資料1 教育課程部会幼児教育部会におけるこれまでの主な意見(未定稿)


教育課程部会幼児教育部会におけるこれまでの主な意見(未定稿)



1.幼稚園教育要領等全体及び総則の構造の在り方について

○ 小学校の総則に関しても、資質・能力の教科間の関係とか、カリキュラム・マネジメントとか、アクティブ・ラーニングの三つの視点からの指導方法等について検討がなされている。小学校との接続を考えると、それぞれの学校段階の特質はあるとは思うが、これらの視点をどのように幼稚園教育要領の総則の中に盛り込んでいくかという観点で検討することが重要ではないか。

○ 幼児期は、知っていくこととか、学んでいくことの本当の楽しさを経験するということが大事。そのためには、ただ楽しければよいということではなく、例えば、本当に知ったことをまた作り直していったりとか、もっと深めていったりとか、何か憧れがあって、工夫していったりとか、幼児教育の学びの本質的な部分を、総則に書き加えながら、第2の教育課程の編成にも、それを深めていくといった全体構造の見直しが必要ではないか。

○ 領域が小学校以上の教科と単純に1対1とか、単純につながりを意識させてしまうことがないようにしなければならない。単なる教科の内容の前倒し的な指導ではないということを、これまで以上に総則の方で表現する必要があるのではないか。

○ 資料3を見ると、例えば、小学校の場合、小学校の教育課程全体を通じて育成する資質・能力とか、アクティブ・ラーニング、カリキュラム・マネジメントという言葉が出ているので、幼児教育にも同じ項目があると、小・中学校の先生たちが見たときに良く分かるのではないか。

○ 今の幼稚園教育要領の中にも、総則のところに接続は書かれており、環境を通して行う教育もずっと書かれている。こういったことをしっかり見えるような形でしていくのが良いのではないか。


2 .幼児期において育みたい資質・能力について
(資質・能力全般)

○ 就学のときに身に付けてほしいものとして、規則的な生活習慣ではないか。就学前に身に付けてほしいことというのは、逆に、ある意味育成すべき資質・能力ということではないかと思う。「論点整理」に示された育成すべき資質・能力という基本的な考え方を踏まえた上で、その観点から接続を考えていくということが今回すごく重要ではないか。

○ 「論点整理」に示された育成すべき資質・能力の基本的な考え方である三つの資質・能力を幼児期の教育と小学校教育への接続期に確実に引き継ぐということが非常に大事ではないか。その際、幼児期の教育における遊びを通した総合的な指導の良さと小学校教育の各教科を中心とした学習の良さを尊重するということも併せて大事になってくるのではないか。

○ 自己を発揮しながら人や社会、自然などと関わって学ぶことにより、新たな価値を見いだすとか、もっと知りたいとか、できるようになりたいとか、そういった情意や態度に関わってくるものではないか。そういった教育を取り入れている幼児期の教育の良さを明確に幼稚園教育要領の中で示していく必要があるのではないか。併せて、小学校の各教科にもそのところをつなぐ、小学校学習指導要領にもつなぐということがとても大事な観点だと思う。

○ 幼稚園、保育所、認定こども園において、子供たちが置かれている状況が結構危機的だと思う。それは預かる施設なのか、子供を育てる施設なのかというところが曖昧になっている。子供を育てるというと、何かさせればよいのかとか、先生とか保育者の言うことを聞けばよいとかという話になりやすい。そもそも子供が大事にされたりとか自分が大事にされるということが乳幼児期に認められることで、それがあるから自己肯定感が育っていったり、人を思いやったりということが育つのである。人との関わりの中で問題解決をしたり、人を思いやったり他者を受け入れたりとかいろいろなことができてくる。

○ 「多様な動きをつくる運動(遊び)」ということが小学校学習指導要領の体育に新たに入ったが、やはり当たり前のことができない。転ぶと、手が出る前に顔を打ってしまって歯を折ってしまうという子供が大変多い。これは小さなときに転んでいる経験自体が少ないからではないか。体力を高めようとか、更には技能を身に付けようと言っても、その前の段階がないといけない。やはり幼児期から様々な遊びをしていくということがいかに重要かということを感じている。特に、幼児期でないと身に付かない、この時期だからこそ伸びる、いわゆる神経系もあるし、看過できない部分ではないか。幼児期で実験的に介入していくと、確実に小学校以降も体力が高い。追跡調査により、体力が高いとか、地域の運動などに参加する割合が非常に高いとか、幼児期に耕しておくということがその後に非常に長く影響してくるということもある。

○ 体力、運動能力、健康保持に関連して、非常に注目される点は、子供の意欲的な心が育まれるということである。体を使ってたくさん遊んでいる子たちには、積極性、協調性、コミュニケーション能力が身に付いている。たくさん遊んでいる子ほど多くの子と遊んでいるので、トラブルもいっぱい乗り越えているし、協調性というところに非常に関わっている。
認知的能力にも関連する。少し体を動かすだけでもいろいろな脳を使うということがかなり数値的にも出ていた。体を動かして遊んでいくということが、「健康」という領域のみに関わるように見えるが、実際には、「健康」、「人間関係」、「環境」、「言葉」、「表現」と全ての領域に関わっている。総合的に子供を育む上で非常に重要ではないか。

○ 資質・能力の要素を幼児期の段階でどう考えていくかということをしっかり議論していくことが必要ではないか。「何を知っているか、何ができるか」という個別の知識・技能、「知っていること・できることをどう使うか」という思考力・判断力・表現力等、「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか」という学びに向かう力、人間性等を幼児期から積み重ねていくためには、こういった資質・能力の三つの柱を支点に、幼児期の教育の在り方を議論していくことが必要である。「論点整理」に「発達に応じて、これら三つをそれぞれバランスよくふくらませながら、子供たちが大きく成長していけるように」とあるように、この発達に応じてということと、三つの資質・能力をそれぞれにバランス良く膨らませていくということを幼児期の段階でどう考えていくのか、幼児期の教育の中でどう考えていくのかということを議論することが大事ではないか。

○ 子供の表現やその中で発揮されている豊かな表現能力を見取り、そのような子供に既に備わっている力や芽生えつつある能力が、人とのコミュニケーションや環境との関わり合いを支え深めたり、音楽など文化としての表現の基盤となったりしているという意識が、人間形成としての表現教育への意識改革にとって不可欠だと考える。
そういった、遊びを通した学びや子供の総合的な経験の中で育まれていることが、小学校以上での学びへつながって行く重要な基盤であるという視点を、保育者はもちろん、保護者や小学校以上の教員に対するメッセージとしても、教育要領に書き込むことが必要であると考えている。例えば音楽においても、音楽文化の学びへつながる道筋を明示していくことが、発表会などの場で体裁の整った成果を性急に追い求めることや、そのために必要な技能を身に付けさせるための偏った指導から、子供の表現を軸に置いた保育の在り方へと転換させる方向性を示すことになるのではないか。

○ 資質・能力の三つの柱でまとめていくとともに、幼・小・中・高の教育を縦のつながりの見通しを持って系統的に組織していくことが非常に大事ではないか。
小学校の学びにつながっていることが分かるようにするために、幼児期に育みたい資質や能力は、育成すべき資質・能力の三つの柱との対応が分かるようにしていくことが大事。具体的には、今ある5領域の内容についても、ある程度資質・能力の三つの柱に沿った形で整理していく必要があるのではないか。

○ 幼稚園において、知識を獲得するために試行錯誤をするとか、物の性質を活用した遊びは面白いとか、数を数えると友達と競えるとか、文字があると自分の思いが皆に伝わったというような、豊かな経験を積み重ねていき、便利だとか、よいなというのを生活の中で必要性を感じさせることがとても大事である。これこそが小学校以上の分かる、できるにつながり、義務教育以降の学びに円滑に接続できるのではないか。幼児教育は、生活や社会との関わりを通して、これから生きていくための知恵を付ける、何かそういうイメージではないか。思考力は、「考える」とか、「感じる」とか、「気付く」とか、あるいは、判断力であれば、「関係付ける」とか、表現力では、「伝える」とか、「対話する」とか、そういう文言があると分かりやすくなるのではないか。

○ 幼児期の総合的で主体的な遊びから学ぶという本質を表すためにどうするのかという表現上の工夫が必要ではないか。小学校以降と同じような文言をもってそれを貫く力を育てるということを出していけるとよい。子供は一体的にこの資質・能力の三つのそれぞれの力が関連しながら育っていく。それが幼児期の総合的で主体的な遊びから学ぶということではないか。そういったことを表現し、一体的でその境目が曖昧で、でも、確かに育っていく、小学校以降につながっているということを表してほしい。

○ 基礎ということを、知識とか技能、思考力・判断力・表現力等の中身の基本的な部分と捉えるか、それを獲得していく過程のファーストステップとして捉えるか、どう捉えるかで見え方が違ってくるのではないか。プロセスの最初のところを基礎と捉えると、子供の知識や技能、思考力などの習得は分かりやすいと思う。例えば、「知る」であれば、「気付く」とか、「感じる」という、まず「心が動く」ということがあると思う。そう考えると、子供が世界に関わりを広げていく、開いていくということが、知識とか技能の基礎の最初としてあるように思う。また子供は、興味を持つ、関心を持つなど、心を知ることに開いていくと、関心を持ったものには、そのまま眺めているだけではなく、手で触ってみたくなる。それは子供にとっての考えるということであり、頭の中で考えることだけではなく、身体性を伴っていくことである。その辺りの、子供が思考というものを獲得していくファーストステップを見ていくと、幼児教育ならではの三つの柱が見えてくる。

○ 5歳のときにできていることが小学校で消えているということがあるのではないか。単純に積み上がるものではない。そうすると、単純に積み上がらない骨格の部分はどういうふうに育っているのかということをどう表現することがよいのか。体験を通してとか、遊びを通してという言葉をずっと使っていたわけであるが、その意味は何なのかというと、子供がいろいろなものを習得していく時間の流れのようなものが、ネットワークの中の中核に位置付くための重要な要素であると感じている。

○ 幼児教育の場合、発達の段階ということが非常に強調されて、現行の幼稚園教育要領でもそのようになっているため、幼児期の特性が明確に出ていかないと勘違いされる。「感じて、知ったり、気付いたり」という、先生方にとって納得がいく、幼児期特有の活動がイメージできるような言葉に置き換えるとか、定義をしっかりと落とし込んでいくことが必要ではないか。また、領域が三つの資質や能力とどうつながっているのかということ、今やっていることが資質や能力につながっているということが明確になると、先生たちがこれを頑張れば、ここは特にというのが少し見えるようなになり、つながりが見えてくるのではないか。

○ 何を知っているか、何ができるかということより、幼児期は、何がやりたくて何を知りたくて何ができるようになりたいかということが大事ではないか。環境の豊かさとかが出てくると、できたという実感が起こり、自己肯定感とか、学びに向かう力が出て、結果としていろいろなことができてくる。子供たちが感じているとか、やりたいと思っていることが、知識や技能の基礎になっていったり、思考力・判断力・表現力みたいになっていったりというプロセスという部分をどう表現していくか。例えば、基礎の基本であるというところの出し方がもう少し丁寧さが必要ではないか。

○ 資質・能力の三つの個別の知識、技能の基礎、思考力・判断力・表現力等の基礎、学びに向かう力、人間性等について、小学校以上とのつながりを踏まえ、幼稚園教育において整理しておくことは大事。ただ、これをどのように幼稚園教育の中で位置付けるかということに関しては、幼児教育の特性とか、方法、内容の独自性を踏まえて位置付けることが必要。どれだけ丁寧に基礎とは何かということを説明し得るかということが大事で、ステップとして捉えるのか、内容として捉えるのかはかなり難しい。この知識・技能の基礎と、思考力・判断力・表現力等の基礎というものは、かなり融合しているので、そこをどのように捉えていくかが重要である。幼稚園教育の内容にせよ、方法にせよ、かなり重要な部分は複数の領域やそれに関わる資質・能力を総合的に指導するということであって、それは基本的に子供の発達特性にも応じており、実態としても遊びを中心として指導するときに、切り分けられないところがある。その切り分けられないものをいかに切り分けて記述するかというのが、今、課されているミッションではないか。

○ 3歳、4歳の子供をイメージするときに、なかなかこの三つの柱はイメージがそぐわないという思いがある。3歳台、4歳台の子供にとっての個別の知識や技能とはどのようなものかと思う。小学校へのつながり等を考えたときに、同じ幼稚園でも、入りたての子供ともうすぐ小学校を迎える子供では随分と育ちが違うことから、一律に3年間、この三つの柱をそのまま持ってくることはそぐわない。せいぜい発達的に見たときにフィットしてくるのは5歳台ではないか。もし、幼稚園に三つの柱を持ち込むとしたら、表現を工夫しないと、勘違いする部分が出てくるのではないか。

