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教育課程部会(第2回) 議事要旨

1.日時

平成13年7月24日(火曜日) 10時~13時

2.場所

霞ヶ関東京會舘 「シルバースタールーム」

3.出席者

委員

 木村部会長、田村副部会長、荒木委員、市川委員、浮川委員、國分委員、齋藤委員、千田委員、星委員、宮崎委員、横山(英)委員、横山(洋)委員、若月委員

文部科学省

 御手洗文部科学審議官、結城官房長、矢野初等中等教育局長、玉井大臣官房審議官、加茂川大臣官房審議官、江田主任視学官、辰野初等教育企画課長  布村教育課程課長、芦立教育課程企画室長 他
国立教育政策研究所
 月岡教育課程研究センター長

オブザーバー

意見発表者
 白川英樹氏(内閣府総合科学技術会議議員、筑波大学名誉教授)
 上野健爾氏(京都大学理学研究科教授)
 吉田博彦氏(特定非営利法人教育支援協会代表理事)

4.議事要旨

新しい学習指導要領の実施に向けた諸課題について

意見発表の後、各発表について質疑応答。主な発言は以下のとおり。
 (○=委員、□=意見発表委員、△=文部科学省)。

○ 時間になりましたので、ただいまから中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会第2回を開会させていただきます。

○ 本日は「今後求められる学力について」並びに「学習意欲の向上について」という2つのテーマに関して、3人の先生方からご意見をいただくことになっております。
 まずは白川先生から、20分を目安としてご意見をいただきまして、その後、10分程度質疑応答を行いたいと存じます。
 同じ方式で、上野先生、吉田先生と続けさせていただきたいと考えております。
 それでは、簡単でございますけれども、白川先生についてご紹介申し上げます。先生は筑波大学名誉教授でいらっしゃいます。ご専門は高分子化学で、現在は、内閣府に設けられております総合科学技術会議の議員もお務めでございます。また、皆様方、ご承知のとおり、昨年のノーベル化学賞、文化勲章を受賞されております。

□ 「これからの時代に求められる学力」と、それから「学習意欲の向上について」ということですが、私自身は初等中等教育経験というのは一切ないので学力については、むしろ専門家の皆さんに考えていただくということにしてこれからの時代に求められる教育ということについて、私見を述べたいと思います。
 多分、これからの時代の教育においては、多様性の共存を認めることが大切なのではないかと思います。もちろん、今までだって子どもの個性を尊重する、人それぞれ個性があるということは言うまでもないことであったのですが、ともすれば、それがどうも抑えられているというような感じを持っています。もともと日本には「十人十色」というように好みとか考え方などが、人それぞれ異なるものであるという認識がありました。しかしいつごろからそうなったのかはわからないけれども、人並みであるということが最優先にされ、平均化される傾向が強まってしまったと思います。
 今朝だったか、昨日の新聞を見ていますと、例えばある学校で数学を教える際に、クラスを能力別に3つのクラスにした。一番上のクラスと真ん中のクラスは数学の先生が担当して、3番目のクラスは数学の専門ではないけれども教師の免許を持っている方が担当したそうです。そうしたらどうも親のご意見らしいのですけれども、人並みに取り扱ってもらえるのかどうか、どうも差別をしているような印象を受けるというようなことを言われたそうです。
 もちろん、子どもには個性がありますから、すぐ反応をする子もいるし、時間のかかる子もいる。こうした点も多様性の中に入れてもいい概念かもしれません。一方で、多様性は認めるけれども、どうも人並みに取り扱ってくれないのは不満だというのが、多分、一般的な意見ではないかと思うんですね。そこら辺を、親がどう理解するか、先生がどう理解をするかということが大事だと思います。
 それからもう1つは、「三つ子の魂百まで」と言われているように、小さいときに獲得した性格というのは、年をとっても変わらない。逆に言うと、幼少のときの家庭内や地域での生活を通してのしつけや教育が、いかに大切であるかということを物語っているのだろうと思います。
 性格というのは、もちろん義務教育の中でも形づくられるものがあるかもしれないけれども、それ以前の基礎というものが、私にとっては非常に重要に思えるのです。つまり、家庭とか地域の一員であるということを、しっかり身につけてから義務教育を受ける。そういうものが、初等中等教育を円滑に進める道筋であったはずなのですけれども、核家族化とか、それから、働く母親の増加ということで、これが崩壊してしまっているように思えるのです。
 そうして本来、子どもたちが家庭や地域で学んできたことを、小・中学校が押しつけられてしまっており、いろいろな意味で先生に対して過大な負担がかかり、 本来の初等中等教育に支障を来しているのではないかと思われます。
 そういう過大な負担を避けるためにも、先生が生徒の個性を十分に把握して、生徒の個性に見合った教育を授けるためにも、義務教育はできるだけ少人数のクラス編成をする必要があるのではないでしょうか。では、どのくらいかというので、理想的には20人ぐらい、どんなに妥協しても25人ぐらいだろうと思っています。
 一方、初等中等教育とは全く違って、大学の教育、あるいは大学院の教育なんかでは、400人の講義をするというときもあるし、少ない場合には40人ぐらいということもありますが、そのぐらいの教室で講義をするとなると、一人一人の学生がどんなふうに受けとめているかということまでを考慮しながら話をするというのは不可能なんですね。ですから、どうしても一方的にならざるを得ない。それが、少人数のゼミ、せいぜい20人まではいかないと思います、15人のときもあるし、10人のときもあるし、5人ぐらいのときもある。このくらいの人数になると、もう対話ができる。一人一人の受けとめ方がわかるから、それに対してどんなふうに話を進めるかということもわかるというわけで、これは多分、大学であろうが、中学校であろうが、小学校であろうが同じだろうと思うんですね。
 それともう1つ大切なことは、自分自身がそうだったのですが、小学校時代を振り返ってみて、教科書を読むのが大好きだったものですから、学期が始まって、教科書をどっさりもらうとうれしくなって、うちへ持って帰って、その日のうちに全部読んでしまいました。では、全部読んでしまって、それでわかったかというと、ちっともわかっていない。実際に、先生の話を聞いて、時々、例えばある小説とか文の一部分で、この人の言いたかったことを何字にまとめなさい、ということを言われるとすぐには答えられない。次の日、あるいは遅いと1週間ぐらいのときに、あ、あのときはこうだったんだというようなときがあったのを覚えています、要するに、理解をするのに時間がかかる子と、時間はそんなに要らない子がいるわけです。
 世の中で頭がいいというと、いわゆるレスポンスの早い子どもが頭がいいということになって、じっくり考えて、いい考えを浮かぶ子どもというのは、往々にしてその基準に引っかかってこない。ですから、理解に要する時間、答えを出すのに要する時間というのは、子どもによってさまざまに変わってくることを十分に考慮してほしいと考えるわけです。
 これは初等中等教育とはちょっと関係ないかもしれませんけれども、大学入試は、今は面接とか、多様な試験が増えてきましたけれども、基本的には、やはりペーパーテストです。その場で答えなければ点数にならない。後で幾ら正解が出ても、もう全然だめなんですね。
 そういう子はだめな子かというと、そうではない。だからと言って低い水準に合わせる、あるいは遅い、理解を要するのに時間がかかる子の水準に合わせると、より進んで早く理解できる子の頭を抑えることにもなりますし、今度は、高い水準に合わせると、遅れがちの子どもを切り捨てるということにもなる。
 そういうことで、現行の40人学級の実体を文科省に調べていただいたら、大体平均的に三十何人ぐらいなんだそうですね。必ずしも40人ではない。もちろん、もっと過疎化をした地域では、1クラスの子どもたちが、もう10人を割っているというようなところもあるようですけれども、平均をすれば、やはりまだ三十数名いるということで、そういう個人の能力や個性の豊かさを最大限に引き出すために、少人数のクラス編成が必要なのだろうと思うので、これはぜひ実現をしてほしい。と同時に、やはり先生の資質も大いに高めるようなシステムをつくってほしいと願っています。
 この教師の資質というものは、次に述べる「学習意欲の向上について」というテーマと密接につながっているわけですけれど、生徒にとって学校へ行ったり、勉強するのが楽しみになるための最も大切な要素というのは、先生自身が教えることの楽しさを十分にわきまえていることだろうと思うんです。
 先生が教えることの楽しさを味わうためにも、一人一人の生徒の指導をきめ細かに行える少人数のクラス編成というのは、これからぜひ望まれるのではないかと思っております。

○ 学級編成の人数については、今40人で、主張としては、30人にしろという主張が多いのですが、教科を教えることだけを考えれば、それは少なければ少ない方がいいと思います。
 ただ、集団による教育効果というものも一方であり、そうした観点からすれば、30人がいいのか、40人がいいのかというのは、立証はされてはいませんが、1つの考えとしては、こういう考え方があるんですね。
 例えば、子どもたちというのは必ずグループをつくる。このグループが、仮に3グループしかできないとすると、その3のグループからはじかれた子どもが入れるところがなくなってしまう。ところが、5つのグループがあると、それは先生が見ていて、必ずどこかに入れるグループができてくる。そういった面もある。
 したがって、教科の習熟度という点で言えば、極端に言えば、1対1が一番いいわけで、すが、実際に教室の活動というのは、集団による教育効果も当然あるわけであって、今言ったような有効なグループという考え方もある。そこのところを、どういうふうに考えたらいいのかについてご教示いただければと思います。

□ 私がクラスを20人あるいはそれ以下というものが望ましいと言ったのは、いわゆるホームルームとして、基本的な1つの単位がそのぐらいだということで、必要によって、これを幾つかまた集めたり、分かれたりということがあってもいいのだろうと思うんです。それは、何を教えるか、どう教えるかにもよるということなんです。

