資料4 教育課程企画特別部会(第8回、平成27年5月25日)における主な意見

平成27年6月9日
教育課程企画特別部会

1.育成すべき資質・能力と高等学校の充実・改善等について

  • 現行の学習指導要領は、小学校、中学校と積み上げながら作成されてきた結果、例えば中学校卒業段階での目標が大変な高度な内容になっている。今回の改訂では、高校卒業段階での到達すべき学力をきちんと明示した上で、そこから中学校、小学校の各段階で育成すべき学力の内容を検討してはどうか。
  • 今回の各教科の素案に、育成すべき資質・能力について書いてあるのは、出口の設定としていいことであるが、これらが各教科ばらばらであり、全体として何をどうしたいのかということが分からない。資質・能力自体を全体として関連付けるような観点が一ついるのではないか。その中で各教科がどのような担当をするのかが書かれないと、いつまでたっても狭い意味の教科の問題だけにしかとどまらないのではないか。また、高校は出口であるから、中学校や小学校との連携についても、検討の素案の中に出してほしい。新しい科目を作るとともに、もっと厳選し、特別活動や総合的な学習などとの連携を考えないと、あらゆるところで似たようなことをたくさんやることになるのではないか。
  • 18歳時点で社会に送り出すという視点から、小さい大人と扱ってどんどん社会と交わらせ、実体験を積んで成長させようという視点は非常に大事であるが、高校生の現状を見ると、これから先行き見えないとことへ飛び出すに当たり不安ばかり抱えているという状態で、大人とみなすにはまだまだというところが見られる。これを考えると、生涯学習のスタート地点に立っているという見方をし、学び続けるという素地を培うようなことを全教科でやっていく必要があるのではないか。そのような意味で、社会人基礎力のようなまとめは非常に参考になって、実際にSSHを進めているような学校でも、社会人基礎力を指針として授業構成を作り、成果も得られているということが報告されている。
  • 科学の進歩が大変激しいなかで、何が教えるに値する本質的なことなのか、何が喜びに通じることなのかを見極め、例えばiPSが発見されたときに、生徒に「こんなことが発見されたんだよ」と語れる教員がいることが大切。そのためには、教員の力量がますます問われるようになっていて、とりわけ理科目に対する教員の力量はかつてなく高いレベルのものが要求される。このような意味で、少なくとも理科目においては、博士の学位を取得した教員を大幅に拡充することを提案したい。
  • トップ層が薄いという統計データがあるが、これは国の産業の将来、ナショナルセキュリティ、国の誇りにとってかなり致命的な問題。その原因として、もっと学びたいという思いを押さえつけているような雰囲気がある。一つは科目数が多すぎて探究的なことができないということ、もう一つが、入試という関門があり、ここにおいては平均点が評価されがちなので、いろいろなことを万遍なく学ばなくてはならず、本当に伸びる時期に伸ばし切れてあげられないということを痛感している。探究的な学習を高大が連携して推進し、それを積極的に評価するようなシステムを作ることが必要。
  • SSH、SGHでは、課題研究を中心に、学んだ内容をどう活用し、探究し、思考、表現していくかというところがメイン。そして、それらの課題研究は、合同発表会などで仲間内で発表し合ったり、ほかの学校と交流して発表し合ったりする中で、彼らが探究したこと、考えたことがお互いに評価し合われている。そこでは、何をどれだけ覚えたかということはほとんど問題にはならない。そこに生徒たちは面白さを感じるし、学びがいを感じながらそれを一生懸命やる。このような意味で、一般のカリキュラムの中でこのような探究的な取り組みが行われていったときに、それがどのように評価されるかが大きな問題になってくる。
  • SSHとSGHを両方認定いただいているが、大変忙しい。いいことだからといって何でもやっていると、結局何かを省かないと成り立たなくなっていくので、今度の教育課程の中では何を中心に据えて、何をやらないのかということを明らかにしていく必要がある。
