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教育課程部会(第19回) 議事録

1.日時

平成17年6月27日(月曜日) 14時~16時

2.場所

丸の内東京會舘「ゴールドルーム」(11階)

3.議題

  1. 各教科等の成果と課題の検証(生活科、総合的な学習の時間、道徳、特別活動)
  2. その他

4.出席者

委員

 木村部会長、梶田副部会長、浅利委員、阿刀田委員、荒瀬委員、石井委員、石田委員、井上委員、植木委員、衞藤委員、陰山委員、佐々木委員、角田委員、渡久山委員、深谷委員、藤崎委員、増田委員、横山委員

文部科学省

 銭谷初等中等教育局長、樋口審議官、山中審議官、根本主任視学官、常盤教育課程課長、坪田児童生徒課長、片山教科書課長、木村教育課程企画室長、高橋視学官、廣瀬視学官、萩元学校教育官
国立教育政策研究所
 折原教育課程研究センター長、その他関係官

オブザーバー

鳥居会長

5.議事録

(1)事務局より資料について説明の後、生活科、総合的な学習の時間の成果と課題の検証について自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。(○=委員、△=事務局)。

委員
 現場においては、生活科は社会科と理科を統合したものという受け止められ方をしている。また、主な配慮事項で、他教科との関連を図るとなってくると、総合的な学習の時間との違いが判然としていないと思う。

委員
 現場で平成元年から10年ほど生活科の指導をしてきた立場から申し上げる。
 生活科は最初、目標を1年生と2年生に分けていたが、今回の改訂で複数学年の表示になった。これにより地域に合わせた指導がしやすくなった。
 ところが、人との関わり、自然との関わり、社会との関わりと言いながら、東京の場合だと自然の条件が非常に限られているからか、人との関わり、社会との関わりというところにウエートが置かれ過ぎてしまう。
 かつて、理科があった頃には、1年生ではアサガオ等というふうに教材がある程度指定されていて、子どもたちが植物を育てることで自然に対する意欲、驚きといったものを学んだ。いまは3年生になって初めて自然を理科として学ぶが、あまりにも遅過ぎるのではないか。
 そこで、生活科の目標を明確に立て自然への関心をもっと高めるようなことが必要なのではないかと考える。
 また、1、2年生から総合的な学習の時間をやるのは難しいと思うので生活科はそのまま教科でよいと思うが、1、2年の生活科と3年生以降の総合的な学習の時間とどうつなげるのかは問題である。ただ、それは学習指導要領で規定するというよりは、現場で考えなければいけなかったことだと思う。

委員
 基礎・基本を身に付けさせる授業と自ら考える力を育む授業とは質が違う。教科は基礎・基本だからたたき込むように教える。総合的な学習の時間は児童生徒の内発性を引っ張り出す。
 それから、そもそも学習指導要領の見直しというのは、長期的にずっと学力が下がっているから何とかしないといけないということで始まったと思う。ところが、直近の国立研究所調査によると、一応歯どめがかかったという結果がある。教育課程を見直そうと文部科学省が思ったときと、調査したときとでタイムラグがある。だから、なぜ歯どめがかかったと評価してよいことになったかについて、まず分析をしないといけない。
 私の分析では、やはり学習指導要領が最低基準であることを明確にし、あとは地域によって努力するという規制緩和により現場にやる気が出てきて、その結果、学力の向上につながったのではないか。