○ 三つの柱は、小学校において三つの柱を個別に指導しようと言っていることではなく、具体的な授業場面では、三つの柱が総合化され、あるいは、つながって具体的な学習活動になる。そういう意味で、幼稚園教育がより総合的なのだということをどう表しながら、その中で、子供の育つものとしての三つの柱を徐々に整理していくことが必要ではないか。
また、3歳、4歳、5歳、それから、満3歳児まで流れで捉える必要があって、例えば、考えるということも、より感覚的、身体的な関わりの中で考える部分と、言葉を使いながら目的・思考的に考える部分の大きな流れの変化がある。別の言い方をすれば、学びの芽生えから自覚的な学びへの変化ということであり、幼児期は全部自覚する前だと言っているのではなく、そちらに向かっていくという表し方が必要ではないか。

○ 三つの柱で、幼児期に一番重要なところは何かということであるが、個別の知識、技能の部分で言えば、ここで一番大事なことは個別性だと思う。そういう個別的な関わりというのが基本的な出発点であり、幼稚園教育要領には、これに類した言い方はいろいろあって、物事の在り方に気付くとか、いろいろなことに積極的に関わるとか、それに応じていろいろなことをするとか、行うとか、そういう部分が該当する。
幼児教育の中で、思考力が一番よく出てくるのは、何かしたいと思って工夫するところではないか。子供たちがいろいろなものを動かしたり、作ったりする中で工夫するところとか、あるいは自分たちの工夫をいろいろな形で言い表すところなどに思考力・判断力・表現力等が出てくるので、その当たりを中心に考える。これも教育要領に既に幾つか書き表されている。
それから、学びに向かう力、人間性等の部分であるが、これは別な言い方をすれば情意面だと思う。情意面は、感情豊かに感じるというところから、自己調整できるようになっていくという流れである。これも表現が少し違うが、幼稚園教育要領に入っている。さらに、情意の意で言えば、意思の部分、最後まで粘り強く取り組むとか、難しいことに挑戦していくとか、そういうことになる。そういう意味で、従来言われているような、関心、意欲、態度とか興味とか、これら全般を見通して言えば、こういう柱になっていく。
既に5領域の個別の項目を見ると、結構近いものがあるので、それをそのままの形で、別な形で柱を見せるのか、5領域の中身も整理しながら部分を明確にするか、小学校以上と同じ表現である必要は全くないので、それを受けながら改めて幼児教育の在り方を整理していきたい。

○ 個別の知識や技能の基礎、思考力、判断力、表現力等の基礎、学びに向かう力、人間性等というこの三本柱がいかに関連するかということと、この三つの柱、それぞれどのように捉えるかということが非常に重要になってくる。
幼児期の知識の在り方というのはどういうものかということを一つ、ここで押さえて、個別の知識や技能は、個別の対象とのふさわしい関わり方というのを子供が身に付けていくということなのだということとして捉えられるのではないか。
思考力、判断力、あるいは学びに向かう力というものを捉えるときに、やはり保育の中で展開する、子供が行う活動の過程の質というところを捉える視点として、ここが重要なのだというところが一つ、大切ではないか。

○ 知識や技能が身に付くとしても、それがやらされて身に付くとか、それを身に付ける意味ということを子供が理解しないまま、大人が与えてしまうということでは、恐らくそれは幼児期の学びではないのではないか。思考力、判断力、表現力等も、子供が自分なりに考えて工夫するというプロセスにおいて、そこにあるのかということをしっかり見なくてはいけないのではないか。思考力、判断力、表現力等の基礎や学びに向かう力、人間性等が欠けた形で個別の知識や技能の基礎ということが成り立つということはなく、この三つが関連しているということをしっかり押さえるべきではないか。

○ どこに入るのか難しい部分はあるかと思うが、この学びに向かう力、人間性等というところの下のハの協同性のあたりに、幼稚園のときに、例えば滑り台の順番を待つとか、順番が来たら譲り合うようなところがあってしかるべきではないか。協調性というか、時間が来たら譲るとか、そんな人間性みたいなところが、この学びに向かう力とか人間性あたりで培えられないか。

○ 物と関わる、人と関わる中で、この赤字で書かれているのは、感じるとか、そういう感性とか感覚といったものだとか、試す中で自分の体の感覚を養う、磨いていくというようなことが行われていくと思うのだが、磨いていく上で重要になる、関わりの質を高めていくということは、環境や人と関わる中で、高められていくと思う。基礎というよりもさらにベースとなる土台として、そういう関わりの質をいかに高めていくかというようなところの視点も入れていただけるとよいのではないか。

○ どこに入れるかというところはあるが、「自然への畏敬の念」、「好きな遊びをする中で自己決定をする」、「自分で遊びを見付ける力」、「好きな遊びをするということの中で子供がちゃんと遊びを見付ける」、「自分で見付けられる」というようなこと、それを力と言ってしまうと、誤解があったらいけないが、「意思決定ができる力を育んでいく」というようなことを入れていく。思考力に入れた方がよいのか、学びに向かう力の方に入れたらよいのかというのは、まだはっきりしていない。

○ 学級運営、クラス運営としての幼稚園の集団を考えたときに、「友達との関係力の育ち」とか、「社会に適応できる力」をある程度書いておく方が、担任の先生がクラスを運営していくときにも分かりやすいのではないか。

○ 幼児教育は本当に人が生きていく上での根本と感じており、その中で、学びに向かう力を強調していけないか。
自発的というすばらしい言葉が幼稚園教育要領にあって、これは小学校、中学校と上がっていくと、どうしても自主的、主体的というような、目的があってという方向に変わっていくような気がしており、ここをぜひ強調できないかと思っている。
例えば、好きなものを見付けて、それに浸っていくとか夢中になっていくとか、そういうことがまずあって、気付きとか工夫が生まれていく学び。これができるのはやはり幼児教育ではないか。小学校以降、試行錯誤がなかなか難しくなっていく。そういう中で、学びの原点が意欲というところに非常にあるのではないか。

○ 全国体力・運動能力、運動習慣等調査において、小学校5年生で運動への関心が低いという子たちは、幼児期のときに楽しい、夢中になったという経験が非常に少ないということがデータでも出ている。どちらかというと、技能よりも、好きということがその後のスポーツや生涯学習を考えたときに非常に影響しているということが見えてきている。そういうことからも、もしかすると具体的な姿で言うべきなのかもしれないが、この意欲を具体的に強調できないかと感じている。

○ 全体的には修正していただいたのでよいと思うが、教育基本法に、幼児期の教育は生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものとの規定があり、学校教育法の中では、幼稚園は義務教育及びその後の教育の基礎を培うと規定されている。メタ認知的な考え方であるとか非認知的な能力の育成とかを重要視すれば、幼児期にたどり着いたという流れから見れば、幼児期の遊びを通しての学びというものが、実はこれからの高度成熟社会の中で求められている学力のベースが幼児期に引き継がれているのだというようなこと、それは遊びを通して、または生活を通しての、幼児期のその中で培われているものが、そちらにも結び付いているのだというようなことを総則かどこかに、もう少し明確に書けないか。

○ 小学校との接続を考えると、5歳の育ちの姿が、どういう道順であろうと、その工夫ができれば小学校の基礎になるという論理におさまってしまうリスクがあるわけではあるが、生涯にわたる学びの基礎として幼児期に何があって、それは遊びを通してという道順の中で、一人一人の道順の中でそれが培われるんだという論理構成に持っていければ、余り5歳の育ちの姿にこだわらなくても、全体の生涯の培い、または、その基礎が、いわゆる人格形成だけでなく、学びの基礎というものが幼児期の中の遊びの中にあるんだという表現を、総則の中に入れてほしいということである。

○ 三つの柱のバランスが、非常によく表されている。この三つの柱の調和というのは大切で、特に学びに向かう力と人間性を土台として個別の知識や技能と思考力、判断力、表現力が成り立っていくというような関係性を捉える手掛かりとなり、非常によいのではないかと思っている。
もう一つは、土台としているものが5領域であり、幼稚園修了間際の姿として、幼児期の終わりに育ってほしい姿、こういった構図にイメージとして表れているのだと感じている。ただ、関係性が分かりづらい。5領域とこの三つの柱の関係性をどこかで明らかにしていく必要あるのではないか。

○ 学びと遊び、これは小学校側から見ても、遊びと書いてしまうと誤解が生じることになる。今回の幼稚園教育要領や学習指導要領は他校種の先生が見ても、あるいは地域の人や一般の人が見ても分かるような形にすべきということを踏まえると、遊びにはどのような価値があるものかをどこかに示していく必要があるのではないか。

○ 小学校体育の運動遊びとか跳び箱遊びとか、単元に遊びという言葉が使われているが、やはり小学校側が遊びに含まれた価値を理解せずに、従来どおりの教科指導になるという課題も出るのではないか。

○ 子供たちが自発的に価値を見出しながら経験的に学ぶものが遊びであって、小学校の各教科の学習は、指導する側が価値を見出している。しかし、子供たちが自発的に見付けたように環境を整えて学習を進めていくということが小学校でも大事にしたい。スタートカリキュラムにつなげる意味でも、遊びの価値を再認識するような言葉があるとよい。

○ 小学校から大学まで、教科の勉強はしっかりやってきたと思われるが、幼児期にどういう経験をしてきたのかと思わせるような親が結構いる。幼稚園で育んだ力は、実はリプロダクトのところで見えてくると思っているので、幼稚園の教育がその後の次の世代を育む、その土台になっているということを指摘したい。三つの力をまず包括するものとして、環境というものがこの中にあってほしい。やはり、小学校以上の教科につながっていくような、見えない線を感じてしまう。

○ 学校行事である、運動会、学習発表会、遠足などで、みんなで話し合ったりしたときにこそ、幼児期にこういった豊かな体験をした子供の力が発揮されると思っている。幼児期に育んだこの三つの資質・能力を小学校以上の教科のみに収束させるのではなく、日本の教育で非常に大事な意義をもつ学校行事にも表れてくるという意識も持つ必要があるのではないか。

○ 自分の身近なものとか人とか社会とか文化に出会って、そこに面白さを感じて、世界を広げていったり、人との関わりを広げていったりする環境が大事である。また、学んでいくということに関して言えば、自分の周辺で起こった様々な出来事を取り入れていきながら、自分づくりがおこって、人との関係も育てていくようなイメージがあってよいのではないか。

○ 子供たちが育っていくというのは、本当に身近なところに豊かな環境があったり、物だったり人だったりとか、保育者も含めて、文化だったり社会があって、そこに対して子供たちが世界を広げていくような面白さがある。広げていったりとか、葛藤したりするけれども、そこで自分ができたとか、行えたということが自己肯定感につながっていく。このように子供が育っていくという押さえ方をするというのは、構造化のイメージには大事ではないか。

(主に個別の知識・技能の基礎)
○ 幼児教育においては、これまでの心情・意欲・態度などということを重視しながら、遊びを通しての総合的な指導により子供たちの発達を見るという視点から、資質・能力の三つの柱を見たときに、遊び込む子供たちの姿の中に目的を持って最後まで頑張るとか、友達と協力しながら、協調しながら目的を実現していくことが、学びに向かう力につながっていくということはよく理解できるし、現場の先生方にも理解してもらえるのではないか。
少し気になるのは、個別の知識や技能である。私は、何を知っているか、何ができるかという視点で子供たちの資質や能力を見ていくという、この文章がとても大事ではないかと思っている。幼児期の場合、特にこの個別の知識や技能といったときに、個別の知識や技能を獲得していくものであるが、その過程で、何ができるかというよりは、何を知ったり、何に気付いたりしているのかという視点で子供たちの遊びを見ていくことが大事ではないか。

○ 個別の知識や技能とは結局何を指すのか、また、基礎という言葉が何を指し示すかというイメージがとても大事。小学校以降の知識とか基礎という概念を変えていくことが、今回の大きな主題ではないか。小学校以降において、知識や技能ということが何を指すのか、少なくともその暗記的で要素的なものではないという方向に向かい、基礎というものが何かばらばらな要素を詰め込んでいて、それが先に応用されるのだという概念を変えていくために、幼児教育部会の議論は大事。

○ 幼児が音声の響きやリズムなどに気付く。生活に必要な言葉を分かったり、使ったりする。生活の中で様々な色や形に気付く。まさにその生活の文脈、子供の自発的な活動の中で、結果的にそういったものが形成されるということではないか。それが小学校以降の生活や学習の基礎になっている。つまり、遊び込む中でおのずと子供の側に形成されていったような意味での知識・理解であり、そのような質の知識や技能が基礎になるのだということではないか。それとは別に、子供に文脈もないのに教師側が要素的に教え込んでいくような、小学校の前倒しをするようなものではないのだということがここにも伝えられていると思う。そういった日々の活動が、小学校以降の生活や学習の基礎につながっていることを幼稚園の先生方に再認識してほしい。つまり、幼稚園の先生方が既にやれていることを自身が自覚しているか。あるいは、それを意図的に取り組んでいるか。意図的にということは、それを切り離して教えるということではなくて、子供の自発的な活動とか遊び込む活動の中で、子供たちの学びが深まるような意図的な関わりや環境整備や支援ということである。それは可能で、そこをより精緻にしていくことをここで求めている。そういう意味で個別の知識や技能という位置付けがここにあるのではないか。

