ここからサイトの主なメニューです

教育課程部会(第29回) 議事録

1.日時

平成17年10月24日(月曜日) 15時~17時

2.場所

丸の内東京會舘 「シルバールーム」(11階)

3.議題

  1. 地方や学校の特色を生かす教育の在り方
  2. 教育課程部会の当面の検討課題について
    ・「基礎・基本」の徹底、自ら学び自ら考える「力」の育成について
    (国語、社会、算数・数学、理科、外国語)
  3. その他

4.出席者

委員

 木村部会長、梶田副部会長、荒瀬委員、石田委員、井上委員、植木委員、宇佐美委員、衛藤委員、田村委員、角田委員、渡久山委員、深谷委員、無藤委員

文部科学省

 結城事務次官、板東大臣官房審議官、山中初等中等教育担当審議官、布村初等中等教育担当審議官、根本主任視学官、常盤教育課程課長、合田教育課程企画室長、井上教育課程企画室長補佐、高口視学官、大杉視学官、宮川視学官、田中視学官、廣瀬視学官、平田視学官
国立教育政策研究所
 惣脇教育課程研究センター長

オブザーバー

 鳥居会長

5.議事録

(1)事務局より資料説明の後、地方や学校の特色を生かす教育の在り方について、自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。(○=委員、□=オブザーバ、△=事務局)

委員
 論点2の1の、教科の内容、時間等については、国の責任としてある最低の学力等を保証していくという観点からいえば、時間を減らすことについての裁量は慎重であるべきだ。基準はある一定以上という方向であるべきだと思う。だから、ある範囲で増やすということについては、学校や教育委員会単位で認めるということは十分考えられる。もちろん、その場合にも、長期休業その他どういう日を使うかは、また別な議論が必要だと思う。
 それから、教科ごとに時間を設定するというのが基本であるべきだと思う。教科というものが、学校教育、特に小・中学校の教育の中心であって、一定の目標・内容を持っているわけだ。それを教える上で、現在、各教科に割り当てられている時間が十分あるなら別だが、決して十分多いとは言えない、ぎりぎりの最低ラインだと思うので、それを増減させるのは難しいのではないか。教科という骨格をいたずらに弱くするというのはよくないのではないかと思う。
 ただ、例えばフィンランドのように、幾つかのかなり類縁の教科について、その間の動きを可能にするような、一種の教科群のような発想というのはあり得ると考える。
 それから、学習内容については、既に発展的な学習というのが可能になっているわけだから、一定の内容以上についてはある程度の裁量をもって進めていく。
 ただ、その場合にも、学習指導要領の到達目標についての議論の中で、到達ラインをどの程度のレベルまでにするかと考えていくときに、1段階で例えば80パーセント程度わかるようにするとか、50パーセント程度にするということもあり得て、その段階を考えていく中で、現在行われている発展的な学習のある部分はかなり吸収されるはずだと思う。そういう意味では、いわゆる発展的学習のすべてを学校の自由判断でやるというのとは、少し意味が変わるところも考える必要があるのではないか。

委員
 国の基準に加えることについて、学校設定科目の開設はできない。減じることについて、研究開発学校以外には、原則として認められていない。教育内容については国が決めている。
 標準時間も国が決めている。1週間の時間を見ると、例えば中学校だったら、5日間で6時間ぐらいとなり、5×6=30の35倍で、大体年間1,050時間となる。それが中学のマキシマムである。そのうち、決められた時間は800時間ぐらいで、残るは200時間ぐらいになる。そのように考えると、学校現場は今、非常に不自由ではないか。
 それに、教科書が非常に寡占化しており、県の特徴というものが必ずしも生きていない教科書もある。だから、地域の文化や伝統、地域の自然を学習しようと思ったら、投げ込み教材や独自の副読本をつくって用いなくてはいけない。しかし、それを取り扱うとすると時間がない。
 そういう意味で言うと、最低基準、最低標準時間をある程度決めて、あとは学校裁量の時間をもっと大幅に増やすことも考えられる。例えば今、総合的な学習の時間はあるが、そういうものを大幅に増やして、それぞれの地域で行うということにしてみたらどうだろうか。
 それから、国語というものは非常に大事だから、低学年で十分行う。社会科あたりは、高学年に行ってから行うというように、教科の時間の配分も小学生の発達段階と興味、あるいは必要に応じて、幾らかフレキシブルに考えられるようにしてはどうか。今は非常に画一的になっているところが多い。