  • 高校こそアクティブラーナーを育てる最後のチャンス。これを高校で実践するためには、義務教育修了の15歳の段階までに何の力をどれだけ身に付けるべきかを明確化しておくことが大事。それを踏まえて高校では15歳までに身に付けた力をどういうふうに使ってどのように主体的に学んでいくかを考える必要がある。すなわち、小学校でしっかり土台を作り、中学校で徐々に学んだ知識を使いながら自分で決定し、高校では基本的には自分で決定しながらやっていくというように、社会にソフトランディングできるような自立への枠組みを設定していくことが、これから18歳で社会人、大人として認めていくためには必要ではないか。
  • 海外の教科書では、その科目を通してこういう力をつけていくことが必要ということや、これを学べばこのスキルがつくということが明示してあることがよくあるが、これにより子供たちは自分が何をやっているかが分かり、メタ認知を強化する上で非常に大事。教科書において、知識を土台としてこういう力にいかにつながっていくかの道筋が見えることが、どの教科においても大事。
  • 学習指導要領によって100%実現できることというのは二つしかない。一つは、教科書によって指導の内容を統一することと、あとは、教科ごとの指導時間をこれだけ持ちなさいという授業時数を規定すること。この二つしか実は規定できない。そのうえで、学習指導要領が全国的に教育内容を統一するということ自体がもうおかしいのではないか。それは、先生による多様性、子供による多様性、地域による多様性を3つを認めていないからである。いわゆる「ゆとり教育」についても、現場は10年かけてそれなりに方法論を確立していったと思うが、反省すべき点は、導入に合わせて教員の育成と現場の支援する仕組みを作れなかったということ。何をコントロールして、何を現場の自由裁量に委ねるかということをもう少しはっきり学習指導要領の中で規定してほしい。その点をこの特別部会で話し合っていかなければ、教科や科目をどうするかということをいくら話しても改善されないのではないかと思う。
  • 高校において、観察、調査、見学、また施設の活用などがほとんど行われずに教室内だけで学習が進められているとか、グループで話し合って考えをまとめたり最終的にレポートを書いて発表したりということが全体的に非常に低いという現状の中で、高校こそアクティブ・ラーニングがまさに求められていることを改めて感じた。総合的な学習の時間においては、現代社会の課題について探究的に学ぶなどのアクティブ・ラーニングを進めているため、この時間を今後も十分に確保していただければ、教科等における授業のイノベーションにつながっていくのではないか。また、カリキュラムマネジメントについても、総合的な学習の時間を核にすることで促進されるのではないか。各地では、高校におけるそういった学びにより、生徒が本気になって学び、本気で社会参画、地域参画をすることで、地域の活性化なども生み始めている。こういったことが教科だけではなく、実際に動き、活動する中で、生涯学習にもつながり、創造性や起業家精神の育成にもつながるのではないか。
  • 学び方によって学ぶ喜びは得られると感じている。高校の学び方はその人の生き方に大きく影響するものであり、高校の教科の刷新と、生徒がこれと出会えるような状況をどのように作るかという観点では、教師の在り方や指導法、カリキュラムの全てを刷新していかなくてはいけなのではないか。

2.育成すべき資質・能力を踏まえた教科・科目等の在り方について

  • 高校の先生は教科ごとの専門性がはっきりしているため、教科をまたいでのやりとりが難しいと言われている私共のSSH、SGHの中では、このような探究力、思考力を育てたいというねらいに向けて、試みとして幾つかの教科が一緒になってカリキュラムを考え、学習指導をしている。それはSSH、SGHという仕組みのおかげでできるようになってきていることであるが、高校段階で何を育てたいかということがはっきりしているから可能なのだと思う。学習指導要領の改訂では、中心になる教育課程がはっきりした上で、各教科が何を担当するかというかたちを考えることが重要。
  • アクティブ・ラーニングは相応の時間を要するから、このような改革をすべての教科について進めていくとなると、教育内容の再整理、統合化、その原理的な確立が不可避となる。内容をあえて絞ることにより豊かな学びを実現し、それにより学力を向上させるために、改めて教科の本質を明確にする必要がある。内部論理的なものだけではなく、社会現実や生活に開かれたものという観点で教科の本質を明確にした上で、各教育内容の編成がなされていくことが重要。従来、領域固有知識の百科全書的な意味での網羅的習得が学力と言われてきたが、それについては一定程度断念せざるを得ないという意思決定をする必要がある。ただし、先のゆとり教育に対しての学力低下という批判を再燃させないためにも、しっかりとした学力論の形成と周知が必要。何を知っているかではなく、知識・技能を活用してどのような問題解決を現に成し遂げることができるということを学力論の重心にすることが一つの可能性。教育内容の整理によって教育内容の刷新としてのアクティブ・ラーニングが実現可能になり、新しい学力が育成される。
