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資料19

幼稚園教育専門部会(第1回〜第6回)における意見

1   子どもの変化、社会の変化等に対応した教育課程の改善

(1) 幼児の育ちの補完
幼児の育つ場が不足している現状を踏まえ、育つ経験を幼稚園で行うべきか家庭で行うべきかということの議論と、それを幼稚園で補完する内容を検討する必要がある。
子どもの育ちの機会が不足している現状から多様な体験をすることを幼稚園の機能に加えていくことが重要。地域に求めていくことは困難である。
幼児教育の多様化における教育の保障や幼稚園教育が長時間化していることによって生じている子どものストレス、負荷の問題をどう考えるかが必要である。
幼児期は環境を通して行う教育が重要である。状況の変化があっても、個人差があるなかで子どもたちが自己発揮する力(実現力)が身に付くようにする必要がある。
子どもの主体的な学び・意欲をどう実現していくかが課題である。
表現の領域で言うと、感性の育成が重要である。先生の感性が豊かになる必要がある。

(2) 幼稚園教育の役割と位置付け
幼稚園教育は幼児教育の一部である。家庭・地域との関係がある。幼稚園が幼児教育の中でどのような位置づけにあるのかということを明確に位置づけて、どこを担うのかということを考えていく必要がある。
今まで家庭で身につけたことが身についていないことによって、幼稚園現場で様々な課題が生じている。それを解決するためには家庭が変わる必要がある。そのためには幼稚園は「親が育つ場」として変わっていく必要がある。幼稚園の社会的な在り方と連動して見直す必要がある。
人とかかわれない子どもがいるが、親自身も付き合いが少なくなっている。そのことが子どもの育ちにも影響している。
教育課程の基準を作る際に家庭や地域の変化を受け止め、幼稚園の役割を十分に踏まえながら教育要領の改訂を考えていく必要がある。
幼稚園の豊かな遊びを展開する際には、子どもの置かれている生活全体を見直さなければいけないと思う。遊びのテーマは日常生活から生まれてくることから親の生活を見直すということも関連してくると思う。

(3) 基本的生活習慣の充実
幼児期の教育を考えた時に、基本的な生活習慣をきちんとつけていくことが子どもの生活、体力、気力の充実や安定につながる。生活の充実、基本的な生活の行動の充実がなければ規範意識や心の教育も芽生えないと思う。
昨今、保育所や幼稚園でも子どもたちの生活習慣を自主的につけていく力が非常に落ちている。そのことが小学校の学級崩壊の問題へとすぐつながっていく問題である。

(4) 教育課程の理解推進
幼稚園に対する保護者のニーズが多様になっている。幼稚園における遊びをとおした教育ということがなかなか保護者に理解されないのが現状である。幼児期に必要な教育ということを示していかないと意味が無い。

(5) 教員の資質向上
この10年でおおきく変わったのは、幼稚園の機能拡大ということと、満3歳から就学前まで預かるということから、地域の子育て支援をしていくこと、小学校教育と連携していくという幅広い専門性が求められるようになってきたことである。
幼稚園の機能拡大は重要なのはわかるが、現場の先生は重労働である。
改革の主体は現場の先生であるので、先生が納得して受身にならず主体的に取り組める方策を考えていくべき。
今幼児教育の機能の拡大により先生が忙しくなりすぎているため、教育内容の充実が深められているのか疑問である。何に重点を置くべきか考える必要がある。すべての幼児の教育の質の強化が重要。
幼児の発達に応じた教育内容という現行の教育内容はおおむね達成していると思うが、実態的には指導方法の問題からいうと発達に応じた指導になっていないところが多いと感じる。そのことによって、子どもたちがストレスを感じたり、その他の問題を引き起こしていることもありえるのではないか。発達に応じる指導とはどういうことなのかを考える必要がある。
幼稚園の教育内容は、多校種のように教科の枠組みがないので難しい。現場の先生が具体的な保育に生かせるような方策を示せていければいいと思う。
教員養成の段階で教育実習などにおいて、幼小連携の視点を組み込んでいく必要があるのではないか。
幼小連携を行っていくうえでの教師の資質・専門性の向上等(養成課程も含め)についても議論していってほしい。

(6) 遊びを通した総合的な指導の在り方
平成10年の改訂では、遊び中心ということを示したが、このことの課題は解決していないのではないか。今後の教育要領でも、遊ぶ力というものを確かめ、その確かめの上に小学校の総合学習につなぐような意図がでてくればカリキュラムと連続した形での本来の幼小連携になるのではないか。
「遊ぶ」ということが簡単に考えられているのが現実で、遊びこんでいない活動が近年目に付く。「遊ぶ」ということをきちんと捉えなおすことが必要。
遊び保育が育っているかということが疑問である。遊びを教えてはいけないということで教師がかかわらないことや、遊びは教えなくてはいけないと教師中心で行うなど、小学校の集団活動につながっていく要素である遊び集団を教師の力で構成するという点が弱くなっている。
子どもが自ら秩序を持って自分たちの意思で活動を立ち上げていくのが遊びの本来の意味である。
幼稚園における「遊び」とはなにかということがどこにも触れられていない。遊びと体験の関連、違いが何かということを提示することが必要ではないか。
遊びは子どもの主体性がないと遊びではない。遊びの概念が曖昧になっていることから、幼稚園で教授的な活動であったり、放任的な遊びになっている。子どもの主体性が起きてくるのが遊びの原点であり、大人主導でなく、子どもの主体的な活動にしていくことが重要。
「遊び」というものが教育であるということを理解させることが必要。幼稚園における遊びが小学校の休み時間と同様にとらえられていることもある。遊びには教育内容が含まれていることを示していくことが必要。
指導方法について、小学校は教授活動が中心、幼稚園では子どもが教師をモデルとして豊かになっていく、そこに大きな違いがある。

(7) 3歳児への対応
教育要領は、修了までに達成が望まれるねらい・内容であるが、3歳児が増えている現状を踏まえ、3歳児がたどる道筋がわかるような構成が必要なのではないか。

(8) 障害のある幼児への対応
障害のある幼児への対応は各幼稚園で大きな課題となっている。
障害のある幼児の対応も重要であるが、判定など幼稚園現場では対応しきれていないのが現状である。地域に開かれた、センター的な役割を担う幼稚園の役割を考えていくうえで、子育て支援の視点からも障害のある幼児への支援の在り方も検討していく必要がある。

2   生活の連続性及び発達や学びの連続性を踏まえた幼稚園教育の充実

1   幼稚園教育と小学校教育の連携推進等
(1) 基本的な考え方
幼稚園から小学校に上がる時に子どもが経験していることを考えると、幼児には大きな戸惑いがあると思う。環境の変化、人との関わりの変化、体験や学びの質の変化、コミュニケーション方法の変化、生活時間の流れの仕組みの変化、集団の大きさの変化の中で適応する力が弱かったり、自己表出が苦手な子どもが小1プロブレムといわれるような姿として現れている。
幼小連携は重要なこと。小学校1年生の学習意欲の低下ということを短絡的に考えてはいけない。小学校、幼稚園双方の関係性を抑え、その上で幼稚園としての教育内容、指導方法ということを見直していくことが必要。
接続期の設定を考えると、幼児教育そのものは、1乳幼児期から幼児期2幼児期から児童期の問題がある。常に両輪の中に幼児期があることはきわめて重要。
乳幼児期から幼児期への移行は、養育者と子どもとのケアの2者の関係、幼児期から児童期の移行は教師、子ども、教材の3者(項)の関係がある。