委員
 なぜ歯どめがかかったかについては、よく話し合っていただかなくてはいけない。
 私の見方では、2001年1月、現場に対する文部科学省の投げかけが変わった。その象徴は2001年1月の、当時の事務次官の全国都道府県教育長協議会での講話である。子どもの自主性、自発性を尊重するという名目のもとで、一部指導の放棄が見られるとか、あるいはゆとりはとても大事だけれども、基礎・基本の徹底が前提になるということを話された。
 そこで文部科学省は基礎・基本の徹底ということでぐっと引き締めた。現場は、国の動向に非常に敏感で、熱心なところほど姿勢が変わった。教師や学校というのは子どもの育ちに責任があるんだと、当たり前のことをおっしゃるようになった。だから、2002年からの学習指導要領が非常に時間数が減り中身も減ったのに、なぜ歯止めがかかったのかという言い方は表面だけしか見ない言い方だと思う。
 生活科と総合的な学習の時間はとても大事。1972年までは小学校1、2年に理科と社会があったが、今で言う生活科みたいなのをつくろうという話が出ていた。結局、理科、社会はそのまま残すけれども、合科的に扱うということが言われた。
 1982年の学習指導要領改訂を迎えて、文部省の中に小学校低学年教科構成等検討懇談会が作られ、理科や社会というふうに分けてやった方がよいのか、それとも融合的にやった方がよいのかという議論がなされた。また、アメリカやヨーロッパの事例も随分調べた。その結果、やはり小学校低学年の理科、社会をやめて、新しい教科にすることとした。それは単に、理科と社会を一緒にするのではなくて、自分と自然、自分と人々及び社会、それから自分の生活、自分自身という3極関係で教科を構成することとされた。
 教科は内容をどう構成するかという原理と、活動をどのようにやるかという原理の二つの原理でできている。他の教科は、子どもに教えていく面が強いので、生活科についてはほかの教科とは違う活動構成の原理を表に出すことにした。つまり、子どもがこだわりを持って探求して、何かを認識するということで行こうとなった。その後、1982年の生活科の学習指導要領ができた。
 ところが、1992年頃に、安易な意味でのゆとり教育がはやり、教科構成の原理が考えられなくなった。
 もともとは低学年理科、低学年社会を、いわば子どもの側に立つ形で、1+1を3にするという目論見をもって作られた生活科が1992年にぼやけてしまった。そして、それを引きずって、今の2002年の学習指導要領がある。
 それから、総合的な学習の時間について。1、2年で生活科をやっているが、その中で子どもは自分の実感で物を見て、それぞれこだわりを持つ。このこだわりを中心とした活動領域があるとよいとされた。また、そこには情報や環境の問題という教科を超えた問題を課題として入れてはどうかとされた。
 総合的な学習の時間や生活科も一部単なる遊びになっているという問題はあるが、2年前の中教審で歯どめになる答申が出て、平成15年12月26日には学習指導要領の一部改正告示が出て今の仕組みになっている。
 これからの議論では、総合的な学習の時間では、環境、情報、国際等各教科にまたがる内容を各教科等に入れるか、総合的な学習の時間で学習するかという内容の割り振りのようなことも検討すべきだろう。

委員
 総合的な学習の時間と一般の教科学習との関係について、例えば国際理解教育といった場合に、世界各国のことを知らなければいけないが、今の教育課程では、世界にどのような国があるのかという基礎的な学習をする学習過程が失われている。そのかわり、自ら考え、自ら学ぶという方法論が全面的に貫かれている。私は方法論と目的論が混ざっているところに問題があるように思う。やはり、子どもたちの発達段階と関連していなければならないのではないか。
 そう考えていくと、総合的な学習の時間の内容を各学校に任せてよいのかという問題がある。というのも、例えば各学年で100時間として3、4、5、6で400時間という膨大な学習時間のカリキュラムをそれぞれの学校が責任を持つというのだが、例えば郷土の特産品についての学習をどの学年でもやっていたり、中学校でも同じことをやっているということが現実的に起きてきているからだ。各学校が本当にばらばらでよいのだろうか。
 また、日本の場合には受験との関係が難しい。小学校で400時間、中学校でまた何百時間かを使ったけれども、それは受験には全然関係がないということになると、どうしてもアウトプットの責任を持つ中学校の先生は引きぎみになるのではないか。
 そこで、例えば、高校入試の段階で社会福祉について述べよという論文を書かせてみることもあってよいのではないか。この間の学力状況調査を見ても、基本的なことについては確かに上がっているが、やはり論述式になると弱い。これは、PISA、TIMSSを通じても同じことが言えるわけで、それぞれの学習の内容論、目的論、さらに方法論とをうまく筋道立てて、全体構成する必要があるのではないか。
 そういうことを考えると総合的な学習の時間は、もう少し突っ込んだ目的を提示するべきではないかと考える。