○ 今集団的な活動による教育効果を考えた場合に、基本的なクラス編成は40だということだと思います。ただ一方で、基本教科の習熟度を高める観点から20人規模の学習集団を編成できる制度が導入されています。これについての評価はどうですか。

□ 現状を知らないので、実際にはどんなぐあいなのかというのを、どなたか説明をしていただければと思います。

○ 今、学級編成の基準については40人という形で法律に定まっておりますが、平成13年度から5カ年計画で、小、中、高の教職員の定数の改善計画というものを進めておりまして、そこでは基本的な教科につきましては20人ぐらいの少人数の学習集団を編成して個に応じた指導ができるような教員の加配、増加を進めております。5年間で2万7,000人ぐらいの教員定数の改善を行ううちの2万2,000人は、少人数指導を進めるためのものです。

□ 1人の先生がどのぐらいまで子ども一人一人に密着できるかということもあるし、逆に言うと、いろいろな先生方がいるということを、子どもたちにも知ってもらう必要もあるわけですから、そういう観点からすれば、1対20が常にずっと進行していくと、逆に固定化されるという弊害も出てきますし兼ね合いが難しいところだろうとは思います。

○ 今、先生からの冒頭のお話の中で、多様性の共存を認める社会において、その多様性と子どもたちの持っているさまざまな能力の違いを、一体的に考えられるか、あるいは世間一般では、自分の子どもが人並みに扱ってもらえるだろうかというような懸念があるが、そこら辺をどういうふうに考えていくかというお話があったと思うんですが先生は、多様性の中に、能力の違いを含めそれに応じた教育がきちんとなされるべきであるとお考えなのでしょうか。もっと極端な言い方をすると、これからの社会を考えていった場合に、概念をどうするか、内容をどうするか、さまざまな検討の余地はあるけれどもエリートや、マイスターといったものを養成する教育の場を準備をしておいた方がいいとお考えなのでしょうか。

□ 親というか社会の意識の問題だろうと思うんですね。さっきも話しましたように、よく見られている子の親はいいだろうと思うのですけれども、能力別に低く見られた子どもの親というのは、やっぱり心配なわけですね。例えば入試に落ちるとか何とかということで、低く見られる。それがすぐ社会の落伍者というふうに見られがちな社会的な風土ができてしまっているのではないかと思うんですね。そこら辺が何とかならないかなと。
 ですから、これは親の意識改革でもあるし、社会全体での意識改革であると。人はみな違ったことだということで、総論は確かにそのとおりだと言うけれども、自分の子どもになると、途端に話がまた違ってくるというのは、多分そういう点では親の意識を改めるというようなことが、どこかで行われなければ、これは全然、実現するのは難しい話だとは思います。
 僕は、成績がいい子に特別英才教育をすべきだとも思わないけれども、今行われている平均的に子どもたちの能力を引き上げるという教育が、それはそれで立派だと思います。しかし、このことが平均より上を進む子の頭をどうしても抑えがちになっているのではないかということを心配しているんです。低い方は、どんどん引き上げなくてはならないということで、それは、先生の能力にもよるし、本人の能力、子どもの能力というのか、子どもの家庭環境にもよるかもしれませんし、いろいろなファクターがあるわけですから、国がそれなりに努力をしているということは、親も多分認めるだろうと思うんです。ただ、いざ能力別のクラス編成を導入するというときに問題が起こる。それは意識の問題だろうと思います。

○ 子どもたちが自然科学に対する興味を非常に失っているというようなご意見がありますが、白川先生は、子どもたちに理科や数学に興味を持ってもらい、これから日本を支えていく子どもたちを育てていくためにどうすればよいとお考えですか。ご自身のご体験を含めてお聞かせいただければと思っております。

□ 自分の体験から言うと、ほとんどほうっておかれたからこそ、自分の好きなようにやってきた、ということが言えると思います。けれども、現在の状況を考えると、一般的にそうした方がいいとは言えません。あの当時の飛騨の高山は、そういう環境がありました。現在全国でそうした環境がどのくらいあるかということになると、ちょっと首を傾げるわけです。
 そうだとしたら、家庭単位でもいいし、あるいは地域単位でもいいし、そういう自然に親しむ1日あるいは1週間を設けるということがあった方がましだけれども、どうもいろいろな話を聞いていると、ちょっと違うなという気がするんですね。
 それはどうしてかというと、例えば、親子してキャンプに行った。でも、キャンプの管理人が親からカエルがうるさくて寝られないと抗議をされたりする、ということを聞くとこれでは何をしに行ったのかということになってしまいますよね。

○ 先ほどの先生のご指摘の中にいわゆる学齢に達する以前の基礎教育が大事であるということがあったかと思いますが、その担い手としては、家庭とか幼児教育機関があるわけですが、そういうところで何が一番重要なポイントとお考えになるのでしょうか。つまり、小学校に来る前に、どういうことが一番大事だとお考えになっておられるか。

□ 何歳ぐらいからというのは、その子に応じてだろうと思いますが、ある程度の年齢に達したら、やはり家庭の一員として、家庭の中での役割分担を当然負わせるべきだと思うんですね。例えば拭き掃除でもいいし、玄関の靴をそろえるということもあるだろうし、靴磨きをさせるということもあってもいいのではないかと思うんですね。それはほとんどないのではないでしょうか。

○ 先ほどの先生のお話の中で、かなり子どもたちの学力に個人差がある中で、学力の低い子どもたちだけにどう対応するかだけではなくて、かなり進んだ子どもたちにも何らかの対応を考えていかなくてはいけないのではないかというお話があって、私も全く賛成です。
 ただ、そこで、今2つの方向が考えられていると思います。1つは、学力の高い子は飛び級という形で先に進ませるというやり方が1つ。ただ、これについてはいろいろな問題も指摘されていまして、例えば数学や理科の能力が高いというだけで、先の学年に進めることがいいことなのかどうかという議論もあります。
 私は、むしろもう一方では、学校の授業だけではなくて、例えば大学の研究者が協力したりして、地域の中でもっと進んだ教育プログラムを授業以外にも用意していく。例えば、外国の場合でも、いろいろな地域の施設、科学博物館であるとか、プラネタリウムであるとか、そういうものがかなり豊富にありますが、日本の場合は非常に少ない。また、そういうところには、指導できる人もいらっしゃったり、研究者がいろいろなプログラムを用意したりしてくださる。そういう形で、もっと学校だけではなくて、それもまた学校の先生に全部押しつけてしまうというのは大変ですので、むしろ、第一線の研究者の方々も参加していただいて、そういうものを社会的に充実させていくという方向もあると思います。そこら辺について、つまり、かなり進んだ能力を持った子どもたちを、どう育てていくかということについて、もう少しご意見を伺えればと思います。

□ ちょっと誤解があるかもしれないので、もう一度繰り返したいと思うのですけれども、学力を判断する際に時間というファクターを考慮する必要がある。つまり、子どもがある考えをそしゃくし、自分なりに理解をするためには子どもによって時間がかかる。その時間の比較的短い子を学力の高い子だと判断されると、それは学力の定義そのものが間違いだ、と言いたかったのです。そういうことを前提にすれば、学力別の学習集団を編成したり、あるいは学校教育以外にいろいろなことがあってもいいだろうという、今のお話は、僕は大賛成なんですね。また、先程ご質問がありました理科教育、あるいは科学教育を振興するために、自然と親しむというようなことをどうするかということと関連して言うと、今までの大学の、理科系に限らなくてもいいと思いますけれども、教官、主として高等教育の研究教育に携わってきた人たちというのは、教育はその大学の中だけ、研究成果は学界の中だけで済ませてきたというのは、やはりここら辺で方向転換をすべきである。やはり社会の中にあるということが前提となって、その研究が社会に役に立たないかもしれないし、いずれ社会に役に立つ研究かもしれない。でも、役に立つ、役に立たないにかかわらず、自分はこういう視点で、あるいはこういう興味、あるいはおもしろさを持って研究をしているんだということは、大学生以外の社会に訴えていく。そういうこともあっていいのではないかと思うんですね。
 最近は大学自身もオープンキャンパスなどを通じて、いろいろな体験教育をかなり頻繁に行うようになりましたけれども、もう少し社会に出向いていくことがあってもいいだろうと思うんです。
 私が筑波大学にいたときに、取手市がこういう市民講座を開きたいからというので、出張講義をしたことがあります、夜2時間ほど。それで、10人の先生方が1週間に1回ずつ行って、10回の講義で1つのストーリーを完結するというようなことがありました。そういう形でもっともっと社会活動が行われていいのではないかと思います。

○ 中学校をあずかる者として、これからの、特に来年以降の新しい学習指導要領の全面実施の中で学習の面だけではないのですが、子どもたちの資質、能力の中で、いかに発想力や創造力を開いていくか、開発していくかというところが重要な問題だと思っています。
 従前の私どもの教育全般の中で、やはり一番の反省は、一人一人をよく見取ることができないで過ぎてきたのではないか。そのことによってさまざまな弊害なり、国民の皆様からの不安なりを来しているのではないかと思います。
 その面で、これからの課題は、1つはどうしても、先生からもご指摘がありました、教師の学ぶ姿をどう改善していくかということと、もう1つは、子どもたち同士の意見のやりとり、そうしたものを通して発想力、創造力をどう開発していくかというところだと思います。その意味では20人規模で学習集団が形成できるようになったことについては、非常に大きな期待を持っております。
 そこで、先生に是非この場でご教授いただきたいのは、私ども教師は、子どもたちの発想力や創造力を普通の授業の中で、どういうふうに磨いていったらいいのかということです。