(2) 幼稚園と小学校の接続期のカリキュラムの在り方
研究開発学校の取組にあるように移行期の中で接続期ということを意識することが極めて重要。制度上の期とは異なるものを発達に応じた形で期を分けるというのは幼児教育の大きな特徴。
どの時期を接続期として設定するかについては、研究開発学校の報告では、その園の子どもたちが何年間保育して、どのような環境にあるかによって時期を変えて設定している。このことは、期の発想や幼児教育の発想として重要。
接続期は幼児教育だけに設定されるわけではない。低学年、小学校の4〜5月とか1学期の期間を接続期として捉え、幼稚園と小学校の教育内容、方法を接続の期を意識するということによって見直す意味を持っている。
子どもの交流、教師の相互理解、接続期のカリキュラムの連携、家庭やその他という中で、接続期のカリキュラムを考えるということが最も効果的で安定的な基盤を作るものになるのではないか。
幼児教育は見えない教育方法であるといわれるが、それを接続で見えるようにし、社会的に説明をしていくためには接続期のカリキュラムということをより明確にしていくことの意味は大きい。
幼児教育で小学校教育のカリキュラムにつながる点は、1学習の芽生えを培う教育2道徳性の芽生え3多様な身体表現等が小学校以上の基盤を作ること4かかわり合って協働で学ぶ力、この4つの柱というものがカリキュラムとして接続期にもより明確に訴えられるべき内容ではないか。
4つの柱を接続して小学校の学習につなげるということは重要であるが、さらに「遊ぶ力(主体的選択、没入、反復からの発展、試行錯誤・創意工夫、模倣と変形・創造、再創造・再発見)」を訴えたい。
接続を考える上では、遊びと活動を中心としながらいろいろな内容がつながって盛り込まれた教育方法が望ましい。
教育要領の実現状況調査の結果で検討すべき点とされていた、協働でかかわって遊ぶ、聞く力、共有しあうという点を特に接続期の内容として盛り込む必要があるのではないか。
実際に接続期のカリキュラムを実施していく上では、児童との交流が不可欠である。実際に子ども同士がかかわることで見えてくることも多く、先生同士の交流も相互研修につながっていく。
小学校教育の現状分析で学ぶ意欲が低下しているとの指摘があるが、学ぶ意欲が低下しているという現状分析をきちんと行い、幼稚園教育とどう関連あるのか否かを抑え、幼小連携についてはカリキュラムの連携まで踏み込んだものを考えていく必要がある。
課題は教育内容の接続ということよりは、むしろ指導方法・教育方法の接続の問題だったのではないかと思われる。教育内容上の接続の問題を考えていくのか、それとも、どのようにつなぐのかという指導方法を考えていくことについて検討する必要がある。幼小連携の実践上の課題としては双方の不理解がある。小学校での学習は個人的だが、さまざまな学びを支えていくのは学級集団の人間関係である。

