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教育課程部会(第21回) 議事録

1.日時

平成17年7月19日(火曜日) 10時~13時

2.場所

丸の内東京會舘 「シルバールーム」(11階)

3.議題

  1. 新委員の紹介
  2. 各教科等の成果と課題の検証(芸術、技術・家庭、情報)
  3. ヒアリング:苅谷 剛彦 東京大学大学院教育学研究科教授(義務教育に関する意識調査の結果について)
  4. その他

4.出席者

委員

 木村部会長、浅利委員、阿刀田委員、安彦委員、荒瀬委員、石田委員、市川委員、井上委員、猪口委員、植木委員、宇佐美委員、衛藤委員、大橋委員、陰山委員、加藤委員、角田委員、渡久山委員、中嶋委員、増田委員

文部科学省

 近藤文部科学審議官、銭谷初等中等教育局長、板東大臣官房審議官、山中初等中等教育担当審議官、根本主任視学官、常磐教育課程課長、木村教育課程企画室長、井上教育課程企画室長補佐、嶋貫参事官
国立教育政策研究所
 舟橋教育課程研究センター研究開発部長

オブザーバー

(報告者)
 苅谷剛彦 東京大学大学院教育学研究科教授

5.議事録

(1)事務局より、新しく大橋委員が臨時委員として任命され、藤崎委員が辞任したことについて紹介があった。

(2)事務局より資料について説明の後、芸術教育、家庭、技術・家庭、情報の成果と課題の検証について自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。(○=委員、△=事務局)

(芸術教育の成果と課題の検証について)

委員
 ハウツーではなく、感動を伝えなければならない。習字で「夕暮れ」と書くなら、字だけではなく、夕暮れの美しい情景を思い浮かべられるよう教えなければいけない。音楽や美術でも同様で、感動を伝えなければならない。そのためには、教師自身が感動を持って教えるということが必要である。
 また、生涯を通じて一つのことを楽しみ、親しむ能力をつけることが重要。学校教育はその入り口となればよい。
 情報教育を実施するなら、それ以上に感性を豊かにさせる教育が必要である。情緒というものが最近なくなりつつあるが、日本は第3次産業立国として、文化性の高い国民を育てる必要があると思うので、豊かな情緒をいかに伝えるかということが非常に大切である。

委員
 生きる知恵を培うことは、教育の中で非常に重要なことだが、生きる知恵には二つある。一つは、職業に就いて自分の一生を賄っていくための知識で、国語や算数などの一般に主要学科と言われている教科で養われるもの。
 もう一つは、音楽を聴いたり、絵画を描いたりして自分が静かに自分の心に問いかけ、自分の心を友として生きていく知恵で、自分の一生を豊かにするためのものである。それは、音楽などの芸術教育を通じて養われるという視点をしっかり持つことが必要ではないかと考えている。

委員
 生きる力の捉え方が、知識に偏る傾向があるように感じる。現場では、知、徳、体の調和のとれた教育と言いながら、読み、書き、そろばんにウエートを置かざるを得ないような傾向が強い。小学校の音楽や図工や書写を見てみると、授業時数が50時間と非常に少ない。学校によっては、音楽会や展覧会を学校行事として時間をとって行い、子どもたちの感性を高めている例もあるが、授業時数を増やすことは難しいとは思いながらも、全体のバランスを考えると、ある程度の時間を確保していく必要があると考える。
 音楽について、学習指導要領においては、小学校5~6年で日本の伝統的な楽器などが自由に選択できるようになっているが、実際の教師がそれを十分に操ることができない。外部人材を導入することも考えられるが、なかなかそういう環境にないところもあり、教師の力量を高めることが必要である。また、琴を一つ買うのにもかなりのお金がかかる。豊かな情操を育むためには、条件整備も大事ではないかと思う。

