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教育課程部会(第34回) 議事録

1.日時

平成17年12月12日(月曜日) 9時30分~11時30分

2.場所

丸の内東京會舘 「シルバールーム」

3.議題

  1. 「これまでの審議の整理」に盛り込む項目について
  2. その他

4.出席者

委員

 木村部会長、梶田副部会長、阿刀田委員、安彦委員、荒瀬委員、石井委員、市川委員、井上委員、宇佐美委員、陰山委員、加藤委員、田村委員、角田委員、渡久山委員、中嶋委員、無藤委員

文部科学省

 結城事務次官、近藤文部科学審議官、銭谷初等中等教育局長、板東官房審議官、布村初等中等教育担当審議官、常盤教育課程課長、合田教育課程企画室長、井上教育課程企画室長補佐、吉冨教育官、石塚教育官、瀧本特別支援教育課長、根本主任視学官、大杉視学官、田中視学官、吉野視学官、宍戸視学官、板良敷視学官、廣瀬視学官、平田視学官
国立教育政策研究所
 惣脇教育課程研究センター長

オブザーバー

 鳥居会長

5.議事録

(1)事務局より資料について説明の後、これからの高等学校教育の在り方について自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。(○=委員)

委員
 資料4の9ページの「イメージ案:改良版」は、前回、前々回に、「豊かな心」や「確かな学力」、「健やかな体」が入って実社会、実生活につながりも出て、少しずつ改善されてきている。このイメージ案は学習指導要領の骨子で、内容は指導内容が中心になっているので、社会・家庭・学校の関係が見えてこない。実社会・実生活は、学校教育が終了してから出てくるものではなく、実社会が子どもの周りをすべて囲んでおり、その中にある家庭と学校の関連が1つの重要なポイントになる。
 資料4の3ページに、学校・家庭・地域社会の関係に関する記述が随所に出てくる。例えば「子どもたちの社会的自立」が真ん中にあり、その右側に、「子どもたちが社会に参画するための人間力を育てるとともに、社会が教育に参画する枠組みを形成するという社会と学校の双方向の関係を構築する必要があるのではないか」という指摘がある。つまり学校と社会との双方向が見えるようにしていく必要がある。
 4ページ(4)の「学習指導要領全体の見直しの視点」に関して、「教育と社会との連携は学校教育だけの問題ではない」という指摘、また、家庭や社会において「早寝・早起き・朝ご飯などしっかりとした生活習慣を習得させることが重要である」との指摘がある。さらに、7ページにも学校、地域、家庭に関連した記述がある。今の学校教育の課題を解決していくためには、学校と家庭や地域社会が連携することが前提となっていることを明確にしないと、学校が全部背負い込むような形の学習指導要領の示し方になる。学習指導要領総則に、学校と家庭と地域社会との関わりをきちんと表し、その上で学校がやるべき内容は何か、家庭や地域社会との連携ではどういうものが必要なのかということを明らかにしていく枠組みづくりが必要ではないか。

委員
 9ページのイメージ案は、「生きる力」の育成を目指す教育内容・目標の構造イメージ(案)となっており、学習指導要領の骨子といえるものである。そういうことで、今のご指摘を取り入れるのは非常に難しく、別立てにしたり、学習指導要領総則に入れるような工夫をする必要があろうかと思う。

委員
 9ページのイメージ案に関して、「豊かな心」と「確かな学力」、「健やかな体」という分け方は必要かつわかりやすい分け方であると思うが、「豊かな心」と「確かな学力」のつながりや、「確かな学力」の基盤として「豊かな心」があることを、本文のどこかに入れてほしい。具体的には、「「生きる力」の主要例(案)」で言えば、主体性・自律性の1自己理解、自己責任がすべての学習の基盤であると思うが、それは「豊かな心」に関連付けられ、「豊かな心」の自尊・自律(例)には、「学びや生活の目標を立て、その実現のために忍耐力を持って粘り強く取り組む」とある。そういう意味では、「豊かな心」が「確かな学力」のベースだということを強調した方がよいと思う。私だけでなく諸外国の研究者なども、日本の学校教育の非常によいところは、豊かな心と言われている部分が学力形成とつながっていて、それが学級指導の中で実現されていることであると述べている。

