資料1 |
中央教育審議会初等中等教育分科会幼児教育部会(第1回)議事要旨
1. | 日時 | : | 平成15年10月28日(火)10:00〜13:00 |
2. | 場所 | : | 虎ノ門パストラル 本館8階 しらかばの間 |
3. | 議題 | : | |
(1) | 部会長の選任について | ||
(2) | 議事の取扱いについて | ||
(3) | 幼児教育の現状について | ||
(4) | 自由討議 | ||
(5) | その他 |
4. | 配布資料 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
5. | 出席者 (委員) 鳥居会長 木村分科会長、國分委員(副部会長)、田村委員(部会長)、浅田委員、池本委員、石榑委員、石田委員、井堀委員、門川委員、河邉委員、酒井委員、服部委員、北條委員、無藤委員(副部会長)、山口委員 (文部科学省) 近藤初等中等教育局長、金森初等中等教育局担当審議官、河野主任視学官、義本幼児教育課長、土屋幼児教育企画官、神長教科調査官、小田国立教育政策研究所次長、その他関係官 |
(1) | 近藤初等中等教育局長より挨拶が行われた。 |
(2) | 委員の互選により、部会長に田村委員,副部会長に國分委員、無藤委員が選出された。 |
(3) | 会議並びに事務局が作成する資料及び議事要旨は、原則公開するものとされた。 |
(4) | 事務局から資料の説明があった後,資料についての質疑応答・自由討議が行われた。その概要は以下のとおり。 |
○:委員、●:文部科学省
(質疑応答)
○幼児教育の範囲のことだが、ここには保育所という言葉が出てきていないが、保育所におけることもここで議論するということで考えていいのか。就園率が諸外国と比べて低いという話もあったのだが、保育所も含めれば高くなるということもある。その保育所の扱いをどうするのか、そのあたりお伺いしたい。
●保育所においては養護と教育を一体的にやるという施設であるので、教育の側面もあるわけだが、幼児教育の専門機関としての幼稚園を核にして、保育所における教育、あるいは家庭教育も視野に置きながら、御議論をいただきたいと考えている。
○諸外国の幼児教育の資料を見ると、文字、数字のリテラシーの向上に力点を置いた政策をやっているという紹介があった。個人的な感想だと、日本の幼児については、文字、数字に関しては、幼稚園でやっているかどうかは別として、昔に比べると水準はかなり上がっているのではないかと思う。子どもの数が減っていて、親が1人当たりにたくさん教育投資をしているわけだから、文字、数字は小学校に入ってくる前に相当覚えている子どももいるのではないか。
日本に関しての問題点として、いわゆる学力に結びつくものよりは、コミュニケーションをとれない子どもとか、自制心のない子どもが多いという形の問題が指摘されていて、むしろ教育力というのは知力の面ではなくて、それ以前のコミュニケーション等も含めた集団生活、生活習慣の面での親のしつけが、日本の場合にはない。
そうすると、諸外国で力点を置いている幼児教育の方向と、日本のこれから、あるいは現在取り組んでいる方向が多少違うのかどうか。あるいは、日本においても教育力ということで、もう少しリテラシーも含めた知的水準を高めようという、要するに幼稚園でそういった学力面で、小学校からきちんと知的な面でも能力を増やす方向で問題があって、そこが低下していると考えておられるのか。要するに、教育力の問題は日本では主にどういった点にあるのかということを伺いたい。
●まず、文字あるいは数の認識だが、御指摘のとおり、日本において、識字率はアメリカ等に比べて非常に高い。だから、例えば5歳になれば、自分の名前を書けるとか、平仮名を覚えているという形でやっていて、それは家庭での指導もあるし、また、幼稚園においては、遊びなりいろいろな活動を通じて、その一環として文字に親しむという中で学んでいくという形での指導をしている。