委員
 最近の世論調査の中に、小学校、中学校も指導内容が少ないのではないか、もっと増やしてほしいという結果の出た調査がある。現行の学習指導要領においては、ホワイトヘッドの言葉を使って、教えるべきことは徹底して教えようということで来たが、それでは足りないのではないかということを、世論が今、言い始めている。そのような要望がかなり出てきているとなると、それをどのように捉えたらいいのかということを、現場の教師としては考えざるを得ない。
 小学校理科などでは課題選択がある。例えば、振り子と衝突のどちらかを選び、そのどちらかだけを指導すればよいという単元である。教師はどちらかを選択して指導すればよい、あるいは子どもがどちらかを選択して、教師は両方指導すればよいということになるが、実際には、両方指導しないとなかなかうまくいかない。振り子の原理原則と衝突は同じような考え方だが、やはり違いがあるわけで、そのため現場としては結局両方をやらざるを得ない。負担感が非常に大きかったり、あいまいになってしまうという問題がある。
 課題選択を入れたというのは、理念としてはとてもよかったが、実際にやってみると、時間数の制約の中で難しい問題が起こっている。
 小学校では基礎・基本をきちんと教えるようにする。そして現在、小学校5年生、6年生の場合には945時間あるが、例えば、基礎・基本は800時間ぐらいでできるようにし、あとの145時間は学校の裁量で発展的な学習が可能になるようにしてはどうかと思う。今の世論調査では内容を増やせというが、逆に減らしていきながら、発展の考え方をもっとしっかりと世論に訴えていくことが必要なのではないか。基礎・基本の徹底と言い、その量を増やしていくという傾向がこれから出てくるのではないかと危惧するし、950時間という時間数をこれ以上増やすことはなかなか難しいだろうと思う。だから、むしろ最低限のところをきちんとすべきだという考え方でいきたい。

事務局
 今のお話は、おそらく資料4の10ページのことではないかと思う。インターネットによるアンケートであり、その要素を少し割り引かなければいけないと思うが、学習指導要領について最低基準であるとした場合に、現在定められている内容についてどのように感じるかということを問うており、最低基準であれば、それを明確にした上でもっとレベルを上げるべきであるという回答をされている方が多いという状況である。
 それから、資料4の21ページについては、授業時数を示した表である。
 論点の趣旨としては、980時間の中で、場合によっては時間を増やして、学習の内容をもっと充実すべきではないかというご意見がある一方で、地方分権を進めることや各学校の自立性や裁量を拡大すべきだというご意見の中で、むしろ少し弾力的な取り扱いをする方がいいのではないかという相対する意見もある。この表の時数を増やす、増やさないということは、別途ご議論いただくと思うので、むしろこの表のつくり方についてご意見を賜れればと考え、問題提起している。

委員
 時間数というのは、どこまでを基礎・基本と考えるかによって決まると思う。そして、基礎・基本というのは、発達段階に応じてあるはずだ。小学校全体ではなく、1年、2年のときの基礎・基本がある。例えば、算数などは各学年ごとの基礎・基本があって、前の学年でここまでやっておかなければ次へは行けないというようになっていると思う。そういう基礎・基本を細かく定めることによって、時間数というのが決まるのではないか。
 そのときの時間数は、やはりきちんととらなければならない。だから、これは最低ラインである。基礎・基本ができてからの発展であり、自由だと思う。日本人としてこれだけはやらなければならない、この学年にはここまではやらなければならないということを示すべきだと思う。
 そして、各学校は、各学年ごとにきちんとできているかどうかについて学力調査をする。その結果、できていなければ、もう一遍最初からやり直す。PDSのサイクルはものすごく短くなければならず、1、2週間単位ですぐ見直してやらなければならない。そのためには、やはり基礎・基本が何であるかということを、もう少しわかりやすくしていただきたい。それ以後、学校ごとの自由がある。
 なお、わが市でつくる教育計画というのは、各学校で教科書を教える際に、各単元毎に使用する時間数を少し幅をもたせて定めている。