○ 少なくとも既にできているような知識・技能は、文脈的で関係的な知識や技能ではないか。脱文脈的で要素的なものではなくて、そういった知識を子供が獲得していったプロセスを子供が自覚的に理解して、知識というのはそういう中で生まれてくるということを知ることが大事。これは、少し思考力や判断力になるかもしれないが、自分たちが望む活動をし、その中でより良いものを求めて工夫していく中で気付いたり、分かったりできることが増えるのだということをメタ認知的に自覚することが、まさに小学校以降の学びの基礎になっていく。つまり、それによって個別の知識や技能が何を指し示すか。基礎というものがどういう意味においてであるか。それを既に達成されている幼児教育の質の高い実践を、計画的に意図的に進めていくことが可能になるようにどうするか、ということが大事。それは思考力・判断力・表現力のイメージもそうで、どうしても私たちは思考・判断・表現、これは認知的な、もう一つの学びに向かう力や人間性がノン・コグニティブ、非認知的な方をイメージするのだとすれば、思考力・判断力・表現力というのは、認知的な意味での汎用技能、ジェネリックスキルを想定しているが、そういったときに私たちは思考力・判断力ということを考えると、学校教育文化的には極めて近代科学的な、こういうことをしようということを鋭角的に目的として定めて、それに向かって合理的な計画を立てて、それを実行して評価する。その中で使われる、どちらかというと分析的な思考力や判断力を考えがちだが、そういうものを幼稚園教育で育むとなると、自由度も減ってくる。子供の遊びの中で、創発的、偶発的、あるいは対話の中で協同的に起きるようなものをもっとイメージしてよいのではないか。それが小学校以降の基礎になる。

○ 知識や技能ということで、認知的なところに流れているような気がしてならない。できれば、気付きよりも感じるとか、感じ取るという面をベースにおいて、その上で感じて気付くことがないと、これだけが一人歩きして先生方に気付かせるという形の教育にならざるを得ない。感じ取る、感じるという感覚面を体験的に学んでいくことを重要視できるような文言が必要ではないか、また、基礎という言葉はどこまでが基礎なのかということを考えていきたい。

○ 幼稚園教育要領が、この資質・能力の三つの柱とどう結び付いているのか改めて見たときに、どこか一つに結び付くところもあれば、この三つのうちの二つに関わっているものもある。幼児教育の特性に配慮すると、括弧の中に書く言葉として、「気付く」、「感じる」、「興味や関心を持つ」など、現行の幼稚園教育要領第2章の5領域にある言葉、子供たちの姿を表す言葉で書くと、現場の幼稚園の先生方に分かりやすく通じるのではないか。知識や技能の基礎については、具体的な子供たちの姿があると、もう少し実際に先生たちの教育要領の理解や実践につながるのではないか。

○ 個別の知識や技能と資料に書かれているが、技能という小学校以上と同じ表現としてしまうと誤解や問題があるのではないか。幼稚園教育は、子供を全体として見るところが大切ではないか。総合的に指導するということであって、技能と書くならば、「生活技能」と書く方がよいのではないか。せめて遊びを通した知識にしておく方が、今の幼稚園教育としては、誤解を生まないのではないか。例えば、言葉を習得していくにしても、過程がある。小学校の就学を見通しつつ、幼稚園の3年間で、どういう言葉力を身に付けていくのかとかという共通理解が、カリキュラム・マネジメントの中で教育課程としては必要ではないか。幼稚園教育といっても3、4、5歳はそれぞれ全く意味が違ってくる。教育課程における発達的な要素も押さえてほしい。また、人間として人と折り合いを付けたり、友達と一緒に拮(きっ)抗しながらトラブルを解決し、友達とのきずなを作っていく満たされた体験は、小学校に行くまでに必要なことではないか。

○ 何か分かりやすい成果で幼児教育の成果が評価されてしまうことや、活動主義的な感じで何らかの活動を取り出していくことが強調されることになってしまわないかということを少し慎重に議論することが必要。
小学校以上につながっていくときに、一人一人に何が身に付いているかということも丁寧に見ていかなければいけない。ここでいう個別の知識や技能が、小学校の教科と対応するものだけではなく、もっと土台の部分も含むということを見ていくことと、個別とは言うけれども、幼児教育には、いろいろな活動の中で埋め込まれているので、先生が自覚的になって初めて個別として捉えられるものであるということも言っていく必要がある。

○ 資料2の個別の知識や技能の基礎は、単なる具体的に理解できるとか、逆上がりができるということではない。感性や表現の部分も関連するが、生涯にわたるということを考えながら、このことを説明していく必要があるのではないか。

(主に思考力・判断力・表現力等の基礎)
○ 思考力・判断力・表現力等の基礎の説明は、幼児の最初は、興味とか関心がまずベースにあって、知っていることとか、気付いていることを使って考えたり、試したり、表現したりというような表現がよいのではないか。

○ 現実には保育記録を見たり、実践を見たりすると、もっと子供はできている。概念的な理解とか、知識が活用されるという意味でも、もっと獲得している。例えば、数量に対する関心などというレベルではなく、数量に対するかなりの概念や技能が、4歳、5歳で獲得されている。
小学校以降でも、理科のような教科では、近代科学をモデルにした思考判断が実行され、そういったものが培われることが目指されている。例えば、図画工作科や音楽科などでは、典型は造形遊びだと思うが、創発的で偶発的な出来事の中で活動を展開し、より質的の高い造形や問題解決がなされていく。いろいろな哲学や議論の中でも、近代科学をモデルにしたような思考力と、そこにあるものを使って、何とか組み合わせて工夫して、その中で高い問題解決を成し遂げていくという創発的な、クリエイティブで拡散的な問題解決もあるわけで、そういった思考や判断も小学校以降でもいろいろな教科の中で培われていく。
小学校以降もそういった思考や判断をもっとイメージすべきだと思うが、幼稚園での思考・判断というのは、まさにそういうことが多い。やりながら偶発的、創発的に生まれていく中で、子供が工夫し、あるいは対話をし、その中で思考や判断が鍛えられていく。そういう質の思考・判断がとても多いと思う。思考・判断・表現といったときに、どんなものを無自覚のうちにイメージしているかということを問い直して、もっと豊かな、そして幼児教育の中で既に達成されている実際の質に寄り添う形で、それをより自覚化して意図的に取り組めるような形での描き方、示し方を工夫することが、今回求められている。

○ 幼児教育の特性というのは、他の学校種とは違うため、その特性を出すことが大事。幼稚園教育要領の幼稚園教育の基本である、幼児期にふさわしい生活の展開、遊びを通しての総合的な指導、幼児一人一人の特性に応じた保育というところは、例えば、「感じる」とか、「知る」とか、「気付く」とかというような土台の上に出てくるものである。資料2にある小学校の資質・能力の思考力・判断力・表現力等の下に、教科等の本質に根ざした見方や考え方等とあるが、幼稚園教育要領総則第1章の第1の幼稚園教育の基本の内容の趣旨を入れると、幼児期の特性が表れるのではないか。

○ 現場では、環境を用意しなければ、幼児の自発的な遊びできないということがある。幼児一人一人の様子を見て、行動の理解と予想に基づいた環境を用意するということで、初めて本質的な学びができる遊びになると思う。
幼児期の特性を踏まえた、環境を通しての教育ということを、小学校で言えば、思考、判断力、表現力の教科等の本質に根差した見方や考え方のところと同列の括弧書きの上の当たりに入れていただくと、小学校の生活であるとか遊びであるとかというものの違いも少し分かるのではない。

○ 思考力、判断力、表現力等の基礎の赤字の表現のところで、「気付いたこと、できるようになったことなどを使って」とあるが、これだと、できること、気付くことが先にあって、それを用いて子供が考えるという発想と思われ、幼児期は、できるようになったり気付いたりするそのプロセスの中で、個別の知識や技能を獲得していくこともある。そのような学びの特性をしっかり押さえるべきではないか。

(主に学びに向かう力、人間性等)
○ 学びに向かう力、人間性等は、小学校以上の注釈を見ると、どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るかとあり、幼児期は人生が始まったばかりであり、幼児教育は環境を通しての指導がベースにあることから、「どのように環境と関わって、より充実した生活を送るか」という表現の方が適しているのではないか。

○ 現行幼稚園教育要領の第2章に、「この章に示すねらいは、幼稚園修了までに育つことが期待される生きる力の基礎となる心情、意欲、態度などであり、内容は…」と規定されている。この資料の学びに向かう力のところで、「心情、意欲、態度などを育み」と示されているが、幼稚園教育要領で示す生きる力の基礎として捉えている心情、意欲、態度と、ここで表している学びに向かう力の心情、意欲、態度について、先生方が混乱しないためにも丁寧に説明しておくことが必要ではないか。

○ 遊びと生活という受けとめ方が多様なところもあるのではないか。生活科の中では、手段として遊びを取り入れていくことが、多いと思うが、幼稚園教育の場合には、遊ぶことが目的的になっており、特に、3歳、4歳の場合は、楽しいから、面白いものがあるから、そこに関わっていき、自発的な活動としての遊びが展開される。そのように考えると、遊びや生活の中でという言葉から始まるよりは、自ら環境と関わる中でという表現の方が幼児期の教育が伝わるのではないか。
学びに向かう力、人間性等の部分は、特にこの三つの資質の中では、学びに対する考え方も、遊びに対する考え方も、伝わっていく書き方、工夫が必要ではないか。


3.幼児期の終わりまでに育ってほしい姿の明確化について

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿をどのように明確化していくかということが一つのポイントではないか。平成22年11月に幼児期の教育と小学校教育の円滑な接続の在り方に関する調査研究協力者会議報告において、幼児期の終わりまでに育ってほしい幼児の具体的な姿(参考例)を示したが、これを手掛かりにゼロベースからではなくて、平成22年の報告書を基本とすることでより論議が深まっていくのではないか。

○ 幼児期に育ってほしい姿としては、やはり善悪の判断というか、こういうことをしたらまずいなということをしっかりと教育してほしい。そういう意味で倫理観というか、善悪の判断とか、人が困るようなことはしないこととか、あるいはうそをつかないこととか、そのような基礎的な能力が幼児期の教育として重要ではないか。

○ グローバルな観点から、今後は外国人も随分日本に入ってくるかと思う。人と違っていることを責めるのではなくて、人と違ってもよいとか、そのような教育が求められるのではないか。倫理観とか社会に出てからより良い人生を送るかというところの一つに幼児期が非常に重要になるのではないか。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿ということと、幼稚園、小学校の円滑な接続において、幼稚園における遊びという体験の中身が、どういう体験をすることが小学校の学びにつながっているかという部分と、そこにいる幼稚園の先生がやはり言語化してくれる人としての役割というものがなければいけないのではないか。体験すればよい、遊べばよいというわけではないと思う。そこを的確に明文化できればよいのではないか。人間社会で生きていく上で、幼児期から、人との対話の過程でできる力、インクルーシブというような支援を要する子供も含めた中で、多様な文化を持った子供同士が小学校に行ったときにも関係性を作っていけるような部分、適応できる人材としての「生きる力」が要るのではないか。

○ 幼小接続が今回とても大きくなっていることを感じつつ、言語活動の関連から、言葉がつながりとして大きく出ていることをとても感じている。そこで、5歳児の具体的な育てたい姿を出す際に、小学校以降だけではなくて、幼稚園の前にどういう育ちがあってここに至っているのか、それまでの育ちの過程を丁寧に見ていく必要があるのではないか。5歳の子供がそこに至るまでどういう育ちをしてきたのかという流れとか過程を押さえて、幼児期の終わりまでに育てたい姿を出していければ良いと思う。

○ 自然との関わりなどが入っているが、病弱児で長く入院している子供はどうしたらよいかとか、言葉による伝え合いのことは、聴覚障害の子供はどうしたらよいかとか、その辺が心配である。もう少しユニバーサルにいろいろな子供に当てはまるような姿を描くことができたらよいと思う。

○ 幼小接続というのは、教育体系上つながっているが、そこの関係性が、なかなか見えにくかった。幼小接続を各都道府県や市町村が実施する場合は、小学校と幼稚園との関係性において、例えば、生活をつなぐとか、学びをつなぐとか、心をつなぐとか、いろいろな視点を決めてやっているが、その視点を作っていく難しさがある。これから、保幼小中高と見通してやっていくときに、接続の視点を明らかに示していくことが大切。そういう意味において、育成すべき資質・能力の柱に沿って、これから整理をしたものを次の要領改訂に示すことによって、幼稚園から高校までを見通した体系的なものが出てくるのではないか。それを踏まえて、各自治体が幼小接続に取り組むことができる。
したがって、幼小中高の教育を縦のつながりの見通しをもって系統的に組織していく視点から見ると、幼児期の終わりまでに育ってほしい具体的な姿についても、現在の状況を踏まえて整理する際に、育成すべき資質・能力の三つの柱に沿って整理していくことが大切。それぞれの項目を、幼児期に育成すべき資質・能力で示すことによって、幼稚園から高校までを見通した、つながりを持った教育として押さえていくことができる。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿の12項目は、大分網羅されていると思うが、自己肯定感といった文言も入るとよい。人や社会に対する安心感と信頼感といったものを育ってほしい姿として入れてほしい。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿の12項目には、それぞれ目標とかイメージがあるが、どうしてもこれは評価をする項目になっている。幼児期には、評価されない心地よさみたいなものも感じ取ってほしい。

