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資料13

国語専門部会(第3期第1回〜第8回)における主な意見(論点ごとに整理)

 本資料は、これまでの国語専門部会(第3期第1回〜第8回)における主な意見や文書による意見等を事務局で論点ごとに整理したものであり、今後変更があり得る。

1. 国語教育の現状についての認識と課題

(1) 国語教育の現状

 目的を持った学習活動が少しずつ進んできているが、どうしても活動に流れる傾向もあり、語彙力、目的に応じて筋道立てて書く力などの基本的な力の指導が十分ではない。
 子どもにどのような力を育てたいかを明らかにし、目的意識や相手意識を明確にした学習指導や、対話や討論などの実践など、「伝え合う力」の育成に向けた取組が、徐々にではあるが確実に行われてきている。評価も、目標に準拠した評価や、いわゆるポートフォリオ評価という方法も出てきている。
 今の大学生を見ていると、漢字を知らず、自己表現も十分にできない。国語力をきちんと身に付けていないと、ほかの専門科目の習得も十分にできないため、基礎的な部分を強化することが必要である。
 漢字に関しては読みに関してはある程度できているが、実際はただ漢字を覚える学習にとどまっており、それを実際に使いこなす、漢字を使って表現するところまでは必ずしも行き届いていない。
 大学生のアンケートによると、小・中・高と進むにつれて、国語の授業の評価は低くなる。また、「話し合い」や「書くこと」の活動を取り入れた授業は評価が高く、分析的な読みだけに終始するような授業の評価が低い傾向にある。
 新しい学習指導要領も示され、国語教育を変えていく必要があるとは考えているが、特に高校では大学入試の影響もあり、「読むこと」の指導が中心となっている。学習指導要領が変わっても、現場での指導はあまり変わってきていない。
 「書くこと」の指導は、学習指導要領に示されているが、高等学校では意識的に指導されていない実態もある。「書くこと」の指導は大切であり、実効性があるものにする観点から、大学入試の在り方も含め、検討が必要である。
 大学入試センター試験は、3領域のうちほとんど「読むこと」の領域しか試験の対象になっておらず、大学入試の在り方も考える必要がある。
 大学入試センター試験の中に、国語表現という形のものをどのように取り扱うかということが話題になっており、高等学校にかなりの影響を与えると考えられる。
 大学入試では「話すこと・聞くこと」は面接として行われているが、崩して問いかけると、自分の考えに従って自ら判断し考えて話すことが身に付いていない。また、大学入試センター試験、あるいは大学ごとの個別学力試験において、表現領域をどう取り扱うかが、高等学校への影響が大きい。
 大学入試センター試験や大学の個別学力検査で、「話すこと」「書くこと」に関してもう少し在り方を考えていかないと、学習指導要領だけが変わって現場の実態は変わらないということになってしまう。
 国語の教科書では、著者は何を考えているかという問題が出ているが、著者自身も答えられないようなものを取り上げることは意味がないのではないか。また、やはり文学を中心とした指導となっているのではないか。
 以前の教科書では音訓それぞれの本文が用意されていたが、最近の教科書が薄くなり、脚注を付けただけで、本文には音訓のいずれかしか出てきていない。
 教科書は厚い方がよいが、保護者の意向など社会的な背景もあり、子どもが授業の内容を理解しているかどうかを十分見ずに、教員は教科書を終わらせることを強く意識している。
 朝読書の10分間は、子どもたちも本を集中して読んでいる。その中で、読む力のある子どもは、文脈の中で言葉を見つけ、言葉を楽しんで広げているが、一方で、基礎的な力が身に付いていないため本を放り出してしまう子どももいる。
 読書指導に力を入れることに対して保護者は大いに賛成してくれる。また、読書ボランティアなども積極的に入ってきている。先進的な取り組みを行っている地域に学ぶというような研修も盛んに行われており、地域間の格差も縮まっていると思う。
 「言語の知識」は、幼児期や低学年で無意識のうちに身に付いているものと、小学校の高学年になってからの意識化されて身に付くものとがある。

(2) 国語教育を考える上での課題

 今の子どもは、本を読まなくても、様々な情報媒体から情報をとっている。情報メディアが発達している中、どのように国語の能力を育てていくかが大切である。パソコン活用能力の育成や、研究と調査といった「自己学習の力」の育成など、21世紀を担う子どもたちを育てるための新しい観点が必要である。
 小学生、中学生においても、コンピュータを使って日本語を書くことが身近になっており、国語教育にどのような影響を与えるのか考えていく必要がある。ワープロ、パソコンなどの文字環境が、書き文字に与える影響は大きい。
 国語(言葉)は、人間関係を作っていく上で大切な要素であり、教員や父母をサポートする社会的な体制を作っていくことが緊急に求められているのではないか。
 すべてを授業の中で教えていくことはできないので、学習の日常化のきっかけを国語の授業の中でやることが必要である。自分自身で継続的に学ぶことをするようなきっかけを授業の中で示すことが大切である。
 子どもの言語環境は、発達に応じて、生活を通した身近な文脈や体験を共有する人とのやりとりから、文脈を共有しない、体験を共有しない人たちとのコミュニケーションへと変わっていくことに留意しなければならない。
 子ども達の周りにどのような文字を置いていくかという文字環境の整備も必要。
 活字神話というのがあるような気がする。活字だと全部が正しいものであるというような気持ちがしてしまう。あるいは文献を読むなどのときに、すべて受け入れてしまうという、そういう抵抗感のないものがある。
 PISAで求められている読解力は、いわゆる我が国で言われてきた狭い意味での読解力ではなく、論証力、論述力が求められていることを明確にする必要がある。
 PISAの問題は重要であるが、それ以外の国語の学力として日本人としてどういうことを身につけるべきかという視点も大切である。
 問題文に正対して答えることができない、状況を解釈して自分なりの言葉で考えを組み立てることができないという状況がある。それは子どもたちが目的や方法について、その決定の場に自分が主体的に関わっていない部分があるのではないか。