委員
 教育の再生というのは教員の再生だと思う。突き詰めると教員をどうやって再生させるか、その気にさせるかということだと思う。
 教員ばかりではないが、地方公務員はまだまだ思考停止している。命令されたことはきちんとやっても、自ら発想するということが本当にだめである。マニュアルに書いてあることはやるが、書いていないことはできない。
 このため私は、教員たちが自ら考えるという形をつくっていかないと、いつまでたっても地方には任せられないと思う。今、地方には、任せてくださいと言っているところもあるが、教育のビジョンは少しもない。それでも、それなりに任せて、挑戦させて、苦労させるという面をつくっていかないと、教師たちが自ら考えることをしないのではないかと思う。
 私は、今の日本が少し危ういなと思うのは、多様性が欠けているということだ。市民の方が多様性があるが、公務員の世界が多様性がない。だから、ギャップが広がって、財政的なことよりも、考え方やソフトが批判される。いい教員、優秀な教員をつくるためには、思い切ってそこのところを地方に任せるということが大事ではないか。

委員
 改訂などがいつになるかということがはっきりわからない。そのことは、場合によっては、教育委員会では人事異動に関係することがある。極論になるが、例えば、芸能教科を行うときに、人材や中学校の免許の有無にかかわり人事に関係するのである。
 基礎・基本のほか先ほど出された意見はよくわかるが、どれだけ本当に反映できるのかと思う。例えば、平成19年度と考えると、それほど年数がない。だから、そのことについて確認したい。
 それから、資料3の論点2、2の「市町村教委が…基準を設定する」という問題について、将来はそれを各学校に委ねていってやりたい。ただ、こういうことについて、学校は今まであまりやってきた経験がないので、右往左往してしまうことも起こる。教育課程をつくりなさいといっても、1学年1クラスの小学校と大規模学校とでは、教科において卓越した能力の人材がいるかどうかということに違いがある。
 そういうことからすると、私は、2については、各学校の判断の余地がなくなるという考えもあるが、まずは教育委員会に委ねていけないかと考える。現状を踏まえれば、そういうプロセスをたどって、今から5年後には、力を付けた各学校に任せるということがよいと思う。

事務局
 今の時点でのスケジュールということで決まっているのは、基本的な方向性をこの秋までに出すということで、大臣からお願いさせていただいていることである。その後、その内容を踏まえて、各教科ごとに、あるいは各学校種ごとに、学習指導要領を、具体的にどのように改めていくのかという議論をさせていただくことになるので、今の時点で何年度からということは申し上げられない。現在のところは、大きな枠組みについてご議論いただきたい。

委員
 今のようなご意見をどんどんお出しいただいてよろしいと思う。本部会は今回の審議で終わるわけではないので、すぐにできることと、少し時間がかかることと分けて処理することも可能であろう。

委員
 義務教育を見直すということで、小中一貫校などの試みがあるが、割に評判がいい。ただ、そういうことをやろうとすると、中学で学校で定める教科があって、小学校にないとなると、非常にやりにくくなる。私は、一貫校をつくりたいという希望は、教育委員会からではなくて、各学校から出るべきだろうと思うが、小学校の校長が一貫校としたいと言ったときに、相手の中学校を探していくことを考えた場合、学校で定める教科の問題や授業時数の増減の問題は現場で考えられるよう認めていかない限り、一貫校ができなくなってくる危険があると思う。
 相手校が近所にある場合と、複数の学校が結合して試みる場合があるだろうが、その際、そのことについての自由度がかなり学校に与えられないと、やろうと思ってもできないことになる。
 基本的に、教育委員会ではなくて、学校の現場がそういう新しい取り組みを発想して、試みることができるような仕組みにしておく必要があるのではないか。これはポイントではないかと思う。先ほどご指摘のあったとおり、現場には、現状として、言われたこと以外やらないという習性があるから、思い切った制度改革をやるのであれば、そういうことを前提にして議論を進めていかないと、何も変わらないことになりかねない。

委員
 小中一貫に関連して思い出すのは、中高一貫の議論である。最初の頃は、とてもこんなものはできないという意見が多かったが、二、三人の積極派が幾つかのパターン、つまり、1つの高等学校と複数の中学校を結ぶとかいうようなモデルを示して、情報発信をしていくうちにだんだん事が進んでいった。この経験から、私はやり方次第ではないかと考えている。