委員
 総合的な学習の時間に関して、小学校と中学校は異質ではないか。小学校はクラス担任制で、一人一人の先生がすべての教科を受け持っているので、総合的な学習の時間になじみやすい。ところが、中学校は教科ごとの専任で、すべての教科が関わらなければならないとなれば1人の先生ではできないから、すべての教科をつなぎ、コーディネートする存在が要るのではないか。それが小学校と中学校の総合的な学習の時間に関する認識の違いにつながっていると思う。

委員
 日本のカリキュラム、授業、教科書の内容が知識偏重になっている。だから、それぞれの教科が生活との関連で応用力を持つことが大事ではないかとされて、生活科やゆとりの時間を入れてきたと思う。しかし、それでも教科は、いまだに受験学力をつくるための教科みたいになってしまっていないか。
 総合的な学習の時間のねらいは非常に大事だが、実現のためには二つ問題があると思う。一つは、教職員含めて、まだ十分に定着していないこと。調べたものをそのまま羅列して、それぞれ発表させて終わりという場合もある。授業の仕方というものを研究していかなくてはいけない。
 もう一つは、総合的な学習の時間のための条件整備が整っていないこと。子どもたちを外に出したために、いろいろな保険が必要になる。そのような財政的な支援や人的な援助を教育委員会でやらないと成功しない気がする。

委員
 意識調査では、確かに中学校の方が総合的な学習の時間について消極的だということは一目瞭然である。とにかく中学校の現場では、まずは生活指導が中心となる。生徒は生意気盛り、あるいは自分自身にこもりがちになる非常に難しい年頃である。それから、教員は専門とする教科指導を一生懸命やらなくてはいけない。加えて、学力問題、高校入試への対応が気になるところ。
 総合的な学習の時間のねらいはわかるし、学習の進め方も研究しながら、いろいろ課題を抱えながらやっているのが現状だ。順調にいっているところと、なかなかうまくいかないところと差はあると思うが、全体として、何とか工夫してやろうという雰囲気はうかがえる。
 それと、総合的な学習の時間だけではないが時間割が非常に組みにくい。最低週に1回あればよいが、2週に1回とか、1か月に1回という授業が出てくる。総合的な学習の時間はまとめ取りもできるので工夫の余地はあるが、全体として非常にばらばらという印象がある。このため中学校の現場としては、まず必修教科をしっかりやりたいという感じがある。

委員
 総合的な学習の時間については、まず、極めて重要だと思う。
 次に、平成15年10月の追加事項がきちっと現場に伝わっているのかというところに疑問がある。というのは、一旦初めにできたものの方が印象が強く、後から一部修正したものは伝わりにくいからだ。
 それから、初めは学校がよいようにやればよいと考えたが、実態をみて反省をした。そこで、市独自に中学校3年までを含めたカリキュラムを作ったりして、ようやく動き出したところ。
 続いて、学習指導要領における各教科等の目標及び内容の例だが、ねらいとして、よりよく問題を解決する資質や能力を育てることがある。そして、学習活動で5つの例がある。後ろの方には横断的、総合的な課題となっている。けれども、実際にはねらいに迫るような取組になっていないのではないか。
 また、課題づくりが根無し草の課題になっていることがあるのではないか。調べ学習は、写し学習に終わっていないか。発表学習は下手な朗読学習になっていないか。
 体験的な学習というが、体験するだけで問題解決的な学習がないのではないか。主体的に判断し、よりよく問題を解決し、ねらいへ還元されていくことが重要ではないか。
 この授業を教師にやらせてみると、明らかに指導力がはっきりする。単元の構想力もはっきりわかる。授業の実力もわかる。総合的な学習の時間は、ようやく緒についたばかりであって、これを廃止するとかという問題ではなく、どういうふうに支援していくかを考えるべきである。
 そして、最後に考えていただきたいのは、性教育やキャリア教育等をカリキュラムのどこに入れればよいのかということだ。