2. 今後重視すべき国語の力等

(1) 基本的な考え方

 子どもたちに人間が言葉と言葉で会話し合うことが、生涯を通して人間としての人生の喜びであるということを知ってもらうことが重要である。
 特に年少期においては、言葉を実際に体で感じて獲得していくことが大事であり、実体験や自然に直接触れることも含めて国語教育の在り方を考えていくことが必要である。
 国語力は、コミュニケーション能力の育成のための言葉、もう一つは思考力の育成のための言葉に分けて考えることが大切である。
 国語力を考える上で、(1)漢字や文法、語彙という、素材、基盤としての言葉そのものの、(2)それを使って運用する力、論理的に話をまとめたり、相手や場面に応じた話し方ができるといった言語活動、(3)具体的に様々な言語生活場面を学校生活での言葉の教育に持ち込んだ「言語生活力」の三つに分ける考え方もできる。
 国語教育を考える上で、特に入門期では、型というものが極めて重要である。例えば五七五など、基本的な型があれば、ある程度の共通の理解ができる。学校教育においては、人の話をきちんと聞いたり、万人に対して理解できるように話したり、書いたり、フォーマルなものを身に付けさせることが必要である。また、高校段階では、すべてを言葉で表し尽くすような学習も大切である。
 基礎・基本としての「型」は、活用・応用する場があってこそ基礎・基本となる。その「型」を自分なりにどのように活用・応用すればよいのかを認識し、やがて、「型」は学習者の中に深く沈んでいき、生活の場において活用・応用できるようになる。
 スピーチやディベートの指導が行われているが、形だけの指導となっている面があり、対話性が生まれていない。「型」も大事だが、本当の意味での伝え合う力をはぐくむために、自分の発した言葉が人にどう響くのか、自分にどう返ってくるのかと、言葉に立ち止まりながら、考えることが重要である。
 「型」と「考える」ことは重層的に絡んでおり、相互関係を見ながら、弁証法的に育成していくことが大切である。
 「国語の力」は、例えば、〈A 個としての力〉としての「基礎的・基本的学力(知識・技能)」、〈B 個と個とを結ぶ力〉としての「(言葉による)コミュニケーション(伝え合い)の力」、〈C より多くの個を結ぶ力〉としての「(個々が分かち持っている)文化を継承・創造・伝承する力」、そして、〈A、B、Cを総合する力〉としての「人間らしく心豊かに生きていく力」、の四つの層を成しており、互いに関係し合っているとみることができるのではないか。
 「型」も重要であるが、発見する喜びや感じる力も重要であり、「型」から入って、「型」をどう運用するのか、そして運用の時の判断基準を(メタ)認知していく場を持ち、それを子どもが自分のものとするように教員は指導していく必要がある。
 子どもの言語発達の状況に応じて「型」をいつ入れるのかという時期について考えることが必要である。
 文字を正しく整えて書くには、法則的な、原理的なものを知識として理解させて書くことが重要である。文字を書くということは、推理力、論理的思考力にもつながり、様々な能力の総和ととらえることができる。
 漢字が書ければあるいは読めれば、新聞が全部読める、新聞が最低限読めるようになるというような実践的な目標を明らかにしていくことが必要。
 外国語の習得においても、論理的思考力を獲得し、自己を確立するためには、母語である国語の能力が大きく関わっていることを考える必要がある。
 国語力を明確にし、授業の方法として具体的な内容を示すことが必要である。評価が背景としてないと、実際の授業として成立しない。

(2) 今後重視すべき力

 自分の好き嫌いに関係なく他人の話を正しく聞き取る力、他人の文書を正しく読み取る力、聞き取ったことや読み取ったことについて好き嫌いではなく判断を下す力、自分の考えを他人にわかるように話したり書いたりする力といった、言葉で理解し表現する力が国語力として必要である。
 洪水のように流れる情報を読み、それを理解して、いろいろな人々に正確に伝える。話す、聞く、書く、読むを全部、いかにスピーディーにやっていくことが、今の世界、社会の中で求められている。特に、ビジネスの世界では短時間に読み取って正確に理解して、それを伝える能力が必要とされている。
 一定の時間、例えば3分でまとめて自分の主張を表現できるようなことも基本的な知識・技能として必要。
 批判的に情報(文章)を吟味する力が必要であり、こうした力は創造性、個性の土台であり、ディベート等の討論の力を育成する上でも重要である。
 人の話を聞く姿勢が全然できない子どもが増えてきている。低学年のうちに聞くということを学ばせることが大切である。また、子どもの人間関係も希薄になりつつあり、批判を含めた評価を受け入れる力と評価される相手を考えた評価ができる力を育てる必要がある。
 考えや意見に対する評価、吟味とともに構成を含めて、文章の書きぶりのよさや表現の特色などといったことを評価することができるということも必要。
 テレビの早いスピードに慣れている子どもたちに対して、息の長いゆっくりした時間をどうやって身に付けさせるかを考えないと、骨のある文章を読めるようにならない。
 文学や情緒とは関係ない、明晰な文章を書けることが大事である。目的を持って、筋道を立てて論理的に書くためにも、論理的な文章や説明的な文章を読む力が必要である。
 文章に対する責任を教えることが大切であると考える。最近の学生は「私はこう思う」とか「私はこう感じる」とかいう文章は書けるが、客観性を保証する文章を書くことができない。特に理系の学問で必要となるのは客観性を保証する文章を書くことである。
 批判的な思考力を育成するという視点を明確に示した方がよい。論拠を示して説得的に論証する力を付けさせることが大切である。
 義務教育段階では、漢字の習得、語彙、文法などを基礎基本にして、焦点化した教育を徹底することと、それらを運用する能力としての「話す・聞く・書く・読む力」の両方を大事にしていかなければならない。
 例えば「相手や場面に応じる」とか「目的に即す」上で必要となる言葉そのものの多様性、方言などの地域的な多様性、漢字、平仮名、片仮名という文字の表記の種類の多様性、伝えるときに用いる手段の多様性など、言語の多様性とそれを使う手段としての多様性を国語の力(言語生活力)の中で、今まで以上に重視していく必要がある。
 言語の役割、音声の役割、文字の役割などそれらの役割、働き、機能というものについての意識をもたせることが必要である。
 コンピュータ社会における文字記録環境の変化ということも見すえながら、常用漢字になくても日常的に使われる語彙については、書けるということよりも、読めて正しく使えるという方向で考えていく必要がある。
 最近の算数・数学の教科書では、文章題が大幅に減っているが、算数・数学の文章題は非常に論理的に正解が出てくるものであり、読解力の育成に大きな役割を果たしてきたと考えられる。