委員
 結局、学校教育法施行規則が非常にタイトなのである。それを守るということが学校現場では前提になっているから、学校の自由時間というのはなかなかできない。学校で子どもたちが喜ぶのは、学校行事である。学校行事で授業が全部つぶれる。あれを喜ぶということは、どれくらい学校がタイトになっているかということを示している。
 だから、例えば義務教育特別部会でも、だんだん市町村、あるいは学校での自由度、裁量を増やそうと言っているが、そうであれば、まず最初に、今の学校教育法施行規則を見直すというぐらいやらないと、何を議論しても結論はあまり変わらないのではないか。
 ある市における教育についての話だ。まず最初に、県教育委員会とのけんかから始まったという。そうしたとき、県教育委員会を指導しているのは国だから、悪いのは国である。指導されたら、県はそのとおり忠実に守れという以外言わない。そうすると、市が苦労するようになる。それと同時に、今度は各学校に自由だといっても、規則上の問題も含めて、すぐ自由だという話にはならないと思う。そうであれば、どういうものからやっていくのかということは、議論しないといけない。
 教育内容も時間も全部決められて、指定されて現場におりてくるわけだから、その辺を抜本的に議論させていただければ、非常にありがたい。

委員
 今のご意見にはもっともな点は多いと思うが、私が一つ危惧するのは、義務教育特別部会の報告の中でも、学校教育をインプットとプロセスとアウトカムに分けて、国の役割としてインプットとアウトカムのところに責任を持とうということを押し出したと思うが、そのあたりからの整理は必要だということだ。
 インプットというのは、予算はさることながら、やはり学習指導要領とともに、授業の標準時間のあり方も、大まかには含まれるだろう。それを教科の1時間ごとまで厳密にやるべきかどうかというのはまた議論の余地があるが、国が責任を持つべきところではないかと思う。その上で、プロセスとしての地方、学校に裁量権を大幅に委ねる工夫はたくさんあり得ると思う。
 それから、教科ごとの授業時間をあまり緩めてしまうと、今度は、アウトカム評価が重くなってくる危険もあると思う。非常に極端な話をすれば、ある学校が、理科なり、算数なり、社会科の時間を非常に短くした。それが学校の自由だとすれば、学校のアカウンタビリティとしてはしっかりとアウトカムを出さなければいけないわけで、学力調査その他で証明するということが非常に重くなってくる。
 今はどの学校も、一定の教科ごとの授業をちゃんとやっていれば、ある程度責任を果たしているという意味で、わりと緩やかなアウトカムとなっており、それは決して悪いことではない。そのことで学校の裁量権を確保できるわけだ。学力調査を全国的に導入するのはいいと思うが、それに細かくやらなければいけなくなるというのは、学校の自由を増そうとしているところをある面でかえって縛ってしまうので、インプットとアウトカムのバランスのとり方をよく注意した方がいいのではないかと思う。

委員
 やはり国がやるのは、スタンダードをつくるということだと思う。スタンダードというのは、何を勉強するかという大きな目標や、大まかな内容のほか、時間数もある程度まではやらなければいけないだろう。そして、それがうまくいったかどうかを学力調査その他できちんとチェックして、だめなところは情報として、学校の設置者の方にフィードバックしていかなければいけない。
 ついでに言うと、それをつなぐところはできるだけ地方に任せて、国は口を出さずに金を出すという考え方でいかなければいけない。
 そのときに、スタンダードである程度縛りをかけなければいけないが、その強さ、弱さがあるだろうと思う。例えば、算数・数学や国語は、やはり何時間以上欲しいということがなければいけないだろう。音楽や図工、美術あたりは、教育委員会の判断がかなり入っていいのではないかと考える。
 また、スタンダードの示し方として、基礎・基本と対応した示し方があってもいいのではないか。

(2)事務局より資料説明の後、教育課程部会の当面の検討課題(「基礎・基本」の徹底、自ら学び自ら考える「力」の育成)について、自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。(○=委員、△=事務局)


