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教育課程部会(第17回) 議事録

1.日時

平成17年6月8日(水曜日) 15時~17時

2.場所

フロラシオン青山3階 「孔雀」

3.議題

  1. 各教科等の成果と課題の検証(国語、理数、社会)
  2. その他

4.出席者

委員

 木村部会長、阿刀田委員、安彦委員、荒瀬委員、市川委員、井上委員、植木委員、宇佐美委員、衛藤委員、陰山委員、加藤委員、佐々木委員、田村委員、渡久山委員、中嶋委員、深谷委員、藤崎委員

文部科学省

 銭谷初等中等教育局長、山中初等中等教育局担当審議官、樋口初等中等教育局担当審議官、田中視学官、大杉視学官、宮川視学官、布村生涯学習政策局政策課長、常盤教育課程課長、木村教育課程企画室長
国立教育政策研究所
 折原教育課程研究センター長、その他関係官

5.議事録

(1)事務局より資料1から資料6について説明の後、国語科と理数教育(理科、算数・数学科)の成果と課題の検証について自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。(○=委員、△=事務局)。

(国語科の成果と課題の検証について)

委員
 昔からよくわからないのがローマ字。小学校4年生でローマ字をやって、5年生、6年生でなぜやらないのか。中学校の英語の先生からは、アルファベットが書けなくて困っているという意見が出ている。ローマ字について見直してはどうか。
 本校では情報科というカリキュラムを文部科学省の研究開発学校として実施しており、子どもたちにパソコンを使って作文をさせているが、その中で、タイピングならばローマ字を非常にスムーズに体得させることができることがわかった。小学校2年生にローマ字の基本的な仕組みだけを教えて、あとはタイピングソフトを練習させると、1か月半ぐらいでほとんどの子どもたちがマスターしてしまう。子どもたちは小学校の高学年になっても、情報科の中でローマ字を使っていくことになるので、ほぼ間違いなくローマ字を定着させることができるだろうと思う。ローマ字の扱いについては、ITの活用と絡めて考えたい。
 なお、紙と鉛筆で作文を書かせると非常に嫌がる子どもたちが、コンピュータを使って作文を書かせると非常に喜んで書く。その結果、今まで短くて、かたい文章しか書けなかった子が、自分の思いをスムーズに書くようなことが見られるようになった。例えばアメリカは、タイピングが発達していると聞いているが、意外とタイピングは、自分の思っていることを表出するということに関係があるのかもしれないと思う。

委員
 今の意見に賛成。総合的な学習の時間で英語学習が行われていることを考えれば、最初の段階からローマ字を教えてもよいのではないかと考える。コンピュータを使うとき、最初、子どもたちは、ひらがなで打つ。それを4、5年になってからローマ字入力に変えるのは難しい。最初からローマ字入力にさせる方が、子どもたちはスムーズに英語に入れるし、情報教育にも入れる。
 もう一つ別の観点から意見したい。教科書はすばらしいが、現場ではこの教材を教えることが精一杯で、非常に時間が少ないと言われている。この「教材を」教えるのであって、「教材で」教えるということまで行かない。だから、現状として、教えた内容をほかに汎用できる能力を身に付けさせるところまではいっていない。
 そこで、単に国語の時数を増やせばよいとするのではなく、国語力が大切だとか学力の基礎だという認識が一致できれば、学習指導要領の中ですべての教科において国語の大切さをきちんと位置付けるようにしたい。国語の視点から全部の教科書も見てもらえば、その中ですばらしい文章を勉強できるし、例えば理科とか総合的な学習の時間の中で、発表する、資料を作るという段階で国語の指導はできる。また、ディベートの時間等もより活発になると考える。

委員
 私自身が国語教育を学校で受けているときに、国語というのは、有名な文章を読み、書いた人の気持ちは何かとか、この主人公の気持ちは何かと聞かれることばかりやっていた記憶しかない。
 大学の話になるが、英語だけで授業を受ける学科に入ったとき、作文の時間に先生が目覚まし時計か何かを出してきて、2日後までにこの目覚まし時計について四つの文章を書くよう指示された。説明文、分析等の4種類の文章。一つの物事を四つの違う視点で考えるというのは、日本の国語教育ではなかったなと体感した。
 国語の力に、文学作品を読むことに加えて、コミュニケーション能力等を加えることが必要だろう。また、質問をしようと思いながら聞く力や文章をつくっていく力が今の国語のイメージにプラスアルファで必要だと思う。
 また、話す力の中に、声の出し方、滑舌、発音といった指導が全く入っておらず、大きくなっても発音があいまいだったり、声が異様に高かったり、非常に説得力もないような人が多いように思う。
 さらに、かぎ括弧や丸の使い方が、多分日本だけ何のルールもないのではないかと思う。小学校のときは、丸とかぎ括弧を一つのますに書けと習った。あるいは、丸を先に書き、次のますに閉じる括弧を書けと習った。しかし、新聞や雑誌は逆で、括弧の外に丸を書く。これが社会に出てからの常識である。アメリカ等では、句読点、コロン、カンマの使い方等は徹底的に習っていて、それが使えない人は学校を出た人とは思えないというレベルがある。日本においても、もう少し統一して教える必要があるのではないか。