○ 学びの土台には意欲が極めて重要で、意欲とは自信とか自己肯定感と非常に強い関係にある。体力等の調査の中で、小学校の段階でもう運動が嫌い、自信がないと言っている子供たちが結構いる。この子供たちが一番の原因に挙げているのは、幼稚園のときに既に自分ができなかったとか、経験していなかったので、皆がやれたことができなかったという話が多い。これは、どういうものをやってよいか分かりにくいということに原因があるのではないか。
したがって、向かうべき姿を一度整理していくことは必要なのではないか。そうしないと評価が難しい。ただ、この評価も大変難しく、ある程度緩やかにしておくべき必要がある。スポーツの世界では、月齢によって差が当然あり、完全に差が埋まったと言えるのは、二十歳ぐらいだろうという見解が出ており、幼児期で、ものすごく差が大きいのは当たり前のこと。同じ5歳、6歳であっても、かなりの開きがある。
幼児期の終わりまでに育ってほしい姿も、あくまでも例ということであるが、世の中に出たとしても、これだけやればよいということになりはしないか、危惧される。

○ 健康な心と体の項目に、いろいろな遊びの場面に応じてとあるが、この文章だけだと、幼児期の終わりまでにということが見えにくいので、例えば、友達の動きだとか、遊具、用具、様々な地形に応じてというような、どんなものに応じて体を動かしていくのかという具体例を入れてはどうか。また、体の諸部位を十分に動かすということだけではなく、例えば、いろいろな感覚を味わうとか、体の動かし方や使い方を調整するというようなことを加えてはどうか。

○ 改訂案の健康な心と体の三つ目の自分の体を大切にする気持ちを持つというところを、もう少し体の成長を喜ぶとか、健康に過ごすために必要なこと、あるいは、必要な理由を意識しているのか、意識して丁寧にしようとするというような気持ちを持って、子供たちの姿としてどういうふうに表れているのかということを加えてはどうか。

○ 健康な心と体の項目に新しく入れた安全であるが、例えば、周りの状況や人や物に注意を向けて確かめたり、安全に気を付けて行動したりというような中身を付け加えてはどうか。

○ 衣服の着脱、食事、排泄(せつ)などの生活に必要な活動の必要性に気付きとあるが、ここは気付くという表現を使うのか、分かるという表現を使うのか、整理が必要ではないか。また、必要な理由が分かりとか、必要なことの意味が分かりとかという表現がよいのではないか。

○ 改訂案の健康な心と体の六つ目は自分たちの活動に見通しを持って取り組むということに加えて、例えば、気持ちよく、使いやすくなるように生活の場を整えようとするということが5歳の姿ではないか。

○ 改訂案の自立心の項目の三つ目であるが、最後までやり遂げて、前と違う自分を自覚するということが、この満足感や達成感を持つということに通じるのではないか。

○ 改訂案の協同性の四つ目の皆で共通の目的を持って話し合ったり、皆の考えをまとめたり、役割分担などをしたりして協力するということの続きで、協力したり、責任を持って役割を果たそうとするということが、子供たちの中で、役割分担を自分たちでやっていくと、その役割は責任を持って果たそうとするというような姿があるではないか。

○ 改訂案の道徳性の芽生えの一つ目では、相手も自分も気持ちよく過ごすためにの後に、自分の行動を振り返るという言葉を入れてはどうか。

○ 改訂案の規範意識の芽生えの三つ目は、友達と折り合いを付け、自分の気持ちを調整することだが、例えば、人の気持ちを聞くとか、周りの状況を見るとか、感じることを通して、よりよい方向に向けて友達と折り合いを付けるという方向性が欲しい。

○ 改訂案の思考力の芽生えの二つ目では、喜びや味わいというのがあるが、この味わいというのは、判然としない。思考力の芽生えでは、物の性質や仕組みについて自分なりに考えたりという表現や、不思議に思ったことなどを探索するとあるが、この辺りが大事なのではないか。また、いろいろな予想をしたり、予想したり確かめたりという表現は、問題解決に向かう姿としてあるのではないか。

○ 改訂案の一つ目の自然との関わりのところで、自然の大きさや不思議さが、例示として挙げられているが、例えば、自然から感じるものとして、美しさであったりとか、心地よさであったりとか、厳しさであったりとか、例示として適当なものを考えていくということが必要ではないか。

○ 改訂案の自然との関わりの三つ目に、自然の不思議さをいろいろな方法で確かめるとあるが、ここに子供が考えているような自然の不思議さから、この原因は一体何なんだろうかという原因を予想しているということがあるのではないか。

○ 生命尊重、公共心などの項目で、公共心について、もう少し具体的な中身を入れるとすれば、例えば、自分の生活に関わる社会の人の役割に気付くとか、公共の場での決まり事の意味とか、そこでの過ごし方を考えて、それらを意識して行動するというようなことがあるのではないか。

○ 生命尊重では、季節によって、育つ野菜が違うことに気が付くとか、感じることもあるのではないか。また、動植物の変化も、1年を通して変化していくということを感じることもあるのではないか。友達同士で目的に必要な情報を伝え合ったり活用したりということが、例えば、メディアの活用みたいなことも含まれるのであれば、この部分に、図鑑とか絵本などを使って、知りたいことを子供たちが、自ら調べようということがあってもよいのではないか。

○ 数量、図形、文字等への関心、感覚の項目では、もう少し言葉について充実していく方向で検討してよいのではないか。また、数量とか形、図形、あるいは空間、この部分はもう少し表現を詳しくしてもよいのではないか。文字や様々な標識について、読んだり、書いたり、使ったりするとあるが、遊びや生活の必要性から、読んだり、書いたり、使ったりという表現にしていないと誤解が生じるのではないか。

○ 健康な心と体の項目の表現が、体にかなり力点が置かれており、心の面が少し足りないのではないか。もう少し、心の面で、困難に向き合ったときに、どう向き合って乗り越えていくかとよいことも書くべきではないか。
また、全体を通して、社会の多様性が進むことについての視点や異文化理解の視点もあってもよいのではないか。

○ 生命尊重、公共心等の項目で、国旗が取り上げられており、自分の国の国旗に誇りを持つことは非常に大事だと思うが、国旗を例に出すのであれば、例えば、様々な国の国旗についても触れた方が誤解を生まないのではないか。

○ 小学校以降でも、特にこれからESDが重視される方向であり、問題発見や問題解決型の学び、領域横断的な学び、それらを通して自立的な心、子供の成長を促していく視点があることから、キーコンピテンシーや新しい学力観等も含めて、どんな姿に育ってほしいかということを考えることも大事ではないか。

○ 自己肯定感を育むことが今の幼児には大切ということに該当する文章が自立心の項目の最後に入っているが、自己有能感のように受け取れる。みんなから愛されて、自分が大切だから友達も大切ということを入れる必要があるのではないか。

○ 改訂案の規範意識の芽生えの項目の三つ目に友達と折り合いを付けてとあるが、友達の気持ちを知って、自分の気持ちと向き合って、葛藤しながら、よりよい方向に向かっていくといった、子供たちが自分の気持ちを調整するまでの過程が入るとよいのではないか。

○ 生命尊重と公共心等の項目は、寄せ集め的な感じがする。生命尊重は、自然との関わりへ、情報の活用は思考力の項目に入ると思う。また、国旗に親しむとあるが、今は様々な国の子供が在園している。国旗に親しむだけではなく、いろいろな国の人たちと親しむとか関わるとかを入れて、人との関わりの項目に入れてよいのではないか。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿の全体構造として考えたときに、例えば自然との関わりの項目と生命尊重、公共心等の項目のように、内容が重複した部分があるので、少し整理する必要があるのではないか。
また、思考力、判断力、表現力等の基礎の部分で、例えば、思考力のプロセスにある探求心や好奇心を入れることによって、メッセージ性が高まっていくのではないか。そういう意味で、もう一度、項目も含めて整理していく必要があるのではないか。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしい姿に書き込むのか、あるいは、幼稚園教育要領解説に書くことがあってもよいと思うが、いつも元気でポジティブなのではなく、子供たちの育ちの上でのつまずきや葛藤など、ネガティブな面も見えてくるようなところがあってもよいのではないか。

○ 言葉の機能としては、幼稚園教育要領には言葉の楽しさ、美しさということがあるように、リズムであったり、響きであったり、言葉そのものを楽しむということがあり、そこから表現にもつながっていく。このような言葉の豊かさというところも見ていくことが必要ではないか。
自己コントロールにも言葉が関わっていくということが、観点として入っているとよい。
文字について、幼稚園教育要領の中では文字「など」と、「など」が付いていたのが、ここの姿のところでは全て落ちており、文字を正確に書かなければいけないと誤解されるのではないか。

○ タイトルが幼児期の終わりまでに育ってほしい姿であることから、姿が分かる文末表現として統一すべきではないか。例えば、何か活動しているというレベルで文末はまとめつつ、その手前のところで、心情、意欲、態度を丁寧に書いていくというような、それぞれの文章の書き方の整理が必要ではないか。

○ 健康な心と体の項目で、体、情緒的な安定や、その感情を率直に表したり、感じ取ったりというような、感情のコンピテンシーに関わることを盛り込むことも必要ではないか。

○ 自立心、協同性、道徳性の芽生え、規範意識の芽生え、さらに生命尊重、公共心等は内容が似通っているところもある。自立心は、自分のことは自分でする、協同性は、人と一緒に活動する、何か具体的に活動するということ、道徳性の芽生えは、もう少し広く、共に様々な人と生きるというところで必要なこと、規範意識は、明文化されたルールというようなものに対してどう関わるのかというように、それぞれ少し言葉の整理とか定義が必要ではないか。そのように考えると、規範意識の芽生えの項目の最後に入っている、友達と折り合いを付け、自分の気持ちを調整するは協同性に入れてもよいのではないか。

○ 三本柱になっている育成すべき資質・能力と、イからヲまでの項目がどう対応するのかの整理も必要ではないか。このイからヲが三つの柱のどれかに分かれるというよりは、イの体を動かすとか、生活習慣に関わることと、チの自然との関わりからヲの豊かな感性まで以降は、どちらかというと個別の知識や技能の基礎に割と重きを置いて捉えることもできるし、あるいは、思考力の芽生えは、思考力、判断力のところに特に深く関わるというように、このイからヲまでが、三つの柱とどう関連するのかも整理して、提示できるとよいのではないか。

○ 書き方の表現が、分かり合いとか、友達のよさを分かりというようなところは、友達のよさを感じとか、心が動くというように、認知的に理解してやっているというよりは、気持ちの面で動いているという方が、幼児期の姿としてもよいのではないか。

○ 人との関わりの項目で自信や希望、それから夢を持って自己肯定感が育まれて、そして自己有用感が芽生えていくというような関わりがセットになっていて、非常によい。これらのことは、義務教育以降でも、大事にしていかなければならないのではないか。
今、義務教育の中では、いじめの問題に関連して、生命の尊重において、成長や変化という言葉を確実に入れている。この変化の中には、小動物の死も含まれてくると思っており、そこを強調していくとよい。

○ 健康な心と体の項目の安全教育に関わるところで、遊びを通して、安全に関する知識を身に付けるということを強調していきたい。経験を通した学び方、身に付け方が義務教育以降の安全教育の在り方につながっていくのではないか。
特に、5歳児ぐらいになってくると、身に付いていたはずのものが、欲求が優先され、できなくなることがある。そういった部分を配慮すべきこことしてどこかに書き込む必要があるのではないか。

○ いろいろな人との関わりの項目で、文化のことが入ったことは、とてもよかったと思っているが、行事などへの参加ということが強く感じられる。例えば、周りの人間が口ずさんでいる歌に耳を傾けるなどといった、身の回りの文化に触れていくというようなニュアンスでもよいのではないか。

○ 関係する主な小学校の各教科等の関わりでは、音楽が豊かな感性のところにしかない。表現するということは、例えば、身体であるとか、言葉であるとか、思考力にも関わっていると考えており、これらにつながるということを入れることによって、音楽表現がそのまま芸術音楽につながるということとイコールではないことが、メッセージとして伝わるのではないか。

○ 興味、関心、意欲がかなり盛り込まれたことで、幼児期の学びを捉えやすくなったと思う。
健康な心と体の項目は、内容的に難しいのではないか。また、健康、体力というのは、体育という狭い考え方ではなく、生きる力の三つの柱の一つであるということを考えると、幼児期は非常に重要である。
したがって、例えば、好きな遊びを見付けてとか、あるいは、好きな遊びに夢中になって取り組む中でというような枕言葉を付けるか、若しくは、体を動かす様々な活動に夢中になって取り組むということが先なのではないか。

○ いくつかの項で、目標と目的、主体的と積極的という言葉が使われており、当然、意味は違ってくると思うが、外部から違いは何なのかと問われることになるので、幼児教育としての定義をはっきりさせた方がよい。

○ イからヲの項目まである中で、子供の「自己」や「身体性や精神性」の育ちは、幼児期というのはばらばらではなく、「全体的に育つ」ということをどこかに書いておく必要がある。
また、健康な心と体のところにも、体の諸部位を十分に動かすということはとても大事なことだと思うが、体の諸部位では硬い感じを受ける。このため、幼稚園教育では指先を使ったりするようなとか、また、五感の感覚器官の育ちであるとか、操作性のようなものも含まれるようなことも書いておく必要がある。終わりまでに育ってほしい姿に書くのか幼稚園教育要領解説に書くのかということはある。