委員  これまで学習指導要領には、いろいろなところから注文が出されてきた。また、経済界からこういう人間がほしいという要望も多く出されてきた。それは、学習指導要領が、これからの社会にあるべき人間像というものをきちんと打ち出していないからではないかと思う。だから、これまで議論のあった国際化、高齢化、情報化、変化の激しい社会、文化、環境、豊かな感性、共生社会などというキーワードははっきり書かなければならないのではないかと思う。私たちは今、このような社会の中でしっかり生きる人間を必要としているから、こういう学習指導要領になるのだといううたい上げがあれば、その中で生きる力というのは自ずと表れてくることになる。
 資料6のイメージ図については、権利と責任というのは、個人と社会との関係ではないかとか、感性と想像力・鑑賞力というのは主体性ではないかと思うところはあるが、ともかく、「生きる力」とは何なのか、何をもって私たちは「生きる力」を育てなければならないと思っているのかということをはっきりと示し、つまり現代社会に必要とされている人間像を表すべきではないかと考える。
 それから、この図においては、直線的に基礎・基本があって、学校で育んで「生きる力」になるとあるが、そうではないのではないかと思う。各発達段階で生きる力があって、人間というのはその中でスパイラルに大きくなっていくのだと思う。
 例えば、小学校低学年で具体的に、体験的に理解したことは、それがそのときの生きる力だと思う。この土台の上に反復学習、暗唱、暗記などの基礎・基本を一生懸命身に付けたことが、中学年にしてみれば生きる力である。その土台の上に立って、高学年のもっと理論的に表現する力が出てくるためには、どのような基礎・基本が必要かという風に細かく発達段階に応じて基礎・基本というのを表してはどうか。算数・数学でも、数と計算がなければ、次の量と測定はできない。そうすると、それぞれの段階で子どもたちがきちんと身に付けているかどうかということを検証していかないといけない。それが学力調査の役割である。
 それと忘れてはならないのは、こういう学校でやるべきものの基に、学びの姿勢というか、各家庭や社会の中でのいろいろな体験があることだ。このそれぞれの家庭や社会が役割分担として担う部分に、学校が働きかけて、そこの力もアップしていかないといけない。

委員
 今お話のあった、どういう子どものあるべき姿を目指すかということは大事なことである。私の市では、生涯勉強し続ける市民ということでコンセンサスができており、その基本を義務教育に求めている。市民は、市民大学でも会費を払って来ていて、それは年々増えており、よい傾向が出ている。そのことと義務教育をどう結び付けていくかということが我々の課題である。
 イメージ案については、基礎・基本は国家が基準を決めてたたき込んでも、すり込んでもやるべきことだが、生きる力というのは教えられないものである。引っ張り出すものだから、あまり基準を決めず、現場を信頼して任せてほしい。できるだけ細目を決めてほしくない。総合学習をやってくださいと言うぐらいでいい。ここは地域の方が得意だと思う。
 わが市では、子ども大学というものを、市民のボランティアに支えられてやっている。そこで去年、プールの中でいかだをつくらせたことがあったが、夕方5、6時になり帰れと言っても、子どもたちは水の中で遊びたいから帰らない。それが生きる力になる。やめろということをやるのが生きる力だと思う。そういう点について規則として書いたものをつくると、それこそ生きる力を育むことを阻害するようなことになる。
 私は、生きる力というのは結論が出ないことだと思う。だから、基礎・基本と生きる力は別問題であって、別の手法で身に付けさせたり、育んだりしなければいけないと私は思う。
 それから、生きる力で絶対必要なのは宗教心である。これは文科省の盲点で、言及することが難しいが、どこかで議論していかないといけない。
 そういう点では、私学の問題がある。私学を大いに認め、援助していく。それによって多様性というものができる。

委員
 資料6について、一番左側に基礎・基本イコール学習指導要領の内容とあるが、その右側へ来ると、基礎的・基本的な知識・技能とある。学習指導要領の内容と基礎・基本の考え方がごちゃまぜになる可能性はないか。基礎・基本の用語の問題がある。
 それから、確かな学力というのは、基礎・基本的な知識・技能と自ら学び自ら考える力で成り立つという解釈になろうかと思うが、そうだとすると、学力調査はこの両方から調査するのかという問いがくると思う。
 それから、発達段階に応じた指導は、小学校低・中学年と高学年と中学校とあって、論理的にはそのように書けるが、実際はそうではないのではないか。理屈でぴしっと割り切っただけのことではないのか。
 最後に、現在、小中学校を念頭においた議論をしているが、生きる力が実社会へ通じることを考えると、高等学校や大学を飛ばして実社会へ行ってよいのかと思う。