委員
 ローマ字は3、4年生で学ぶことになっているが、どのぐらいの時間で学び切ることとされているのか。
 また、特にコンピュータとの関係等からすると、初めからローマ字入力の方がよいが、ローマ字をある種の記号として考えると、1年生でも十分学ぶことができると思う。1年生から国語の中にローマ字の時間も入れた場合、どのぐらいの時間でほぼ学び切れるのかもあわせて考えたい。

事務局
 ローマ字について学習指導要領には「日常使われている簡単な単語について、ローマ字で表記されたものを読み、またローマ字で書くこと」が含まれている。

事務局
 ローマ字は、国語を書きあらわすための文字の一種。平仮名、片仮名、漢字に加えてローマ字ということで国語科の中に位置づけられており、その書き表し方には、いわゆるヘボン式と訓令式とあるが、国語科の中で何時間かけるかということは決めていない。国語以外では、ローマ字表記については総合的な学習の時間において情報を学習するときや、土堂小学校のように研究開発学校として特別な教科を作ったときにやっている。
 このように、小学校では、ローマ字については、日本語の音節とその表記ということの一環としてやっており、漢字仮名まじりで日本語を自由に書くのと同じところまでは考えていない。

委員
 総合的な学習の時間が3年生からであることから、ローマ字についての学習も4年生からとしてあると解釈してよいのか。
 そうだとすれば、もっと早くローマ字を勉強した方が、日本語自身も相対化できるし、今後の英語学習にも非常によいと考える。ローマ字を覚えることはそんなに難しいことではなく今の子どもたちの能力で十分できるので、1年生から教えていただきたい。

委員
 今は小学校1、2年から自宅でパソコンを使っているが、小学校に入学してきたとき、ローマ字がかなりできる子もいるのではないか。

委員
 本校の場合でも、各家庭にパソコンがあるか調べてみると、1割前後はお持ちではない家庭もある。
 9割は持っているから、割とスムーズに学習に入れる。1割の子どもたちに対しては若干スピードが落ちるところもあるが、子どもたちの習得というのは非常に速いので、半年もすれば気になるような状態ではなくなる。

委員
 ローマ字を変換するとき、子どもたちは日本語のどの漢字に変換すべきかがわからない。それを考えると、やはり一定程度国語力がついていなければ、何をどう表現するのかという話にはならない。

委員
 別にコンピュータとか、ローマ字の学習を否定するわけではないが、いわゆる国語の本道は何なのか。確かに子どもたちは、コンピュータによく飛びつく。ただ、コンピュータでは、文章を作っていくとき、推敲のプロセスが消えてしまう。そのプロセスの問題や、ローマ字と英語との関係については慎重に考えたい。国語というのは最大の日本の文化だと思う。
 学習指導要領の問題点と、教科書の問題点と、実践する現場の教員の問題点が混ざっている部分がある。それらを分けられない部分もあるということは承知しているが、ある程度区分けして考えていかないと、議論してもどの部分を問題にしているのかわからなくなってしまう。
 さて、よく「教科書で」教えると言うけれども、現場では学習指導要領よりも「教科書を」教えるになっている。ここでは学習指導要領について意見したい。
 国語だが、資料3の5ページに小学校、各教科の目標及び内容の例がある。そこから、低学年は2分化だということがわかる。小学校は2学年ずつとなっている。中学校は1年生だけは1年で2、3年生は一緒。この点を検討する余地はないのか。
 もう一つは、ほかの教科でも同じことが言えるのではないかと思うが、小学校6年と中学校1年に段差があるのではないのか。本当に小中9か年を通じた一貫性あるカリキュラムとなっているのか。現場でも小学校のカリキュラムを作るとき、小学校だけで考えてしまいがちである。

