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教育課程部会(第27回) 議事録

1.日時

平成17年9月26日(月曜日) 14時~16時

2.場所

フロラシオン青山 2階「芙蓉」

3.議題

  1. 国としての人材育成の在り方
    ・国際的に質の高い教育水準を実現するための手立てについて
    ・科学技術教育、小学校の英語教育などの在り方について
  2. その他

4.出席者

委員

 木村部会長、梶田副部会長、赤田委員、阿刀田委員、安彦委員、荒瀬委員、石田委員、市川委員、井上委員、宇佐美委員、衞藤委員、陰山委員、加藤委員、佐々木委員、田村委員、角田委員、渡久山委員、深谷委員、無藤委員

文部科学省

 結城事務次官、近藤文部科学審議官、銭谷初等中等教育局長、樋口政策評価審議官、板東大臣官房審議官、山中初等中等教育局担当審議官、布村初等中等教育局担当審議官、根本主任視学官、常盤教育課程課長、合田教育課程企画室長、井上教育課程企画室長補佐、廣瀬視学官、菅教科調査官、増子専門官
国立教育政策研究所
 惣脇教育課程研究センター長

5.議事録

(1)事務局より資料について説明の後、国際的に質の高い教育水準を実現するための手立てについて自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。(○=委員、△=事務局)

委員
 説明のあったコンピテンシーというのは、現在企業でどんな力が必要とされるかというときのコアになる部分であって、このようなものが、求められる能力の基本に置かれること自体に全く異議はない。
 日本が現在置かれた国際環境の中で、これからどのように発展していけばいいのかと考えるとき、私は、日本は特にアジアの中で一つの地位を占めていくことが非常に重要になるのではないかと思う。ヨーロッパやアメリカの文化観、宗教観とアジアのそれにはかなり違いがあり、ヨーロッパ的な価値観をアジアに直接埋め込もうとすると、必ず大きな軋轢が生じる。例えば、ヨーロッパでは労使関係において、経営者と労働者の違いというものを前提として考えているが、それが日本的な労使関係にとっては齟齬をきたす部分があるのである。
 このことから、コンピテンシーについて言及する際には、文化面におけるアジアでの日本の位置づけを、今まで以上に重視し、配慮した表現をしていくことが必要ではないかと考える。
 また、例えば人間観や本質的に人間が平等であるという感覚などコンピテンシーの底にある普遍的な価値観に対して何らか配慮して言及することが必要である。

委員
 みずから学び、みずから考える力ということは、帰結点としてはいい。ただ、このことが国から言われるようになって、小学校1年から自分で考えて、自分でやることが奨励されるようになった。何もないところから自分で考えてみよと言っても無理である。国語教育の権威である大村はま先生もおっしゃっているが、最近、学校では丸投げが多い。話し合いの場合、当面の課題としては、話し合う者が互いにどのように考え、相手の言うことをどう聞くかということで、この「聞く」ということはみずから考えるということ以上に大事かもしれない。
 日本では歌舞伎、お茶、お花で「守・破・離」ということが言われてきた。まず、先生のおっしゃることに虚心坦懐に従って、土台をつくる。その上で、その世界を破り、一人立ちするということだ。最近の教育はそういう土台なしで、みずからということを言い過ぎてきた部分があるのではないか。
 価値観の違いから、ヨーロッパやアメリカでは「自分から」というのがすぐ出てくるが、ヨーロッパでも初めから自分で勝手に考えさせているわけではない。フランス、ドイツでも、将来の指導者をつくるいい学校だと、まず小学校1年からすばらしい詩や文章を暗記させたりする。すばらしい文化遺産をマスターしなければ、自分が学ぶ土台や、自分が考える素材もできないのではないか。
 日本でも、自分で学ぶということと同時に、いい先生に従って虚心坦懐に学ぶということが同時に強調されてきた伝統を大事にすべきであろう。先生が本当に大切なことを教え、子どもは先生に従ってきちんと学ぶという姿勢を育てていく必要がある。

