ここからサイトの主なメニューです

教育課程部会(第3回) 議事要旨

1.日時

平成13年10月12日(金曜日) 10時~13時

2.場所

霞ヶ関東京會舘 「シルバースタールーム」

3.出席者

委員

 木村部会長、田村副部会長、荒木委員、市川委員、浮川委員、梶田委員、國分委員、齋藤委員、千田委員、永井委員、野村委員、宮崎委員、横山(英)委員、横山(洋)委員、若月委員

文部科学省

 結城官房長、田中大臣官房総括審議官、玉井大臣官房審議官、江田主任視学官、布村教育課程課長、辰野初等中等教育企画課長、池原特別支援教育課長、岩瀬初等中等教育局参事官  他
国立教育政策研究所
 月岡教育課程研究センター長  他

オブザーバー

意見発表者
 島田京子氏(経団連「変化する企業と社会貢献懇談会」会長、株式会社日産自動車広報部社会文化室担当部長)
 黒田玲子氏(内閣府総合科学技術会議議員、東京大学研究科教授)
 テリー・トニー氏(ブリティッシュ・カウンシル駐日代表)

4.議事要旨

新しい学習指導要領の実施に向けた諸課題について

意見発表の後、各発表について質疑応答。主な発言は以下のとおり。
 (○=委員、□=意見発表委員、△=文部科学省)。

○ それでは、これより前回に引き続きまして、「これからの時代に求められる学力について」、ならびに「学習意欲の向上」という2つの大きなテーマに関しまして、株式会社日産自動車広報部社会文化室担当部長の島田京子先生、東京大学総合文化研究科の教授で、同時に総合科学技術会議議員の黒田玲子先生、ブリティッシュ・カウンシルの駐日代表テリー・トニーさんからご意見をいただきたいと存じます。
 まず、島田京子先生から、ご意見の発表をお願いいたします。
 島田先生は現在、日産自動車で広報部社会文化室担当部長をお務めの一方で、日本経団連(日本経済団体連合会)の活動の一環として、企業による社会貢献という課題に取り組んでおられます。

□ 私は教育の専門家ではございませんので、今、企業で起こっておりますさまざまなこと、それに関連して、私どもが社会の課題として気づき始めて、取り組み始めたことなどについて、お話し申し上げたいと思います。
 この新しい時代というのが、知識社会であるということは、皆様、もう既に疑いを入れないことだと思います。知識社会において、人が将来学び続ける機会を求めるということについても、もはや動かしがたい現実であるということを、企業の中にいても、日々感じることでございます。
 そういう知識社会には、2つの特徴があると、私は思っております。
 1つは、人々が自己実現を求めるということ。これは、会社にとっても大変重要なことで、社員は単なる会社の歯車となるだけでは満足しない。会社の中で、どのような意義を果たしていくのかという自己実現といいますか、そういったものを求めるようになる。と同時に、企業の中だけではなくて、社員は既に、外の世界に目を向け始めてきているということも事実でございます。これは、後ほど、会社の事例としてお話し申し上げたいと思います。
 2つ目は、人が生涯学び続けるということ。学校だけでは終わらなくて、会社に入っても学び続ける、意欲もあります。それから、もうそうでなければやっていけない時代になってきたということです。これは、労働流動化という時代を迎え、現実的に私どもも新しい知識、専門知識なども身につけなければいけない時代になってきているという実感を持っています。
 こういう新しい知識を常に身につけられる環境になっていなければ、組織も人をつなぎとめられない。その辺を痛感しております。そこで、企業の社会貢献をやっております立場として、今、どのようなことが起こっているかを、かいつまんでお話し申し上げたいと思います。
 お手元の資料の中に、『この発想が会社を変える』と題する、日本経団連に集う社会貢献担当者の人たちで一緒につくった本がございます。
 きょうは時間も少ないので、この中に述べていることにも簡単に触れさせていただきます。先ほど申し上げましたように、社会が既に変わってきている。このバブル崩壊後、天災があったり、テロがあったりということで、世界は全く新しい風景になってしまったのではないかと、考えます。その中で、やはり新しい人間が求められてきているのではないかと思います。会社が社会貢献を始めたのは、それはもう古いことです。しかし、この10年の間、大分変わってまいりまして、利益を還元するという形だけではなくて、むしろ、企業自身、それから企業の中にいる社員自身が、社会の課題に積極的に気づき、それに能動的にかかわっていくというふうに変わったわけです。今までは、気づいてはいたものの、何か見て見ぬふりをするという、そういう節があったかと思います。それではいけない、このままでは社会が劣化してしまうということを、みんなが気づき始めたのだと思います。
 もう1つ、かつてはどうしても会社の中だけの世界に閉じこもりがちであった。そのために世の中のことが本当の意味で見えなくなってきていた。多様な価値観があるにもかかわらず、会社の価値観というものに自ら縛られてしまったといいますか、そこに働く社員も、自分の言葉で物を語れないといいますか、そういう世界だった。
 これは、会社にとって、過去、生産性を上げていく上では、決して悪いことではなかった。けれども、これからはそれではうまくいかないということだと思います。会社だけではなくて、いろいろな組織、もちろん学校もそうでしょうし、政府もそうでしょうし、いろいろなところでこういう状態が起き始めてきていると思います。
 私どもが新しい時代に備えて社会貢献を始めたのも、多様な風を受け入れる窓口として社会貢献のための専門部署を置くことにより、社会に参加していくきっかけをつくるためだったのです。ですから、社会貢献というよりは、社会参加と言い直されています。
 さらに進んで、90年代の後半からは、社会への投資という言葉が使われ始めております。社会貢献は、チャリティのような貢献ではなくて、投資である。社会が劣化していかない、あるいは新しい時代に備えるための投資であるというふうに位置づけられて、それぞれの企業が自分たちが社会に何を求めるのか、どういう社会、どういう人間というものを求めていくのかということを基本にしながら、新しいプログラムを次々とつくり始めております。
 きょうは、私の方から、その中の1つの事例を申し上げたいと思っております。
 それは、先ほどの知識社会の現状ともかなり結びつくわけですけれども、資料1-2の一番後ろのページで日産自動車の『NPOラーニング奨学金制度』を紹介しています。この仕組みを簡単に申し上げますと、日産は、まず20ほどのNPOを環境とか国際交流、福祉、学術研究など、幅広い分野から選びます。
 次に、NPOで9カ月間仕事を経験してみたいという学生を公募いたします。次に、学生の選考を行って、NPOと学生の希望をマッチングしてます。そして毎月、学生がNPOで仕事をした時間を、NPOの責任者に証明していただいたものに沿って、日産が学生に奨学金を支給するという仕組みです。
 なぜ、インターンシップの相手先を企業でもなく、あるいはほかの研究機関でもなく、NPOとしたのかということですが、2つ理由がございます。1つは、NPOはすぐれた専門性をもって、社会の課題解決を目的とする組織です。マネジメントの根本原理は共感であるということ。これが大変意味があると思っております。ご存じのように、企業のマネジメントの根本原理は基本的に合理性、効率性でございます。行政の根本原理は、やはり公平性である。そのための一律ということも非常に重視されると思います。それに対して、NPOのマネジメントの基本は共感であり、活動のミッションによってみなを引きつけていくことであると思います。
 ただ、共感といっても、みんな、必ずしも好きだからやるとかという簡単な組織ではありません。NPOには、スタッフだけではなく、さまざまなボランティアが参加しております。
 例えば、私どもを受け入れてくださっているNPOの半分ぐらいは有給スタッフが二、三人の組織です。本当に市民活動団体と言ってもいいと思います。ただ、そこには100人、200人、多くて500人ぐらいのボランティアが集っているわけですね。それから、パートの人たちもいます。そういうNPOでは、すぐれたリーダーシップがなければ組織がばらばらになってしまいます。残念ながら、こういう特性を備えたNPOが日本社会に、まだそうたくさんあるとは思えませんが、それでも、私どもがこの10年間、おつき合いしてきたNPOの中には、かなりこういうリーダーシップ、すぐれたマネジメントをしていらっしゃるNPOがございます。この制度は、そういうところに学生さんを受け入れていただき、そこで学生が知的な体験ができるようにする仕組みなのです。
 この制度で、実は学生だけではなくて、企業も、それからNPOも、何らかの利益を受けることができると信じております。現実に、そういう成果も出始めております。
 それは何かと申し上げますと、学生は労働流動性の高くなりつつある将来社会に備えて、学業とは別の、もう1つの知的体験といいましょうか、専門性などを積んで、いわゆるダブルメジャーで大学を卒業することができるということです。それから、もちろん学校で学んだ知識を現場で体験してみることができる。現実の組織で体験できるというメリットがございます。それから、世の中にはどういう課題があるのか、現実的にどう対処しているのかということを目のあたりにすることができる。
 それから、非常に特異なマネジメントを実際に体験できるということです。ここが、私は実は非常に重要だと思っておりますが、非常に労働流動性の高い社会の中で、専門性を持って能動的に考えて動ける人を輩出していくことになる。共感のマネジメントというのは、本当に自分で考えながら動かなければいけないわけですから。
 一方、受け入れてくださるNPOは、二、三人の職員しかいない中で、知識も何もない学生を受け入れるというのは大変なことだと思いますが、それでも、与えるものばかりではないということです。1つは、労働力を確保することができるということですが、それよりも重要なことがありまして、それは、自分たちの社会的な存在意義を、将来を担う若者に伝えることができるということです。それから、世の中にはどういう課題があるのか、現実的にどう対処しているのかということを具体的に見せることができる。
 それから、アントレプレナーシップが重要だということは、口をすっぱくして経済界も言っているわけですが、なかなかそれが育たないのは、決して、税制とかそういう問題だけではなく、実際に若いうちに多様な体験してみるという機会がないため、若者が勇気を持てないでいることが問題だと思っております。こういうことを、実際に学んでもらっております。
 では、企業には、一体どういうメリットがあるのか。実は、私どもも、これはリクルート活動としては一切しておりませんで、あくまでも学生への投資という考え方でおります。社会的な感性を持って、考える力を持った若者が多く社会に輩出していく、巣立ってくれるということは、社会に活力を与えてくれることでもありますし、場合によっては、そういう人たちが回り回って、いろいろな企業に入っていただくことというのは非常に重要だと思っております。
 2年前に就任しましたフランス人のカルロス・ゴーン日産自動車社長も、これを「未来への投資」であると称し、自ら学生にも会って、歓談したり、卒業証書を渡したりということを、続けてやっております。
 実績ですが、今では毎年20人弱の採用に対して150名ぐらいの応募がございます。実は最初、これを実行することに悩みました。今の学生さんが、こういう応募をして、本当にこれに応じてくれるのだろうか。それから、NPOが引き受けてくださるのだろうかということです。
 まず最初、NPOは喜んで引き受けてくださるところが、最初に申し上げたとおり、20近くございました。学生についても、実際の応募期間は当初1カ月ぐらいしかございませんでしたが、その短い間に、学校の学生課の掲示板を読んだり、あるいはインターネットで自ら開いたりという方たちが集まってくれました。本当に短い準備期間だったのですが、もうとにかくこれは早くしなければいけないという思いの方が先でやらせていただきました。実際にふたをあけてみると、本当に優秀な人たちばかりで、書類選考で簡単な論文を書いてもらいましたが、そこでも落とし切れない。それから、面接しても落とし切れないような人たちがたくさん集まりました。
 例えば、ある国立大学にお声をかけました。そうしましたら、学生課の方が、うちの大学にはアルバイトが時給5,000円以上のところがたくさんくるから、もしかして集まらないかもしれない。こんなことをやっても意味がないんじゃないかと、言われました。でも、何とか掲示させてくださいということで、受けていただけました。締め切ってましたら、その大学の学生さんが一番多いんですね。今でも多いです。その中でも、とても優秀な方たちが集まっていらっしゃいます。
 つくづく思ったのは、こういう社会の仕組みがなかったんだなと。学生の学ぶ意欲はたくさんある。いろいろな体験をしたい。だけど、そういう仕組みがなかったということだと思いました。
 第3期の学生さんの感想を簡単に申し上げますと、例えば、今まで学生さんは、自分が進むべき道はこれだというふうに家族からも教えられ、学校からも教えられ、それしかないんだと思って、その道をやってきたけれども、この体験を通じて、世の中にはいろいろな価値観もあるし、いろいろな道があるんだということがわかった。これが将来、自分が進む上で何かしら役に立つのではないか、と学んだ人や、自分探しの旅みたいなことを考えている人がたくさんいたということです。
 実際に、この経験で進むべき道や進路を変えた人も何人かおりました。これまでに3名のかなり優秀な学生さんが、卒業後、NPOに就職されました。まちづくりNPO、国際交流、そしてNPOのサポートセンターでございますが、そういった方もいらっしゃいます。
 やはり、そういう環境を整えるということが、いかに大切かということを感じました。
 ここで申し上げたいのは、日本社会も既に、新しい知識を自ら供給し続けたいという、生涯教育の時代に入ったなということです。
 もう1つは、みな、自己実現の場を、いろいろな場で求めているということです。会社の場合、会社の中でも、あるいは社会の中でもそうです。例えば、ボランティア活動などがこれに当たると思いますが、私どもも、会社で社員のボランティア活動の支援をしております。これは、情報の提供であったり、資金の支援であったりしますが、最近、非常に活発です。
 昔、組合が動員をかけて、近隣の清掃などをやっておりましたが、私どものはこの10年間、そういう動員ではなくて、あくまでも自分が能動的に社会の課題を探す力をつけるための、いろいろなプログラムを作り、試行錯誤をしてまいりました。決して強制はしないということです。このことを辛抱強く、成果は時間をかけてみるということで、統計の数字をとったり一切やっておりませんでした。最近はいろいろな呼びかけに、かなりの人たちが集まります。
 例えば、今月末に、東京モーターショーがありまして、世界からいろいろな方が集まります。その場で、今年初めて自動車工業振興会の企画で、車いすの方々をプレスデーの1日にお集まりいただき、ゆったりした気持ちで会場を見ていただくということで、ボランティアを自動車各社に募られました。その募集を社員に、イントラネットで流しましたところ、あっという間に40名を超える人たちが集まりました。各社から自動車工業振興会の方がこれ以上集まると困るというほど集まったそうです。
 社員も、そういうふうに自然に集まるようになりましたし、募金活動をしても、例えば今回のテロの事件に関しましても、1人何万円というふうなお金を出してくれたり、あるいは小銭だけの方もありますが、そういうことを自由にできるような組織になってきたということです。