委員
 小学校において全体の教育課程の上で生活科をどういう内容にするかという観点から、社会科については生活や、地域社会と関連させて、理科については自然や動植物等の飼育や栽培を通じてと、全体としてバランスがとれている。また、教科書を見ても、教科としての内容が十分配慮された内容になっている。
 しかし、専門部会からの意見には、社会科の方に傾斜しているという意見がある。それは担当する先生の得意な分野に偏ってくるから、理科の方が手薄になってくるのではないか。学校現場においてもっと理科的な内容を十分配慮した教育をすれば、この生活科のねらいは達成できるのではないかと思う。その点について、専門部会の議論をさらに深めていただきたい。
 総合的な学習の時間は、本格実施されたのが平成14年度からで、学校によって取り組みがまだまだ異なっていると思う。総合的な学習の時間は自ら学び、自ら考え、自ら主体的に判断することや、問題解決的な学習内容をねらいとしており、各教科との関連を総合的に考えているわけだが、その指導を担任任せにするというのは理解できない。やはり、まず学校としての教育目標があるわけで、それを達成するために各教科との関連を考え、総合的な学習の時間の内容をどのように設定し、それを教えるかというのは、校長、教頭、教務主任等が学校全体としての総合的な学習の時間の体系的な位置づけをした上で、内容を設定していくべきではないか。

委員
 総合的な学習の時間というのは、保護者にとっても教員にとっても未体験の取り組みである。子どもにとって何が必要なのかということと同時に、どういう子どもを育てたいのかという点でスクールアイデンティティとの関わりが非常に深い。これから、各学校において工夫をしながら総合的な学習の時間を進めていかなければならない。
 また、総合的な学習の時間においては、自分と他者、あるいは自然、社会、歴史といった自己の相対化というのが問われている。高等学校で現在、進路に関しての学習ということで、総合的な学習の時間が読みかえられているケースがあるが、進路を学習するという段階で、高校生の一部に大学受験で合格するかどうかという狭い範囲の進路を考える向きがある。そういう意味からも自己の相対化を図っていくことは重要。
 それから、各教科の学習を進めるほど、総合的な学習の時間に使える能力や経験は増えていく。ただ、総合的な学習の時間ですべてを学習するのかと言うとそうではなく、家庭や地域、個人の活動も含めた中でしかなかなか伸ばせない。だから、幾つかの教科と特に深く関わる総合的な学習の時間というのもあるのではないか。
 最後に、特に課題設定、課題解決的な学習をしていくときに、教員の数や教材を買ったり開発するためのお金や時間も、現場では極めて乏しい。目標を立てて全体像をつくり、個々の時間の指導計画を立て、教員が時間を持って研究していくという余裕がないといけない。
 ゆとり教育というのは、生徒が試行錯誤の時間を見守ることができるという教育だと思う。各学校が総合的な学習の時間を進めていく上での条件整備に加え、学校としての組織的な方向性を出して取り組んでいくことが必要である。