委員
 まず1点目は、資料3の2ページ目の検討課題についてである。
 大臣の諮問には、確かに「社会の形成者としての資質の育成」としか書いていないが、教育基本法や平成17年10月26日の中央教育審議会答申にも示されたように、一人一人の国民の人格形成と国家・社会の形成者としての資質の育成が、教育の目的であることは、現在検討されている教育基本法の改正案においても不易の部分であることから、「1.社会の形成者としての資質の育成」では、観点として狭いのではないか。教育の本来の目的である一人一人の国民の人格形成と、国家・社会の形成者としての資質の育成という観点により、教育課程部会では議論をすることを明記すべきである。2の「2.国民として共通に必要な学習内容の示し方」は、まさに人格形成と国家の形成者としての資質育成のことを言っているのではないか。
 また、人格の形成と関係がある部分としては、3の「1.個性や才能を伸ばす教育の推進」があり、この点も検討課題では明らかにしておく必要がある。この点が、10月26日の答申でははっきり出ているのだが、教育課程部会では全体を通じてあまり明記されていないのは問題ではないか。
 2点目は、学校・家庭・地域社会との関係の在り方だけではなく、それぞれの役割はどういうものかを検討し、明確に示しておく必要があるのではないか。何もかも学校で役割を果たすことは限度があり無理である。そこで、役割分担を行い、その上で学校週5日制などの例も説明があったように、学校・家庭・地域社会の連携協力の在り方の議論をすべきである。

委員
 最初の件については、本部会の報告書をつくる場合、当然、国家・社会の形成者といった表現を入れることになる。

委員
 今、話されたことは非常に基本的な原理、原則のようなものだ。例えば、イメージ案の「社会参画(例)」のところで、国家、社会の形成者という形にしてもよいのではないかと考える。
 それから家庭・学校・地域社会の関係については、例えば学校5日制のところでより具体的に議論してはどうか。
 イメージ案はだんだん整理されてきたと思う。イメージ案では、「人間関係(例)」を養うことは、「「生きる力」の主要例(案)」との関係では、「5.協調性・責任感」につながっているが、5.よりは「7.人間関係形成力」の方が適切ではないか。
 それから「社会参画(例)」は、「「生きる力」の主要例(案)」との関係では、「8.責任・権利・勤労」につながっているのが、「義務」というものが「「生きる力」の主要例(例)」の方にあってもよいのではないか。逆に8.の方には「勤労」が入っているが、非常に大事なことなので、「社会参画(例)」の中にも入れた方がよいのではないか。
 また、「「生きる力」の主要例(例)」の中には、「責任」がいろいろなところに入っているので、きちんと整理した方がよい。
 「確かな学力」のところには、いろいろな知識・技能等の例が出ている。これは各教科の知識・技能の中から抜粋、あるいは要約されているものである。この内容を見ると、小学校の内容、あるいは中学校の内容、小・中学校を通した内容の3つがある。ここをどういう観点で整理するのかをきちんとすべきである。また、内容については、もう少し抽象化していってもよいのではないか。私としては、小・中学校を通して、例えば国語なら国語で、どうあるべきなのかを象徴的に示すことでよいと思う。
 最後に、国際理解や異文化理解については、言葉としてどこかに入れるべきではないか。

委員
 イメージ案の中では、個人がどのように伸びていくのかという方向性について、「「生きる力」の主要例(案)」の「主体性・自律性」に示されているが、そういう前向きな部分以外に、忍耐力やこつこつやるという態度、みんなが一緒にやること、同じことでも繰り返してやっているうちに身に付いてくることなどが重要である。それらは確かな学力のベースになる態度であると考える。
 「確かな学力」では、左側が教科別の「知識・技能等(例)」を表し、右側がすべての教科を通して身に付けていく応用的な力を表していると思う。その中央に矢印があるが、これは左右の対応関係を表したものではなく、すべての教科により右側のものが養成されるのである。対応関係があるかのように誤解が生じないようにするために、確かな学力の中央の部分は少し工夫した方がよいのではないか。