委員
 この筋立ては非常によくできているが、付け加えるべきは、教員の問題である。国際的に質の高い教育水準を実現するためには、すべて教員にかかっているということに触れた方がよい。
 教員養成がうまくいっている国は教育がうまくいっている。フィンランドも教員養成が非常にうまくいっていて、教員が社会的にも評価されている。
 それから、アジアという視点は非常に大事だと思う。今年の夏に国連大学で行われた「世界文明フォーラム2005」でも、教養、文化的な常識というのは、ヨーロッパ文明に支配され過ぎており、それが今の世界のテロと、宗教の対立に結びついて、若者に対して絶望感を与えているのではないかという議論や、ヨーロッパの文化に対する対立項ではなく、多様な文化が存在することを若者たちに意識させることで、問題解決の糸口がつくのではないかという議論が交わされたが、その意味でアジアの問題を取り上げることは重要である。
 なお、多くのアジア諸国が小学校段階で英語を行っている。何十年後の日本を考えた場合に、日本だけ行わなくて大丈夫か心配である。
 特に、アジアの中の日本ということを考えた場合、そのことは真剣に考えなければいけないのではないか。国連で日本が常任理事国に立候補したら、アジアで日本を支持したのはブータンだけだったという事実から、いかに日本が理解されていないかがわかる。

委員
 資料2については、議論の立て方がOECDを中心にして考えられていないか。すなわち、先進諸国の物の見方や考え方が非常に支配的ではないかと思う。それにより、国としての人材育成を考える場合に、OECD各国の中での競争に勝つ人材をつくるのか、それとも、地球の南北問題をも解決し得るような視点を持った人材をつくるのかについて捉え方に大きな違いが出てくるのではないか。
 それから、人材と言うと、経済的、知識的な側面が強いが、異文化を理解し、異民族と共存していくというパーソナリティー、ヒューマニティに富んだ人間形成が考えられるとよい。国際理解教育は、まさに人づくりの中の一つのファクターとしてやっていかなければ、今後の国際化はできないと思う。
 論点の中に、手立てが非常に必要だとあるが、賛成である。今、日本の教育課程は、目標も目的もはっきりしているが、実際、どこまで到達しているかについては大きな問題がある。資料3の基盤整備の部分がどうなっているのかということを考えるべきではないか。
 例えば、フィンランドの場合、一般教員はほとんど全部が修士号を持っており、校長や行政官はほとんど博士号を持っている。また、子どもたちに与えられている教材や教具は、国や地方で全部負担しており、ほとんど保護者負担がない。
 そのことからも、やはり教育条件整備の問題をないがしろにしていたのでは、目標や目的を達成できないのではないかという気がする。

委員
 1つ目は文化の問題である。ヨーロッパと日本は、基本的に歴史と伝統と文化が違う。例えば、自由と平等に裏打ちされた民主主義がどのぐらい日本人の中に根づいているのか。私は、スポーツに比べて文化ははるかに遅れてきていると思う。
 日本の子どもたちを海外へ連れていったときに、日本の歌を歌う場合、どの歌を歌うだろうか。あの踊りを踊ろうと言った場合、あの踊りでみんながピンと共通理解することはないのではないか。この文化の問題をどうしていくのか。
 2つ目は、コンピテンシーについてだが、日本の学力などはOECDのどのレベルまであるのかという吟味はいつ、どこでなされるのか。また、この内容に全部即することが今の日本としていいのか、文化面と育ち具合の面でどう判断すればいいのかという検討なくして、これを採用することはできないのではないか。
 3つ目は、力としてはどのような内容を重視すべきかという問いについてだが、OECDに迫っていくのに、追求力や練り上げる力が子どもたちにどの程度育っているのか、それを育む内容を教育課程の中にどのように組み込んでいくかが重要である。