委員
 義務教育卒業時点の段階で、子どもたちがどのような言語能力を持っているのかということを、きちんと想定する必要があるのではないか。
 総合的な学習の時間が入ってくる段階とその前の段階とで、国語の扱いというのは当然、違ってきてしかるべきだろう。例えば小学校3年生で英語をやっているが、4年生になってからローマ字をやるというのはちぐはぐである。そのことについて、国語なら国語だけ、社会科なら社会科だけ、小学校なら小学校だけというふうに、最初から枠を決めて考えると、全体像が非常にゆがんできてしまうのではないか。
 これからの時代の言語能力ということを考えていくと、やはり英語の問題というのは考えざるを得ない。小学校である程度英語をやるとなった段階では、もはや日本の国語教育というのは全く影響を受けないわけにはいかない。英語をやるのなら、日本語としての言語能力をどのように確保していくのか考えなければいけない。
 私の学校の場合は、小学校2年生からローマ字をやるが、一方で漢字学習は、しっかりと漢字だけを学習するというカリキュラムとしてある。それから、毛筆とか硬筆の書き方も非常に力を入れている。
 毛筆的な日本語をきちんと書く力、漢字をきちんと理解する力、それらを生かして言葉をつくっていく体験、それからローマ字。このように、子どもたちに付けていく一つ一つの力をパッケージとして考えるべきである。私はそれら一つ一つをパッケージとし、将来、子どもたちが実社会に出ていったときに、発揮することが必要になる力だろうと考えている。そのように時代の要請というものを考えないと、国語だからこのような能力を身に付けさせるということにはならないのではないかという気がする。

委員
 学習指導要領は大綱的基準であり、ある程度大くくりで、現在の各教科の目標及び内容の例にあるような表示もあり得る。一方、最低基準という考え方を前回の改訂で強調したとすると、事柄によっては1、2年をまとめて書くこともあり得ると思うが、各学年でどこまでを到達目標にするかということをある程度具体的に明示しないと、各学年でどこまで到達すればよいのかというのが不明確になっていくのではないか。最低基準の考え方からは、やはり学年ごとの目標の書き方を具体的によく精査する必要があるのではないかと思う。
 それから、総合的な学習の時間で、場合によっては3年から英会話のコミュニケーションを導入したりするという学校が出てきているわけで、ローマ字が英語学習の基礎になるとすれば、ローマ字の学習が4年でよいのかどうか見直しが必要である。ローマ字が英語学習に結びついてくるということは、我々のローマ字学習の体験からも言えるのではないかと思う。

委員
 コミュニケーション力を付けると意見に賛成。国語教育の中では文学的な作品を鑑賞したり、自分で創作活動をするという面があるが、一方で、大学や社会に出たとき、あるいは子どものときにほかの教科を学ぶことを考えると、国語では、説明文をしっかり読むということと、意見文なり論説文というものを書くという活動が非常に大事となる。
 ところが、実際には日本の国語教育においては、コミュニケーション力としての言語能力をどう付けるかということがあまり体系化されていないような気がする。
 国語の教科書の編集委員だった経験から、私は小学校ではコミュニケーション力を付ける活動が教科書の中にも随分入ってきたのではないかと思っているが、中学校とか高校になってしまうと、文学の方に流れていく。ただ、高校の国語で国語表現2という科目ができ、ディスカッション、レポート、説明文やそれらをどのように書いていくかという方法論がかなり出ている。こういうディスカッション等を中心にしたスキルを付けていくことを、ぜひ柱として出してほしい。
 それから、資料5について、教育課程部会の意見の中の「読書を通じて教育内容の理解を深めることが重要」という意見だが、「読書を通じて」だけに限定されてしまうと少し狭い。「各教科において読解活動や表現活動を通じて」というように広げてほしい。表現活動には、プレゼンテーションやディスカッションが含まれる。
 そして「教育内容の理解を深める」というところは、「実践的な国語力の伸長を図ることが重要」としてほしい。各教科というのは、国語力をフルに発揮して、実際の内容を学んでいくという場であるわけで、そこでこそ生きるような国語力を国語の中でも伸ばしてほしいし、また、各教科の中でそれを応用していくという連携がとれればよい。