  • 日本の生徒は、学びに対する意欲、興味、モチベーションが大変低いが、他方でとても勤勉で、学力も高い。この一見反する二つをどのように理解するかという問題について、科目数が多すぎるために、自ら探究する喜びを知るまでに達していないということだと思う。限られた時間のなかで科目数を増やそうとすると、細分化、個別知識化せざるを得ず、どうしても知識重視になるため、楽しくならない。そのため、内容を削るのではなく、科目数を大胆に統合化し、その分深化させることを提案したい。そうすることで、本来勤勉な生徒が自ら探究的に学ぶこと、知的喜びを自ら体験するところまで達するだけの時間を与えてあげることが必要。
  • 科目数を大胆に減らすことについて、15歳の段階でベーシックスキルが付いていればそれも可能だと思うが、そうでない現状で行えば、高校卒業時の力に不安が残る。個々の子供が、自分が将来社会に出ていくときに何の力が必要なのかということをまず理解し、その上で科目を選択できるよう自由度をあげるほうがよいのではないか。この観点からは、グローバル化に対応するための公民におけるシティズンシップなど新しい科目というのはなかなか面白くていいと思う。
  • 教育内容の確実な定着を図るための教科・科目の在り方や、小中高のつながりなどについて、都道府県の取り組みの状況から情報を収集して判断を下すということがあってもいいかと思うので、都道府県教育委員会における取組事例についても情報としていただきたい。
  • 本日説明のあった7教科についての共通項としては、一つは、知識のインプット重視であったものを主体的な思考や表現を重視するものにしていこうという方向。もう一つは、学問的な知識を教えることから社会生活で活用していけるようにしていこうという方向。ただこれらについてはなかなかうまくいっておらず、その原因を分析して丁寧に進めないと、また同じようになる可能性がある。まず、主体的な思考や表現を重視することになぜ踏み切れないかというと、一つには評価の問題がある。入試でもそのような力は評価されず、普段の活動のなかでも、定期テストに比べると評価しにくい。評価されないものだと生徒も先生もモチベーションが低下する。入試センターや民間でもいいが、思考力や表現力をしっかり測定し、評価して、大学入試に生かそうと思えば生かせるようにすることが望ましい。また、学問的な知識重視になりがちな点については、各専門部会におろすとどうしてもそのようになってしまうが、これがあまり高度なものとなりすぎると、子供たちにとっても分からなくり、すべての人が例えば数学者になるわけではないといった論理で否定される。これには3つの対応策があり、一つは、これは一種の教養とか文化なのであるということ。これは確かに大事な方向であるが、何が教養文化かというのは決着がつきにくい。二つ目としては、内容的には大人になって使わないかもしれないが、このようなことを通じて生徒たちの資質・能力を育てているのだということ。これは各教科の中で実現されてこず、評価もされていなかったが、これを今度こそしっかり実現させて、その力も評価していこうというのが今回の学習指導要領の一つのポイント。企画特別部会において、専門部会の中でも応用、活用ということの専門家、例えば数学であれば物理学とか経済学などの応用的分野の人も入れていただきたい、教科書の執筆者にもそういう方をいれていただきたいというような方向を打ち出していくべき。
  • 子供たちが学ぶべきことが非常に多く、課題がたくさんある一方で、子供たちの学びに対する興味関心は低くなっており、国が求めている内容と子供たちの興味関心が逆の方向を向いてしまっていると感じる。基礎・基本の重視が、教え込み型の教え方、スクール形式の一斉学習につながり、これが子供たちの興味関心をどんどん薄れさせることにつながったのではないか。今後は、日本は一体何が強みで、どのように生きていけばよいのかという観点から教科・科目の在り方を考えられるといいと感じる。自分としては、非常に教科・科目が多い中で、自由度をもっと上げていってほしいと考える。