□ ちょっと言い過ぎかもしれませんけれども、日本の社会で非常に特徴的なのは、何事も規律正しくやるのが一番いいということなんですよね。ですから、そういう点では、いつも規律をとるように、教える立場に立っても同じようなことが行われている。ですから、最近はクラスの中に先生の話を聞かないで動き回っている子がいて問題になっているとはいいますけれども、基本的には、ちゃんと先生の話を聞くのがいいクラスという固定観念があって、逆に、そのために子どもたちの発言の機会を奪っているのではないかと思うんですね。
 そういう教え方、学ばせ方が主流であるということもあって、先生方はいかに完璧に教えるかということに、随分苦労し過ぎているのではないかと思うんですね。むしろ、逆に言うと、敢えて問題のある教え方をして、逆に生徒にその問題点を指摘させるということもあっていいと思うんです。
 やはり、日本人が発言が下手だというのは、ずっとそういうところから来ているような気がするんですね。なるべく発言はしないように、先生の話をおとなしく聞くようにしつけをされ過ぎてしまっている。もっともっと発言をする機会がある。そういうことによって、先生も、生徒が何がわかっていないかということが、多分とらえられるだろうと思います。
 これは、私の乏しい経験ですが、ちょうど1年間だけアメリカの生活をしたとき、当時、小学校1年生と3年生の息子を、何も準備させないで地元の小学校にそのまま入れたんです。1年生と3年生のクラス。先ほどの、クラス編成で何人いたかというのが気になって、多分、そんなに多くなかったというので、数日前に子どもたちに聞いたんですね。そうしたら、2人とも20人ほどだったと言っています。
 それともう1つは、朝1人ずつ前に出ていって、自分が一番好きなものは何かとか、その時々にテーマが違うのだそうですけれども、子どもたちに積極的に話をさせているんです。自分の意見を言わせるというようなことを、小さいときから、1年生からずっとやっている。そういうことのために、人前で話すことに何とも違和感がない。
 日本だと、ちょっと人の意見と違うことを話そうとすると、問題視されるということを懸念して発言を抑えるというような傾向が、多分、僕らの小学校、中学校でもあっただろうと思うんですけれども、それはやっぱり逆効果であって、もっともっと子どもたちに発言をさせるということによって、先生もまた認識を新たにするということもある。相互作用だろうと思うんですね。今までは、余りにも一方過ぎたというところに問題があるのではないかと思います。

○ それでは、上野先生、お待たせいたしました。
 上野先生について簡単にご紹介申し上げます。上野先生は、京都大学の理学研究科の教授でいらっしゃいます。ご専門は複素多様体論と伺っておりますが、日本総合学習学会の会長もお務めでございます。今、委員の皆様方の机の上に、『誰が数学嫌いにしたのか』という、先生の出版されました本を置かせて頂いておりますが、こういうことに対して積極的に発言をされております。私、日本学術会議で先生とご一緒に、教育体系の再構築の特別委員会において、ここでお話しされるようなことについて議論しております。
 それでは、先生、20分ほど、よろしくお願いいたします。