委員
 学校教育では知育、徳育、体育の調和のとれた教育が展開されているが、やはり情操教育を実施し、豊かな情操を培うことは非常に重要で、その意味では、音楽や芸術は重要な役割を果たしている。
 現在の学習指導要領では、音楽や芸術が週1時間程度ということになっているが、その中で先生方が、子どもたちの音楽や美術についての興味、関心を呼び起こし、それぞれの才能を伸ばし、可能性を引き出すことが必要ではないかと思う。
 芸術が、社会に出てからの生活の潤いとなり、本人の感性や情操を培う上で重要であることからも、さらに教育内容、方法などを見直しながら、その改善を図っていくということが必要ではないか。

委員
 芸術の領域で、子どもたちや親が学校教育に期待する内容には相当幅がある。
 小学校、中学校の学習指導要領において音楽の目標として全く同じ内容が書かれている。一方で、子どもに対する意識調査の中では、小学校においてこの種の教科を楽しい、好きと考える割合は7割ぐらいあるのが、中学校になると5割ぐらいに下がっている。これは、小学校のような学習内容に広く親しむ段階と、中学校のような個性や自分というものがわかってきた上で教科に取り組む段階との違いが出ているのではないか。そのように考えると、小学校と中学校とで目標が一緒でいいのかと思う。

委員
 これからの時代には、知育、徳育、体育という3つの柱に加えて、感性教育ないしは情操教育と異文化理解の2つを導入すべきだと考えている。特に感性教育、情操教育の場合は、小学校段階では既に遅く、幼児教育との関連を明らかにし、それらの連続性の中で考えるべきだと思う。例えば、スズキ・メソードの場合には、全世界で約40万人の実験が既にあるし、ドイツでも最近の脳科学等の発展で4歳から9歳までの間が重要だと言われている。また、明治時代の長崎の唐通詞の家訓の中に、通詞、通訳になるには、9歳までにしかずという家訓がある。感性教育、情操教育は、幼児教育全体を見直すというアングルの中で考えるとよい。
 松本市などの場合には、市長が率先して、今、30の幼稚園、保育園で、音楽を聞かせることをやっている。そのような取組みは、地方レベルではかなりある。

委員
 日本の小・中学校の音楽教育というのは、西洋音楽が中心になっているが日本の伝統や文化という視点から考えてはどうか。西洋音楽の発声法は、歌謡曲には全く向かない。また、カラオケに行ってもほとんど西洋音楽を歌うことができない。生涯を通じて親しめる音楽ということを考えると、もう少し西洋音楽から離れ、日本の音楽のよさを含めてはどうか。それも、民謡とか、伝統的な歌ではなく、みんなが歌える歌謡曲がよいのではないかと考える。
 また、中学校音楽や美術を選択的にし、音楽をやりたい人は音楽を、美術をやりたい人は美術を選ばせて、今の倍の時間をかけて教えてもよいのではないかと考える。

委員
 どこの町にも祭りがある。私の町の子どもたちは、学校で習わなくても、祭りを通じて大抵笛を吹けるし、太鼓をやれるし、日本の楽器になじんでいる。祭りは行政から抜け落ちたブラックボックスとなっているが、私は、これをシステムとして学校教育に取り入れたいと考えている。祭りは音楽と美術と人付き合いの宝庫である。

委員
 今、芸術大学で講義をしているが、そこの学生の多くは、子どもの頃から音楽や絵や工芸などに興味をもって触れてきた人たちである。
 講義の中で、スポーツの芸術性についてレポートの提出を課したことがある。すると、ある学生が、棒高跳びの選手たちを見て、あの人たちには、あの人たちにしか見えない空があるというような表現をしてきた。その学生は、授業を楽しんだり、いろいろなものを美しく捉えようとしている。それは、その人の持っている豊かさである。このことから、子どもの頃から情操教育を受けて育つことの大切さを実感した。