(3) 教育内容の改善−協同的な学びを推進する−
(現状)
年長児の協同的な学びを行わせる機会は、卒園制作や発表会など、保育の中に既にある。
何かテーマを与えることで、子どもに協同性が高まるのではなく、行事のようにあらかじめ生活の中に埋め込まれていることがきっかけとなって協同性が高まる場合と、日々の偶発的な出来事や子どもが環境にかかわって生み出す遊びが子どもの内面を育てていれば、一気に協同性が高まっていく場合がある。
5歳になっても、協同的な遊びの展開が充実していないということが、現場の中でも見られる。一人一人が充実していないと、協同的な学びが高まらない。前提として5領域を総合的に指導している幼稚園教育が行われているかどうかのチェックも重要。
5歳の最終段階では、学級全体を子どもなりに一人一人が意識しながら活動する姿の中に、3歳、4歳とは随分違う人とのかかわり方、コミュニケーションの持ち方をしている。そこでは、子どもたちのやりとり、先生を交えての子どもたちのやりとりなど、言葉が重要な役割を果たしている。仲間関係の育ち、相手の視点を理解するとか、一緒に活動したいから勝手な自己主張はやめようという、子どもなりの自己抑制する気持ちも育ってきている。
(協同的な学びの視点)
5歳児の協同的な学びについては、保護者等にも理解されやすいが、それが特化した形で伝わるのではなく、3歳からの育ちの上に5歳の育ちが成り立っているという教育課程の編成というものがあるということを伝えていく必要がある。
3年保育が増えてきている現状で集団生活を重ねてくると相当な力をもってくるが、一方で遊びの姿に変わりが見られないとか、いつもと同じ生活になっているという現実があるのではないか。教師の刺激の仕方で子どもが知的なこだわりをもって環境とかかわり遊びを豊かにすることから、教育内容を検討する際に、どういう視点をもつと子どもが知的なこだわりをもって遊びや生活に取り組むのか議論していきたい。
5歳児後半の遊びが停滞しているのは、学級集団がうまく育っていないということである。3歳、4歳の積み重ねの上で5歳児の学級集団があることから学級経営の問題とあわせてカリキュラムの問題も論じていく必要があるのではないか。
「協同的な学び」は、5歳児で一挙に活動が成立するわけではない。協同的な学びを考えていく上では、それ以前の3・4歳児から5歳児にかけての教育課程も見直す必要がある。
子どもの知的な要素を重視するということを子どもたちの集団活動と切り離すと、教科的なものに流れていく可能性がある。子どもたちが集団的な生活行動や遊び行動を通して日常的なものの中に何かを発見するというような、そういう遊びを子どもたちの集団の問題として考えてほしい。
協同性は活動だけでなく、共感性が高い、心が響き合うような学級集団を育てるという観点から、人間関係が重要。
3歳から体を通して言葉のリズムを一緒に唱えたり、あるいは一緒に遊べなくて、つらくて嫌な思いをしたり、けんかしたりして、伝え合う、響き合う心が育っていく。そういう共感性の高い協同性を育てるにはどうしたらいいかということは大事な視点。
協同的な学びは遊びだけでなく、生活行動における作業を共にしているということが大きな要素となっている。
自分で納得しようと、心を寄せて対象を認識し、よく観察する。幼児同士が、十分に話し合って事実を認識するということが、協同的な学びが深まっていくという姿と思う。
協同的な学びは5歳児3学期の目標などに多くある「学級全体で共通の目的に向かってグループの友達と力を合わせながら活動を進める喜びを味わう」ようなねらいであり、それが協同的な学びで満たされた生活になっている。
協同的な学びという、接続期に使っている言葉、他動詞であるということはしっかりおさえる必要がある。遊びは、みずからが主体的にかかわるが、学びというのは他者がいることで他動詞であり、他者が違うということを知ることの視点をもって議論する必要がある。
協同性が育まれる過程で、一人一人が安定する時期、自己発揮する時期、協同の学びが可能となる時期という三段階の形よりは、もっとスパイラルになっていて、常にそういうことのかかわりの中で価値をお互いに認め合うということが本当の協同の意味ではないかと考える。
協同性をどの年齢でどう支えるのかという視点も要る。例えば、年中でイメージとスキルが一致しなくなったとき、先生の支えがあることによって、その結果、年長の後半に協同性が生まれてくる。
協同的な学びには、例えば、コミュニケーション能力、物事を見通しを持って構築していく力、友達と一緒に活動していく中で、自分の考えや行動の仕方を相手から学んでもっと広げていく、共感をする、協力するというような学びの内容がある。
協同的な学びのイメージ図とは、3、4、5歳という年齢対応ではないので流れをあらわすというときにも工夫が要るのではないか。
協同的な学びは個々の自由な安定した遊びの積み重ねから成立することや学級での関係作りから生まれることを書くことが必要である。つまり個人に目を向けた教育要領の書き方だけではなく、学級の育ちに言及した記述が必要となる。
「協同的な学び」という際にその前に必ず「遊びや生活を通した「協同的な学び」」という視点であることを強調してもらいたい。また協同的な学びとグループ活動を同じものとするのではなく、遊びの展開とともに関係が生まれ協同になっていくという過程の協働性を示すのであり、形態としての協同を示す語でないというニュアンスをもっとつよく出すことが指導法と子どもの心理過程としての協同的な学びとの相違を示すためには必要であると考えられる。
学びの連続性は教育課程の連続性ではなく、子どもの経験の連続性としての遊びの連続性から生まれる学びの連続性であるということの確認が必要である。
幼児期において子どもが遊びをしていく場合に、保育者の側からすれば、その遊び集団や遊びの群れが持続性を持って、自分たちで活動を維持していくという力や自分たちでグループを作って活動していく能力が保育の中で非常に問われており、そのときに協同性とか協働するという能力がいかに幼稚園で育っているのかというのが非常に重要な意味を持っている。
(協同的な学びと教材)
協同的な学びには、人間関係としての協同という意味と、教材にかかわる協同という問題がある。教材性が持っている協同性については、教材への子どものイメージは様々であるということを教師は理解しておくことが重要になる。
環境の中に埋め込まれている教材の様々な法則性をしっかり持つことが必要。教師の資質として環境を通して行う教育という形の中で教師の専門性が必要。そのためにも、協同的な学びとはどのような意味を持つのかということをきちんと位置づけた上で行う必要がある。
一人一人が充実していなければ共感しようがない。教材というものに対峙していく一人があって、共感する仲間がいるという関係性の中で協同という活動が生まれるのではないか。
教材を協同的と言ったのは、一人一人が全然別々のイメージを、別々の学びを、要素を持っている。その一人一人が違うということをしっかりと教師が持つかということが協同であり、子どもの側や教師の側が違った形でどう見ていくのかという、そのことを知らなければならない。
自発的、能動的である協同的な学びの中では、教材がまずあるのではなくて、子どもにとって環境があって、その遊びの中で子どもは必要なものを収集し、活動の中でそれが教材になっていく。そういう教材になっていく過程を見る目を持っているということが教材についての保育者の専門性である。
教材と教材性というのを分けた方がいい。身の回りの環境が教材になる過程、教材化と呼んだらいいと思うが、そこは大事な論点で、うかつに教材というと、小学校では教材というと教科書なので、幼稚園に教科書を入れるみたいな話に誤解されるといけない。
3歳、4歳、5歳のイメージを豊かにしていったり、友達とかかわりを持ったりする中で、自分と相手と、物との関係を通して経験している内容そのものがどのように次につながっていくかということを考え、教材を研究する必要がある。
(教師のかかわり)
協同的な学びの活動をするためには、いつでも教師から支えられているという信頼感とさまざまな遊びの体験がベースになっている。
協同的な学びは大事なことである。そこに教師がかかわることも大事であるが、子ども自身も相手を受け止め話を聞くこと、自分の言葉で語ることを身につけることが必要であり、小学校との連携を考える上で重要になってくるのではないかと思う。教師はことばをつなげる役割が重要。
子どもが生活の中で遊びを生み出し、そこで何を学んでいるのかを読み取るまなざしが重要。
保育者は子どもが一体何を学んでいるのかをしっかり読み取って、環境を整えたり、学級全体で考えるような機会を与えたりすることにより、協同的な学びの力が高まってくる。
学びの形成とは、子ども自身にあるものに向かって目指すことを育てていくこととか、周りへの関心を育てること、子どもが遊びを振り返る機会を持つこと、あきらめずに工夫して遊びを進めていくことであり、教師が丁寧に内容を見込んでいくことが必要。
幼稚園における接続期の協同的な学びを考える時に、3、4歳児の「遊びや生活を通した総合的な指導」から5歳児の「興味や関心を生かし価値に気付かせる」という指導が必要。気付きを明確にするのであれば、教師の指導方法(保育実践)がどのように変える必要があるのかということについて現場にわかるように明示する必要があるのではないか。
(小学校教育との関連)
幼稚園においても、協同的な学びなどをうまく指導の中に取り入れていくことによって、小学校との接点であるとか連携ができると感じる。
幼稚園でも学びの発展がある。小学校で進めている生活科、それが発展した総合的な学習の時間に十分につながる遊びになっている。そういう意味で、幼稚園から小学校を意識するときに、コミュニケーション、課題意識、目的意識などについて、ある程度目安を持たせた活動を意識することが小学校につなげる意味で重要である。
幼稚園の時にみんなで生活の中で何かを生み出し、学びの喜びを耕していくことが、幼小連携で一番重要なこと。小学校で行うことを幼稚園で行うことではないということを押さえる必要がある。
豊かなかかわりのある遊びを幼稚園でたくさん場を積んでくることが協同的な学びであり、そのことが小学校の学習につながっていくのではないか。
いろいろな集団の中に入ったときに、子どもが自分のことをしっかり語れるということは大事なことである。幼稚園の段階で求めるのは、子ども同士が目的を持ちながら、いろいろな活動を展開することを経験すること。
(学び、学習について)
学びというのは他動詞で、遊びは自動詞ではないか。学びというのは他動詞ということはどういう意味なのかというと、他者がどのくらいいるかということが学びである。他者がさまざまな形で違うということが学びである。
協同とは、一人一人の思いは違っても、気がついたら同じような方向に向かっているようなものがあるが、学びとしては違ったものが出てきているということではないか。
学習という場合には、学習すべき内容というのがまずはっきり決まってある。学習活動を通して、それを学習が終わる段階のところで、到達したかどうか、あるいは習得できたかということになる。しかし、学びの場合には、あらかじめ学ぶことが想定されて、あるいは目標として成り立っているわけではないということがある。
学びというのは学習よりもかなり広範囲な意味合いを持っていて、必ずしもきちんと目的、学ぶ事柄が決まっているわけではない。むしろ、決まっていない中で、たまたまいろいろなことが経験を通して、子どもによっていろいろな意味を持って習得されてくる。
(協同的な学びの留意点)
協同的な学びを無理にカリキュラムの中に入れようとすると、誤った方向に行くのではないか。
協同的な学びで何を学ぶのかということを明確にしないと、勉強的なことをみんなで分担して学ぶ、協力して学ぶという意味になってしまう。協同とは、教育目標の中にもある、自立と協同の精神を育てるというところの協同の部分だと思う。
協同的な取り組みがどのように展開されていくかといったときに、最終的な場面だけ示唆するようなことでは誤解されると思う。段階的(目的・方法でもめながら調整し実現し充実感を得る)な流れをしっかり示す必要がある。
協同的な学びとか、協同的な活動とか、少し誤解があるのではないか。頑張って協同的な学び、協同的な活動を展開せねばというようなことから、4歳でも5歳でも同じように何か共通の課題に向かって活動するようなことを取り入れているというような実態があり、誤解されている。
5歳前半の場合はそれぞれにつくり上げたものを寄せ集めてきて、その完成を喜ぶという形だと思う。後半は、人と人とのかかわり合いながら、新しい世界を切り開いていくという学級全体で活動する喜びがようやく完成する時期。むやみにグループをつくるという形で考えてしまうところに一つの誤解がある。
協同的な活動という言葉と協同的な学びという言葉が混在して使われないよう整理が必要。
協同的な学びを幼稚園教育要領上にどうあらわしていくかとなると、難しい問題が幾つかある。こういう内容という領域で区切るという幼稚園教育要領の考え方の中で、こういった新しい概念をどう入れるのかは、慎重に考える必要がある。

