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資料15

生活・総合的な学習の時間専門部会におけるこれまでの主な意見(論点ごとに整理)

 本資料は,これまでの本専門部会(第1〜第8回)における意見や文書による意見を基に,論点ごとに整理したものであり,今後変更があり得る。

1  総合的な学習の時間の現状と課題等

【成果】
 総合的な学習の時間の趣旨に沿って取り組んでいる学校では,思考力,表現力,判断力,問題解決力が「いもづる式」にどれも伸びている。

 ある中学校で,生徒が学んだことを名刺1枚にまとめてA3のノートに貼ってつなげていくという取組を毎週1時間行っているところがある。生徒にインタビューすると,教科等で学んだことがつながっていくのが楽しいという答えが返ってくる。教師側が生徒に身に付けさせたい力を意図して,具体的な手立てをうっている学校の子どもには力が付いていると感じる。

 総合を核としながら教科の枠を越えて横につながっていく意識が生まれてきたときに,具体的に子どもたちに力が付いていっているという面がみられる。

 現在,県内では,全校で全体計画が作成され,学校の創意工夫が生かされた取組がみられる。県の調査では保護者の理解も進んでいる。また,全校で地域人材の活用が行われている。

 学習の過程については,細かく計画を立て,指導は柔軟に行うことで対応してきた。

 総合的な学習の取組が進んでいなかったことから,校内で研修をもち,学校で付けたい力を明らかにすることから始め,福祉,体験活動に取り組んできた。その成果が身を結びはじめている。

 高等学校について,現在,本校の生徒は総合的な学習に意欲的に取り組み,興味・関心は高い。試行から4年目を迎え,表現力,発表能力は目に見えて進歩している。

 前回の改訂で,専門高校に課題研究という領域が設けられたが,その際にも,実施に当たって学校には迷い,とまどいがあった。しかし,時間が経過するにつれて,工業高校ではロボット相撲大会,農業高校では作物を育てる活動など制度の定着がみられるようになった。総合的な学習についても,何年かかけて蓄積していくことが重要ではないか。

 ある小学校で図書館を活用した国語の授業をみたが,すばらしい授業で国語にとどまらず,総合的な学習につながる実践であった。全教員に,調べるとは何か,本を活用するとは何か,学ぶとは何か,ということがしっかり根付いていた。総合的な学習は,テーマや方法も大事だが,なぜ総合的な学習をするのかという基本的なことを考えていかなければならない。

 総合的な学習の時間を実施する際に,教科で付ける力との関連を図っている。たとえば社会科で付けた調べる力が総合で生きたり,国語の力が総合に生きたりする。学年を系統立てて総合的な学習を進めていくなかで,市の実態調査からみても,考える力も身に付いているとの結果が出ている。

 PTAの調査では保護者の理解が十分でないという結果がでているが,学校が熱心に取り組めば,それは保護者や地域に伝わるものである。

 実施にあたり,管理職が力量をもった教員を任命し,進む方向を方向性を示してやれば,多くの教員が協力し,しっかりしたものができる。管理職がポイントを明確に認識できていれば,それが教員に伝わり,学校全体のものになる。

 現状把握については,全国的な悉皆調査や平均点主義の調査を行うことには意味がないのではないか。まともにやってない学校の教員,児童生徒,保護者に聞いても意味がない。自分がかかわってきた学校の中には,総合的な学習を頑張って,いろいろな力を付けさせており、いわゆる従来型の教科学力も伸ばし,入試に関しても有効な結果を得ているという例はたくさんある。そういう事例も紹介しないといけない。

 総合的な学習に熱心に取り組む学校の中には,人員もそのままで,生徒指導にも対応し,いわゆる受験学力も付けている学校がいくつもある。そういった学校は,教員のチームワークと保護者,地域を巻き込んだネットワークをうまく機能させながら,カリキュラムマネジメントを絡めた研修を行っている。学校の中にチームワークとネットワークの構築することが大事である。

 県で実施した学力調査の結果を見ると,児童生徒を対象とした調査では,総合的な学習の時間で問題解決能力や表現力を身に付けたと自覚している子どもは学力が高く,子どもたちの総合的な学習の時間の取組と学力には相関関係が見られる。教員を対象とした調査では,小学校においては総合的な学習の時間への取組の上位郡ほど学力が高く,中学校では群による差がほとんどないとの結果が出ている。

 前任の小学校では,特に問題解決の資質や能力を高めることを打ち出し,総合的な学習の時間に重点的に取り組んだ結果,各教科の学力も伸びた。教師は総合の授業に関してとても悩むが,それを乗り越えたときに子どもの力も高まり,教師の授業力も高まる。自分で構想を立てることを忌み嫌う教師は,何の授業をしても同じではないか。

 「総合的な学習を勉強して何がよかったか」を小学生に聞いたところ,「苦しいとかしんどいということより,楽しいことを考えていろいろなことに取り組めるようになった」という回答を聞いて,これが総合の大事なところだと感じた。

 小学校で総合が上手くいっているのは,担任と子どもが一緒につくりあげているから,中学校,高等学校についても担任と一緒に総合をつくり上げていくことが大事。

【課題】
 研究室で「教科」,「道徳」,「特活」,「総合」について,「自分で学びを作れるか」ということを意識してデータを取った。「総合的な学習の時間」にしっかり取り組んでいるところとそうでないところの差が大きいことがわかった。「総合的な学習の時間」に熱心なところでは,学びについての意義や意味を感じている児童生徒が多い。児童生徒が「教科の学び」と「総合の学び」がつながっているということを意識するためには,まず教師がそのことを意識し,児童生徒に意識させるような学ばせ方を,「教科」,「総合」両面で取り組む必要がある。

 学校は,総合的な学習をどう組み立てるかということより,どうやってこなすかということに腐心しているように感じる。全体計画を立てるにしても,十分な議論がなされているのか,また,地域の願いがそこに入っているか疑問である。

 教科の学習と総合的な学習を分けて考えているという感じを受ける。教科と総合的な学習の間にフィードバックや連動性があまり感じられない。そのことが,保護者の「総合的な学習に時間をとられて,学力が下がる」といった反応につながっているのではないか。

 特定の機関に様々な子どもから大量の質問が寄せられることがあると聞くが,親切に答えてくれる大人に甘えるのではなく,自分の関心に沿って,まずは図書館などで調べてみて,わからなければ最後に聞くというようにしなければならない。調べる,学ぶというプロセスを飛ばして,情報だけをキャッチし,それを並べて書くのは,総合的な学習とはいえない。

 「基礎学力」か「総合的な学習」とか「基礎学力」か「ゆとり」かという図式が未だに見られるが賛成しない。PISAの設問をみると,応用力や現実の生活に生かしていく問題が多く見られる。生活に応用していく力を考えると「総合的な学習の時間」が単に「体験活動」や「調べ学習」のレベルにとどまらず,知的な活動をして成立させるという観点から「総合的な学習」を見直す必要がある。

 総合的な学習の時間について,教育関係者であっても認識が十分でない。教師の適切な指導が一部改正で盛り込まれたが,ねらうところのまだ半分くらいのところでとどまっていないか,もう一歩踏み込むための適切な指導はどういうことか考えていきたい。教科との関連についても,子どもが使いたくなるような教科の力を付けていくことが,関連付けるということではないか。

 うまくいかない学校が,なぜうまくいかないのかを分析する必要がある。マスコミの報道を受けて,現場が混乱するのは,総合的な学習に関して理解が統一されていないということである。その点を分析する必要がある。

 学力低下とよく対比されるが,総合的な学習は,正しく運用できれば,学力低下を救う道として非常に効果的な面をたくさんもっている。しかし,現実にそうとらえていない教員も多い。わかっている人がいる学校ではなんとかなるが,そうでないところはお茶を濁すような実践になっている。

 総合的な学習とはどういうものか理解されているかという点。総合的な学習の時間が何を目指しているかということが現場に十分理解されているかということが課題である。それは教育関係者だけでなく,保護者を含めてわかるようなものにしていく必要がある。

 総合的な学習の時間のねらいの理解が十分でないのではないかという問題にすべては帰結するのではないか。読書にも範囲がないが,総合的な学習も教科書がなく,教える範囲が限定されていない。教科書がないことを最大限に生かし,物を考える力や読む力,ことばなどに還元していってはどうか。そのためにも本を読むといったことを総合的な学習の時間に位置付けていく必要があると考える。学校図書館などを利用して体験したことを本と結び付けていくことが学力につながっていくのではないか。

 「総合的な学習」に対するパブリックコメントをみて,現場が混乱していると感じた。「総合的な学習の時間」が元来何をねらいとしているのかということを,教育の現場ではっきりとさせておかなければならない。

 学校の教員からは忙しいという声をよく聞くが,総合的な学習についても,実際にやってみて,その結果から,どのような力がついたのか検証し,不十分な点を改善していくという方向が必要ではないか。

 教員の打ち合わせ時間の確保が実施上の課題といわれるが,学習指導要領の改訂,完全学校週5日制,授業時数の確保,学校行事や会議の精選など,学校の運営体制,学校のビジョンから考えていかなければならない「総合的な学習」のみに視点を当てるのではなく,教育課程全体を考えて,そのなかで取組を進める必要がある。

 土曜日がなくなったため,月から金曜日にずっと6時間の授業を行っていると教材研究の時間が取れない。月2回土曜日を復活させるともう少しゆとりをもって準備ができるのではないか。特に学年で取り組む場合は,実践内容の充実のためには,教員の打ち合わせの時間は重要なポイントとなる。

 時間の問題について,時間が足りないからできないという問題ではなく,土曜日を復活して解決する問題ではないと考える。学校によって必要があるなら,土曜日も学校に行けるようにするという柔軟な対応ならわかるが,一律に復活させても解決にはならない。学校5日制とは,地域やNPOからみれば,地域2日制となるわけで,土曜日を復活させることの功罪をよく考える必要がある。

 「総合的な学習の時間」の実施に当たって,その充実のために,学校の中で,校長,教頭,研究主任,教務主任といった立場の職員が力量をもち,リーダーシップを発揮しているのか。十分なリーダーシップが発揮できていない学校も多いのではないか。

 授業参観をした学校で,調べ学習のレポートを見たが,聞き取ったことが羅列してあるだけで,自分の意見が書いてないものであった。「課題づくり−調べ学習−発表」の内,3分の2程度のところで学習が終わっている場合が多いのではないか。もう一歩踏み込み,もうひと工夫しないと「知の総合化」にならない。