委員
 教育に対する責任が少し学校に偏り過ぎているのではないか。教育は国家戦略ととらえることは、単に学校が国家戦略に則して動いていくことではなく、社会の人たちがそれぞれの立場で、教育に対してどのようなことができるのかを考えることなのである。だから、連携も学校の方から「これをお願いします」と頼むということではなく、子どもたちのために、それぞれがそれぞれの立場で、教育において何をやるべきなのかということを考えるような環境をつくることなのである。その中で学校は何をしなければならないのかという責任が、具体的になってくるのではないか。すると、部活動や生徒指導の問題、問題行動が起こりやすい地域環境の問題、マスコミ等を含めたメディアの問題などが出てくると思う。それらを放置したままにしておけば、学校はどう対応するのかということになり、昔と全然違う状況にある現在、学校の力が尽きてしまうのではないかと思う。
 昨今、義務教育の問題点として、教職員の資質の低下が言われる一方で、ある新聞では教師の自殺が非常に増えていることや、ある都道府県では新任のうち1年もたずにやめていく教職員が100人近くに達していることが報道されている。また、指導主事から聞いた話であるが、一度民間企業に就職して、それでも教育に対する思いを断ち切れず教員になった若者たちですら、1年もたないという現状がある。
 こういう問題について、もう少し突っ込んだことを考えるべきだと思う。

委員
 「健やかな体」はもちろん大事であるが、その前提として、例えば姿勢のよさがある。テレビドラマなどを見ていると、子どもの歩き方や食事のときの姿勢には相当問題があるのではないかと思う。日本人は大人になっても子どもの頃と同じ姿勢で食事をするので、問題ある姿勢で食事をし、外国で持っている能力を過小評価され、自分自身が自信を失うことになる。自尊感情が乏しく、自信を持っている子どもが国際的に見て少ないという指摘は、そういうことと結びついているとも考えられる。
 態度としては、話をするときにきちんと相手の目を見て話すことが重要である。また、振る舞い方や挙措についても、大事な問題である。このことは家庭でも、若い先生にもできない難しいことであると思う。
 日本人が足を引きずって歩くのは、おそらく、日本人が下駄や草履を履くという文化や家庭でスリッパを履くという生活習慣とかなり結びついているのではないか。つまり、足を上げて、かかとからきちんと着地する歩き方をしようしても、げたや草履などを履いているときはそれができない。このような歩き方は体に身についてしまうので、相当注意して直さなければいけない。昔は、歩き方についても軍隊や学校で指導されたが、今はその指導はどこでも行われていない。

委員
 90歳を過ぎてゴルフやっておられる方がたくさんいるが、みなさん姿勢がいい。健康と姿勢のよさとが結びついていることを痛感させられる。
 食事の姿勢について欧米の家庭を見ると、子どものときに相当厳しく注意している。お客様が来られて一緒に食事をすると、お客様が食事を終えるまで、絶対にテーブルから子どもを離さない。この辺が日本と徹底的に違っている。

委員
 資料4の3ページの「教育課程部会や専門部会等におけるこれまでの主な意見」に自信や自尊感情について書かれている。この問題はとても大事で、少な過ぎても困るし、あり過ぎても困ることである。
 大学生が京都で起こした事件の原因は、加害者が自信がないからではなく、歪んでいるからである。加害者は子どもを前にして自己全能感を持ったわけであるが、どうにかなると思ったことが、結局うまくいかなくなり、すり寄っても毛嫌いされることになった。
 この自我肥大や自己全能感の問題が、今非常にたくさんある。若者で問題を起こすのは、自尊感情がないのではなく、むしろ自己全能感があり過ぎるからである。このことを「教育課程部会や専門部会等におけるこれまでの主な意見」に書き込む必要があるのではないか。叱ってばかりではだめで、褒めて育てるという話が一時期あったが、そういうことだけではだめである。バランスがとれていない教育論が多過ぎた。9ページの「豊かな心」の「自尊・自律(例)」に、「自制、自戒の習慣を持つ」など、自制、自戒という言葉をどこかに入れなければいけないのではないか。
 もう1点は、国際性の問題である。自分は人類社会の一員であることを社会科だけでなく、あらゆるところで学習する必要がある。どこかに人類社会の一員であるという気持ちや日本の伝統文化の担い手であるという気持ちをセットにして入れておく必要があるのではないか。これがどこかに入れば、9ページの「豊かな心」の「社会参画(例)」か、「「生きる力」の主要例(案)」の個人と社会との関係に、国際性や日本の伝統の担い手という言葉を明記すべきではないか。

