(外国語専門部会における審議の状況について)
中嶋委員及び事務局より外国語専門部会における審議の状況について報告が行われ,その後,自由討議が行われた。
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英語の時間を導入することは,国語の時間を減らすということではなくて,国語も英語も含めた言語教育全体が拡充されていくと理解する方がよいのではないか。
その上で,週1時間程度が最終的な1つの案として提示されているが,2時間程度の方がよいと思う。義務教育全体としての英語教育が,将来的にすべての国民が国際的に活躍できる高度な英語力を持つレベルを直接目指すのではなく,高度な英語教育が高等学校,大学,あるいは社会で行われるときに,そこにどの国民も参加できるような基礎的な英語力を育てるべきである。
つまり,この程度の時間ですべての国民が自然に国際的に活躍できる力が育つわけではなく,かなり限定的な目標ではないかと思う。小学校高学年において,領域又は総合的な学習の時間として位置付けるとあり,これは外国語専門部会としての結論であるが,これは領域として位置付けるべきではないか。
この報告において,小学校における英語教育が,目標,内容が大まかではあるが,具体的に提示されている。それを全国共通に示していくためには,総合的な学習の時間だと,今までの在り方とかなり矛盾が起きる。つまり,総合的な学習の時間は基本的には学校にかなりのところを任せて,目標や内容はあまり国として学習指導要領上は示さないということなので,領域として独立させた方が適当である。
また,条件整備が強調されて,基本的には国が責任を持って,教材あるいは指導者,学校の先生方の研修を順次行うという決意が示されているのは理解したが,それを可能にするためにも,総合的な学習の時間ではなく,領域にすべきではないか。
様々な教育課題が総合的な学習の時間の中には含まれている中で,その1つとして総合的な学習の時間の中に置くのであれば,しかるべき予算のもとで全国共通に国が責任を持って教材等の開発を行うという論理が成り立たない。領域として国が責任を持って実施すべきだと考える。
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2つの理由で反対である。
1つは,現状では,既に93パーセント以上の学校が総合的な学習の時間などで導入をしている。しかし,実際には外国語教育ではなく,国際理解教育として行う学校が多い。6年生で13パーセントぐらいの外国人が入っているということについても,これは学期に一遍か二遍の外国語の授業をするぐらいだから,必ずしもこの数字のとおり外国語教育が日本のほとんどの小学校で行われているとは信じがたい。
総合的学習の時間は,先ほどの発言のように,各学校が,地域や,学校,教師の実態を踏まえて,そのねらいを受けて行っているわけだから,国が一律に外国語教育を行うというねらいで行っているわけではない。例えばブラジルや中国からの人が多いということであれば,それぞれの実態に合わせた形で外国語教育を行っていると思う。いわゆるその目的がその地域によってはっきりしていて,実態に合った形で行われているのが総合的な学習の時間の中で行われる外国語教育,あるいは国際理解教育なのではないか。
そういう意味では,実態に合っている教育であるから,総合的な学習の時間の中で入れるとなると,これはおかしなことになる。今までの総合的学習を全部覆してやらなければならなくなる。今回,英語として導入をする必要性があるのかないのかがまだはっきりしない。
1時間程度の英語を導入して,果たしてどの程度の感覚が磨けるのかということがある。
そして,その柔軟な対応力,感性というときに,先ほど例の中にI like apple だとか,I want 何とかということがあったけれども,この程度の英語であれば,何も感性や対応力がどうとかという適応力の問題は関係ない。
私はかつて数週間海外に行ったときに,ある外国人が「almost here」と言った。この言葉に感動した。日本語だったら「もうすぐだよ」と言うけれども,「almost here」,「ほとんど近いよ」と。こういう言い方は日本にはない。それがまさに柔軟な適応力の必要な4年生ぐらいのときに私は必要なことではないかと思う。リンゴが好きだとか何だとかというのは,This is a pen と少しも変わらない。それが1つ反対の理由である。