□ 私自身は、京都大学の理学研究科で実際に、主として研究者の養成の教育に当たってきました。それからもう1つは、京大に移る前、東大と合わせまして30年以上にわたりまして、大学入試の数学の採点をやってまいりました。そこから、現在の大学生の力について危惧を持っておりまして、そのことからいろいろな発言をしております。私、かなりストレートに物を言うものですから、失礼な発言になる場合もあるかもしれませんけれども、忠言は耳に逆らい、良薬は口に苦しという言葉で免じていただきたいと思います。
 私自身、京大生を見ておりまして、特に十数年ぐらい前から、ある種の異変を感じ始めました。それについては、数学仲間、みんな一様に同じことを言っておりまして、私たち自身は、数学というのは、教育における1つのカナリアの役割をしているのではないか。昔、鉱山に行くときに、二酸化炭素があるかどうかというのでカナリアを持っておりて行ったわけですけれども、それに近いことが実際起こっているのではないかと思います。
 大学での数学の教育といいますのは、ある程度抽象的な能力を身につけているかどうかということが、まずキーポイントになりまして、それは授業をやれば、はっきり目に見えますが、10年前から従来の形での授業ができなくなっています。
 それからもう1つは、大学入試の答案を見ておりますと、ここ十数年、特にここ5年以内、すさまじいまでの学力低下が見えてまいります。以前ですと、出題者の意図を、まるであざ笑うかのような、見事な解答というのが必ずありました。出題者はこう思って出したのだろうけど、いや、全然別の解き方があるんだと、ある種、ざまあみろという感じですね。こちらが一本とられたという感じの答案が幾つかありました。それが楽しみだったんですけれども、それが全くなくなりました。すべて同じパターンの解答になりまして、ここ四、五年、もっと恐るべきことは、すべての問題に解答は書いてあるんだけれども、すべてが途中で終わっている。最後まで完答できている答案がほとんどなくなってしまっています。ですから、点数からいえば、かつての例えば6問中2問完答し、あとは部分点とかで例えば4割とか5割とかとっていたのが、今はそうではなくて、すべての問題に関して4割とか、あるいは3割とって、少しいいのは7割ぐらいとってという形で、点数としては4割ないし5割できている答案ばかりです。点数だけ見ていては、その変化はわかりませんし、それから、中に書いてある文章を見ますと、誤字脱字は当たり前ですけれども、最近は漢字は書けなくなってしまって、文章も書けない。ただ、式がなぐり書きにしてあるという答案がほとんどになっております。
 そういう意味で、単にテストの成績だけ、平均点だけで学力のことを論じられるのは、非常に問題があるのではないかと思います。
 それからもう1つ、分数とか小数ができない大学生がいる、計算ができない大学生がいるというので大騒ぎになりましたけれども、私自身、それを不思議と最近思わなくなっています。学びの質が本当に変わってきているのではないか。単に、目の前にある情報を処理するような形で勉強をとらえているのではないかと思います。ですから、何も自分で引っかかるところがないんですね。先生に言われたとおり、そのまま覚えて、それを答える。必要がなくなってしまったら、すぐ忘れてしまうということが、本当に起こっていると思うんです。そのために、分数とか小数を本当は使わなくてはいけない場面はたくさんあるはずなんだけれども、それを自分で適用することができないものですから、簡単に忘れてしまう。
 最近、京大の教育学部の大学生との雑談の中で、小学校の分数の計算で割り算というのは分母と分子をひっくり返して掛けるというのは、あれすごく不思議に思うよねという話をしましたら、何人もの学生が、不思議に思わなかったという答えが返ってきたんですね。私、実は非常にショックを受けたんですけれども、例えばマイナス掛けるマイナスがプラスになるということ、大人の方々に数学のお話しをすると、必ず、どうしてですかと聞かれるんですね。でも、そういうことに対して、若者たちは何の疑問も持たなくなってしまっているという、非常に恐ろしい状況が実は起こっているのではないかと思います。
 1つだけ誤解していただきたくないのは、大学生の能力そのものが下がっているわけでは全くありませんので、この点だけは絶対に誤解していただきたくないのですが、要するに、自分の能力を使う訓練、基礎訓練が欠落していて、それが大学の4年間ではほとんど補うことは難しいという現実です。
 大学生の学力低下というのは、何も小数、分数ができないということではなくて、一番大きな問題は、やっぱり興味、意欲、関心というものが本当に持てなくなってしまっていることです。ですから、文部省がここ10年以上言われている、「新しい学力」に関して、その落ち込みが著しいというのは、私たち自身、肌身で感じていることでして、これは多分、大学の、特に理学部の先生に聞かれましたら、異口同音に答えが返ってくると思います。
 何かわからないことを、自分で考え続けることに対して耐えられない。わからないことは、すべてだれかに教えてもらって、すぐ解決しないと気持ちが悪いという状態に、多くの学生がなっています。それは、要するに考え続けていくための力がついていないということだと思います。
 最近、学力は落ちているのか、落ちていないかで、いろいろ議論していますけれども、私はもうそういう議論はやめるべきではないか。むしろ、本当に大事なことは、どうやって学力を向上させるか。その学力というのは、興味、意欲、関心とか、自ら課題を見つけて、自ら解決する力をどうやってつけたらいいかということに関することで、そのことに関しては、文部科学省のおっしゃっていることも、いろいろな教育学者がおっしゃっていることも、みんな気持ちは一緒だと思うんですね。問題は、その方法に関して、いろいろな異論があるというところだろうと思います。
 もう1つ、これはちょっと学力と直接関係ありませんけれども、京大の理学部を見まして、いろいろ心配なことがたくさんあります。
 例えば、理科の実験で、真冬ですけれども、フラスコを滅菌していて、滅菌が終わって、そのまますぐ、何げなく冷たい机の上に置いて、フラスコが割れて、ガラスの破片で危うく頸動脈を切りかかって大けがをしたという事故が起こっております。基本的な体験が、私たちの子ども時代はあった体験が、実は子どもたちにとって身近になくなってきていることがたくさんあるわけですね、自然が単にないだけではなくて。例えば、私が今住んでいるマンションですと、調理器は全部電磁調理器になっておりまして、そうしますと、そこに育った子は、炎だって見たことないかもしれないですね。
 実際に、きのう、全然別のことで話をしておりましたら、ある大学生と一緒に合宿に行ったら、ゆで卵をつくろうというので、熱湯の中に手を入れて、卵を入れようとした。そういう、本当に信じられないような基礎的な知識が、実は欠けております。
 それから、体力も間違いなく欠けておりまして、特に背筋の力はすごく落ちていると思うんです。それから、特に大学の学生食堂なんかへ行って、ぜひ見ていただきたいのですけれども、まともにはしを持って食べられる学生が非常に減っている。すごい例になりますと、本当にこんなわしづかみして食べている子がいるんですよね。信じられないんですけれども、そういうことが現実に起こっているわけです。
 そういうところ、要するに家庭とか地域の教育力が非常に落ちているということを前提の上で、教育の議論していかないと、これは大変なことになるのではないかと思います。
 大分、前置きに時間をとってしまいましたけれども、21世紀、これから生きていく子どもたちにとって、何が必要とされる学力であるかというのは、1つは、これからは社会全体がグローバル化されていったときに、いろいろな異文化、あるいは非常に考えの違う人たちとつき合っていかなければいけない。そのときに、自分の考えをきちんと述べて、かつ、相手の考えをきちんと理解しながら意見を交換し合っていく力が非常に大切になってくるわけです。その基礎をなしているのは、本当の意味での論理的に思考し表現する力だと思います。
 それからもう1つは、自分の思い込みではなくて、やっぱり事実を本当に客観的に見て、一体何が真相であるかということを、本当に看破できる力、これは鈴木大拙が『西田の思ひ出』という中に書いた文章をとらせていただいたのですけれども、それは敗戦直後に、科学をこれから振興しなければいけないということに対して、鈴木大拙が、禅の大家だったのですけれども、日本人というのは物事を主観的にばっかり見ようとしていて、客観的に見ようとしていないと、数学とか科学というのは実用になればいいとして、ちっともその本質を勉強しようとしていないというので、厳しい批判をしているわけです。その批判が五十数年たった今でも、実は全くそのまま通用しているということは、悲しいことであると思います。
 先ほど、大学生が疑問を持ち続けたり、あるいは興味、意欲、関心が持てないことを言いました。実は、興味、意欲、関心は瞬間的には持てるんです。私は、毎年1月の6日と7日に高校生を集めまして、数学のことに関して仲間と一緒に講義をやりますと、本当に2時間半休みなしでも、目を輝かせて、みんな聞いてくれるんですね。多分、高校の先生が見られたら、あの生徒がと思われると思うんですけれども。でも、そういう子が京大に入ってきても、では、それがうまくいくかというと、なかなかうまくいかないというのは、瞬間的にはものすごい興味を持って、やってみたいと思うんですけれども、いざ、興味を持続させるために必要な基礎的な力がやっぱりついていないんですね。あるいは、わからないことを、自分でどうやって調べたらできるかという、そのスキルが十分に開発されていないものですから、せっかくの興味とか意欲、関心が、そこでなえてしまっている。そういう現実があります。
 それからもう1つ、特にこれは今の日本で大事なことだと思うんですけれども、社会全体に今ゆとりがなくなってきたときに、個人個人に負わされる責任の多さというのは、非常に大きくなってくるわけです。1人のミスが、とんでもない大事故につながったり、大事件につながったりすることが起こるわけです。今までですと、何人かの人がいて、ある程度話し合いながらリーダーシップをとっていったと思うんですけれども、これからは一人一人がリーダーシップをとらなければいけない状況が出てきて、それがどこで起こるかわからないんですね。例えば、雪印の中毒事故の場合でしたら、大樹工場でたまたま停電していて、その後の牛乳を本当は捨てなければいけなかったんだけれども、いや、殺菌すれば大丈夫だと思ってしまって、黄色ブドウ球菌が毒素を出すということを忘れてしまった。たった1人の、ある種不注意なんですけれども、それがたくさんの人の食中毒を起こす原因になってしまった。そういう場面が、これからむしろ、特にインターネットなんか普及してきますと、いろいろなところで起こってくると思います。
 そういう意味では、これからのエリートというのは少人数ではなくて、非常に多くの人たちがエリートにならざるを得ない。もちろん大きな意味でのエリートから、ちっちゃな場面でのエリートもあると思いますけれども。そういう意味では、個人個人の持っている責任の重さ、それを、だから支えるために学力というものが、やっぱり本当に必要になってくるのではなかろうかと思います。
 そういうこともあって、私、日本総合学習学会というものをつくりまして、小学校の先生から、中学校、高校、大学の先生一緒に集まりまして、「総合的な学習の時間」をどう使うかということを議論しております。そういう過程で、先生方といろいろ議論をしていくわけですけれども、そこで非常に強く感じますのは、日本の教育は何かバランスを欠いているのではないか。振り子があっちへ、こっちへと極端に揺れているのではないかという気がしてならないわけです。論語に有名な「学びて思わざれば則ち罔く、思いて学ばざれば則ち殆うし」という言葉があります。学ぶことと思うことということは両方とも大事なことであって、それが本当に相互に、車の両輪のようなもので、相互に行き来しながら、学びかつ考えながらいって初めて、興味とか意欲というものもわいてくるし、それが持続していくわけですけれども、それがどうも、創造的な考え方を持たなければいけないというので、考えろ、考えろといって、思うことばかり強調してしまったり、あるいは、それでは何も身につかないから、では、学べ、学べで一方的に学ぶことだけいってしまっている。どうも中間がうまくいっていないのではないかと思います。
 「総合的な学習の時間」も、実際は学校にいろいろな主体的な行動が任されていまして、教科学習を単に補うだけではなくて、教科学習の持っている意味を見出したり、あるいは学ぶことの意義とか、あるいは学び方自身を学べるような時間に使うことができるはずなのですけれども、時間的余裕がないこともありますけれども、先生方はなかなかそこまで考えがいかない。
 それから、2002年から始まる新学習指導要領を考えますと、果たしてあの内容で本当の意味での総合的な学習ができるかという、基本的な疑問を、総合学習に対して何とかしなければいけないという意識を持っておられる先生の方が、むしろ強く持っておられるんですね。
 例えば、1,000引く3けたの数の計算が教科書からなくなってしまった。千円札を出して、おつりの計算が電卓を使わなければできなくなってしまうということ、果たしてそんなことで本当にいいのかという疑問は、先生はみんな持たれるわけですね。実際に、総合的な学習の中では、統計資料を見たり、環境問題、環境ホルモンの問題にすれば、1兆分の1みたいな、本当にごく微量なことを考えなければいけないわけですね。この地上には60億人ぐらいの人口がいるわけだけれども、もしかすると100億になるかもしれない。そうすると、そういう人たちの食料は一体どれだけかということを計算しようと思ったら、本当に大きな数も計算しなければいけなくなるわけです。それが全部電卓を使ってしかできなくなってしまったら、これはやっぱり、本当の意味での興味は持てなくなってしまうんですね。
 例えば、円周率は3.14だけれども、半径5センチの円の面積を求めよという問題は電卓マークがついているというのが、NHKのニュースで出ていましたけれども、5×5×3.14ですよね。でも、そこはもしも、例えば分数で5だったら2分の10なんだから、5×5というのは2分の10×2分の10だから、4分の100で、結局、25というのは100割る4なのだから、だから、100×3.14÷4にすれば、ほとんど暗算でできてしまうんですね。
 私は計算というのは、単に計算をやるのではなくて、計算は嫌だから、それを工夫するというところに大事なことがあって、その工夫を通して、こう見れば、こういうふうにやってみたら、いやあ、難しい問題でも実は簡単に計算できるとか、そういうのがたくさんあるんですね。江戸時代に出ました『塵劫記』という有名な数学のベストセラーがありますけれども、そこで扱われている問題を見ますと、ほとんど日常生活に直接関係あるのだけれども、数値自体はものすごく大きいんです。なぜそんな大きな数値の問題を出しているかというと、要するに、そういう大きな数値を扱うことによって、数値の感覚を身につける。量的な感覚を身につけるということを考えていたんですね。
 だから、『塵劫記』は、350年以上前の本なんですけれども、そこでは既に、一体教育というのは何であるかということを、十分に吉田光由という人は、本能的であったかもしれませんけれどもわかって、そういう問題を出していました。
 そういう伝統を忘れ、掛け算の基本は九九であって、2けたの掛け算がわかればすべてわかるという形で、2けたの掛け算だけ繰り返していても、計算力は絶対に身につかないということは、長い実践でわかっているわけです。たまには、非常に大きな数を計算してみて、そこで初めて計算の仕組みがわかって、ああ、そうなっているのかと納得できるわけですね。そういう体験が、実は現在の大学生にも非常に欠けております。
 ですから、京大の理学部で、化学の実験のときに滴定といって、化学反応を起こす溶液の量をきちんと調べる実験があります。小数点以下2けたの数の引き算が必要になってきます。それが実は、今の大学生でも、残念ながら、紙に数値を書いて、パッと計算ができないんです。もちろん最初の実験で電卓の用意はありませんから、携帯の電卓機能を使って、計算しているんですよ。それではとっさの事故のときに、何か本当にパッとやらなければいけないときに、そんな状況で本当に大丈夫であるか。ということを考えたときに、新学習指導要領というのは、やっぱり時代に逆行しているのではないか。これから21世紀、大変な時代になってくるときに、本当に力をつけなければいけないという子たちのためには、もっと工夫しなければいけないのではないかと考えます。
 それでは、一体どうやって学習意欲を向上させたらいいかというと、いろいろな問題点があります。もちろん、基本的な国語とか数学とか理科の時間をもっと増やしてほしいというのもありますけれども、それ以上に、私が強調したいのは、まず、学習できる環境をきちんと整えていただきたいという点です。
 例えば、図書室、学校図書館というのがあるんですけれども、実は学校図書館法という、はるか昔、昭和二十八年にできて、司書教諭を置かなければいけないけれども当分の間は置かなくていいとされていて、その「当分の間」がごく最近まで続いてきたわけなのです。でも、単に司書教諭がいればいいというのではなくて、やっぱり図書室には常時司書の人がいて、子どもたちが来たときに、どうやって資料を調べたらいいかとか、あるいは読書の相談に応じるとか、あるいはこんなおもしろい本があるという、たった一言のサジェスチョンでいいんですけれども、それが常時できる人がやっぱりいなければいけないと思うんですね。そういうことに関しての配慮というのが、全体を眺めてみたら、それはほんの些細な問題のように思いますけれども、欠けているのではないか。
 子どもたちが自然体験もない、本も読まないと批判するのは、子どもたちを責めるのは勝手なんですけれども、でも、本を読める状況に、実は私たち大人が子どもたちを置いていないのではないか。自然を体験できるような状況に、実は私たちが子どもたちを置いていないのではないかということを真剣に反省しなければならない。
 だから、校庭にビオトープをつくって、本当にちっちゃな自然でもつくるとか、あるいは理科の実験室にもう少し最新の器具を入れて、子どもたちがもっと実験できるようにするとか、それから、図書の予算は、それは学校がたくさんありますから、膨大な額になるのですけれども、図書室に、古い本しかほとんどなくて、子どもが興味を持てるような本が少ないんですね。もちろん地域の、市の図書館とか、あるいは県の図書館とタイアップして、借りてくるとか、いろいろな方法があると思うんですけれども、その中で一番大切なのは、常時図書室にいて、司書の役割をされる方を配置するということを、もう少し真剣に考えていただいてもらわないと、これからの時代は大変ではないかと思います。もちろん、インターネットを使えば大丈夫だという御意見もあろうかと思いますが、やっぱりインターネットだって、そばに誰かがいて、ちょっと一言アドバイスするだけで、使い方が抜群に違ってくる。同じ資料をインターネットを使って調べるにも工夫がいります。世界遺産の数を調べよという問題を出されたら、みんな答えが違ったというんですね。それは、インターネットでサイトを検索して、最初に当たったサイトでの数を見ていったんですね。いつそのサイトが更新されたかという年月を見ていないものですから、そういう初歩的で、実はつまずいてしまうということはたくさんある。そういう意味で、読書は、やっぱりこれからも本当に大事になってくると思うんですけれども、そのための司書の役割ということを、もう少し見直していただきたい。
 もう1つは、先生の学力アップを本当にやっていただきたい。例えば、先ほど小数とか分数の話をしましたけれども、数学において、小数の本当の意味と役割がわかったのは19世紀後半です。それから、分数の本当の役割がわかったのは20世紀前半、抽象代数学ができてからのことなんですね。そのことを、べつに詳しく知っておかなくても、そういうことがあるんだということを知ってもらうだけで、子どもたちに対する接し方が全然違いますし、実は子どもたちって、恐ろしいほどの創造力を持っているんです。とんでもない発想をして、それこそ20世紀にわかったような考え方を、実は何げなくパッと出してしまうんですね。もちろん、自分でわかっているはずはないんですけれども。でも、残念なことに、数学や算数の質問をされたときに、先生がわかっておられないものですから、せっかくの子どもの芽を摘んでしまうんですね。実は、そこからものすごく発展していく題材はあるんだけれども、先生が知らないから。そのための手当てを何とかしなければいけないのではないかと思います。
 特に今の教員免許状を取得する課程において、特に小学校、中学校において、専門の課程の勉強が少な過ぎると思うんです。
 きのうも、私の友人が広島地方の新聞の投書欄を送ってきたんですけれども、小学校で、長方形の面積の計算をしなさいというテストが出ていて、式が△になって、答えが○になっていた。なぜ式が△になったかというと、学校では、長方形の面積は縦×横だと教えたのに、その子は横×縦に書いていたからだというんですね。でも、長方形、横、縦というのは、ひっくり返せばどうでもなることですから、そんなことどうでもいいことですし、掛け算は順番を変えてもいいわけですからね。
 皆さん、お笑いになるけれども、現実に起こっていることなんです。私の息子の場合も、中学校の幾何の問題で、わからないから聞かれたことがありまして、息子のノートを見ると、私が言ったことと違う書き方がしてあるんですね。どうして、さっき言ったのと違うのと聞いたら、教科書ではこう書いてある。それは、「ゆえに」か、「よって」か、「したがって」かの言葉の違いなんです。だから、どう書いても正しいのにその教科書どおりに書いておかないと5点引かれるというんですね。
 ばかげているんですけれども、これは先生が本当にはわかっておらないから、自信がなくて、つい教科書に書いてあるものにしか○をあげられなくなってしまっているのだと思います。そういうことを改善するためにぜひ、何らかの対策を打ってほしいと思います。
 それからもう1つ、江戸の末期から明治時代に、私たちヨーロッパのいろいろな科学技術の文明を受け入れたわけなのですけれども、それが決して、単に私たちが勤勉だっただけでなくて、実は江戸時代の深い文化の蓄積があって、初めて可能であったということは強調しておきたいと思います。
 明治6年に佐藤則義という人が書いたノートなんですけれども、円の半径を求める問題を、和算の式とXとかAを使ったヨーロッパの方式との両方で解いてあります。ほとんど同じ式です。和算の縦の式を、記号をXとかAを使って書き直してやれば、自動的に、実はヨーロッパの数学に変換できたんです。こういう蓄積があったからこそ、初めてヨーロッパの科学・技術を消化することが可能になってきたのであって、これから21世紀、地球環境問題とか、人類の存続の危機が間近に迫っているような大変な時期にあって、子どもたちの基礎学力というものはできるだけ高くつけておくことが、私たちの責務だと思うんです。そのために、たとえば、単に2けたの掛け算を一生懸命何度も何度もやれば基礎がつくのではなくて、それこそ5けたとか10けたの計算を一度やってみて、計算の仕組みがわかって、初めて意欲が沸くわけですから、特に教科書は、もっと先の方まで題材を入れるような形に、ぜひ改訂していただきたいと思います。

