあるかとは思うが、これらの視点をどのように幼稚園教育要領の総則の中に盛り込んでいくかという観点で検討することが重要ではないか。

○ 幼児期は、知っていくこととか、学んでいくことの本当の楽しさを経験するということが大事。そのためには、ただ楽しければいいということではなく、例えば、本当に知ったことをまた作り直していったりとか、もっと深めていったりとか、何か憧れがあって、工夫していったりとか、幼児教育の学びの本質的な部分を、総則に書き加えながら、第2の教育課程の編成にも、それを深めていくといった全体構造の見直しが必要ではないか。

○ 領域が小学校以上の教科と単純に1対1とか、単純につながりを意識させてしまうことがないようにしなければならない。単なる教科の内容の前倒し的な指導ではないということを、これまで以上に総則の方で表現する必要があるのではないか。

○ 資料3を見ると、例えば、小学校の場合、小学校の教育課程全体を通じて育成する資質・能力とか、アクティブ・ラーニング、カリキュラム・マネジメントという言葉が出ているので、幼児教育にも同じ項目があると、小・中学校の先生たちが見たときに良く分かるのではないか。

○ 今の幼稚園教育要領の中にも、総則のところに接続は書かれており、環境を通して行う教育もずっと書かれている。こういったことをしっかり見えるような形でしていくのが良いのではないか。

2.発達段階や成長過程のつながりを踏まえた幼稚園教育要領等の在り方について

○ 今回、幼小接続が大きな論点の一つにもなっているが、こういうことを推進していくためにも、幼稚園修了時の幼児の具体的な姿が、小学校の先生方にもはっきりと見える形で示していくことが大事ではないか。小学校との接続という観点からも、少しインパクトのあるような書き方、出し方をしていくことが、更に発達や学びの連続性を見通した子供の育ちを見ていく点でも必要ではないか。

○ 育ってほしい姿というのは、大変重要。ただし、その1項目だけを取り出して、それを語るのではなく、全体的に考えなければいけない。同時に、その育ってほしい姿を、いきなり3歳児に下ろして語るというのは無理があることから、5領域との関係性であったり、発達でそこに至るプロセスであったりといった書き方、また、解説で加えていかなければいけない内容などについて考えていくことが必要である。

○ 幼児期の終わりの姿、それから、その終わりの姿がどのように育っていくかというところで、非常に重要なのが教師の関わり方ではないかと考えている。文字や数、あるいは思考の育ちが早まっていると言われているが、体験を通して学んでいるのか。小学校教育の前倒しになっていないかを整理して、体験を通して学ぶ、あるいは経験的に学ぶ、子供たちに必然性や必要感を味わいながら学ぶということを示す。このことが、小学校教育の学びの土台の明示につながるのではないか。

○ 就学前の教育といったときに、ちょうど5歳の3学期、6歳時点で、どういう育ち、力を付けておくかというような点を明確にしておく方が良いのではないか。5歳になったからということが到達ではなく、接続の部分であるということを書いておく方が良いのではないか。

○ 育ってほしい姿は各領域から出てきたものだが、その姿を見ると、一つの領域だけではない、いろいろなところに関わってくる姿になっている。それをどう領域に戻すのか、または、別に出すのかを整理しないと、現場で子供たちの評価、指導要録を書く時点で、混乱を招くのではないか。

○ 幼児教育は、頭の中だけで全てが進むものではない。総合的な学びである。遊びを通して経験的に学ぶので、本物などの具体に触れて実際に学ぶのである。小学校の教科の前倒しではない。体全体で子供が身に付けていくということを明確に位置付けてほしい。認知的な学習だけを取り上げて、小学校ですべきことを先取りするような幼児教育にしてはいけない。幼児教育の基本に立ち返って、情操を育てる教育を基盤にしてほしい。

○ 一番懸念するのは教科のつながりである。具体的に書けば書くほど、これをすればいいということになってしまうおそれがある。それをすることが目的ではなく、遊びの中でやっていたら、たまたまそういうことができて、もっとあんなこともやってみたいというふうにしていかないといけないのではないか。幼稚園の時期には、この時期にこそ伸びることがあり、そこを大事にしないといけない。いろいろな学びにつながっていく土台作りということを明確に出した上で、つながりを考えていけるとよいのではないか。