委員
 随分前から言われているが、国語科の内容は少し文学的過ぎるのではないか。日本語を扱う力というのが国語の第一義であって、日本人のオリジナリティを形成している日本文学というのは、国語科の中では限られていることである。日本語を扱う力としては、言語能力的な漢字だとか意味というものと、論理構造という二つの大きな柱があると思うが、この日本語を扱う技術というのを教えることがまず第一であろう。
 一概には言えないが、小説家の文章の中にも、まねしない方がよいものもある。わざとそれを書くということも文学で、そのような文章は教科書には使われないと思うが、あることは歴然としている。やはり、日本語を扱う力を教えるのが国語教育なのだということに徹し、その一部で民族のオリジナリティとしての文学作品が入っていると考えないと、国語力の育成という観点からは不十分なのではないか。
 それから、日本語というのは、もともと非常にあいまいな言語で、句読点を付けなくても読めるものだが、ある程度スタンダードがなくてはいけない。ローマ字の問題が出ているが、文部科学省として出しているものは、訓令式か、ヘボン式か。それからヘボン式にも幾つか乱れがある。そういうスタンダードさえない。
 それから、かぎ括弧と丸との関係をどうするかということも、決めているがそのとおりになっていない。
 だから、やはり学校教育の場において、ある種の納得できるスタンダードを決める必要があろう。
 ローマ字を早く入れることに関しては非常に慎重に考えている。小学校1、2年生というのは、平仮名、片仮名、漢字まで全部入ってくる。好奇心の旺盛な子どもや都会の非常に進んだ教育を受けられる子どもだけではないので、現場の実践的なものとあわせて考えながら入れていくべきだろう。
 教材でも、よい日本語で書かれた理科的な教材、数学的な教材、社会科的な教材があるが、それらの読み物というのは欧米に比べて日本は少ないような気もする。国語の授業で扱ってよい理科的な文献、社会科的な文献等は探せば幾らでもあると思うので、それをどんどん取り入れるとともに、ほかの教科でも国語を取り入れてほしいと思う。国語が全知識に関わっているのだとわかるような教材づくりが考えられてもよいのではないか。

委員
 国語は一番の基本になる教科だととらえている。ただ、現在は、子どもたちの生活環境において文字離れや会話が不足している等の問題がある。また、しつけの問題から正しい敬語ができなかったり、話しかけられても単語でしか返さないようなこともある。国語は生活の中で培われる部分がかなり大きい。
 そのような中で、小学校・中学校と国語の指導に取り組むわけだが、資料5においては、私は暗記や音読が改めて大事だと思う。それから、1の右の真ん中あたりにあるとおり「入門期では、型というものが極めて重要」であると思う。また、「型と応用の相互関係を見ながら、力を育てることが重要」と思う。
 つまり、今の子どもたちの生活の状況からして、改めて大事なことは徹底的に指導する必要がある。表現力、コミュニケーション力も付けなければいけないが、一足飛びにそれらを求めるのはなかなか難しいと思う。

委員
 まず、学習指導要領はノウハウ集なのか、マニュアルなのか明確でない。また、学習指導要領と教科書との関係や、それを実際に使う教師がどうやって実践し、評価しているのかということを踏まえ、PDCAサイクルの仕組みを作っていくことが非常に大事である。
 二つ目に、国語というのは一番総合的な科目だと思うので、他の科目との関係、体系性が非常に重要だと思う。国語から他教科に向けた発信、他教科から国語科に向けた発信の中で、目的達成に向けてそれぞれの教科がどのように影響し合っていくかということを検証する仕組み作りが必要である。
 三つ目に、国語力の育成に当たっては、資料5の主な論点として、人間力とか、文化としての国語力とか、ディベートの力とか、日本人としてのアイデンティティ等という切り口が並んでもよいのではないか。
 最後に、句読点の話になるが、コンマと点の教え方について少しあいまいではないかと思われるので、この機会に整理されたらよいと思う。

委員
 調べ学習について、今ではインターネットを使って調べるということもある。インターネットと言えば、アメリカの小学生がホロコーストについて調べてきなさいと言われ調べたところ、ホロコーストはなかったというホームページに行き着き、そのように作文を書いた。これに対して親も先生もどうやって指導に当たればよいか悩んだという話があった。書籍でもそうだが、これからは覚える力だけでなくて、情報を読み取る力や文章を見たときに探し当てる力、そしてその情報が正しいのかどうかを比較する力が必要になると考える。これらの力も国語の力に入るのであろう。

委員
 日本語は論理的なものを表現するのに適当な言語だろうかと言われるが、日本語がどのようなリテラシーを持つべきか議論が必要。
 もう一つは、教科書と学習指導要領の話。現場では研究授業等があると、学習指導要領は読むが、通常の生活ではなかなか読まない。また、例えば教科書を使った教材で、学習指導要領の目標や目的が達成したかどうかということを検証するとなると、教材研究の一部と見ても、非常に多くの時間がかかる。
 それから、読書指導については図書館が大切である。司書教諭はほとんど兼務になっているから、図書館にきちんとした専任司書教諭を配置するということが重要だと思う。
 最近、外国の子どもたちが公立学校に通ってきている。その子どもたちに対する日本語指導、そのための教材、あるいは学習指導要領をどうするかということを考えておくべきではないか。今後きちんと研究していく必要があると考える。