3. 小・中・高等学校を通した国語の教育内容の在り方等

(1) 基本的な考え方等

 例えば、一人の人格を持った人間として自己の主張を正確に言えるような、一つの大きな目的があって、その下に、「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」を立体的に位置付けることが必要なのではないか。
 思考力や想像力の育成、言語感覚を養うという国語科のねらいが非常に大切なことであり、そのねらいに基づき、教員が常に児童生徒の学習状況等を踏まえて、チェックリストのように、指導の在り方を考えたり確認したりできるような具体的な示し方が必要である。
 力の付く、役に立つ国語科という観点から内容を分析して、聞き方、話し方、読み方、書き方といったものを取り入れていくことが必要である。
 言葉の教育があらゆる教科の基礎・基本であり、国語力の基礎を小学校の時にしっかりと身に付けさせるために、国語科の授業の在り方を見直して、中心に据えることに賛成である。
 小学校の低・中学年では、午前中のほとんどを言葉の学習に当てるぐらいの思い切った時間配分を行うことも考えてもよいのではないか。
 外国では、国語の教科書の中に、社会科や理科の内容が多く含まれており、こうしたことも視野に入れて、国語科の授業時数や指導の在り方を考えていく必要がある。
 言葉を意識して教科の学習を行うことが大切である。
 論理的に考えてそれを表現することが国語力の基礎だと思う。それが身に付けばそれ以外の力は自然と見に付く。調和的に身に付けるというのは生徒自身が自ら高め伸ばすことだと思う。

(2) 学習指導要領の示し方等

 今の学習指導要領の領域の示し方について、どの学年も「話す」「聞く」を先にするのではなく、例えば1年生では「聞く」「話す」を先にしたり、「読む」を中心にする学年では「読む」を先にするなど、示し方の工夫を考えるべきではないか。
 学習が成立しない状況が増えつつあることを踏まえると、友達のスピーチ、ディベート、相手の言っていることをよく聞くことなどを含めて、「聞くこと」を改めて位置付け直す必要があるのではないか。
 国際化や都市化、少子化などで、見知らぬ人の中で話すことによって人間関係を築いていく能力が求められてきていることから、「話すこと」が「聞くこと」の前に位置付けられていると考えることができる。
 「伝え合う」というねらいの中で、話しながら相手の話も聞くという相互性、書いたものを読むという同時性、つながり性を学習指導の中に意識的に取り入れていく必要がある。
 小学校と中学校では「話すこと・聞くこと」の示し方が異なっている。小学校では「話すこと」「聞くこと」「話し合うこと」と個別に分けて示されているが、小中高の一貫性を考えた場合、「話すこと」を通して「聞くこと」を育てていくような示し方ができないか検討する必要がある。
 小学校段階では、自分の思ったことを素直に話すことでよいが、社会に出た場合、読んで情報をインプットし、人の話を聞いた上で、自分の考えを言うことが必要であり、学校段階に応じた示し方を考える必要があるのではないか。
 文化審議会答申で、高校段階では文学と言語運用に分けてみてはどうかと提言があるが、これは教科書上で戦後しばらくの間あったが、失敗しており、分けるべきではない。
 今の子どもたちは、豊かな文化や心、心情を持ち合わせていないという悩みもあり、文学、言語に分けてることについては共感できる。
 「表現」、「理解」、「言語事項」という枠組みは、昭和52年告示の学習指導要領から用いられて、20年以上使われた。それを考えると、現在の「話すこと・聞くこと」、「書くこと」、「読むこと」、「言語事項」という枠組みは、次の学習指導要領においても残していいのではないか。
 現在の学習指導要領の告示以降の大きな動きとして「評価規準」が示されたことを挙げることができる。国語の評価規準は、「国語への関心・意欲・態度」、「話す・聞く能力」、「書く能力」、「読む能力」、「言語についての知識・理解・技能」の五つの柱で構成されている。これを考えると学習指導要領に「関心・意欲・態度」の柱を立てる必要があるかもしれない。
 現在の「話すこと・聞くこと」、「書くこと」、「読むこと」の3領域て示されたことにより、学校ではパネルディスカッション等の「話すこと」の指導が具体的に行われるようになっており、学校へ非常にいい影響を与えている。
 「話す」、「聞く」、「書く」、「読む」のそれぞれをどう組み合わせて学習指導要領に表現することができるかが重要である。
 学習指導要領のねらいを明確にした授業をするために、指導事項の一つ一つをもう少し具体的な表記にすると、1時間1時間の中の授業の組み立てが、指導者の力でできるようになっていくのではないか。
 言語活動があり、その能力をつけるといったときに、目標が明確になりにくい。今やっている目標に準拠した評価を一層充実させるためにも、目標を具体的に示していくと指導しやすいのではないか。
 学習指導要領の3領域1言語事項の示し方で基本的にいいと思うが、各領域の最低限身に付けさせる力について、できる限り具体的に示していく方向で考えたい。扱う教材の文種によってどういう力をつけるのかがわかりやすいように示したい。
 現行の学習指導要領「3 内容の取り扱い」にあげられる言語活動例についても指導にばらつきがある。一歩踏み込んで、はっきりと能力を示すところと任せるところとを分け、具体化を図る必要がある。
 言語活動例の活動が先行してしまい、何をどう書くか、何をどう話すかという方法や手だての部分の指導が不足している。学習指導要領の中に具体的な学校で取り組みやすいような形で示す必要がある。
 能力を明確にするためには、学習指導要領を三領域一事項でない能力構成にした方がよいのではないか。
 中学校2年生の古典の指導で『枕草子』を扱えた時間が3時間しかなかった。「言語文化の享受」ということで時間数の確保に目が向けばよいと期待している。
 古典の時間数については、中学校での週あたりの国語の授業時間数が各学年で5、4、4だった時には、3年間で45時間程度は古典の指導時間が確保できていた。しかし、4、3、3になってからは指導時間数が大幅に減ってきているのは事実である。中学校の古典の指導時間数の最低保障は必要なのだろうか。
 総合的な科目を置くことは賛成できない。言葉の力を視点ごとに教えていくということを、それぞれの専門の中で意識して指導していくことが必要である。
 総合的な科目というのは現行の「国語総合」を意識していると思うが、現状では「国語総合」の時間に「話す」、「聞く」、「書く」の指導は無視されていて「読むこと」中心の指導が行われている。そういう意味では指導事項を重点化することを強く打ち出した方が、学習指導要領が変わったということが現場に伝わるのではないかと思う。
 国語科のあるべき姿は、総合的につながるものであり、その点は重要である。案の1の総合的な科目を置くというのは、国語科のあるべき姿であり1つの形である。しかし読むことの指導に偏っているような現状を打開することを考えると案の2の方が強い印象を与える。