委員
 芸術教育を一つの生涯芸術として捉え、学校を出てからも続けていけるようにすることに、全く賛成。しかし、学校教育で行われている芸術教育はそうなっていない。社会において、大人は芸術、音楽、短歌などを生涯にわたって楽しんでいるが、そういうことに接する機会がほとんどないような気がする。今、地域の人も学校に随分入ってきてくれるようになったが、社会の大人たちの活動に子どもたちも入っていけるようなきっかけを学校で与えることが大事ではないか。そのために授業時数を増やすというのは限界があるので、少ない時間の中でも、例えば土曜日とか夏休みなどに社会に出ていって、大人たちと一緒に活動しようというような気持ちを育てることが重要ではないかと考えている。
   総合的な学習の時間について、例えば総合芸術とか総合的な創作活動に当たるようなものをやっていいのかということを、以前、文部省の会議で尋ねたことがある。例えば、劇をつくる活動では、脚本をつくることで国語が入り、BGMをつくることで音楽が入り、小道具、大道具をつくることで美術が入る。アニメーションをつくる活動だと、コンピュータという情報の要素が入るなどいろいろなことが体得できる。このように総合的な学習の時間を使えば、総合的な創作活動が展開できると思うが、当時の文部省の回答は、そういうことばかりになっては困るというものだったと思う。
 しかし、美術が美術だけで、音楽が音楽だけで閉じてしまうのではなく、お互いを絡めた面白い創作活動をすることを、総合的な学習の時間も利用しながら促してもよいのではないかと思う。時間が少ないという問題も、そのことを通じて補うことができるだろう。

委員
 本校では、地域に伝わっているベッチャー太鼓というものをモデルにした太鼓の活動を行っている。これは、担任の指導のもとに行っているが、現在教育課程外の活動になっていて、音楽の評価対象にはならない。
 学校では、たまに地域でベッチャー太鼓をしている方に来ていただき、指導を受けている。また、太鼓で自信を持った子どもたちは、中学校へ行くと、地域のベッチャー太鼓の青年部に入っていく。太鼓を通じて、地域の教育と学校教育がつながっている。このように、以前のように閉じられた中での学校の音楽教育という枠は、地域との連携の中で外れてきていると思う。だから、評価とか時間の活用についても、それに対応したものにするのがよいのではないかと考える。
 ところで、音楽の授業時間の中で太鼓を入れると、今度はほかに入らない部分が出てくるかもしれない。そして、何をもって、いわゆる音楽の基礎教養と考えるかという問題が出てくる。また、その発展として、例えば地域の取組みを生かした太鼓みたいなものをやっていくことを入れられるような工夫があると、かなり実態に応じた指導が可能になるのではないか。

委員
 小学校では、基本を教えて欲しい。また、音の世界が好きな子、絵の世界が好きな子といろいろだから、子どもの成長の方向性を見極めた教育をお願いしたい。
 音楽については、メロディとリズムとハーモニーという3つの基本を教えて欲しい。メロディに対して、最も対立的なものがリズムである。メロディは自由に飛び回り、それに規律を与えるのがリズムである。そして、ハーモニー、すなわち調和がある。いろいろな楽器、声、音程が調和することによって、美しい音楽となる。西洋音楽と日本の歌というモチーフが出ていたが、メロディとリズムとハーモニーは東西共通した基本である。
 中学校、高等学校では鑑賞を教えて欲しい。殊に美術については、ギリシャ、ローマ、中世、ルネサンス、近現代、前衛まで見る能力を身に付けるようにして欲しい。われわれの世代は西洋美術や西洋音楽の基本をある程度知っているが、今の若い人は、音楽についてはクラシックやシンフォニーをほとんど聞いていない。美術についても同様の傾向がある。
 先ほど演劇の話が出たが、演劇が正課になっていない先進国というのは、非常に珍しい。私もかつては、演劇を正課にするとよいと主張した。台本は文学的指向の子が、舞台装置は絵画的指向の子が、音楽は音楽的指向の子が担当し、みんなの連帯感が生まれるということも主張したが、今は逆で、演劇を正課にしない方がいいと思っている。演劇というものは非常に毒を含んだ芸術で、それを社会が理解しないまま教育に取り込むと、とんでもないことになりかねない。
 基礎教育の段階のことではないが、日本のクラシックの音楽教育はかなり問題がある。日本が近代化するに当たって、西洋人がいろいろなことを教えにきてくれた。優れた人が来てくれたジャンルは、世界の超一流まで伸びた。ところが、三流の人が来たジャンルは、どうにもならない。具体的な例は省くが、一番ひどいのがクラシック音楽だと思う。
 バレエという芸術は、自治体も国家も全く補助しない。民間の力で細々続いている。ところが、世界のバレエ団では日本人のバレリーナが踊っているケースが多い。一方で、クラシックの音楽を教える学校は、国立の大学もあるし、国からいろいろな補助が行われている学校があるにも関わらず、世界のオペラハウスで歌っている日本のソリストはほとんどいない。教育課程の中に重大な欠陥があるということを、どこかで研究してもらえるとありがたい。