○ 来年から新学習指導要領が実施をされると、日々の教育課程の中で、企業とかかわる場面というのは相当ふえると、私ども予測しております。そういうことで、これまでいろいろな企業と接触しているのですが、そういう中で、実は、経済同友会が、組織の中で教育に関する委員会を設定して、実際には、講師派遣制度をやっておりますし、教育委員会にまでいろいろな提言をなさっている。それに対して、日本経団連という組織は、学校教師とどういうかかわりを持っておられるのか、また、今の学校の教育の現状に対して、日本経団連としてどういう危機的な意識を持っておられるのか、お話しいただければということです。

□ 一言で申し上げますと、非常に関心を持っております。国際競争力を高めなければいけない中で、やはり一番危惧しておりますのが、創造的人材というものですね。これが、今まで育ちにくい環境ではなかったのか。これは、決して学校の問題だけではなくて、会社の中もそうです。それで、今申し上げましたように、社会との窓口をできるだけ広くして、自らいろいろなものにかかわっていける仕組みを、企業の中でもつくっておりますし、経済界、団体としても、教育についての委員会を設けて、教育界などに働きかけております。
 私は、世界的な競争の中で、今の若い人たちのために心配していることが二つあります。一つは、ITです。日本の社会はIT関連では遅れていると思います。これは、教育が余りにもシステマティックにうまくできてきたことが原因だと思いますが、実は中国と比べても非常に遅れていると言われております。この点が国際競争力の面で大変心配なのですが、この原因は、中国とかアメリカとか、広大な土地の中で、みんなに教育をということになると、やはりITが一番早かったのだと思います。そういう意味で、相当進んだと思いますが、日本の場合は、残念ながら、教育システムが余りに完備していたために遅れをとってしまったのかなと思います。
 もう1つは、やはり英語教育です。これは、私の会社でも、今や英語ができないと仕事になりません。トップが外国人ですし。やはり、この辺も、今までの英語教育とは全く違った観点で、もっと実際に使える英語教育ということが重要なのかと思っております。

○ 私が今のお話を伺って、まず、非常にすばらしいと思ったことは、学校教育そのものと学校の授業を変えていくということは、もちろん教育として必要だと思うのですけれども、むしろ、学校の周りの環境整備に対して企業の方がいろいろな形で支援してくださるということは、すごく大事なことだと思っています。
 確かに学校教育に対する注文は、企業からいろいろあると思うのですけれども、それをダイレクトに持ち込むと学校では非常に難しい面がある。例えば、創造力のある人材、実践力のある人材というのは、もちろん企業で求められていると思いますが、学校には、さまざまな子どもがいて、さまざまな考え方の先生がいて、それをダイレクトに持ち込むと、いろいろなしわ寄せが来てしまう。学校教育の方でも、徐々に考え方を変えなくてはいけないけれども、むしろ、学校の周りに、社会との接点になるような活動をたくさん設けて、それに参加していけるようなものができるといいと思っていましたので、きょうのお話、大変ありがたいと思いました。
 ただ、一方では、企業の方たちは、教育にとって非常にありがたいことをやってくださると同時に、他方では、子どもたちを勉強から、むしろ遠ざけてしまうようなこともある。これは企業のビジネスの論理としてあると思いますが、例えば、子どもをターゲットにしたいろいろな商品が出回っています。ビデオやゲーム、携帯電話などが蔓延している中で、子どもたちは学校の勉強よりもそういうものにどんどん興味がそそがれていく。企業の方では、それをどんどん売り込んでいく。
 もう1つは、最近のフリーターの問題でもあるように、何も勉強しなくても、そこそこやっていけるではないかということで、企業の方でも、そういう、よく言えば流動的なのですけれども、非常に安価な労働力を求めている。これも学校の勉強から遠ざかる原因になってしまう。
 いわゆる一流企業と、中小企業とでは論理が違うのかもしれませんけれども、経済界全体で考えたときに、一方では、子どもたちの勉学意欲をかなり高めるような方向があるのに、一方では、それからどんどん引き離してしまうような動きもあるのではないか。もしお考えがあれば、お聞かせ願いたいと思います。