 PISAの調査のまとめを見たが,順位だけが問題になっている。点数がいいということと,物事を理解しているということが遊離してしまっている。一番大切な「わからないことがわかるよろこび」を体験させていないことが問題である。そのような状況のもとで,「総合的な学習」を行うことで学力が上がるとか下がるとかいった議論は意味をなさない。基礎学力と「総合的な学習」は補いあうものであって,二律背反的にとらえるべきものではない。

 総合的な学習と教科学習の二者択一といった受けとめがあるが,知識は体験を通して精査されるものなので,どちらが必要かといった論議はいらないはずである。しかし,なぜ混乱するかというと,我々大人は,体験の意味がわかっている教育を受けきていないわけで,そういうリソースがないからである。したがって,体験が大切だと説明するだけでなく,教員に体験させる場をもっと与えていく必要がある。

 「読解力」をつけるためには,ただ読めばよいというわけではく,必要な本を選んで,読んで,話し合って,自分のことばでまとめていくという作業を通して初めて「読解力」がつくものと考える。「総合的な学習」と「読解力」の関係も今後明らかにしていく必要がある。

 学校にある程度の自由度というものが確保されないと充実は難しいのではないかと考える。人的なもの,時間的なものなど,さまざまな制約があって学校は窮屈な計画を立てざるを得ないのではないか。

 地域での学びが少なくなり,学校へさまざまな学びが集中しているという現実があるのであればそういう事実を前提として論議する必要がある。

 なぜ現場でうまくいかないかということは,きちんと分析する必要がある。確かにマネジメント能力の問題や教師の指導力による部分もあろうが,家庭や地域の教育力の低下からさまざまな課題が学校へ集中するなか,生徒指導にかなりの時間を取られ,教科の指導も行いつつ,さらに「総合的な学習」の準備にあたる教員の状況も踏まえなければならない。それを踏まえた上で,サポートの方法を考えなければならない。

 現状では,教育委員会に「総合的な学習」の指導主事がいないことや学力の問題がクローズアップされたこともあって,「総合的な学習」をテーマにした教育研究に取り組む学校が減り,「教科」の研究へ移行する傾向が強い。教育委員会の姿勢も問われている。

 教員は長年,指導書と教科書が提供され,何もしなくても教える環境が整っていた。総合は,自分で考え,内容もつくり,運営も考える。こうした経験がこれまで教育現場になかったことが進展しない大きな要因だと思われる。改善のためには,大学の教員養成,教育センター,指導主事の役割など,対応できる変革が必要と考える。さらに,コーディネーター,マネージメント力が先生たちにないのであれば,専門家との連携も必要となる。

 一部の教員に負担がかかっているといるということはないか。総合的な学習の時間を運営していくために教員はどのくらいの時間をそこに注がなくてはならないのか,どのように教員を配置すれば効果的な運営ができるか,現状のスタッフで,教科もやりながら,果たしてそれができるのかを考える必要がある。

 総合的な学習は基本的に横軸であり,各教科の教員がその枠を超えて情報を共有しあって,学校全体で軸を決めるということが求められる。現状では,教員が個人で動いているという状況があるように思う。

 教員養成にかかわって,大学で取得する必要単位の中に,総合的な学習に対応するものがあるのかという点は見ておく必要がある。現実問題として,大学で総合的な学習について教える教官が十分いないという問題がある。

 現職研修にかかわって,教員の多くは,教育課程の編成というと,時数の確保という意識が強く,教育課程が横につながっているということについての検証の発想と方法論がない。

 生徒の成果意識は先生方が何を心がけて授業をやっているかに関係する。教師がどういう授業をやっていいのかをはっきりわからずにいるから,中学生の意識調査によると「友達同士の会話が増えるようになってきた」,「他の人と協力しあったり,意見を交換し合うようになってきた」というレベルに留まっている。また,教師より親のほうがねらいなどに対する意識が高いということも問題である。

 組織的,計画的に行われるのが学校教育だが,教員に対する意識調査によると,総合的な学習の時間の「実施上の重点」の各項目うち,重点を置かれているものは高いものでも60パーセントである。これでは学校は動かないのではないか。

 小学校においては生活科をベースに総合が考えられてきたと思うが,中学校では特別活動をベースに発想されてきたと思う。中学生への意識調査で「仲良くなれた」とか「協力してやれた」という回答が出てくるのは,特別活動の基本的なねらいが根底にあり,そこから総合が作られたためだと思う。

 日本の教育行政の問題として,各教科ばらばらで考えているのが問題。1年間で本当に教えられる内容になっているかチェックすることが必要。学校の教員に聞くと,学校行事を含め学校でやるべきことが多すぎると聞く。現場の状況をきちんと把握した上で本当に大切なことは何か明記すべき。

 意識調査で中学校の教員に「なくした方がよい」という回答が多いのは,言いかえると,自分の教科に非常に責任感をもっているということ。総合的な学習の時間についても,それぐらいの思い入れを持ってほしいが,そこをどうしていくかが課題。

 小・中学校教員にアンケートを実施したが,中学校の教員は体験のよさで満足している教員が多い。一方,小学校の教員は目標に迫れたか,子どもが考えることができたなどの回答が多い。

 小学校と中学校の総合的な学習の時間に対する意識の違いは受験のあるなしが大きい。

2  総合的な学習の時間において今後重視すべきねらいや育てたい力等

【今後重視すべきねらいや育てたい力等】
 「総合的な学習」と「教科」との違いを明確にしなければならない。それは,「教科」には学習指導要領という国の基準があるのに対して「総合的な学習」は国の基準を設けないということである。「総合的な学習」に関しては,国が決めるのではなく,学校と児童生徒がつくっていくという,学びの路線を確保する必要がある。

 「総合的な学習」では,「教科」で伸びない力を伸ばしたい。今までの学校は教科の指導に精一杯で,教科以外にこんなことをやってみたいということをもっている教師が少ない。「総合的な学習」はそこに取り組むことができる時間である。

 学習指導要領の趣旨・ねらいと子どもの実態,学校教育目標をつなげて,指導の目標や内容をきちんと設定していくこと,子どもに付けたい力を明確にしていくことが重要である。

 身に付けた基礎的・基本的な力をどう使うかということが重要である。教科と総合的な学習の時間は車の両輪であり,両方とも大事である。身に付けた知識を社会に出る前に体験的に活用してみる時間として総合的な学習の時間は有効と考える。

 総合的な学習では,教科と違って「付けたい力」というより「付く力」と捉えるほうがよいのではないか。

 「知」は「付けるもの」,「付くもの」という意見があったが,「知」はもともと「付いているもの」で,それをどうやって引き出すかという考え方もできるのではないか。教師の仕事はそれを引き出すことではないか。子どもたちが目を輝かせて活動するその姿から,教師が教えるということの原点に立ち返って取り組んでいくのがよいのではないか。

 「知の総合化」について,「知」をどう捉えるかということは重要である。個人的には「知の総合化」に「個性化」の視点も入れて考えたい。各教科で学んだことを総合するだけでなく,小学校の高学年になれば子どもは自分で学びを組織できるようになる。そういう,自分で「知」を組織していく力も総合的な学習の時間で付けていくことになるのではないか。

 「総合的な学習の時間」が何をする時間かということを明らかにする必要がある。「知の個性化」と言い換えることができる。子どもひとりひとりが自分の「学び」を作っていかなければならない。子どもに学びの核となるものを見つけ出してやる,保障してやるということが「総合的な学習」の「教科」と違うところである。

 「総合的な学習の時間」を創設した理由のひとつに,子どもたちの意欲や関心が低下していることへの対応として,もっと「個的な学び」を保障しようということがあるのではないかと考える。そうであれば,従来の「教科」を教えていく部分と個々の学びを基本にした教育の部分の両方を子どもたちに与えていく必要がある。

 「教科教育」は公的,「総合的な学習の時間」は私的なものととらえている。「教科」でできないところを「総合」でやっていくということも考えられる。

 教育はカリキュラムがないと始まらない。「総合的な学習の時間」の場合,1子どもが自分らしく自己実現するという「個性化」の視点,2その個も社会のなかに生きているという「社会化」の視点,3アカデミックなものという「学問」の視点,の3つの柱が重要である。理念としてこの三者が統合するところに「総合的な学習」があるのではないか。

 「総合的な学習」のねらいとして,自分の生き方を見つめさせるということが重要ではないか。生き方を見つめさせるとは,「総合的な学習」をとおして,今までと違う自分に気づくということであると考える。

 「総合的な学習の時間」において今後重視すべきねらいや育てたい力としては,問題解決能力等の育成や知の総合化が重要と考える。特に小学校では,地域の社会環境,自然環境,文化環境から体験を通して課題を見つけ,考え,解決していく,問題解決能力,学び方が大事である。

 「なぜ学ぶか」ということ,「社会の一員としてどう生きるのか」というところへ立ち返って,「総合的な学習の時間」のねらいを再度現場に認識してもらう手立てが必要である。

 各教科の教師が自分のもっているものを持ち寄って情報を共有することは大切である。また,総合的な学習を大人がどうするかと考えることも大事だが,子どもの視点で見直すことも忘れてはならない。

 教師はもっと楽しく,自由にやればよいと考える。「総合的な学習」は規制がないのであるからそのことを生かして,自分の思いや願いが叶うのであるからもっと自由にやればよいのではないかと感じる。

 「総合的な学習の時間」は現場に任せると覚悟を決めて始めているのであるから,その精神は貫くべきである。今後,「総合的な学習の時間」を体系づけて,国がカリキュラムを提示していくという方向へもっていくと「総合的な学習の時間」の存在意義はなくなる。

 詰め込み教育からの脱皮が今次教育改革の基調であったと理解している。このスタンスを基本的には保持しつつ,学力向上と人間力育成を可能にする施策の展開が必要と考える。個人的には,これを「教科書秀才を超え出る道」と呼んでいるが,その基本構想は,教科と総合の共存・連携であり,総合的な学習の時間の縮小ではないと考える。

 教育を議論するときには,全体としてどういう教育をするのかという像が見えてこなければいけない。各教科や総合的な学習の時間の目標が大きな教育の目標の中に組み込まれているということをきちんと位置付けて示していく必要がある。