○ 学びが最初に来ているが、幼児は、楽しさ、喜びというところから入っていくという、プロセスの最初のところを押さえて見ていくことが必要ではないか。幼児期の特性として、総合性だったり、行きつ戻りつだったり、身体性というものが挙げられるが、それらを大切に取り扱って見ていくことが、どういうふうに小学校以降につながっていくのか。心情、意欲を大切に見ることが小学校にどうつながるのかという、つなぎの部分を書いていくことが必要ではないか。

○ 幼稚園、小学校の総則の書きぶりは、可能な限りパラレルになると良いと思うが、そうなったときに、教科の前倒しにしないということは大原則だ。
   ただし、教科の前倒しはしないが、子供たちが活動する中で予測や予想を持ち、その中で規則性・法則性・関連性に気付いていく。また、それによって遊びや暮らしが、拡充されたり、主体的になったりしていくのではないか。これが小学校以降の教科の足場になり、学びの基盤になっていくということはあるわけで、それについては、これまで以上に、自覚的になり、意図的に教師が幼稚園教育の中でうまく実現していくということはしても良いのではないか。
    それによって、より子供たちが遊びや暮らしを基盤としながら、世界の不思議に対して挑み、そこから規則性・法則性・関連性を見出すことによって、自分が世界とよりよく関わっていくという実感、あるいはどう関わっていくべきかという戦略も身に付けていく。これは小学校以降の知的な情緒的な足場になっていく。
    そういったことについて、より自覚的に書いて、幼稚園の先生にも理解され、それが小学校以降の教科の学力も含めた足場になることで接続を図りたい。
    そういう意味でも、アクティブ・ラーニングがどういうものであるのか、どういう側面が重要であるかということを出していくことが小学校教育との関連において大事なのではないか。
    小学校以降も含めて、ある種の高度化をしているのだろう。内容を増やすという意味ではなく、より子供たちがたくましく学び、一生涯にわたってよりよい問題解決を成し遂げて、よりよい人生を送れるような基礎という意味で、教育課程全体の高度化は小学校以降も幼児教育も図っていく。ただ、幼児教育における高度化というのは、指導事項を個別の内容として増やしていくとか、それを先生が教え込んでいく話では全くないということを、どこに書くかということだろう。
   小学校以降も、教育の高度化を図るためにこそ、子供主体の小学校以降で言えばアクティブ・ラーニング、幼稚園で言えば、子供主体の遊びや暮らしの創造の拡充を行うということなのだろう。ただ、その遊びや暮らしの質については、しっかりと書いていくということが必要なのではないか。高度化するからこそ、遊びや暮らしの拡充をするということだ。拡充の質ということは、今回言われている小学校以降のこととパラレルに書くことで明示化できるのではないか。

○ 幼稚園修了までの姿が「ねらい」で示されて、一方で今度、幼児期の終わりまでに育ってほしい姿がきちんと明確にどこかで示されていくことは非常によいことだが、幼稚園修了までにということと、この幼児期の終わりまでに育ってほしい姿との関係は、分かりやすく示して行く必要があるのではないか。

○ 小学校のような「目標」とかというよりも、幼稚園は「ねらい」とか、少し柔らかい表現の方を継続すべきではないか。幼稚園のときぐらいは、余り縛らずに、自分の好きなことをやらせるようなところが重要。

○ 育成すべき資質・能力を幼児期から高校まで系統的に示すというところでは、その方法の違いは育成の仕方の方法が違うかだということを、明確に示していくことが大事。基本的生活習慣が身に付いていなければ、資質・能力を伸ばすといっても、到達しないこともあるというようなところを、入れておいた方が良いのではないか。どういう段階から、どの辺のところまでのところ、どこから始めるかというところを、初めの段階を書いておくことで、今後の育成の仕方についての間違いが起こったり、領域と教科を結びつけたりするような方法がとられないのではないか。

○ 現行の幼稚園教育要領では、義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとして、円滑な接続のための連携を図るという文言になっており、教育課程がつながっているように見せるという意味では、ここを深く書くべきではないか。幼稚園の方向目標から小学校の到達目標に変わっていくまでに必要なもので、例えば、「協同的に学ぶ」とか「言葉で伝え合う」という、小学校の学び方につながるような資質・能力を示しておくべきではないか。