□ 私は、それぞれの目標とか行動原理があると思うんですね。やはり企業はもうけること、それから、雇用を確保することが必要なわけですから。
 それで、例えば今、余り子どもたちによくない商品が出るとする。それは、競争の中ではとめられない部分を統制するべきものではないと思います。ただ、それをコミュニティなり、家庭なりが、子どもたちに与えないような活動をする。そういうバランスの中で社会が成り立っているわけで、どこかが、この商品は悪いからやめよう。では、悪い商品とはどこからどこまでなのかというのを、だれが決めるのかということだと思うんですね。
 私は、もっとこれからいい意味で市場の原理にさらされるためにも、企業だけが力を持つ、あるいは行政だけが統制力を持つということではなくて、NPOが監視をしていくことが重要で、そのために、NPOが第三の大きな柱となってもらいたいと思います。企業は一方で悪いことをしながらいいということに先程のお話だとなると思うのですが、ただ、いろいろな考え方があって、それを淘汰していくのが、やはり市場だと思うんです。社会の人材の育成に企業も力を貸していく、コミュニティもそれにかかわっていくということが、これからもっと重要になっていくのかなと。一元的なよし悪しの判断ではなくて、異なる価値観を持つ組織が十分に検討しつつどのようにバランスを保っていくのかということだと思います。

○ 大学生が、大学の中だけで学ぶのではなくて、社会人になることを、企業が手伝っておられる。大変な社会貢献だと思います。
 ただ、20名弱ですよね。きっと、すばらしい方々がいらっしゃって、ご予算がおありになれば、もっとお出しになりたい。ぜひ、日本経団連の中で、これは日産独自のものよとおっしゃらずに、ぜひ広げていただきたいと思います。

□ 実は、他の企業にも呼びかけております。これは、私ども、年間20名だけではどうしようもない。ですから、できるだけ多くの企業が採用していただきたいし、それから、個人でもいいんです。例えば、1人の学生を1年間、これはあくまでもアルバイト的な時間の配分になっておりますので、三、四十万もあれば十分なんです。ですから、1人が1人の学生を経験させることもできるんですね。これを、私はいろいろなところに呼びかけているわけですが、アメリカの場合は、連邦政府がやっております。サービスラーニングという形であったり、様々な名称があり、社会奉仕のようなものもありますし、研究所で仕事をするようなものもあります。また、若者に対してだけではなくて、シニアクラスに対してのプログラムもあります。やはり、そういう教育投資をもっともっとやっていかなければ、もうこれからの時代は国際競争に勝てないのではないかと、私は一番心配しております。
 ちなみに、既に2番目の企業が同様の制度を立ち上げております。

○ ただ、ちょっと気になりますのは、大学生というのは同年代世代の3割とか、あるパーセンテージでしかないんですね。残りの方どういう具体的な活動を、企業はおやりになろうとしておられるのか。また、高校生、中学校、小学校、あるいは就学前についてどのようなことをお考えになっておられるか、もしお伺いできたら。

○ 1990年、中卒の方が200万弱いたのですが、その方達が2000年に25歳になりますね。ある統計によると、そのうち実に60万弱が無業者だというのです。そういう人たちが、私、社会に対して非常に大きな影響を与えているのではないかと思うのですが、その辺のところについて、どうお考えでしょうか。今、お話になったのは、非常に部分的なところについてですよね。社会を変えるのでしたら、私が申し上げたことについて考える方が、むしろ、私は重要ではないかと思うのですが。

□ そうですね。大学生から取り組み始めた理由というのは、もちろん企業ですから、一番近い人材ということでした。
 それから、今、小・中・高校については、例えば総合学習とか、いろいろな取り組みが始まっているので、これらについては、別の形で支援させていただいております。
 例えば、著名なアーティストが総合的な学習の時間を活用して、子どもたちのためにアートのワークショップを行うなどのプロジェクトがありますが、企業がそのために寄付もしています。
 このNPOラーニング奨学金制度の対象は大学生だけですが、特に初等教育は非常に重要だと思っていますので、別のやり方で実施しております。
 それから、企業では、お父さんたちがPTAなどに出られるように、できるだけの配慮をするとか、いろいろな形の教育支援がこれからどんどん広がっていくのではないかなと思っております。

○ 引き続きまして、黒田先生からご意見をいただきたいと思います。先生は東京大学総合文化研究科の教授でいらっしゃいます。ご専門は生物物理化学です。それから、現在、内閣府に設けられております総合科学技術会議の議員ということで、大変なご活躍でございます。