委員
 国際的に高い水準を実現するために、初等教育の低学年の子どもたちに対して重視すべきことは、やはり日本語や日本の文化などをしっかり身に付ける、日本人としてのアイデンティティを学ぶという機会を、まずは徹底することだ。詩を覚えさせること、ことわざを知ること、文化や芸術の特徴を知るということを通じて、自分たちの背景や世界の中での自分たちの位置づけを身につければ、その子どもたちは伸び伸びと語り合えるようになると思う。
 次に、国際化についての国の役割だが、小学生のうちに交流をさせることが重要である。日本は同質的な国だと考えられているが、本当はいろいろな人が住んでいる。それにもかかわらず、常に「日本人は」と言ってしまう。ここの概念を理解させるために交流の機会を持つというのが一番いいのではないかと思う。
 例えば、日本にある中華学校や朝鮮学校や、インターナショナルスクール、アメリカンスクール、リセなどの学校との交流が、都会であれば直にできるし、地方であっても、インターネット、テレビ電話、パソコン、IP電話などを通じてできる。子どもたちが少し自分たちの身近にいる外国籍の人たちや、違う文化の人と触れるという機会を持っていくことは、国が行うべきかはわからないが、一つのプログラムとして促進していく必要がある。
 私には、アメリカで育ったいとこがおり、彼は完璧に日本語がわからないアメリカ人として、アメリカに住んでいる。その子どもが小学校1年生のとき、自分の知っている一番遠くに住んでいる友達に手紙を書いて、手紙の返信を受けたりして、遠くのことを学ぶという授業があった。
 私のいとこは、日本に親戚がいるということで、とても誇りに思ったらしい。私は手紙への返事として東京の周りを撮ったビデオやお菓子を学校に送った。すると、学校中の1年生がそれを見て、外国のことを知ることとなった。アメリカではそういう教育もある。

委員
 みずから考え、みずから学ぶことを育む教材について、私自身は生々しい、あるいは答えのない問題を取り上げた。湾岸戦争が起きたときには、それを取り上げ、どのように、そして、なぜ国が動くのかを学んだ。そこでは、どこの国が正しいとかいう話ではなくて、戦争は環境を壊していくという話をした。授業を受けたうちの一人は、将来砂漠に木を植えに行くという結論を出して、以後、その道をずっと歩んでいる。
 そのほか、空を飛ぶというテーマで、空を飛ぶ詩をつくったり、紙飛行機をつくったりした。また、社会科の授業の中で、飛行機を飛ばすのに自治体が税金を投入しているという、住民の間でも意見が割れた問題を取り上げ、子どもたちが家へ帰ってからもお父さんやお母さんと議論をするなど、非常に盛り上がったこともある。子どもたちは、その授業がその後も考える機会になっていると言っていた。また、その中の一人は、ロケットを飛ばしたいと夢を膨らませ、そのための大学院に行ったという例もある。
 子どもたちに直接関係はないが、新聞等で話題になっている生々しい問題が教材として扱えるのである。
 もう一つは、いろいろな価値観があって、お父さんやお母さんでも意見が分かれてしまうような答えがない問題を扱う。子どもは、今まで小学校の問題が、1+1はと聞かれれば2と答えるように、答えが一つに決められていたのに対して、大人たちがみんな答えが違うということに何か一種の喜びみたいなものを感じていたような気がする。そういう課題立ての授業ができる時間は必要である。
 ただ、生々しい問題を扱った場合には、周囲の大人たちがどう見てくれるかということが気になった。
 日本の、特に政治問題等については、自分の考えは誰々と同じだとか、どこの組織の意見に近いといったことが重視されてしまうところがある。難しいことだが、そういうことが学校現場にも微妙に影響していることが感じられる。
 小学校段階では多少難しいかもしれないが、中・高等学校では、もっと生々しい問題について議論できる場があるとよい。

委員
 国際的に通用する質の高い教育については、従来からその観点の議論が行われてきているが、国としての人材育成のあり方としては、教育課程全体を通じて、児童・生徒の発達段階において基礎・基本を徹底し、その上で、みずから考え、みずから学び、みずから判断し、行動するという新しい学力観のもとに、子どもたちの自己実現を学校教育の場が手助けするということが基本的な考え方である。
 その場合に、国際的に今の日本の学習指導要領でいいのかということについて、OECDのコンピテンシーと比較して具体的にどういうところが欠けているかを説明者側で明確にすべきだと思う。
 特に、我が国の学校教育が学問体系に応じた内容となっているのが従来からの考え方で、科学的リテラシーという考え方は、必ずしも従来の学校教育では十分ではなかったのではないかとも思う。そういう点について、まずは国際的な観点からの現状分析や課題について明確にした方が、議論を進める上でも効率的だと思う。
 また、日本の科学技術の進歩というのは目覚ましいものがあるが、それが学習指導要領に十分反映されているかということについても、学習指導要領の見直しに当たっては配慮していく必要がある。
 それから、国際社会の中で生きる日本人としてのあり方について、日本人としてのアイデンティティは確かに重要な観点である。また、国際理解教育も重要な観点で、異文化交流・理解は既に総合的な学習の時間などで小・中学校段階でも行われているが、そのことへの支援が今後必要だと考える。文部科学省は、参考資料や他の学校の優れた事例集等により、今後とも各学校の取組を支援する仕組みを整えてほしい。