○ どうもありがとうございました。大分質疑がありそうですが、どなたからでもどうぞ。

○ 上野先生、これまでいろいろな場で発言されていること、私もそれなりに、雑誌『世界』とか、岩波の新書判とか、幾つか読ませていただいたりしたのですけれども、きょう、直接先生からお話を聞くことができて、本で読んだだけでは理解できないところも、十分先生の意図されたところが理解できました。ただ1点、お尋ねしたいのは、具体的な、2002年4月からの新しい学習指導要領が全面実施に移行期を経てなるのですけれども、「総合的学習は毎週土曜日に行うのが望ましい」、「週5日は教科学習に集中し」云々という部分について、これは端的に言うと、来年からの完全な学校週5日制導入は、日本の場合は、他の主要先進国と違って、月1回から月2回とかと段階を踏んで相当な準備期間を置きながら、一方で、地域の受け皿を整備しながらかなり慎重に進めてきたと思っているのですけれども、その週5日制をストップして、やっぱり週6日で、5日間は教科学習で、土曜日を半日の総合学習と、こういうふうにすべきだということをおっしゃっておられるのですか。学力が低下したとか、低下しないとかでなく、どうやって維持向上させるかというところに力点を置くということで、やや空中戦的になっているというのを、もうこの辺で終わりにしようという、その趣旨は、私は非常に生産的だと思うのですけれども、日本のPTAなんかも含めて、かなり5日制については慎重な配慮をしながら、社会全体が土曜日は休日という形の中で、これを機に、地域や家庭の教育力を高めるという1つの契機にもしていこうということで、5日制の議論が慎重に進められてきた中で、あえて、この段階でこういうふうに提言されていることについてもう少し真意をお聞かせいただきたいと思います。

□ 多分、趣旨は全く同じではないかと思うんです。やはり、問題なのは、実際に今の子どもたちの置かれている状況を見ますと、子どもたちがうちにいて何をしているかといえば、大半が実はテレビを見たり、テレビゲームをしているわけですね。地域での活動とかと言うんですけれども、それは一部の地域はそういう活動も可能かもしれないけれども、なかなか現実的にはうまくいっていないと思います。
 私が、ここであえて土曜日に「総合的な学習の時間」をやるべきという提案をしたかといいますと、1つには午前中だけでなくて午後も時間が空くからです。総合的な学習というのは、実はいろいろなハプニングが起こりますし、それが大切なのですから、時間を決めてやるのは、正直言って、非常に難しい。特に何かどこかへ行ってやろうとしたら、やっぱり時間が足りませんので。
 それともう1つは、学校週6日にしなくても、週5日にして、土曜日の休みにいろいろな形で、地域のボランティアなどにも関わってもらって総合学習という形でやったらどうかということも、もちろん含まれているわけです。
 地域とか家庭の教育力はものすごく落ちているし、家庭の母親は、極端にいいますと、うちの子だけいい学校に行けば、それでいいんだという考えが、非常に強くあるわけですね。けれども、これからの社会というのは、グローバル化されてきているから、べつに日本でいい大学を出たからといって、アメリカとか他の国の大学を出た、日本人ではない人たちとも、実は一緒に競争していかなければいけないのであって、日本全体の力をあげる必要があり、単に自分の子だけ、どこかいい大学に行けば、それで済むということでは実はないわけですね。
 そういうことを踏まえて、土曜日を親子ともども、むしろ積極的に学習する時間にしたらどうかと。そういう意味では、むしろ、普通の学校の時間割に入れるよりも、土曜日にまとめてとってしまって、そういう形で親子、それから、地域のいろいろな形でのボランティアという形で、一緒に、地域ぐるみでやっていく方が、これは理想論かもしれませんけれども、むしろ、もっと効果があるのではないかと私は考えております。