(4) 幼小連携における実施上の配慮
幼小連携を考える際には、スムーズな移行という言葉に過剰反応したような教育や子どもの興味を一点に集約させるようなテーマを持ち込むような遊びが幼稚園におこらないようにする必要がある。
幼小連携を考えていく上では、保育所と小学校の連携の問題も論点の一つとして考える必要がある。保育所から小学校へ進むと親が仕事をやめることになり、親のストレスや生活の変化が子どもたちにどのように影響していくかということも考える視点が必要。
保育所の子どもは小学校に入ると放課後は児童クラブに行くこととなる。児童クラブは幼児に必要な「遊び」の部分をかなり補完していることから、保・小、幼・小の連携を考えるときには放課後児童クラブの意義ということを視野にいれ、教育の連携だけでなく、子どもの生活全体にかかわる社会そのものを含めた連携を考えることが必要。
入学当初には、小学校での授業時間を一律45分という枠にこだわらず、柔軟に時間の枠組みを作るなど配慮が必要。
小学校は時間に縛られた生活であり、幼稚園の時間に縛られない自由な遊びを通した保育から小学校に入学すると大きな戸惑いがある。そのため、入学初期は適応指導を行ったり、時間を短縮したりするなどの配慮が必要。
幼稚園と小学校との連携の視点である「子ども同士の交流」については、1年生と幼稚園の年長では発達に差がないことから、幼稚園児と交流する相手は中学年など幅広く考えることが有効である。
就学前教育には、幼稚園には公立、私立の設置者の違いがあり、保育所もあり、多様な指導形態で行われている。小学校教育をそのままおろしていたり、教師がかかわらない放任的な保育を行っていたりといった多様な指導形態の問題や、段差を感じる子どもと無い子どもを考慮して、一律な教育課程の接続プログラムの必要性の有無や指導方法について検討する必要がある。

(5) 幼稚園、小学校の教育内容の相互理解の促進
子どもの心の中で幼・保と小学校がどのようなつながりがあるかということが大切である。幼稚園や保育所では、小学校への期待を持たせて送り出すが、小学校の先生が幼稚園や保育所に来ると気持ちがしぼむような不安な話をされるなどギャップがあるということをよく耳にする。相互の教員同士が互いの保育・教育内容にじかに触れることが必要。
小学校の先生方は、子どもの活動は「みんな一緒に」「そろえる」ということが念頭にある。幼稚園では集団を考えた時に一人一人の個性がきちっと位置づいていくような保育の在り方を考えていく必要がある。一人一人を理解して丁寧にかかわることを重要としていることとの違いを感じる。
指導主事の中でも、小学校の教員をしていた指導主事は幼稚園教育の理解が最初は困難だが、幼稚園を訪れるうちに理解する。しかし、幼児教育が小学校教育の基盤となっていることが理解できても、それを説明することが難しい。

(6) 小学校教育における位置付け
小学校側は、様々な経験をしてくる子どもに対応するため、一貫したカリキュラム以外の要素として足りない経験を補っていくことが必要となる。
具体的な連携方策として接続期的な発想があるが、幼児教育だけで考えることでなく、小学校の低学年の教育課程にも同じような発想が必要であるということを小学校で明確にしてほしい。
小学校の総合学習や生活科では幼稚園的な発想で子どもの育ちを受け止めるという考えをもって、教育内容だけではなく指導方法についても弾力的に行うことが必要。
幼稚園の時間割のない生活から、急に時間割で区切られた生活というものが子どもにとって違和感があることだと思う。最初から教科の枠にとらわれず、生活科を核として、算数の要素や国語の要素を組み入れて行うことが必要。また、幼稚園においても遊びの中に学びがあるということを意識した保育をすることによってつながりが出てくると思う。言葉、体験、確かな学力、子どもの社会的自立について、小学校、幼稚園が互いに連携し取り組むことが大切。
接続期は幼児教育だけに設定されるわけではない。低学年、小学校の4〜5月とか1学期の期間を接続期として捉え、幼稚園と小学校の教育内容、方法を接続の期を意識するということによって見直す意味を持っている。
小学校側は幼稚園の子どもにかかわることが大切。幼稚園や保育所などあらゆる集団から入ってくる子どもたちが自己発揮できるように教師は上手にコントロールする力を備えることが必要。
小学校では、入学してきた子どもはみな0からのスタートであるとの認識が多数。
幼稚園との連携により、初めて学びや生活の芽生えが幼児期から育まれているということに気付くという状況がある。