(家庭、技術・家庭、情報の成果と課題の検証について)

委員
 教科「情報」が入ってきたおかげで、全国の学校にコンピュータがたくさん配置されたことは大変よかったが、果たして、現在のような形で情報を置いておく必要があるのかは検討する必要がある。情報モラル、マナー、遵法精神などの育成が課題である。また、コンピュータの操作の仕方については、生徒によって非常にばらつきがある。さらに、合理的判断や創造的思考力、表現力、コミュニケーション能力なども育成していかなければならないということで、教科「情報」を教科としてやっていくことの限界が表れているのではないか。このことについて、例えば、国語や数学といったさまざまな教科、科目の中で、情報活用能力や情報モラルを育成していくことができるのではないかと思う。単位数の取り合いのようになったときしわ寄せがいくのは、芸術や体育である。さまざまなところで情報を扱って余裕をつくり、芸術や体育に時間を割いていくことが必要ではないかと思う。

委員
 私は、教育におけるIT化というものが、日本の教育全体をバージョンアップしていく可能性があると思うが、その可能性は社会的に認知されていない。インターネット等に関わるいろいろな問題点が非常にクローズアップされて、そんなにIT化を急ぐ必要はないのではないかという空気もある。私は、むしろ、もっと社会的にどのように活用していくのかということを、実態に先んじて相当戦略的に検討すべきではないかと思う。
 ブロードバンドについては、以前は韓国がトップだったが、日本でもインフラの整備が急速に進み、いまは世界で最も安いブロードバンドが整備された。しかし、学校では、校舎までは光ファイバーが来ているが、校内LANも整備されていないという実態がかなりある。しかも地方公共団体によって違いも出てきている。確かに、IT化にはいろいろな問題点もあると思うが、もはやコンピュータとネットワークなしに社会のありようが考えられなくなっている中にある。
 文部科学省でも、小学校から高校、大学までを見据えて、毎年基本的な戦略プランをきちんと示していくべきではないか。技術は1年で変わってくるので、専門の部局を設けて、絶えず情報を流していく必要があるのではないか。
 イギリスにおいては、学校現場の20パーセント以上で、いわゆるデジタル黒板が積極的に活用されているが、本校における研究では、チョークと黒板との授業とインターネットを使った授業では、圧倒的な情報量の差がある。また、余分なことを書いている時間が必要なくなる分、子どもの思考が途切れない。ITを単なる教育の中の一分野ということではなくて、教育のシステムの中核に位置づけるように、方策を立ててほしい。