委員
 総合的な学習の時間という制度が生まれた時、これは大変良いことだと思った。我々民間も協力して、教育を豊かにしていかなくてはいけない。
 そこで一つのアイデアをもった。我々は、日本語の話し言葉の専門家だが、美しい話し方を小学生に教えてあげようというプロジェクトを考えた。あまり認識されていないと思うが、話し言葉としての日本語の基本は、五つの母音にある。例えば、この会の会長の鳥居さんの御苗字は、母音だけで言えば「オイイ」ということになる。それにTの子音がくわわり「ト」、Rの子音がくわわり「リ」、Iの母音のみで「イ」、ということになり「トリイ」となる。聞き易く、解り易く話すには、この母音を等間隔に分離させるということが大事である。劇団四季ではこれを徹底的に教育している。今回は三人の俳優を学校に行かせて、四十五分間子どもたちにこの基本を楽しい会話の内で教えている。我々が創った子どものためのミュージカルの中に『友達はいいもんだ』という歌がある。NHKの歌謡でも取りあげられ、学校でも随分歌われているようだが、これを子どもたちと一緒に、まず母音だけで歌い、そして子音でも歌う。『友達はいいもんだ』という歌は、友情や連帯の大切さを歌っているので、ある意味ではモラルの教育ということにもなる。
 まず、この仕事はいきなり広げると問題があるので、我々の劇場がある品川区や港区の小学校にお声をかけて募集したところ、すごい反響があった。「総合的な学習」の時間に皆様がこれを取り上げたいということだった。かなり社会的な反応も大きいので、新聞社や放送局から取材の申し出があったが、しばらくこのプロジェクトを実行し、定着してからお受けしたいと思っている。
 このように総合的な学習の時間は民間の協力も得て、大きな役割を果してゆくものだと思う。

委員
 総合的な学習の時間を考えるほど、学校図書館の重要性が浮かび上がってくる。総合的な学習の時間というのは一方で、社会的、自然科学的な体験をする。しかし、その体験を学習に結び付けるのは図書館である。体験と本からの学習の結びつきの中から学習が定まっていくのではないか。図書館司書というのは図書館事務をやる司書という意味とはせずに、校長先生か教頭先生のように相当経験があり、全体的な視野で、すべての教科に対してにらみのきく方に担当していただく。これを制度的にやっていただければ、ある程度、総合的な学習の時間を他の学習と有機的に結び付けることができるのではないか。

委員
 総合的な学習の時間はすばらしいことだと思う。年に四、五回、小学校を訪問させていただいているが、そのときに、小学校の1年生と6年生、2年生と5年生、3年生と4年生が1組ずつペアを組んで、菊を育てていく取り組みを見た。菊を育てるのは難しいものだが、その様子を観察しながら、命の大切さを教えているのだという。
 また、小学校新聞等を応募していただき、その選評もやらせていただいているが、紙面がきらきらと輝いていて、子どもたちの生き生きと呼吸する様子が伝わってくるのが自然学習についての紙面。地域によっては、海草のしおりを作ったとか、自分の生まれ育った場所を知るためにおばあちゃんにこんな話を聞いたとか、すごくよいものを学んでいるという様子が紙面から感じられた。
 一方で、資料3の意識調査の結果の速報の中で、総合的な学習の時間についての問題点が見えてきた。人とお金が不足しているということが言われている。また、これは教員の方々が忙し過ぎて、準備や手間のかかる総合的な学習の時間に真剣に取り組めないのかもしれないということなのか、中学校の担任の過半数の方々が総合的な学習の時間をなくした方がよいとまで言われている。
 人とお金ということが出てきている中で、これからはPTAの方々の協力も必要だと思うし、また、民間の講師の方々をアピールして、情報を出しながら連携していく必要もあると思う。また、そのための予算ももっと本格的に考えなければいけない。