委員
 知識基盤社会という言葉は、議論を呼ぶだろうと感じる。例えば、かつてゆとり教育という言葉について、私たちは批判的な質問を受けた。そこで、ゆとり教育や、生きる力、真の学力について、校長を含めて議論をし、そのプロセスの中で、それぞれが腹におさめて実践しているが、知識基盤社会も同じプロセスが必要だろう。
 というのは、日本人はよく論語の一節を引用するが、その中で小人は知識人で、君子は教養人だという表現されている。そういう感覚からすると、日本人は、知識とは小手先の内容だと感じるのだと思う。

委員
 OECDのキー・コンピテンシーについては、今の日本人に欠けているところを補うという発想が強くなり過ぎないだろうか。それよりも、日本人の得意なところを見て、それをどう補っていくのかという視点が大事なのではないか。
 今、企業などでISOを導入しているが、日本では、昔はJISやJASという規定に沿っていた。ISOは国際規格だというが、日本人がなじめない部分がないではない。OECDの定める内容も、現場にもってきたときに借り物になって、日本人のものにならないのではないかという気がしてならない。
 あるいは、例えば、日本人なら期限を決めて、進行管理をして、いついつまでに納めるとか、みんなと協力をして物事をつくり上げていくといった特徴や、ある程度あいまいさがあって、それが日本社会を円滑に動かしているといった部分がある。日本人としてのよい部分を生かしていかないと、日本人のアイデンティティが崩れてきてしまうのではないか。
 新しい学習指導要領で、教えることよりも学ぶことが強く表現されるようになると、教師は戸惑い、教えてはいけないのではないかという錯覚に陥る。今までやってきた自分たちの教育観や、教育の方法に自信を持たせ、その上で、学ぶ、あるいは育てるという概念が大事なのだと打ち出していかないと、OECDの定める内容の導入も、日本人のアイデンティティを失うもとになるのではないか。
 教えるのは長年経験を培ってきた教師が教えるわけだから、急激な変化はなかなか難しい。これから将来の国際社会を見通していくとき、軸をしっかりと持ちながら、そこにどのような考え方を入れていったらいいのかということを明確にしていくべきではないかと思う。

委員
 アジアを意識した国際化ということについて、明らかに有用だと思われるのに、利用されていないのが、ユネスコの共同学校である。アジア各国は国際化したいという意識が強く、多くの学校がそれに参加して、現実に活動しているが、日本では、理由はよく分からないが全国で16校しかない。これが利用されることが、初等中等教育における国際化の役割を果たせる仕組みになると思う。

委員
 教育の議論の中に、コンピテンシーという言葉を初めて聞いた。コンピテンシーは、企業の中では遅くとも数年前からある種の流行になったもので、要するに企業で優れた人の特性を集めていってできた概念だと理解している。賃金を、従来は仕事そのものの価値で決めていったところが、コンピテンシーの考えでは、逆にすぐれた人かどうかで決定するというもので、私は日本的な観点と同じだと思った。
 企業の経験で振り返ってみると、このような概念は欧米が中心だと思うが、日本が一つずつまじめに取り組んで、消化していく過程で、日本の発展に役立っているのではないかと感じる。
 だから、OECDのコンピテンシーという概念についても、日本の教育に当てはめて議論する中で、欧米的かアジア的かということを超えて、ある種の到達点が見出されるのではないかと思う。

委員
 コンピテンシーによる分析については、結果的にここで挙がっている内容は、現在の教育課程を構築していく中で、暗黙のうちに既にある程度踏まえられてきたもので、生きる力という大ざっぱな概念の中に入っていると思われる。
 違いは、幾つかの力に分析して、その分析のもとで各々の力を伸ばすにはどうしたらいいかを具体的に検討するという、教育課程の構築の戦略の違いである。具体的には、1つは各々の力について、アウトカムとしての評価をどうしていくかという問題意識があることである。
 2つ目は、日本の学習指導要領で実現するとすれば、教科及び総合的な学習の時間の組み立て方に関わってくる。総合的な学習の時間については、非常に茫漠とした書き方でしかないし、教科のほうは逆に、非常に詳細に書いてあるが、教科独自の内容に即しており、教科横断性の強い「力」という観点からの吟味が十分に行われていない。つまり、教科及び総合的な学習の時間全体でこれらの力をいかに伸ばすかという視点が、あまりない。
 3つ目は、これらの力と、それを育成するに当たっての指導法の問題は別で、例えば、自己学習をする力を伸ばすのに最初から自己学習をさせれば伸びるということではないわけである。例えば、人と協力することが必要であれば、教師の指導のもと、協力するという経験をしながら学ばざるを得ないはずだから、どういう力を伸ばすかということと指導法との違いを踏まえつつ、慣例を検討するという作業が要る。