(3) 「話すこと・聞くこと」

 どんな人に対してもきちんと対等に対話できる力が必要であり、議題は学習レベルに応じたテーマを設定し、賛成、反対両方の議論の組み立てを考えたチームに分けて議論させることが大切である。
 一方的に相手に伝える発表ではなく、何を話すのか、どう話すかという意識をきちんと伴った発表や話し合いにする必要がある。
 今の社会では、自己表現が非常に重要になってきており、小学生は小学生としての、中学生は中学生としての話す力を持つべきである。小中高の各学校段階でしっかりと自己表現をできるようにすることが必要である。
 小学校5、6年生になると自分の意見をはっきり言える子どもと、ただ黙っている子どもに分化していく傾向が見られる。自己主張をしたり、他人の意見を聞いて自分の考えを言えるようになるために、例えば司会者の立場を全員が経験するようなことが大事である。
 伝えたいという湧き出る思い、読むことや聞くこととの関連付けや、心の内容面、伝え合う内容面を重視する必要がある。
 自分が本当に言いたい気持ちというのを表せる言葉を知っていれば、その言葉に応じた会話もできるのではないか。
 表現、身振り、間といったパラ言語キュー(てがかり)が伝える場面で非常に重要な役割を果たしている。それを大切にできないか。
 「質問する」「依頼する」「事例を挙げて説明する」「論拠を示して説明する」「司会をする」などの言語活動を、教える内容として体系的に意識することが必要である。学校段階ごとに難しい活動を取り入れ、指導内容を明示的、意識的、体系的に構造化することが必要である。
 具体的な会話の型を支える言語表現を、具体的な言語活動として明示的・体系的に示していくことができるのではないか。
 自分の意見を言うこととは別に、自分なりに読んできたものを紹介して、みんなを喜ばせたりする「話すこと」も、「読むこと」にも関心をもたせる上で、特に小学校段階では重要ではないか。
 子どもたちを取り巻く言語環境は大きく変化し、非常に薄っぺらなものになっている中で、それをどのように厚みのあるものに変えていくかということが、国語科の一つの目的であり、日常の言葉やトラブルにかかわる言葉のやりとりが教材化できるような視点を盛り込んでいく必要がある。
 総合的な学習で、大人に向けて話したり聞いたりする力がついてきている。同年齢だけではなくて、異学年交流も含めて、少し幅広い、さまざまな「聞く」ということが必要になってくるのではないか。
 「話すこと」「聞くこと」において、自分がどういう言葉の工夫を行ったかをきちんと認識せずに、しゃべらせっ放し、聞かせっ放しになっている指導が非常に多いので、このあたりを今度の学習指導要領にも盛り込めないかと思う。
 「話すこと・聞くこと」の能力を身に付けさせるためには、継続的に指導することが必要だが、そのために必要な時間を割いていない現状にある。また、「聞くこと」に限れば、印刷環境の充実とともにプリント配付が増え、真剣に聞かなくてもすむ状況にあることも原因の一つである。
 伝え合う力のうち伝える力の方は少しずつ育っているように思われる。しかし「合う」に込められた、相手の意見・考えを受け止めてそれに対して、自分がどう思うかを瞬時に考えて返していくというやりとりから、内容が次第に深めていけるような伝え合う力を目指すことが喫緊の課題ではないか。

(4) 「書くこと」

 「書くこと」をすべて国語科で行うのではなく、理科や社会科でたくさんレポートを書かせるなど、書く訓練を他教科でも行うことが大切である。理科と国語の教員が一緒になってレポートの書き方を指導することも考えられる。
 社会科や理科の授業で作ったレポートを、国語の時間に、意見や考えを明確にするといった点や構成など国語科の狙いに重点を置いて書き直す授業をやっている。
 小学校高学年から中学校段階にかけて、批判的思考や論理的思考の育成を意図して、説得やディベートを積極的に取り入れ、口頭だけではなく、社会科等のレポート作成も含めた作文の指導とも連動させ、論証や説得のための「言語技術」の習得を目指したい。
 大学生が書くことが嫌いな理由は、文字を書くこと自体が面倒くさい、何を書いていいかわからない、自分の語彙力の不足から文章を読まれることが恥ずかしい、時間がかかるといったことである。小学校のときに、たくさん書くことにより、中学校・高等学校で学習の量が増えても、苦もなく文字を書いて記憶することにつながると考えられ、「書くこと」を意図的、計画的に学校教育に仕組んでいかなければならない。
 高校では大学入試の必要性から小論文指導が行われているが、入試のためではなく、自分が考えていることを他人に伝えるために、話すこと以外に文字で自分の考えをまとめて伝える方法があることを、1年生の段階から生徒に納得させて書かせることが必要である。
 中学校、高等学校の教員は多くのクラスを持ち、書いて提出させると評価が必要になる問題がある一方で、国語科のねらいである思考力や想像力を育てるために「書くこと」は粗略にできず、国語力を育てるために「書くこと」をどう考えていくべきかということが必要である。
 「書くこと」の指導は時間がかかることもあり、中学校では、週3時間の授業時数の中で「読むこと」の指導だけで手いっぱいになっているのではないか。また、近年、音声言語の指導が注目されてきたこともあり「書くこと」について十分指導してこなかった面もあるのではないか。
 「書くこと」に関して、記述、構成といった点が大きな観点として出てきているが、現在、中学校1年では構成の観点が示されていないため、意識の面で抜けているところがあるのではないか。
 「書くこと」について、高等学校では、目的や場面を大学入試や就職試験に絞った指導になっており、本来の目的や場面と対応した書く力を付ける指導が行われていないのではないか。
 パネル発表など自分の調べたことを発表、表現する機会が増えているが、発表に資料をどのように組み入れるか、箇条書きの文章をどう組み立てるかなどの資料が十分でない。
 文章には目的があり、主題文がある。それを支える細部、そして結末という西洋レトリックを日本の教育にどのように取り入れるかという大きな問題がある。
 外国語の指導要領では、説明する、報告する、申し出るなどの言語活動の塊がリストアップされている。国語でも必要ではないか。
 自分の意見を述べるだけといった簡単にできることは、学校で教える必要はないが、論理的な文章を書くなど大変なことは学校で教える必要がある。