○ 他文化、異文化共生関連では、家庭のことを知っていくということやインクルーシブを踏まえて違う他者を理解していくとか、タイプの違う人との関係も作っていくということが必要。
協同性の項目に、「いろいろな友達と積極的に関わる」とあるが、どんどん関わることだけがイメージされないように、「多様な友達と関わりを深めながら」とか、「自己の力を十分に、思いを表出する」というような部分も入ってもよいのではないか。その中で他者を理解していくということにつながっていけばよい。

○ 衣服の着脱をはじめとした、生活習慣は、やればよいということではなく、「自分で主体的にすることが心地良さということにつながっていく」ということが大事ではないか。

○ 幼児期の終わりまでに育ってほしいイからヲの項目は、大体この項目でよいと思う。リの生命尊重、公共心等の項目で、生命尊重だけでなく、公共心も入れていただけるとよい。最近、災害など様々なことがあり、自助、共助、公助の精神なども、いろいろと指摘されていることを踏まえると、やはり幼児のときから、公共のためを思う心であるとか、社会一般の公益を図ろうとする精神といったものを大事にするために、もう少し文章を補っていくことが必要である。

○ ハの協同性の項目に、国籍を超えたとか、多様な民族の人とのコミュニケーションとか、そのような言葉があればよいのではないか。同じく、国旗についても、異文化のコミュニケーションに親しむような機会が明記されているとよい。いずれにしても、中学校、高校で、これだけ海外留学とかが増えており、社会に出れば、国籍関係なく、働く方が増えてきているので、外国とか、そういう言葉が入ればよい。

○ イからヲの項目は、特に5歳児の姿をイメージして書いてあるものであるが、誤解を生む言葉もあったと思う。ここで示したいことは、こういう育ちの姿を通して小学校に移行していくということがイメージできる表現であり、幼稚園教育の中だけで閉じるのではなく、その先をいかに見通すのかということと、幼稚園教育の3歳、4歳、5歳の積み重ねをどうするのかという両方の視点から整理が必要。
例えば、困難な状況に対して、いろいろ思いをめぐらせて、自信を持って行動するというのは、3歳、4歳の時期は、そんな周りの様子などを気にせず、非常に活発に行動できる。ところが、ある時期になると思い迷いながら周りの様子を見たり、相手の表情を見たりという、そういう姿を通して自信を持っていく。その辺りが、5歳の姿の修了だけの自信を持つというところでいくと、むやみやたらと活発に行動する子供が自信を持っているかというふうに受けとめられてしまうので、そのようなときは、育ちの姿をここの中に入れていかなくてはいけないと思う。

○ 言葉の整理をするときに、言葉による伝えのところに、注意して聞いて、相手の話が分かるというような表現になっているが、子供が相手の思いが分かる過程の中には、やはり人間関係の育ちの中で関心を持って聞くという中から、注意してという聞き方ができるようになっていくので、5歳の子供がそこの力を獲得するプロセスが見えるような書き方の工夫も必要ではないか。その中で3歳、4歳の積み上げと、小学校教育にどう移行していくのかという流れの整理が必要なのではないか。

○ 育ってほしい姿というのは、大変重要。ただし、その1項目だけを取り出して、それを語るのではなく、全体的に考えなければいけない。同時に、その育ってほしい姿を、いきなり3歳児に下ろして語るというのは無理があることから、5領域との関係性であったり、発達でそこに至るプロセスであったりといった書き方、また、解説で加えていかなければいけない内容などについて考えていくことが必要である。

○ 幼児期の終わりの姿、それから、その終わりの姿がどのように育っていくかというところで、非常に重要なのが教師の関わり方ではないかと考えている。文字や数、あるいは思考の育ちが早まっていると言われているが、体験を通して学んでいるのか。小学校教育の前倒しになっていないかを整理して、体験を通して学ぶ、あるいは経験的に学ぶ、子供たちに必然性や必要感を味わいながら学ぶということを示す。このことが、小学校教育の学びの土台の明示につながるのではないか。

○ 幼稚園修了までの姿が「ねらい」で示されて、一方で今度、幼児期の終わりまでに育ってほしい姿がきちんと明確にどこかで示されていくことは非常によいことだが、幼稚園修了までにということと、この幼児期の終わりまでに育ってほしい姿との関係は、分かりやすく示して行く必要があるのではないか。


4.幼児教育と小学校教育との接続について

○ もう少し幅広く、豊かな感性、情緒、情操といったところをベースに接続というのを考えていかなければならないのではないか。道徳性やいろいろなところのつながりも考えられる。図画工作については、その後の創り出す喜びとか、何かをみんなで創りながら、そのことが協調性や社会性も養っていくこと考えると、近い立場で接続ができるのではないか。

○ 幼小の接続では、改めて乳幼児期は大事だとか、非認知な能力でいえば、乳幼児期に起こったことがやはり幼稚園、小学校だけではなくて、中学校、高校にまで大きく影響してくるのだということを、小学校の先生にも分かってもらいながら、何らかの形で明らかにされていくことを、議論を通して、もう少し分かりやすく社会に訴えていくことが大事ではないか。

○ 小学校教諭にとって保幼小連携の良さは、やはり小学校入学前に、就学前の子供たちがどのような遊びや経験を通して、今目の前にいるのかということが分かることだと思う。例えば、トイレの使い方の指導のように保育園や幼稚園で既に学習済みだったものをもう一度小学校でやり直したりとか、各園でリーダーとして育ってきた子供たちを小学校で完全にお客様として扱っていたりとか、どのように1年生と接することがよいことなのかと考えている。
そのほか、小学校側の良さとしては、今日的な教育課題の解決、例えば主体性や協働性を育むといったときに、やはりそれは園の保育者の支援や手だての中にヒントがあるものだと思い、保育者から学ばせてもらっている点である。小学校、保育園、幼稚園の連携を通して、発達の違いこそあれども、子供ということには変わりはなく、共通している点は多い。例えば、どうしたら子供たちがやってみたいなという気持ちを膨らませることとか、近くの友達やクラスメートと協働しながら問題を解決していくことなどである。

○ 保育者の側にとって小学校と連携する良さは何なのかということを考えたときに、卒園して送り出した子供がどのような小学校生活を送っているのかが見えることとか、園での遊びや経験が小学校のどのような学びにつながっているのかというのが見えてくることではないか。小学校の学びの現場を保育者の方が見たり、参観したりということは、今園児がやっている遊びが小学校のこういうところに役に立つのだというある程度の見通しを持つとか、保育者が自信を持って遊びや経験、活動に携われるということにつながるのではないか。

○ コミュニケーション以外の言葉の機能として、自分を作る、自我を作るとか、言葉自体が楽しいとか、それから自己コントロールを言葉でするのではないかと思う。言葉で自分の行動をコントロールする要素が言葉の中にはある。
コミュニケーションだとか伝え合いというところに観点を置いて幼稚園教育要領を作っていくが、子供にとっては言葉がもっといろいろ豊かな意味があったり遊びの部分があったりするというところを大切にしながら小学校につなげていけると良いと思う。

○ 保幼小連携を通して、子供が変わる、教師・保育者が変わる、保護者が変わるということと、また互恵性という言葉を大切にして本校では研究している。幼児教育と小学校教育の接続によって、子供たちにとってどのような良さがあるのか、保育者・小学校教諭にとってどのような良さがあるのか、又は保護者にとってどのような良さがあるのか、あるいは園児と児童にとってどのような互恵性があるのか、保育者・小学校教諭にとってどのような互恵性が生まれるのか、保護者にとってどのような互恵性が生まれるのかということをやはり大切にしていきたい。今後幼小接続の推進に当たって、接続する上ではやはり小学校教諭を変えることが大変だと思うので、幼小接続の良さが明文化されはっきりしてくるとよいのではないか。

○ 幼児期から小学校、中学校、高等学校を見通してこの接続の問題を考えることはすごく大事なことではないか。滑らかな接続をなぜ必要かということをしっかり押さえておくことが大事である。教育課程企画特別部会では、幼・小・中・高修了する段階である18歳を見据えたときに学校間の滑らかな接続が大きくクローズアップされて、そのような流れの中で、幼小接続は大事だということを確認してきた経緯がある。一人一人の子供にとっては、小学校1年生の生活が楽しく充実して展開できるということ、自信を持って小学校教育がスタートできるということはとても大事なことではあるが、そこでおしまいではなく、その先も学び続ける、主体的に学ぶということをどう支えていくかということが、この乳幼児期の子供たちの生活の体験であったり幼稚園の中での様々な体験であったりするのではないか。平成22年の幼小接続報告書の中でも、学びの基礎力として、幼小接続の時期の大事さを確認したが、この接続の問題を考えるときに、幼小接続がなぜ大事なのかということを大事にしながら、幼児期の教育から小・中・高ということを見通していくことが大事ではないか。

○ 幼児期には、このことがどんなことなのかとか、分からないことが分かったら面白いとか、自分がやろうと思ったことができるようになったとか、自己肯定感につながることもあるのだが、そもそも学ぶということはどういうことかということが幼児期にしっかりと押さえておく必要がある。正しいとされていることをただ上から強いるとか、大人から教えてもらうことではないということをしっかり幼児教育が発信していくということが大事ではないか。自分で正しさとは何かということをいろいろ考えながら、本当にこのことは大事なことなのだと思っていくこととか、こういうことが分かったら本当に楽しかったとかという経験をすることにより、小学校以上の教科につながっていくことが打ち出せたらよい。

○ 幼児教育が基盤とする活動として、一つ、遊びという言葉が出ていて、それと横並びの言葉として、生活という言葉がある。遊びという言葉と生活という言葉をどのような意味合いにおいて実質化していくかということではないか。小学校以降では、一つは生活ということを核にしつつ、それをよりよく支える知識としての科学、学問、つまり教科に分化していく。
そうなったときに、教科というものが人ごとではなくて自分事につながっていくのだろうと思うが、その基礎、基盤としての幼児教育において、その遊びという言葉と生活という言葉がどんな意味合いとして整理し、書き込んでいけばよいのかということを、しっかりした御議論していただくのがよいのではないか。

○ 幼稚園教育要領の総則において、幼稚園教育の基本として三つ定められており、その1番目に、幼児期にふさわしい生活ということで、生活という概念がここに入れられている。ただし、これは、ただの衣食住ではなく、幼児の主体的な活動を促すという意味での生活になると思う。
2番目に、幼児の自発的な活動としての遊びとなっており、幼稚園にいる間は、当然ながら、全てが生活ではあるが、その中で、とりわけ幼児の自発的な活動としての遊びが成り立つ。
そういう二段構えの構成、これが幼稚園教育の基本の基本だと思う。

○ 幼稚園教育要領の解説には、幼児の生活はほとんど遊びによって占められており、生活を基盤にしながら、子供たちが何かを獲得したり、学んだりするというのは、遊びを通して行われるものであるということを解説している。

○ 生活科の中では、まだまだ子供たちの遊びとか、遊びの工夫とか、遊びの創造ということを通して、いろんなことに気付くとか、それが生活を豊かにしていく基盤だという考え方もある。遊びから自覚的な学びへの移行について、幼児期といっても3歳、4歳、5歳で変わってくる。そこから、今度は6歳、7歳と低学年教育の段階に、どのようなグラデーションがあり、それが変化したり、進化したりするのかということは、幼児教育だけではなく、低学年教育までも含めた描き方ではないか。

○ 子供の学びとはどういう質のものとして展開し、どういう質のものとして展開してほしいと願い、実際にカリキュラムや意図的な指導を構築するのかという話だと思う。そこで、遊びというものが、3歳、4歳、5歳、6歳、7歳あたりまでは、かなり遊びということが入ってくると思うが、それをどういうふうにカリキュラム全体の中で位置付けていくのかという話にもつながってくるのではないか。

○ 小学校以降では、遊びという言葉がすごい意味のあることとか重要なことであるとか、それが基本になっていろんなことが生じてくるのだということが余り理解されていない。生活科ではともかく、他の教科ではその辺が弱い気もする。
まず幼児教育の中でどのように意味付けるかということと、そこから6歳、7歳、低学年教育にどういう訴えをしていくか。生活科はダイレクトにいくし、それを受けとめる基盤は生活科にあると思う。これはスタートカリキュラムとも関係するが、生活科を核にしてスタートカリキュラムを作り、そこをクッションにして、各教科の成立をよい形、本質的な学びという形で促すというか、スタートしていくということを考えると、遊びという概念が割と核のような気がする。

○ 小学校の場合は、生活科はまさに生活の科であるが、幼稚園と多少違うのは、幼稚園教育で言う生活というのは、まさに子供が幼稚園に登園して帰るまでの全てであり、その生活を通して、いろんなことを得ていくということであることだ。生活科の場合は、学校その他の生活の場を通して体験してという面とともに、生活科において、その生活を対象として見るということ。つまり、学校生活とか家庭生活とか地域の生活を対象として考えるという面も含む意味で、認識面が広がっていると思う。そこが幼児教育と生活科との違いである。