委員
 国としての人材育成の在り方について、グローバル化が今後進むという観点で、世界で何が問題になっているのかを感じ取る力、理解する力を育む必要があるだろう。そのために、日常の中で世界的な問題に参加するような動機づけも人材育成という観点から考えておかなければならない。

委員
 OECDのコンピテンシーについて、私はヨーロッパ的な考え方対アジア的な考え方という捉え方はしなかった。
 この概念が出てきた背景は、アカデミズムに対する、日常生活にも生きてくる考え方である。学校で習うことは学校用の知識を習得するだけで、社会の中で生きてこないのではないかとか、大学に入った途端に知識が剥落してしまうとか、社会で生きていくために必要な知識を学校では教えてないのではないかということが、実は欧米でも言われていたのだろう。それが80年代ぐらいから、知識は大事だが、それは一種のリソースであり、使われて初めて意味があるのであって、正確にたくさん持っていること自体ではなく、どうやってそれを使っていくかということが考えられるようになったということだ。
 そう考えると、これはヨーロッパ特有の話ということではなく、アジア型の考え方とそんなに対立するものではない。学校で基本として教えている知識や技能を、もっと日常的な文脈でも使えるものとするため、それを活用するような学び方を学校でも導入することだと受けとめた。
 ただ、日本の場合、1989年以降の新しい学習指導要領において新しい学力観が出てきたときに、それまでの学校知的な知識・技能を否定する形で、「生きる力」にどっと流れてしまうという問題点があった。

委員
 私はコミュニケーション能力は、とても大切だと思っている。コミュニケーション能力は、各人が持っている知識や経験が基盤になっているが、その知識、経験が今なかなか培えない状態ができ上がってしまっている。OECDのコンピテンシーの内容も、子どもたちが知識を活用する能力があるかということだが、活用するべき知識は、もっときちんと教えていく必要がある。それが定着しているかどうかについて、例えば、全国的な学力調査をする必要がある。
 コミュニケーション能力というと、広く考えればコンピュータを使うこともコミュニケーションのツールであるし、英語や日本語もまたツールである。情報を受け取って、それを試行錯誤しながら考えて、一つのものにまとめていく。それを外に出すということでコミュニケーションはスタートする。その外に出したものに対していろいろな反応があって、そこでやりとりをする。そういう経験を早い時期からつくっていけるとよい。
 また、海外に行っている卒業生たちと話す中で、彼らが言うのは、日本の文化についてあまりにも知らなかったことを恥じ入っているということだ。日本の文化、特に地理や歴史、あるいは伝統をもっときちんと教える必要がある。
 さらに、地域の伝統についてもきちんと教えていく必要があるだろう。さらに、自他の命を大切にすることも、ぜひ学習指導要領の中で強調してほしい。
 それから、教科横断的に知識を活用していくのが総合的な学習の時間であるなら、他方、教科を縦断して、初等中等教育の12年の中でどのように教えていくかを考えておくことも必要である。今、高等学校では化学の教師がイオンを習ったことのない生徒たちに、イオンから教えていくということで、大変苦労をしている。各教科の配列や内容について具体的に考えていく必要がある。
 最後に、学校の在り方についてだが、指摘されているように、すべては教員の問題に尽きる。学校の中でより活発に議論していけるよう、学校の主体性が発揮できるような在り方が大事である。また、高等学校の総合学科や中等教育学校や学校関連系などの多様な在り方について検討してほしい。