委員
 現在は、国際社会の変化がものすごい。このため日本人としてのアイデンティティの問題を含めて、いわゆるグローバル化の時代における国語教育の在り方というものを考えざるを得ない。ローマ字については、アルファベットは27文字で50音よりもはるかに少なく、記号としては簡単に教えられてしまう。一方、国語力、表現力というのはすごく重要で、そのためにたくさんのことをやらなければいけない。国語の中に日本人としての在り方等を入れるとすれば、ローマ字は早い時期に、記号として教えてしまった方がよいと考える。
 コミュニケーション能力について、私のいる大学ではすべて英語で授業をやって、私自身も英語で講義をするにもかかわらず、学生に調べ物をさせると、みんなインターネットで調べてきて、ほとんど本を読まない。読書によって自分の思考を深めるというプロセスがほとんど欠けてしまって、表現力といっても記号と記号の足し算みたいな形で表現することになっているような気がする。
 我々はこれまで「国語」と言ってきたが、国語といっても英語に訳せばJapaneseあるいはJapanese languageであって、国語の中に実は漢文も入っているしローマ字も入っている。国際社会がグローバル化すればするほど、日本人自身のアイデンティティや日本的なものが大事だとすれば、この際、思い切って、「日本語」というふうに教科の名前も置きかえた方が、国際社会でも通用するようになる。これまで、「国語」を「日本語」という形で教科の名前を置きかえるような議論はあったのか。

事務局
 国語専門部会では今までなかった。

委員
 学習指導要領というのは、非常に見事につくられている。ところが、国語の教師というのは、基本的に文学が好きな人が多い。だから、国語科の教員集団というのは、「舞姫」の載っていない教科書では授業ができないという感覚になり、コミュニケーション能力等については甚だ心もとないという集団なのではないか。だから、今後は教科の枠を超えて、例えば社会の先生方や理科の先生方とコミュニケーションを図ることによって、国語の力をもっと多面的にとらえていく必要があるだろう。
 国語では受け取る力、考える力、判断する力、表現する力の四つの力を付けなければいけない。受け取るというのは情報を収集するということ。考えるというのは試行錯誤も含めて、最終的には判断して表現していくことにつながる。そうすれば、当然、情報を受け取った人が、また考えて判断して表現していくというのでコミュニケーションの連鎖がつくられていくだろうと思う。国語表現2等の科目について必修化が必要になってくるのではないか。
 以前、日本語を使った表現力や受容力や論理的に構成できる力が求められているのにも関わらず国語教育の中で十分果たせていないという話があったと思うが、そのためにも国語表現2等の科目が必要である。
 それから、文学的な作品には優れていると思えるものがたくさんあるが、論理的な作品でも、これだけは読んでおかないといけないというものを定義する必要があるのではないか。

委員
 資料5の国語の、主な論点の柱の2番、思考力や表現力等の育成で、(書くこと・話すこと)、その次が(読むこと)、その次が(話すこと・聞くこと)になっているが、順序性はあるのか。検討が必要ではないか。

事務局
 資料3の方は、話すこと・聞くこと、書くこと、読むこと、言語事項という順番になっているが、これは学習指導要領に書かれている領域の順番である。資料5の方は、書くこと・話すこと、読むこと、話すこと・聞くことという順番になっている。これは論点ペーパーであって、専門部会で議論するときに、まず、書くこと・話すことというところで、表現という部分について検証しようとした。次に、読むことというところで理解力という部分について検証しようとした。最後の話すこと・聞くことというところでは、コミュニケーション等という問題意識から論点として設定をした。このため、学習指導要領の領域の順番とは別の整理になっている。

事務局
 話すこと・聞くこと、書くこと、読むこととなっていることには、順序性は特になく、どれも大事。以前の52年版、平成元年版の学習指導要領においては、表現、理解という領域構成だった。それを、話すこと・聞くこと、書くこと、読むことというふうに分けた。表現、理解というのも、表現が大事で理解が大事でないということではない。

委員
 アメリカに長くおられた方が、日本では語術をまず先にやらないから、言葉の教育がおかしくなってしまうんだということを言われていたのを憶えている。国語についても多分同じことが言えるのではないか。
 外国人に日本語を教えるという話が出ていたが、留学生に日本語を教えている方で活躍されている方は、外国で訓練を受けた人がほとんどである。そこにコミュニケーションについての秘密があるような気がする。日本のやり方では、外国人に日本語を教えるよい先生が育たないのではないか。語学に関しては、日本の場合は、教え方に大きな問題があるのではないかと思っている。