もう1つ,条件整備の問題である。先ほどから,条件整備が必須という話が出ているが,義務教育費の国庫負担金が3分の1になり,12月24日の閣議決定で総人件費が抑制をされるという問題もある。あるいは,教員の給与に関わる法令の見直しもある。そういう中で,果たしてこの英語教育について,必須だと言われている条件整備が可能なのか。教材整備ができるのかということになると実際は難しいのではないか。結局は,学校や教師の研修に頼る形,これはかつて総合的な学習の時間を導入するとき条件整備が十分でなかったため,総合的な学習の時間に対する批判が出たのと同じことになる。英語教育も条件整備なしでやれば,学校教育や教師に対して批判が出る。小学校の教師は小学校英語の免許状は持っていない。それでもやるとなればやるが,そんなにすぐにできるものではない。そうした条件整備の問題を含め,私は反対をしたい。もっと小学校教育で基礎学力,国語,算数,あるいは体力など優先的にやらなければならないことがあるのではないか。導入の必要性もわかるが,もっとそれ以上にやることがあるのではないか。そして,感性の適応力が豊かな小学生にやるというのならば,5,6年生ではなくて,3,4年生までにしっかりとやる。週に5時間とか,そのくらいのことをやらなければ,その時期に必要な感性を伸ばすことは難しいのではないかと思っている。
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どちらかというと小学校への導入は反対である。これから何年間かの間,英語が世界的に必要な社会になることは間違いない。その中で日本人が英語を聞いたり,話したり,読むことが大切であり,必要になる。それに対応する日本人になっていかねばならないということは間違いない。しかし,そのために小学校から英語教育を導入する必要があるのか。中学校からではなぜいけないのか。中学校において,特に聞いたり,話したりすることを重点的にやることの方が必要であり,まず先にやるべきことである。そこをきちっとやれば,相当のことができるのではないかと思う。何かをやれば必ず別なところは引っ込めなくてはならないわけであり,先ほどの話のように,英語教育を小学校で導入すれば,大変なエネルギーや予算が必要となり,必ずどこかでその分削減することを考えねばならない。そういう状況の中で小学校に英語教育を導入するということはどうかと思う。
それから,英語を考えると日本語力の理解が深まるということについては,非常に難しいことであり,簡単には結論は出てこないだろうと思う。私たちの20代に比べれば,今の人ははるかに英語はうまくなっている。話すことも聞くことも上手になっている。しかし,日本語力は惨憺たるものである。英語を勉強して日本語力が向上するのであれば,昭和20年代,30年代より今の人のほうがずっと日本語力があってしかるべきであり,日本語についてよい感性を持っているべきであろうと思う。そう簡単に結論を出すことではないと思う。
簡単に言えば,中学校段階から聞いたり何かすることを精力的に,また,重点を置いて本気でやることの方が,小学校で導入するより急務ではないか。
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中学校からの充実を図って,まず,小学校では課外授業のような形で自治体が学校を使いながら自由参加の授業をやっていくということに賛成であった。しかし,これだけ賛否両論がいろいろ出ている中で,今回の報告の形での導入は,ある意味では,妥当な線ではないかと思う。問題は,高学年の週1時間というわずかな時間をいかに有効に使うかである。
いろいろな指導の方針などが出ているが,小学校段階で導入するのであれば,これから外国語を学ぶ時の基本的な態度の育成を重視すべきではないか。
具体的には,音声の違いについて,意識して聞いたり,自分で発音をしたりすることを重視すべきである。ところが,今,学校での試験的な導入を見ていると,そういうことを気にさせない方がよいという指導が結構多い。もし導入するのであれば,そうした音声に気をつけながら学ぶことが,中学校にもつながる英語の素地ではないかと思う。
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導入には賛成である。まず,現状,初等中等教育の状況として,財政難になると,公教育で,まず最初に,帰国生徒の受け入れをカットするということを行う。だから,英語の時間を高学年で1時間でも置くことで,このことが改善されるのではないか。
また,予算の問題として,いろいろな事情で削減されることはやむを得ないが,削減されるのを防ぐ方法としては,重要な教育はやっぱりやらなければならない。新しいことで,やらなければならないことについては,積極的に打ち出していくべきであるし,世論に訴えるべきだと思う。地方分権の時代でも国がやる仕事はある。その典型的な例として,今の帰国生徒の問題がある。これは国が積極的に指導していくべきである。
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外国語教育,特に英語教育は,従来から中・高・大学という教育が行われてきたが,全体的に考えると,我々の世代でも,そういう英語教育について果たして社会に出て外国人とコミュニケーションできるだけの英語力がついたかというと,そうでなかったという反省がある。そういう点から,特に前々回の学習指導要領の改訂からは,従来の読み書きから,聞くこと,話すことに重点を置いたコミュニケーション能力の育成をかなり重視するようになってきて,中・高ではそういう教育内容に変化してきている。そういう意味で,若い人たちがかなり英語に親しみを持ってきているのではないかと思うが,今回の外国語専門部会の報告は,確かに小学校における外国語教育を導入する場合のメリット,デメリットを一応網羅して,問題点等も指摘してあるので,評価している。