また、各国によってそれぞれの社会環境とか、構造も異なっており、特にアメリカ等においては、貧困地域とか、社会構造の問題とか、人種の問題、地域によっての格差等もあり、各国によって力点の置き方はそれぞれ異なってくるという状況にある。
ただ、将来の人材育成とか、育てていくというような、将来の大人である子どもの視点と、今いる子どもたちの育ちなり成長なりを保障していくという両面を、それぞれ濃淡を置きながらやっているのが現状かと思う。
もう一つ御指摘いただいたように、日本の子どもたちの状況であるが、自制心がないとか、あるいはコミュニケーション能力の問題とか、子どもたち自身のいわゆる生活とか、「生きる力」の基盤となるような基礎的なところについて、いろいろな社会情勢とか、子どもたちをめぐる環境の変化の中で非常に弱くなっているとか、あるいは学習の面においても、生活習慣とか、あるいは学ぶ意欲とか、好奇心、あるいは人との関係とか、そういう「生きる力」の基盤になるもの、それが学力なり生活の基盤になるが、その辺をどのように育てていくのか、その辺がここでの議論の一つのポイントである。
○いわゆるリテラシーの問題、それから生活習慣を含めた人間性というか、発達年齢に応じた子どもの保育あるいは教育という、その辺の整理が幼稚園と保育所、あるいは両方にいっていない子ということで、それぞれが実は5歳児の段階できちんとした統一的なものが日本では作り上げられていない。だから、それをここでやろうとしているのだと理解している。
5歳児をどうするかというのは、実は世界的な傾向で、中教審としては義務教育を5歳児に下げるというテーマの議論を始めようとしているが、まさにその部分は、これからこの部会で整理していくものだろうと理解している。だから、何が必要だというよりは、どういうふうにするかということをこれからここで提言していくのだろうと思っている。そのような理解でいいのか。
●義務教育の就学時期の問題は5月の中教審の包括諮問で例示として出させていただいているが、この問題については、ここでの議論もあろうかと思うが、義務教育そもそもの在り方の問題の中での議論であるので、議論する中心的な舞台としては、教育行財政部会の中で取り上げていただいている。もちろんこの部会と連携してという話が今後出てくるかと思うが。
○つまり、舞台背景としては、そういうことが議論されているということを前提にして、じゃあどうしようかというのを、ここで具体的に詰めていく必要がある。
○日本の子どもは大変な情報量に囲まれており、5歳児はほとんど読み書きができて、小学校に上がるような現状。問題になっているのは、幼稚園では知的教育を行っていないわけではなく、リテラシー、読み書き能力を上げるためだけのいわゆる早期教育ではなくて、知的好奇心を高めるために環境を整えるという方法で、幼稚園の中でも知的教育を行っている。
知的好奇心を高めなければいけない理由というのは、小学校以上で出ている問題とも絡んでおり、学ぶ意欲が低下しているというのが、日本の子どもの大きな課題であるので早くから何かを教え込むというよりは、何かを知ってうれしいとか、自分で動いて発見したことが楽しいとか、そういうたっぷりとした体験をさせていこうという方向で行っている。
幼稚園ではたくさん遊ぶが、家へ帰ると塾に行っているような子どもは、すごく難しい言葉を知っているが、実際に自分が伝えたいことがきちんと言語化できないとか、自分の気持ちを言語化してコントロールすることができないとか、生活体験と、かなり乖離したいわば頭でっかちの子どもについては、どこかで行き詰まるのではないかと大きな問題を感じている。
幼稚園教育としては、遊んでいるだけで、学びをしているところではないと言うのではなくて、遊びの中で必要な学びをしていく、そのような内容の質を高めていかなければならないのではないか。
ただ、その方法論が幼稚園教育の3年間ずうっと同じ方法でいいのかということはやはり問題があって、5歳児後半あたりの保育、教育方法は少し検討する余地がある。それは就学時年齢を前倒ししようということとは全く関係なく、内容の検討は必要なのではないかと感じている。