委員
 東京都の教育の中で総合的な学習の時間をいろいろ考える中で、これは絶対必要な学習だと思っている。今の新教育課程においては、まさに旧課程の学力観を全く変えて、生きる力という学力観を据えてきた。この学力観は、教室の中、学校の中だけでは絶対に育めない。ということは、総合的な学習の時間というのは原則的には座学からの解放で行うのだろうと思う。そうすると教師だけでなくて、地域、あるいは家庭の協力が必ず必要になってくる。
 中教審の中の生涯学習部会の中で地域教育サポートネットという事業を提言している。この地域教育サポートネットという事業は、まさに学校との兼ね合いでいうと、学校に対するサポートである。これが稼動しない限り、教師の多忙感は消えない。ただ、今、東京都の方で地域教育サポートネットの立ち上げを試行的にやっているが、そう簡単にいくものではない。
 例えば今度、東京都で全中学2年生を1週間、体験学習に出すことにしたが、ある市では、とても教師では体験先の開拓だけでも無理で、市の管理職1,500人がすべて職場開拓に歩いたことがある。このような苦労があって初めて、総合的な学習の時間というのは生きる。
 総合的な学習の時間の時間は平成14年に始まってまだ3年である。まさに試行錯誤的に各学校で取り組まれているところだ。一方、学校をサポートする体制はまだ整っていない。サポート体制をどうするかというのは最大の教育行政の課題であるが、それを早急に立ち上げた上で、初めて総合的な学習の時間は評価が可能になるのではないか。

委員
 総合的な学習の時間というのは児童・生徒の学習する場であって、各地域や学校の児童・生徒の実態に応じて、主題の設定、企画、立案から既に始まっていることがよくわかった。また、従来のほかの教科とは違って、この部分に関してのサポートが必要だということや、そういった面の努力がもっと必要だということもわかった。

委員
 総合的な学習の授業は絶対に必要であると考えている。今日の時点で、いろいろな保護者や、教育者の方々にアンケートをとった結果も大変重要だが、教育の結果というのは長期的に出るものである。まだ3年で試行錯誤している中でよい悪いというよりも、これをよくするための課題を見つけていくことが重要である。5年、10年たったときに子どもたちがよりよく成長していることを目指し、評価の仕方や問いかけ、質問、調査の仕方等も工夫が要る点だろう。
 総合的な学習の時間というのが取り入れられたときに、これが一般人が学校の教育の現場に入っていける一つの窓口なのだと感じた。今までは、例えば私が仕事で面白い体験をしたときに、これを学校で子どもに話してやりたいと思って学校にかけ合っても、そういう時間がないのですと言われてしまうこともあった。忙しい教師にとっても、一般の社会から来る人たちの話の内容や教育への取り組みから、学んだり刺激を受けるというよい時間になるのではないかと思う。総合的な学習の時間が、忙しい教師の方々がただ工夫して負担に思われる時間ではなく、外からの知恵や人や刺激が入ってくる一つの窓口として取り入れられたらよい。

委員
 総合的な学習の時間は、新しい学習指導要領の命である。基礎・基本と生きる力という理念の一つを実現させるのが総合的な学習の時間なのだと考え、現場、特に小学校では強く推し進めてきたところ。命というのは、今まで日本の教科の指導の中ではなかった、いわゆる課題発見能力、自らが課題を発見する力を育むことを大きな理念としているからだ。特に課題発見能力というのは、日本人にすごく欠けていたところである。
 総合的な学習の時間は、まだ正規に入ってから3年、移行期を含めて5年しかたっていない。この5年の中で様々な報道等によって、現場がぐらついた状況はあるが、やはりこれをきちっと残していかなければ、日本の教育は一体何を目指しているんだということになりかねないのではないかと思う。ぜひ、総合的な学習の時間を残しながら、加えて、人的なものや財政的なものも含めて、条件整備をぜひ強めていただきたい。やはり条件整備なく、すべて教師の努力にゆだねられていたのでは、どんなによい理念であっても、実現することは難しいだろう。
 それから、時間数の問題がある。全体約950時間という時間数の中で、小学校でいうと105時間が本当に妥当な時間数なのか。私は105時間でもよいと思うが、いろいろな課題やほかの教科の問題等から考え、70時間から105時間といったような幅があってもよいのかどうか。
 課題発見能力、課題解決能力を養い、プレゼンテーション能力を培っていく意味では、総合的な学習の時間を継続させたい。