○ 小学校教育で注目すべきこととして、特別活動の中では学級の生活というのが入ってくるため、それはまさに学校、学級における人間関係その他の生活を作るということである。そういった連続性の違いというのが多分あり、今回の改訂では、特に幼稚園教育と小学校教育のつながりが問題となっており、それを念頭に置きながら、改めて、幼稚園教育の中の生活、それから遊びを考えてほしい。
それから、幼稚園の中で、例えば年長児になってくると、もう遊びというか生活というか、例えば、自分たちの生活を作っていくようになる。例えば、飼育当番とかお掃除、片付けとかは、遊びとは少し違う気もする。ただ単純な衣食住の生活でもないため、まさに生活主体になるみたいな部分であるが、そういうことをどう表現していくかも、検討してほしい。

○ 小学校以降の教科において生活を考えたときに、特別活動のような場も考えなければいけないし、その中で、小学校以上で、共同体の中の一員としての義務と責任のようなことも非常に明確に意識するようになると思うのだが、そこにどういうふうに、幼稚園の時代からつながっていくのかということを考えなければいけないのかなと思う。

○ 低学年においては、図画工作科においても、幼稚園との関連がある。遊びという言葉として、小学校6年間通して造形遊びがあり、その遊びというのは学習の中での遊びという捉え方が中心ではあるが、材料と関わるとか、そういったことから発想を広げたりするというようなこともある。幼小連携の中の一つの大きな柱として、図画工作科というのも入っていることも知っていただきたい。

○ 幼児教育は、頭の中だけで全てが進むものではない。総合的な学びである。遊びを通して経験的に学ぶので、本物などの具体に触れて実際に学ぶのである。小学校の教科の前倒しではない。体全体で子供が身に付けていくということを明確に位置付けてほしい。
認知的な学習だけを取り上げて、小学校ですべきことを先取りするような幼児教育にしてはいけない。幼児教育の基本に立ち返って、情操を育てる教育を基盤にしてほしい。

○ 一番懸念するのは教科のつながりである。具体的に書けば書くほど、これをすればよいということになってしまうおそれがある。それをすることが目的ではなく、遊びの中でやっていたら、たまたまそういうことができて、もっとあんなこともやってみたいというふうにしていかないといけないのではないか。幼稚園の時期には、この時期にこそ伸びることがあり、そこを大事にしないといけない。いろいろな学びにつながっていく土台作りということを明確に出した上で、つながりを考えていけるとよいのではないか。

○ 学びが最初に来ているが、幼児は、楽しさ、喜びというところから入っていくという、プロセスの最初のところを押さえて見ていくことが必要ではないか。幼児期の特性として、総合性だったり、行きつ戻りつだったり、身体性というものが挙げられるが、それらを大切に取り扱って見ていくことが、どういうふうに小学校以降につながっていくのか。心情、意欲を大切に見ることが小学校にどうつながるのかという、つなぎの部分を書いていくことが必要ではないか。

○ 幼稚園、小学校の総則の書きぶりは、可能な限りパラレルになると良いと思うが、そうなったときに、教科の前倒しにしないということは大原則だ。
ただし、教科の前倒しはしないが、子供たちが活動する中で予測や予想を持ち、その中で規則性・法則性・関連性に気付いていく。また、それによって遊びや暮らしが、拡充されたり、主体的になったりしていくのではないか。これが小学校以降の教科の足場になり、学びの基盤になっていくということはあるわけで、それについては、これまで以上に、自覚的になり、意図的に教師が幼稚園教育の中でうまく実現していくということはしても良いのではないか。
それによって、より子供たちが遊びや暮らしを基盤としながら、世界の不思議に対して挑み、そこから規則性・法則性・関連性を見出すことによって、自分が世界とよりよく関わっていくという実感、あるいはどう関わっていくべきかという戦略も身に付けていく。これは小学校以降の知的な情緒的な足場になっていく。
そういったことについて、より自覚的に書いて、幼稚園の先生にも理解され、それが小学校以降の教科の学力も含めた足場になることで接続を図りたい。
そういう意味でも、アクティブ・ラーニングがどういうものであるのか、どういう側面が重要であるかということを出していくことが小学校教育との関連において大事なのではないか。
小学校以降も含めて、ある種の高度化をしているのだろう。内容を増やすという意味ではなく、より子供たちがたくましく学び、一生涯にわたってよりよい問題解決を成し遂げて、よりよい人生を送れるような基礎という意味で、教育課程全体の高度化は小学校以降も幼児教育も図っていく。ただ、幼児教育における高度化というのは、指導事項を個別の内容として増やしていくとか、それを先生が教え込んでいく話では全くないということを、どこに書くかということだろう。
小学校以降も、教育の高度化を図るためにこそ、子供主体の小学校以降で言えばアクティブ・ラーニング、幼稚園で言えば、子供主体の遊びや暮らしの創造の拡充を行うということなのだろう。ただ、その遊びや暮らしの質については、しっかりと書いていくということが必要なのではないか。高度化するからこそ、遊びや暮らしの拡充をするということだ。拡充の質ということは、今回言われている小学校以降のこととパラレルに書くことで明示化できるのではないか。

○ 小学校のような「目標」とかというよりも、幼稚園は「ねらい」とか、少し柔らかい表現の方を継続すべきではないか。幼稚園の時ぐらいは、余り縛らずに、自分の好きなことをやらせるようなところが重要。

○ 育成すべき資質・能力を幼児期から高校まで系統的に示すというところでは、その方法の違いは育成の仕方の方法が違うかだということを、明確に示していくことが大事。基本的生活習慣が身に付いていなければ、資質・能力を伸ばすといっても、到達しないこともあるというようなところを、入れておいた方が良いのではないか。
どういう段階から、どの辺のところまでのところ、どこから始めるかというところを、初めの段階を書いておくことで、今後の育成の仕方についての間違いが起こったり、領域と教科を結びつけたりするような方法がとられないのではないか。

○ 現行の幼稚園教育要領では、義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとして、円滑な接続のための連携を図るという文言になっており、教育課程がつながっているように見せるという意味では、ここを深く書くべきではないか。幼稚園の方向目標から小学校の到達目標に変わっていくまでに必要なもので、例えば、「協同的に学ぶ」とか「言葉で伝え合う」という、小学校の学び方につながるような資質・能力を示しておくべきではないか。

○ 幼児教育が子供理解からスタートしていくところが大事。一つの活動を通しても、子供たちと一緒に活動をすることによって、様々な学びが起こったり、議論が起こったりする等の経験を豊かにしてくるところが幼稚園であって、それが小学校教育につながっていくという意味合いを幼稚園教育要領の中に入れていくのが良いのではないか。子供たちは身近な問題をきちんと考えて、そこでどうやったらいいかという自分たちの知の枠組みみたいなところを議論し合いながら、友達関係や知識を広げていくなどというようなことをしており、その根本原理をどう出していくかというのは、もう少し議論したほうが良いのではないか。

○ 「ねらい」と「目標」の違いは、それぞれの学校や幼稚園で大切にしてきた文化だと思うので、そういった言葉は大切にして使っていただきたい。
幼稚園の先生が考えて捉えている「遊び」と小学校の先生が捉えている「遊び」の意味合いの違いや、小学校の先生方が捉えている「環境」と幼稚園の先生方が捉えている「環境」の意味していることが、全く違うので、是非そういった言葉の捉え方の違いというのも、どこかで明確にしていただきたい。小学校の先生が、この幼稚園教育要領を見たときに、幼稚園で大切にしている教育が目に見えて分かるように、その一般化されている言葉だからこそ、意味合いの違いというところをはっきりとしていきたい。

○ 幼稚園教育要領にも一定程度、子供観とか、知識観とか、学習観など、一定程度踏み込んだ書き方をして、更に解説で肉付けしていけると、小学校以降の大学まで含めた教育の改革も含め、良い形で書けるのではないか。


5.幼児教育と小学校教育との接続を一層強化していくための支援方策について

○ 幼稚園教育要領とか、いろいろな自治体やいろいろな園が工夫して、幼児期にはこれが大事だよというカリキュラムがたくさん作られているが、それが現場で実践されるための、その間をつなぐ仕組みが重要ではないかと思う。やはり都道府県が広域調整機関として何をすべきかということも同時に考えていかなければならないことと思う。幼児期は小学校の前倒しや準備ではなく、子供たちが主体的に生涯学んでいく根幹なのだということを、幼稚園だけではなくて、保育所、認定こども園にも理解されるための仕組みにしていく必要がある。

○ 小学校の接続に関して、福井県は連携推進カリキュラムを、まずは何ができるかを小学校とその校区にある園で考えようということから、公立・私立、保育所・幼稚園を問わず、福井県の全ての園と全ての小学校で作り、幼小接続を推進している状況である。そういった中で、やはりこれは、子供の指導のことだけではなく、学び続ける先生方の姿勢としてアクティブ・ラーニングで学んでいくということが必要ではないか、それを念頭に置いた仕組みが必要なのではないかと考えている。この幼稚園教育要領の中身を現場の実践につなげていくための多くのつなぎ手をどう養成するか、そして、つなぐ仕組みや仕掛けをどうするかということを念頭に置いて、幼児期において育みたい資質・能力を明確化し、分かりやすくすることで、現場の方が一生懸命やってきたことを力強く推進するというまとめ方をしていく必要があるのではないか。

○ 幼小の交流・連携を通して、この成果を生かすために各幼稚園、それから小学校それぞれの教育課程に反映する段階まで草加市では進んできているところである。小学校ではスタートカリキュラム、幼稚園では草加市ではアプローチカリキュラムと言っている、カリキュラムの作成に係るアドバイザーの人材確保その際非常に必要ではないか。カリキュラムができても、内容的にはまだまだ大きな課題があることを踏まえ、それを支えていけるアドバイザーの育成というのが非常に今、緊急課題になっている。その意味で、実務的な研修会の持ち方について、多分解説になってくるかと思われるが、触れていく必要があるのではないか。

○ 幼小の連携・接続の視点を、保護者に理解してもらう機会を設けることも不可欠だと考える。保護者から小学校での教育の先取りを求める声があっても、特に私立の多い幼稚園においては、それを受け入れざるを得ない状況も少なからずあるだろう。幼児期における子供の学びの特徴や在り方について、保護者の理解を深める機会を十分に持てるようにすべきであると考える。

○ 幼稚園現場でも分かりやすくなるよう、指導者用資料というものを出してほしい。これまでも、国からたくさんの資料を出していただき、それがすごくよかったと思っている。より具体化、よりプロセスを感じ取れ、考えられるような資料が絶対に必要である。


6.アクティブ・ラーニングの三つの視点を踏まえた幼児期に育成すべき資質・能力を育むために重視すべき指導等の改善充実について

○ 幼稚園教育要領が目指す姿ということ、要するに、資質・能力という考え方とアクティブ・ラーニングという視点ということをどう考えるかであるが、幼稚園教育はある意味、以前から資質・能力を大事にし、アクティブな在り方を基本にしていたと思う。その意味では、幼稚園教育の基本、中心部分はまさにこの方向で引き継いでいくということなのだと思うが、幼稚園教育要領という文章の中で十分それが分かりやすく明確になっているか、こういった資質・能力、またアクティブな学びというのを幼児期の在り方としてどう定義するかとか、そして、それがまた小学校教育という枠の中でのそういったものとどうつながるかとか、その辺について十分明瞭化というと、分かりにくいところが今の要領ではあるのではないか。

○ 自分は人並みの能力があるということが諸外国に比べて低いこと、自分はだめな人間だと思うことがあるということが諸外国より高い77.5%であるなど、日本の高校生の自己肯定感とか社会参画に関する意識について非常に危惧している。また、アクティブ・ラーニングの基本として、先生が答えを一方的に教えて、このとおりになるというものではなく、違う答えもあるとか、違う答えや価値観をもう少し自分で考えさせるとか、そのようなところの入り口がもしかしたら幼児教育にあるのではないか。答えをすぐに求めるのではなく、アクティブ・ラーニングだとか、もう少し自分で物事を考えて、自分で責任をとって、自分で行動するような、そのような教育になっていったらよいのではないか。幼小接続は当然大事ではあるが、そこから先まで見据えた人材育成というところも議論できればよいと思う。

○ 日頃から一番大切だなと思っているのは、本質的な理解ではないか。先生方は、どこに行っても、どの校種も非常に忙しくて、新しい方法とかキーワードが出てくると、やはりそれに引っ張られてしまう。アクティブ・ラーニングと言うと、アクティブ・ラーニングの方法をとれているかどうかということが目的になってしまっているところもあり、そうではないよという話をいつもしている。幼児教育についても本質的な理解に迫れるとよいなと思っている。

○ 幼児期の教育は、感情をコントロールしながら、自分の気持ちを調整しながら、自分の言葉で伝えるというような、いろいろな日常の体験が一つ一つの育ちを作っていくのだと思う。このことをなかなかわかりづらい部分であり、先生方も意識していないところもあるのではないか。そういった指導の仕組みは、実は子供の気持ちを整えながら、自分でやってみたいこと、してみたいことなど、今の幼稚園教育要領の規定にも幾つかあるかと思うが、それを言葉にすることで、それは日常の保育にちりばめられていて、なおかつそういうことを重ねることによって育てるべき資質や能力というものがしっかり見えてくる。そのことが接続につながっていく、そういった仕組みをもう一度、教育要領に書かれていることとのつながり、指導方法とのつながり、発達の姿と小学校の接続と、そういう問題をこの三つの柱に沿って考えてみるということが大事なことではないか。