2   小学校以降の生活・学習の基盤の育成につながる幼稚園教育の在り方
(1) 小学校以降の生活や学習の基盤となる力とは
(基礎・基本)
前回の改訂以降、小学校以降の学習の基盤というと何か別なところに求めるというような視点があったが、人間関係や生活経験を豊かにすると同時に、教師の側の意識として、小学校以降の学習の基盤をつくるという視点を持つことによって活動が深まるということが共通化してきたのではないか。今回の改訂ではその視点をもって、各領域の中に子どもたちの活動、遊び、生活について示すことが必要。
幼児教育が遊びを通して育ててきているものは、児童期以降の学習並びに生活両面の基盤である。個々の教科内容に対応するその基盤をつくっていると同時に生きていくうえで必要な生活部分を遊びの中や暮らしの中でつくってきていることも明示していく必要がある。
幼稚園において「知的」な部分を考えていくときには、発見的だったり、自分でやりたいことを見つける中で自分の世界が広がっていくような面白さがある。これらが小学校の学ぶ力にもつながっていくようになればいいと思う。
幼・小でつながってくるところでいえば、子どもたちが主体的、意欲的に取り組み、その魅力が子どもたちに伝わり、それを受け入れる力をもつといった学びの力を付けていくことが重要である。
5歳児保育の内容を見直す議論が必要である。義務教育で示されている「基礎・基本」が幼稚園にも当てはまるのであれば、小学校に入るまでにどのような力を獲得させる必要があるのかということを議論する必要がある。到達目標も幼稚園教育に馴染まないのかということも検討する必要がある。
義務教育の中で議論されていることについては幼稚園教育にも当てはまるかもしれないが、幼稚園教育の基礎・基本は小学校教育でいう基礎・基本とかなり質が違うものであるから、それは何かということも考える必要がある。幼稚園教育で身につけたことが小学校教育の基礎・基本とのつながりも求められることであるので丁寧に議論していく必要がある。
何のための基礎・基本なのかがはっきりしない。そこがはっきりしないと現場・家庭には伝わらない。そこを明確にしてほしい。
表現では感じることが基礎・基本である。
情動の科学の報告にもあるように、情緒や自己の確立が幼稚園の基礎・基本といえると考える。
(幼稚園教育における幼児の到達目標について)
今回の審議経過報告において学校教育の質の保証ということで、小・中学校の学習指導要領において到達目標の明確化が示されたが、小・中学校では、学習指導要領で学習すべき内容を明確にし、それに達しない場合には、それを補充するするという考えがあるが、幼稚園教育(幼稚園教育要領)においては、子どもの発達に応じて、教育要領の目標の方向に援助していくという考え方であり、到達目標を設けて全員が達成するという発想ではない。
幼稚園教育においても、広い意味での学習の成果が求められるということはあるのではないか。ただし、それが到達目標という細部まで決めるようなものなのか否かとか、まるまる力という形の大枠として考えるかということについて議論の余地がある。
インプット、プロセス、アウトカムという発想は極めて重要な発想であるが、それをそのまま幼児教育に到達目標としておろすということは、子どもの発達特性上問題があるのではないか。幼児教育の側から見れば、十分に指導をしても、小学校に入った段階の初期の接続期の指導が十分でない場合には、それは小学校側が指導をする、あるいはそれを連携しながら指導をしていくというような方策があり得ることから、幼児教育が小学校の準備に当たるという考えのみにならないようにする必要がある。
現場の中でも、幼稚園側は到達目標とか評価という視点が意識されることはあまりないが、交流活動などで小学校側の先生は、評価の導入ということを幼稚園の5歳児、年長児で問題とする。小学校の先生は評価がないと不安であるといった双方に相違がある。
幼稚園は基本的には遊びを通して総合的に指導する、小学校は教科の学習と、教科的なものの考え方が基本的にある。見えない教育と見える教育という表現で幼稚園の教育と小学校の教育が謳われるが、総合的という観点からの幼稚園教育(見えない教育)というのは、到達目標や、それに照らしての評価という視点はなじまない。
幼稚園において到達目標を設定すると早くできることが発達だと認識し早期教育の傾向になることから馴染まないと思う。幼児教育の段階においては、自ら学び自ら考え、主体的に判断したり、行動したり、人とかかわったりした経験を行った結果として、小学校以降の基礎的・基本的内容が身についてくる。
幼稚園における遊びで起こるさまざまなことは、決まったプロセスで進行するわけでないことからいうと、到達目標的にとらえることは困難である。到達目標は子どもに必要な項目、能力をあげていくわけで、その観点で遊びの姿をみると遊びが貧弱になる。しかし、子どもが遊びや生活の中でどのように育っているか丁寧に見取るという力は教師には必要である。幼稚園特有の遊びや学びの指導方法も踏まえ到達目標の在り方を考える必要がある。
幼児教育においては、目標を要素的に設定して評価しようとすると、本当の生きた力としての能力が見えなくなってしまうという危険性がある。総合的に子どもの発達や成長をとらえる視点が重要。
幼稚園においては、小学校での学習内容を意識していれば、到達目標を示さなくても学力面、社会的な自立の面でもつながりができると思う。

(2) 各領域等の改善について
運動遊びの経験が不足しているのではないか。運動を一斉指導している園より、一斉指導していない園の方が運動能力が高い傾向にある。結果的に説明時間などにより、身体を動かしておらず、意欲も低下していることが原因になっている。
集団の運動遊びの中では協同的な学びも育っている。
領域「環境」の中で、見えない環境(畏怖の念、畏敬の念等)をどうとらえていくか、道徳教育にもつながるものであり、どのようにとらえるかも問題。
領域は教科ではないということが現場には浸透していない。総合性を示しながら教科的にならないよう伝えていくことが重要。
「表現」の領域でみると、音楽をやって、絵を描いて、最後は劇遊びをすればいいと思っている園もある。作品主義、行為主義、結果主義になりがちである。人と関わる中でコミュニケーションのもととなるのが表現。
「表現」の領域がわかりにくいのではないか。内容の取り扱いについては、教師が教える方向になる傾向がある。教師がわかるように踏み出せるような表記が必要ではないか。
また、教員養成段階においても領域の捉え方が誤解されていることから養成校側の理解を促す必要がある。
「領域」など幼稚園が使っている言葉を丁寧に伝えていく必要がある。あいまいなところは明確にしていく必要がある。
環境、数量など幼稚園には小学校教育以降の基盤を培っているものが含まれている。もう少し小学校との関連を内容の取り扱いで示す必要があるのではないか。
幼稚園は学び方が小学校とは違うが、小学校への説明責任の観点からも教育内容をしっかり明記することが必要。