それから、細かい質問だが、諸外国の国際比較の中で、1クラスの人数の規定はどのようになっているのか、後で結構なので、教えていただきたい。
●ただいま資料がないので、また後ほど整理させていただき、次回の部会以降にお答えさせていただきたい。
○熊本県が実施した就学前の幼児に関するアンケートが、幼稚園の園長と保育所の所長に対する両方があるのだったら、それを分けたデータを見てみたい。これは今後のお願いだが。両方、就学前で議論していくためには、バックグラウンドとしての家庭の生活時間とかがかなり違っている。それが子どもの育ちにプラスに影響しているのか、マイナスに影響しているのかというところは、これからの議論における重要なポイントだと思う。
●熊本のデータについても、恐らく保育所、幼稚園を一緒にしているので、それを分けているかどうか確認した上で整理させていただきたい。
ただ、こういう形で出させていただいているが、データ自身の母数が小さいので、正確に分析するためには、ある程度まとまった資料が必要だが、なかなかその辺の育ちの状況についてまとめた調査が十分ないので、できる限り工夫させていただきたい。
(自由討議)
○幼稚園の子どもはほとんど社会にデビューするような形でくるわけだが、初めて出合うことがたくさんある。例えば学級で飼っていたモルモットが死んでしまった。そういったような初めて出合うことに幼稚園という場で、どう向き合わせるかということが、その子のその後の豊かな人生をどう歩んでいくか、あるいは人間として、あるいは「生きる力」を身に付けていく上で、どう育っていくのかということにとても大きく影響すると思う。死というものは大変象徴的なことだが、ほかにも友達とけんかをして泣かされるという経験も初めてだと思うし、サトイモを植えるなんていう経験も、たぶん初めて幼稚園で体験するのだと思う。そういう初めて子どもたちが出合ういろいろな事象を、どうその子どもの中に落とし込んでいくかというのが、幼稚園のとても大きな役割だと思う。そんな観点からも議論を進めていただけたらと思う。
教育力というのはいろいろあると思うが、知的な面、心情面、意欲、そういったいろいろなところから議論していっていただければと考えている。
○先ほどリテラシー、その他出てきたが、文字、特に仮名文字の読み書きについては、国立国語研究所のほうで、大規模な調査があって、過去40年間で2年間ぐらい読みが早くなっていると思う。40〜50年前だと、恐らく1年生に入っている子で平仮名を読めない子のほうがやや多いぐらいだったと思うが、今は、時々間違えるにしても大体は読めるだろう。大きな時代の変化がある。
それから、国際比較してみても、日本の幼児から1年生、2年生ぐらいの読みはかなり早い。いろいろな説もあるが、大きな理由はたぶん二つあって、一つは日本の仮名文字というのが発音と近いので、やさしいということがあって、これはアルファベットを使っている国は、共通してなかなか難しい。もう一つ難しい国は中国で、中国の一部や台湾では補助文字を使っているが、中国自体は漢字だから、なかなか難しいということで、世界的に言うと、導入期のリテラシー教育が比較的有利なのが日本と韓国だろうと思う。
もう一つの特に時代的変化の大きな背景は、絵本の普及等だと思う。日本の社会ほど絵本が多い国はなくて、欧米以上に多い。それから、恐らくほとんどの幼稚園に、例えば絵本の専用の部屋があるとか、保育室ごとにも絵本があるとか、あるいは毎月幼稚園を通して絵本がかなり安い値段で配付されているとか、こういう国はほかにない。また、3、4歳ぐらいだと、たぶん80%から90%ぐらいは、家庭で寝る前に絵本を読んであげているということが背景にあると思う。
それに対して数のほうは、国際比較調査、あるいは経年調査がないので、明確にはわからないが、小学校の高学年以上の国際比較調査を見ると、日本は少なくとも欧米に比べると早い。そこでも推測されていることの一つは、日本語というのは十進法であるので、欧米の言語の多くは十二進法をベースにしているということの違いがあるのではないかということ。それから、日本の文化の中でも、数を使った遊び、その他が非常に多いので、有利ではないかということ。