○ 1点は上野先生にお伺いし、もう1点は文部科学省の方にお伺いしたいと思います。まず1点目ですが、上野先生のただいまのお話を伺って、大変興味深く思いましたが、トップレベルの学力を持ち、各分野でリーダーになるような人たちについては、まさに先生がおっしゃるように、学習指導要領を越えた内容を教科書に載せるとか、あるいはどんどん進んだことをやるとかというようなことも必要だろうと私は思うんですが、圧倒的多数である、それ以外のごく平均的な学力、あるいはなかなか通常のことにもついていけない子どもについて、先生のおっしゃるようなことが当てはまるのかどうか、その辺についてどうお考えになっているのでしょうか。
 それから、文部科学省へのお尋ねは、たまたま今、手元に上野先生の著書があるのですが、その中に三浦朱門さんのインタビュー記事が引用されております。私は三浦さんのほかの著書で、同じように、曾野綾子さんは二次方程式などは今まで役に立たなかったということを述べているということを読んだ記憶があります。数年前に読んだものですから、正確な記憶はないのですが、全体としては、三浦さんの言わんとしているのは、中学校で二次方程式は要らないという趣旨ではなくて、一律難しいことを教えるというのはいかがなものかということであったと思います。上野先生は、著書の中で、では、俳句なんかも実生活に役に立つのかということを言っておられますが、そうではなくて、俳句も、ある子どもにとっては、ある段階以上はもう要らないのではないか。数学も二次方程式が適当かどうかは別として、ある段階で特定の子どもには要らないのではないか。あるいは、跳び箱も、ある子どもにはもういいではないか。要するに、その子どもたち一人一人の特性というものを踏まえた教育をやるべきでないか。こういう論の中で、この曾野綾子さんの発言を記述したように、私は思っているわけです。
 そこで文部科学省の方にお伺いしたいというのは、教育課程審議会で、数学嫌いの委員が半数以上を占めていて、役に立たないからという観点から二次方程式を教育課程審議会の答申から外したという文言があるので、本当にそうであったのかどうかお聞かせ願いたい。私は、やはり基礎・基本を徹底しよう。難しいことは、あるいはその人の適性によっては上級学園あるいは上級学校で学ばせよう、こういう趣旨で、何も二次方程式に限らず、あらゆる教科について、そういう視点で精選されたというふうに理解しているわけですが、その辺はいかがなものかということをお伺いしたい。

○ では、最初の質問について、上野先生、お願いします。

□ 俳句に関しては御質問と正反対のことを著書の中で言っています。さて、いろいろな理解の子どもがいて、いろいろなレベルの子どもがいる中で、一律の教育はいかがかという話なんですけれども、先ほども白川先生がおっしゃいました、子どもの能力というのは一体どういう能力が欠けているかというのは、本当は大人になってみないとわからないということがたくさんあると思うんです。そのことを無視して、最初から、この子は理解の仕方が遅いからというので置いてきぼりにしますと、坂本龍馬なんていう人は出てこなかったわけです。彼は理解が遅いと、最初のころは言われていた人ですよね。だけど、ある時期から、本当に目覚めたようになった。そういう経験を私自身も大学院で持っております。この学生はと思っていると、ある日突然、本当に何か見違えるように伸びることもあるわけです。
 そういう意味では、私は、白川先生のご説と少し違う気もしますけれども、ある程度は一律に、本当に大事なことは教えなければいけないのではないかと考えております。
 それから、ここに述べていることが実行不可能かというと、私は全く逆だと思います。実際に、私が大学でやっております高校生のための現代入門講座で、かなり高度な内容をやっていますが、実際にそこに来ている子が、本当に数学ができる子かといえば、必ずしもそうではありません。ありませんけれども、本当の意味でのエッセンスをきちんと理解してくれています。本当に大事なことは、テクニックを単に、あるいは公式を単に暗記することではなく、本当の意味で考え方のエッセンスをきちんと理解することだと思うんですね。二次方程式は、今となっては難しいことではありません。ただし、二次方程式の基本をまとめるために、どれだけの数学者が、当時一流の数学者が、それこそ何千年もかかって苦労したということを、私は、中学校で教えてほしいと思うんですね。そこから、大きな数学の流れが出てきたわけですね。それを、ただ難しいからと切ってしまっては、せっかく人類4,000年にわたる長い英知の結晶の一つである数学の一番のエッセンスの部分が消えてしまっています。確かに、スキルとしてそれが必要かといえば、それは必要ないことはたくさんあります。でも、例えば地動説だって、それは同じことなんですね。俳句についても、芭蕉自身がみずから、あれは夏炉冬扇だとはっきり言っているわけです。言っているけれども、彼はべつにその立場を捨てるわけではありません。俳句のエッセンスを理解することによって、例えば、文章を書くときだって、いろいろな意味でのユーモアが言えたり、あるいは非常にうまい表現ができたりするんだから、決して役に立つ、役に立たないで、そう短期間のことで見るべきではないんだということを、私は主張しているのです。
 それで、私、一番危惧しておりますのは、習熟度別で分けるのはいいんですけれども、実はそこに1つの落とし穴があるかもしれない。実は、わかっている子が、わからない子に教えることによって、自分が実は本当にちゃんとわかっていないということがわかることがたくさんあるんです。わからない子は、先生よりも、むしろわかっている生徒から教えてもらった方がわかる場合もあるんです。そういう意味での、ある程度のまざったところ、要するに、いろいろな見方をしている、あるいはいろいろな考え方をしている子がたくさんいるんだという経験をすることも、私は大切なことと思うので、その辺はやっぱり、先ほど申し上げた振り子の例のように、両方に振れずに、やっぱり中庸のところというものを考えていかなければいけないのではないかと考えます。

○ 数学の二次方程式につきましては、中学校学習指導要領の中学校3年生のところに二次方程式について学ぶ部分があります。ここには、二次方程式の必要性を知り、その解の意味を理解することと記載してございますが、そのもととなりました教育課程審議会の議論においてはは、この点につきまして、数と式の領域では、文字を用いて考えることの必要性について理解を深めたり、式の意味を積極的に読み取り、自分なりに説明したりすることなどの基礎的・基本的な能力や態度の育成に重点を置き、例えば文字を用いた式の計算については軽減を図るとともに、二次方程式の解の公式の内容については、高等学校へ移行統合する。すなわち、二次方程式は学びますけれども、その解の公式という、子どもたちがつまずきやすい部分については、高等学校であわせて学ぶという形で精選を図っていただいた内容となっております。
 また、教育課程審議会の委員につきましては、数学嫌いの委員を集めたという事実はなく、幅広く各界から、ご就任をお願い致しました。

○ 上野先生のお話を伺って、高校をあずかる者ですから、大変刺激的に、ドキドキしながら話を伺わせていただいたところでございます。
 たくさんお尋ねしたいことがあるのでございますけれども、その中から1点だけお伺いさせていただきたいと思います。まず、「有名大学への入試合格者数で教育の成果をはかる愚から自由になる必要がある。」という結論に、私は大変賛成なのですが、現実はなかなかそうはなっていない。英語でも、国語でも、じっくりとそれを読んでいる時間は、入試の時間にはありません。パッと見て、その中から要点をつかまえて、それで解答するという、これが勉強かと思うようなことまでしなければ、なかなか子どもたちの希望、そして保護者の希望がかなえられないというのも現実です。そして、そのような進学実績を残す学校がよい学校、そうでない学校は、そうでない学校という、これは社会的な評価がそういうふうになっております。
 これは、先ほど白川先生のお話にもありましたけれども、私たち大人が、価値観というものを、この辺で、本当に国民的な課題として変えていく時期ではないかと思います。どうすれば変えられるのかということも、私も具体的にあるわけではございませんけれども、痛切にそんなふうに思っているところです。
 そして、1つの例で申し上げますと、授業観察で、例えば3年生の理系クラスを見ました。非常にまじめに一生懸命に授業に参加しているんです。教員が板書しながらやって、さあ、あとここの部分は、もう計算だから、自分で計算して答えを出しなさいと言って時間を与えます。どうするかというと、10人の生徒は何もしないんです。それで、ほかの生徒が計算して、さあ、では解いたなといって、先生が最後に答えを出しますね。ところが、その10人の生徒は、その答えだけ写しております。多分、その子はうちへ帰っても計算はしていません。でも多分、この子たちは国公立大学に入れるんですね。それで、創造力、発想力はつかないなと思いました。本当の意味での基礎学力が、この子らにはついていないんだな。そういう教育をやっている我々に、やはり問題があるんだなということも思いながら授業を見たわけでございます。
 最後、1つお伺いしたいんですけれども、先日、ある外国の校長先生方とお話をする機会がございました。その中で、数学の問題を、過去五十何カ国解いてもらったら、一番できがよかったのはシンガポール、その次、韓国、そして日本という統計結果を出されたわけです。では、いわゆる欧米先進国はどうかというと、アメリカとかイギリスは30番とかそこいらの、真ん中あたりにあるわけですね。そのテストがどういうテストかによるのだと思いますけれども。
 さて、それでも世界をリードするトップの業績を上げているのは、アメリカやイギリスの方が多いのではないかなと思うんですね。日本は、一生懸命、学習指導要領に基づいて、子どもたち、まじめに勉強します。一生懸命やって、そういういい結果は出るのだけれども、最終的なところで、何かやっぱり欧米にかなわないというのは、一体どこに問題があるのだろうかということについて、上野先生のお考えをお聞かせいただければありがたいと思います。