○ 幼児教育が子供理解からスタートしていくところが大事。一つの活動を通しても、子供たちと一緒に活動をすることによって、様々な学びが起こったり、議論が起こったりする等の経験を豊かにしてくるところが幼稚園であって、それが小学校教育につながっていくという意味合いを幼稚園教育要領の中に入れていくのが良いのではないか。子供たちは身近な問題をきちんと考えて、そこでどうやったらいいかという自分たちの知の枠組みみたいなところを議論し合いながら、友達関係や知識を広げていくなどというようなことをしており、その根本原理をどう出していくかというのは、もう少し議論したほうが良いのではないか。

○ 「ねらい」と「目標」の違いは、それぞれの学校や幼稚園で大切にしてきた文化だと思うので、そういった言葉は大切にして使っていただきたい。幼稚園の先生が考えて捉えている「遊び」と小学校の先生が捉えている「遊び」の意味合いの違いや、小学校の先生方が捉えている「環境」と幼稚園の先生方が捉えている「環境」の意味していることが、全く違うので、是非そういった言葉の捉え方の違いというのも、どこかで明確にしていただきたい。小学校の先生が、この幼稚園教育要領を見たときに、幼稚園で大切にしている教育が目に見えて分かるように、その一般化されている言葉だからこそ、意味合いの違いというところをはっきりとしていきたい。

○ 幼稚園教育要領にも一定程度、子供観とか、知識観とか、学習観など、一定程度踏み込んだ書き方をして、更に解説で肉付けしていけると、小学校以降の大学まで含めた教育の改革も含め、良い形で書けるのではないか。

3.資質・能力の三つの柱との関係や現行幼稚園教育要領等における現状と課題から改善すべき点について

○ 何かみんなで成し遂げるという自分がどういう役割を担っているのかとか、そういうカリキュラムを幼稚園の方でもたくさんやることで、自分の自己肯定感が持てるのではないか。

○ 音や音楽に内在するリズムや響き、抑揚といったものは、人と関わる上でも、生活とか遊びの中で生きてくるような資質につながるので、これから視点として入れていただきたい。コミュニケーション能力を育てるということ、メタ認知的な能力の基盤が、こういったところから育っていくのだということ、これが単に領域の表現の中の特定の音楽というようなことが芸術表現のみにつながっていくのではないというところの観点が加わると良いのではないか。

○ 幼児期の豊かな遊びを通じた学びが広がる一方で、それが子供たちに大きな負荷になっているとすれば、どこかで小学校に上がるための準備について、幼稚園教育要領、学習指導要領の中に書いてもいいのではないか。

○ 文字を読み書きということではなく、本の読み聞かせをたくさん、絵本を中心に、絵本なり紙芝居をたくさん聞かせてもらって、文章独特の表現に親しんでおくということも非常に大事。

○ 領域の言葉には、思考の部分が入っておらず、領域の環境にある思考を伴う言葉と一緒に表現するのか、分けていくのかということも議論した方が良いのではないか。

○ 粘り強さであるとか、自己コントロールであるとか、集中するということであるとか、そういった非認知能力を幼児期に豊かにしておくと小学校以降で大きく花開くということが盛り込まれると、更に良いものになるのではないか。

4.アクティブ・ラーニングの三つの視点を踏まえた、幼児期に育成すべき資質・能力を育むために重視すべき指導等の改善充実について

○ 資料5の幼児教育における学びの過程のイメージ(たたき台)のところで、試行錯誤、予想、分析、その後、規則性の発見といった流れは重要であるが、規則性・法則性からもう一度試行錯誤、何かに戻っていい、試してみたらいいという自由感が、主体性という部分の中の非常に根幹の部分だと思う。これがベースになって小学校は続くという、何かサイクル的なものの表現が欲しい。小学校は、何かがあったら、それがゴールになった時点で終わってしまうので、そうではなく、そのゴールは次の始点になるというイメージを小学校に出し続けてほしい。