  • 事務局が説明した各教科の改革は、各教科が受信型から発信型になり、更に参画型になるという方向性だと思う。その際の一つの大きな問題は、社会における問題解決を思考するときには一定の知識ベースが必要であり、その知識ベースをどこまで個別の教科で細かく詳しく与えていくのかということ。その解決方向としては、第一は、各教科を、より深い学習を可能にするような中核となるアイデアを中心としたものに再編し、それを明瞭にすること。第二に、個別の教科を越えて、それらを橋渡しできるような場として総合的な学習の時間を活用すること。特に、それは教科と教科の橋渡しだけではなく、例えば生徒一人一人の問題意識、興味と、教科で与えられる学問的内容の橋渡しであるとか、あるいは学校で教育される中身と社会の現実において取り上げられる事柄の橋渡しであるとか、あるいは過去から現在、現在から未来への橋渡しなどの場が必要である。第三には、選択科目あるいは課外学習などの活用であり、とりわけ極めて優秀な能力・才能を持った生徒を伸ばしたり、ボランティア活動や体験活動を通して将来のキャリア形成へ目覚めさせたりすることが重要。
  • 世界史と日本史が二者択一となっていることについて、歴史を学ぶ際にはこれらの関連が重要であるが、大学1年生を見ると、選択しなかった科目が基礎的な知識を含めてほとんど欠けている。歴史は、世界史と日本史を総合的に照射し合うことがあって初めて、生きた学びとして立ち上がる。外国人と海外や日本の事柄について話す場合にも、日本の歴史事項を用いて世界史について語り合ったり提案をしたりすることが重要であるが、現在の学習指導要領の下で育っている学生たちは、片方が非常に欠けていることで全体的として相乗的に大きなマイナスとして働いている。日本の文化の担い手として、主張したり疑問視したりすること、これらは基本的な知識がないとできない。世界の中では通用する人材とするためにも、世界史と日本史のINTERACTION(相互作用)が学びの中心に位置づけられるように設計をお願いしたい。
  • 国語について、今の高校の授業でなされていることは、日本の言語文化の最も対極にあるような古文、例えば中古の仮名書きの物語を読み、一方で、現代文の文章を読むということであり、これらの橋渡しのようなものがない。日本の言語文化が持つもっと豊かなグラデーション、例えば近世や幕末の片仮名混じりや平仮名混じりで書かれた随筆、あるいは明治初期の古文で書かれた現代文以前の文体を、今日的な様々な関心時や人々の生活に結び付けやすい題材・課題を抱えている文献を通じて、学ぶことが必要。現代文と古文・漢文を相互に近づけて、多くの生徒たちが関心を持てるアクティブ・ラーニングの題材を開発していくことが必要ではないか。
  • 教科の刷新によって総合的な学習の時間はさらに先に進むことができ、子供たちの大きな実りをもたらすことが期待できる。知の総合化によって、教科の学びと総合の学び、学問の学びと暮らしがいい形で連携・統合していくという前回の学習指導要領改訂のなかで示された動きが、今回の教科の刷新によって進むのではないか。具体的には、まず、各教科でコンピテンシーの育成が進むとしても、様々な学びを生徒が明晰に自覚し、またそれを自分の興味関心のある課題について自由に闊達に適用することを通じて、一層コンピテンシーが着実に定着し、生きて働くようになるということで、各教科で学んだことをさらに補充、進化、統合する一種の要のような時間としての総合的な学習の時間の役割はいよいよ高まるのではないか。また、各教科はあくまでも個別的科学、学問、芸術を基盤としている一方、総合的な学習の時間は小学校低学年の生活科を足場に接続しており、歴史的に、生活教育と呼ばれる系譜にあるもので、そもそも教育課程上の内容編成的な守備範囲が教科とは異なる。総合的な学習の時間には、教科に干渉されない、生活の学びとしての独自の内容編成的使命があることを確認し、より充実していける時代がくるかと期待している。さらに、総合的な学習の時間の教育目標は、自己の生き方を考えることができるようにするということであるが、高校では、「在り方生き方」となっている。具体的な生き方(Doing)に対して、これを踏まえて自分は人間としてどうあるべきか(Being)という哲学的、施策的、理念的な考究が行われる場として、独自の位置を占めることが重要になってくるかと考える。