委員
 資料4の6ページ、「イ 思考力・判断力・表現力等の育成」で、「教えて考えさせる教育を基本として、自ら学び自ら考え行動する力を育成すること」は非常に大切だと思う。
 小・中・高等学校が6年、3年、3年に分割されていることから、各校種の初めは全然子どもの状況がわからないまま、一からやり直しているのが現状である。小・中学校、中・高等学校の各校種間において密接な連絡や、書類だけではない教員の交流も含めた交流、連携が必要である。
 高校生を見ていると、よい意味での自尊感情が非常に乏しい生徒、つまり他者にどういうかかわりをしてもらえるかということだけで自分を見つけている生徒が多い。例えば、高等学校1年生で、昼休みの時間に弁当を食べる相手がいないと、自分はこのクラスの中で疎外されていると思ってしまったり、友達がいないことで自信を喪失したりすることが多い。そういう子どもたちに自尊感情をいかに植えつけるかは、幾ら言葉で言っていても無理で、様々な体験をさせる必要がある。
 先日、京都で起きた事件には大変ショックを受けている。この事件は、加害者の、依存することによって自己理解をしているため自分一人では行動することができないという状況が強く表れている。
 若い教員の中には、厳しく指導することによって生徒に嫌われることを極端に忌避する者もいる。このように他者に依存しながら育つことをどう解決するかについて、しっかりと考えていかないといけない。
 その解決の1つの方法として、現在、私の学校ではメディアリテラシーに取り組んでいる。情報を受け取って、考え、判断し、表現するという4つの段階に分け、指導している。この考えるということについては、試行錯誤の部分を非常に大事にしており、いろいろ考え失敗し、その中で他者と相談をしながら、あるいは指導者からの適切なヒントを得ながら、自分なりに判断することを大事にする必要がある。それは時間がかかることだが、それを見守ることが本当のゆとりであると思う。このゆとりは絶対に必要である。基礎・基本は徹底しなければいけないが、その徹底した基礎学力に基づいて、子どもが考えるというプロセスをしっかり持つことが非常に大事である。

委員
 これまで学習指導要領というのは教科単独でしか検討されていない嫌いがあった。しかし、今回は、教育課程部会でも、専門部会でも、各教科には共通した力があるという意見が出てきている。
 それを表現するためにつくられたのが、資料4の9ページのイメージ案である。ただ、これをこのまま出してしまうと、ひとり歩きする可能性がある。「確かな学力」の部分は例示であるとは言っても、学校の先生にこれさえやっておけばよいのだと受け取られると、非常に困った状況になる。
 ゆとりについても、コンセプトは非常によかったが、受け取られ方が違った。資料の出し方は非常に気をつけなくてはいけない。

委員
 各教科を通じて培われる力がある。私は広く子どもたちの学習相談をしているが、その中で、各教科を通じて培っているものは学び方であると思っている。例えば基本的な学習を行うとき、どのようなテキストを使うのか、また、参考書や問題集などでわからないところを誰に質問をするのか、授業中にきちんとノートをとれるのか、定期テストの前にどのような勉強をするのかなどは、各教科で共通して子どもたちに培われていると思っている。この基本にあるのは子どもたちの学習観であり、これは授業や受験勉強を通じて培われている。特に中学校ぐらいになったときに大きな転換期がくると思う。
 小学校の段階は比較的反復習熟を厭わない時期で、勉強も何とかできていたが、中学校、高等学校ぐらいの段階になると、ある程度工夫をし、知識を体系化する学習観を取り入れないと適応できなくなる。その学び方については、「確かな学力」の中にも書くべきである。学び方のレパートリーを広く身に付け、臨機応変に使いこなせる力が大事である。あまり学習の仕方を押しつけるのではなく、少なくともそういう学習の仕方のレパートリーを広げ、使いこなしていける力は、まさに「生きる力」として、実社会に出てからも生涯学習につながる力になることをどこかに入れていただきたい。
 先程、イメージ案からは、社会的なルールやマナーをしっかり身に付けることが見えてこないという話があった。イメージ案の中に、社会的ルールやマナーを入れるとすれば、「「生きる力」の主要例」の個人と社会との関係のあたりでよいのではないか。社会的ルールやマナーは、学校教育の中では、すべての教科等に絡むが、強いて言えば道徳が絡むと思うが、道徳が豊かな心と心の問題だけに集中すると、マナーなど表に現れる行動は扱われなくなる。特別活動、道徳を含めた中で、社会的ルールやマナーを学校教育の中に入れるとすると、どこに入ってくるのかを考える必要があると思う。場合によっては、「豊かな心」の中に特別活動、あるいは何か地域との交流に関することを入れ、その中で社会の大人とかかわりながら、社会的ルールやマナーを身に付けることが入ってくるとよいのではないかと思う。