(5) 「読むこと」

 高等学校、中学校の国語の教員は、文学などに対する強い憧れを持っていると感じられるが、文学教育に偏ってはならない。国語は言語というものにずっと傾けていってよい。
 アメリカでは、学校の授業の前に分厚い資料を何冊も与えられ、授業に参加するために読まなければならない。ビジネスの社会でも、資料を全部読み通してからでないと議論に参加できない。読むことは基本中の基本である。
 高校で「読むこと」を中心とすると、ただ「教材を読むこと」に終わってしまう危険性がある。自分の意見をまとめるのに足りないものを補うために読むというように、「読むこと」を「話すこと」や「書くこと」につなげていくことが必要である。
 文学についてどう教えたらよいか教員の戸惑いが出ている。極論に走って、読ませて終わりというようなことが起こったり、新任の教員は、目的や必要に応じて取り上げることがよくわからず、文学的文章の詳細な読解はしてはならないという意識を持っている。
 学習指導要領の示し方を、一つは説明的な文章の読み方の方法の指導ともう一つは文学的な文章の読みの指導をそれぞれにどのような能力が必要かを吟味して、両方をバランス良く示したい。
 本を読むときに絵や線を描いて、論理的な構造を理解しながら、書かれていることを捉えていくような読み方が大切である。また、「書くこと」の背景には「読むこと」が非常に強く関係しているのではないか。
 音読や読むことは脳科学の研究からも大事であるとされており、文学的な文章をたっぷり読んだり、説明的な文章を使って読み方の指導をするなど、指導を工夫することが必要である。
 国語科は、螺旋型に、次第に奥行きや深みが増していくために、学習指導要領では同じような表現になっている。その過程で、読み方という型も習得し、人間形成にもつながり、国語についての関心・意欲・態度も出てくる。
 「文化審議会答申」で読書の重要性が指摘されている。精読中心の授業だけでなく、多読へ導く学習指導が求められており、例えば「本の紹介スピーチ」「ブックトーク」などのような活動である。
 子どもたちが集中して話を聞いたり、授業に集中しているのは、自分を語っているときや、自分を表現している場面である。そのような場面を作るために、感想文の指導を一つの柱として、子ども同士で語り合ったり、自分の体験を位置付けたり、価値を認め合って、その作品とのつながりをつけるようにすることは、「読むこと」だけでなく「書くこと」などの力の育成にも有効である。
 読む力が十分ついていないということで、文章を読んで、じっくり考えるゆとりを与えられていないのが今の現状だと思う。家庭でも学校でも、わからないものをそのまま抱えて、じっくり考える時間を持たせてあげたいと考えている。
 的確に読み取る能力が不十分である原因は、飽きやすく、諦めやすい生徒の状況への対策が十分なされていないことである。また、生徒が自分なりに読み取ったことをまとめるまで、教師が待ちきれないことも原因の一つである。
 メディアリテラシーという観点から、英国やカナダなどで、批判的に情報に接していくという研究が進んでいるので、参考になるのではないか。
 読むことは、社会生活の中において「読むこと」と情緒的な考えを持つ、豊かな心を持つという意味での「読むこと」という二面性がある。
 短い文章ではなく、本を一冊まるごと読むということを積極的にやることを指導事項に入れていってはどうか。

(6) 漢字など「言語事項」

 「言語事項」の指導は、「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」の各領域の指導を通して行うものであると示されている。それは、子どもたちに生きて働く言葉の力を身に付けさせる上で大事なことである。
 言語事項は、「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」の中にあるエッセンスである。高校では、文と文のつながりなどは言語事項として取り上げられているが、内容に移した方がよいのではないか。
 文法の指導事項については、学習指導要領でもう少し具体的に示した方が学校では指導がしやすいのでないか。漢字のように別項目で示すことも一つの方法として考えられる。
 例えば、引用する、例える、比喩の表現、接続の表現というように、文法事項や言語表現を分類して、学年段階や学校段階で順序づけ、体系化して示していく必要がある。
 大学生は、社会に出ることに向けて、敬語が使えないことを非常に不安に感じている。日常でも使う機会もほとんどなく、手紙や葉書も書いていない。こうしたことを、言語事項の言葉遣いとして徹底的に行うことが必要である。
 横書きへの対応や小学校の段階で文字感覚を養うことが必要である。書く文字や言葉を選んだり、子どもたちに言葉選びの主体性を持たせることが大切であり、文字を書くことを意図的に増やしていくことが大事である。
 手を使ってきちんとした文字を書くことは、3領域に関わるものであり、また、一人一人の個性という面からも大事に扱っていく必要がある。
 書写は国語と異質の学習内容を持っていると思われがちで、お手本と同じように書けばよいとする技能偏重が多く、知識・理解の部分が欠けていた。中学校の教員が技能的に優れていないから教えられないというのは誤りである。
 書写の授業の実態として、お手本と同じように書くということに目標が置かれているために、本来の学習指導要領上の目標が非常に希薄になっているのではないか。
 現在の書写の評価は、書かれた結果を評価しているが、書かれる過程を重視する方向にしていく必要がある。
 書写と書写以外の言語事項を融和して、その中で漢字を教材として取り上げながら、書写のほうの原理原則の仕組みも含めて指導ができるような形にできないか。
 書写の最終的な目標は、手紙とか、ノートを書くとか、ポスターを書くとか、力をつけることであり、その上で、「この学年では何を指導したらいいか」という体系的なものを構築していく必要がある。
 書写においては、硬筆で何年も同じことを繰り返すよりは、抵抗感のある、難易度の高い筆記具で学習することが学習意欲を低下させないこととなる
 書写は芸術としての書道と日常的な文章の記録ということとのすみ分けが現場では不鮮明ではないか。
 書写の指導について、現状は字形の指導ばかりに偏っている。今回は、実生活に役立つということが示されているので、基礎・基本を大事にしながら、指導の方向性に変化をもたらすことに期待している。
 最近は手書き文字が減っている。また手書き文字が活字化しているようにも感じている。手書き文字の効用についても学習する必要がある。
 読みやすさのためにワープロを使って文字の大きさやゴシック体などにしたり、音声においてアクセントやイントネーションといった声の使い方など、言語事項の中で表現の効果という観点を広げていくことが必要である。
 国語は、伝えるにしても、読むにしても、読み取る技術にシフトした方がよい。例えば編集という作業を行うと書く方に反映される。
 ワープロを使うことにより、論文は読みやすくなったが、スキャナなどを使って引用したりするため、文章が長くなっている。不要な部分を削り、いい文章にするように指導することが必要である。
 言葉の学習である国語科にとって語彙力はとても大事で、漢語よりも和語に不安を覚える教員が多い。そのためにいろんな文章に触れる多読が必要であり、教科書では限界があるので、言語環境を整えていくことが必要である。
 常用漢字の学習は大切であり、音訓のうち、訓はそのまま言葉に、音はほかの語と一緒になって一つの言葉になり、漢字指導は語彙指導に結び付いている。書いて確かめて、認識して、自分の血や肉にしていくことが大切である。
 漢字の学年指定はあるが、音訓の学年指定は示されていないので、できれば、音訓についても学年指定できないか。
 子どもは「漢字を読めること」「漢字を書けること」に強い憧れを抱いている。認知心理学の知見でも、子どもにとって、漢字を認知する方が仮名を認知するよりもやさしいというデータもある。
 その地域・学校・学級の使用頻度を考慮し、一定の範囲で使用頻度を考慮して「読むための漢字」「書くための漢字」を学年を超えて許容することを考えてはどうか。
 交ぜ書きは好ましいと思わないが、例えば「心配」という語を、1年生と2年生でルビを振れば、教科書は読めるかもしれないが、教員がそれを板書し、子どもたちはノートに書かざるを得ず、その指導はどうするのかという現実的な問題がある。子どもの学習負担、教員の指導の在り方等を考えると、安易に交ぜ書きを全廃するような方向にならないよう、慎重に考えるべきである。
 教科書と日常の言語生活は分けて考えるべきである。日常の言語生活の中でルビ付き漢字や難しい漢語、語彙に触れることは大切であり、子どもが背伸びして届くような文章に多く触れられるような環境を整えることが大切である。戦前の教科書でもルビ付き漢字は出ていない。ある程度の規準に対して評価しなければならないときに、あまり難しいことを全員に求めることは実際できないのではないか。
 小学校の教科書における交ぜ書きは、学習段階で必要なことと考える。しかし、新聞などでは交ぜ書きは避けたい。教育上の交ぜ書きと日常生活の交ぜ書きは区別されるべきである。
 ルビが振られていなければ、最初から漢字の形を入れ、その読み方を自覚化する作業をすることになるが、それは漢字の読みを認知しやすいというデータもある。日常の言語文化の中で何を目にするかというところで、表記を決めていくことが大事である。
 高校生に授業をしていて、確実に漢字の書き取り・読み取りの力が落ちていると感じている。低学年から振り仮名付きで出して、漢字の読み書きをさせておくことは必要だと思う。
 雑誌や新聞に出てくる頻度は高いが、子どもたちの読みの正答率、書きの正答率が低い漢字があり、配列を見直すことも必要である。
 子どもたちにまず正しく美しい日本語を教えること、日本の奥深い文化に幼いころから触れさせ、日本の伝統や世界の中での日本について考えさせることが大切である。世代を通じての共通の言葉や情緒をもつため、日本人ならだれでも読んで覚えている共通の文章(古典)を選定し、学年ごとに配置することを考えてよい。
 古典については、現代と古典の世界の時代との間には相当大きな開きがある。子どもたちにとってはその時代の変化が十分に理解できていないということがある。子どもたちがそのような時代的な変遷を学ぶ機会を古典の指導の中に取り入れるべきである。
 低学年の古典の扱いについて、古典というにはそぐわないのかも知れないが名作といわれるような絵本を教材として扱うことがあっても良いのではないか。幼児期から低学年へのつなぎというようなことも考えてほしい。
 子どもたちに国語への「関心・意欲・態度」をはぐくむことを重視し、学習指導要領の示し方も検討することが必要である。国語のおもしろさに気付かせていくようなことを盛り込み、古典の扱いでも、名文の暗唱など、子どもたちに言葉の宝として引き継いでやりたい。
 教科書に載っている文章だけではなく、インターネットの文章など現実の多くの表現の提示により、どのような在り方が望ましいか考えることが必要。
 教材の選定について、ノーベル文学賞を受賞した川端康成と大江健三郎の文体は、全く違うものである。両者とも世界的に認められている。このような文体の比較をするという視点も必要である。

