資料3 教育課程企画特別部会(第13回、平成27年8月5日)における主な意見

平成27年8月20日
教育課程企画特別部会

1.育成すべき資質・能力と学習指導要領の構造化等について

  • カリキュラム全体の構造について、伝統的な内容、コンテンツと、資質・能力、コンピテンシーやリテラシーという二つの要請に対して、教科の横の軸、各学校種の縦の軸の中にどのように構造化していくかということが問題になっている。コンテンツだけであれば各教科の一つ一つの枠に収まるのであろうが、コンピテンシーやリテラシーというのが入ってきた途端に、そこが収まらずに構造化する必要が出てきているということだと思う。教科横断という視点から考えると、文系、理系的な発想で考えていく限り、教科を超えていくようなコンピテンシーやリテラシーでつないでいくことはできなくなると思う。秋以降の各教科等の専門的な検討の際に、これは文系科目だ、理系科目だみたいなことが付いて回るととても大変まずいと思っている。高等教育段階においても、それを超えたような能力や資質を持った人でないと、国際的な活躍はできないと思う。
  • 学校間の連携、接続、教科間の接続などについて、前置きを作り、全体の構造に対する意図を示してみてはどうか。教科横断と言ったときに、まず教科があってそれを横断するというのではなく、どのような学びをしてほしいかをまず書いて、そうするとおのずと各教科にまたがってこざるをえないということだと思う。校種についても同じことが言える。
  • 各学校種間の縦の構造について、今回、英語で出していただいたような、各学校種を超えた見取図のようなものが大事だと思う。専門課程に進んで、将来それを専門職にしていくとなると、高度な問題解決には領域固有知識の豊富さが圧倒的に重要で、思考力だけでは問題解決できないので、そのバランスを考えた全体の構造の中で、縦の構造をどう考えるかということが大事。
  • ある種の優先順位をつけてスクラップ・アンド・ビルドをしないと、やることばかり増えてカリキュラムは量的にパンクしてしまう気がする。ある種のコンテンツの整理をしていく必要があり、そのための共通な論理を作っていかざるを得ない状況にあると思う。
  • 特に前半について、社会の変化と学校の役割、学校で培う資質・能力、それを担う各教科の役割といった観点で、よく整理されていると感じた。「社会に開かれた教育課程」については、社会が新たに活力を持つようにするために、創造的、革新的、あるいは社会を作り出すといった、子供たちの能力・資質についてのポジティブな側面をもう少しメッセージ的に書くという方法もあると思う。
  • 「資質・能力」といったときに、どのようなものをイメージしているのか、本部会において具体的にどのようなことを考えてきたかをわかりやすい形で示してはどうか。
  • 批判的能力や言語論理的な能力、メタ認知などについて、各学校段階でどの程度の標準的なレベルを想定し、教育課程として横並びにするかということが一つの課題ではないか。
  • 高等学校の科目の今後の方向性に関する資料について、これは高校のレベルだけの話なのか、あるいは小学校や中学校まで関連付けて構成されるように意図されているのか。例えば、「公共」は、社会科を超えて、家庭科的な部分もあるし、情報的な部分もある。また、特別活動や総合的な学習も結び付いている。この場合に、下の小学校や中学校の社会科とはどういう関係があり得るのかということが想定されているべき。
  • 子供たちが教科の中で培ってきたものを使って、いろいろな問題や課題を解いていく活動に生かされないといけないが、そのためには、各教科と特別活動や総合的な学習の時間との関連や、小、中、高等学校の関連を意識して、資質・能力が全体的に向上するようなプログラムとして教育課程が作られないといけない。
  • 「社会に開かれた」というときに意味するものは、一つ目は、社会で使うことができるというもの、二つ目は、社会に役立てるように使うというもの、三つ目は、社会にどのように対面するかというもの。これらを、それぞれどういう形で、教科と教科外で担わせるのかについて一定程度イメージとして持たないと、計画としてなかなか先生方に伝わらないものになるのではないか。
  • 学校の枠組みの中でしか語れないにしても、学校で学んだことが将来どのように社会的に位置付けられるかということを踏まえて、少し枠を越えてしまうかもしれないが、どのような社会を目指して各教科について記述したということが示されるといい。