事務局
 ローマ字表記と句読点の話について、簡単に説明したい。どちらも日本の正書法の問題である。ローマ字は日本語を表記する文字の一つとして位置づけられており、いわゆるヘボン式では、例えばたちつてとの「ち」とか「つ」というのは、普通は「ち」であるとchi、「つ」であるとtsuという書き方をする。しかし、小学生が学習するときに、なぜ「ち」はchiと書くのかわからない。だから、訓令式では、た行の中の一つと分かるように、tiと教える。日本語の音節を表記するためということで、基本的に戦後はこの訓令式で指導をしてきた。しかし、実際に町で目にする看板等はヘボン式が多いので、現在はどちらでもよいということにしている。また、子どもたちの学習に障害が起きないようにすることを配慮して、各学校では4年生で教えている。
 先ほど、総合的な学習の時間が入ってからローマ字が学ばれているという話が出ていたが、ずっと以前からローマ字は国語の中で学ばれている。
 それから、点と丸だが、日本語の表記は非常にあいまいな面があるとの指摘だが、公文書ではコンマと丸が基本だと思う。文化庁で国語施策については、表記法、句読法、符号の使い方等について一応の決まりがあるが、個人の生活にまで細かく決めているわけではない。

(理数教育(理科、算数・数学科)の成果と課題の検証について)
委員  学習指導要領は非常に上手くできている。子どもたちの到達度、定着がどうなのかについては、授業あるいは実験の仕方というところが非常に決定的だと思う。きちっとした教材研究と授業研究をして、子どもたちにとって、よりわかる、より楽しい授業ができるかどうかが大切。
 自然現象でも、いろいろな現象がたくさん起こっているが、これを実際に実験して、具体的に見せていくことが非常に大事である。そのためには、例えば教材研究でも教材費が豊かにないとなかなか創意工夫ができない。

委員
 数学という学問を教える中で、なぜ数学をやるのかという理念みたいなものを先生に教えていただきたい。私自身の体験では、四則の計算がだめになると、今度は小数や分数を考え、分数がだめになると、さらに虚数等を考えていくというように、ある限界が来ると、人間がその限界を突き破る方法を常に考えながら、一つ一つ階段を踏み上げていくという文化みたいなものに感動し、数学という学問は非常にすごいなと思ったことがある。
 それから、仕事をしていて比例と反比例ということを感じている。小説を考えるときに、一つのアイデアを一生懸命考えていくわけだが、自分がみずみずしいときはよいアイデアが浮かんでくる。だんだん仕事を続けていくと、アイデアはどんどんだめになっていくが、年齢を重ねたために、今度はテクニックが上手くなる。初めはアイデアで書いていて、テクニックはだめだった。でも、アイデアが半分になったとき、テクニックが倍になっていれば、必ず一定のものが出る。そのバランスが崩れたとき、小説家として成り立たなくなという話だが、この話を一緒に比例と反比例の授業をすれば、子どもは非常に面白く感じるのではないか。
 また、確率については、これで宝くじはどうなんだとか、実生活の中での数学の意味合いを教えていくと非常に楽しくなる。

委員
 一番重要なのは、子どもたちにどのような力を付けるのかということ。教科それぞれの論理と別に、子どもたちには子どもたちの成長の論理がある。
 一番象徴的だと思うのは、5年生、6年生の教科書から帯分数を使った計算がなくなったことである。これが実は公約数とか公倍数を導くための一つの練習であって、中学校で方程式を解くための一つの基礎練習になっている。ところが、そこを弱くしてしまったものだから、単純な計算力は、今回の定着度調査でも確かに上がるとは思うが、その部分が弱いままでは中学校からなかなか上がってこない。
 昔の学習指導要領であれば、例えば九九も、かなり時間をかけて単に覚えるだけではなく、理解も含めて時間がとられていたと思うが、その部分が非常に弱くなっているという気がする。だから、子どもたちのつまずきを考えて、どのような力を付けるのか、全体的な系統性を考える必要がある。
 また、生活科は社会的な内容が多いと思う。例えば力学を扱うときに、昔の低学年理科で、やじろべえというものがあった。やじろべえは、指先に載せて、そこに力を感じることになる。まさしく体験的学習そのものであったと思う。それが高学年になって、梃子やつり合いといった数学的なものにもつながってきた。今は基礎的な体験学習の不足によって、本質的な意味での理解が弱り、知識とのズレが出ている。私は個人的には低学年理科を復活させるべきだろうと思っているが、それが難しければ、生活科の内容に理科的な内容を盛り込むべきである。
 それから、中学校の理科の教科書から法則の名前が消えている。電磁誘導についての学習はあるが、フレミングの法則の言葉もなくなっているし、よく使われた指の形もない。だから、実験しても頭の中に残らない。やはり学習の過程に、一つの成果として覚えるべきは覚える必要がある。それが、その後の理科的な学習の基礎になると思う。