 総合的な学習の時間によって,今,目の前にいる子どもが少しでも変わればということを大事にしている。

 基礎・基本には,各教科で身につけるアカデミックナレッジと総合的な学習の時間を通して身に付ける基本的資質・人間性の両方があるが,アカデミックナレッジの評価は進んでいるが,基本的資質・人間性の評価を教師は避けている。それでは総合的学習は育たない。だから,とにかくやってみて,子どもたちが変わったというタイミングを捉えて,個性を発見していくという,子どもたちの変化をベースにして粘り強くやっていくしかないと思う。

 子どもの頃から社会の一員として参加する力をはぐくむことを明確にすべき。何のために環境など現代的課題を学ぶのか教員も理解していないまま終わっているのではないか。

 総合的な学習の時間は生きる力を育てるということで理解されているが抽象的でどんな力をつけるのか判然としない。総合で育てる資質・能力を書き加えたらどうか。現状はどんな力がという方向性があまり書かれていない。

 総合的な学習とは、教科の探求、自己への探求、社会への探求という3つの柱を統合していく学習ではないか。

 教科の中で学んだ知を、教科の中だけでとどめるのではなく、教科間の関連を図り、知のネットワーク化を行い、日常生活の中でいかに総合化した知を生かすことができるかが重要。

 相手に応じ適応するような能力は1つの体験では生まれてこない。多用な数多くのあらゆる場面に応じて対応できる力が総合の力ではないか。

 専門分化した教科を総合したり、関連づけたり、自分の生活、社会、生き方と関連づけたりする学習が必要。

 具体的な学びの文脈に応じて課題を見つけて、学習した内容を関連付け、応用させながら問題解決的に学ぶ学習が必要。

 いかに学ぶかという学び方、方法知を身に付けることが必要。

 総合的な学習の時間は、知識・技能をどれだけ獲得したかということではなく、学んだ力をいかに生かせたか、総合的に働かせたのかが重要。生涯にわたって生きる力を育むことが重要。

 日本人としてのアイデンティティーや国家観などから、どういう日本人をが必要であるか、どういう資質が必要か、そこから個性を見つけて、個人的なレベルに結びついていくという体系の中で、総合的な学習の時間を考えることが大切。

 問題解決能力等の育成とともに、学習意欲の育成が重要。

 小学校では「地域」、中学校では「社会」という言葉を手がかりに、総合的な学習の時間を考えたらどうか。

 社会という現実の慣例の中での知や学びのつながり、意識、役割、主体意識の高まりを見出していくことを、総合的な学習の時間の基礎・基本として提示できれば意義がある。

 学ぶ力を育てる、自分を見つめる力を育てる、社会人として生きる力を育てるということを、総合の基礎・基本といってもよいのではないか。

 総合的な学習の時間での具体の活動は、児童生徒の学習に応じて、学校で決める方がよい。

 総合的な学習の時間で何をやるかだけを考えるのではなく、個性を発見することや自分に必要なものが何かを発見できるようにすることが重要。

 総合的な学習の時間において、教科補充・発展的な学習、学校行事などと混同された実践が行われているのは、わからないから混同されているわけではなく、確信的にそうしている。このため、これを直す方法として、ねらいや育てたい力を明確化することが効果的は疑問。

 総合を意図的に形骸化させないよう、教科横断的・総合的な学習を行うということ、教育課程上の位置づけと役割というものを明確にしていくことが大事。

 育てたい力の明確化について、育てたい力の視点を国が例示するということと、その上で具体的な育てたい力は各学校で設定するということに、どういう関係があるのかがよくわからない。

 育てたい力の視点の例示について、1つ目の学習方法に関することは当然。2つ目の自分自身に関することも非常に大事。3つ目の「社会とのかかわり」が何を指しているのかわかりにくいため、「人とのかかわり」とした方が、指しているものがはっきりしてよい。

 総合的な学習の時間の育てたい力や取り組む学習内容、いろいろな目標を決めたりすることはとても大事であるが、実際に決めて実行できるだけの人的余裕が学校にはない。

 総合的な学習の時間で育てたい力を例示されることは、非常に窮屈感を感じたり、逆に働くことの方が心配。これを示しても、学校が「そうか。じゃ、これでやらざるを得ない」とはならないのではないか。

 ねらいを明確にして取り組むことは非常に大切であり、ねらいの明確化のところに「実社会や実生活とのかかわりを重視すること」と示すことはとても重要である。

 学習方法に関すること、自分自身に関すること、他者や社会とのかかわりに関することの3つがすべて含まれているような学習活動が、よい総合的な学習の時間の活動であり、教師側はこれを意図した内容で学習活動を構成していくといったことが重要。

 ねらいについて、「日常生活における課題を発見し」まではいいが、「解決する」というのは簡単いはできないので、表現の工夫が必要ではないか。

 教育は、子供たちが学校を卒業して人生をちゃんと生きていくように、子供たちが実生活の中で数学的なものも国語的なものも、あるいは理科的なものも知恵として横断的に使って生きていくことが前提。このため、総合的な学習の時間においては、実社会や実生活とのかかわりの部分をもっと重視してもいいのではないか。

 育てたい力を設定することは、反対ではないが、生徒自身が持っている潜在的な力を総合学習で発見したときに、それが学校で育てようとする力と違うという場合にどうするかといったことについては、柔軟に考えておく必要がある。

 高等学校を念頭においた場合、ねらいについて横断的・総合的だけでいいのかという疑問がある。高等学校の場合は、さらになぜだろう、どうしたらいいだろうというように、かなり深く突っ込んで思考したり、究めようとする場合があるので、そうした点も読めるような工夫が必要ではないか。

 育てたい力の例示は必要と考えるが、余りこれが強く働くと、いわゆる子供自身の発見学習の効果の芽を摘んでいくようなことはないか。

 育てたい力の視点として、例示されている3つは総合学習では欠かせないものである。このような大きな視点が示されることは、学校でさまざまな特色を生かした活動をしていく上で決して妨げにはならないし、むしろ推進するものになる。

 いわゆるまるまる教育のような現代的な課題というのも挙がっていたが、中、高等学校の総合的な学習の時間には、こうした社会のあり方のような問題も含めるべきではないか。

 3つの視点を示す場合に、例えば、意思決定力とか自分自身に関すること、課題解決力を育てるなどの学習方法に関すること、のように説明を少し加えると読む方がわかりやすい。

 小学校だと地域の文化・伝統に関する学習活動をつけ加えた後、初めとする多様な課題とか、ほかのいろいろなものを含めるような形に表現を和らげると、ある程度例示であることもわかり、さらにもっとやってもいいんだということが出るのではないか。

 総合的な学習の時間については、かなりうまくいっている例がたくさんあるので、良い事例を提供するとともに、学習活動例について、具体的な例をもっと増やしてはどうか。

 中学校については、中学校側にもう少し考えさせる観点からは、仕事や将来を考える学習活動の例示を付け加えるぐらいでよい。

 学習活動の例示を加えることについては賛成。その方が取り組みやすい。

【小・中・高を通じた学習の連続性等】
 小・中・高の連携を考えるとき,子どもの発達ということを考える必要がある。10歳がひとつの境目になるものと考える。

 総合的な学習は,小学校3年生から高等学校まで10年間学ぶのであるから,学校や地域の実態を踏まえつつ,計画的,系統的に進める必要がある。教科とのかかわりも勘違いをしている学校がある。こうしたことをみると,昨年12月の一部改正で,全体計画,教科との関連,評価について明確に示されたことは評価できる。

 学校間の連携については,高等学校でいうと,専門高校と普通高校の連携も必要である。中学校と高等学校の連携についても,生徒の交流,教員の交流を進めていく必要がある。

 ある中学校の実践を見たが,内容は小学校でできるレベルであった。小・中・高とレベルが上がっていかない,時には逆転さえしている状況をみると,学習指導要領で小・中・高で同じ表現で書かれていることの不十分さについて考えなければならない。

 同じテーマでも小・中・高で発達段階に応じて,考え方,深まり方,表現の仕方にずいぶん差がでるので,小・中・高の学習指導要領でそれぞれ特徴を説明すればよいのではないか。

 「総合的な学習の時間」の性格と小・中・高の関係をみると,問題解決能力等の育成や知の総合化については,レベルの違いはあっても,小・中・高とも同じでよいと考える。教科横断的・総合的な学習については,学校の実態を踏まえるという点は共通だが,小学校と中・高等学校は異なってくる。小学校では体験に基づくところを,中学校では各教科で学んだ力や経験を関連させて進めることができるので,地域にとらわれる必要はない。

 児童生徒の興味関心を引き出すためにはテーマがあったほうが取り組みやすい場合があるが,同じ「国際理解」をテーマとしても,小と中・高では異なってくる。中・高では「知の総合化」という観点から,他の教科ではどのようなアプローチができるかということや教科を関連させて知的な学習に発展させるということが可能になる。「教科」には「教科」の学問体系が背後にあるが,「総合的な学習」はそれを関連付けて応用するということが求められる。

 総合的な学習を小中高10年間やって何も残らないということは問題である。子どもたちの学びを豊かにし,保護者の理解を得るためにも,学習の足跡を学習ファイルや作品を残していくことを心がけなければならない。

 イギリスのクロス・カリキュラムやアメリカのインテグレイテッド・カリキュラムは,中・高等学校になると各教科がいかにクロスするかというところへつながっている。各教科だけでは育てられない力を各教科で身につけた力を応用していくことは,「総合的な学習の時間のねらいのひとつになる。

 総合の考え方は,日本だけでなく諸外国で実践されている。特にヨーロッパはかなり熱心に取り組んでおり,国が政策的に関与するのでなく子どもの自発性を前提にして教育できないかと,これは難しいと分かった上でやっている。我が国においても,与えられたものは受け取れるが自ら発案することができないという流れの中で生み出されたのが総合だと思う。
 世界中の先進国が共通に抱えている教育の課題があって,各国で取り組もうとしている流れの中に総合があることをぜひ理解しておくべき。

 「総合的な学習の時間」のねらいは,「生活,地域,世界の中で共に生きていくための心と体と技能を育てていくこと」ではなかろうか。その際,教師の思いや願いが重要であり,どんな地域にしたいかということが基本になる。小学校では年齢的に支援,提供という取組になろうし,中・高等学校では,チャレンジ心を高揚させるような対応が必要と考える。