□ 「これからの時代に求められる学力について」、それから、「学習意欲の向上について」というテーマをいただいて、すごく困ってしまいました。私がここで話せることはないんじゃないかと思ってしまいました。
 つまり、私は、「学力」というのは、人間の資質のほんの一部であって、学力をどうするとか言う前に、どういう「人」がこれから必要であるのかが問題であり、学力だけではだめなのではないかなというふうに、いつも思っているからです。いただいたテーマではどういうふうに話したらいいかが全然考えられなかったのは、このためではないかなということに思い至ったんです。
 ですから私の意見発表の資料中の題が、「学力」から「人」に替っているというのは、私にとっては大きな意味があることなので、御容赦いただきたいと思います。
 一番最初に、「これからの時代に求められる人」について今の島田先生のお話にありますように、本当にいろいろ変わっていく時代であるし、日本だけで考えていていい時代でもなくなってきている。それから、やはりサイエンティストとして、特に分子生物学をやっていたり、あるいは環境問題なんかも考えていると、人間だけを考えてはいけないと思います。あるいは、人でも、開発途上国と先進国、いろいろなことを考えなければいけない。そういう他者とのかかわり合いも把握できる人が重要だし、それも学力に含まれるのかもしれないけれども、人の痛みとか、思いやりとか、そういうことの方がと言うと言い過ぎかもしれないけれども、非常に重要ではないかなと思っています。
 「自ら考え判断できる人」、何か本当に理想ばかりで申しわけないのですけれども、やっぱりこれが先だと思います。考え、判断できることというのは、これから情報があふれる時代に重要になります。小学生でもインターネットでダウンロードして、いろいろな情報をとることができる。情報をとってくるということは、そんなにすぐれたことではなくて、目と指とマウスさえ動かせれば、あとプリンターがあればだれでもできることで、その過程には考えるということが、残念ながら余り入らない。
 例えば、今、大学でレポートを書かせても、インターネットや雑誌からとった図をきれいに貼りつけてきて、そこに書いてあることをそのまま写していて、自分の考え方がほとんど入っていない。でも、一見すごくきれいなレポートであるというのが、どんどんできてきている。小・中学校でも、そういうテクニックはすぐうまくなって、どんどん入ってきているけれども、実際に考えてないかもしれない。
 重要なことは、そういうことにアクセスして、ダウンロードして、カット・エンド・ペーストしてプリントアウトすることではなくて、取捨選択できる、判断することができる能力ですね。情報には、これは正しい情報ですとか、これはうそですとか、ここにいいものが入っていますということを、書いてくれていないわけで、均一になって出てくるわけで、それは取捨選択したり、判断できる人が必要である。それにはどうしたらいいかということが、実は問題になってくるということになります。
 それからもう1つは、やっぱり生き生きとしていて、意欲や意思があって、志がある人が必要で、そういう人をどうして育てたらいいのだろうかということも、考えていかなくてはいけない。
 それに学校教育、あるいは家庭なり、社会なりがどういうふうに貢献していくか、そういう考え方で考えてみた方がいいと思っています。
 そこで、学習意欲の向上というテーマですが、今いろいろ、ゆとりとか学際が話題になっています。私自身、ゆとりが重要であるとか、学際領域というのが今後非常に重要になるということは、あちこちで発言しているのですが、小学校等の段階でゆとりなのかな、学際なのかなと、ちょっと、そうじゃないんじゃないかなと思っております。
 学際とか融合領域というのは、もともとの学問分野がきちっとしていないと存在し得ないことだと思うんですね。研究レベルとか、大学院以上ですと、例えば科学というのは、科に分けた学問ではないんだと。どうしても学問が縦割りになっているからいけないんだといわれます。全くそのとおりだし、多様なもののぶつかり合いから、新しい学問や知の創造ができるということは、本当なのですが、小学校のレベルでは、やっぱりもともとがしっかりしていなければ、そこから先発展できない。もとが何もないところで、学際ですと言っても、何も実らないのではないかなと思っていて、やはり小中学生のレベルでは、基礎的なことをきちんと、学習してほしいんです。昔と全く同じでいいとは言いませんが、やっぱり基礎的な算数とか、あるいは物理とか、化学とか、生物とか、社会とかそういうものはきちんとある程度やらなければ、融合とか学際というのはあり得ない。
 では、どうしたらそういう基礎的なことを学んでいただけるのだろうかというと、やっぱり、子どもたちって恐竜の名前とか、自動車の名前って、よくそんなカタカナを覚えるなと思うようなものを覚えてしまうので、やっぱり興味があることというのは強い。ですから、楽をしてということとは全く違うのですが、楽しみながら、意欲を持って、興味を持って学習できるかということが重要ではないかと思います。
 それから、つらいんだけど、それを達成したら、こんなことがクリアできておもしろいんだとか、わかったんだと、そういう苦労した後の人間の喜びというものを体験してほしい。すべて楽して、楽しんでやればいいのではなくて、やっぱりちょっとつらいんだけど、やったら、ああ、すごい、こんなこと自分でもできたんだと。山登りとか、運動とか、そういうことも入ってくると思うのですが、そういうことを学んでほしい。これは、机に向かうクラスルームでも、クラスルーム外の学習を含めてのお話です。
 教科書が何となく変だということを申し上げます。これは、総合科学技術会議本会議でも申し上げたのですが、教科書にゆとりがないと思います。ほかでゆとりの学習とか言いながら、実は教科書ががんじがらめになっていておもしろくない。それは、学習指導要領の問題でもありますけれども、教科書検定という問題もあるのではないかと思っています。例えば小学校の理科ですと、水辺の昆虫の写真が入っていたら、クレームがついたとのこと。小学校での昆虫は植物に棲むものではいけないとのこと。ちょっと冗談じゃないかなと思って、信じられなかったんですが、そういう検定が本当に行われているのだったら、全くおかしい。子どもたちは、土曜とか日曜に池に行ってゲンゴロウ等を見たりしているわけで、子どもたちの経験というのは、もっと広がっているはずです。
 それから、インターネットなどを通じて情報がどんどん入っているときに、教科書で、これ以外は昆虫と言ってはいけないというのは、変な気がするんですね。
 それから、周期表なんかもそうで、今まで、化学の教科書の扉に元素の周期表というのを載せていたのですけれども、今、いけないと言われるそうなんです。これも、本当だとしたら、すごくおかしい。確かに授業では水素と炭素と酸素とぐらいしか習わないかもしれないけれども、自分たちが学んでいるのって、こんな多くの中の一部なんだ。へえー、ほかにこんなにたくさん元素があって、その組み合わせで、こんなすごいものができているんだとか、自分たちの体に、耳にしないような金属も実は含まれていて、そんなものも重要な役割をしているんだとか、思いをはせることまでできなくしてしまう。どうして、そんなに限ってしまうのだろう?
 教科書というものをつまらないもので、強制されるもので、授業のときしか開かないものから、もっと楽しくて、ちょっと読み物も入っていて、へえー、こんなこともあるのかと見るような、そういうものにできないのかなと思っています。それは副読本でやればいいとか、小学校3年で4年の教科書を使えばいいという答弁も受けたのですけれども、やっぱりそんな余裕は子どもたちにないと思います。創造力と想像力という話をするのですが、想像(イマジネーション)の世界がなければ、創造(クリエイティビティー)は生まれない、私は、だじゃれ好きなので、「創造は想像」からとか言っているのですが、本当にイマジネーションを摘んでしまわないような教科書に、また、そういう授業にしてほしいと考えています。そういう意味でのゆとりはあってほしいんですね。
 やっぱり基礎がない上では発展がないと思っています。日本は、先進国の中でも科学知識が14カ国の13番目という話を聞くと、これで科学技術創造立国は本当に達成できるのだろうか。それから、いかに最先端の研究成果が出ても、社会や市民のためにやっていることであっても、受け入れられなければ、結局はやったって意味がないのでないか。つまり、正しい判断をできる市民が育たなくてはいけないわけです。そのため、正しい判断ができる親が必要だし、彼らも昔は小学生だったわけで、その時代に何を習ったかということは、すごく重要なのではないかなと思っています。
 具体的なことを少し考えてみたのですが、学習意欲をどうやって向上させるかについて、特に理系のことが問われているのかなとは思ったのですが、それだけではなくて、実社会についてもやっぱり本当のものに触れなければいけない。インターネットだけでは、やっぱりいけないと思っています。
 実は、この前、午前8時から会議があったのですが、そこで、アメリカのインターネットの話があって、アメリカではインターネットはマインドであって、テクノロジーそのものではないんだという話をしていました。そうだったら本当にうれしい。つまり、テクノロジーだけを広げてもらいたくはないんです。テクノロジーは、非常に画期的にいろいろなことを変える手段ではあるのですが、それで何をやるのかということの方が重要であって、ITを使ったというだけでは、よくも使えるし、悪くも使える。ITは心と考えるのがアメリカであって、技術とは考えていないと、そういうせりふを聞いてきました。アメリカはインフォメーション・テクノロジーの国で、インフォメーションハイウェイとか、そういう点だけ強調されているのだけど、根本にあるのは違うんだと。だから、アメリカは成功をしている。そこをはき違えてはいけないと力説されたのです。逆に、皆様の方で、そういうことを知っていたら教えていただきたいと思っております。
 インターネットを使っても、科学館などの活動をはじめとして、子どもたちが、自然とか社会に触れることは可能であろうと思っています。
 それと同時に、本物に触れてほしいということがあって、これは車の両輪だと思っています。どちらがいいというわけではなくて、両方が重要だと思います。本当に自然に触れなければだめだと思います。特に実験なんかは、やっぱりにおいをかいだり、熱いものに触ったりしてみなければいけない。ただ単にAとBが反応して、温度が上がって、色が赤く変わりますなんて言ったって、何もわからないわけですね。実際にやって、見てみなければいけないし、実際、そういうものが形を変えて、私たちが食べたものが消化されているんだとか、そういうことを本当に体験するというか、心で感じる、そういうことをできるだけ低学年でやっておきたい。
 それから、理科等について言えば、本当の研究者とのふれあいが大事であると思います。私のお配りした資料の中でロイヤル・インスティテューションのフライデイ・ディスコースというのを紹介させていただいていますが、私はイギリスに11年住んでおりまして、ロイヤル・インスティテューションのフライディ・ディスコースも何回か行ったりして、自分の上司も講師として講演しました。
 こういう試みというのも、日本には今まだ余りない。本当にここでは、フェース・ツー・フェースで話せるんですね。講演が終わった後で、本当にGパンを履いた人から、香水をつけてドレスアップした人までが一緒になって、講演者に質問ができたりするという、非常にユニークな場であって、マイケル・ファラデーの時代からずっと続いています。同じことができないにしても、本当の研究者、本物の研究者と会う、そういうことも子どもたちにとっては、また違った感動を与えるのではないかと思っています。
 それから、そういう人と触れ合ったり、科学館に行ったりするというのはどうしても日常事ではない。毎日子どもたちに接するのは、やっぱり親や学校の先生ですからそこでの影響というのはすごく大きいのだろうと思っています。
 そうすると、学校の先生が科学大嫌いだったりしたら、あるいは文章を書くのが嫌いな先生だったら、これは絶対に子どもたちが好きになるはずがないんだと思っていますので、学校の先生ってすごく重要だと思っています。学校の先生が、理系に限っていえば、理系専攻した人がどのくらいいるのかなと、常々、これは教えてもらいたいなと思っていました。
 それから、理系に限らなくても、本当に作文を書くことが好きな先生って、どのくらいいるのかなと。そういう先生が、ぜひ増えていただきたいと思っています。
 それから、もう少し現実的なことなのですが、一律はもうやめてもらいたいです。どういうわけか、音楽だと、英才教育というのは、みんな認めるんですね。ピアノのうまい人、バイオリンがうまい人、そういう人には英才教育をするけど、数学とか文章を書くでも何でもいいんですけれども、そういうものは、何かすぐエリート主義といってたたかれてしまうけれども、みんなそれぞれ違ったところがあって、みんなそれぞれにいいところがあるので、それぞれに合った教育をした方が、お互いにいいのではないかと思います。
 だから、個性に合ったスピードや内容がある。きめ細かな教育というのは、やっぱりしてほしい。それには、少人数クラスがいいのではないかと常々思っています。伸びる子は、どんどん伸ばしてほしい。日本は、早ければいいというふうに思っていて、飛び級はガリ勉を生んで、子どもがかわいそうというけれども、そういうことを決して言っているわけではなくて、本当にほうっておいても伸びる子は、どんどん伸ばしてあげたい。ゆっくりいった方が合っている子は、ぜひそうしてほしいということなのです。
 それからこれは、教育改革国民会議のときにも言ったけれども、小学校に上がる年齢が4月2日か4月1日で決まっている。しかし、子どもによっては成長のスピードが違って、すごく早く大きくなる子も、すごく遅く成長する子もいて、そのどっちもいいわけではなくて、その子の個性なのです。それなのに、4月1日か、4月2日かでぴったり切ってしまう。でも、そういうことではなくて、子どもの成長を親が愛情を持って見つめて、この子にはちょっと無理じゃないかな、この子にはいいかなと思って、そういうことで就学年齢に少しフレキシビリティを与える方がよいと思います。子どもの個性に合わせて、早く行かせたり、遅く行かせる、そういうことをやれるようにならないかなと思っています。早く行くことは許すけれども、遅く行くということはだめだとか言われてしまうのですが、遅く行くということも、子どもにとってはすごくいいことかもしれない。何も早く行くことだけがいいことではないので、このことに関する社会の認識も変えるような努力をしていった方がいいのかなと思っています。
 最後に、私の言う学習とか学力というのは、学校の先生が期待していることではなかったかもしれないのですけれども、やはりそういう基盤の上での学校教育であるし、学校教育だけではだめなので、社会、家庭と全体から、本当にこれから世界の中の日本だし、日本人だし、日本の子どもだし、社会もいろいろ変わっていくし、そういうことに対応できて、自分で考え、判断できる、そしてやっぱり生き生きとしている子どもたちでいながら、人の心の痛みもわかる、そういう子どもたちを、ぜひ育てていきたい思っております。こんなところで意見発表を終わらせていただきたいと思います。