委員
 まず、算数、数学について。資料5の中にもあるが、なぜ算数、数学をやる必要があるのか。必修としてかなりの時間を使い、子どもたちに半ば義務的にやらせているには、それなりの理由があると思うが、学習指導要領は、数学の体系に沿って内容が並べられているだけである。それを通じてなぜ学ぶのかということを考えるべきである。
 表現力やコミュニケーション力、論理的な思考力を付けるということが言われるが、自分が考えた道筋を論理的に表現することの指導や評価方法が実施されているのか。結局、与えられた問題を短時間で解くことだけの指導になってしまっているのではないか。
 結果的に、日本の子どもたちは、算数、数学の成績はすごくよいが、自分の考えた筋道を説明できるかについては非常に弱い。そのことは国際学力比較調査でも如実に表れている。
 それから、算数、数学で身に付けた力をどういうところで使うかという応用面が弱い。実生活や仕事でどう使っていくかという面を見せるということが足りない。小学校なら実生活面で、中学校くらいでは、ほかの教科とか仕事ということになると思う。例えば、社会科の中で統計が出てくる。統計の見方を習っていないとおかしな解釈をしてたり、グラフの見方がわからないということが起きてくる。文科系の中でも、数学がこんなふうに生かされるという面を見せながら教えていくことが大事である。
 ついでに理科について、日本の最近の理科教育が、観察や実験に拘泥し過ぎているような面を感じる。科学者でも、一方では本から学び、一方では実際に自分で実験をしたり、観察をする。この両方の面で研究や学習活動をしている。
 ところが、特に小学校だと思うが、本から知識を身に付けることが非常に嫌われる傾向がある。すると、教科書で予習したり、後から教科書を読んで確認するという活動を抜きにして、実験、観察だけから帰納的に法則を発見していくことが理科の学習だと言われてしまう。
 もちろん実験、観察は大事だが、教科書による言葉だけの知識があった方がプラスになるという面はたくさんある。ある程度の言語的な知識は教科書から得て、さらにそれを深めたり広げたりするのに、実際の実験や観察がある。そして、ますます実験や観察が面白くなっていく。特に、時数が少なくなった今の教育の中で、この両方の面をバランスよく組み合わせる必要がある。

委員
 算数、数学について、論理的思考とか問題を解決する力が算数の学習に含まれていると思うが、今の学習指導要領には計算関連の内容が抜き書きされているように思う。
 以前、パソコンの父と言われるアメリカのアラン・ケイさんという方と対談をさせていただいたときに、彼が、算数と計算は違うんだという話をして、計算ができることも重要だが、そのことと数学的能力とは違うということを言われていた。この数学的能力というものが、例えば論理的に考える力であったり、問題解決する力であれば、その面白さも教えていく機会があればよいと思う。
 『はじめてであう すうがくの絵本』という本があるが、そこではこの図柄がこっちに行くとこういうふうに変化する、それが机だったらどうなるか等と表されていて、私は数学的な考え方を絵本を見て理解したところがある。
 小学校の教育の算数でも、九九とかそろばんとか小数点といった表現だけでなく、物の考え方が盛り込まれた教材が使われたり、教員がそういう物の考え方を理解すれば、もう少し立体的になっていくのではないかと思う。

委員
 理数教育は考える力を養うのに非常に大切である。しかし、今の学習体系では、そのためのハウツーしか教えていないのではないか。
 数学では、以前は、台形は三角形と平行四辺形を組み合わせれば出る等と一生懸命自分で組み合わせを考えた。また、つるかめ算などとても難しく思ったものが、中学になって方程式が出て、こんな簡単なことでできるのだという非常な驚きを味わった。そういうものを今の算数の中で子どもたちが体現できるだろうか。
 理科についても、例えば種から芽が出ないときに、なぜだろうと子どもが考える。裏を見たら、ナメクジがいっぱいついていた。それに対して、教師は適切に答えなければならない。子どもがなぜだろうと考えたときに、教師はいろいろな側面から答え得るかという問題があると思う。
 学習指導要領は、考える力を身に付けるように考えられている。それをフォローするものが必要ではないか。例えば小学校で言えば、理系のバックグラウンドのない先生方もおられので、理系の専門家が付くことが考えられる。