委員
 ものづくり教育で期待ができるものとして、三つのことが挙げられる。一つ目は、ものづくりの心、つまり、ものづくりの楽しさや、修練をしていくことにより向上することの喜び。二つ目が、実際につくってみる、できるという領域の問題。三つ目が、日本社会においてものづくり分野が果たしている役割の重要性である。これにより、ものづくり分野に関わっていこうという人たちが出てくることが大事である。
 各国で同じような産業が育って来る中で、日本には圧倒的に強みを持っている部分がある。これも大きくわけて三つあり、一つは、現場で働く人たちの個々人の技量が非常に高く、品質への思い入れが強いこと。二つ目に、各人が改善しようという気持ちが絶えず、自分の仕事に創意工夫を凝らすこと。三つ目に、各人が自分のした仕事に責任感を持っていること。これらは、海外の工場では一般的になかなか根づかないと言われており、日本民族が特性として持っているものではないか。
 こうしたことを、技術・家庭だけではなく、小学校、中学校、高等学校の各段階で割り振って学ばせてほしい。実技をしたり、現場を見にいったり、専門家を呼んで話を聞くということの組み合わせの中で、日本の強みを意識させてほしい。学習指導要領には家庭科や技術・家庭科の目標が書いてあるが、もう少しはっきりと日本の強みを意識した書き方にしてほしいと思う。

委員
 99パーセントが進学するといっても、高等学校は制度上義務教育ではないので、高等学校と小・中学校とでは、分けて考えたい。
 小学校の家庭科と中学校の技術・家庭科は、普通教育を行う教科として、社会的自立へ向けての教科内容上の芯をつくってほしい。高等学校の専門教科の情報科や家庭科の扱いは、基礎になる部分とそうでない部分を区別していく必要がある。

委員
 スーパーサイエンスハイスクールを見学したが、生徒も先生もコンピュータを駆使して、非常に大きな成果を上げていた。一方で、ある普通高等学校では、いまだにWindows95とか98があった。
 このことから、自己研修などを通じて、教職員のコンピュータに対するリテラシーを向上させることが必要だと思う。コンピュータは各学校に1台くらいはあるが、教員個人が使うものは教員自身が私費で買っていることが多い。また、生徒用コンピュータは古い。e-japan計画という計画がありながら、多くの学校に校内LANが入っていない。逆に新設学校で校内LANを入れると、今度は情報教育の指定研究をやれと言われることもある。今、学校のIT化というのは過渡期にあり、いかにレベルアップするかが課題である。
 それから、先に意見のあったとおり、欧米の技術に比べ日本では中小企業の中で頑張っている人がいる。ものづくりの専門家になることによって、これが非常に高く評価されるようにならないといけない。
 また、ものづくりの場合は、実用性もなくてはならないので、中学あたりから物をつくることに対する興味を育てる教育が必要ではないか。

委員
 家庭科は大事な教科である。家族の一員としての生活を工夫するとか、人との関わりをつけるという社会の問題になっていることを扱う教科である。
 ボタン付けや料理、洗濯を小学校で行うが、非常に重要なことだと思う。ところが、小学校に洗濯機が1台しかないとか、ミシンが古いなど条件整備が不十分である。
 また、小学校の家庭科は、少しねらい過ぎている感じがある。コンピュータを家庭科で扱うのは無理である。また、カード破産とか消費者トラブルといった教育課題を全部教えられるわけがない。これからは、ものづくりも含めて、教育課題に適応できるような新しい教科、領域をつくって対応するようにし、家庭科は家庭科だけで独自に扱わなければならないものを明らかにして、しっかり時間を確保しておく必要があるのではないか。

委員
 ものづくりは大変重要だと思う。物をつくるためには、設計図を描いて、実際に物をつくっていく。設計図までは比較的うまくかけるが、つくりあげる段階で生活経験の不足で、作品が完成しないという場合もある。物をつくる喜びは、完成までいかないとなかなか感じ取れないだろう。その意味で、ものづくりの大切さをもう一度クローズアップしてほしい。
 次に、IT関係だが、私はコンピュータは学問ではなく、情報を処理する道具であると捉えている。また、コンピュータなどは技術革新が起こるので、学校教育で追いかけ切れない。指導できる教員もなかなか育ってこない。さらに、ITはセキュリティの問題などもあり専門家をおかないと難しい。