そこで,小学校の英語教育の実態を見て,その総合的な学習の時間の国際理解教育の中での英語教育が,簡単なあいさつや,スキットとか,音楽とか,そういうもので取り組まれてきている実態が先ほど報告されたとおりだと思う。残念ながらその場合にはできるだけALT,ネイティブスピーカーによって,英語の音声,ヒアリング,耳と発音というものを十分慣れさせるという方向が一番好ましいのではないかとされていたのであり、今の総合的な学習の時間等で行われる英語教育は,果たして本当に期待された成果になっているかということを強く疑問に思っている。むしろネイティブスピーカーの英語を聞くことによって,耳と発音を習うという音声を小学校段階で十分やるということが一番必要なことではないか。コミュニケーション能力を高めることに偏りすぎると,中学校との英語教育との差はどうなのかという問題が生じる。小学校段階に英語教育を導入することに対して,過度の期待を求めるというのはどうかと思う。
そういう意味では,前提条件として条件整備が必要である。小学校段階で英語教育を実施する場合には,その教育内容について,専門的に十分研究をし,義務教育として全国一律の教育内容として必要なものを国として定めるべきである。また指導者についても,小学校の先生はもともと英語は専門ではないから,研修を行っても,効果が低いと考えられるため,ALTなどの活用をもっと積極的にするべきである。現在,ALTはわずか6,000人しか入っていないから,中・高が中心で,小学校へ行っても,確かに1学期に1回か2回来る,そこもALTが入っているという統計になっていると思うので,その辺の条件整備をやはり十分考えながら,この問題についてはさらに検討していくか必要があるのではないかと思う。
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小学校段階での英語教育の導入に当たり,授業時間数をどうするかという問題がある。国語教育やものづくり教育,安全教育など増やさなければならないと考えられる教育との関係で英語教育の総枠をどうするかということをよく考える必要がある。
参考資料の2-2について,よいことばかりでなく,他の学校も参考になるような課題についても分析すべきある。
日本の英語教育を今後どうしていくかということと関連して,教科書に関しても全面的に考え直す必要があるのではないか。
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資料2-1について,9ページまでは,導入しなくてはならない必然性みたいな経過報告になっている。10ページから13ページについて,カリキュラムを領域で導入するということに対して賛成である。14ページから17ページにある条件整備が問題ではないか。先程の意見にもあったが,例えば,小学校で柔軟な応用力を生かすときに最も大事なことは,耳である。現状では,これを担任が行っている。本当に子どもたちに英語教育を行っていくには,この現状をどうしていくのかを考えなければならない。
中学校,高等学校,あるいは大学でもやっているが,リヴィング・イングリッシュは,ほとんどできておらず,そのような教育を受けた者が,学校の教員となり,その教員から教えてもらうとしたら非常に厳しい。
2番目の理由だが,グローバル化,あるいは国際化という条件の中で,日本でもやっていかなくてはならない。EUなら二カ国語やっているように,理想的には,やはり英語だけではなくて,英語プラス1という形でやるというのが将来の語学のあり方ではないかと思う。しかし,そうであれば,条件整備をどうしていくのかということが大事になってくる。
例えば,今の小学校で行われている英語について,高学年では,できそうな感じでやっていたが,中学に入ったら,また同じものをやり,それが嫌になって勉強しなくなって英語が嫌いになるということでは,逆効果になる。導入していく場合には接続の問題等を含めて考えていかなければならない。
条件整備として,例えば17ページの大学における小学校教員養成課程における英語教育について,本当に国として小学校の段階から英語を導入するならば,英語の教諭を特化して養成してはどうか。きちんと養成して,養成した前提の中で配置していく。ALTの状況を見ると,都合が悪くて来ないこともあり,そうすると,この学校のカリキュラムは計画どおりできなくなる。また,ボランティアがやっているネイティブスピーカーが,どれだけ効果を挙げているというと,なかなかうまくいっていない。