○ この10年ぐらい、学校の中に非常にいろいろな活動が入ってきたし、それから、いろいろな資料が小学校から中学校に入ってきた。ということで、本当だったら、もっと理科好きになってもいいはずなのに、実際には、どんどん理科離れというのが起こっているわけです。物理、化学が面倒だからというのだったらわかるのだけど、生物まで嫌いな子がふえてきている。国際比較調査で、37カ国の中で、ペーパーテストではかる部分だと5番目ぐらいで、文部科学省の方に言わせると、まだトップレベルだそうですけれども、昔は断トツトップだったんですけれども。それはいいとして、やっぱり私は非常に問題だと思っておりますのは、理科が好きかとか、自分だけでも理科を勉強してみたいかとか、あるいは、将来理科を使う仕事につきたいと思うかとか、そういう問に対して、日本の今の子どもたちが、ご承知のように、10歳、14歳、小学校5年、中学2年の子どもたちが、37カ国で一番下の方なんです。いつの間にか、日本の子どもたちが、そういう意味では理科から気持ちが離れていっているんですね。これを、私は極めてゆゆしいことだと思っているのですが、といって特効薬があるわけではないと思うのですけれども、もう少し、その辺でお考えがありましたらお聞きしたいと思うのですが。

□ 特効薬があったらいいなと、私も思っているのですが、何でこうなったのかなということを考えると、何かヒントが得られるのかなとは思っています。
 やっぱり、科学のイメージが悪いんですね。それは、負の面をものすごく強調しているということが1つあるのだとは思うのですが、科学の産物・たとえば、プラスチックがなくては私たち生活していけないけれども、ほら、科学はプラスチック使っただろう、フロンつくっただろうといったように、すべてそれを悪いという言い方が一方で出されてしまって、非常にイメージが悪くなっている。でも、今、プラスチックが全くなかったら、今の社会がやっていけるかというと、そうでもないわけで、バランス感覚がなくてはいけないし、それに代わるものをつくっていくとか、いろいろなアプローチの仕方が必要なわけですね。
 ですから、イメージが悪いのが原因ではと、1つには心配しています。昔は、原子力って非常によくて、花形産業とか言われていたらしいですけれども、今、原子力のげと言っただけで、みんなが逃げるんだとか言って、大学の学科の名前までなくなってしまう、そういうふうにすごくイメージ先行してしまっていますね。
 それから、化学物質なんていう変な言葉もできまして、私たちの体も化学物質からできているはずなのに、いつの間にか「化学物質ゼロの化粧品」なんていう不思議な言い方も出てきました。化学物質でないものなんか世の中に存在しないのになと思うのですが。それでいて片や、科学はすばらしいよという話をし、そのときには、悪い部分を全く話さないで、すばらしい、すばらしいと言う。科学館なんかでも、いいところしか話さないんですね。正負、ネガティブ、ポジティブ、両方の面があるので、それをうまく判断できる能力を一般の人も持たなくてはいけないし、両方を絶対にプレゼンテーションしなくてはいけない。片やプラスだけ、片やマイナスだけ言っているという、そういう図式がちょっとまずいのかなと思っています。
 一方で、そういう実用を離れてみると、科学はものすごくおもしろいんだということに、特に低学年の子どもたちは感動してくれるのではないか。オーロラって何なんだろう、生物って何なんだろう、こういうことは感動してくれるのではないかなと思っているんですね。
 例えば、生物なんかでも、変態して、さなぎからチョウになっていくなんて、こんなのを見たら、やっぱりすごいなと、だれでも感激するのだと思うんですね。そういうものを知識としてではなくて、自分で見て、心で感じる。そういうことをやってもらいたい。
 生物は非常に感動しやすい科目なんですね。実際に本当のものに触れる、実験をするとか、自然を観察しに行くでもいいし、自分で本当に生き物を飼ってみるということでもいいし、そういうことに触れるということが出発点ではないかなと思うんですね。
 ところでイギリスは国際比較調査で何番目なんですか。

○ 意識調査ではありませんけれども、非常に面白いのは、IEAの理科については、英国は小学校、中学校は低いのですが、高校になると非常に上がるんですね。
 高等学校になると、シンガポール、香港、英国等もものすごく上がるんです。

□ 結構詰め込み教育をやっていますよね。

○ しかし、理科離れというのは、世界中の傾向ですよ。アメリカなんかでも呻吟している。

○ いかにして理数系に黒田先生が目覚められたか。多分、結局、先生がいかに教えられるか、先生が子どもの感性に触れて、動機づけを行うかというところがあるのではないかなと思ったんですけれども、教えていただければ。

□ 私は、実は文科系の家に育っておりますので、中世文学とか、能楽論とか、わけもわからず、禅竹だの、金春だの、『風姿花伝』なんか、わけのわからないことを小学校から耳にたこができるほど聞きました。つまり、食事の会話がそうだったので、そういう会話しかできない父親のもとに育つと、こういう人間ができるんです。
 私は、自然が好きだったんですね、子どものころから。ですから、カマキリの卵をとってきて、自分のうちの廊下で、親に気持ち悪がられながら、出てくるのを見たり、さなぎをとってきたり、オタマジャクシをとってきたり、そういうことばっかりやっていましたが、だれにも教えられていないんです。
 唯一言えるとすれば、小学校6年のときに、実験をやる化学クラブというのができてそれに参加したということです。生意気に白衣を着て、小学生なりに、フェノールフタレインとか、そんなものを使って実験をしたんですね。何でこれをやるんだろう、そういうことを考えさせるクラブで、今でも覚えてるんですが、「じゃがいもからデンプンをとって、ヨウ素ヨード反応をやってのですが、この反応って何に使えるんだろう」と、小学校の子に、先生が聞くわけです。それで、何も教えてくれない。結局、最後に私たちがたどり着いたのは、デンプンがあるかどうか見つけるのに使うしかないよねということになって、そのとおりだ。今なら当たり前なんですよ。でも、小学校4、5、6年一緒にやったんですけれども、自分たちで、やっぱりそういう結論にたどり着いていくんですね。
 それは、授業ではきっとできない。クラブでやったこと。ただ、化学とのふれあいはその1年間だけです。あとは、合唱団に入って、毎日歌っていましたし、バスケットクラブに入っていましたし、全然サイエンスには縁がないんですね。では、なぜ理科系に進んだか?、非常に迷いました。私は、多分、文系の方が成績少しよかったんです。
 ですが、理科系に行ったのは、理科系は、ちゃんと学校に行かないと学べないと思ったんですね。その裏返しに、文系は自分で学べると思ったようで、思い上がりも甚だしいのですが、自分の家には文系の本があふれている、そういう環境に育ってきていたので、理科系がすごく新鮮だったのです。理系の知識は社会において重要です。熱力学などは、環境問題においても、ものすごく重要なわけで、熱力学の法則を無視したような環境論とか出てきたりしていますし。全然みんなの参考にならないような経路で理科系に来てしまいましたということです。