委員
 学校週5日制に関し、基本的に学校は知の部分を分担すべきだと思う。しかし、日本の学校は何もかも受け取っているような現状であるから、知の部分が成功していないと言われている。また、学校週5日制で時間がないから学校で補習授業を行う状況になっているが、学校週5日制の下での土曜日、日曜日は、学校は全くタッチしないことが原則であってよいと思う。地域が補習授業的なものを行うなど、地域や家庭に子どもたちを返さなければ、地域や家庭は責任を持たなくなる。地域に教育力がない、あるいは家庭に教育力がないと言われているが、逆に言うと学校が抱え込み過ぎているという感じがする。
 現在の学校は教科がそれぞれ独立し、ある意味でばらばらになっている。また、1週間の授業時数はほんとうにタイトになり、何もできないぐらいになっている。いつまでもそのようでよいのかを基本的に考え直すべきである。例えばある外国では、午前中だけ教科を中心にした授業をし、午後はある程度学校の管理下にあっても、社会との連携を生かしていくために学校を地域の指導者に開放している例がある。今後はこれを参考にして、もう少し焦点化して議論をし深めていくべきである。

委員
 資料4の9ページのイメージ案は、二次元で最低限の内容をベースとしているので、すべてを書き込むことは非常に難しいと思う。例えば発達という問題で考えれば、もう1つ縦軸をつくらなければならない。そうすると縦軸の中に、学び方などを示すことができる。この中にすべてを盛り込むことは非常に難しくエッセンスだけになる。
 また、そのような図は非常に便利でわかりやすいが、場合によっては誤解が生じる可能性がある。
 学習指導要領には直接書けないが、学校・家庭・地域はこういうことをしなければいけない、そして、それは発達に合わせるとこのようになっていくのだということを、もう少しわかりやすく補足するような形で書ければと思う。
 14ページ以降の英語教育については、小学校での英語教育は行ってもせいぜい週1時間である。週1時間行うにしても、山間へき地を含め、すべての学校にネイティブを配置するのは不可能なことである。それを教育機器などを活用することで代替することが可能かどうか、また、代替することの是非についても議論する必要がある。
 脳の発達から考えて9歳が臨界期だと聞くが、以上のことから、小学校の義務教育段階で英語教育を必修科目として課すことは、現実問題として難しいのではないか。そうなると、現在のように、総合的な学習の時間の中で国際理解教育の一環として、それぞれの地域の実態に応じて実践するのが妥当であると思う。

委員
 20年ほど前、英国にいたとき、近くの中学校が生涯学習の先進的なプロジェクトの実験校に指定された。いろいろ調べてみて、その学校は学校のデザインから違っていることに気が付いた。生徒たちは金曜日までその学校で勉強するが、土・日曜日については、学校の先生は一切関わらず完全に開放されていた。教育委員会とボランティアに委ねられたコミュニティーのプラザでとして使われていた。このような学校施設の使い方をすれば、あまりたくさんの施設がなくても可能であり、リソースの有効活用の見地からも望ましいと思う。これは非常に先進的なプロジェクトであり、まだその学校は英国の中でも先進校として存在しているようである。そのような取組を日本としても考えていく必要があるのではないか。

(2)特別支援教育を推進する体制の在り方について、事務局より資料に基づく説明の後、教育課程部会の下に特別支援教育専門部会を設置することが了承された。主な発言は以下のとおり。(○=委員、△=事務局)

委員
 特別支援教育専門部会を設けることについては賛成である。委員には特別支援教育の専門の方だけではなく、通常学級を担当している校長や先生も入れていただきたい。特別支援教育は教育現場にとって非常に重い問題であることにご配慮いただきたい。子どもを通級に通わせることや医者と連携することが必要になる。そのことに関し、だれが指示をするのかというと、やはり教育現場が指示をしなければならない。コーディネーターとして機能するだけの人が十分育っていないので、そのことも含めて検討いただきたい。

事務局
 今いただいた意見を踏まえ、具体的な人選を行いたいと思う。

(3)事務局より今後の日程について説明があり、閉会となった。

お問合せ先

初等中等教育局教育課程課教育課程企画室

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)

-- 登録:平成21年以前 --