  • 古典教育について、70%を超える生徒が古文・漢文が嫌いと回答しているが、これは高校での古典の授業が、大学入試を目標として解釈中心の授業に偏っているからである。本来、古典の面白さや楽しさ、日本の伝統文化を含めて古典を学ぶことが、自国における言語についての理解を深めることになり、グローバル教育にも通じる。自国の文化を知る意味でも、新しい古典教育を含めた科目構成に転換する時期に来ている。
  • 情報について、科学的な理解に関わる内容は情報にとどめ、社会生活を営むに当たり必要な知識や果たすべき役割等については新たな公民科目で扱うことを検討とあるが、このように教科の内容の一部を別の教科に移すことは、二つの教科等が教育課程の中で連携が担保されているような状態のときに初めて意味を成す。今の高校の教育課程は、教科の塊としては存在し、まとまって存在してはおらず、教科を相互に関連させながら全体としての力を付けていくということがまだ耕されていないことを考えると、教育課程のこちら側は勉強するが横に移されたものについては学習があまり成り立っていないということが起こりうる可能性がある。教科の中でこそ完結性をもつことが一つの考え方であるとするならば、情報モラルなども教科「情報」の中でこそ担保するということも選択肢としてありうると考えられる。
  • 理数教育については、なかなか有用性を感じられないという課題があるが、かといって数学活用とか理科課題研究のような選択を増やして学ぶ機会を増やそうとすると、かえって何がやりたいのかわからなくなり、学校現場がばたつくのではないかと思う。数学活用のような活用的・探究的な内容を今ある数学1に入れ、科目を増やすのではなく統一していくような方向としていってはどうか。今必履修科目である数学1でもそのような学習は推奨されているが、トピック的になっている。
  • 歴史教育については、自分の経験では、アメリカではヨーロッパの歴史から学び、日本では地域の名産から学ぶようなところがあったが、国の成り立ちを知ることは海外の人と関わるときの自分の土台となっており、どちらも大事であった。我が国は非常に近現代史が弱いと感じるが、海外の人と一緒に仕事をしていく上で、お互い知っていて当然の知識の欠落が足を引っ張る場合がよくある。
    世界史という科目について、西洋史、日本史、東洋史という講座や研究室は見たことがあるが、世界史という学問の体系はないのではないか。だからこそ、時代区分ごとに地球上を行ったり来たりし、ヨーロッパが出たかと思ったら、中国に戻ったりするような教科書になっているのではないか。思い切って、歴史学的な物の見方、考え方を中心にした一つの人類の歴史のストーリーを描くようなものにすることで、歴史の必然性を捉え、歴史学の物の見方、考え方を生かしていけるようになると思うが、そうなると、実証主義的歴史学の謙虚さや誠実さに反し、強くストーリーを描くことによる危険性があり、難しいのではと思う。親学問と教科のこういったずれのようなものも、新教科の創造ということを考えるとまた出てくるのかと思う。
  • 地理学について、例えば大学の教員養成は系統地理学としての人文地理、自然地理と地誌学3科目必置になっている。学生は特定のトピックで切っていく系統地理をとても面白いと言う。これに対して高校の地理学というのは地誌学的。地誌学もとても大事であり、地誌学にも系統はあるが、地理学的な物の見方でもっと踏み込んでいくことが今後どうできるか。また、自然地理をはじめ地理学の多くは理系であり、その意味では文理の区分も本当にいいかどうか疑問。学問と教科の関係も随分複雑になっていることを踏まえて、今後考えていく必要。
  • 公民科教育を考えるときに、教育基本法13条、14条でいう政治的教養、宗教的教養に向けてどう踏み込むかということも重要な課題。いわゆる良識ある公民としての必要な政治的教養、あるいは宗教に関する寛容な態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位というのが13、14条に関する記述だが、やはり政治的中立性という名の下に、教育内容における踏み込みは弱い。グローバル化が進み、多様な文化的な背景を持つ人たちと協働して仕事をしていくことが当然になっている中で、政治的なリテラシー、宗教的なリテラシー、コンピテンシーとしての政治や宗教への踏み込み、これと学問体系的な知識との兼ね合わせ方は重要。難しい課題であるが、今回の学習指導要領のなかで踏み込めれば望ましい。