  • 「開かれた教育課程」について、社会に出ていく子どもたちを育てると言うとキャリア教育となったり一元的な考え方で捉えられがちであるが、さらに、どのように文化を担うか、どのように市民を育てるか、という意味での社会に開かれた教育課程であるということを入れてもいいのではないか。
  • 学習困難な生徒がやはり一定数存在するが、こういった方に対する学び直しなどの配慮についてもう少し検討することは、社会全体にとっても非常に重要ではないか。

2.学習指導要領等の理念を実現するために必要な方策等について

  • 教員の質の向上のための方策として、研修の機会の確保や指導主事の力量の向上といったことが書かれているが、やはり教員の育つ場所というのは子供のいる学校。どこかで講演などを聞いて、それで力量が高まったということはほとんどない。子供のことについて子供のいる場所で語ることが大事。そのような意味でも、学校を訪問する指導主事の力量が問われる。その指導主事の力量などをどのように付けるかということについては、講習などでの伝達だけではなくて、議論をすることが重要。新しい学習指導要領について、教員がいろんな人を交えて議論をすることで、やっと腑に落ちることとか、具体的にどうすればいいかということが見えてくるので、是非そういう形で進めていっていただきたい。
  • 「とりわけ、各学校における教員の学び合いを貴重とする『授業研究』は、我が国において独自に発展した教員研修の仕組みであるが、近年『レッスン・スタディ』として国際的な広がりを見せている」という記述については、とても大事なことかと思う。文部科学省がリーダーシップを取って、この新しい動きを作ってきたところはあるが、現場の創意工夫でくみ上げ、それこそ我々が想定している以上のものを作る力が現場の先生にはあると思うので、それに期待していきたい。現場の先生方が日常的に子供に学び、そこから積み上げ、新たなものを創造していくことを支援していくということ、授業研究という在り方をより本質的にし、そこにおいて抜本的な転換ができるような質的な支援をすることが、見込みがあるのではないかと思っている。どうしても新しい動きを周知徹底するというと、上から下に向かって伝達講習的におろしていくというふうにしがちであるが、そうなると、どうしても言われたことしかやらないということになりがちで、形式的な側面に陥ってしまう。アクティブ・ラーニングも、アクティブ・ラーニングというのはこういう行為をするんですねというふうに誤解されがちであるが、理念を御理解いただいて豊かに花開かせていただくためには、現場を基調にして子供の事実に即してやることが大事で、ここに一文置かれることはとても大事だと思う。
  • 近年、実際にアクティブ・ラーニングを授業研究の場で行うことによって、ベテランの先生方だけでなくて、若い先生方が闊達に意見を述べつつ議論するようなことが広がってきている。それこそ、教師が日常の自分たちの授業を検討する中でアクティブ・ラーニングを実施することによって、子供の授業もアクティブ・ラーニングに転換していくということが期待されるのではないかと思う。今後、これを支援するために教育委員会や文部科学省のスキームをどうするかといったことが検討されていくといいと思う。
  • 我が国において独自に発展した教員研修の仕組みというものが、どのような意味で特徴があり、注目され得るのかということをもう少し詳しく示していただきたい。
  • ICTに関わるものの書き込みが少ないのではないか。今はほぼ全てが、外国から入ってきたアプリケーションなどに委ねてしまっているような状態であるため、日本として情報化にもっとしっかり力を入れながら、活用から開発に至るまでリードするような力を付けることについて、もし書き込めるようであればありがたい。
  • 教員に時間的・精神的余裕がなくてなかなか本務が遂行できないということについて、これまでも随分議論されてきたが、教員への支援も含めた環境整備が重要であることは論点整理案においてしっかり位置付けるべき。
  • 先生方は、大学を卒業してすぐ先生になり、社会の中のほんの一部である教育の現場のみで生きていくということも多いので、座学だけではなく、先生方も社会性を磨くための外に出ていく研修を行うことが必要ではないか。