○ 本物に触れるという言葉がございましたけれども、私なりに言えば、本物の中の本物は、やっぱり人間に触れることだろう。学校の中では、教師が人間として子どもたちに、教壇をおりて、接するということがとても大事だろうと思うのですが、多くの教師は、教壇からなかなかおりようとしません。知識の中に閉じこもり、生徒の心の中に入り、それを受けとめるということができない、あるいはそういう努力をしない教師も結構目立つわけですね。
 そこで、ここは島田先生にもお尋ねしたいところですけれども、やはり教師の、本物の、人間として子どもたちに接するには、やはり教師という皮を脱ぐ機会が必要だろう。それはどこかというと、やはり社会に出ていくこと、あるいは企業体験をすること、そういう機会をたくさん与えることが重要ではなかろうか。その辺で、企業として、教師をそういう形で育成する場所をつくっていただくような支援策というのは、どんなものかなということでお伺いしたいと思います。
 もう1つは、理科を本当に専攻した教師がどれぐらいいるかということですが、小学校、中学校、わかりませんが、ただ、やはり、例えば大学や、あるいは会社等で、理科等で非常にご専門で実績を上げてこられた方が現役を引退された後に、小学生とか子どもたちとか、あるいは中学生に教室の中で、あるいは教室でなくてもいいのですけれども、実験等を含めてお話しいただければ、それがまた、現場にいる教師にとっても、すごく大きな参考になり、刺激になるのではなかろうか。本当に世界的な功績を上げられた方々もたくさんおられるわけですし、そういう方が、サイエンスとはこういうことなんだということを身をもって教えていただければありがたいし、その辺の支援策にお考えがあれば、お聞かせいただきたいと思います。
 3点目ですけれども、私は教師の多くは一生懸命やってると思います。しかし、一方、ある高校の教員から聞いた例ですが、ある家庭の夕食はコンビニで、お互いそれぞれ好きなものを買ってきて、テーブルの上に並べて、それで好きなものを食べて、またばらばらに、散り散りになる。極端な話だとは思いますけれども、私は何か象徴的なことのような気がするんですね。お母さんがお母さんとして、家庭で一番大事な夕食の時間の中で人間関係をつくっていくといったことが、なかなかできない、しようとしないのか、できないのか、いろいろあると思いますけれども。そこで、また、企業の方にもお願いなのですけれども、お父さんやお母さんを、ぜひ家庭に早く帰していただきたい。その辺について、お考えがあれば、お聞かせいただきたいと思います。

□ まず、教師への支援策でございますが、私、教師に対してどうのということではないと思うんですね。やっぱり教育は、全員がかかわっていくことだと思います。そういう意味では、例えば、社会で科学がどういうふうに生かされるのかという現実を、企業が持っているわけですから、例えば、エンジニアである社員が出前講座のような形で参加することもございます。こういう企業が、結構ふえてきていると思います。
 もう1つは、最近、民間人の校長も出てきていますが、いわゆる管理運営に回る人たちに民間の人を起用する。例えば、日産自動車から校長になった人もおりますし、異質な組織からの人的交流があってもいいのかと思います。金銭的な支援だけではなくて、この日本の社会の中では人的交流そのものが必要なのではないか。そういう意味では、どんな分野でももっと流動化が進むような社会であってほしいと思います。
 それと、やはり家庭に母親を帰す、父親を帰すというのは、全くそのとおりと思います。リフレッシュ休暇だとか、あるいはフレックスタイムというものを使って、最近はむしろ若い人たちが自由にそれをやるようになってきているように思います。

□ 教師も本物に触れることが大事だという話、全くそのとおりだと思うのですけれども、例えば、学術協会、日本化学会とか、物理学会など、そういうところでも結構いろいろなレベルの催しをやっております。例えば、化学会では、一般の人に対して、「夢・化学-21」といって、みんながおもしろく思うような、例えば『風の谷のナウシカ』などの映画をまず見せて、そこでちょっと化学の解説をするとか、あるいは、ラジウム発見100年のときには、マダム・キュリーのお孫さんの、ランジュバン・キュリーさんを呼んで話をするとか。それを、高校生とか、みんな聞きに来て、すごく感激して、後でちょっと握手するだけでうれしいとか言って、舞台裏にやってくるわけです。
 また、大学は大学で夏休みに実験室を開放して、いろいろな催しをやっています。余り来てもらい過ぎて困るという状況(大学はやっぱり狭いですし、本当の研究もありますから)ですが、それでも努力をしています。例えば東大でも、夏休みに小学生の子どもたちに教室を開放して、体験学習をやっています。それから、化学ですと、競争で賞を与えることもやっています。われわれもいろいろなことを、できる限りやっていますので、子どもたちに、そういうところがあるよと、先生が目を向けてほしい。先生方がまずおもしろいと思ってくださらないと、本当に困るんです。今日もまた教えるのかというのではなくて、本当に自分がおもしろいんだよという感動というのは、必ず伝わると私は思っているんです。ですから、ゆとりが必要なのは、私は、教師とか子育てをする側だといつも言っていて、子どもたちではないと言っているのですが、そういう取り組みをもう少し進めていったらどうかなと思っています。

○ 最後に、テリー・トニーさんからご意見をいただきたいと思います。
 テリー・トニーさんは、英国政府の国際文化交流機関でありますブリティッシュ・カウンシルの駐日代表を務めておられます。また、日本では北海道大学で2年教えた経験をお持ちです。
 それでは、お願いします。