4. 国語の指導方法の工夫・改善と指導力の向上等

(1) 基本的な在り方

 小・中学校において、国語科の授業時数の減少の中で、否応なしに指導方法や指導の改善に取り組む必要があり、国の実施状況調査の結果を反映させること、3領域をバランスよく指導することなど、現在努力している方向で方針を変えることなく、取組を進める必要がある。
 国語科は他教科や学校生活に役立つ基礎的な言語能力の育成と、文学などの読みの力の育成の両面を持つものであり、その両方の育成を目指すものであるが、読みの指導に偏りがちな現状においては、言語能力の育成をより重視する必要があることを考える必要がある。
 文科と理科では発想の大きな違いがあり、少なくとも半数の生徒が理科系であるとすると、文科系の発想で指導されている国語を嫌いになる生徒が出てくるのも当然である。国語の能力は文科系の能力とイコールであると考えるのではなく、理科的な言語能力も非常に大切であり、これからの国語の指導方法の改善を考えて行くとき、発想の転換が必要である。
 個人に任せる学習ではなく、学級の中で、個人が得た力を使って他者と結び付け、学級での知恵、工夫が生み出すような学習活動が大切である。
 子どもたちに、漢字の成り立ちのおもしろさなどに触れさせるなど、国語を楽しむことを体験させることが必要であり、また、わからないことがあったら、すぐに辞書を引くといった習慣を身に付けさせることも大切である。
 日常生活の中で辞書を引くという習慣を少しでも身に付けさせるということが、語彙の豊富さ、言葉の確かさを知る意味で大切である。
 教員は、個に応じた指導をするために、その子がドリル的、スキル的なことを指導する必要がある子か、体験と結び付けて言葉を教わり、自分から漢字を読みたいとか調べたいと思うような子どもかを見極める力が必要である。
 生徒に対して評価の観点を明確に示すことは、自分自身の立場を理解させ、学習への取組の姿勢を変えることにつながるのではないか。
 指導方法の工夫改善を進めるには、活動が先に立ってしまいがちな授業ではなく、評価規準を明確に位置付けた指導のねらいを持った授業を進めることが必要である。
 教科書の厚さの話が出たが、アメリカの教科書はとても厚いがPISA調査の結果はあまり良くない。日本の教科書は薄いが、指導者である教師はその表紙から内容のすべてにわたり実に丁寧にやっていて、PISA調査でもそれなりの結果が出ている。教科書の厚さが大切なのではなく、内容のバランスが大切である。
 指導のねらいや目標を明確にすることは、評価の観点や方法を明確にすることであり、それがチェックリストのような形で教える側、学ぶ側、それぞれに共有されていることが大切である。
 教員として今最も大切なことは、評価規準をつくる力、目標をはっきり持つ力であり、そのような力を持ってはじめて、ねらいを明確にした教材化や学習形態の工夫もできるようになる。
 「評価規準」を本当に生かすためには、「単元と単元の関係を明確にする」、「学期をまたいで段階を踏みながら国語の力を伸ばす」、「できれば、学年をまたぐ形で、長い時間をかけて確実に国語の力を伸ばす」ことを教員一人一人が意識することが重要になる。
 評価あるいは指導のねらいの体系化、明示化を進めるためには、それを支える基盤としてのデータが必要であり、各教員が実施したものを、データベース作りのセンターのようなところに提示して、そこからフィードバックしてもらうようなシステムを考える必要があるのではないか。
 でき上がった作品の評価にとどまっていると、子どもたちの関心・意欲などをそぐことにつながりかねない。指導と評価の一体化を進める上からも、方法や手立てを明確にしながら指導を行い、またそのことに対しての評価をきちんと行っていく必要がある。
 優れた授業を展開するためには、教える側が指導のねらいを巧みに持っていることが必要であり、そのためには周到な用意、授業に入る前の教材研究が極めて重要である。
 指導方法の改善を進めるには、教科書の果たす役割が大きく、学習指導要領の改訂の趣旨を踏まえた教科書を作成することが教員の意識を変え、学習指導要領の内容について学習するようになる。
 国語科の教科書の中に多くの参考文献を掲載して、教科書をどんどん厚くしていくという考え方もあるのではないか。教科書に掲載されていれば読む機会が増えるのではないか。
 大学でも授業の改善を図るための取組が進められているが、高校においても生徒の授業評価などの取組が始まっている。
 自分の考えをもつ点が不十分である原因の一つに、瞬間的にひらめいたことを自分の中で整理したり、一つのことをじっくり追い求めさせたりする余裕を生徒に持たせられないなど、自分の考えをもつための十分な手だてがなされていないことがある。