  • ビジネスの世界から学校に来て思うのは、ビジネスはビジネスで非常にビジネスの世界に寄り過ぎていたなという部分があり、それはそれで閉じているというか、それ以外の世界もあったのではないかと考えている。横浜市などは、今、5年目の教員を、夏休みを活用して民間企業へ出すという取組も行っており、非常にいいと思う。また、10年目、20年目の先生方も、出前授業などを通じて色々な世界に触れていただくのはとてもいいことであるので、開かれた学校を実現することによって、日常の授業がイコール研修になっているというふうにならないかなと思っている。
  • 社会に開かれた教育課程の実現に向けて、学校現場において、教員自身が試行錯誤の段階で、失敗してもいいんだ、リカバーは「チーム学校」でやっていこうというようなことをぜひ記載していただきたい。どうしても先生方は、失敗してはいけない、何もしないのが安全というようなメンタリティーにとらわれがちであるため、新しいことへチャレンジする精神や、アクティブ・ラーニングとかクリティカル・シンキングといった新しいことを取り入れていこうということを評価するといったような文化の醸成をすることが必要。
  • 全体を通して、18歳までに何を身に付けていくべきかという視点から、幼小、小中、中高という接続の形がいろいろなところに工夫されて記述されているということにとても感心した。特に幼小に関しては、きめ細かく内容を入れていただけたかなと思う。研修については、実際に授業や実践、幼稚園における実践、小学校における実践等、見合うことがとても大事。実践を見合うような研修の在り方については、接続に関しても非常に重要だと思っている。
  • 先生方に私どもの会社に30名ほど来ていただいて、実際に職場の経験をしていただくとか、社員とのディスカッションをしていただいたりした。先生たちは、英語の実社会での使われ方が分かりましたとか、ICTというのはこんな勢いで普及していて、仕事に使われているのが分かりましたとか、会社では効率的にスピードをもって進められているんですねというような感想を言っておられた。このような取組は非常に大切だと思うので、続けていきたいと思っている。

3.各教科等における改訂の方向性等について

  • 道徳教育については、今までの道徳教育の弱点、読み物教材から受動的に登場人物、先人の心理描写を読んで、それを単に知識として重ねていくことの反省に基づいて、このように変えていかないといけないということが書かれていて、それはいいと思ったが、加えて、そもそも道徳性というのはどのような範疇のもので、なぜ道徳教育が必要なのかということを書き加えていただけたらと思った。
  • 社会生活、社会活動に参加していくときに、内閣府の人間力戦略研究会の中でも、職業生活、市民生活、文化生活といった三つの側面を考えようという話が出ていた。芸術活動等などの大人のやっている文化生活について、プロになるわけではないが、その活動を楽しんでいる大人たちがたくさんいて、そこに参加していく、その一端を学校で味わってみることで、自分の選択肢を広げていくということが大事。そのように考えたときに、例えば国語で、俳句や短歌を鑑賞するだけではなく、自分たちで俳句や短歌を作るといったような創作活動を取り入れるような観点から、「芸術的創作活動への参加」のような言葉が入ってもいいのではないかと思った。
  • 書道は芸術の一つであるとは十分認識しつつ、本来日常生活に生きていたものであることも認識すべきである。筆を使って手紙を書けるなど、一つのものを書くツールとして使えるようにしたい。これは日本のすばらしい伝統文化でもあると思うので、そういった日常に使える書という観点もあればいいかなと思う。
  • 「公共」については、社会に参画することの前提には、一人一人が幸福で自由に生きていくということがあるため、公共こそ、人間としての在り方、生き方のところに、豊かで自由で幸せな人生を歩む人間としての在り方、生き方といった観点を入れるといいのではないか。
  • キャリア教育イコール職業教育ではない。キャリア教育というのは、人生をどう生きていくかという教育なので、必ずしも職業に特化してないはずであるが、これを読むと、そのように読めてしまうので、どこかでキャリア教育とは何かということを入れておいた方がいいのではないか。例えば、「社会的・職業的な自立」といったときの「社会的」というところには、専業主婦や障害や疾病を持っていらっしゃって職業にはつけないけれども社会に関わっていくという人たちのことも入っているが、皆職業を持っている人というかたちで結びつけたがる。キャリア教育についてしっかりと書かないと、なかなか正しく伝わらないのではないか。