日本人として英語を話せる日本人がより増えるということは極めて理想的であるし,短期間にそれを国としてやらなくてはならない。そうであれば,国としてきちっとした条件整備の対応をする必要がある。
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小学校で,いつか導入するという視点から賛成である。小さいときから耳を慣らすとか,音やリズムに触れるという,基礎体力という意味ではよいのではないかと思う。
また,多角的な刺激を受けるという意味で,学習への興味が喚起されるならばよいと考える。しかし,5年生からという問題について,基礎体力という考えで言えば,低学年から導入したほうがよいのではないか。
5,6年生から中学校の英語の教育との関連性がどの程度つながっているのかが,今の時点では気になっていて,5年生でゲームをやって,中学へ行ったら教科書では全く別のカリキュラムということでは,つながりが悪いと思う。
教員に関して言えば,地域の人や保護者で,いろいろと活用できる知恵を果たすことにより,小学校の先生の負担を減らすことが可能ではないか。
私立の小学校では,いろいろなところで英語の教育が実践されているので,様々な私立の小学校の学習テキストや事例を研究することが必要ではないか。
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授業時間の総枠をどうするかということを議論しないと,この問題の解決は難しい。今後、その点について,教育課程部会で議論していく際には,英語の問題も含めて議論をしていきたい。
英語は聞ければある程度しゃべれると思っているので,聞くことをできるだけ早くから訓練するという考えは支持する。
(全国的な学力調査の具体的な実施方法等に関する中間まとめについて)
梶田委員からの概略の説明の後,事務局から,具体的な実施方法等に関する中間まとめについての報告があり,その後,自由討議が行われた。
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基本的に賛成だが,学力調査という名前を変更したほうがよいのではないか。学力調査というと,親は,本人に調査結果が還元されると思ってしまう。そして,自分の進み具合を比較し,それによってモチベーションが上がるとか,自分の弱いところがわかるということを学力調査という言葉のイメージから受けている。有識者による協力により,今回,中間まとめが出されたという背景や先ほどの説明を聞くと,これは学力調査というよりも教育研究調査とか,学習環境調査の方が適切ではないか。学力調査という名称を直接,個人に落ちてくるような形でなく,総合調査であるという名前に変えたらどうか。
2つ目の提案は,小学校6年生と中学校3年生だけでなく,小学校2年生など,スタート時がどうだったのかということもデータでとっておいて,その上で小学校6年生,中学校3年生という方が成長の度合を知ることができるのでよいのではないか。
3つ目は,分析のスピードではないか。この調査を実施した後,どのぐらいでその結果が反映されるのか。時間がかかりすぎると,子どもも環境も変わってしまうので,これをいかに過去の例にないスピードでデータが還元されていくのかというところが重要ではないか。
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学力調査という呼び方を変えたらどうかという点については,賛成である。教育環境や条件等の調査であれば全員でなくてもよいのではないかと思っていたが,仮にこういう形で行われたときに,目的と実際の取り扱われ方や国民のとらえ方の齟齬がないように,また,過度に序列化等をあおりたてない形にするということは非常に重要だと思っている。
そうした観点から言うと,県単位で国が公表することにどれだけの意味があるのだろうか。県単位で人事権などのまとまりがあるということは,行政側の事情であって,中途半端である。受けとめる側の国民の立場に立ってみた時,結果を県単位で自分が住んでいた県の名前と並行して見ていくことについて,果たしてどういう感覚でとらえるのか。それは単に県別に序列を並べたり,マスコミが県単位に公表して興味本意でそれを書き立てることを恐れるわけであり,その県に住んでいる人が,国民の立場として,自分はどうすべきか,あるいはどういう形で改善に寄与できるのか,子どもに対して何ができるのかということについて,必ずしも関連していない。公表するのであれば,学校単位でなければ,本人,あるいは家族,国民にとって,対応のしようがないと思う。
国が全体で公表するのであれば,教科別,あるいはもっと集団でとらえたいろいろな統計的手法があるのではないか。また,先ほど,スタート時とその後について,調査していく方がよいとの提案について,第1回目のときは,確かにとらえ方は難しいが,重ねていくにつれて,国全体の改善効果が出てくれば,それはよいのではないか。教育委員会や学校や先生が結果をどう使うかということと,公表の問題は別のものとして考えるべきである。