委員
 私は3年ほど、OECDで高等教育の質の保証に関する専門家として働いていて、その際、OECDのキー・コンピテンシーのレポートを読んだが、全然驚かなかった。むしろ、日本の後追いだと思った。平成8年の第15期中教審の出した答申にある「生きる力」の内容そのままだと思った様である。それをブレークダウンするとこの資料4-1のようになる。
 ということで、私は、決してOECDのキー・コンピテンシーと日本の考えが違うことはないと思っている。日本の方は、分析や実現のための手立てが足りない。その点、OECDの方が分析的に捉えているので、それを利用させてもらえばいいのではないかと考える。

(2)事務局から説明があった後、科学技術教育、小学校の英語教育などの在り方について自由討議が行われた。

委員
 今政府が主催で、若手起業家を集めて朝食勉強会を行い、日本が外国にどのように発信力を持っていけばいいかについて議論している。外国に日本のことを知ってもらうことについては、どの年齢においても問題になっている。では、それをどのように小学校、中学校の教育に入れるかだが、英語というのは伝えるツールなのだと位置づけて教えていくのが必要なのではないかと思う。
 例えば、英文学が読めるようになる子どもが増えたとしても、結局、国際社会の中で日本のよさを伝える技術を持たない、あるいは反論されたときに、逆に提案するようなディスカッション能力を持たないままになってしまう。だから、一つは、話す内容をしっかり身に付けることである。これは日本の文化を知ることや、何か自分の意見を持つということで、日本語で訓練できることである。日本語で「きょうの新聞のこの記事をどう思う」と聞かれたとき答えられない人は、英会話学校に行っても答えることはできない。そもそも自分が何を話したいのか、どういう意見なのかということを述べる訓練は日本語で十分にするべきである。
 結局、今、大人が何を苦労しているかというと、日常会話には不便はないが、激論に割って入って、自分の主義・主張をきちんと相手に伝えることでくじけてしまうのである。
 そうすると、基本的に最終目標を、英語を使う多くの西洋文化の人たちに対して、日本の、あるいは自分の考えを伝える技術をしっかりと英語によって訓練するというところにしないと、結局今までの英語教育と変わらないのではないかと思う。
 具体的には、成果思考中心、論理的思考中心、ディベート能力、西洋の考え方である分かち合うというコンセプト、どのようなキーワードを入れると相手に通じるのかといったことは、英語を学ぶ中で具体的に身に付けていかないと、ただ言葉を学んでしまうということになってしまう。
 また、学年ごとに内容を砕いていくことが必要だろう。
 さらに、高校、大学では当然ながら、中学校でも留学の促進をしていくのが大変重要だと思う。私も、自分の子どもを海外のいとこのところに1年おきに連れていっているが、このことの一つの意味は人脈づくりである。これは中国がとっている戦略で、たくさんの留学生が世界でいろいろな人脈をつくって、また中国に戻ってくると、英語ができるだけでなく、困ったときに電話1本で答えてくれる仲間を世界中に持っている状態になるのである。

委員
 国際化について、非常におもしろい意見を聞いたことがある。それは、「国際化というのはそんなに難しいことではない。五親等以内に外国人がいるということだ。そこから考えたら、日本はまだまだ国際化していない国である」ということだ。それぐらい身近に外国人がいるという環境にないと、なかなか外国を身近には感じないという気がする。
 それから、インドなどでは、相当の高等教育では英語で教育が行われるのが普通である。日本では、いくら授業の中に英語が出てきても、日本人が教えている限り英語で教育はしていない。これでは意識が最初から全然違うわけである。
 ところで、言語を習得するということには、その人の論理にかかわるという非常に重要な問題がある。ヨーロッパ人同士の間では、使っている言語がもともと共通のものから出ているので、論理構造は何も変わっておらず、互いに流通し合うのは問題のないことだ。しかし、日本人の場合は日本語で物を考えるということをきちんと踏まえず、ヨーロッパ語、あるいはその他の言語を取り入れて、本当に思考能力が大丈夫なのかということを相当慎重に考えないといけない。
 私は言語の専門家ではないのでよく分からないが、少なくとも小学校での英語教育は必要ないと思っている。小学校のうちは日本人としての日本語、アイデンティティ、日本の文化などをしっかり身に付けることとして、英語は中学校から学んでも遅くはない。
 確かに、言語は早いときに耳が慣れるとか言われている。しかし、それよりも、私たちが受けてきた英語教育の一番の問題点は、英語を母国語とする人から習わなかった、そして、耳で聞いて、口で話すという英語教育を受けなかったということだ。私は直感的には、中学校からでもきちんとそのような教育を行えば、ある程度はできるようになるはずだと考える。
 先ほどお話があったように、議論に割って入るほどの英語力を身に付けるのは、そもそもちょっとした教育でできることではないと思う。本人が相当の覚悟を持って、あるいは現地で相当期間生活をして初めてできることであろうから、小学校から始めればできるという問題ではない。むしろ、社会教育的な形で、ある人が英語力が欲しいと思ったときに、留学をさせるなど英語教育を与えられるようなシステムをつくることが必要なのではないか。