○ 指導方法の改善のアクティブ・ラーニングについて、一体子供たちがどういう体験をして何をその中で学び合っているのかといったときに、教育者としての視点がとても大事になってくるのではないか。また、5領域の総合性と指導計画の関係は、「今日はどの領域でやりますか」ということではなく、年齢によっても、教師のそのときの思いによっても違ってきたとき「今日はこういう着眼点でやろう」という部分を「ねらい」という言葉で言ってきた。しかし、その辺のところが明確ではなく、先生方の経験と力量に依存してしまってきた部分があり、そこが今回の大きな課題。可視化することが大事。
もう一つ大事なのは、教育者が配慮して応答性がある指導をすることである。子供が見ていたからといって、自分の気持ちに気付いて言語で話せるかどうか。言語化してくれる大人が必要である。そこに幼稚園の集団保育の良さというものがあったのではないかと思うので、その辺を指導計画に関連して書いておくとよいのではないか。

○ 幼児期においては、まねて学ぶことは基本であり、まねて学ぶことがなくして学びはない。深い学びを追求する余り、浅い学びを軽視しないということを大事にするべきではないか。

○ 「個別の知識・技能」をスタートとして、学びの過程が一方向に流れるというのは基本的に幼稚園児ではあり得ない。一方向だと、全てが収まるような形のイメージになってしまうのではないか。情意面の「感じる」というようなことが、幼児教育の中に位置付くような三つの円でベン図のような形にした方が良いのではないか。

○ 対話的な学びについても最終的には自己との折り合いとか、向かい合いとか、葛藤とか、個人内では起こることである。集団で何かしらお互いができないとだめだということではなく、個人の学びを中心として充実するようにしてほしい。

○ 主体的な学びの構造の中で、安心感、安定、探究心が学びの前提条件としてある。しかし、最終的には振り返りとか見通しということとなると、幼児期に高度なことを求めているようになる。幼児期は、体験を基にして、子供たちが学んでいる姿を見えることが大切で、その姿を評価する方向で良いのではないか。

○ 幼児教育の場合には、一直線に行くものではなく、行ったり戻ったり、いろいろなことが起こるといったことのイメージ化ができることが必要ではないか。また、三つの学びが横並びではなく、幼児教育ならではの図の見せ方というのが必要なのではないか。特に深い学びと考えたときに、幼児教育の一つの独自な面として、多くの失敗ができて、その中で、新たなやり直しができ、そのことが自己肯定感につながったり、新たな思考を生んだり、また気付きになったり、感情をコントロールできることにつながっていく。幼児期は、いろいろな学びがあるような形にできると良い。

○ 幼児期の学びの過程については、行きつ戻りつが重要なのではないか。ここで取り上げている一つの活動の前後全てが、幼児期ならではの試行錯誤の一つの出来上がっていく過程であり、面白さだと思うので、遊びを選ぶというより、作っていく、生み出していく、生まれていくという感覚のところが出ていると良いのではないか。
また、深い学びの過程のところだけでなく、気付きとか発見というのは、どの過程にもあるのではないか。何か底に流れる気付きがあって、気付きつつ試行錯誤していくというのをここの図のところで挙げると分かりやすいのではないか。

○ 振り返り、見通しは大体5歳半ぐらいにならないと身に付かないので、年齢軸を入れると良いのではないか。

○ 5領域と学びの過程がどうつながっていくかという説明が必要ではないか。また、学びの過程では、イメージ図の中に循環が入ってくる必要があるのではないか。

○ 主体的な学び、対話的な学び、深い学びの過程について、一番大事なのは主体的な学びではないか。この主体的な学びを保障するものとして、教師が意図する環境構成があると良いのではないか。また、「教師の幼児の活動に応じた援助」というと、直接的な援助のイメージがあることから、興味や関心、活動が広がるような環境を構成するというニュアンスの言葉があると良いのではないか。

○ 自分なりの意義であるとか、それから価値を感じるということが深い学びにつながっていくのではないか。その中で新しく気付いたり、発見したりということになっていくと思うが、それがものの見方であるとか、考え方につながるのではないか。そのときに、教師が価値付けるとか、そのような教師の姿を見せるといった教師の関わりとしての人的環境というものが重要ではないか。事例のところでも、人的環境としての教師の接し方についても具体的に書いていただくと分かりやすいのではないか。