ただし、大体この有利さというのは入門期であるので、日本の文字教育でいうと、漢字教育がかなり入ってくる中で、小学校高学年ぐらいで大体欧米と違いはないだろうという議論もある。
では、リテラシー関係は全く問題がないかというのは、また少し別な議論もあって、一つは個人差が当然あるので、平均的によくても、その中で相対的に不利なお子さんがいるかもしれない。それは例えば家庭環境、あるいは地域によっては図書館がない等の不利もあるので、そういった状況は調査として明確ではないが、あり得ると思う。大体、諸外国の研究者が来て、そういう議論をすると、地域差、階層差をもっと見るべきであるという指摘が必ずある。
もちろん知的教育の一部がリテラシーであるので、広い意味での知的教育はまた別なことだとは思うのだが。
○平成10年に中教審の先生方が幼児教育の重要性ということを共通に御認識いただいたという説明があった。厚生労働省と文部科学省の間で施策の、もちろんすり合わせはされていると思うが、全体としての調整が不十分なままに、保育所に対する施策が、エンゼルプラン以降、加速度的に進められて、今日の状況に至っているところに大変大きな問題があろうと考えている。
今日、文部科学省のほうから資料説明があったが、大変結構なことが述べられてきている。しかし、それが末端にいくと、末端の行政でなかなか具体化されない。例えば、幼児教育振興プログラムについても、末端にいくと、行政の方々は全く本気ではない。率直に申して、国のほうでいろいろ言うけれども、予算も何にもつかない、やってられないよというのが、末端の行政の方々の正直な反応である。
残念ながら、いろいろいい方向を出していただいても、具体化しない。その一番の原因が、学校教育の始期としての幼稚園教育の位置づけ ―先ほど、学校教育法の第1条で「……及び幼稚園」という規定のされ方がある。この「及び幼稚園」というのは、その定められた時期のいろいろな事情があって、そうなっているのだということは承知しているが、これはそろそろ学校教育の順序性に従って改めていただきたい。その方向を御検討いただければ、だいぶ空気は変わるのではないかと思っている。
もう1点、前々から気になっているのは、本日もいろいろなところで「就学前教育」という言葉を耳にしたわけだが、幼稚園が学校教育の始期であるならば、当然、幼稚園が就学前教育というのはいささかおかしいのではないか。「就学」の「学」が「小学校」の「学」だと言うならそれはそうかもしれないが、そのように感じて就学前教育という言葉を受け取っている国民はほとんどいないと思う。すなわち、幼稚園教育を学校教育以前のものとして受けとめているがために、末端の行政にいくと、せっかく中教審あるいは文科省で優れた方向を出しても、それが生きてこない、こういう状況にあるのではないかと思う。
それから、もう1点、幼児教育の大切さというのは、これは固有の問題であろうと思う。今日、少子化が言われており、その少子化対策がいろいろ言われている。これも大切なことだと思う。しかし、ここを幼児教育の固有の大切さということと、少子化対策とをごちゃまぜにして話を進めてしまうと、子どもの権利の観点、子どもの利益の観点が大変見えづらくなってしまう。両方大切なことだということはよくわかるが、やはりまず幼児教育の固有の重要性という観点から、ぜひ議論を深めていただきたい。
家庭の教育力の低下と言われているが、少なくとも幼稚園のお母さん方、お父さん方は、潜在的な力としてはきちんと持っておられる。いろいろアンケートをしても、自覚的に自らの責任で子どもを育てようとする気持ちは強く持っている。ただ、そのやり方、方法がなかなか伝わらない。そこら辺がこれからの幼稚園教育の一つの課題だと思うが、潜在的な力はまだまだ持っているので、家庭の教育力が低下したというならば、我々はぜひそれを復活させる方向性を一緒に考えさせていただきたい。