委員
 IT関係については、1校に専任の人を1人置かないと、技術的なサポートの面などの対応ができない。
 ものづくりについては、紙飛行機の授業の思い出がある。この授業は図画工作の中で行ったのだが、理科で扱う空気の動きにも関連しており、教科の枠を超えている。今後理科的なものと図工的なもの、技術的なものがうまく組み合わされることが必要になってくるのではないか。特に時間が少ない中では、キラーコンテンツというか、これをやることで複数教科で学ぶべきことをまとめて学べるような教材が開発されればよいと思う。
 金融教育という問題があるが、かつてはお金を銀行に預けていればよかったのが、今は株や債券などで直接投資するような世の中に変わってきた。その中で、バブルの時代にあった、物はつくらなくても右から左にお金を動かせば豊かになれるという、幻想と思われる考えが出てきている。
 アメリカは、金融大国として、そういう道を行こうとしているが、日本もその道を行ってよいのか。ものづくり教育や金融教育などにどの時間を使うかということは、実はかなり社会的なコンセンサスが要るのではないか。そういう面で、いまは教科ごとにばらばらな部分があるので、私たちが何を重視しなければならないのかということについて学習指導要領の総則で書かれることが、必要になっているのではないかと思う。

委員
 技術・家庭科は生活とじかにつながっている。そういう意味では、例えば、家庭にミシンがない中で、それを教えて何になるのかという気もする。教科の内容について、時代に合わせて大胆に見直しをかけてもよいのではないか。福祉とか金融教育など総合的なものをここに取り込んでもいいし、中には他の教科に移してもよい内容もあるのではないかと思う。
 情報教育については、ITというのはツールであるということをはっきり教えたい。例えば論文などを書かせても、人の意見ばかり並べる者があるが、そこから自分が何を考えるかが重要で、その力をつけることが必要だと思う。
 それから、小学生がどんどんコンピュータを使っているので、コンピュータを使い始める小学校段階から、情報モラル教育、情操教育などを行う必要がある。

委員
 IT化を無条件に進めることがよいのか。資料8に、「ITの全面的な展開に子どもたちがのめりこんで、そこから離れられない状況がある」、「コンピュータの操作の仕方などの情報技術を習得している生徒の手だてが不十分」という指摘があるが、政府のe-japan計画などを念頭に置くと、情報教育は、いかにコンピュータ・リテラシーを小中高等学校で十分に身に付けさせるかというのが基本である。大学ではe-Learningが活用され、e-mail等を通じた教官の指導が現実化しているだけに、そういうリテラシーを徹底して教えておくことが必要ではないか。従来小中学校段階で情報教育が途切れ、高校の普通科「情報」がなかった時代があるが、やはり高等学校段階でも、情報教育を行うことが必要である。
 我が国が資源が少なく、加工貿易で成り立っていることを考えると、ものづくりの心、ものづくりの楽しさを小中高等学校一貫した教育課程で教えていく必要があると思う。資料2では、図画工作で、1~2年、3~4年、5~6年で造形の遊びとあるが、3年以降は造形の楽しさとか喜びを教えていくべきではないか。そうでないと、小学校段階では遊びで終わってしまっているのではないかと気になるところだ。家庭生活との関わり、特に簡単な家具などを直したり、必要なものは自分で創意工夫してつくるという心を、小学校段階から教えるようにしたい。