(2) 「話すこと・聞くこと」

 音声言語活動は増えてきつつあるが、単発で終わりがちで、時間を確保し、声に出して表現する時間をくり返すことが必要である。また、発声法の訓練は大切で、大きな声ではっきりと話すべきことを考えて話すようになる。
 音声言語の教育方法論を確立し、教授法を研究し、学校現場に広めていくことが必要である。
 「平成13年度教育課程実施状況調査」では、音声言語において「話題の展開を的確にとらえる力」が十分身に付いておらず、実際の「話し合い」の場面で、司会の役を経験させることや、話の前後関係や論理的な関係などを説明できるようにする学習活動を取り入れていく必要がある。
 小学校では、平成14年度に教科書が変わったことにより、1分間スピーチであるとか、show and tellといった活動が活発に行われるようになっている。
 実生活の中では、最初に結論を述べ、その後に理由を説明する機会が多いことから、学校においてもそのような単純なところをもう少し訓練することが大切である。
 話す前にきちんと考えて、何をどう話したらいいかということを簡単にメモなどを作るような訓練も必要である。
 「伝え合う」の「合う」のほうがまだ育ち切っていない。これから、育成の課題が多い部分だと思う。反応の仕方とか、質問の仕方とか、受けて返す言葉の指導とか、そういう具体的なことまでしていかないといけない。
 授業の中で自分の考えを具体的に伝えるための技能や、授業において話し合いの必要感、重要性、価値といったものを実感させるような授業の展開、指導の方法が不足している。

(3) 「書くこと」

 目的や条件に合わせて書く力がついていない実態からも、何をどこでどのように書かせるのか、自覚的に書く力を付けること、様々なジャンルに触れさせることが大事である。
 ノートの取り方でも、自分の言葉で書いたり、視覚的に工夫して書いたほうが、試験の成績に表れたり、レポートの内容も論理的にまとめている。
 アメリカでは、実社会との関係をきちんと持った国語教育を進める方向にあり、最も力を入れているのが、プロジェクトやチームの中で発揮できる表現力を身に付けさせることをねらいとした「書くこと」の教育である。
 アメリカなどを中心に出版教育というものが行われているが、実際に本の編集などを体験することで、無駄に長い文章は困ることなどを子どもたちは学習できるのではないか。
 アメリカにおける「生きた場」を重視した作文指導は、特別なものではなく、我が国においては「綴り方」運動などの伝統がある。そうした伝統を生かしながら、一方において、「主題文(メイン・センテンス)を明確に示す」「その主題文を支える細部(ディテールズ)をきちんと配置する」などのコンポジション理論を重視した作文指導を加味するようにするなど、バランスをとることが重要ではないか。
 「書くこと」の学習では、相手意識や目的意識を明確にした文章を書かせる必要がある。「意見文を書く」「報告文を書く」等と、文種に対する意識を持たせることも大切であるが、相手や目的意識が明確であれば、子どもたちは自ずとそのような文章を書くようになる。
 「書くこと」については、学級文集の作成などの活動を通して、型ではなくて多様なモデルに触れて書き方を学んでいる実態がある。
 「書くこと」に関しては、いいものを書かせようとすると、時間を確保する必要がある。そのための工夫として、例えば、理科や社会との連携を図り、社会で書いたレポートを国語科の観点から書き直すことなど、他教科と連携を図った指導の工夫が考えられる。
 授業の中で手紙を書いたり報告文を書く時に、帯単元などで継続的に実施したドリルなどでやったどの力を自分は使えたのかということを認識させていくような関連性を生んでいくことが必要である。
 「書くこと」の指導の工夫を図るためには、作文や日記などを単に書かせるだけではなく、目的を持って書かせる授業を行っていく必要がある。
 高等学校でも、作品を残す、形あるものを作るような形で書く授業を始めると、生徒は意欲的に取り組むようになる。
 「書くこと」の指導には時間がかかることから、自分の書いたものを、ちょっと時間を置いて家でながめてみて推敲するというような家庭学習との連携も考えてみてはどうか。
 作文では、採点の公平性・客観性が問題とされるが、上手な作文は誰が読んでも上手であるし、だめなものはやはり誰が読んでもだめである。そのため、入学試験で論述式の問題を出すことはあまり大きな矛盾は出てこないと考えられる。なお、字を丁寧に書くことが内容にある影響を与えている面もある。