(3) 審議経過報告における教育内容等の改善の方向性を踏まえて
(基本的な考え方)
教育内容等の改善の方向の基本的な考え方の4つの柱について、幼児教育としての対応をこれまでの幼児教育の反省、指導方法の問題、接続の問題も踏まえた上で考えていく必要がある。
審議経過報告を幼児教育の視点からみると、子どもの姿の成長の問題では、生活の自立、基本的な生活に対する姿勢等、生活行動の自立のおくれ、対人関係不足、体験の不足もあるということを考えると、教育改革の柱と同様に幼児教育も問題点を感じるということがある。
教育内容等の改善の方向で示されていることについて、幼児教育で重視する場合は、「社会的自立」というよりは、子ども自身の自立ということ、「確かな学力」というよりは、確かな学力の基盤となるような、そういう幼児期の生活というものに対して、現在十分に行われているかというところの見直しが必要。
(「言葉」の重視)
国語力の育成という問題を、幼児教育でどのようにとらえるかという場合には、国語力ととらえるのではなくて、言葉の問題と、その表現の問題と広くとらえるとか、理数教育の問題を、領域、環境の問題として、どのようにより具体的に考えていくのかというような方向で議論をしていく必要がある。
小学校で求められている、言葉、体験、確かな学力、子どもの社会的自立の基本的な要素は幼稚園の中で芽生えているものである。幼稚園では、友達同士の遊びを通して、互いに会話することを通して、遊びを楽しくしていくところに考える力や伝える力が身についていく。
小学校の総合的な学習の時間で重要なことは「問題解決能力の育成」であり、そのベースになっているのは、「聞く、話す、読む、書く」であり、それができなければ情報の受け止めや発信ができないと考える。幼稚園はその基盤と考えると、聞く、話すは重要であり、幼稚園の言葉の領域は大事にしてほしい。子どもたちがグループ活動をする中で自分の思いを伝えられずコミュニケーションがとれないということは小学校では大きなネックになっている。幼稚園では、子どもに語りかけて相手のことを聞いてあげる、子供が語りかけたことを聞いてあげる場、遊びや活動が重要。
今の子どもたちに言語表現能力が欠けてきている現状からいうと、読み・書きよりも、話す・聞くという能力が中心にならざるを得ない。幼稚園教育では、これまで話す・聞くという能力を中心に考えていたと思うが、遊んだときや出来事があったときに、そのことを相互に伝え合うという言語指導や子どものコミュニケーション能力を調整し、相互に子どもの話し合いを豊かにしていくという教師の能力がこれから要求される。
言葉に関しては、集団生活の中で、自分の思いを出す、言葉に限らず自分の思いを出すまでに相当な時間がかかる子どもがいる。言葉の問題はこれまでの生活経験とか、養育状況によってすごく差がある。特にこの問題については集団生活になれていく過程、安定していく過程の中で丁寧に個々に応じることが大事。入園期に丁寧な配慮について、内容の取り扱い等に丁寧に書いていくことが必要ではないか。
国語、子どもたちが言葉を覚えるときというのは、学校で教わるだけではなくて、大人たちや周りの子どもが使っている言語表現能力を真似るということが非常に大事な言語学習になっている。
保護者に渡すプリント一つも、完璧に書かないと、親が全部準備するために書いてほしいという要求がくる。それにこたえようとすればするほど、子どもが先生の話を聞かなくても生活できるようになっていく。そのため言葉については深まらない現状がある。
言葉の問題で、読むとか、書くということを先取りした形で、例えば漢字というようなことまでやっている幼稚園がある。そういうことが本当に子どもたちの発達に役に立つのかということを別に検討する必要はある。
「言葉は確かな学力を形成するための基盤」と示されているが、言葉というのを全部造形に当てはめると全部通じる。言葉に特化したものではないと思う。
日本の教育の場面では、言語能力を豊かにするような経験の場というのは非常に少なくなっている。今後、基礎学力として読み・書きを重視していくという方向があるが、幼稚園で読み・書きを徹底するということは、子どもの将来の言語能力をトータルに高めることにはつながらないと考えている。
コミュニケーション能力ということで言えば、幼稚園から小学校にかけて、子どもの生活の中を豊かにしていかないと生活の中での出来事を物語ることができない。そのためには、遊びを重視し、幼稚園と小学校で共通にこの問題について取り組むことが必要。
言葉や言語の問題については、焦点化されて行われている小学校以降の教育と、生活に密着してとらえる幼稚園における教育とではとらえかたが違う。幼稚園では、生活の中で自然にしゃべる「おしゃべり」と、自分の考えをみんなに伝えるとか表現するといった公式的な「お話」が生活の中にあり両方重要である。言葉や言語をとらえるときには、このようなことを踏まえて考える必要がある。
言葉の機能には、伝達機能とか、行動調整機能とか、思考に関する機能がある。乳幼児期で、一番言葉を獲得して、自分の生活を言葉を使って自分を位置づけていくというところを考えると、話す、聞くというところを、伝達したり、自分の行動を調整したり、物を考えたりするという視点から検討する必要がある。
絵を描いたり、いろいろなものを書くということが減ってきている。本当は絵を描きながら、自分が一体何を表現したいのかということをかなり考えて描くとか、自己内対話が随分行われると思う。そういう意味で教育要領では、書く、描くということの位置づけが余り明確ではない。近年、パソコンとか携帯で、書かなくても意思を文章化して相手に伝えられるが、その前の段階として、しっかり自分で感じたこと、思ったことを、何か自分なりに具体的に目の前に描き出す。それをしっかりと自信を持って描き出すというような経験をしておく必要がある。
文字を読む前のイメージが読解力につながってくる、読むとか、書くというところも幼児教育の中ではどのように耕しているのかということを考えることが大事。
イメージの世界も広がりを持って発達をしてくると、豊かな環境の中に子どもを置くことの大事さ、四、五歳になると視聴覚教材の取り入れが重要な意味を持つ。絵本、紙芝居、パネルシアター、パソコンで取り込んだものを子どもの生活に取り上げていく中で、繰り返し楽しむ子どもの言葉の広がりをたくさん出していきながら、子どもたちのコミュニケーションをいいものとの関係でふやしていく環境づくりが重要。
トラブルがあった場合にきちんと言わずその場を避けてしまう。自分を語ることができる、他者の語りに耳を傾けるとか、そういう集団づくりをどのようにしていくかということがかかわってくる。
幼児期で、いろいろな経験、いろいろな思いとか、豊かさという中に、いいことだけではなくて、葛藤だったり、友達に譲れなかったり、譲れなくて意地を通したときのさみしさとか、何かそういうものを大事にしながら、少し言葉の世界に出会っていったり、相手に嫌なことがあったときに、それを相手にもちゃんと伝えようとしていくところで、言葉というのが生まれてくる。人間関係がこれだけ難しくなっているところであるならば、そこにもう少し踏み込んだような形で言葉という指導が入らないといけない。
一日の保育が終わるときに最後に一緒にみんなを集めて子どもたちに今日の遊びのことを言ってもらう場面が大事である。本当に子どもたちが一日の中で満足した遊びであるとか、感動した体験であるとか、そういうものがあればつい話をしたくなる。全体の子どもたちの中に自分はこんな楽しいことをしたよということを話す、そういう経験をたくさんしておくことが、幼稚園の中では言葉を豊かにしていく形のものにもつながる。また、逆に、語っていることを、子どもたちを受けとめてあげる、そういう場をもっていくことが言葉の大事な面。
小学校に入って学んでいくための基礎となる言語力とは何か、豊かな環境の中で豊かに遊んで、豊かな表現力をつけていく、具体的にゴールは何なのか、ある程度そこに意図的に言葉を育てるという指向性があってもいいのではないか。音声言語のレベルでどの程度の言語力をつけておくといいのかという視点は、幼児期の教育の中にあっていいのではないか。
統合の理解ができるというレベルにいくと、大体臨床的な経験でいえば、小学校で学んでいける。単語をよく知っているということではなくて、文章としてのシンタンクスの理解ができるということが、一つのゴールであろう。
幼児期というのは話し言葉の教育で、そこでの一番大事なポイントは、要するに語彙とリアルな文脈を結びつけるということであり、それが結びつくと大体一回で語彙というのは学べるということになる。一つは、そういう条件を多く用意するということ、もう一つは、書き言葉への準備という活動が多く行われているが、それをどう入れるかという、その2つが課題と思う。その辺は幼稚園教育要領によく入ってはいるが、少しわかりやすくできるのではないか。
言葉の教育が日常のコミュニケーション、「おしゃべり」と「お話」等形態上の二分法で語られているが、形態ではなく機能からとらえ、幼児にとってコミュニケーションだけではなく、思考を促すことば、「たぶん、きっと…だね」などの科学的推理のことば、「…づつになる」「くばる」「くらべてみたら…だった」などの数量操作にかかわることば、「むかしむかし…(物語)」「…さん、お元気ですか(手紙文)」などの言語的教養の根底をなすことばなど、生活の中でのさまざまな領域のことばへ意識をむけるかかわりが、現在国語だけではなく、教科を通しての言語力が言われている中で問題とされて教育要領でも書きこまれることが、教育内容上の幼小の接続として重要ではないか。
ことばの働きを知る、絵でメモしてみると忘れない、計画が立てられる、人にきちんと伝えられるなどの感覚を伝えることが重要ではないだろうか。
幼児期には仲間同士でのことばを育てるという部分を協同的学びとの関係で感情の調整、他者への思いやりなどとの関係でかきこむ必要があるのではないかと考えられる。
幼児期における聞く行為のあり方、より豊かな語彙環境を明示的に書き入れていくことが小学校以上との接続からも重要である。
(体験の重視)
(幼稚園における体験とは)
幼稚園における体験は領域そのものである。小学校以上の教科があっての体験と幼稚園における体験の違いを考える必要がある。
幼稚園における体験を通じて学ぶということ自体が理解されないこともある。体験の重要性を発信していく必要がある。
幼児は生活していること自体が体験である。次から次へと体験を強いられることのないようにする必要がある。小学校における体験とは差がある。幼稚園における体験の位置づけを明確にすることが必要。
(体験の内容について)
近年、自然体験を取り入れている幼稚園は多くなってきているが、どのような体験を組み込むかが重要なこと。近年、長時間幼稚園で過ごす幼児も多くなっていることも踏まえ、地域での体験の内容を検討する必要がある。
ある調査結果で、日本の幼児は数量への理解が高いとの結果がでている。他国と比べると日本の幼稚園における遊びにはたくさんの数量概念につながるものが入っていることの結果によるものであり、体験を重視する際にもその中にどのような学びがあるかを考えることが必要。
体験活動の中では食を通した体験も重要。食育は幼児期にも大切なことである。
「表現」という視点から見た体験が少なかった。体験を通じて考えたり追求したりして表現する場、体験を通じて表現することを結びつける保育者のかかわり必要である。
(体験の多様性・関連性)
多様な体験は、情操性、創造性、知的好奇心が育まれる。
体験の多様性ばかりを考えると子どもが忙しくなりすぎる。保育として成立させるためには、園生活との関連性を考えることが必要。
体験を通したという言葉から、きまりきった体験になっている現状もあるのではないか。子どもが自発的にかかわれる体験が重要である。答えがたくさんある体験ができる環境が必要。
幼稚園では多様な体験が行われている。自ら園外に出て行く体験や幼稚園に招き入れる体験もある。多様な体験を用意するだけでなく、一人一人の子どもにとってどのように体験が深まっているのかを考えることが重要。
多くの体験をすることだけでなく、生活と結びつく体験が重要。
(体験の配慮事項)
幼稚園では、体験を重視しているが、安全上の課題がある。鳥インフルエンザ、O−157の問題、遠隔地に出かけて行くには、交通の問題がある。安全性のことも踏まえて体験の重視を考えていくことが必要。
安全上の課題については、指導上の課題でもある。教育要領で示すか他で対処するかを考える必要がある。獣医師会との連携なども一つの方策ではないか。
今日、幼稚園においては、保護者による幼稚園の教育内容への要望が多く、仲間関係におけるトラブルなど多様なことを体験させにくい状況がある。幼稚園で行っている保育実践の意図が保護者に伝わらないことが多い。保護者との連携が重要。
体験は重要であるが、体験をさせたあとにその経験を生かしていくことができていない現状がある。
体験には個人差が大きいのが現状。そそれに対応して、入園した時の個に応じた配慮が必要。
豊かな成長を促す体験ということを明確に指導計画の留意事項に位置づけることが重要。