委員
 情報について、国語や数学など他教科等との連携の強化を図るとされているが、これは非常に大切だと思う。コンピュータの利用を前提とするかどうかで、ほかの教科の内容自体もかなり変わってくるように思う。例えば、大学生ではコンピュータを使わずに学習するということはほとんどあり得ない。学習内容は高度なリサーチ的なものであり、コンピュータを道具として使う。また、卒業論文を書くときには、学生は、文系、理系を問わずワープロを使う。
 では、果たして小中高等学校でコンピュータが必要かどうか。単に操作がいずれ必要になりそうだからやっておくという程度なら必要ない。しかし、学習が問題解決型になって、その学習過程でいろいろなツールとして使ったり、レポートを書いたり、パワーポイントを使って発表するなら、コンピュータが必要となる。コンピュータをツールとして活用することを前提とするのかどうかについて、一つのコンセプトを持って学習指導要領全体を構成していくことが求められる。

(2)苅谷教授より義務教育に関する意識調査について報告があった後、そのことについて質疑応答等が行われた。主な発言は以下のとおり。(○=委員、□=苅谷教授、△=事務局)

苅谷教授
 義務教育に関する意識調査の結果の報告と、これを踏まえた問題提起をしたい。

 今回の義務教育に関する意識調査の結果から得られた知見は、総合的な学習の時間については、小、中学校の教員で受け止め方が異なっていることと、小、中学校ともに児童生徒が通常の教科の学習をどれぐらい十分理解しているかで受けとめ方が異なっているということである。
 最初に、学校種別に見た教員の総合的な学習の時間の受け止め方の違いについて。中学校は、小学校に比べれば、子どもたちにあまり変化がないというような見方が強い。また、小学校の70パーセントの先生が、子どもたちが総合的な学習の時間を楽しみにしていると答えているのに対して、中学校では38パーセントにすぎない。さらに、中学校では57パーセントの先生が総合的な学習の時間をなくしてほしいと答え、約半数が国で指導内容や学習活動を明確に示すべきだという意見をもっている。また、中学校の約6割の先生が専門の教員を置くべきだと答えている。
 このことからは、学習指導要領の基準性について、学校段階を問わずに考えてよいのかという論点が出てくる。
 次に、授業理解度別に見た児童生徒の総合的な学習の時間の受け止め方について。小、中学校ともに、授業理解度の低い児童ほど、総合的な学習の時間の学習がよくわからないと回答する率が高くなっている。また、「役立ち感」についての回答は、小学校では理解度の低い子どもの多くがわからないと答え、中学校では理解度の低い生徒と高い生徒がわからないと答えている。このように授業の理解度により、総合的な学習の時間における学び方に随分違いがあることが分かる。また、学校ごとにも回答に大きな差が出ている。
 このことからは、一律に総合的な学習の時間のねらいをどのように徹底させるのかという論点が出てくる。
 その他、1998年の教育課程審議会においては、どこまでを想定していたのか。教員数などの追加的な資源についてどのように考えていたか、時間の不足についてどのように考えていたのかについて振り返ってみる必要がある。
 さらに、学習指導要領そのものというより、それがどのように運用されたのかも一つの論点である。制度の趣旨を正確に伝えることは必要だが、それが微に入り細に入り行われたときに、地方は強く縛られていると受け止めると考えられる。
 このように考えたときに、学校段階や、学年、教科の違いに応じて、基準性自体にめり張りをつけることは、一つの方向性として考えられるのではないか。

委員
 この調査結果が新聞紙上に掲載されたときに、中学校の先生が総合的な学習に対して否定的な意見が多いことについて、このやる気のなさは何なのかといった記述があったことが気になった。
 中学校の先生は、今の日本の教育の矛盾を最も集中的に背負っている。例えば、現在、中学校だけで12万人の不登校児がいる。学校に来ない子どもがいた場合には、当然親に連絡するが、今は親がつかまらない。今までのように、親の協力を得るという常識はもう通用しないようになっている。このような現実を知らなければ、ここで議論されているデータが、実は非常に現実を反映していないものになってしまう危険性がある。
 追加調査により、なぜ先生が多忙感を持っているのか、また、なぜ先生が燃え尽き、休職に至ってしまうのかについて調べ、仕組みをリアルに描いてほしいと思う。