 「総合的な学習の時間」が教科のようになるという意見もあるが,公教育として置いている以上,教科とは違った学習(学び)をするものであることを述べることは可能である。(例えばテーマ化した学びをする,といった具合)また,小中高の学校段階の連続性や発展性を踏まえたカリキュラム論,あるいはカリキュラム評価論として述べることは可能であると共に,必要なことではないか。そうすることは,公教育の責任でさえあると考える。ここが曖昧なことが,総合の学びを軽くみる風潮を生んでいる。これを変える施策が必要である。

 各教科についても,発達段階に応じて,小・中・高等学校別に総合的な学習のテーマのような例示を検討してもよいのではないか。

 教師の意識変革が必要。小学校でも,中学校でも,高等学校でも,総合のカリキュラムは子どもたちがつくっていくんだという発想に立てば全部つながっていく。

 小中高の書き分けについては,小中は同じでよいが,高校は書き分けるべきと考える。平成10年の教育課程審議会答申で各学校段階の役割が示されているが,義務教育の小中学校と,高等学校とは記述が違っている。

【学習状況の評価】
 学習に関する評価であるが,結果だけでなく,そのプロセスをどう評価するかという点が重要である。教師,児童生徒,支援者は,それぞれでそのプロセスを評価する必要がある。

 教員一人一人が目の前の子どもにどんな力が付いたのか考えていくことで,総合の価値が見えてくるし,それを子どもに返していくことが子どもの意欲につながると思う。また,その評価を保護者にきちんと知らせていくことが大切である。

 総合的な学習の時間を進めていく中で伸びた点を子供自身が自覚することで自信や達成感を育むので、ポートフォリオ評価が大変重要である。

 教科にしても総合学習にしても、評価という問題は重要。しかし、総合的な学習の時間における育てたい力や取り組む学習活動、学習方法や内容を明確に定め、適正に評価するというのは、非常に難しいことである。

 育てたい力、学習活動、内容、これを明確に定めて適切に評価するというのは、総合的な学習の時間の性格をきちんとする上で非常によい。

 総合の評価は、どの子ができて、どの子ができないという、できるできないの判断じゃなくて、どの子がどのような力が伸びてきているのか、あるいはどのような成長があるのかというのを教師がとらえて、それを何らかの形で子供に示すことが重要。

【学習指導要領の示し方等】
 現行学習指導要領の「総合的な学習の時間」に係る記述は説明として足りているのか検討が必要である。足りないのであれば,明快な説明を加える必要がある。説明は足りていても進まないのであれば,進めていく力に問題があるし,それを取り巻く支援の体制(教員養成を含む)から考えていかなければならない。

 総合が総則の中に入っていることによって,教科や特活などに比べて軽くなってしまっているところがある。何かの形で1つ独立させたほうがよいと思う。

 「総合的な学習の時間」における学びは,学校格差が大きすぎる。保護者への説明を果たせないことも課題となっている。この原因のひとつに,学習指導要領解説総則編の内容が,小・中・高で類似していることがある。国として共通的な目標・内容を示さないとしたことがその背景にあると思うが,学校種別や学年等の違いに言及せずに,同じような解説が述べられることに課題があると考える。
 ここを改め,例えば小中高別に,総合的な学習の時間について,それを置くべき必要性についての考え方(哲学),また,その目標・内容の例示を含んだ解説を新たに作成することが必要ではないか。

 総則編から引き出して,小中高別に総合編の解説を作るべき。学校特性等を考慮して入れたらどうか。

 日本の教育の根本的な問題にテスト信仰がある。今の生徒は問題を解く技術は身に付けているが,問題の意味は分からないことが多い。例えば,円周率を使った計算は瞬時にできるが,「円周率とは何か」と聞かれると答えられない生徒がいる。
 学校を卒業して社会に出た時に,世界の人たちを相手に生きていかなければならない。その基本にあるのが各教科だが,さらに教科を超えた学びをするのが総合的な学習の時間である。そういう意味で,総則にも書き,総合の別冊もつくるという両方が必要だと思う。

 指導要領に準ずるものとなると具体的なものは書きづらい。だが,抽象的に書くと多くの解釈が出て共通理解を得ることが難しくなる。
 ただ,パンフレットのような形で実践する上での最低基準やよい実践例などは示さなければと思う。小中高別に分けることについては,内容は書き分け,1冊にまとめる形で相互に読み合えるような本にしてもいいと思う。

 実態としてやっていない,やれていない学校が確かにある。そういう学校でも,ある一定の型,レベルをやっていくために,どこの学校でもこれぐらいは最低できるというようなことは考えていく必要があるのではないか。

 総合的な学習の時間は,生涯学習と言ってよい。長い人生を考えてどのような力を付けていくかという話であって,そう考えるとどこかで従来の教科とは違うという意味を押さえて,どう広がっていくかを示した方がよいのではないか。

 総合の趣旨がはっきりしないところに問題がある。教科と総合はどう違うのか明確ではない。教科ではなかなかできないものを学ぼうとするのが総合の時間だと書くべき。

 指導要領の文章だけ見ても,教科との違いは見えてこない。総合と教科はどう違い,なぜこれが必要かということを明確にした上で,こんな学習の可能性があるとか,これをやったらこんな力がつくということを示したらどうか。

 指導要領の解説を読んでも,具体的なイメージは持ちにくい。教員だけでなく,子どもや保護者が読んで分かるような具体的な姿が示されたものを出さないと,学校は動かない。

 学校現場では,学習指導要領を読みこなして,解説の部分を見直して,この時間で養うものは何かということで討論を重ねてきた。だから,学習指導要領にこれ以上載せるのはどうかと思うが,解説やパンフレットなどがあればありがたいと思う。

 指導要領の中での書き方は今のままで十分と思っている。ただ,教科については理解力がすぐ分かる一方で,総合はあくまで生徒個々がどう向き合い,どう感じるかなので,その辺は先生方に頑張ってもらいたい。

 学習指導要領で細かくこうしなさいと書いたら自由にやりたいという意識が出てきて,逆に自由にやってくれと言ったら学習指導要領に書いてくれということになる。これはいわば先生の甘えではないか。
 総合学習は教科との横断的なものなので,総合で学習の動機を得た子どもが,理科なり,数学なり,国語なりへ意欲を高めていくことにつながっていけば教科と総合のつながりは確実に深まっていく。だから,このように教えてくださいという大筋は決めて良いと思うが,その基準や教え方などはあまり書き過ぎるべきではない。先生方の創意工夫が重要になる。

 ここに書いてある部分で書き過ぎだと思うぐらいである。総合の時間が始まって,2年たって,もうちょっと書いた方がいいかという議論はどうか。できないならできないなりに,文字ではなく形としての施策を打っていかなければ,この問題の解決は期待できない。
 自分たちでこういう子どもをつくりたいとか,こういう学びをどう引き出していくのかということを各学校に委ねる時間を与えた国が,2年やってうまくいかないから総則のここをこういう形にしようとかいう議論をすること自体に疑問を感じる。

 各教科,特活,総合の関係を示した組織図のようなものが必要で,そこで総合をイメージしてもらうこともよいかと思う。指導要領自体については,始まってまだ3,4年なのであまり変えないほうがよい。

 キャリア教育,食育などの大事な教育がどんどん学校に入って来る中で,授業時間も確保しなければならない。そういった中で総合的な学習の時間をどうやっていくかということに関し,今後,学習指導要領等を考えていくに際して具体的な部分として中学校の教員に見えるようになってくるとよい。

 教科と違って子どもたちの興味・関心によって学習が広がっていき,子どもたちに総合的な能力・学力がつくということがわからなければ,教員に意欲がわいてこないのではないか。

 カリキュラムの課題の内容を国が一律に示すことは,クリエイティブな教育にブレーキをかける懸念があるので,むしろ,創造的に教育ができるような支援を行うべき。

 教育課程上の位置付けとして,総則から取り出して,第5章として位置付けることを検討すべき。

 趣旨の明確化は,内容ではなく,教育の原理の明確化により行うべき。総合的な学習の時間で言えば,子ども主体の原理,課題中心の原理,体験・問題解決の原理の3つがあると考えられる。例えば,職場体験についても,課題中心の原理で考えれば,特別活動か総合的な学習の時間かということもはっきりする。

 福祉や環境等の課題について育てたい力を国で明確にすることについては反対である。学校現場で地域や子どもの実態に合わせた取組が進められてきており,保護者の理解もできたところである。内容が示されると何が何でもそれをやらないといけないようになってしまう。

 総合的な学習の時間を総則に入れてしまうと,その存在があいまいなものとして現場で受け止められるので,独立させた方がよいと考える。

 総合的な学習の時間は学校できちんとカリキュラムをつくる必要があることを明示すべき。

 教育の評価が有名な高校や大学への進学実績で評価されることが問題。教育が受験対策だけになっているのが現実なので,教師の意識改革が必要。そのための方法の一つとしてカリキュラムの編成の権利と義務は学校にある,権利だけでなく義務もあることを明記すべきと考える。それを評価するのは保護者であり,地域の人々ではないか。

 総則だと,つい教育の理念や大きな方向性で捉えがちなので,総則とは切り離して具体的に目標までは示す必要がある。内容については,例えば6年生は国際理解,5年は福祉などのように細かく規定しない方がよい。教師一人一人が力をつけて,実践をしっかり残していくべき。

 国で内容を規定するというより,各教科等とどう関連しているか示すことが考えられる。例えば,数学のこの部分が総合的な学習の時間と関連する,特別活動でここまでできるかこれは違うと書いていない。総合的な学習の時間はこのように展開すればよいという意味で,縛りというよりはスタンダードなものはあった方がよい。

 教科のように目標,内容を学年ごとに整理する,情報や環境などテーマごとに整理するなどではなく,どうやって総合的な学習の時間のカリキュラムを実施し見直していけばよいか,教師のよりどころとなる手引書が必要と考える。

 教育原理として,小学校の子ども主体と中学校の子ども主体とは同じかどうか吟味する必要がある。中学生の発達段階の中で小学生とは違う子どもの原理があるのではないか。アンケート調査をしたところ,小学校の教員は「地域」という言葉が多く,中学校教員では「社会」という子どもが多い。