委員
 学習指導要領だけの問題ではなくて、現場では教材の問題が非常に大きい。
 実は今回、海外の教科書を持ってきた。例えばアメリカの教科書だが、非常に文章が多い。つまり、論理的な思考が促されるように教科書が作られている。それに対して、日本の教科書は、テストのためのテキストという位置づけでしかない。
 中国の教科書だが、テキストか問題集かもわからないぐらい、非常に高度なものを早くからやらせている。韓国は、小学校の低学年から、ものすごく図形が多い。PISAの調査を見ると、図形分野は断トツで韓国が強い。
 日本の場合は、計算力が強いのは一つの大きな特色だろうと思うが、論理的な思考力などの力を付けるとなると、教師の指導力だけでやっていくのは難しく、教材とセットでやっていかないとかなり厳しい。

委員
 算数、数学について、私の学校では10年間ぐらい、高校1年生に入学し、まだ何も高校の授業を受けていない時点の生徒に対し、テストをしているが、計算問題については成績はどんどん下がっている。けれども、その子たちが全国模試を受けると、偏差値はどんどん上がっている。10年間ぐらいのスパンで考えてみると、全体的に落ちてきているのではないかということが、私の学校では非常に大きな問題になっている。
 それから、高等学校まで入れた体系的な学習指導要領の在り方が必要ではないか。小中学校でのゆとりの影響が、高等学校に来ていて、高等学校で学習する量が非常に増えている。大学入試は変わらないか、むしろどんどん難化している傾向にある。だから高等学校教育は本当に困っている。
 ゆとりという言葉が生み出しているのは、失敗する体験ができなくなってしまっているということだ。生徒たちは、うまくいく形しか知らない。失敗したときにどう対応してよいかわからないという、根本的に非常に重要な問題をはらんだ教育活動が日常、行われている。やはり小さいときから、一定程度の負荷を与え、多く経験を積ませることが必要かと思う。
 私の学校は、スーパーサイエンスハイスクールに指定していただいている。ここでは、高等学校の学習指導要領を超えた内容をやっているが、生徒は十分理解できる。だから、そういう内容を100校にも満たないスーパーサイエンスハイスクールだけが特別に享受できるだけでなく、学習指導要領で全体的にカバーできるようになっていけばよい。

委員
 数学も理科も同じだが、探求的な活動の中でひらめきといった部分も磨かれるという大事な学習だと思う。ところが、現場の教師は時間がなく、示されている内容がたくさんある。授業を見にいくととても面白いことをやっているが、次に行くと全然違うところをやっている。中学校では、高校受験が目の前にあるわけで、とにかく教科書も全部をやり遂げないといけないという忙しさが現実にある。
 また、子どもたちには、理科なり数学が好きな子もいれば、嫌な子もいる。また、教師にも教え方がとても上手な人もいれば、一方的にやってしまう人もいる。そういう中で、これだけの内容をみんなに理解させ、嫌いにしないようにすることは、大変な努力が要る。最低基準はあってもよいと思うが、発展的な内容等に範囲を広げて示すことも大事ではないか。また、発展的な内容も大切な内容は小中高でダブってもよいと思う。

委員
 平成13年の全国一斉教育課程実施調査で、理科は相当落ち込んでいるだろうと思っていたが、ほとんど落ち込んでいなかった。ひどく落ち込んでいたのは算数である。その結果が、PISAにも、IEAにも出ている。平成15年実施の調査で、算数は少し戻ったが、まだ平成6、7年ベースには戻っていない。
 理科については実際に学ぶ対象が見えるが、数学については、何でこんなことをやらないといけないのか、何の役に立つのかというところが見えない。そこを相当意識して、子どもたちに教えていかなければいけないのではないか。英国のいろいろな小中学校へ行って見たが、非常に上手く子どもの心をつかむ先生がたくさんいた。
 今度、義務教育特別部会で報告されることになっているが、最近、文部科学省が、教科の好き嫌いについてアンケートをした。その結果を見ると、理科は、小学校4年生から中学校3年生までほとんど同じである。以前は落ち込んでいたのだが、今回は下がっていない。
 ところが、数学、算数はものすごく落ち込んでいる。小6では「とても好き」、「まあ好き」というのは55パーセントいたのだが、中1になると28.5パーセントしかいない。理科と算数、数学で、明らかに子どもたちのリアクションが違ってきている。原因として理科では、実験が相当取り込まれたことではないかと思う。

(2)事務局より今後の日程について説明があり、閉会となった。

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(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)

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