委員
 今、学習指導要領の見直しなどを言われるときには、1つは学力低下の問題をどうするかという点と、どのような子どもたちを育てるか、あるいはどのように学ぶ意欲を育てるかという点がある。
 そういう意味で言うと、資料6の図は、生きる力だけを書いているが、基礎・基本という場合には、確かな学力というものも出していった方がいい。「生きる力・確かな学力」の育成を目指すということに教育内容を普遍化した方がいいと思う。
 そう考えると、出口のところの生きる力の方にも、生きる力と確かな学力というものを入れておく。
 各教科で育むべき力というのは、より多くは確かな学力づくりである。
 それから、発達段階に応じた指導は非常に大事だと思う。先ほど、国は口は出さずに金を出せという話があったが、私は実際には逆になっていると思う。発達段階に応じた指導をするには条件整備が必要である。教員の数を増やし、少人数学級にする、あるいは必要な教育費を出すという条件整備を整えることによって、発達段階に応じた指導ができるようになってくる。
 それから、国際化の問題が焦点として出ていないのではないか。例えば自己と他者の関係の中には集団的な利害調整力というのはあるが、国際理解とか、国際的な協調力などは国際学力調査の場合も一つの能力として出てくるのではないか。この面を補強していく必要があるのではないかと思う。

委員
 条件整備は本当に進めていかなければならない。条件整備が整えば、きっと教育委員会は創造性を高めることができるのではないかと思う。そして、創造性が高まる教育委員会の設置する学校というのは活性化していくのではないかと思う。
 資料6については、非常にまとめにくいものを極めてわかりやすい形でまとめてあると思っている。
 このイメージの中の具体的なことは、実は現場がやるべきことなのではないか。本当は学習指導要領というプランがあって、それを実践していく部分というのは、もっと現場が議論していかなければならないところである。ところが、時間他の制約があって、なかなかできなくなっている。
 そうは言っても、今までの国際学力調査や、実感としての子どもたちの学力の低下を目の前にして、現場にいる者としては、受動的な改革ではなくて、能動的な改革に転じないといけない。その際、資料5、6で示されているようなことについて、もう一度しっかりと考えていかなければならない。
 小中一貫という話が出ていたが、同じ教育委員会が設置している公立の小学校、中学校が、もっと連携する方法はないのかと思う。中高一貫については、現在、さまざまな課題をはらみつつも進められている。中高一貫は、少なくとも高等学校には相当大きなインパクトがある。小中一貫や小・中・高の連携をしてはどうか。
 小学校2校と中学校と高等学校で、学習指導要領の抑えるべきところは抑えつつ、高等学校から要請する中学校教育、高等学校から要請する小学校教育、あるいは高等学校が支援できる中学校教育、小学校教育といったことを考えるということを始める例もある。そういう取組も、小中一貫というものがもう少し強調され、具体化していく中で生まれていくのではないかと思う。

委員
 資料6のイメージ案の中の基礎的・基本的な知識・技能については、やはり各教科で全員共通に指導する内容を十分検討して、基礎・基本が何であるかということを具体的に明示すべきであろうと思う。
 また、自ら学び自ら考える力については、具体的には学習意欲や学習習慣をいかに身に付けるかというのが必要不可欠になってくる。資料には、例として読書習慣だけが書いてあるが、今の子どもたちの実態として、家庭でのテレビの視聴時間やパソコンで遊ぶ時間が非常に多くなっているということを考えると、学校から、読書や暗記する文章等についての宿題を与えることにより、学校外の学習活動を充実させていかないといけない。現在の学校週5日制の中では、自ずから学校における学習意欲や学習習慣を身に付けさせるには限度がある。そういう点で、学校教育と家庭、地域を十分連携させるということがやはり必要で、子どもたちに家庭における学習時間をもっと確保することによって、確かな学力も身についていくのではないかと考えられる。
 それから、「生きる力」というのは生涯学習の時代では非常に大事である。かつて生きる力の前に自己教育力の育成ということが言われていたが、自己教育力だけでは不十分である。イメージ図の「生きる力」の主要例の部分に主体性、自己と他者との関係、個人と社会との関係とあるように、子どもたちが将来社会人として生きる力を総合的に学校教育の中で身に付けさせるという意味で、「生きる力」が言われていると思う。総合的な学習の時間などで、そういうものを身に付けさせていくということは、現在の学習指導要領を生かす意味でも、必要ではないかと思う。
 また、小学校や中学校の学習指導要領の総則では、学校が教育課程を定めて、「生徒に生きる力を育むことを目標に、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する」とあり、学校に創意工夫を求めている。それが、市町村教育委員会で教育課程をきちんと定めてしまうと、学校の創意工夫を働かせる余地がなくなってしまうのではないか。どうしたら学校の創意工夫を生かせるかということも、今後さらに検討していく必要があるのではないかと思う。
 教科と教育内容について、全国的なナショナルスタンダードと一定の教育の到達目標を定めて、その検証をすることによって質の確保を図っていくことが必要になってくるが、授業時間数については、そういう到達目標を達成することができるような教科の括りで、ある程度弾力的に扱った方が、学校現場で創意工夫が生かせるのではないかと考える。