 趣旨とねらいを伝えるのであれは,総合は独立して示すべき。好きにやれといってもできないない人がいるので,取り組むための手順や方法を示した手引書が必要。

 意識調査では「指導内容や学習活動を明確にすべき」という回答もあるが,カリキュラムの責任と権限は学校に置くべき。

 計画段階,実践段階,評価の段階それぞれで総合的な学習に成りえているのか判断できるような示し方を考えるべき。このためには,具体的な内容を示すというより,教育原理や理念を示すことで学校の創意工夫の余地を大いに広げるべき。

 自信をもって取り組んでいる学校とともに,今までのやり方を見直そうとしている学校もあるので,総合的な学習の時間で取り組む視点を示すのであれば,両方に役立つようなもの,特に,上手くいっていない学校に対しては代案となるようなものを示せるとよい。

 教科での学習は一定の目標があり公的な学びであるが,総合は標自分なりの学びができる時間だということを明確にすればよいのではないか。

 カリキュラム論も時ともに変化しており,子どもがつくり上げてきた学びの軌跡もカリキュラムという考え方もある。現状は人間の学びが便宜的につくられた教科のよって分断されている。総合的な学習の時間は学びのルネッサンスであり,子ども一人一人がまとめ上げていく意欲と力をつくり上げるものであることを示したらどうか。

 総合を総則から独立させることには反対。従来の教科がたどった道をたどるおそれがあるのではないか。現場が考えない方向へ,楽な方向へ流されるおそれがある。現場はこれさえさればよいという形になってしまわないか。

 総合的な学習の時間についても,国が示す学習指導要領の中にある以上,公的なカリキュラムではないか。

 教科との関連については,教科の応用・発展でもよいことを明確にしたら,中学校でもやりやすくなるのではないか。諸外国でも教科の応用バージョンが多い。高等学校の専門学科の課題研究は応用そのものである。

 総合は教科の応用・発展でもいいと言うべきではない。特に中学校では,ますます教科の時間にすりかえられるおそれがある。

 総合的な学習の時間は,知識を主として教える時間ではないという総則の解説の記述はやめるべき。必要があれば,新しい知識も教えていくことが大切。

 「知の総合化」について,なぜ総合が必要な部分が明確に示されていない。専門分化し個別化ではだめだ,学んだ知識を応用して総合しなければ本当は生きてこないなど,「知の総合化」のキーワードの意味するところを平易に分かりやすく示すべき。

(名称)
 総合的な学習の時間だが,はたして「時間」という表現でいいのかという疑問がある。総合と教科との位置づけの違いが「時間」という言葉に表れているのか,この「時間」という言い方は考えてみなければならない。

 総合的な学習の時間の「時間」という表現を変えたらどうか。長過ぎるし、「時間」という表現でよいのかと思う。わかりやすい表現を考えていったらどうか。

 総合的な学習の「時間」としてしまうと,その「時間」が問題となって,総合でなく教科をやってもいいのではないか,そんな議論になってしまう。指導要領を見直すということなら,あくまで「学習」なんだ,その学習をどうするかが明確にされる必要がある。

3  ねらいを達成するための方策(教員の指導力向上等)

【国や教育委員会における支援方策】
 どの学校の総合的な学習の取組もより質の高いものにしていくということが教育委員会の仕事である。県では,平成13年に総合的な学習のガイドラインを作った。そこに全体計画を作成し,構想をしっかり持って進めていくよう記述している。平成14,15年度には,県内すべての学校に総合的な学習をすすめていくための経費等を支援する事業を行った。

 新潟県の場合,支援事業を平成14年度から2年行った。初年度は指導主事が県内全部の学校を回って,助言をして年間計画を立てた。年度末に成果をまとめて課題を明らかにし,計画を改善した。2年次は教育センターで小・中学校別の研修をやり,カリキュラムマネジメントも行った。本年度,3年目は,各教育事務所の指導主事が,各地域に行き,1校に地域の担当者を集めて実践の交流,比較検討を行った。次年度は,直接学校が指導主事を招へいして自校の課題の解決に向けた研修を行うように計画している。年度ごとにステップアップしており,研修の内容も変えていく必要があると考えている。

 「知の総合化」を考えるとき,中・高等学校では各教科の教員がそれぞれの専門から,どのようなアプローチができるかということ検討する場を設ければ,充実したプログラムを作ることができるのではないか。

 取り組んだ成果を発表したり,がんばった学校を認めていくような場があると,熱の低いところへも展開していくのではないか。

 学習プログラムの作成・提供よりも,教師がよりよいカリキュラムを作成していけるよう校内研究の活性化を促す取組が必要である。

 学習プログラムの作成・提供については,たとえいくつ提示したとしても,現場の教員は,与えられたものにならってしまうということになるのではないか。

 実践事例集の発行は,各学校段階で踏まえるべき目標や内容不在のままで書かれ発行されると,あまり読まれないことが危惧される。なぜなら,拠るべき目標や内容が曖昧なままでは,「まるまるの学校だからできる」などと言われる可能性がある。他方で,評価の事例集などは,掲げた目標や内容に依拠するので,評価の観点,評価方法の多様化,評価資料の収集の仕方や評価の手順など,重点を設けた一連の事例集発行は歓迎されるのではないか。

 学習プログラムについて,「このようにしなさい」というものは不要であるが,「こうやっています」といった実践事例を交流する場はあってもいいのではないか。また,教師自身が実際に「総合的な学習」をやってみるといった研修の場はあってもいいのではないか。

 学習プログラムの作成・提供については,単にひとつかふたつを提供して,それにならえというのではよくないと思うが,それぞれ位置づけて使えるものであればかまわないと思う。

 都道府県・市区町村教育委員会の環境整備が小・中学校とっては重要である。子どもや教員に対する調査だけでなく,市区町村教育委員会に対する調査も必要ではないか。

 どの学校でも総合的な学習ができるように,教員をサポートする方法として,インターネットを活用して,カリキュラムづくりや評価,モデルケースの紹介など,自由にアクセスでき,教員がそれをもとに考えていけるようなシステムを,県レベルで作っていくということも有効ではないか。

 教員を見ていてカリキュラムをどうつくって行くのかという点はについては,容易でない印象を受ける,例えば教育委員会レベルでその具体的な手順や方法など,ある程度示していくことが必要かとも思っている。

 京都市の報告書は,全ての学校の実践例を載せている点で参考になるし,良い教材である。この本が完成に至るまでに大変な検討があったということで,そのプロセスが評価に値する。

 学校評価という点から,新潟県では近隣の学校が集まって学校目標について話し合う機会があるが,その中に総合の取組についての話題がある。その情報交換を通じて,自分の学校の強さや弱さを自覚する。そういったことを他県でも行っていくことは大事だと思う。

 教育委員会に総合の専任主事がいない状況を改善すべき。

 教師の指導力の落差も大きいという中で、教員養成課程においても、例えば教員免許の科目に加えるなどが必要ではないか。

【総合の趣旨の周知・理解の促進】
 学習指導要領でどう示すかといった問題で,教科の目標や性格という点について言えば,教科と比較したときに総合はわかりにくい。総合学習は教科とは違う何かであるという「哲学」がないと,教師も腑に落ちない。

 今,総合についてはリーダーになる人が趣旨を理解できていない状況なので,教科ではなし得ない総合の機能というものをどこかで保障する必要がある。
 教科は「公」の力があって,一定のレベルを要求されるが,学ぶということは基本的に「私」だと思う。その「私」の力をつけていくことが総合であるとすれば,話はわかりやすくなる。

 教科に比べて総合の場合は目標や評価についてわかりにくい。その上で言うと,1「哲学」に加えて,何を総合に組み込まなければいけないかという「基準」を明確に示すこと、2「やり方や手順」について,教員の指導力も含めて手立てを打つこと、3家庭や学校,地域でどのように生かされているかという観点での「評価」がなされることの3点が大切になる。

 総合の「哲学」を示し直す必要があり,その示し方の戦略は持っておくべきである。

 趣旨の理解という点について,教師の側からの教授学的な観点で考えると,教師がいくら学習指導要領を読んで理解しようとしたところで,実際に実施する場合には,次のような過程を経て行われるだろうと思う。
 例えば総合と教科との関連で言えば,(1)教科の中のどこがどう関連するのかという関連表の作成(2)年間指導計画の作成(3)教科の学習とは違った教材や活動の開発(4)1つのまとまりとしての単元構成という流れである。そして最終的には,教科との関連ということを意識した問いかけや助言が入っていなければならないし,子供の学習活動を通しての変容や教師の成長などを検証する必要もある。
 こう言った教授学的な部分も含めて趣旨理解の点を議論するのか,指導要領の示し方という点で議論すべきなのか,そういった問題がある。

 良い例だけではなく,むしろうまくいかなかった例を挙げ,改善の方向を示すことで,趣旨の理解の徹底が図れる。

 何か疑問が生じたときにそこに戻っていけるような、総合に関するわかりやすい冊子が欲しい。

 教員,保護者等も含めて共通に読んでもらえるような,それほど枚数の多くないカラフルな冊子のようなものを作成する必要がある。

 抽象度の高い指導要領だけでは共通理解が進まないので、パンフレットをつくるべき。「ここまでできて,こんなに力がつくんだ」という実例や,力をつけるために最低限押さえておかなければならない「最低基準」を示す必要がある。さらに,総合の悪い例も示すことによって,やりたくないと思っている先生も頑張らざるを得ない環境ができてくる。

 学社融合という観点から総合を進めていくと,当然学校外からの応援が必要になる。教員のみならず保護者等も理解できるような形が必要と思う。

 総合を地域全体に知ってもらうには,地域と学校がどのように連携できるのかという仕組みと,総合学習を進めていく手順を示していくことが重要ではないか。

 趣旨についてはもうかなり周知徹底されているのではないか。むしろ、積極的に取り組んでいる良い実例をどんどん示して,その地域の中でやっていることを評価し合うことが大切。

 趣旨を理解したくない人は結局理解しようとしないというのが,徹底されない原因と思う。総合の趣旨に反対している人たちは趣旨を徹底しなければならないという意識はほとんどない。趣旨徹底より,即効性のある何らかの手を打っていくことの方が大切ではないか。

 組織という点から言えば,学校管理者も総合学習のコンセプトを理解した上で,学校としてどうするのかというようなビジョンを立てるという時にきている。

 趣旨の徹底ということに関して,当事者である教員の側にさまざまなレベルがあるように感じる。例えば教科と総合との関連ということでも,中堅教員で熱心に取り組んでいる人たちが,実はよくわからないと言っている実態がある。