委員
 一つは、校長も教頭も教務も、総合的な学習の時間は経験がない人が多い。だから、かなりの校長でもどのように部下を指導してよいかというところには弱さがあると思う。そこで、ぜひ国や県で研修をやってほしい。総合的な学習の時間の本当の面白さも苦しさも価値もまだよくわかっていないから、総合的な学習の時間の本当の実践者を発掘していただき、このようにやってみたというすばらしい実態を見せてあげてほしい。
 それから、総合的な学習の時間が学力低下の根源みたいに言われるが、見えにくい学力について日本の教育界が今まで放置してきた問題でもあると思う。だから、総合的な学習の時間でもって見えにくい学力をどのようにするのかについては、21世紀の総力を挙げる課題だと思っている。

委員
 今、町によってはいわゆる授業評価制度の導入が進んでいる。授業評価の観点からいって、現場に権限がおりて、現場にやる気ができた点が成功といえる。私は学習指導要領の枠組みをどう変えるかという議論以上に、いかに学校が創意工夫を生かして教育課程を編成して、そのために国や市町村、教育委員会がどのような支援体制を整備するかということの方が重要である。
 教師の多忙感というキーワードが出ているが、多忙感というのはやらされたときに多忙感である。自分でやる気になったら、どんなに忙しくても多忙感は出てこない。だから、現場に権限がおりて、責任をもった教師には多忙感は出ない。
 それから、教育改革の原点は、授業づくりへの挑戦ということだ。この授業づくりというのは、やはり指導方法と教材づくりのセットでやっていくものだ。結論として、地方自治体の希望としては、財源は国が持っていただき、権限を現場に下ろしていただきたいということだ。

委員
 学校現場は文部科学省なり、教育委員会の指導に頼るところが問題だということが、義務教育特別部会でもしばしば指摘されている。できるだけ学校現場の創意工夫に委ね、校長以下先生方がやる気を起こして教育効果を上げるのが基本だと思う。先ほど校長、教頭、教務主任は、総合的な学習の時間の経験がないという意見があったが、教員を含めみんなで考えて、自分の学校ではどういう教育内容、方法をとるかということを集まって協議するという場が必要だし、そのことが学年の進度に応じた体系的な総合的な学習の時間の構成にもつながる。これから、それぞれの学校が地域社会や子どもたちの状況を見て、本当の意味の総合的な学習をつくり上げていくことを期待したい。

委員
 基本的には生きる力や問題解決力は大事だと思う。その上で、総合的な学習の時間を何とか工夫してやってくことを考える。あまり変えない方がよいと思うが、ただ、授業時数は、全体の980時間、1,050時間という中で、どういう組み方をするのかは考えるべき。
 中学校では、特に3年の担任になると、もう秋には高校入試のことを中心に考えていくという現実がある。ここには保護者のニーズがある。子どもも一緒になって三者面談を繰り返してやることになるが、その中に生きる力等という話はあまり出てこない。本当ならば、そこで生きる力、総合的な学習の時間がどう評価されているのか、そしてそれが入試に現実的にどういうふうに影響するのかが出るはず。総合的な学習の時間の評価についてまだまだ研究しなくてはいけないし、それが本当の力としてどう高校入試でも評価されるのかが問題である。

委員
 大学入試も、総合的な学習の時間と無縁ではないと思う。高校入試では、例えば京都ではいくつかの学校が推薦とか適性検査といった形で、総合的な学習の時間の到達度を見るような問題を出題している。
 総合的な学習の時間が、総合的な学習の時間であるが故に、直接の担当者がいないということがある。校長、教頭、教務主任が担当するという意見も出ているが、校長も随分多忙だというアンケート結果が出ている。総合的な学習の時間を考えるような組織的な、具体的なものをつくらないとだめだろう。教科「情報」というのは高等学校では平成15年から入って、「情報」の免許を持った人が担当し、一つの教科としてできつつある。それと同じように、総合的な学習の時間もどういう形で担当していくのかという工夫を各学校がしていかなくてはいけない。