  • 音楽、図画工作、書道なども、学習レディネスを鍛えることに有効。これらの教科を通して芸術を知るだけでなくて、指導者に視点があればそれをやることによって目や手の訓練になるし、指導の仕方によってセルフコントロールの土台も作れるし、メタ認知の強化にもなる。解説の中に、発達の視点も育てられる、問題解決のスキル等も育てられるのだということを書いていく必要があると思う。
  • 保健体育のうち保健については、教科書の情報はどんどん古くなっていく。例えば、疾病、障害、脳科学などについても、日進月歩でデータや事実が変わっていくため、ICTを使った指導が必要。それと同時に、科学的に分析する、情報を吟味して分析して判断する力を育てていくことも保健体育ほど必要。
  • 教育基本法の教育の目的には、人格の完成とか、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質をとあるが、こうした資質を伸ばすのは当然、教科と教科外活動になる。こういった課題に直接的に対応する部分として、特別活動というのは非常に重要。特別活動というのは、子供たちが自分たちで考えて、それを議論して実行する段取りを付けて実行してといったようなアクティブ・ラーニングの典型になるし、また、日本の教師が学習指導と生活指導を統一的に実践してきたことが、戦後の子供たちの非常に高い教育レベルを維持してきた非常に重要な要因ではないかなと考えている。特に、今回、18歳に選挙権がおりてきたことや、社会との関わりが必要などといったときに、特別活動の位置付けはこれまで以上に重要になってくる。その意味で、特別活動に関する記述に、もう少し重みを置いてみてはどうか。
  • 今、子供たちが自然活動の中で学ぶことが少なくなっているので、生きる力に加えて、「生き抜く力」ともいうべき、何か危険に遭遇したときに、それを早く察知して処理する力や危険を回避する力などを、体育や保健体育で担っていかなければいけない。
  • 数学や理科のところに「数理探究」(仮称)の設置の検討について書かれているが、今のSSHで行われているようなことを考えても、大概テーマは理科的なところから入り、それに数学を若干使うかなという程度だろうと思っており、それだけで本当に今求められている力が付くのかという懸念がある。むしろ、数学の二つ目の丸の部分を必履修科目でこそやるべきだということを強調していくことが必要。必履修教科と選択教科の関連のようなことを検討していただけたらと思う。
  • 「数理探求(仮称)」について、現行の数学の数学活用、理科課題研究、総合的な学習の時間との関係はどうなるのかについて教えていただきたい。
  • 「主として専門学科において開設される各教科・科目」の項目は、職業に関する各教科・科目的な内容のように。理数科とか体育科などの専門学科もあるので、そういったところとの差別化をどうここでタイトルとして表現するかも御検討いただければと思う。
  • 「主として専門学科において開設される各教科・科目」の項目の「ミスマッチ」という表記について、どちらかというとギャップがあるという印象だが、ミスマッチそのものが果たして起こっているのかは疑問。
  • 「各学校段階の教育課程の基本的な枠組み」のところでは、法的なことと、後の教科のことで語られていることの前出しという形になっている。このように校種ごとに書くのであれば、各段階で必要な資質・能力のようなことをある程度例示をしないとイメージがわきにくいかなと思う。また、小学校や高校はいろいろ目玉がある一方で、中学校の部分が特に何もない。もし資質・能力で校種段階のことが書けないのであれば、学校段階間の接続ということで、校種を切らずに、並べて書くという方法もあるのではないか。

4.外国語教育について

  • 英語については、話すことが課題であり、もう一歩踏み込んだ活動が必要ではないか。表現活動や対話、発音について、普段の評価活動の中に何か入れていく必要があるのではないかと思う。そのようなことを評価すると嫌いになる子も出るかもしれないが、評価しないとみんながやらなくなってしまう。全く表現活動をしなくても、大学入試はせいぜい読む、書く、聞くだということになってしまえば、話す活動はほとんどしないままになってしまう。ここでこそICTだと思うが、例えば実際に外国人の子供たちとリアルなコミュニケーションを交わす場をできるだけ設ける。インターネットを使えば費用はほとんど掛からない。これについては、評価の対象にもなるくらいの抜本的なことが入っていってもいいのではないか。