 各学校で実践しながら改善を図っていくしかないが,パンフレット,あるいは調査等によって,改めて自分の学校の取組や,自分自身の取組について見つめ直すきっかけを与えてやる必要がある。それは,学校評価,マネジメントという観点も含めてカギになると考える。

 子どもたちに教えるということは,最終的に,学校で学んだことを社会でいかに生かしていくかということ。そういう意味で総合学習は,教科と連携して学習したことや体験したことを,例えば生活の中にどう生かしていくのかを学ぶ大事な場である。その意味で,趣旨が徹底されていない,先生方が確信がもてないという思いは確かにあるのではないか。様々な教科の部分を総合的に活用していく,そのやり方については,学校,地域に応じていろいろな工夫があってよいと思う。

 趣旨の徹底については,例えば教員研修の中で、上意下達的な講義ではなく,「福祉」をテーマにした形での授業づくりを,あらゆる教科の先生方が教科の関連についてディスカッションしながらやってみることが考えられる。

 「教員の指導力」ということについても,趣旨さえ伝わればクリアできる。総合はこういうことをやる時間だということを理解すれば,先生というのはすばやく組織的に動くし,準備の時間の確保についても,見通しさえ立てばできるではないか。

 教員に趣旨が徹底されただけではうまくいかないのではないか。こうやっていくんだというリーダーの指導力があって,教員も勉強しないといけない環境をつくる方が重要だと思う。

 総合は「各学校が」というところに大きな特色がある。そういう性格からすると,自分の学校の総合に対する理念を,校長が持っておかなければならない。理念が示されれば教員への意欲にもつながる。リーダーのための,総合の理念の再認識ということが必要と感じる。

 総合をやってみてその良さや手ごたえが感じられれば,教員は納得して進めていく。やはり学校長としての指導体制づくりは重要。京都市の場合,教育長が先頭に立って研修もし,取組をすべて示している。総合によって子どもたちに力をつけているという自信もある。

 教科と並ぶほどの価値が納得できれば,教師は総合の授業も展開させる。その価値というものを答えられるかどうか。

 教科と総合を関連付けた取組例を示せばきっかけになるのではないか。

 総合の内容がよく理解できなくて専門の教科だったらできるという考え方がおかしい。真剣に教科の教育を考えている教師は,総合の時間にも真剣に取り組もうとしている。

 学力不安を感じている保護者ほど総合に関する不安も高い。教科と総合の関連もほとんど理解されていない。総合に対する評価が保護者の中で十分に得られていないと感じる。保護者の学校への協力についてもほとんど丸投げのような状況が多いので,学校内部と保護者や地域という外部との共通理解を進めることで,趣旨の徹底が図られていく。

 現場では総合を正しく理解している先生と,まだ迷っている先生がいる。趣旨や内容について,もう少しわかりやすい提示が必要である。

 総合のよさが現れるには時間がかかる。だから,総合をやることによってこんな力が付くということと,そのためには教師の指導力が必要であることをアピールしていくと同時に,指導要領において,育てるものは何なのかを明確にし,具体的な例をもとにした記述があると,求められているものになるのではないか。

 総合的な学習の時間の趣旨の明確化については,具体的な推奨したい例を全国に紹介していく形がよいのではないか。

 プリント学習,読書の時間,学校行事の準備などに使っているなど,総合的な学習の時間の趣旨に沿っていないと思われる取組については,よくないと伝えることも重要。

 総合的な学習の時間について考える際には,余計なお世話にならないよう,今の段階で最低限やらなければならないことに絞るべき。プリント学習や読書に充てているケースについても,学校が自分たちで熱心に考えてそれでやっているのなら,しばらく放っておいたらどうか。これがいいという形で示すと,正解追究型に陥って,何のために総合をやっているのかということになる。

 優れた実践を普及する方法として,文部科学省のホームページに自分たちがやっている総合的な学習の時間の実践を書き込んでもらえば,優れた実践についてはおのずと見るようになる。それを何らかの形で表彰すればよい。悪いところを罰するのではなく,いいところを積極的に取り上げて必要であれば何らかの形で予算をつけてエンカレッジすればよい。

 優れた実践例をつくるといっても,何をよりどころにして,優れたか優れていないかを見ればよいかということをはっきりさせることが総合的な学習の時間の課題と考える。

【教員の指導力向上】
(教員の資質・能力等)
 総合的な学習の時間は,これまでの教科のように,全国で一律に内容を決めているわけではなく,学校間で差が出るということを前提としている面もある。
 指導者の問題も大きいがそれを否定的に論じても意味がない。大きなテーマで論じるよりも個別にでてきた課題に対して支援をしていくことが大切ではないか。

 総合的な学習の時間に限らず,教師はプログラムづくりの能力やマネジメントの力を付けた上で学校に配置されているのか,という点を点検する必要がある。学校間格差は教師の力量の差から発生しているのではないか。

 教師の指導力についてであるが,実際にかかわってみて,教師の指導力に差があることを実感している。ボランティアを活用して子どもの力を高めていくという際には教師の対応力がポイントになる。

 総合的な学習の時間の課題について,教員の指導力の問題がある。プログラムづくり,学習のさせ方,教材の活用,コーディネートなど,整理された形で身に付いてないと感じる。

 総合的な学習の実施には,地域との連携や教員同士の連携など,様々な能力が必要である。コミュニケーション能力,リーダーシップ,チームビルディングなど,教員の社会性をどう高めていくかという視点が必要である。

 教員の指導力の問題について,自分の指導の在り方を問わずに,総合的な学習に問題があるとか文部科学省のやり方に問題があるというのはおかしい。総合的な学習については,教科と違って指導書がなく,自分たちの力で単元を構想していく力が必要である。これまでに経験したことがないことで,創造力や企画力が求められる。教員はそのことをしっかり受け止める必要がある。

 総合的な学習は,教科書もなく,教員自身が学んだ経験がないのであるから,カリキュラムを教師が自分たちでつくりあげるしかない。教員は総合的な学習の内容や単元を練るために,長期休業期間を活用してはどうか。

 本校で,「総合的な学習の時間」を進めるなかで,教師自身が「これは総合的な仕事だ」と実感している。教員には異動があるが,そのなかで体制を維持するためには研修体制が重要である。本校では教頭のもとに副教頭を置き,指導関係を任せている。

 総合的な学習の時間に対する切り口として,今日的・社会的な課題,児童生徒の興味・関心に基づく課題,学校・地域の特性に基づく課題の3つがあると思うが,教師は児童生徒の興味・関心に基づく課題よりも,自分の関心,あるいは自分のできるものを取り上げてしまう。だから中学生はおもしろくない,自分の感じているものややりたいものと違うと回答するのではないか。教師が子どもと一緒になって,自分も勉強するという形で取り組むべき。

 総合的な学習の趣旨やねらいについては,各学校においてどのような子どもを育てるかを考え,総合的な学習の時間をどう位置付けて,どういう授業の内容にするかという目標を立て,組織的に取り組んでいくということに尽きると思う。
 単元構想を教員がどのように立てられるかがポイントであり,単元構想の立て方について,具体的にどうするのかということに関する支援が必要である。

 例えばテーマの設定など,学校の中で総合をどのように行うかという環境作りは管理者の役目であって,教員が他の方法を見ても,ヒントを得るくらいはできるが,それを自分の授業に当てはめるかどうかというのは,自分で方法を発見しないとできないのではないか。

 カリキュラムをつくることが教師の大事な仕事であり原点である。フィンランドでは,カリキュラムをつくるということについて教師が熱意と誇りも持って仕事をしている。

(小久保委員)
 社会教育でいうならば,指導者が自分のわからないときには子どもと一緒になって勉強するんだという姿勢を持つということが必要。教師も同様の姿勢が必要。

 子どもがカリキュラムをつくるという考え方は重要だが,子どもの力が伸びている学校を診ると,そういった学びが子どもにできるようなカリキュラム構成や評価などについて教師が適切な手を打っているので,教師の役割は重要である。

 子どもに教師が最初から教えるというより、子どもと一緒になって教師が体験し、実は自分に何が不足していたかを発見して、具体の指導に結びつけていくことが大切。

 教員が総合的な学習をやらない限り、子どもが総合的な学習ができるはずがないので、学校や教員が自ら考える機会が必要。

(教員研修)
 現場の教員は他の学校の実施の状況や成果を知りたいと思う。教育センター等で,実際に総合的な学習の時間を組み立ててみるといった研修を行うことが,次へのステップになる。

 教師の指導力の向上を目指すというとき,端的に言ってその中身は,単元構想力を意味する。ここを中核に置いた研修の内容と方法を,拡充していく必要性を感じる。構想力が中心であり,それを実行に移すマネジメントが次の課題と考える。

 教員研修については,カリキュラム開発,あるいはカリキュラム評価という具体的な内容をとりあげて必要な施策を打っていけばレベルも上がる。

 三重県と徳島県で150人くらいの研修主任を集めて,グループ分けし,課題解決のためのワークショップ型で行っている研修がある。個々の教員のもつ専門性,経験,知恵をつなげて教育活動をつくり,実践を通して見直していくということを経験してもらって,現場に持ち帰ってもらう。新しいスタイルの研修が求められている。

 研修の効果があるかどうかは,やり方次第である。この半年30ヶ所以上の学校やセンターでワークショップ型の研修を行ってきたが,「効果あり」とのアンケート結果が90パーセントを超えている。総合的な学習と同じ学習観に立ってプログラムするかが重要である。周辺的学習参加など施設領域も使った新しい学習観を現職研修にも導入してはどうかと考えている。

 研修はこれまでも行ってきている。それでもうまくいっていないという現実を考えなければならない。教員の資質向上が必要であるということはわかるが,それは5年,10年の単位で考えることである。現状は具体策が必要な状況である。研修については,総合的な学習に限らず,教育センターや教育研究所がうまく機能しているとは思えない。

 校長会,教頭会の研修で,総合についてもきちんと取り上げて,互いに情報の交換や連携がとれるような機会を設けることも大切。

 教員の研修について具体的な3例を示す。1福岡の小学校で,総合学習も含めて,自校の教育活動全体を振り返ってのカリキュラム評価を4つのチームで行っている。2徳島の中学校。教科,総合,家庭学習,テレビ,新聞など1週間のすべての学びを生徒がノートに構造化してまとめるという実践をしているが,先生方がそのノートをもとに自分たちの指導を見直そうという研修を行っている。3京都の御所南小学校。総合について地域の方と一緒に企画し,実践し,またカリキュラム全体の評価についても,学校と地域が共同で行っている。