○ 「論点整理」のアクティブ・ラーニングの視点をより砕いて見ると、三つの学びである「深い学び」、「対話的な学び」、「主体的な学び」が解説されている。この書き方をこのまま幼児教育に適用されるわけではない気はするが、幼児期なりに近いものはいろいろあり得ると思う。
「深い学び」では、例えば、領域「環境」において、子供たちの思考力を育てるために好奇心、探究心を大事にするというようなことが規定されていることとも関連するのではないか。また、「対話的な学び」の関連では、「言葉」の領域や「表現」の領域などで自分たちの考えや思いを表すとか、それを介して子供同士が協働するといったことはもちろん幼稚園教育の中心である。「主体的な学び」でいえば、そもそも幼稚園教育の基本である、心情、意欲、態度などを大事にする、あるいは自発的な活動としての遊びを中心とするということであるから、まさにここが幼稚園教育の中心であると思う。
この学びの在り方について、もう少し具体的に、これまでの領域の記載その他に書かれていることと結び付けながらより明確にしていく必要がある。その際に、5領域を大きく変える必要は全くないと思うが、領域という考え方と、それに対して資質・能力とかアクティブ・ラーニングという領域横断的な部分が必要だと思う。その当たりを幼稚園教育要領の規定上どういうふうに表していくか考えていく必要がある。

○ 教師の役割がすごく大事になってくるのではないか。子供に対し、一つ一つの生活の中でどういう働き掛けをするということが結局観察するポイントに多分なってくると思う。その当たりをうまく表すことができないか。

○ 資料5の幼児教育における学びの過程のイメージ(たたき台)のところで、試行錯誤、予想、分析、その後、規則性の発見といった流れは重要であるが、規則性・法則性からもう一度試行錯誤、何かに戻ってよい、試してみたらよいという自由感が、主体性という部分の中の非常に根幹の部分だと思う。これがベースになって小学校は続くという、何かサイクル的なものの表現が欲しい。小学校は、何かがあったら、それがゴールになった時点で終わってしまうので、そうではなく、そのゴールは次の始点になるというイメージを小学校に出し続けてほしい。

○ 指導方法の改善のアクティブ・ラーニングについて、一体子供たちがどういう体験をして何をその中で学び合っているのかといったときに、教育者としての視点がとても大事になってくるのではないか。
    また、5領域の総合性と指導計画の関係は、「今日はどの領域でやりますか」ということではなく、(年齢によっても、教師のそのときの思いによっても違ってきたとき)「今日はこういう着眼点でやろう」という部分を「ねらい」という言葉で言ってきた。しかし、その辺のところが明確ではなく、先生方の経験と力量に依存してしまってきた部分があり、そこが今回の大きな課題。可視化することが大事。
もう一つ大事なのは、教育者が配慮して応答性がある指導をすることである。子供が見ていたからといって、自分の気持ちに気付いて言語で話せるかどうか。言語化してくれる大人が必要である。そこに幼稚園の集団保育の良さというものがあったのではないかと思うので、その辺を指導計画に関連して書いておくとよいのではないか。

○ 幼児期においては、まねて学ぶことは基本であり、まねて学ぶことがなくして学びはない。深い学びを追求する余り、浅い学びを軽視しないということを大事にするべきではないか。

○ 「個別の知識・技能」をスタートとして、学びの過程が一方向に流れるというのは基本的に幼稚園児ではあり得ない。一方向だと、全てが収まるような形のイメージになってしまうのではないか。情意面の「感じる」というようなことが、幼児教育の中に位置付くような3つの円でベン図のような形にした方が良いのではないか。

○ 対話的な学びについても最終的には自己との折り合いとか、向かい合いとか、葛藤とか、個人内では起こることである。集団で何かしらお互いができないと駄目だということではなく、個人の学びを中心として充実するようにしてほしい。

○ 主体的な学びの構造の中で、安心感、安定、探究心が学びの前提条件としてある。しかし、最終的には振り返りとか見通しということとなると、幼児期に高度なことを求めているようになる。幼児期は、体験を基にして、子供たちが学んでい姿を見えることが大切で、その姿を評価する方向で良いのではないか。

○ 幼児教育の場合には、一直線に行くものではなく、行ったり戻ったり、いろいろなことが起こるといったことのイメージ化ができることが必要ではないか。また、三つの学びが横並びではなく、幼児教育ならではの図の見せ方というのが必要なのではないか。特に深い学びと考えたときに、幼児教育の一つの独自な面として、多くの失敗ができて、その中で、新たなやり直しができ、そのことが自己肯定感につながったり、新たな思考を生んだり、また気付きになったり、感情をコントロールできることにつながっていく。幼児期は、いろいろな学びがあるような形にできると良い。

○ 幼児期の学びの過程については、行きつ戻りつが重要なのではないか。ここで取り上げている一つの活動の前後全てが、幼児期ならではの試行錯誤の一つの出来上がっていく過程であり、面白さだと思うので、遊びを選ぶというより、作っていく、生み出していく、生まれていくという感覚のところが出ていると良いのではないか。
また、深い学びの過程のところだけでなく、気付きとか発見というのは、どの過程にもあるのではないか。何か底に流れる気付きがあって、気付きつつ試行錯誤していくというのをここの図のところで挙げると分かりやすいのではないか。

○ 振り返り、見通しは大体5歳半ぐらいにならないと身に付かないので、年齢軸を入れると良いのではないか。

○ 5領域と学びの過程がどうつながっていくかという説明が必要ではないか。また、学びの過程では、イメージ図の中に循環が入ってくる必要があるのではないか。

○ 主体的な学び、対話的な学び、深い学びの過程について、一番大事なのは主体的な学びではないか。この主体的な学びを保障するものとして、教師が意図する環境構成があると良いのではないか。
    また、「教師の幼児の活動に応じた援助」というと、直接的な援助のイメージがあることから、興味や関心、活動が広がるような環境を構成するというニュアンスの言葉があると良いのではないか。

○ 自分なりの意義であるとか、それから価値を感じるということが深い学びにつながっていくのではないか。その中で新しく気付いたり、発見したりということになっていくと思うが、それがものの見方であるとか、考え方につながるのではないか。そのときに、教師が価値付けるとか、そのような教師の姿を見せるといった教師の関わりとしての人的環境というものが重要ではないか。事例のところでも、人的環境としての教師の接し方についても具体的に書いていただくと分かりやすいのではないか。

○ この学びの過程のイメージを見ると、教師が答えを早く出し過ぎるというところも感じる。幼児期は、失敗から学び、なぜそうなったのかということを自発的、自主的に学習する機会が、もっと増えた方が良いのではないか。子供たちが成長した後を考えて、あまりブレーキを掛けないような教育が重要ではないか。

○ 子供が教師の「ねらい」から外れてくることもあるが、その中でこそ面白い体験をしていると感じられるのが幼稚園の先生なので、ここを何とか表現できるイメージ図にしてほしい。あまり先生の意図に収束するという方向に持たなくても良いのではないか。

○ 事例において、生活科とはどのように異なるのか。生活科等において整理された学びと、ここに書いている深い学びの過程や対話的な学びの過程というものと、どう関連していくのかといった整理をしておかないと、現場の先生たちが実際に子供たちと向き合ったときに混乱をしていくのではないか。

○ 生活科でも知識の項目を増やすのではなく、子供の気付きをもっと広げるとか、深くなるとか、もっと粘り強くやるとか、もっと広い範囲での協同ができるようにした方が良いのではないか。

○ 小学校以上の先生たちがこの事例を見たとき、幼児期の深い学びは数量が出てこなくてはいけないとか、小さい子の世話をすることなのかというような取り方をされてしまうのではないか心配である。学びの過程についても、一番下に書かれている「教師の幼児の活動に応じた援助」という言葉は、活動させるための援助と受け止められてしまうことはないだろうか。それよりも、幼児理解に基づく援助とか、もう少し子供に寄り添うような言葉が出てくると良いのではないか。

○ 幼小連携という言葉が全面的に出ることによって、幼稚園で小学校の教育内容を前倒しするのではなく、小学校の学びにつながるような、遊びや体験、経験というのを大切にしていくことが重要である。

○ 幼児期は、教師の持っている枠の中で子供たちがさせられるのではなく、思う存分世界に関わりながら、法則に気付いたり、感動したり、美しさを感じたりして、本当に豊かな経験をするのではないか。豊かな経験とは、いろいろなことを感じたり、それを不思議だと思ったり、もう1回やってみたり、繰り返しやってみたりする中で、学びが深まっていくこと。それが認められているのが、幼児教育であり、幼児教育の特性であるが、今の子供たちはこのような豊かな生活が認められていない。そういう子供の育ちの中で日本の子供たちが育つということはどういうことなのか、という視点で幼稚園教育要領が語られていくことが大事なのではないか。

○ ここに示されている学びの過程という中で、5歳のこの時期になってくると、生活科と非常にオーバーラップしてくるところがあり、その辺りをどのように、総則の教育課程の編成という中に書き込めるかというのが課題ではないか。また、教育課程の編成に、もう少し長いスパンで見ていくことの大事さというものを入れていかなくてはいけないのではないか。
現行の幼稚園教育要領の中では、「心動かされる体験が次の活動を生み出すことを考慮し、一つ一つの体験が相互に結び付き、幼稚園生活が充実するようにすること」という記述があり、アクティブ・ラーニングにつながる内容が書かれている。これは満3歳から小学校就学前までの時期全体を見通しているが、それを教育課程という入園から修了までの中でどのように子供たちの学びの過程が広がり豊かになっていくかということを書き込むことが課題ではないか。

○ 挙げられている事例の活動の本当の良さというのは、いろんな要素を持っていることを先生も自覚して、それをやっていくうちに、それぞれの子供の持っている興味・関心というものが、一方に偏っているならこの要素を入れなければいけないというような形で保育していることであるので、そこを表現してほしい。

○ 個にポイントを当てた子供の学びとは、順序性もなかったり、いろんなことが起こったりすることがあり得る。先生が初めに正解を教えるようなこと、正解を持っているということ自体がおかしいことである。このため、十人十通りの学びのプロセスがあるという前提で子供たちと関わっていかないと、個の学びも充実しない。この個別の支援が教員の役割であることをもっと主張していくべきではないか。また、小学校の先生の意向に合わせるのではなく、幼稚園の先生から小学校に伝わっていくというのが大事なのではないか。


7.幼児期にふさわしい評価の在り方について

○ 幼小の連携・接続を考えた時、双方の教員が互いの子供の姿を見る機会を補償することが重要になる。小学校教員が幼児を観察し、遊びの中で子供がどんな能力を発揮しているのか、何を体験し、どう学んでいるのかといった具体的な姿を目にする機会がなくては、連続性を考えることも難しい。また幼稚園教諭が、卒園した子供が小学校でどのように学び、どう育っているのかを見ることは、育ちの見通しを持つために意義深いだけではなく、自己の教育の何よりの評価となるのではないか。
そういった長期的なスパンでの評価の視点を持たなければ、教育における評価は希薄で軽率なものになりがちである。実際の子供の姿を見る研修機会の充実を図ることが、それぞれの教員の資質向上につながると考える。

○ 幼児期にふさわしい評価を考えた時、「子供の学び」は何かを「事実」を通して捉えるということの積み重ねが大事であると考える。
また、学びの過程を大事にするためには、「子供の学び」を捉えるときに必ず「事実」をどのように「解釈」しその学びを捉えたのか記録しておくことが欠かせない。そうすることで、事実の中には具体的な子供の姿とともに環境の構成や教師の援助も明確になる。解釈することは幼児理解を深めることになり、教師の関わりの意味を自覚することにも繋がる。遊びの中の学びは何かを明らかにするとともに、教師の関わりの評価も同時に行うことになり、幼児期の教育を充実・発展するためにふさわしい評価であると考える。


8.幼稚園におけるカリキュラム・マネジメントについて

○ 園としてどういう教育をしていきたいのか、どういう力を育んでいきたいのかなどを明らかにしていくためにも、カリキュラム・マネジメントをしっかりやっていくことが大切ではないか。幼児期の教育は見えにくいと言われる中で、保護者や地域に説明責任をしっかりと果たし、相互理解を深めていくことによって、地域や保護者、家庭などの協力を得て、子供の健やかな育ちをこれまで以上に保障できていくのではないか。そのためにも、地域の教育的素材を取り入れるなど、カリキュラムをマネジメントしていく視点も大切ではないか。

○ 私もいろいろな研究会の講師経験の中で、一つ前の学校種、例えば中学校の先生たちには小学校を見てもらうということをあえて研究会のスタートでいれて、小学校の先生には1回中学校に行って中学校で何が変わるのかというのを見てもらってから研究に入るようにしている。なかなか文章だけでは幾ら表しても理解しにくいところがある。カリキュラム・マネジメントもあるとは思うが、幼小接続の際にも、そのようなことが盛り込まれていかないと本質的にはなかなか変わっていかないのかと、現場を見て思うところである。