委員
 1つは、科学技術の教育について、日本では「好きになる」ということが問題になっている。その点について、トヨタ自動車は大変進んでいる。トヨタ自動車の方に同社の社内教育について聞いたが、内容は非常に簡単で、言われたことをやるのは誰も面白くないが、自分でやるのはすごく面白いということだ。それが改善という教育なのだという。
 おそらく、学校における科学技術教育が面白くないというのは、その点に欠けているところがあるのかと思う。つまり、問題は自分でやるという部分をいかに導入するかということだ。教え込む部分がなくてはいけないが、それがあまり前面に出てくると、今度は興味がなくなるということだろう。実際に改善の実践をしている会社があるわけだから、学校教育においても工夫をしていかないといけない。
 2つ目は、英語教育について、私は小学校段階で取り組まないと、後で大変後悔する状況が生まれてくると思う。私たちが生きてきた20世紀の日本と、21世紀の日本というのはおそらく全然違うのだろうと思う。今の子どもたちの実態としても、コンピュータと英語は言われなくても勉強する。それは、確実に必要だというのがわかっているからである。
 私には、そのことに大人社会が知らない顔をしていていいのかという率直な疑問がある。小学校で英語にかかわる教育に取り組むという姿勢を大人が見せるべきだ。他の教科が影響を受けるほど多くの時間を割く必要はないと思うが、きっかけとして、英語を小学校の教育課程の中に入れることだ。
 聞いた話では、韓国では英語がすごくはやっているという。特に、韓国は塾社会だから、小学校3年生以上のほとんどの子どもは英語の塾に行っているのだという。このため、弊害はあるが、確実に英語はうまくなっている。そういう時代の流れの中で、日本は何もやらないで本当に大丈夫かというのが私の意見である。
 そこで工夫が必要である。今のままでは教材研究も始まらないし、教える人も全然養成されない。他の国々はかなり時間をかけて教員養成を行ってきた。当面は仕方がないから、教員免許状を持ってない人が教えるということが出てくると思うが、将来的には中学校の免許状を持っている人が英語を教えるようになるのが、普通の姿ではないかと思う。
 今回は、小学校段階における英語については、国の政策として触れておくべきではないかと思う。

委員
 科学教育については、基礎的・基本的に教えるということも大事だろうと思うが、理科における基礎・基本としては、むしろ知的好奇心、つまり新しいことや知らないことに対して驚きを持って迎えるということが重要ではないかと思う。だから、私自身はやはり低学年理科がなくなったということは非常に大きな問題があると考えている。その時期の子どもというのは一番好奇心が旺盛な時期である。ただ、理屈はわからなくてもいろいろと面白い実験などができるようになればよいので、生活科の中で科学的な教材を増やしていくことで対応していくのではないか。
 中学校の先生に、小学校の理科で何をやっていけばよいか質問したときに、理科嫌いにしてくれるなと答えられた。理科は、自分からいろんな対象に立ち向かっていく、未知のものを学んでいく学問だから、知的好奇心をくすぐるようなカリキュラムや教科書が必要である。
 英語教育については、私は積極的に推進すればよいと考える。口や耳にとっては、低学年の間から異言語に接するということが後々の学習に対して非常に有利になってくる。ただ、例えば自分の考えを英語でまとめるということを小学校段階から行うのは、やり過ぎになるだろう。言語として日本語がベースになって、異言語に対応できる身体的な能力とでも言うものを育てるべきである。
 その点でお願いとなるが、やはり現体制で、小学校で英語を実施するというのは絶対不可能である。実施に向けては、人員と教材とIT等の機器に相当の予算を付けてほしい。英語が大事なのは分かるが、大事だから入れたというだけでは困る。あくまで人的、財政的措置を入れた上で、大事であるということが学校にわかる形で提示をしてほしいし、今までの小学校教育の中で英語の実践経験がないわけだから、民間等で使われてきた教材を積極的に取り入れていくことも多いに検討してほしい。