 教員を支援し,養成する機能にかかわって,総合的な学習が導入されて,教育センターの研修カリキュラムや指導主事による指導,教員養成の取組がどう変わったのか。単に教員の社会力,教育力がないといっても問題は解決しないのではないか。

 教員の研修にかかわって感じることは,課題解決学習を正しく理解している教員が少ないことである。課題解決学習とは何かについて研修の項目に入れる必要がある。ワークショップを知っている人も少ない。その上で,全体計画をつくる,カリキュラムマネジメントを行うという順になる。カリキュラムマネジメントのためにはどういう能力とノウハウが必要か,一つずつ点検する必要がある。それらを整理する中で,教員養成課程には何が必要で,教育センターはどういうフォローが必要で,指導主事は何をすべきかが見えてくるのではないか。

 総合的な学習の時間は学校全体で取り組むべきであり,管理職や指導主事の研修が必要。

(教員養成)
 教育職員免許法で,総合的な学習の時間を指導できるように単位化するなどして明記することは,確実な手法となるのではないか。

 イギリスではシチズンシップ(市民教育)の実践を進めるにあたって,5年くらいかけて担当の教員の養成を行っている。日本の場合,専門的な知識をもった教員を養成したり,特別な職務をもった指導者を教員とは別に設けているわけではない。教員の研修も行われているが資格や免許取得にかかわるものではない。教員養成の仕組みを明確にする必要がある。

 総合的な学習の時間の充実のためには教員養成についても考えることが重要。現在の教員養成は,大学における総合に対する対応が不十分である。

(教職員の配置)
 後ろ向きの教員がいるなかで,あらためて「総合的な学習」の趣旨や意義を唱えるより,何らかの具体の手立てを考える必要がある。

 取組に地域間格差があったり,児童生徒の学習への興味・関心が全体的に低下しているという現状,教員個人の力量に左右される部分が多いということを踏まえると,教育の質の担保のためにも,成果のあがっていないところへ具体的な手立てを打つ必要があると考える。
 例えば,「総合的な学習」の専科教員のようなものを創設する,市町村教委が非常勤講師等を任用し必要に応じて学校へ派遣するなど,具体的な支援策を考える段階にきている。

 中・高等学校に専科教員を置くということを真剣に考える必要があるのではないか。その際は,学校へ配置というより,教育委員会に置くほうがよいと考える。そこから学校へ派遣して,校長と連携させるという形はどうか。

 総合的な学習の時間のねらいを徹底するために,ことばで説明するだけでなく,教員の配置や資金的な援助が必要ではないか。

 専科教員を置くことには反対である。成果を上げている学校は専科がいないからこそ,各教員の経験や力量をつなぎ合わせて,全校的な実践を作り上げている。地域との連携は一人でできることではなく,学校体制のなかで活性化するものである。

 中学校については部活などで多忙であり,総合的な学習の時間を専門にする教師がいればもっと違うと思う。

 総合的な学習の時間を外部の力を借りて行う場合には,調整を行うコーディネーターの役割が非常に大事である。

 中・高等学校でも,総合的な学習の時間により,子どもたちが変化していくと,教師は喜びを感じて総合的な学習の価値がわかる。中核となる教員を配置することはよいと思うが,学校全体で総合的な学習の時間に取り組んでいくという趣旨は変えるべきでない。

 校長や教員が替わると取組の質が変わってしまうことが多い。教員の配置を含め,総合的な学習の時間の成果が継続していくような体制をつくる必要がある。

 中核となる教員は必要だが,こうしたリーダーが学校で孤立化しないような啓発も必要。

 専門の教員が配置されるとその人にお任せになってしまうおそれがある。学校全体としてカリキュラムをつくることが大事。特にクロスカリキュラムなど,各教科の教員が集まって話し合わないとカリキュラムがつくれない。

 専門の担当者を付けることは重要。この担当者を核に,各教科の教員が協力して総合的な学習の時間をつくっていくことが重要。各教科にとらわれないカテゴリーの教育の必要性から総合的な学習の時間が生まれてきているので,国際理解,情報,環境にこだわる必要はない。

 専門の教員が置かれると,自分の教科以外関心を持たない教師が増えるのではないか。自分の専門の教科以外の活動でも面倒を見ることを教師の姿勢として最低限身に付けるべき。

 学校における総合的な学習の時間の推進役となるコーディネーターを置くことには賛成。

【地域等との連携・協力】
 学校は外部講師を招くことが増えているが,招いたという事実だけで終わっている場合が多い。目的を明確にし,積み重ねていくことが重要ではないか。学校という囲まれた場だけで教育を行う時代ではないと思うが,学校の教員は学校外へ出てきていないと感じるし,公民館などの社会教育の機関も学校への働きかけが十分とはいえない。

 総合的な学習の時間を地域とのかかわりでみていくのは大事な視点である。

 総合的な学習の時間については,その学社融合を具現する場として期待している。

 地域の支援システムについて,ボランティア協会において10年前から学校支援の担当者を置いている。学校と地域をつなぐコーディネートの体制についても考えていく必要がある。

 行政においても,社会教育担当と学校教育担当の連携も十分とはいえない。企業やNPO,NGOがノウハウを学校へ伝えていくことに抵抗感がある教育委員会もある。PTAを含めてこうした関係機関がどのように学校にかかわっていくかという点も検討が必要である。

 総合的な学習の実施にあたって地域への協力要請がなされるが,終わったあとの評価について,協力した地域の関係者とともに評価するという点も大事である。取組が一過性のものとならないためにも地域にも何か残していくという視点が必要である。

 教員は国際理解にあまり関心を示さないが,教員自身に体験の機会が少ないからではないか。教員のための体験の機会を作る必要がある。外部の人と事前の打ち合わせをすることがよい勉強になるのではないかと考える。不得手な分野で,どのようにかかわればよいのかわからず「丸投げ」のようになるのかもしれないが,指導計画のなかで子どもをよく見つめて意見を引き出すなどのかかわりをもつことで「丸投げ」は避けられるものと考える。

 学校運営協議会を設置した学校の活動報告を聞いたところ,ほとんどの学校でボランティアを活用している。こうした発想が「総合的な学習の時間」にも有効ではないか。

 アメリカではサービス・ラーニングというボランティア活動のもつ教育力を活用する取組が広がっている。日本においても,教育方法として貢献型の社会体験学習の意義を問題提起することが必要である。

 学校にコーディネーションしていくための受け皿や窓口がないということにかかわって,外部人材の導入が必要なのか,それはボランティアなのか,特別な職業を養成していくのかといったことも含めて検討し,学校外との連携のシステムを養成することが求められる。

 外部機関との連携については,印象として非常に少ない気がする。総合を進めるにあたって知のネットワーク化,総合化が必要になるが,外部のサポーターを学校だけに任せるのではなく,教育委員会が学校にもっと力を貸して外部機関との連携を取り持っていく,そういう意識が必要ではないか。

 地域との連携,サポート体制というと外部主体という印象があるが,主体は学校にあるので,学校側のねらい,統一見解をはっきりさせた上で協力をお願いすることを認識すべき。

 例えば,ある地域の総合学習を支援する調整団体のようなものがあって,そこを通じて学校側とのやり取りを行うようにするとよい。また,外部との連絡調整として,総合学習の主体である学校内部のコーディネーターをつくりあげていくこと,これがまず最初である。

 学校,保護者,子どもの三者の希望することが大体重なれば,それは良いカリキュラムと言えるのではないか。この三者に対する,総合についての満足度調査のようなものを行い,ずれを明らかにしていくことが必要と思う。

 我々地域の教育論をつくる側から言えば,テーマをこう決めている。「月曜の朝8時に子どもたちを学ぶ意欲満々で学校へ送り出す」と。学校へ行く意欲ということは,地域の問題だと思っている。

4  生活科の成果と課題及び改善充実

 10年前の子どもとの違いや子どもを取り巻く環境の変化を踏まえて,生活科の内容の見直しを行うべき。

 異年齢の子どもで学べるのが生活科の特色の一つ。地域でも異年齢で学んだり遊んだりすることができなくなっており,生活科での異年齢で学びあったり,教えあったりする中で生まれる学びが大事である。

 生活科は人間がどう生きるかという問題のすべてにかかわっており,低学年だけの問題ではない。

 生活科に理科的な内容が不足しているという指摘があるが,生活科の内容の量的な面から見てもバランスはとれている。

 生活科は,子ども自身が体験し,気づいていくことに意義があるので,上から下へおろしてこれをやらなければならないという見方は違うのではないか。

 理科的な内容については,動植物の飼育栽培など生物にかかわる内容はあるが,物理にかかわる内容が少ないという指摘がある。

 「家庭と生活」の内容は,家庭環境の変化を踏まえて見直すべき。(例えば,家族の温かさや家族に守られているという気持ちを育てる指導など)

 「家庭と生活」については,家庭にあることを学校で学習するなどのやりにくさがあるが,内容的に非常に重要である。

 低学年でも,生活の中の道具としてのお金について,その仕組みや働き,生活における位置付けに関する基礎的な知識を学ばせてもよいのではないか。

 お金は使う機会は生活科の授業でもあるが,お金そのものの価値についての学習は低学年では難しいので,高学年以降などで行うことが考えられる。

 子どもを取り巻く環境の変化で考えると,メディアから子どもが随分毒されている。小さい頃から,情報の光と影の部分についても指導が必要ではないか。

 人とのコミュニケーションが希薄化している中で,生活科での人とのかかわりについての学習はますます重要。

 学習指導要領で内容を2学年まとめて示されたことで,各学校で指導計画を見直し,1年生と2年生の学習の連続を考えて指導することができた。

 1年生と2年生では,個々の児童で発達に大きな違いがあるので,内容を2学年まとめて示されたことにより,一人一人の子どもの実態を踏まえた指導が行えるようになった。

 この10年でインターネットと子どものかかわりは大きくなっており,低学年の子どもから入ってきている。そういうものを扱う教科領域がないのであれば,生活科で扱うことも検討する必要がある。

 子どもを育てる保護者に問題があるという意見をよく聞く。家庭生活の問題は子どもにとって大きな問題なので,生活科を家庭と学校を結ぶような教科としていくかどうかを含め内容を検討していく必要がある。