○「地方自治体」を「痴呆性老人」の「痴呆」を書いてきた人がいる。本当に地方自治体は「痴呆性老人」の「痴呆」を書くような状態だった。
ところが、ここ5年ぐらい前から地方分権が進んで、目覚めてきた、立ち上がった自治体もたくさん出てきた。
地方自治体の市町村長たちが、現時点で一番関心のあるのは合併論であり、何と2番目は教育問題である。それは文部科学省が、ゆとりとは何か、学力とは何かという国民的なテーマを投げかけ、教育問題に対しては国民的な議論がなされてきた。とてもいい傾向だと思っている。
住民というのは、ちょっと刺激的な言葉とか、考えを投げかけるとそれに反応してくる。それが広がって相乗効果を生んで、議論が始まると思う。今回の目的とされる子どもを育てることはどういうことか、教育と保育はどういうことかというテーマをポーンと投げかけられると反応してくると思う。そのプロセスを重要視したい。
今回、文部科学省として、教育ということはどういうことかということを、就学前の5歳児をどうするかというテーマで、きちんと投げかけていただくことは非常にいいことだと思っている。
私は福祉という切り口で、少子高齢化対策も、それからその範囲で教育もぐちゃまぜにやっていることは、実に危ういなという気がしている。やはり教育という切り口で子育てをきちんと論理的な国民に投げかけていただきたい。
○私どもは逆に言うと、末端だからできることをしようということで、親の立場、子どもの立場に立てば、保育園も、幼稚園も、国立も、私立も、市立も、あまり変わらないということで、幼児教育センターという構想と保育支援センターという構想を二つまとめて、幼稚園と保育園の共同機構、それから国立、公立、私立の共同機構、さらには子育て教育のためには教育と福祉と医療、この三位一体で子育て支援センターを4年前に開館した。そこが中心になって共同で幼稚園も保育園も含めて、教員研修をやろう、子育て相談をしよう、あるいは小・幼、小・保の連携の取組をやろうと、これは逆に言ったら末端であればこそできるということで始めている。そして、子育て相談もやっていこう。相談、研究、研修、情報発信、四つのことを三つの垣根を越えてやっていこう。
そうなると、非常にお金もかかるのだが、都道府県との関係が消える。その辺も含めて、新たな行政体制の在り方ということも議論の対象に含めていただいたらありがたいと思うが、そのときになると、どうしても仕事が末端のほうに回ってくる。そして、お金が回ってこなければまた困る話であるので、もう少しスケールの大きいことも考えつつ、現実も考えなければいけない、と感じながら今日の話を聞かせていただいた。
○幼稚園を修了した後、次のステップである小学校に上がったときに、その小学校の先生というのは、その子どもが幼稚園で教育を受けてきたのか、保育所から来たのかというのは、実際のところ現場でわかるものなのかというのが、いつも疑問に思っている。
どのような教育を受けてきたかということをその小学校の先生が御存じなければ、幼稚園から来たのか、保育所から来たのか、また、ほかのところから来たのかというのは全然わからないと思う。
幼稚園と小学校の連携の問題がよく議論になっているが、いつも送り出す幼稚園側のことばかりあって、実際には小学校の先生方が受け入れる体制をどのように整えられえているかということが資料としてはないので、そういうところも話を伺えたらと思っている。
○データは少ないが、小学校1年生の先生がどのように受けとめているのかというデータがある。1学期間はどこから来たのかというので、生活態度に違いがあるとおっしゃっているが、その後は小学校の先生が教育力を発揮するので、大体1学期末にはどこから来たか全く関係なく、一つの学級集団を形成するという報告が出されている。