□ 本日、申し上げさせていただきます発言は、個人的な意見ということになりますけれども、できるだけイギリスの最新状況というものを踏まえてお話をさせていただこうと思います。
 加えまして、私は、日本においての経験もございますし、また、ほかの地域での、教育経験がございます。スウェーデンですとか、ブラジルとか、コロンビアとか韓国といったようなところでありますけれども。そういったところの経験も踏まえて、お話をさせていただこうと思います。
 まず最初に、1つ目のところですけれども、将来の必要性に対して、どのような形で教育が、対応していくのかという問題であります。
 現代社会は、非常に競争的です。それは、国内競争もありますし、また、海外との競争というものもありますが、とにかく競争社会であるということであります。
 そして、競争社会という側面は、グローバリゼーションによって、さらに明確になってきているわけであります。それが非常にまた、際立った形になっているがゆえに、市場が開放されているヨーロッパなど特にそうでありますけれども、こういったグローバル化というものに対する反対勢力、抵抗というようなものが非常に強く出ているというところがあるわけです。
 また、日本においても、また、ヨーロッパにおいても、このようなグローバリゼーションがあってこそ、またいろいろと作業ができているというところもあるわけであります。ともに海外に進出しているわけでありますので、そういった意味では、いわゆる新しい商品を革新的につくり出すとか、また、流動性、融通性のある労働市場を確保するという意味におきましても、このグローバリゼーションが働いているわけであります。つまり、すぐに労働市場においての需要というものを取り込むことができるからであります。
 そこで問題となりますのは、このような環境の中にありまして、教育制度の方では、どういうような形で雇用者を社会に供給していくのか、どのような形で市民を生み出していくのかという点であります。
 また、実際の産業の局面において、これまでは、どちらかといいますと、大手企業の傘下に入るという垂直型の統合が行われていましたけれども、現在では、むしろ、中小企業が直接物を市場に出すというような形が多く見られるようになってきている。特にイギリスにおきましてはこの傾向が顕著であります。
 それから、間接費などの削減ということを念頭に入れまして、自宅での作業をするとか。あるいは移動中に作業をするなど、作業の形態が変わってきているということが言えます。
 またもう1つ、これは日本に関しても言えることですけれども、これまでは終身雇用でありましたものが、転職をすることが一般的な現象になってきているわけです。また、3点目として、社内で訓練をするということから、逆に、技能を持った人たちを雇い入れるという方向にも変化してきているということが言えると思います。
 そこで、イギリスの場合でありますけれども、質の面におきましても、レベルの面におきましても、決して、それが保証されるような形での提供がストラクチャーの中から出てきていないということが言えます。
 例えば、学位を持った教師が教えるとしても、必ずしもその教育が質の高いものとして、提供されるということでもないですし、また、たとえ学校を卒業しても、必ずしも必要な質を持った形で雇用として提供されるわけではないわけであります。
 そこで、イギリスでは、基礎的な学力というものの範囲を、さらに拡張するということを行ってきております。つまり、基礎的なものといたしましては、日本が非常に世界の中でも、特に小学校レベルではうまくいっておりました、いわゆる数量的な思考能力ですとか、あるいは、リテラシーと言われます読み書き能力に加えてインフォメーション、コミュニケーション・テクノロジーいわゆるITというものが、3つ目の必須の基礎的な技能と定義されております。作業の仕方が変わってきていることを考えますと、これも当然のことかと思われます。
 いわゆる中小企業が、数的にも増えております。やはり技能として必要なもの、リーダーシップ、意思決定力、柔軟性、判断力、責任感を持ったものであります。また同時に、コミュニケーション能力とか、あるいはまた、戦略的な思考といったものも非常に重要になるわけであります。
 そして、今申し上げました幾つかの要素の中で、2つ、特に取り上げてお話をしたいと思いますが、1つが、判断力と責任感の問題ということになります。これは、ただ単に企業にとって、産業にとって必要なスキルであるということではなくて、やはり、人生生きていく上で必要なライフスキルであると私は思っているわけであります。
 先ほど、実際に、生活していく上での判断力というお話がありました。つまり、社会にはテレビゲームやら、プレイステーションなどが出回っているわけですが、そういったものを全く社会から遮断してしまうということは、全体主義国家でもない限りはできないわけでありますから、そういうものに対しての判断力を養っていくということが必要になってくると思うわけであります。
 私は、ここ1カ月間ほどイギリスの方に戻っていたのですが、1つ、この点に関しまして痛感したことがございます。それは、よく一般の人たちの話の中に、遺伝子組み換えの食品や狂牛病あるいは口蹄病などが出てきておりますが、一般の人たちは、科学に対しての知識を十分に持っていないがゆえに、これらがどういうことであるのか、十分自分たちで判断ができないという状況があるわけであります。自分たちの生命、生活にかかわる判断ができないということになりますので、非常に極端な例といたしましては、もう私は、これから肉は絶対食べないというような判断になってしまったり、あるいは逆に、とても難しくてどうしていいかわからないから、全部食べることにするわというような形にもなっていくわけであります。
 このようなスキルを持つというようなこと、これは、結局は、これまでのいろいろな関係にも影響が出てくるということになるわけであります。つまり、教師と生徒の関係を見てみますと、これまででしたら、教師がすべてを知っていて、知識を一方的に生徒に与えるんだというようなものであったわけですが、今度はそうではなくて、判断力でありますとか、責任感ですとか、意思決定でありますとか、融通性とか、そういった要素が、今度は技術として備わってまいりますと、かつての一方的に何かを与えるという関係というものは、もはや機能しなくなるということになります。
 つまり、もっとオープンな形での教師と生徒の間の関係が生まれてくるわけでありますので、生徒の方からも、自由に質問をするというような状況が生まれてくることになるわけです。
 もちろん、これは程度問題というものがありますので、私としては、もちろんこれが過激な方向に、極端な方向にいくということをお話ししているわけではありませんけれども、そういった伝統的なものが変化せざるを得ないということが、1つとして言えます。
 もう1つでありますけれども、これは、私が日本に参りました当初、非常に生徒同士の関係を見まして驚いたことがあるのですが、それは、上級生と下級生との間にきちっとハイエラルキー、階層ができてしまっている。つまり、下級生は上級生に口もきけないというようなこと、これが小学校のときから、ずっと上に行くまでつながっているというようなことで、私は大変驚いた経験がございます。
 それから、多様性という問題があるわけですけれども、イギリスのいわゆる知的資源、人的資源と人材を見てみますと、50%は女性になっているわけであります。そういった意味では、女性を最大限に活用していくということが必要でありますので、もはや無視できる存在ではありません。
 また、知的人材の資源の中の5%が、いわゆる少数民族という状況を踏まえますと、やはり多様性に対しての態度をうまく養っていくということは、人的資源を豊かにしていくということにもつながると思っております。
 それからもう1点、申し上げたい点がありますけれども、イギリスの方で間違いを犯したと思っているところがあります。いろいろなことに対しての非難が教師に集中してしまうというところであります。教師というものを責めるということではなくて、むしろ、何かうまくいかないものがあったときには、それはすべての組織、あらゆるものの責任であるということと考えなくてはいけないわけでありますが、改革の過程におきまして、ある意味では、イギリスの教師の人たちは犠牲者となったということが言えると思います。
 また、教育とは、教師だけが責任をもつものではありません。それをさらに越えた社会全体のものであるというふうにとらえることが重要であります。先ほど、島田先生から、日産の取り組みについてお話しいただきましたけれども、いわゆる学習の場と社会というものが一緒になってくるということ、また、大学と社会が一緒になり、企業が一緒になるという、そういったパートナーシップを組んでいくということが、非常に実りのあるものを結果として生み出すと思っております。実質的な面においてもそうでありますし、あるいはまた、技能の育成という面におきましても、このパートナーシップはいい結果を生むと思っております。
 それからまた、2つ目のテーマ「学習意欲の向上について」3点お話をさせていただきたいと思います。各人の目標や達成ということの認識には、いろいろなものがあるということであります。これまでは、伝統的に、非常に学力とアカデミックな部分に強調され過ぎていたわけですが、やはり技能と各個々人の持つ資格といったものをバランスしていくということが重要であると思うわけです。
 ドイツを見てみますと、社会の中におきまして、マイスターになると非常にセルフエスティームが上がっていくということがあるわけであります。例えば、電気工になってる人でも、きちんとセルフエスティームを持った形になっております。自宅に来て、いろいろな電気などを直してくれるわけでありますが、決してその人は、アカデミックな面での学位を持っている人ではないわけでありますけれども、Ph.Dを持っている人たちと同じように、社会の一員として価値のある人であります。
 ちょっと誤解があるといけませんので申し上げておきますけれども、ここでは、いわゆる職業訓練でありますとか、資格というもののステータスを上げる方がいいということを申し上げておりますので、決してアカデミックなステータスを、下げてくださいということではありません。
 2点目は、生涯学習についてでありますけれども、基礎的な学力は学校において多くの人たちが取得するわけでありますが、そのほかの技能は、自分に合った都合のいい時期に、例えば大学のアカデミックコースなどで学ぶというようなことをしてもいいだろうと思っているわけです。
 実際、私がイギリスで学位をとりましたとき、1970年のことですけれども、私の隣におりました方は70歳の方であったわけでありまして、哲学を勉強したいということで大学に来ていたという状況があるわけです。
 そういった意味で、その人たちの学習の時期に合った形で、もう一度資格がとりたい、あるいは勉強したいという人には、そういうことができるようにしてもいいと思っております。
 3点目ですが、学習過程のストレスを減少させていくことが重要であろうと思います。例えば、自分たちが、また学習をしたいと思うときに、改めてもう一度学習の場に戻ることができるようにすることも、1つのやり方だと思います。それによって、ストレスが外されるということになると思いますし、あるいは、授業でミスを犯した場合にも、やはり許されるということが必要だと思います。当然、ミスというのは、人であれば当たり前のことであるのだと。学習課程の一部としてあり得ることですので、やはり創造性をつくり上げていくためには、リスクをとることが必要であると思います。間違っていることは全てだめであるということであっては、創造性は育ちません。
 同時に、また、ITを非難するという文化が非常に強いということになりますと、ここでもやはりクリエイティビティは育成されないと思います。
 もちろん、だからといってすべてフリーにして、オープンにしてしまえということではありません。そこも、やはりバランスをとりながらということを申し上げたいと思います。
 ここで私のサマリーを申し上げたいと思いますけれども、教育というものが需要に対してどういうものを提供すべきかすなわち社会に入ったときに、社会あるいは産業のニーズを満たすことのできる適切な技能とコンピテンシー、能力を持った人たちを提供していくかということであります。これは、新しいアプローチということが言えようかと思います。言うならば、過去のアプローチというのは、エリート主義的なところがあり、国を支配し、あるいは会社のリーダーたらんとする人たちを輩出するというのが重要であったわけですが、その需要がやはり社会とともに変化してきたということであります。いわゆる社会自体が、より民主的になり、また、より幅広い形になったということがありますので、こういった変化に対応できる教育をやっていかなくてはならないと思っております。

○ それではご質問、ご意見お願いします。

○ 今、産業も科学技術も、あるいは文化も、生活習慣までグローバリゼーションが進んでいる。そういう中での教育ですから、日本の教育のカリキュラムにしても、基本的なあり方にしても、イギリスのもの、あるいはアメリカ、そのほか多くの国と共通の面がどんどん多くなっていくと思います。そういう面で、それぞれの国の教育の経験を交換することができると思うのですが、同時に、そこで1つ残る問題は、それぞれの国で、例えばトラディショナルなもの、あるいは文化のコアになるものを、どういうふうに次の世代に伝えていくかということだと思うんです。これは、イギリスやアメリカですと、今のグローバリゼーションというのは、アングロサクソンのスタンダードを世界に広めていくという、結果としてですけれども、そういうような面がある。あるいは、もっと広く言うと、欧米のキリスト教に基づく、ものの考え方を、世界のスタンダードにしていくという面が、やはりこれはぬぐい切れないと思います。
 そこで、問題になってくるのは、例えば、アフガニスタンでも、イランでも、何十年か前、教育の面でも、社会システムの面でも非常に欧米化を一生懸命やった。しかし、それが民衆の非常にトラディショナルな部分とうまくマッチしなかったから、イスラム革命が起こって、イランでも、アフガニスタンでも、体制が覆されたということがあります。
 例えば、日本でも、やはり欧米とはトラディションが違う、文化のコアが違う。そういうところで、グローバリゼーションの中でのトラディショナルなものの教育、あるいは、今世界にグローバリゼーションといっても、1つのスタンダードになっていくわけではありませんから、文化の多様性に対する許容性をどういうふうに教育していくかということが、非常に問題になると思うんです。
 繰り返しますが、トラディショナルなものの教育、もう1つは、文化の多様性に対する許容性の教育、これらついてどういうふうにお考えになっているか、お伺いしたい。