 生活科を3年生以上にあげることについて検討したらどうか。子どもに聞いても上の学年でもあった方がよいと聞くし,教員に聞いても10才くらいまであった方がよいと聞く。

 生活科と社会科は構造的に違う。生活科は自分とのかかわりだが,社会科は自分とのかかわりではなく客観的に社会を見ていくことが必要。1、2年で生活科,3年生から社会科をはじめる現状の形がよいのではないか。

 例えば家族や他人を傷つけてしまうことなど子どもは大きく変化している。そうしたことを考えると,命や家族についての指導を含め,3年生まで生活科を指導してもよいと思う。

 現状のように,生活科は2年まででよいのではないか。例えば,生活科での地図の学習体験は,3年生の社会科での学習に十分つながるし,子どもの発達段階からみて十分学習は成立する。

 生活科は具体的な活動を通して思考するという低学年児童の発達上の特性に即してつくられた教科なので,生活科を3年生以上にあげるのであれば,中学年以上の子どもの発達に即したものをつくる必要があるので単純にはいかない。

 生活科が教科で,総合的な学習の時間が教科でないのかということに疑問である。生活と総合に大きな違いはないのではないか。また,多様な子どもがいるのであれば,それに応じた学びができるような自由度をもっと大きくしたらよいのではないか。

 国は生活科の目標を示し,内容までは示さなくてもよいのではないか。

 生活科と総合的な学習の時間の違いは,生活科は教科としての構造論を持っていること。生活科の内容を考える際は,生活科をつくっている基本的な視点や具体的な視点を見直すことが必要。

 生活科は,理科と社会科から離れられないという意識が現場では強いのではないか。行動的なこと,コミュニケーション能力の育成ということを言っても現場はやらないのではないか。

 生活科は,理科と社会科が合体したものではない。自分とのかかわりということで,幼稚園教育との接続や学校への適応を図る観点から内容を検討している。

 「公共物と公共施設」の内容は,指導が難しくないか。公共の意識や精神を養うのは社会科でもなかなか難しい。

 低学年の子どもが社会を考えるのはどういう姿であらわれるかということであり,低学年児童であれば決まりやルールがあることや自分勝手なことをしないということが自覚されてきたときに社会を意識しているということがわかる。

 公共物との関連で言うと,電車に乗ってどこかへ行こうという学習活動をしたときに,子どもが自分たちで実際に体験したことから,白線の意味や駅員のアナウンスの意味に気づいてくれたと思う。生活科は具体的な体験を通して,そこにあるものの意味を子どもたちが気づく,感じ取るということが重要と考える。

 進路を考えるという視点で言うと,生活科の中で,いろいろな仕事や自分がどう生きるかという問題をもっと教えることも重要ではないか。

 小さい頃に,いろいろな体験を通じて,自分を肯定的に見ることができる,自尊感情を育てることが重要。自分という軸がしっかりないと,人や自然や社会と関係もうまく育たない。

 小さな頃から豊かな社会で生きているせいで,今の子どもにはハングリー精神が足りない。そうした気持ちも大事だということをどこかで身に付けさせていくべき。

 生活科は自分とのかかわりが強調されているところが,他の教科との違いと考える。動植物の飼育栽培にしても,自分とのかかわりで見ていこう,その中で気づいたことを大事にしていこうということだと思う。

 生活の目標の中に「集団や社会の一員として」という文言があるが,家庭生活の単元で単なるお手伝いとう発想の取組が多く見られるので,もう少し広げた発想がいると思っている。

 「自分の成長」にかかわる内容については,生活科の学習の評価にかかわる問題だと思う。現状は,1年,2年の最後にやる単元という発想が強いが,どのような活動においても自分の成長というものをその単元において感じて残して,そして年度終わりに振り返るということが大事なので,生活科全体を通じて大事にすべきと考える。「内容の取扱い」あたりで入れ込むことも検討する必要がある。

 生活科の教科書は,各学校でカリキュラムをつくるという観点からは必要ないのではないか。

 生活科の教科書については,教科書があったおかげで生活科が10年あまりで浸透したという成果があったと考える。

 生活科の役割は、人との関係を持つ技能をしっかり身に付けさせることではないか。

 体験や気付きは、小学校低学年だけの問題ではなく、人の一生にかかわる問題であり、非常に重要な要素。

 相互扶助の共存社会であるという仕組みと考え方を理解させることが生活科の軸となるべき。

 社会や自然、自分自身とのかかわりに対して、どういう気付きをもたせていくのかが生活科の基本。

 体験を通して学ぶことが重要であり、そのことにより、生活科の目標である気付きを子どもが持てるような指導が重要。

 ただ活動すればよいのではなく、活動の価値付けをしたり、一人一人の子どもの発見を大事に位置付けたり、伸びるように支援したりすることにより、豊かな学びになる。

 子どもが体験しても気が付かない場合などに、子どもに気付かせたり、子どもの気付きを明確にしたりするような、教師の言葉がけにより、科学的な見方につながるような気付きが可能。

 コミュニケーションは直接対話だけではない。手紙やメールなど様々なコミュニケーションメソッドがあることに対応すべき。

 伝えたい、上手くなりたいなど、それに向かって自ら努力していく気持ちを育てることが大切。

 学ぶことは楽しいという関心や不思議だと思う疑問をもてるようにすることが大事。

 学習環境の構成や道具の用意などを工夫することにより、子どもは考え、工夫し、気付いていく。

 自分で発見したことを話したり絵にかいたりして表現し、その表現を友達など他の表現と比較していく。それがコミュニケーション能力を高めていく。

 生活科において、異年齢の教育活動を一層促進するとなると、生活科の幅を越えてはいないか。異年齢活動などは小学校低学年全体で取り組むべきことではないか。

 異年齢活動について、活動そのものは否定しないが、年長児と一緒に活動することが幼・小の連携という短絡的なとらえ方があり、幼児教育と小学校の学校文化の違いや、教員の意識の問題も配慮して実施する必要がある。

 生活科は教科としての目標・内容を持っているので、入学当初における適応指導ではなく、単元構成の工夫によって、幼児からの学びや発達の連続性に配慮し、幼・小の連携に対応していくという案は非常によい。

 異年齢活動、特に年長児と一緒に活動を行うというのが果たして全国で本当にできるのかという疑問がある。本当にするのであれば、それだけのシステムをつくっておく必要がある。こうしたことは、あくまでも学校に任せておくべきであって、こういうところに例示として書くべきことではないのではないか。

 異年齢活動については、年長児をターゲットにした表現なのか、あるいは入ってきたばかりの1年生をターゲットにしているのか、うまく整理しないとわかりにくい。

 異年齢活動については、対象学年の児童について、それぞれ学習活動のねらいということを明確に持っていないと、小さな親切、大きなお世話になってしまう。

 生活科は合科的に教科学習を進める教科として出来たので、科学的な見方・考え方の基礎を育成するというような、プログラム的なものも含めて内容的なものを示すことはよい。

 現状の生活科は、自然イコール動物・植物という感覚が強く、自然というものの理解が非常に狭いので、もっとその対象が広いことをメッセージとして示すべき。また、科学的見方・考え方の基礎の例示を示すことについては、ここに示されていることが、基礎なのかということの見識が問われてくる。例示として示すことには疑問がある。

 科学的な基礎の例示は、これをどう入れるかとか、入れるか入れないかという問題も含めて、これからいろいろ議論されなければならない。

 科学的な見方・考え方について、自然の不思議さやおもしろさを実感する活動については異論はないが、例の挙げ方として、ゴムや磁石を使ったという書かれ方をすると、一斉に各学校でゴムが飛んでいたり、それから磁石で何か車を走らせているとか、シャボン玉を使っているとか、そういったところに行ってしまう危険性がある。非常に魅力のある材ではあるが、この書き方では、そういった誤解が生まれる危険性を感じるので、十分検討が必要。

 気づきというのはあくまでもその質を高めていくということがあって、そのために体験と、それから発見したことということの組み合わせで、見つける、比べるなどということは大変いいことである。その上で、この気づきを日常の学習活動に生かすことを重視する、ことなどもつけ加えるべき。

 安全教育の充実、最近の社会の変化で安全な登下校というのは既に行われていて、これを充実することは異論はない。ただ、指導の充実ということで、ああしてはいけない、こうしてはいけない、これを気をつけなければいかんという「ねばならない」という羅列を避けるため、例えば、自分と周りの人とのかかわり、親密に感じるような部分と公共、パブリックな場での人のやりとりといったことを内容として起こしていくことが必要ではないか。

 安全教育については、交通関係や防災関係の安全についても必要ではないか。バリアフリー的なニュアンスのものも入れて、単なる不審者対策だけに終わらないようにしていただきたい。

 生活科も教育活動であるので、子供のどの能力を育成するのかということをしっかり明示することが必要。安全問題は心の安全と体の安全と身の安全とあるので、身の安全ばかり出してみても仕方がない。心の安全はどうするかというものも含めた安全教育の体系みたいなものをしっかり出すべきではないか。

 命ということに対して目を向けられるためにも、動植物とのかかわりの充実が必要。

 安全については「通学路の様子を調べるなど」の調べるというところから受けるイメージが弱い。やはりもっと人とのかかわり、スクールガードであるとか、いろいろな方とのかかわりを通してそのあたりが学べていけるという、生活科の特性を生かしたような表現がもう少し具体的に入るべき。

 「気付きの質を高めること」について、最後の部分が「体験と言葉とのかかわりを重視すること」で終わっているので、読むと何か違う感じを受けてしまうので、表現の修正する必要があるのではないか。

 体験と言葉としたことは非常によい。生活科は具体的な活動・体験を重視するので、例えば豊かな言葉や論理を持つことにおいて体験があるということが強みということを生活科のコンセプトにしていくとよい。これが、ある言葉を教えるために体験させるという逆の表現だと、生活科を矮小化していく。

 通学路の様子、安全な登下校と、通学路だけに限定しているが、子供たちは地域に、例えば友達と遊びに行く場合など子供たちなりの活動範囲がある。そういったところにも広げて考える必要がある。

 生活科は主観主義に陥ってしまって、自己満足で終わりかねないところが、今回是正され、かつより客観的に、知的に、科学的に見ていこうというところが出されてきた点、気づきをもっと見つける、比べるということで自覚化させていくという点は評価できる。


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