3   幼稚園における子育て支援・預かり保育の望ましい在り方

1   幼稚園における子育て支援・預かり保育の位置付けについて
  家庭の教育力、地域の教育力を高めることに関しては、園だけで考えていたのでは当然限界がある。園とそこに子どもを預けている家庭、あるいはその地域が、何をすることが大事なのかを三者で話し合っていく必要がある。
子育て支援、預かり保育について、教育要領で一節設けて打ち出してもよいのではないか。
子育て支援において、子育ての主体として親、家族を支援するという意味が強いが、地域で子どもを育てるという発想のひとつのなかに子育て支援や預かり保育があるという位置づけを明確にすることが必要である。その根底の中で教育課程による保育、教育課程外保育が子どもに対して行われ、保護者に子育て支援が施されるという位置づけをもっと明確に書き込むべきではないか。

子育て支援・預かり保育の共通の配慮事項
  子育て相談や預かり保育は、生活に密着していることから、倫理の問題を考える必要がある。
幼稚園で子育て支援等を実施していく上では、人的・物的支援の充実が必要。子育て支援を行うことで通常の保育に影響を及ぼすことがあってはならない。
幼児期をどう保障するかということを基本にして考えていく必要がある。さまざまなことを盛り込むのが大事なことではない。
地域の人と連携する場合は、幼稚園教育で重視していることを理解されないまま行うと、逆効果となる場合がある。
幼稚園、保育所における生活や育ちも含め、子育て支援、預かり保育の在り方を問う必要がある。
親が幼稚園の教育活動に参加することによって、親子が育っていくような内容を推奨することが必要。
現行の教育要領における預かり保育の記述には、何のための預かり保育なのかといった意義が示されていない。幼稚園が全面に出てすべてをやるというよりは、預かり保育に関する視点、地域の教育力の活性化に関して幼稚園の先生方に伝わるように書き込んでいくことが必要。
子育て支援では子どもの育ちにとってのプラス面だけでなく、マイナス面も見つめられるような取組が必要。イベント的になってしまうのはよくない。

2   子育て支援の望ましい在り方
(1) 「親と子が共に育つ」観点からの子育て支援】
子育て支援等については、幼稚園が保護者の育児の肩代わりにならないようにする必要がある。幼稚園は子育て支援等の内容、効果の点検が必要。
幼稚園が行う子育て支援によって、親が子育てで楽になるようなことではならない。子育て支援が子どもを自立させ親自身も自立するという関係性を確立させることが重要。家庭の役割はゼロではないことを、幼稚園は保護者に伝えていくことが必要。
幼稚園で子育て支援を行っていく際には、子どもの育ち、親子の自立という視点から親の要求にこたえるべきかどうかを判断できる能力が保育者に備わっていることが必要。
子育て支援は、保護者とのコミュニケーションを通して親として成長していくためのニーズを把握することが重要。
いろいろな子育て支援があるが、子どもとの遊び方がわからない場合には、一緒に遊ぶことで、遊びの世界に気づく。これも子育て支援の一つである。
幼稚園における子育て支援は、家庭、地域と連携し、それぞれの役割を踏まえて行うことで、地域、保護者、子ども、教師が豊かになれることが大切である。幼児は地域で育つ、その基盤を幼稚園がつくることも大切。
子育て支援の実態として、本当に親の教育力を高めていくことになっているのかという問題がある。利用者は気軽に利用する方向に行く傾向がある。