□ 先ほど、TIMSSのことが出たんですけれども、私が先ほど言いましたように、テストの成績がいいということと理解していることは、実は、今の子たちについて言えば全く乖離してしまっているということを、まず押さえておかないといけないのではないか。ですから、受験のテクニックは覚えていても、受験が終わってしまったら、どういうことを解いたかということ自体を忘れてしまっているということが起こるわけです。
 もう1つ、アメリカとかイギリスとかという話が出ました。数学に関しましては、今までは、日本も世界有数な研究をたくさんやってきたわけですけれども、将来、これからのことを考えますと、実は暗澹とした気持ちになります。
 さらに、単にテストの平均点だけではなくて、テストの成績の分布を見なかったら、実は全然意味がないのではないか。アメリカの場合、確かに全体の成績は悪いんですけれども、例えばアメリカの東海岸の幾つかの州を取り出したら、非常に成績はいいんです、平均点で見ましても。それから、平均点がすごくいい、いい点数をとる子の分布もたくさんあるわけです。例えば、TIMSSに、インドは参加していませんけれども、インドがやれば、恐らくトップの方に少し山ができて、それから、ほとんどできない方にたくさん大きな山ができるかもしれません。平均点はすごく悪いわけですけれども、でも、そのトップの方の人たちが仕事をするような分野であれば、それは明らかに世界をリードするような研究ができるわけです。そういうところのとらえ方が、ちょっと一面的過ぎたのではないかという気が私はするわけです。
 日本の場合は、実は平均点をとったら、平均の周りに分布の山ができてしまうわけですね。本来はそうでなくてもいいというのは変ですけれども、そうでなくて、もっと上の方にも、ちっちゃくてもいいかもしれないけれども、何らかの山ができないといけないのではないかと思います。
 もう1つだけつけ加えさせていただきたいのですけれども、私は小学校6年生から、中学校にかけて転校先のちいさな鉱山の町で本当にすばらしい教育を受けました。公立の小学校、中学校です。そこは、本当にすばらしい先生方がおられた。田舎でさえ、そんなすばらしい教育があったんです。私が今日あるのは、間違いなく、その中学校で受けた先生の教育であって、本当に仰げば尊しというのは、何の疑問もなくて、本当にそのとおりだと歌うことができた幸せな世代なんです。でも、そういう教育がなぜできなくなってしまったか。やっぱりそれは、先生方にも、社会全体にも、教育を支える、教育が本当に人をつくっていくんだ、これからの日本をつくっていくんだという、そういう信念がなくなってしまったのではないか。ただ、自分の子どもの幸せだけが重要になってしまって、日本全体のことを考えなくなってしまっているのではないかと思います。
 そういう意味で、先ほど御指摘がありましたように大学進学率だけで、高校が評価されて、そのために先生方が非常に苦心されて、悪循環を生んでいる中で、ここでもう一度、一体教育は何のためにあるのかということを真剣に考えなくてはいけない。それから、田舎にも、すばらしい才能を持っている子が実はたくさんいるんです。でも、そういう子たちが、実際にはいい先生にめぐり会えずに、才能が開花されていないということが、やっぱり現実にたくさん起こっているんだと思うんです。それを救うのは、教育の充実しかないんだと思います。

○ それでは、次に吉田博彦先生からプレゼンテーションをして頂きます。
 吉田先生は、現在、特定非営利活動法人教育支援協会の代表理事をお務めでございます。地域における体験学習のプログラムづくりや、知識を使える力の測定を重視した学力テストの作成など、さまざまな活動に取り組んでおられます。
 それでは先生、20分程度、よろしくお願いいたします。