  • 本日の資料には、高校の保健体育における現状の内容が見受けられなかったため、次回資料で頂戴できればと思う。運動することでワーキングメモリが鍛えられるという観点から体育は大事であり、保健は生涯生きていく上で大事になる。セルフコントロールや規範教育など、脳機能の観点から説明できるようなことを、保健教育の中でやっていくことが重要。行動訓練により、協調運動や協働のトレーニング、他者への理解や推論といった、18歳の段階で社会に出ていくときに必要ないろいろな力を付けられる。そういった脳機能のエビデンスを踏まえたとき、とてもいいワークショップになり得るものが体育であり、その土台の指導ができるのが保健である。

3. 社会の要請を踏まえた教科横断的な学びの充実や、地域との連携等について

  • 子供の学力をつけるときに、授業外の活動との連携を視野に入れる必要。例えば数学や英語などの基礎科目において、内容的なことを削るというと高度な人材育成ができないということで専門家から不満もでるが、それを補うために、高度な人材を欲しがる大学や企業が高校の授業以外のセミナーをどんどんやって、それを何らかの形で大学入試で評価したり、大学に入ってからの単位にしたりというようなかたちとすることが考えられる。また、ボランティア活動やキャリア教育をすべて高校の教育課程の中に盛り込もうとすると、高校はパンクするため、社会教育、地域教育のなかでこのような活動を入れて、それも活動歴として何らかのかたちで入試で評価することもできる。子供たちにいろいろな力をつけてほしいという観点からは、教育課程を変えていくと同時に、社会との連携をしっかり視野にいれた改革が必要。
  • ワーキングメモリは、長期記憶や短期記憶とは異なり、いかに意識的に情報を処理していくかという力で、一時的に情報を記憶しそれを使って何か作業を行っていくというものだ。最近では、この分野の研究が進み、発達障害のある子供でも、認知症のある人でも、適切なトレーニングにより確実に強化され定着することが分かっている。これを上げることが、メタ認知の強化にもなり、判断力や社会性を上げ、セルフコントロールにも直結するため、グローバル社会を生き抜き、社会貢献ができる力の土台になる。海外では様々なかたちでその強化が取り組まれ小学校等に導入されはじめているが、我が国では全く議論されていない。いろいろな教科教育の成果を上げるためにも、スポーツなどの成果を出すためにも、ワーキングメモリのプログラムをどの教科にも取り入れ、教員も子供自身もこれを強化するという意識を持つことを提案したい。
  • ボランティア活動に興味が薄い、自分の参加により社会現象が少し変えられるかもしれないという期待感が薄い、投票率が異常に低いといったデータを見ていて、今諦め感というのが非常に強く、大人を見てもやる気がない人が多いと感じる。思考、判断というのは、クリティカルシンキングがなかったら言葉だけのものになってしまうが、学校の中で先生方を見ても、何か言っても教育委員会は聞いてくれないし、無駄ではないか、やったところで良くならないのではないかという諦め感があるように感じる。声をあげれば何か一歩でも改善するかもしれないというふうに、大人自身も含めてどうにかしていかなければならない。
  • 教科・科目の再編をどんなに検討しても、生徒にその気がなければ、結局その学びを面白いと思うことができない。一つの科目の1か所でも面白いと思えば、生徒はそれをきっかけに学びを深め、他の科目との関連も見出したりすることができるが、その切り口を引き出すこと自体が本当に難しく、先生方が苦労されているところだと思う。テーマの見付け方など、生徒自身で学びを始められるような学びの導入教育みたいなものが、入学してすぐの段階で設けられないか。先生方との熟議やワールドカフェなど、どのような形がいいのか分からないが、大学教育や企業研修などで行われているようなものにヒントがあるような気がする。また、先生方が生徒たちの学びに伴走するためには、先生方の意欲が必要。そのためには、学校の配置が決まって先生方の人事が決まったときに、先生方自身が熟議することから始めることもポイントではないか。学校に裁量があり、先生方が熟議してこういった学びを生徒に実現したいというものは先生方の意見が反映されるものだということを先生方が実感することができれば、先生同士が教科を超えて生徒のことが話し合えるような風土をもう一度高校に取り戻していけるのではないかと考えている。

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