委員
 先ほど、生活科が都会だから社会寄りになっていると意見があった。尾道も都会だが、どうか。

委員
 理科的なものはかなり薄っぺらい。体験的なものというと社会的な体験となる。例えば電車に乗ったり、どこか公共施設を使ったりというものの方が取り組みやすくもある。
 理科の場合には最終的に物理や化学とつながってくので、ある程度やるべきことを明示した方がよいのではないか。特に、小学校の低学年の段階は勉強と遊びの区別がないから、いろいろな物事に対して興味・関心を持ちやすい。その点からも、昔の低学年理科にあった風車やあぶり出し等はぜひとも復活させていただきたい。
 要は教科全体の中での位置づけである。例えば、私は理科で牛の心臓を持ってきてばらしたり、通信の教育で中華なべを持ってきてパラボラアンテナを作ったりと、社会、理科の中でも体験的なことはやっていた。果たして、これからのそういうものは総合的な学習の時間に入るのか。それとも理科や社会の発展に入るのか。では、時間数の問題はどうなるのかとなってくる。
 総合的な学習の時間は自ら学び、自ら考え、主体的に判断するという方法論に主軸が置かれている。教材に主軸が置かれている各教科とは趣を異にしている。それだけに、総合的な学習の時間の全体の中での位置づけや、評価や、高等教育に向けての系統性等をもう一度整理していただく必要があるのではないか。
 私自身は、まずねらいの部分についてもう一度考え直し、他の教科とのバランスを考えていけば、もう少しイメージがわきやすくなるのではないかと思う。そこがはっきりしないと、全体計画は各学校で示すようにいわれても、非常に右往左往してしまう。

委員
 体験については、自然体験が多い地域と社会体験が多い地域があり、地域性の違いがある。
 それから、小学校段階ではある程度、校長先生、教頭先生、教務の先生等が一生懸命やればできると思うが、中学校段階では、ある意味では、すべての先生がそれぞれの専門家でそれを総合するとなるとすごく力が必要になる。もちろん力を持った先生方もおられるが、それを日本の全部の先生にやってもらうのは大変難しい。兵庫教育大には総合的な学習の時間の専門コースができたが、そのようなところで、コーディネートする能力のある人を育成していただき、その方々に実践をやっていただくことが必要かと思う。

委員
 日本の教育システムの中にはプログラマーがいないという問題がある。アメリカと日本で年間10から20程度の学校をつないで、一つのプロジェクトについてお互いにコミュニケーションしながら研究するという、マスターティーチャープログラムというのがある。そこでは、アメリカはいろいろなことを考えてくる。それができるのは、アメリカにはこういうことをやったらどうかと助言をするプログラマーがいるからだ。
 マスターティーチャープログラムではバグプログラムをやっている。日米二つの学校を結んで、自分の学校の近くで虫を集める。そうすると、プログラマーから虫の分類についてはこの分類学者に頼めという助言がなされ、分類学者がプログラムに参画してくる。また、気象の話になると、NASA(ナサ)にいくと気象のデータがすぐにもらえるよというアドバイスがプログラマーから来る。このようなシステムがうまくできている。
 日本ではプログラマーが殆どいないので、総合的な学習の時間はなかなか難しい気がする。先生方にお任せするのではなくて、このようなプログラマーに入ってもらうことが必要だ。
 外のヒューマンリソースを学校教育に使えるようになったと意見があったが、その点をもっと議論していきたい。

(2)事務局より今後の日程について説明があり、閉会となった。

お問合せ先

初等中等教育局教育課程課教育課程企画室

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)

-- 登録:平成21年以前 --