委員
 英語教育について、私は2つの視点が必要だと思う。
 一つは、今の中学校や高等学校の英語教育が今のままでいいのかということである。そこをきちんとしないと、小学校に英語を入れても全く意味がない。今の中学校や高等学校の英語教育は、本当にコミュニケーションツールとして使える英語になっているか。
 もう一つは、日本で英語を使う必要があまりないということである。どんなに勉強しても使わないから忘れてしまう。そうすると、やはり使える環境がないと語学は身につかないというのも一つの側面である。例えば、シンガポールでは必要だから、だれでも使わざるを得ない。国としてどうするのか考えるべきである。
 理科教育について気になるのは、財政的な裏打ちである。平成13年に策定された第二期科学技術基本計画には財政的な裏打ちがある。しかし、今は教育計画を立てても財政的な裏打ちがほとんどない。理科教育振興法に基づく理科教育等設備整備費補助が昭和29年度からあるが、ほとんどの学校の観察や実験に必要な設備は老朽化している実態がある。こういう実態では、理科教育もうまくいかない。
 さらに、教科としてだんだん受験シフトになっているという問題がある。このことと整備の問題から、実験はできるだけ避けて通ることになる。すると、子どもたちが自然を観察して、自然に対する探究心が出ても、いつの間にかそれがしぼんでいくというのが、今の学校の理科教育の実態ではないか。また、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)も期間を限って補助が出ており、補助が出なくなってからどうするのかは大きな問題だと思う。

委員
 理数教育について、1つは教材がおもしろくないのではないか。
 もう一つは、教員の指導力の問題である。教えるというとすっと頭に入ってくるが、育てるというと、どうやればいいのかとなる。これは教員に単元構想力がないということである。
 指導側のいろいろな例をつくることは、また問題である。上っ面だけをあてはめていくことになる。本当に教員を育てるには、単元構想力をどうやって付けるか、子どもにどうやって力をつけさせてやるかに力点を置かないとうまくいかない。
 もう一つ、小学校の先生は、本県の場合は、音楽以外はほとんど全教科を受け持つ。国語、算数、理科を受け持つとなると、まだ優れた教師は任せてくださいとなるかもしれないが、例えば、さらに家庭科も受け持つようになると大変である。特に中学校の場合、専門教科である。指導する人は一人だから、配慮する必要がある。だから、私は例えば、まずは3教科をしっかりやるように言っている。
 だから、学習指導要領をつくるときも、小学校と中学校の在り方は頭を切りかえないといけない。基本として、子どもを育てるということを視点に置かなければならない。
 小学校の英語は、私の市では小学校1年生から取り組んでいるが、教員はやりたがらない。また1つ教えることが増えるのかという発想になる。だから、ALTを導入している。
 なお、小学校低学年の子どもたちは喜んで学んでいる。ところが高学年になるに従って、みんな頭が下がっていってしまう。このことについて先生方に聞くと、2つの理由があって、一つは高校入試の在り方である。入試のために、親も「話せても、書けないといけない」となる。大体話せればよいと考えていると、テストでは通用しない。
 もう一つは、高等学校までの一貫したカリキュラムがないことだ。
 いずれにしても、何らかの人的補助はお願いをしたい。

委員
 今のご意見とほとんど一緒である。このテーマについては、私も子どもの母親を集めて議論したことがあるが、子どもが教科を好きになるか、嫌いになるかはほとんど先生による。初めから数学の嫌いな子どもや、国語の好きな子どもなどいない。私自身も、分かりにくい先生だったために物理が一番苦手だったが、卒業してから科学に関する月刊誌を読んで、物理はこんなに面白いものだったかと思ったものだ。
 だから、究極の教育改革は教員改革、授業改善であると思っており、その実践としては、少人数授業、教材開発にターゲットを絞って行っている。どちらかというと公立学校より、私立学校の先生のほうがおもしろい。公立学校はあまりにもマニュアル化していて、教員が生き生きとした気持ちを失っているという弊害があるのではないかと思う。

(3)事務局から次回の日程について説明があり、閉会となった。

お問合せ先

初等中等教育局教育課程課教育課程企画室

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)

-- 登録:平成21年以前 --