○ この学びの過程のイメージを見ると、教師が答えを早く出し過ぎるというところも感じる。幼児期は、失敗から学び、なぜそうなったのかということを自発的、自主的に学習する機会が、もっと増えた方が良いのではないか。子供たちが成長した後を考えて、あまりブレーキを掛けないような教育が重要ではないか。

○ 子供が教師の「ねらい」から外れてくることもあるが、その中でこそ面白い体験をしていると感じられるのが幼稚園の先生なので、ここを何とか表現できるイメージ図にしてほしい。あまり先生の意図に収束するという方向に持たなくても良いのではないか。

○ 事例において、生活科とはどのように異なるのか。生活科等において整理された学びと、ここに書いている深い学びの過程や対話的な学びの過程というものと、どう関連していくのかといった整理をしておかないと、現場の先生たちが実際に子供たちと向き合ったときに混乱をしていくのではないか。

○ 生活科でも知識の項目を増やすのではなく、子供の気付きをもっと広げるとか、深くなるとか、もっと粘り強くやるとか、もっと広い範囲での協同ができるようにした方が良いのではないか。

○ 小学校以上の先生たちがこの事例を見たとき、幼児期の深い学びは数量が出てこなくてはいけないとか、小さい子の世話をすることなのかというような取り方をされてしまうのではないか心配である。学びの過程についても、一番下に書かれている「教師の幼児の活動に応じた援助」という言葉は、活動させるための援助と受け止められてしまうことはないだろうか。それよりも、幼児理解に基づく援助とか、もう少し子供に寄り添うような言葉が出てくると良いのではないか。

○ 幼小連携という言葉が全面的に出ることによって、幼稚園で小学校の教育内容を前倒しするのではなく、小学校の学びにつながるような、遊びや体験、経験というのを大切にしていくことが重要である。

○ 幼児期は、教師の持っている枠の中で子供たちがさせられるのではなく、思う存分世界に関わりながら、法則に気付いたり、感動したり、美しさを感じたりして、本当に豊かな経験をするのではないか。豊かな経験とは、いろいろなことを感じたり、それを不思議だと思ったり、もう1回やってみたり、繰り返しやってみたりする中で、学びが深まっていくこと。それが認められているのが、幼児教育であり、幼児教育の特性であるが、今の子供たちはこのような豊かな生活が認められていない。そういう子供の育ちの中で日本の子供たちが育つということはどういうことなのか、という視点で幼稚園教育要領が語られていくことが大事なのではないか。

○ ここに示されている学びの過程という中で、5歳のこの時期になってくると、生活科と非常にオーバーラップしてくるところがあり、その辺りをどのように、総則の教育課程の編成という中に書き込めるかというのが課題ではないか。また、教育課程の編成に、もう少し長いスパンで見ていくことの大事さというものを入れていかなくてはいけないのではないか。現行の幼稚園教育要領の中では、「心動かされる体験が次の活動を生み出すことを考慮し、一つ一つの体験が相互に結び付き、幼稚園生活が充実するようにすること」という記述があり、アクティブ・ラーニングにつながる内容が書かれている。これは満3歳から小学校就学前までの時期全体を見通しているが、それを教育課程という入園から修了までの中でどのように子供たちの学びの過程が広がり豊かになっていくかということを書き込むことが課題ではないか。

○ 挙げられている事例の活動の本当の良さというのは、いろんな要素を持っていることを先生も自覚して、それをやっていくうちに、それぞれの子供の持っている興味・関心というものが、一方に偏っているならこの要素を入れなければいけないというような形で保育していることであるので、そこを表現してほしい。

○ 個にポイントを当てた子供の学びとは、順序性もなかったり、いろんなことが起こったりすることがあり得る。先生が初めに正解を教えるようなこと、正解を持っているということ自体がおかしいことである。このため、十人十通りの学びのプロセスがあるという前提で子供たちと関わっていかないと、個の学びも充実しない。この個別の支援が教員の役割であることをもっと主張していくべきではないか。また、小学校の先生の意向に合わせるのではなく、幼稚園の先生から小学校に伝わっていくというのが大事なのではないか。

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