委員
 資料6について、健康という概念がどのように位置づけられ、また、どのように表現されるべきかという観点から申し上げる。
 まず、真ん中の一番下に、健やかな体という「●」があり、1番目の「○」が健康の保持増進となっているが、現在の世界保健機関(WHO)などの考え方で代表的なものは、ヘルスプロモーションとセイフティープロモーションであり、その両者をここに盛り込むべきだ。したがって、健康と安全の促進というのがぴったりくるのではないだろうかと思う。
 なぜなら、例に食事、睡眠、運動とあるが、これはヘルスプロモーションのコアになっている部分だし、身の回りの環境や危険への対処というのは、明らかに安全に関することである。したがって、健康の保持増進というよりは、やはり次の時代を考えた言葉づかいとして、健康と安全の促進というような言い方がよろしい。
 それから、健やかな体という四角があるが、これは知徳体ということでこういう表現になったと説明されたが、しかし一方で、現在の保健体育等の学習指導要領でも、体と心は一体として捉えるというような表現がなされているので、ここは、健やかな心と体という方がふさわしいのではないか。四角の2つ目の「○」はたくましい心身という表現になっていることからも、矛盾はない。
 そして、「生きる力」の主要例の1番目の主体性の中に健康や体力ということが書いてある。そこに大変ふさわしいと思うが、一方で、例えば健康の促進、ヘルスプロモーションということでは、健康をつくると同時に、環境づくり、条件整備といったようなことも大事だということがある。主体性という中で健康というものが表現されていると、みんなで力を合わせて健康を推進していくことや健康なまちづくり、健康な学校といった考え方が少し見えにくくなってしまい、誤解を招く恐れはないかが気になる。

委員
 先ほど小中一貫のお話を申し上げたのは、小中一貫や中高一貫など、多様な仕組みがつくられることで学校が活性化するという意味である。多様性が21世紀のキーワードで、それをいかに実現するかという意味で考えている。
 それから、国際性についてだが、多様性の社会で生きる力ということを考えると、基礎・基本として一番大事なものは、自分のプレゼンテーションである。自分自身をいかに示すかということである。アメリカの場合は、Show & Tellなどの時間が組まれており、高学年では、文章で自分を書くということが教育課程の中に義務づけられている。
 また、その根幹として、やはり自尊感情、自分を大事にすることを位置づけておく必要があるのではないか。これがこれからの社会を生きる子どもたちの生きる力の基本的なものだろう。それを学習指導要領の中に位置づけられないかと思う。