(4) 「読むこと」

 読書活動は、幼児期の読書体験が大きく影響しており、家庭での言語環境が大切である。国語科の授業だけではなく、言語環境に留意し、日頃から教員や親が意識して言葉のシャワーを子どもたちに浴びせることが大切である。
 日本の子どもはあまり本を読まないが、本に対する興味はあると思う。指導事項の中にしっかりと位置づけて指導すれば子どもたちは本を読むようになる。現状を見ると司書教諭の活用が不十分である。司書教諭が指導する時間が与えられていない、そもそも学校図書館に本の蔵書が少ないなど問題が多い。国語科の指導内容として読書指導を取り上げて、環境を整えることが大切である。
 教科書だけでなく、解説書・説明書き・パンフレット・ポスター等短い文章にも触れ、「多読」する学習活動が必要である。特に低学年では読み浸る時間が必要であり、学年が上がるにつれて目的をもって読むこと、読書したことを生かしてどうつなげて学習し広げていくのかが大切である。
 教科書はもちろん重要であるが、指導内容やねらいに応じて臨機応変に様々な読書教材や新聞などを活用できることも大切であり、それらを活用できる教員を育てることが大切である。
 「読むこと」の学習では、「教材を教える」という意識が教員の側に強い傾向がある。それでは、ある特定の文章は読めたとしても、それ以外の文章を読めることにはならないため、指導事項を明確にする必要がある。
 生徒は問題集を解くとき、授業で扱った学習を意識して解くのではなく、ただ設問を機械的に解いているだけになってしまっているので、教師の方から、宿題の出し方等について学習指導要領の目標に応じた形で出すように工夫する必要がある。
 一つの文学作品を扱う時に、表現の特徴なら特徴という一つの指導事項に集中するような読み方を考えることも必要ではないか。
 朝読書が普及した理由は、教員も一緒に読む、感想文を求めない、何を読んでもよい、の三つが大きいと考えられるが、一方で、読ませたい価値があるものをどうやって読ませるか、説明的な文章や論理的な文章にどうやって手を伸ばさせるのかを考えることが必要である。
 朝読書の活用も考えられる。当初の目的は子どもたちを落ち着かせるということにあったようだが、普及してきたのでその成果としては大いに利用すべきであり、ブックトークなどにもつなげられる。
 学校図書館の充実という観点では、蔵書の数の調査は毎年行っているが、子どもたちに適した本が置かれているかという内容面については調査を行っていないし、現状として内容面は不十分である。朝読書も時間としては確保しているが、質的に満足できるものにはなっていないという面もある。学習活動との関わりの中で読書に向かわせることが大切である。
 朝読書の紹介の中に、作者名や作品名を掲載していくということも考えられないか。
 文学は必ずしもすべて情緒的なものではなく、教える側がねらいをいかに持つかが大事である。また、論理的に思考するテキストなども活用することにより、国語ももっと論理的に扱うことができるのではないか。
 教科書の教材の書き手の書きぶりを吟味して読むという「吟味読み」に取り組んでいる先生もたくさんいる。
 教科書に沿って、ただ教科書にあるから読んでいくという意識ではなく、こういう力をつけたいから、この教材を読むというように、積極的に教師のほうで教材化をしていくという姿勢が必要ではないか。
 現状では高校の教材の在り方としては「読むこと」に特化してしまっている。総合的に言葉を通して考えるということが必要であると思う。受験重視という指導になってしまうことを危惧している。バランスが大切だと思うが、現状では「読むこと」や受験指導に偏っておりバランスがよくない。
 読むという活動の中で、表現のいろいろな工夫、表現の種類といったものを体系化された知識として意識しながら読むということが必要である。

(5) 漢字など「言語事項」

 現在の国語科の中でも、言語技術教育という考え方を重視してきている。
 日常的な作文などでは、漢字が生きて使われていない。漢字を嫌う子どもも多い。手紙を書かせて漢字が必要であると意識を持たせることや、辞書を自分たちで作ることなどを通して、語彙として習得させることが必要である。
 新聞記事や雑誌などに関連した親近度の高い漢字や語彙などに積極的に触れつつ、基本として身に付けさせていくことも必要である。
 今まで知らなかった語彙を子どもが使って発言した時に、その語彙をカードに書いて掲示することを一年間続けていくなど、知らなかった語彙を広げるための時間を確保し続けていくことが必要である。
 漢字指導では、訓読みの指導に力を入れることが重要である。小学校では「つくり」や「へん」などを組み合わせて意味を予想する活動を取り入れていくことが大切である。
 自分でイメージした漢字を書くなど、子どもの意欲を喚起するためにとる方法と、基本的に指導すべきことの、両方の兼ね合いが必要である。
 漢字のドリルのような「型」の練習は子ども自身に取り組ませ、条件を与えてその漢字を使った短文作りを行うと言った「型」をどのように運用していくのか、「型」を使って自分の中から言葉をどう引き出し、整えていくのかを判断するという「型」の次の問題を重視する教員がだんだん増えてきている。
 スキルとしての漢字を習得した結果、漢字仮名交じり文を読み書きできることは事実であるが、過度にスキルとしての訓練を強調しすぎると国語の勉強に対して背を向けさせてしまうことになるのではないか。
 漢字指導について、特定課題に関する調査の分析で「日常生活で使用頻度が高い漢字は正答率が高い」という分析をしているがこれは素直には理解できない。例えば、「憲法」「福祉」などは高級語彙であるが正答率が高い。これは他教科での学習が影響していると考えることができるのではないか。「景品」「観光」「展望台」などは日常生活で比較的使用頻度は高いと思われるが正答率が低いものもある。
 日本人は日常的に日本語を使う宿命にあり、大変豊かな感性に満ちたものとして日本語を使っていくことが大切である。そのためには、単なるスキルではなく、文化総体として国語というのを捉える授業を行っていくことが必要ではないか。
 文字を書くことについては、総合的な学習の時間などで、手紙、葉書などを書く機会が増えており、このような横断的な学習をもっと増やしていくことで、書写が国語力を支える基盤であることが子どもたちに理解されることになる。

(6) 教員研修の在り方等

 社会が学校の国語科教育に対して、どのような力を身に付けさせるよう求めているかをすべての国語科教員が認識する場を設ける必要があるのではないか。
 生徒に教え込むより、生徒が自分で気付くようにし向けた方が生徒の身に付く割合が高いので、生徒の気付きを生かす学習活動を工夫し、工夫したものを交換し合う研修の場を作る必要があるのではないか。
 若い教員は授業のアイデアについては新しいものを持っているが、もう一方で、思い切って時間を割いてしっかりとした技術や対応力を身に付ける研修の充実を図っていく必要がある。
 若い教員にきちんと指導方法を身に付けてもらうためには、教職2年目から5年目あたりの教員を対象に、教材研究の方法や指導方法、単元の組み立てと指導の在り方などの実践的な研修を考えていく必要がある。
 小学校の教員は方法については様々に工夫しているが、教材をきちんと見る力を育てる研修が必要である。一方、高校の教員は文学の知識は非常に強いところがあるが、その知識をうまく生かす方法についての研修を重視する必要がある。
 日本語教育の分野では、従来の一問一答式ではない形での学習者の育成法についての研究が出てきており、国語における教員の授業に対する学習者の育て方を考えていく必要がある。

(7) その他

 構想を練り、下書きを書くまでは鉛筆を使い、清書、校正、印刷まではパソコンを活用することにより、作文学習の負担を軽くし、楽しみながら書く学習活動が展開できるのではないか。また、「読むこと」においても、文献情報収集や電子ブック(絵本)などを活用することが考えられ、コンピュータ等の整備を進める必要がある。
 コンピュータネットワークや索引をつくるより、一クラス全員が同じ本を、声を出して読めるように何十冊かそろえる方が有効と考えられる。
 必ずしも全県的な取組にはなっていないが、高等学校でも国語科の指導方法研究会を県レベルで作り、新学習指導要領の下での指導方法の工夫改善等についての研究や研修を行っている。


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