□ 私は、やはり伝統は変わらないんだということはあり得ないと思います。イギリスの場合を見ても、どの時期におきましても、伝統というのは変わってきているわけです。ローマ時代でありますとか、あるいはアングロサクソンが支配的になった時代とか、あるいはいわゆる中世時代とか、その辺のところの伝統的なものというのは、変化はしてきていると思います。日本においても、やはりそれはしかりだと思います。例えば、大和時代であるとか、江戸時代でありますとか、あるいは徳川以前の問題でありますとか、あるいは戦前の文化を考えてみますと、やはり日本の文化も変わってはきていると思います。だからといって、私は日本の文化が、なくなってしまうとは決して考えておりません。やはり、こういったコアのカルチャーというのは変わると思いますけれども、教育としては、そういったことを踏まえながら、それに対して対応していくということになると思います。
 イギリスの場合ですと、日本よりも、いろいろな意味で変化をもたらせるような場面にさらされてきたということがあります。
 1つには、私ども、言語がアメリカと同じであります。また、テレビなどを見ましても、最近ではオーストラリアのものもありますので、余りかんばしくないようなプログラムが出てきたりするわけですし、あるいはハリウッドといったようなものも出てきたりするわけです。だからといって、イギリスの文化というものはなくなってきておりませんので、日本の文化も、そういった意味では決してなくなることはないと思っております。
 2番目の点に関しましては、先生のおっしゃるとおりだと思っております。これまでの歴史などを見てみましても、アングロサクソンの文化というものが、どちらかといいますと世界の中で支配的になろうという場面があったわけなのでありますが、だからといって、決して多様性のある文化が必要でないということではありませんで、イギリスも、アメリカも世界の中で最も多様化した文化を抱えている国であると思っているわけであります。いわゆるイスラムもあれば、あるいはヒンズーもあれば、キリスト教もあるというような形で、これはイギリスだけでなく、アメリカもそうでありますが、そういった文化、宗教の多様性というものがミックスされている国ということが言えると思います。
 そういった意味では、1つのものということだけではなくて、多様なものを取り込んだ形で来ているということが言えるのではないかと思います。
 とはいえ、その結果、イスラムと西側とが非常に対立した状況に置かれている中にあって、非常に日本は、ある意味では大変おもしろい立場に立っているということが言えるかと思います。西側でもないし、イスラム側でもない。それでいて、日本としての強い文化を持っているし、世界の中においても、非常にいい評判をとっている国でありますので、今こそ日本にとりましては、そういった中で国際的な面での組織、国際的な組織の中に、よりかかわっていくという時期が来たのではないかと思います。
 そして、これは国際的なリーダーというポジションをグローバル化の中で、獲得していくということになるわけであります。そういった必要性に対しては、やはり市民の方たちも、それに対応して、反応していくということが必要だろうと思うわけであります。当然、もう既に、立派な、国際的なリーダーになられて、成功をおさめていらっしゃる方もいらっしゃるわけでありますけれども、その辺にうまく対応していくことも、これからの日本の教育制度を考える上では必要になってくるのではないかと思います。

○ この場は、初等中等教育を議論する場であるわけですが、初等中等教育というのは、高等教育に非常に影響を受けるという性格があります。高等教育の仕組みとしては、日本はヨーロッパから学んだわけです。第二次大戦後、アメリカに少し影響を受けたという経緯がありますが、現在、日本は、イギリスがつい最近通過された、あるいはまだ今通過しつつある高等教育の大衆化という大きなテーマに取り組まざるを得ないわけです。
 その際、アカデミック、それから、スキル・アクイジションとか、ボケーショナル・トレーニングという、新しい目標を提言しておられたわけでありますが、イギリスの場合は、高等教育の大衆化に対して、これらの目標をうまくこなせたというお考えでございましょうか。つまり、日本の場合は率直に言って、従来の考え方、つまり、アカデミックということに対する非常にこだわりもあって、このまま大衆化に突っ走っていいのかなと非常に迷っているようなことが実際あります。そこのところを、イギリスはどんなふうに感じておられるか。うまくいったと思っておられるのかどうか教えていただければと思うわけです。

□ イギリスにおきましては、私は成功してきていると思っております。ただ、まだそれは過程として終わっておりませんので、途中であるということであります。
 私が大学に行っておりましたときには、人口の3%しか大学に行っておりませんでした。20万人だったのですが、今では120万になっております。人口の30%というところまで来たわけですが、目標としては50%を掲げているわけであります。だからといって、すべての人たちが、いわゆるこういった学問的なところで成功するということではないわけでありまして、新しい大学もいろいろと出てきております。オックスフォードやケンブリッジといったいわゆるトップクラスの大学は、そのままやはりアカデミックの部分でも強い大学として残っています。しかしながら、新しい大学も、また出てきているわけであります。少々個人的な話ですが、私の息子はロンドンのミドルセックスユニバーシテイというところに行きました。そこで、彼はコンピューターの技術とか、マルチメディアの技能を学んでいます。そこを出れば学位ももらえるし、仕事もきちっととれて、生活も、自分で楽しみながら成功していくと思いますので、妥当なところに行ったと思います。息子がオックスフォードとかケンブリッジに行けるアカデミックな力があったら、そこに行かせたと思います。しかし、そこではだめだろうというふうに思いまして、違ったところに行ったわけですが、それで、私は十分、息子にとってはよかったと思っているところがあるわけであります。
 でありますから、個々人によって、やはりどこまで自分が達成できるかというのは違いがあると思いますので、アカデミックの部分であれば、そういったアカデミックな部分でトップクラスの大学に行ってよかったということになるかもしれませんが、イギリスにおきましては、学位の有無で給与に差も出てきていますが、どこの大学の出身かということは、自分のキャリアの面では、そう大きな違いにはならないということがあるわけであります。
 例えば、リチャード・ブランソンという学問よりは、むしろビジネスにおいて成功をおさめた例もあるわけであります。
 そしてやはり必要なのは、セルフエスティームというものを持つことの重要性というものも認識されたわけでありますので、いわゆる社会が認めているような資格を持ってやるということが、そのセルフエスティームにつながるわけでありますので、そういった意味で、ここではほかの需要にも対応するという意味で、新たな多様性が生まれていると思っています。
 そして、まだ、それは全部成功したわけではなく、多様性をもった社会に至る過程であります。しかしながら、私どもの方では、最大の努力をいたしまして、そういった方向に向かっております。

○ 北海道大学で2年間教えられた経験やほかの国で大学生を教えられた経験をふまえて、日本の学生に対する評価はどうですか。

□ 国民の教育に対する態度は非常に健全なものがあると思います。つまり、教育こそ将来の道をつくるものであるという見方をとっているという意味では、非常に健全であると思っております。また、家族の参加というものも、かなり強いものが見られると思います。残念ながら、イギリスの方では、もちろんレベルによって違いますが、その辺、家族の参加が不足しているというところが言えるわけなのですが、日本、インド、韓国とかシンガポール、香港といったところを見ますと、非常に前向きな形で家族が参加してきているということが言えると思いますので、それは大変結構なことだと思います。
 それからもう1つ、今度は、学生さんのクラスの中においての授業態度といいますか、行動、挙動といったようなところであります。これは非常に、アメリカ、南アメリカなどとは、対照的なところがあると思っております。アメリカでは、おしなべて、クラスの中においては、自分の意見も言えるし、あるいはまた、途中で質問させてもらう、そういう権利があるんだと思っている。これに対して日本などでは、どちらかといいますと、先生方の知恵を聞くんだというような形で、これは日本に限らずアジアが一般的に言えますけれども、耳を傾ける的な態度があると思います。

○ ありがとうございました。
 お三人の先生方、島田先生、黒田先生、テリー・トニーさん、ありがとうございました。
 この部会の役割は、学習指導要領等の教育課程の基準について評価を行い、これを見直していくことです。そのためには、教育課程の分析や子どもの学力についての実証的な分析がどうしても必要になります。現在、国におきましては、国立教育政策研究所の教育課程研究センターで、全国的な学力調査の実施に向けた準備が進められております。そのほか、さまざまな取り組みがありますが、本部会としては、今後の教育課程の基準の改善に向けまして、どういうデータに基づいて、どんな手段で、どんな手順で議論していくべきかということについて意見交換を行う必要があろうと考えますので、次回は、この点についての議論をお願いしたいと考えております。

お問合せ先

初等中等教育局教育課程課教育課程企画室

(初等中等教育局教育課程課教育課程企画室)

-- 登録:平成21年以前 --