委員
 資料6は、これから学習指導要領の大枠をつくっていく上で大事な土台になる。
 豊かな人間性のところいには、感性の問題を入れておく必要があるのではないか。音楽というのは、古代ギリシャからあらゆる教育の土台に置かれているが、それはここで感受性などを養っておき、その上で論理などを学んでいくというように考えられていたためである。今で言うと、美術教育、音楽教育の問題である。
 それから、人生観というものも入れておく必要があるのではないか。言い換えれば、特定の宗派ではなく、宗教性というものである。日本でも世界でも、宗教的な天才がこれまですばらしい古典を残している。これを学んで、深い人生観をつくっていかないといけない。実社会の後、90歳まで死ねないわけで、そのときに大事なのは、深い人生観を持っているかどうかである。親鸞でも、道元でも、イエスでも、コーランでもいいので、そういう深いものを少しずつ国語の教材として、社会科の教材として、あるいは道徳の教材として入れていかなければいけないのではないか。これは教育改革国民会議でもあった議論だが、宗教性がないと人生を深く生きられないのではないかと私は思う。したがって、豊かな人間性の中に、人生観が欲しい。
 それから、発達段階に応じた指導のところで、例えば討論・実験・表現による思考力育成とか、体験と理論の往復とあるが、もう一つ極めて重要なのが、テキストに没頭して着実に取り組むという力である。やはり教科書をきちんと勉強しないといけないし、参考書もきちんと勉強しないといけない。これら抜きで活動的なことをやり過ぎたために学力が低下しているので、基本的には本を読まないといけない。これを発達段階に応じた指導として捉えたい。
 それから、「自ら学び自ら考える」力の表現を変えることを提案をしたい。
 自らというと、イメージとして自発性と自主性ばかりが出てくる。自主性、自発性を強調することによって、指導の放棄が見られるのではないかという指摘もある。
 子どもたちは一人だけで学ぶのではなく、教育的な関係の中で学ぶのであり、教師が大事である。自ら学ぶ必要があるけれども、その前にやはり、これはどうやって勉強したらいいとか、このことを勉強するのに何を読んだらいいとか、どういうところで何か見つけたらいいとかいうことを、自分で身をかがめて、教えを請うということがなければならない。この「自ら」という言葉を少し慎重に扱ってはどうか。
 一時期、生きる力とは自ら学び自ら考えることであるという矮小化した言い方がはやった。そのような連想が出ると困るので、私の提案としては「積極的に学び、着実に考える」である。

オブザーバ
 これまで続けている議論というのは、「生きる力」を育むというのはどういうことかについての解釈学をやっている。あるいは、自ら学び自ら考える力ということの中身は何なのかについての解釈学をやっている。よく考えてみると、これらの言葉は全部、学習指導要領の総則に出てきている。要するに、私たちがやらなければならないのは、実は学習指導要領をどう構成するかということだと思う。
 学習指導要領の第1章第1の1には、「児童の人間としての調和のとれた育成を目指し、地域や学校の実態及び児童の心身の発達段階や特性を十分考慮し、適切な教育課程を編成する」とあり、文句を言うことはない。
 その次に、「児童に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かし特色ある教育活動を展開する中で、自ら学び自ら考える力の育成を図るとともに」「基礎的、基本的な内容の確実な定着を図り」とあり、「個性を生かす教育の充実に努めなければならない」とある。この言葉の中身は何なのかということは、本日も随分議論した。
 私たちは、このキーワード自体が、これからの時代にずっと続いて、学習指導要領の本当の目標を的確に表す言葉なのかどうかを検討しなければならないし、また、学習指導要領のどこに書けばいいのかも検討しなければならない。そして、その内容として、先ほど来出てきたいろいろな解説を、学習指導要領のどこにちりばめていくのかを一つずつ決めていかなければならない。

委員
 資料6は平成8年の中央教育審議会の答申を具現化したものである。ただ、以前は「自ら学び、自ら考える力」が先に来ていたが、この資料では、「基礎的・基本的な知識・技能」が先に来ている。
 「生きる力」の主要例の具体的な項目については、平成8年の答申とその後の答申で出てきたことを拾い上げてある。
 ということで、この図が今の時代に合うのかどうか、学習指導要領の総則の部分が今後の社会に通用するのかどうかについて、議論をする必要があるのではないか。
 それから、先ほどの意見の中で、基礎的・基本的な知識の内容をきちんと書くべきだという指摘があったが、資料のように具体例が挙げてあるのは、現在の学習指導要領が教科別に書き方がばらばらになっているためである。
 これまで教科ごとにばらばらに議論していたが、今回、各教科の中で共通する項目を挙げたというのは多分初めての試みだと思う。この試みは今後ともぜひ続けていきたい。
 各教科によって表現がばらばらで、各教科横断の横串がほとんどないという状況についての指摘は、専門部会でも既に出ているので、是非専門部会の主査、副主査が全部集まる合同部会を開いてもらい、そのあたりの議論をしてもらいたい。これまでは伝統的に教科ごとに学習指導要領をつくっていた状況があるので、うまくいくかどうかわからないが、一つの試みとして取り組んでほしい。

(3)事務局より今後の日程について説明があり、閉会となった。

お問合せ先

初等中等教育局教育課程課教育課程企画室

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)

-- 登録:平成21年以前 --