(2) 子育て支援の配慮事項
子育て支援として、幼稚園や教育委員会に福祉を中心とした生活の相談にのる人の配置など、社会福祉の視点、生活の視点を導入していくことが大切ではないか。
子育て支援は、1虐待や障害など特別な配慮を必要とする子ども、保護者への支援2子どもを預かる支援3親子の居場所交流型4行事型5訪問型6相談・助言型の6つぐらいに類型化できるのではないか。幼稚園はどのタイプに力を入れるのかを整理することが必要。
子育て支援として虐待の問題を考えていく必要がある。特に、子育て支援が市町村が担うことから、私立幼稚園との連携が重要。
親の育児力の低下等がいわれている中で、子育てを経験していない保育者への子育て支援に関する研修は不可欠。
子育て支援では、地域の教育力を活性化する動機づけの場になっていくような試みを幼稚園でも行うことが必要。

3   預かり保育の望ましい在り方
(1) 預かり保育の意義と在り方
(基本的な考え方・位置づけ)
預かり保育の現状を踏まえると、教育課程外の活動ということではなく、預かり保育の機能を明確化して幼稚園の新たな機能という位置づけが必要ではないか。
現行の教育要領における預かり保育の記述には、何のための預かり保育なのかといった意義が示されていない。現状を踏まえ、預かり保育の意義を示す必要がある。
預かり保育には、1家庭における親子関係を維持しながら、様々な家庭の事情に応じていく支援2親と子どもがともに自立していくための支援という意義があると思う。
預かり保育の在り方を考える際には、子どもの育ちという視点から幼児期だけでなく、児童期にどのような影響があるか、保育所の長時間化ということも含めて考える必要がある。
預かり保育は、ケガをしないように見るとか、ただ預かっていればよいと言われているような現状のまま進んでいったら、それは保育ではない。
地域が形成されにくい社会状況から、幼稚園という場を地域として開放していくという意味で、預かり保育という形を積極的に展開していくことも必要である。
幼稚園における預かり保育の終了時間と学童保育の終了時間との関係を考慮することが必要ではないか。預かり保育で長時間預かっても、学童保育で長時間預かれないということが起きてくる。
類似の事業である放課後児童健全育成事業との整合性を考える必要がある。放課後児童健全育成事業については、現在、ガイドラインの作成について検討されているところであり、預かり保育についても、施設設備や教育プログラム、保護者支援等について基準があるといいと思う。
預かり保育については、教育課程内の活動との違いや保育所との違いを保護者に理解させる必要がある。
預かり保育をしなければならないというようなニュアンスは避けていただきたい。園によっては保護者がサークル等の活動を通して親子の関係が築かれている。
預かり保育は経費を支払い預かる、預けるというニュアンス、本来家庭がすべきことを預かって行うという意味の強い言葉である。地域で子どもを育てるという教育理念で考えるならば、預かり保育は教育課程外保育、目的的教育だけではなく生活を主とした時間外保育といったニュアンスの言葉で表現していくことが今後必要なのではないか。教育要領に「預かり保育」という言葉を使用することで、預ける、預けるというニュアンスが今後も強くなる。
預かりにおける発達的視点を強調する必要がある。1日の流れというだけではなく、1年間、あるいは在園期間中に子どもの発達に応じた預かりの内容が配慮されることで、地域の教育として必要な経験が行われていくことが必要だということが述べられる必要があるのではないか。
保護者と離れた寂しさという言葉が繰り返し使用されているが、これは保護者に子どもと離れることの罪悪感や親のいない子どもを寂しい子としてみる見方を方向付ける懸念がある。保護者と離れたさびしさではなく、生活を経験し、養育者との愛着を家庭だけではなく園でも作り出していくという積極的意味合いを地域の中での教育として打ち出していくことが必要なのではないか。さまざまな家庭があるという現実やこれからの将来を見据えることが必要である。
保育力、親の教育力などの個人還元的な言葉の示す言葉が使用されているが、園の保育者のよりいっそうの連携や保護者と保育者の連携などによる預かりへのサポートという、関係や絆の強化による新たな力を創造を考えていくべきであり、個人的にそれぞれの力を求める表現ではなく、関係論的に指導体制や家庭地域の問題を論じる視座が教育要領の中には必要であると考えられる。

(2) 預かり保育の保育内容と指導上の配慮事項
幼稚園教育は教育課程の届け出が必要になるが、預かり保育の部分も教育課程の活動と関連していることや、長期休業日など預かり保育の時間数の増加を考えれば、それに準じた届け出が必要ではないかと考える。
預かり保育の内容は、午前の教育課程内の保育における教育内容や心身の負担を考えるとともに、子どもが、保護者と離れた寂しさを補いながら、家庭や地域の生活の補完という視点からの保育が必要。
預かり保育の長時間化や人数の増加を考慮すると、地域の公園や図書館、学校を活用し、地域での遊びや異世代の交流をもてるようにすることなど、工夫が重要。
預かり保育は、保育所とも違う新たな幼児教育の機能を生み出す可能性を持っている。クッキングや買い物、お祭りなど地域との交流をもつ工夫も必要。
預かり保育の時間の意味を考えると、リラックスしたり、ヒーリング効果のある遊び、一人用の遊具など気持ちが和らぐ時間とするとともに、子どもが、保護者と離れた寂しさを補う保育が必要。

(3) 預かり保育の実施における家庭・地域との連携
保護者の中には、育児の肩代わりとして長く預かってほしいという希望もあるが、幼稚園側からは、家庭の絆を深めていくアプローチをすることが大切。
子どもを通常の保育時間を超えて教育することにどのような意味を持っているのか、親はそこにどういう意識を持ってかかわっていくべきなのかということをしっかり整理しないと親の育児の肩代わりにしかならない。
預かり保育を行っていく際に子どもの発達にとっての問題についても親と十分に話し合って進めていかないと、教育にならなくなってしまうことが心配である。

(4) 預かり保育の指導体制等
近年の預かり保育では、単に家庭的な雰囲気で行うだけでなく、個別に配慮を要する子どもへの対応、家庭教育のサポート等、担当者には様々なことに対応できる保育力が問われる。
預かり保育の場合でも、一日の生活リズムを把握して引き継ぐことや個別の対応などについて定期的な担当者の会議、日々の保育を振り返る研究保育が必要。
預かり保育の担当者として、保育力のある保育経験者の発掘が必要。有資格者の人材発掘が重要な課題。
預かり保育では、子どもがゆったりと落ち着いて、家庭と同じような形でリラックスできるような部屋が必要。また、人数についても30〜35人に先生一人では無理ではないかと思う。
親とともに子どもを育てていくという意義をもって、幼稚園教育につながって充実するものであれば、回数、時間等を十分検討しながら預かり保育を行うことは有効であると思う。
預かり保育を実施する上では、担任は午後の時間は研究会や教材準備等があるため、あらたな人員の確保が必要。
預かり保育を実施することで、通常の教育の質が低下することのないよう、事務予算、人的な配慮が必要。


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