○これは例になるかどうかわからないが、幼・小の連携を研究している小学校の先生で、4年生の担任の先生がおっしゃったことだが、学習に対して貪欲である、意欲的である子どもが、幼児期にどういった経験をしているかというようなことをおっしゃったことがあって、幼稚園では繰り返し遊びを楽しむとか、繰り返し挑戦するとか、その繰り返す部分をとても大切にしている。繰り返し行うことによって、学びが深くなり、意欲的になるということが、小学校でも見られる。だから、幼児期にそういう体験をたくさんしながら、わからなかったことをクリアしたり、試行錯誤しながらやったりという体験が、必ず小学校のそういった態度につながっているという話があった。
○小学校1、2年から学級崩壊が始まるということは、現実に耳にしだしている。それは内容を知れば知るほど、非常に大変だなという感じがするので、その問題は意識の中に入れておかなければいけないと思っているのだが、それが幼・保の問題と関係があるのかどうか、いろいろと十分に研究して、ここで5歳児教育を提言とするとなれば、そのことが少なくともそういうことには役立つようなことにつながるといいと思っている。
○ニュージーランドは厚生労働省のような福祉部門の保育所を全部、教育の所管にして、トータルで子どもの育ちを見るということで、改革が行われていた。
また、スウェーデンも、保育を福祉というよりは教育ということで所管をそろえ、保育所の先生と学校の先生の連携をとるという事例などもあった。就学前というか、学校前と学校をつなぐための特別なクラスを設けて、そこの移行をうまく実験的にやっているという事例なども見させてもらい、いろいろ見る中で、日本の幼児教育にない部分もいろいろあるかなと思っている。
1点、私の一番メインの関心事について最初にお話ししておきたいと思うのだが、まさに私の世代が今、いろいろ問題を起こしている、少子化だったり、親の教育力がないと言われている世代なわけだが、その中で、親が置かれている環境をもう少し議論してほしい。
ニュージーランドで見た事例は、親が幼児教育をきっかけに学んでいくという、親の生涯教育と子どもの幼児教育をドッキングした考え方があって、それが非常に新鮮だったということがある。今、そのプレイセンターというニュージーランドの施設については、日本でも少しできないかということで、ボランティアのようなことでもやっているのだが、親の立場として支援されるということは、いろいろ議論されているけれども、親自身がどう育っていくかということを、もっと幼児教育の議論でやってほしいと思っている。ニュージーランドの前首相の女性の方は、そのプレイセンターで子どもを育てながら学んだことをきっかけに政治活動に入って、首相もされている。女性の一つのライフコースを考える上でも、幼児教育というのは重要な位置を占めているのではないかと思っている。
○諸外国の例は確かに参考になる。フランスのエコールマテルネルなんかは一つの参考として我々は勉強しておく必要があるかと思っている。
○これからの審議だが、枠組みをどうするかというのを、今の段階でなくて、考えていく必要がある。つまり、議論の土俵というものであるが、現行制度のもとでの幼稚園教育自体の問題。世の中が変わっているわけだから、そこのところの議論と、同時にそれは中身の問題であり、教職員の問題でもあり、環境の問題でもある。その問題と、さっきから出ているように保育所との関係は、優れて行政的解決を必要とする問題だろうと思う。
もう一つは、これはどうも本舞台ではないようだが、先ほどの就学年齢、小学校教育の就学年齢を下げる、あるいは例外的に弾力的に下げるという議論との絡み。さらに、先ほどからあるように、どうも幼稚園教育というのは、本来、学校教育の中で最も地域に密着していなければならないのが、いろいろな作用が都道府県段階で行われていることが多い。特に私立の幼稚園の場合には、市町村はほとんど権限がないということから考えて、今の私学行政一般論でもって幼稚園教育を考えていいのかどうかといったような問題もあるのではないかと思う。ただ、そこまで手を広げると、この部会としては大変になるので、もちろん議論は議論として、メインの舞台をどこに設定していくのかという整理がある段階では必要になってくるのではないか。