○ 教育要領の基本的な方向性については、現行の教育要領から大きく変える必要性は感じておらず、むしろ、その最低限の規準(ナショナル・ミニマム)がクリアされているか等をチェックするためのカリキュラム・マネジメントが重要ではないか。個々の園の独自性は保障しつつ、国に認められた教育機関としての規準を満たすことができるような仕組みづくりが必要ではないか。そのためには、地域や他校種との連携体制も重要になってくると考える。


9.幼児教育の特性等に配慮した教育内容の改善充実について

○ 平成24年に文部科学省から「幼児期運動指針」が出た際、幼児の遊びや生活習慣とか、幼児の体力、運動能力の調査を5年間かけて行った結論から言うと、遊びの力はすごいということである。決して運動ではなくて、体を使った遊びだからすごいのではないか。いろいろな研究において、幼児期に体を動かす時間が減っているということもあるが、それ以上に問題なのが、いろいろな遊びになっていないということ。遊びの固定化により、いろいろな経験をしているはずのことをしていない。結果的に、このようなこともできない、このようなことも身に付いていないということになる。生活スタイルがどんどん簡便で動かなくてもよい方向になっており、これは教育の中で手を打つしかないだろうということがそのときに非常に明快になった。

○ 現場では5領域を領域別ではなく、総合的に指導ということで、一つの遊びの中にもいろいろな多角的な視点があり、育ち合うということの意味が、現場では結局、実践で何をすればよいのだろうというところになってしまう。その間の過程を、年齢によっても当然違ってくるということをどう示せるかということが結果として幼稚園教育要領が浸透し役立つということにつながるのではないか。大きな意味では、この幼児期の長い見通しの中で、身体性をどう作っていくかとか、精神性をどう作っていくかとか、好きな遊びをするといっても、自分で自己決定できるとか自己形成とか、子供たちの体験を教育的配慮でもって言語化してくれる教師がいたときに、その体験が記憶となり、思い出して、それをもう一度、遊びの環境があればそれを再現できる。その辺の構造をどこかでうまく明文化できれば、幼児教育の中身そのものが小学校の先生や第三者の方々にとって意味を持っていくことになるのではないか。

○ 何か皆で成し遂げるという自分がどういう役割を担っているのかとか、そういうカリキュラムを幼稚園の方でもたくさんやることで、自分の自己肯定感が持てるのではないか。

○ 音や音楽に内在するリズムや響き、抑揚といったものは、人と関わる上でも、生活とか遊びの中で生きてくるような資質につながるので、これから視点として入れていただきたい。コミュニケーション能力を育てるということ、メタ認知的な能力の基盤が、こういったところから育っていくのだということ、これが単に領域の表現の中の特定の音楽というようなことが芸術表現のみにつながっていくのではないというところの観点が加わると良いのではないか。

○ 幼児期の豊かな遊びを通じた学びが広がる一方で、それが子供たちに大きな負荷になっているとすれば、どこかで小学校に上がるための準備について、幼稚園教育要領、学習指導要領の中に書いてもよいのではないか。

○ 文字を読み書きということではなく、本の読み聞かせをたくさん、絵本を中心に、絵本なり紙芝居をたくさん聞かせてもらって、文章独特の表現に親しんでおくということも非常に大事。

○ 領域の言葉には、思考の部分が入っておらず、領域の環境にある思考を伴う言葉と一緒に表現するのか、分けていくのかということも議論した方が良いのではないか。

○ 粘り強さであるとか、自己コントロールであるとか、集中するということであるとか、そういった非認知能力を幼児期に豊かにしておくと小学校以降で大きく花開くということが盛り込まれると、更に良いものになるのではないか。


10.幼稚園における子育ての支援の在り方について

○ 幼稚園に入園する前の生活、基本的には入園してからになるが、実態として、特に入園当初の家庭教育の生活実態というものを踏まえた幼稚園教育と、その文化の接続と段差をどうするかというのは少なくとも教育課程の最初では若干意識する必要があるのではないか。それが結果として幼稚園教育、子育ての支援という部分に、家庭教育をどう充実していくか。幼稚園でやっている体験が一体どういう意味があるかということの家庭へのフィードバックが必要ではないか。その意味が分かればもう少し子育ての部分も変わっていくのではないかと思う。

○ 子育ての支援において、幼児期の教育の大事さということを家庭にしっかりと伝えていかないといけないのではないか。

○ 幼稚園における子育ての支援とは何かということの一定の整理が必要ではないか。幼稚園は、特に、地域の未就園の方々がこの時期にどういうことが家庭教育として大事なのか、また、遊びというものが子供の育ちにどういう意味があるのか、どういう体験をしておくことが幼児教育を含めた学校教育につながっていくか、インクルーシブも含めてどこの窓口に連絡したらよいかなどの情報提供を行う幼児教育センター的な位置付けとしてより明確にしていく必要がある。

○ 子供を通して保護者自身が子供の魅力や幼児期の教育の大切さに気付くことともに、それが地域へ広がっていくということがあるので、子育ての支援では、保護者自身をエンパワーメントしていくことが大事なのではないか。
今後の地域学校協働本部の中核を担っていくのは、恐らく幼稚園の保護者だと思うので、その担い手としての幼稚園の保護者を育てていくということが子育ての支援に埋め込まれるとよいのではないか。

○ 保護者には多様な保育ニーズがあり、それに全て対応していくことは、機能的にも難しいのではないか。教育基本法第10条、家庭教育において、父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有すると規定されていることを踏まえ、今の時代に適切に対応した子育ての支援の在り方を論議していくことが必要ではないか。
また、現在、幼小の接続に関連して、子供の学びをどうつないでいくのか等について論議されているが、その中で、親も小学校に適切につないでいくという視点もあってもよいのではないか。

○ 育児不安だけではなく、育児困難感というのが今、問題となってきているので、そこに手を伸べるという、一歩踏み込んだ考え方を取り入れることも大事なのではないか。
全ての子育ての支援を幼稚園だけで行おうとせずに、心理の専門家であるとか、保健分野、小児保健の分野の専門家とか、福祉、医療の専門家を含めトータルでチームを組んで子育ての支援に当たるという考え方も取り入れてよいのではないか。

○ 行政として子育てに関する啓発活動を行っているが、回数が限られており、実際に周知するのは、直接保護者に関わっている幼稚園の先生ではないか。
市の行政としては、幼稚園の先生が子育て支援に関わることで市民一般に周知できる機会となり、また、子育て支援を教育委員会が実施していることであれば、小学校や中学校というように子育て支援の一つの流れができていくのではないかと考えている。

○ 子育ての支援の基本的な考え方として、保護者の方と子供の育ちを共感的に喜び合うこと、子供が育っていることを理解し伝え合えることが大切ではないか。先生が、保護者に対しても、小学校や園内の先生方に対しても、子供の育ちについてしっかりと語ることができる、伝えることができる力を付けるということが子育ての支援につながっていくと考えている。
また、就労している保護者の方の思いを共感的に理解することも必要ではないかと考えている。

○ 子供の育ちのために子育ての支援があるということを大事に考えたい。例えば、保護者が保育に実際に参加して、他のお子さんの様子や他の保護者の方の関わりの様子を見ながら、自分の子育てについて見直し、子育てについて前向きになっていくような、実際に教育課程内に行っている保育の重要さをもう少し前面に出るような方向で充実していけるとよいのではないか。

○ 家庭や地域の教育力の低下が指摘される中で、文化の視点で言えば、幼稚園は文化を豊かに実践している場だと言える。例えば、伝統的な行事が行われていたり、唱歌や童謡が歌い継がれたり、わらべ唄などの昔ながらの遊びが日常的に見られたりする。一方で、保護者を含めた地域全体が文化的な営みから遠ざかっている状況も場所によっては多いのではないか。そういった状況では、保護者はどうしてもマスメディアやネットからの情報に依存しがちである。
そう考えると、保護者が実際に文化に触れたり、実践できる場を園が提供したりしていくことが、これから必要ではないか。以前ある幼稚園で、お母さん方が集まって唱歌や童謡を歌うサークルをしている場面に遭遇した。そこからもれ聴いた歌声や、家で鼻歌混じりに親が唱歌を歌うのを聴いて、子供が自然に覚えて口ずさんでいた、というエピソードを伺った。
小学校学習指導要領の音楽科の目標として「音楽経験を生かして生活を明るく潤いのあるものにする態度と習慣を育てる」とあるが、そこへの接続の観点から考えれば、周りの大人が文化を実践している姿に、子供が直に触れることの重要性を感じている。幼稚園が、保護者が文化に触れたり実践できる場を提供したり、地域の一つの文化拠点となっていくことも、今後、子育て支援の一つの視点として重要になってくるのではないかと考える。


11.幼稚園における「教育課程に係る教育時間の終了後等に行う教育活動」(いわゆる「預かり保育」)の充実について

○ 若い先生は、いきなり子育ての具体的なアドバイスを保護者にはできないので、一緒に子供の自立をどう支えていくかということを保護者と考え合える関係を作りつつ、幼稚園として、子育ての支援の体制をいかに作っていくかということが課題ではないかと考えている。

○ 幼児の生活の現状を見ると、日本の子育ては母親に随分偏っているという感じを持っている。イクメンは増えつつあるが、まだまだ少数派であることから、もっと家庭における父親の育児参画というところを取り上げてもよいのではないか。
欧米と比べると、日本の父親の育児参加は非常に劣っており、最大の障壁は、長時間労働である。幼児期は、一番、子供のかわいい盛りでもあり、幼稚園に行く父親のドライブが掛かるような何か仕組みを考えて、また、その父親が、子供が小学校に入ったら、PTAなどといった活動に参画できるような世の中にしていくムーブメントを起こしていくことが必要。そのために、企業においても父親の育児参加を啓発していくことも重要ではないか。

○ 預かり保育の長時間化、就学前の長時間化ということを前提にすればするほど、教育課程外の教育活動の活動内容の一定の整理なり、示唆というものを幼稚園教育要領に明記しておく必要があるのではないか。
教育課程以外の預かり保育の時間を活用して、体験の質を向上させていくという視点も必要である。できるだけ教育課程内の時間と同じ担任の先生との関係性だけではなく、違うタイプの方と対話することを通じて、認知力が変わっていったり、社会への適応力が高まっていったり、また、昼間の教育課程への影響も期待できる。この場合、預かり保育を担当する教師の役割というものが非常に大事になってくるので、そのための研修の視点なども整理する必要があるのではないか。
教育課程以外に行った教育活動について、預かり保育を利用していない保護者にも発信する必要がある。また、運動会の練習とか夏の暑い時期に教育課程内の活動をしたときには、教育課程以外の時間は静の時間にしていくとか、そのウエーブも考えておかないと、体験の質の向上にはならないので、こういった点も整理する必要がある。

○ 今後、預かり保育を受ける子供が増え、また、時間も長時間化する傾向を踏まえると、早朝、教育課程内の時間、午後、さらに夕方という、それぞれの時間で子供がどのように生活をしていたかということ全体を、見通しを持って把握することが幼稚園として重要になってくる。それぞれが細切れに変わっていくということではなく、1日の園生活全体をどう計画してデザインするかということの構想が必要になるのではないか。

○ 預かり保育の時間が教育課程以外であるということがあるが、その保育内容の在り方の整理で、最低限何が保障されなくてはいけないのかということをもう少し明記しておく必要があるのではないか。

○ 預かり保育では、幼児一人一人の個のニーズということが、もう少し尊重されなくてはいけないのではないか。人数が多くなって、異年齢であっても、同じ時間帯、同じ活動の流れで活動が進められていくときに、そこで子供が追い立てられたり、一人一人のニーズが軽んじられたりすることがないように、丁寧に見ていく必要がある。
また、預かり保育こそ、子供の1日の生活の見通し、子供の育ちの見通しを持てる教育が担当することが必要ではないか。

○ 家庭の子育ての支援ということを含めてであるが、家庭教育と地域の教育と施設における教育、この全てを面として、幼児教育をどう捉えていくのかという発想で整理していく必要があるのではないか。特に、今の保護者の方は自分の子育てを否定される情報を排除する傾向があることから、正しい情報をしっかりと発信していく必要がある。

○ 子育ての支援にも関係しているが、預かってもらうということのメリットだけが一人歩きしがちなところがあるので、このことに警鐘を鳴らすことが必要ではないか。優れた取組も実際にあるので、こうした取組が広まっていくことが大事ではないか。
 
○ 子供は24時間を生きているので、コアの4時間の教育時間、その後の預かり保育といった輪切りではなく、1日中全体を通して見る視点がとても大切なのではないか。また、その際の保育者の援助の在り方、狙いの持ち方というものも丁寧に見ていく必要があるのではないか。

○ 小学校の学童保育を含め、現場からは、人手が足りていないという声を耳にする。人員の確保と、先生方の勤務体制をどうやって作っていくのかというのは喫緊の課題であるので、そういった論議も必要ではないか。

○ 親が親になるチャンスを奪うような預かり保育であってはいけない。預かり保育の充実といった視点だけでなく、教育課程内の時間の充実を図った上で、預かり保育は子供がほっとする時間にするといった視点も必要ではないか。そういった意味で、預かり保育の上限の時間についても議論しておく必要があるのではないか。


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