  • 英語について、誰がどのように教えるかという点は非常に大事な点である。文化に対する理解というのは、外国籍の人、あるいは海外で長い経験を積んできている人の果たせる役割が非常に大きい。今現在も、外国語活動としての英語の一つの大きな目標、あるいは最終的にこれが一番大事だと言われているのは国際理解教育なので、そういうような観点を失ってはいけないと思う。日本人できちんと教え方を学んできた人の方が教えるのがうまいという点は明らかであるが、そのような人が国際理解までいけるかというと、なかなかいかない。その両方とも必要である。
  • ALTの採用基準について、ネーティブスピーカーという限定がかなり強いというのが気になっている。今、ネーティブスピーカーよりも、ノン・ネーティブスピーカーで英語をしゃべっている人たちの方が圧倒的に世界で多い中で、どこの国の人とどういう会話をしていくかは今後ますます多様化していくため、ネーティブスピーカーに限定してしまうのは好ましくない。国際共通語としての英語として使っている国の人たちであれば、十分にALTとしての役割を果たしていただけるのではないか。しかも、その方たちこそ、いろいろな文化の紹介をし、いろいろな形で子供たちに世界の多様性を認識させてくれるのではないか。誰が教えるかということも、何らかの形で論点整理に入れられたらいい。
  • 英語について、授業の成果を上げるためには、質の高い教員が指導することはとても重要なこと。J-SHINEの資格を持っている教員や、ALTでも、例えばTESOLマスターの方たちが教えれば、子供の英語は伸びていくと思う。帯学習やモジュールは、朝一斉にやるイメージが強いので、先ほどの優秀なALTとかJ-SHINEの資格を持っている方や中学校の英語の教員などが指導に当たることは難しいと思う。もしモジュールのような形で英語を指導していくのであれば、その指導を受けた子供たちの英語の力がどう伸びていくのかという成果の部分をしっかり考えないと、何となく、朝みんな英語をやっているがそれで終わってしまうということになってしまわないかということが心配。
  • 言葉を学んで一番必要なことは、語るべきものが何かということ。何を語るかが最終目標にあるということを根底に置いて教育がなされるべきであるということは強調したい。
  • 一般に英語ができるようになるには2000時間必要だと言われている。その中で、小学校で時数が増えたとしても、小学校から高校の授業時間数は約1050時間ということで、やはり家庭での学習が必要だと思う。短時間学習というのは非常に無理があると私も思うが、他の教科もやらなければならない中で英語をやらなければいけないと仮定すれば、短時間学習のやり方を工夫することはできると思う。例えば、英単語を音声で発するようなICT教材のようなものを活用して、英語のモジュール学習として、やりたい子はどんどんできる形にすればいいと思う。学校の役割としては、主体的に英語学習に取り組む態度の醸成をどんどん引き出していくということが小学校においては必要。中学校では他教科に比べ英語の時数が一番多いため、もっと使い方を工夫できないか。その中で、23ページの中学校教育の中で、外国語教育に関しては「抜本的な質的改善が求められる」と書いているが、これを国語でやるのか英語でやるのかは別にして、もっと論理的思考であるとかプレゼンテーション、スピーチ、ディベート、エッセーライティング、こういうものを英語教育において取り組めるような教科書作り、カリキュラム作りをやっていかないといけないのではないか。ALTを活用しても、英語ができることと教えることはまた違う力が必要になるので、別に外国の方でなくても、日本人の、例えば、J-SHINEの小学校英語の教え方を習得した方が小学校の英語を教えるというのも良いのではないか。現場としては、外国人という偶像がいるよりも、きちんと教えてくれる方が必要かと思う。
  • 中学校、高校における英語教育を進め方については、「授業を英語で行うことを基本とする」という部分が、効果も含めてどうなのかということの検証が必要な時期だろう。私が見た感じでは、授業の8割方を先生が英語でやっているというようなところは1割ぐらいしかないと思うが、そこで効果が上がっているのかと言えば、先生も子供たちもつらそうである。まず最初のうちは、簡単な指示が通らないので、何をやっていいか分からない子がいる。しかし、それは周りを見れば、周りが教科書を閉じているから、これは閉じるんだろうとか分かる。ところが、文法的な説明となると、周りの子が分かっているのか分かってないのかも分からない、少なくとも自分は分からないという状況で、分からないことがどんどんたまっていく。すると、先生は文法的な説明はしなくなるが、こうなると、訳が分からない。結局、英語嫌いにつながる。どれだけオール・イングリッシュということが中学、高校でなされているのか、やっているところは本当に高い成果を出しているのかどうかということが、もしデータがあれば出していただきたい。