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結果は個別に返却したほうがよい。公表するのは都道府県だが,点数という形では必ずしもなく,できたかどうか,この県では,これができているのは何パーセントとか,あるいは国全体で何パーセント,それとのかかわりで自分はとか,うちの子はということがわかるようにした方がよい。
それから,小学校6年と中学3年で始めるが,これは毎年続けていくことになっているので,その中で,対象学年も検討することとしている。
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調査の性格について,別紙の意義・目的についての欄との対応で,国がやるという観点からすると,ここに書かれている別紙の意義・目的の欄の表現に加えて,国として何らかの条件整備に役立てる,あるいは,資するというのも入ってくるのではないか。その役立たせ方という観点からすると,調査の方法というか,カテゴリーを3つに分けた方がよいのではないか。いわゆる学力検査,テストの部分ばかりが問題にされるが,それと意識調査あるいは質問紙調査は,別である。さらに,事実調査としてデータを例えば学校規模との関係やクラスサイド等々,学校の状況を事実として調べるということがある。このように決してテストだけが問題ではない。相関関係の分析は,そこから先の問題であり,3つの方法をどう一定のねらいのもとで分析に使うかということの中身を指していると思う。
そういう意味で,テストだけではなく,複数の形でやるということを明記していただきたい。そして,それを特にこの意義・目的のところでやはり国として条件整備に資するということもはっきりさせたほうがよいと思う。
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この意義や目的について,PDCAというのが出ているが,Aが出てきたというのは,条件整備の意味を含めてだと思う。
ただ,PができているかどうかということであまりにもCを強くすると,逆に国が定めた学習指導要領がすべてだという形になって,教育内容の統制につながっていくという危惧もある。だから,この部分については,学習指導要領と,現場におけるDoの部分を極めて尊重した形で物事を考えていかなくてはならないと思う。
だから,例えば学校でも教科の指導は,子どもたち一人一人に対して評価しているわけだから,そうしたことを考慮すると,国が定めた学習指導要領がどう生かされているかというような,短絡した感じで行くと,これは教育内容の画一化につながり,創意工夫のある教育の推進を除外する可能性がある。この点は十分気をつけておく必要がある。
全国的な規模について,新聞報道で,ある市では,結論かどうかわからないが,参加しないらしいことになっている。これは質問だが,その点について,きちんとした一定の考えがあるかどうか教えてほしい。
それから,テストの傾向として,学力をどう捉えるかという部分がある。例えばイギリスの捉え方でなくてフィンランドや,あるいはPISAや,TIMSSで捉えているような学力により1つのテストの形式もやっていくのであれば,テストの傾向をどうするかという部分は大きな問題になってくるだろうと思う。
また,6ページの教育課程実施状況調査との関係はどうなのか。
それから,今,各自治体がいろいろな形でテストをやっている。学校も,担任もテストする。そうすると,教職員や子どもたちへの負担がどうなっているのかということもあるので,そのことにかかわり,今,2学年という形になっているが,これを悉皆にしてよいのかどうか,もっと子どもたちや教職員の負担を減らしていく方向も非常に大事ではないか。
教科については,先ほどの意見のように,増やしていくとか,減らしていくなど,いろいろあると思う。
12ページの公表の仕方として,(2)に学校間の序列や格差,過度の競争にならないように十分配慮するとあるが,実際にどうなるのかということが心配である。
かつての学力テストも公表しないことを前提にしていたが,結局,序列化などのいろいろな問題が起こった。もしそのような問題が起こり,必ずしも望ましい形ではないということであれば,中止することも視野に入れる必要があるのではないか。
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ただいまの質問の中の,全国学力調査に参加しないという新聞報道のあったある市のことについて,当該市に確認したが,今の段階で全国学力調査に不参加を決定したわけではないという回答をいただいている。
この学力調査に対する懸念等に対する様々な懸念をいただいたが,それについては,これから専門家検討会議の最終報告が出た後に,実際に実施要領等を作成していく。調査の趣旨については,十分各都道府県,市町村などに説明して,参加について理解していただくよう考えているところである。 |