委員
 なぜ中学校の先生が総合的な学習の時間について否定的なのかについては、個別のインタビューなどによりインフォーマルには相当得られてきている。
 私は、今回の結果のうち、中学生自身の受け止め方がよくわからない。学力的にかなり高い子どもたちは、総合的な学習の時間で充実した時間を過ごしてくれているのではないかと思っていたが、割と否定的な回答となっている。これをどう考えるか。

苅谷教授
 今、中学校の抱えている問題というのは非常に大きい。それが、専門の先生を置いてほしいとか、学習内容を明確にしてほしいという要望として出てきていると思う。
 先生たちが何を考えているのかということについては、もっと突っ込んだ調査が必要である。今回の調査は、校長先生から先生方に配付しているが、ランダムに広くサンプリングすれば、本音の部分がもっと如実に出た可能性はある。
 それから、中学生の反応の理由だが、小学校段階と比べ、総合的な学習の時間の中身自体が、生徒自身の学力等の多様化により組み立てが難しくなってくることがあると思う。また、中学校には選択教科があり、学校によってはその中で体験的な学習や生徒のニーズに合わせた教育をやっているので、小学校と比較する際には、選択教科の状況をあわせて考えないとわからないだろう。

委員
 学習指導要領の運用の実態まで検討しないといけないのではないかということは、一つの論点になると思う。
 教員が日の丸を否定するなどという話がある。一方で、副読本を作成する際、およそすべての教員が郷土愛、ふるさとなどと書く。実は、みな愛国者なのである。これは、実態とバーチャルな国家論が混同している例であるが、実態まで検討しなければ分からないこともある。

委員
 学習指導要領は教科ごとにどのような使われ方をしているのかなどについて明らかにしないと議論が進みにくいと思う。

委員
 調査結果は、学校規模、地域性によっても随分違ったものになると思う。再調査をするなら、特に、学校規模や地域性と学校の条件整備との関係を見られるようにしてほしい。
 次に、中学校の場合、保護者からは子どもを高等学校に入れてほしいとの要求があり、受験にシフトした教育活動が中心になるが、そのような教育活動の在り方に総合的な学習の時間が取り込まれるのはよくない。
 最後に、基準性については、私は基本的には大綱的基準でよいと思う。文部科学省はそれほど学校現場まで強制していないと言うが、現場では、学習指導要領は一字一句変えてはならないものと受け止められ、全く自由度がなくなっている。再調査をするなら、自由度がなくなっているかという視点をもたれたい。

苅谷教授
 多くの教員は多分、学習指導要領を読んでいない。学校では、市町村から示される標準時数の中で、検定教科書を使って指導すれば、学習指導要領を守ったことにはなる。
 重要なことは、それぞれの学校が自分たちで主体的にカリキュラムを組み立てて、それぞれのニーズに応じた実践ができるような仕組みができ、そのために市町村、都道府県、国が必要とされるサポートをスムーズに提供できる弾力的なシステムができることである。その場合、学習指導要領にどのように書いてあろうとも、あまり問題ではないのかもしれない。

委員
 私は、総合的な学習の時間が導入される契機になった中教審のときの委員をしていた。議論の中で、コンセプト自体は大変すばらしいと思ったが、実際にうまくいくかどうかについては疑問を持っていた。昔、エンジニアリング・サイエンスといって、科学の基本の公理、定理を束ねた教育が大学で盛んに行われたが、結局10年ぐらいで雲散霧消した。きちんと教えられる人がほとんど出てこなかったことが原因であった。総合的な学習の時間についても同様のことが起きるのではないかと心配していた。

(3)事務局より今後の日程について説明があり、閉会となった。

お問合せ先

初等中等教育局教育課程課教育課程企画室

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)

-- 登録:平成21年以前 --