  • 「外国語を用いて課題解決を図る力を育成するための言語活動の充実も図る」とあるが、「外国語を用いて課題解決を図る力」というのが具体的に何をすることなのか。例えば、数理的な課題や社会的な課題について外国語を用いて解決を図るということか。我々研究者でも、国際会議や論文で英語を使うが、課題解決を図るときには母語でやっている。このあたり、母語をある程度習得して、しっかり母語で物を考えるということと、グローバル化に対応した英語力をどうやって接続させていくのかというあたりの構想をしっかり持つべき。オール・イングリッシュとか外国語を用いて課題解決を図るというようなことが、説明を求められたときに説明しにくいので、是非これは煮詰めていただく方がいいかと思う。
  • 英語の授業を英語でやるということについては、以前のSELHi(Super English Language High School)のプログラムで、それなりの成果が上がったという。つまり、その中でいろいろな学校が、英語でディスカッションやディベート、多読、スピーチといった様々な試みを行った結果として、かなり生徒たち自身が積極的にこれらを英語をできるようになってきたし、先生たちがそういった授業を英語で指導する力もかなり付いてきた。そのような実績があったので、そのやり方を広げてはどうかというところから、英語の授業は基本的に英語でというのが始まった。同じ偏差値の学校では、SELHiの指定校の方が非SELHiよりも英語力が高い。また、センター試験の模擬試験の結果と照らし合わせても、SELHiの出身の生徒の方が非SELHiの生徒よりも高い点を取っていたという実証がある。ただ、半分以上の授業を英語でやっている学校がどれぐらいあるかというのは、地方によって千差万別で、大きく分かれている状況。英語の授業を英語でやるということに関して、学習指導要領の解説書を見ていただくと、これは一方的に先生が英語をしゃべることではなく、できる限り生徒たちに英語を使う場を提供することが基本的考え方なので、それが十分理解されていないのが大きな問題。文法の説明などの場合、英語でやって理解できないところは当然日本語でやっていい。全く100%英語でやりなさいとはどこにも書いてないため、そのあたりに関して、きちんと明記することは必要。
  • 言語技術と思考スキルがとても大事。英語で話すこと、書くこと、聞くこと、読むことを言語技術の一つとして始めて、これらが特別ではないと子供が思えるようにするには、やはり早い方がいいと思う。「10歳の壁」というが、それを超えると客観性が出てくるので、英語についてもためらいがちな年代に入っていく。そういう意味では、それよりも早い時期に英語を始めて、それも言語技術の一つとして指導していく必要があると考える。 当然、小学校では、英語が嫌いにならないように指導することが大事だし、そうできれば、それが理想だとは思うが、嫌いになる子はやはり出ると思う。ただ、嫌いになる子の年齢が下がることを恐れて、指導を開始するのを早めることを躊躇することはないのではないかと思う。
  • 教科横断的に育てるべきスキルとして、言語技術や思考スキルといったものを位置付けることの必要性を強く感じる一方、そのゴールは何なのかというところについて、学習指導要領の中に、「最終的に自分なりの考え方が持てる」とか、「英語でも話すべき中身を持っていられる」といったことが言葉として入ってくることが必要。
  • 英語について、「音声」と書いてあるところに、「音韻の指導もする」としっかり入れていく必要があるのではないか。平成26年度の外国語活動の実施状況の調査結果に、「音声中心で学んだことが、中学校の段階で音声から文字への学習に円滑に接続されていない」と書いてあるが、音韻の意識が育っていないと、いくら会話の練習をして英会話ができるようになっても、文字の読み書きにつながらないのは不思議ではない。言葉を浴びることは大事だが、言語学的な視点を入れていくことも大事。発達性ディスレクシアとか学習障害のある子供たちはそこでつまずく。国際ディスレクシア学会(発達障害の中の読み書きが苦手な人たちの国際学会)では、10人に1人はそういったタイプの脳を持っていると言っている。発達障害を含めた障害をもった子供たちもいるのだという前提がしっかり書いてある以上は、「音韻の指導」「音声(音韻認識)」とかと入れていただきたい。そうすることが、最終的に英語が絶望的にできない人たちを少しでも変えていくことになる。また、大学における英語の教員養成の段階で、しっかりと音韻指導も単位として入れていくことが必要なのではないか。
  • 音韻の問題については、知識としてきちんと理解できるようにさせるだけの時間が小学校で取れるならばいいと思うが、現状ではなかなか難しい。ただ、それに近いことで、今現在小学校でなされているのは、いわゆるフォニックスというやり方で、これは英語というのは単音ずつで分かれているという認識を育てるやり方であり、それが発音や読み書きに役に立ち、成果はそれなりに上がってはいる。現段階でわずか70時間ぐらいしか取れないようなところですと、それが最大限かなと思う。もう少し時間が取れるのであれば、もっといろいろ工夫はできるかなと思う。
  • モジュール学習については、技術的なものや形の練習といったものを育成するためには確かにそれなりの効果はあるかもしないが、直接コミュニケーションの育成には余り役に立たないだろう。コミュニケーションを実践するためには、もう少しきちんとした時間が必要。新しく系統的に英語を学んでいく場合には、知識として英語を学んでいく必要性はどうしても出てくるので、それを練習し、さらにそれをコミュニケーションの場へと広げていくという、この三つのものをきちんと包括できるような時間の使い方を頭に入れてやっていただきたい。
  • この学習指導要領に、言語技術として外国語と日本語を両方やっていこうというスタンスが書かれていく中で、世界共通語、English as a lingua francaとしての英語の必要性のようなものがどこかに記述されてよいのではないか。
  • これからの子供たちが早くから英語に親しみ、それが身に付けば、本当にそれにこしたことはないなと思っている一方で、本当に英語というものが何に役に立つのかというモチベーションのところを、子供たち自身にきちんと伝えていかなければならない。そこに大きなアプローチがなければ、結局、授業で学習しても身に付かない上に、嫌いな子も出てくるのではないか。小学校外国語活動実施状況調査において「将来英語を使って海外で働いてみたいと思いますか」という項目で、「将来英語を使って是非働いてみたい」「機会があれば働いてみたいと思う」と答えている割合が増えてきていると思うが、まだ半分以上の中学生がそうではないと答えていることを踏まえれば、英語を学ぶことと将来のキャリアが結び付いていないと思われる。ここを何とかしないといけないと思う。
  • 英語は、教科横断の観点からも重要。例えば、公共とか政治とか経済などいろいろなことを考えていく上で、英語が理解できて、英語で読む力があれば、日本が世界の中でどう評価されているのか、世界の人たちから見て日本がどう思われているのかということについて、英語から発信されるものによっていろいろな見方を理解することができる。
  • 自分の会社では、採用選考の際、最初に英語のペーパーテストをやっている。経年的に英語のテストの結果を見ていると、ずっと点数は上がってきている。ただ一方で、絶望的にできない人たちもいることも確かであり、この人たちがどうしてそうなってしまったかというような課題もあるかと思う。これからの世の中を見たときの日本企業というのは、英語の言語能力、あるいは英語的な発想の理解は必須だと思うので、今回、こういった形で御提案いただいた小学校から高校へ向けて、一貫して継続して能力を高めていくことについては非常に大切だと思う。しかし、小学校の中学年から英語ということになると、英語が嫌いになる年齢が下がるということにもなりかねないという恐れも抱いており、このあたりは相当教え方や教材の工夫が大切。
  • カリキュラム全体、科目全体を通してどのように論理的思考を学び、コミュニケーション能力を高めるかということが根底にあっての外国語教育になると思うので、各科目との融合・連携について視点としていれていくことも重要。
  • 「母語である国語で理解したり」という表現がある。今後、国語が母語でない人たちも日本で学校教育に関わってくると思うので、日本語で学ぶということは構わないと思うが、この「母語」という表現はどうなのかなと気になった。

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