□ こういう機会を与えていただきまして、本当にありがとうございます。
 NPOの活動といいますのは、まだ法案が通って2年ぐらいのものですから、なかなか大きく広がってはまいりません。ただ、私どもがこういう活動を広げていこうというふうに思い、NPOをつくろうというきっかけになりましたのは、中央教育審議会の15期の答申ですが、この答申については、民間の教育事業をやっている者を含めて、ほとんどの人間が意見を2つに分けて、賛成と反対に全く分かれました。
 私どものNPOでは、これを賛成支持するという者がたくさん集まりました。それは何かというと、今後求められる教育をやるという上で、一番大きな問題は、全体で、要は画一的教育をやめようとするわけですから、それを画一的にやめることはできないわけですね。つまり、地域でやっていくしかない。そうすると、教育の分権化はやらざるを得ないし、市民が一人一人で自分たちの地域の教育をつくっていくとなったときには、民間の人間がちゃんとそれを支えていく必要があるだろうというように考えたからであります。
 ただ、NPOの中でも、ご存じだと思いますが、福祉関係や環境関係は圧倒的に数が多いのですが、教育の関係のNPOは本当に少ない。理由は明らかでありまして、教育というのは国がやるものだという意識が地域に非常に強くあるからです。学習塾とか私塾というふうに言うと、簡単に言うと、金もうけしている連中だというふうに思われたりすることが多々ございました。
 最近、文部科学省の方も、学習塾というものを、変な言い方ですが、認めるという形になってはきたのですが、学習塾の中には、とんでもない、認めてほしいなんて思っていないという人間もおります。余計なお世話だという人間もおりますが、僕は、このNPOをつくるときに、私も大学時代から地域で学習塾をやり、大きな学習塾になったときに、はたと、自分がやっている仕事の意味を考えました。それは、やはりほかの仕事と違って、教育というのは社会にとても大きな影響を与える仕事です。それだけに、その責任というものを、自分が社会人として引き受けなければならない部分があって、ちょうど2002年という前に、我々が何をすべきなのかというところから、民間の団体という形ではなくて、ちゃんとNPOとして活動しようではないかという方々に集まっていただきました。
 この活動を始めていく中で、教育の活動を地域でやると、そのほとんどは2002年から全面的に施行される予定の総合的な学習についてのさまざまな試行です。ところが、地域のボランティアによる教育というのは、ほうっておきますと、非常に無責任になります。やりっ放しであったり、その学習の成果がなかなか問われない。やった方が楽しければ、それでよかったではないかということになりがちです。
 ところが、その活動に子どもを参加させているご家庭の方々からすると、いろいろな期待もあります。そこの中で、我々NPOとして、しっかり取り組まなければいけないとなったのが、学力について、学習の活動をやった後で、どれだけの成果が上がったかということを、どういうふうにはかるかという問題でした。
 ちょうどそのときに我々がいろいろ調べている中で手にしましたのが、たしか平成7年、8年に行われた文部省の教科課程実施状況調査だったと思います。非常に意欲的につくられたものでありまして、これを我々なりにうまく使って、総合的な学習と、教科学習との関連とか、またその成果を計ったところ、いろいろな結果が出てまいりました。
 お手元にある資料の、第3号になると思いますが、私どもの会員の方が、その活動に参加した子どもたちを1年間とらえていく中で、こういう表をつくりました。縦軸にありますのがある県で通常、進学のときに使うテストの結果を偏差値で上から下まで並べたものです。縦軸の上位の方にいる子ども、中に数字が入っておりますが、この数字は学校の成績です。確かに一番上のところに、学校の成績が5の子、4の子、3の子という形でおります。これがずっと分布しております。
 もう一方で、横軸には文部省が平成7年、8年に実施した教育課程実施状況調査をベースに我々の方で加工した新学力テストというものの結果を位置づけました。こちらの方は、どちらかというと、従来のテストが知識の量を問うものに対して、作問の段階で、解答途中の過程を評価するという形をとりました。できる限り、覚えた知識を使える力を評価することを前提にして作問をしていきました。例えば、10-5という問題があれば、10-5の答えではなくて、10-5という問題をつくってみましょうというふうな形でつくってみました。
 そうしてみますと、こちら側も、その成果を偏差であらわしてみたんですけれども、こういう分布が出てきました。従来のテストでトップだった子どもの中には、このテストでいきますと第2段階ぐらいまでのところに下がる子もいる一方で、トップの方に並んでくる子の中に、横軸で見ていただきたいのですが、3の子とか2の子がかなり出てまいります。これは、当たり前のことなんですが、評価の仕方を変えれば、当然、子どもの学力の視点というのは変わってまいります。先ほど、上野先生のお話をお聞きしながら思っておりましたのは、従来の5の子、4の子が京都大学に行き、3の子、2の子が行かないで、京都大学の質が下がっているのだろうと思いました。
 つまり、こういう子どもたちが、どんどん学習意欲を失われるような評価を、小さいころにどんどんされていって、「君、できないね」、「できないね」と言われてくるわけですね。子どもは、おれは勉強できないんだと思っているんですが、どっこい、そうではない視点というのが多々あるだろうと思います。特に総合的な学習をやっていると、従来の評価と違う成果を上げる子がたくさん出てまいります。
 現在、文部科学省の方でも検討されております、大学の入試の多様化は、非常に大事な視点であります。ただ、このときに私、よく地域の方々と話しているんですが、従来型の成果のいい子を切り捨てることはやめましょう。これはこれで、一面、いいものを持っているわけですから、このことは大事にしながらも、従来の視点ではなかなかとられなかった子、簡単に言えば、そういう子をどう拾い上げていき、意欲を継続させるか。
 こういう言い方をすると、学校教育の先生方もたくさんいらっしゃる中で、誤解を招いてしまうかもしれませんが、我々地域でやっていますと、低学年の子どもほど学習意欲があります。学校歴が長くなればなるほど、どんどん学習意欲を落としていくという子が出てまいります。つまり、中学ぐらいになると、何かもうやる気というものが本当にないのかなという子が地域に出てきます。小学校1、2年の子どもたちを対象にした、総合学習や何かというところには、本当に多くの興味、関心を持っている子がたくさん出てまいります。それは、一面では、中学になると受験という問題が出てくるからだというふうにも言われますが、あながちそうではなくて、学習の評価のされ方に、一面問題があるのではないかなという感じがしております。
 資料の2枚目に、私どもがふだん使っておりますS-P表という分析の手法があります。簡単にご説明申し上げますと、学習成果の高かった子から、学習成果の低かった子へ向けて、上から下へ縦軸で並んでおります。横軸に正答率の高かったもの、つまり、やさしかった問題から難しかった問題へと並べてございます。これは、いろいろな国で使われている分析手法で、これは日本の学者の方がつくられたものなのですが、この中で見ていただきますと、1というのが正答と我々が判断したもの。0が不正答、つまり誤答と判断したものです。このときにでも、上位にいる生徒が、全員が全員、難しい問題を間違えるわけではありません。誤答には、いろいろな問題がございますから、この特に中位あたり、真ん中辺の子に関しては、非常に分布がばらばらになります。特に総合的な学習、もしくは新しい学力テストという形になると、採点の仕方によって、見方によっては相当の分布が出てまいります。これを、一つ一つ、下の横のところに注意マークが出たりしているのは、ランダムな反応をしている場合には、もう一回、その答案を見直してみて、分析の仕方を間違えていないかという形で見ていったりすると、こういうところに非常に手間がかかります。このときには、恐らくクラスの単位が少ない方が、もっと見やすいという意見も出てくると思うんですが、ただ、私は一律にクラスの人数が、もしくは地域の指導する人数が少なければいいというようには思いません。先生の質によっては、60人でも全然問題なく指導する人もいらっしゃれば、10人も見られない先生もいらっしゃいます。
 その中で、この中位あたりの子どもたちの指導の場合でも、例えば、表の中に線が入っておりますが、線よりも左上側の誤答に関しては、でき得る限り教師が指導、もしくは指導者が指導しない。自分で課題として考えさせる。逆に、線の右側の下の方になりますけれども、難しくて、その子にはなかなかできなかった場合には、もう一度指導をするとか、指導の方法が、誤答の中でも分類がされてまいります。
 そのときに、自分で考えれば、もう一度やり直せばできるものも、先生が教え込んでしまったりすることによって、意欲を失わせてしまうという例が多々ございます。要は、できないと思い込んでしまうからですね。
 ここのところも含めてそうなのですが、地域の活動の場合ありがたいのは、初めに課題が与えられておりませんから、子どもたちに自分で、ではどうするか考えてごらん、およそこういうふうな評価が出たんだけれどもという形であらわして、データを出してあげると、子どもの中には、自分でこういうふうに勉強したいとか、こういうふうにやっていこうと思うとかというふうなことを言ってくれた子は、ほとんど学習の意欲は自分の中で出てまいります。
 ですから、これは一例にすぎませんが、評価の機軸を変えたり、もしくは評価の方法を変えるだけでも、十分、いろいろな成果は出てくるという気はいたします。これも、実際に我々が豊富な資金で活動しているわけではございませんから、1名1名、各先生の個別の対応、個別の反応によっていかざるを得ません。その中には、地域で長年校長先生をやられてこられて、今、70ぐらいで地域の子どもたちの活動を支えていらっしゃる先生もいらっしゃいます。お年で言うのは失礼なぐらい、我々も負けるぐらい熱意にあふれてやられる先生もいらっしゃれば、地域の中にはさまざまな人材がいらっしゃいます。ですから、一概にこうすればこうなるというふうになるわけではありませんが、ぜひともご理解いただきたいのは、従来やっていたペーパーテストではかることはだめなんだという考えではなくて、そういうものもうまく生かす必要がある。どうしても、今年から来年にかけて、改革の時期になりますと、どうしても従来のものを否定し、新しいものを取り入れているという傾向が強くなります。そうではなくて、従来のよさも残しながら、そのよさをどういうふうにそこに定着させていくかということと、では、新しいものをどう取り入れていくか。繰り返しになりますが、地域の活動の場合には、多様な活動である限りにおいて、画一的に、これはだめとか、あれはだめではなくて、その得意な先生が、得意のものを生かしていただいて活動を続けていくしかありません。なぜかというと、我々が給料を払っているわけではないからです。皆さん方が、自分たちでこういうふうにやりたいんだという発意を生かしていくことによって、変な言い方ですが、地域の活動は多様化せざるを得ないんです。画一的というか、一様にはできません。その中での成果もあろうかと思います。
 ただ、私どもがNPOの組織として、各地域にお願いするのは、例えば、従来のテストというのは、どうしても子どもを選別する、序列をつけるという意識が強うございます。すぐに目がいくのは、その子がどの位置にいるかということになるのですが、そうではなくて、自分たちが指導した成果がどうであったかということを、地域の場合には見ていただきたい。このことができなかったことが、こういうようにできるようになったねという形、問題は、どちらかというと指導する側の評価にしていきたいなと思っております。どうしても、子どもたちの評価ということが中心になりますと、子どもたちも嫌がりますし、もっと言うと、地域の活動は学校ではありませんから、そのテストがなぜ必要なのかということが忘れられてしまいます。そのために、盛んに我々が口にするのは、今回、我々地域でやるこの評価は、育成のための評価であり、指導する側の評価であるということを盛んに繰り返さないと、どうしてもテストというのは、一様に学習者の評価ということになってしまいかねないという側面が強くあるような気がいたします。
 では、そのときにどういうふうな視点で作問し、課題をつくっているのかという問題になるのですが、これも、白川先生が言われたこと、それから、上野先生が言われたことに共通すると思うのですが、どうもこの10年ぐらい、地域以外の学校教育の中においてもそうなんですが、教科学習の指導が、知識の習得そのものを目的化してなされるという傾向が非常に強くなってきているような気がいたします。
 私も長年学習塾におりました。そのときに一番感じたことは、どうしてもそういう場合にサービスという側面が強くなりまして、テストの点がとれるように指導すればいいという意識が強くなると、どうしてもテスト対策型の学習が主流になってしまいます。
 私が学習塾を離れたときに、一番感じたのは、学校もそうなってしまっている。みんなテスト対策になってしまって、先ほど上野先生が言われた、基礎・基本をしっかりとやるという先生がどんどん少なくなっていって、これは一部の委員の先生がおっしゃったように、これは恐らく社会の要望というか、家庭の要望が、いい学校に入ることということにシフトしていったせいかもしれませんが、そういう指導をする先生がいい先生だというふうになってしまうと、今度はどうなるかといいますと、学習塾の中で、本当に教育をちゃんとやらないかんなと思っている先生は、昔の学校の指導をやるようになります。もっと言うと、そういう方が、ご父兄がいいというふうに評価してくれる場合も出てくるわけです。社会というのは案外うまくバランスがとれていて、僕はそう簡単に学力は低下しないものだというふうに自信を持っています。一部、上位の子どもたちだけを見ると、学力は相当低下しているというのは、1980年代に言われた学力の量から質へということが、うまく機能していなくて、量的にばかり評価されて成績が良いとされた子が、東京大学、京都大学に入っていくという、もしくは慶應、早稲田に入っているだろうなという気はいたします。私は、案外社会というのは健全で、真ん中辺のところには、ちゃんとそういうことを受け継いでいる子はいるんですが、その子が真っ当に評価されていないという部分をどうにかしなければいけないなと。その部分は、やはり地域でしっかりやらなければいけないなと考えております。
 その中でも、総合的な学習の活動を進めていく中で、我々の得ている、我々なりの結論なのですが、その総合的な学習の指導を行っている中で、やはり、知識をしっかり持っている子は強いなという感じがいたしますので、ぜひとも使える知識を習得するというためには、知識はある程度習得しなければいけませんから、そこのところの活動の中での評価としてのペーパーテストの廃止みたいなものは、ぜひともおやめいただきたいし、学校の先生方も自信を持って、いいテストをつくっていただければ、僕はなかなかうまくいくのではないかなと思っておりますし、地域との協力をどうにか模索をしていきたいというふうに考えております。

○ 吉田先生、貴重なお話、ありがとうございました。
 私は小学校の方を受け持っておりますのですけれども、子どもたちを、キャンプに連れて行って、きのう帰ってきたところなのですけれども、子どもたちが飯盒炊飯するとき、飯盒でおいしい御飯を炊くにはどうしたらいいかということを、理屈ではなく、すぐに体験をさせるわけです。そうしますと、1日目はおこげがいっぱいできた御飯ですけれども、2日目になりますと、今度は真っ白い御飯をとにかく炊くんだということで、子どもたちは取り組んでいきまして、成功するわけです。
 これは夏休みを利用しての1つの活動ですけれども、教員の指導する方も、そういう子どもたちの姿を見ることによって、体験を通して学ぶことがいかに大事かということを実感するわけです。それで子どもも、指導した方も、それなりの充実感があって、お互いに自己評価したり、相互評価したりできるわけなんですね。
 では、学校でいつもそういう体験を重視した活動をといいましても、そういうことばかり行うことはできませんで、例えば、そういう体験をもとにして、今度は教室に戻ってきたときに、どういうふうにしたからおこげができなくて、真っ白い御飯ができたかを考える力が大事なわけでして、その辺のところを今度は教室で扱っていく。そういうことだと思うんです。
 できるだけ体験は、本来、小さいときから親御さんが一緒になってしていくことがよいと思いますけれども、大都会の家庭ではそれができないとすれば、今おっしゃるように、地域の方々が、いろいろな教育力を持った方々がいらっしゃいまして、子どもたちにいろいろな体験をさせておいていただくということが、とっても大切なことだと思うんですね。実際に自分の体を通して行ったことをもとにしながら、教室で知的に学んでいくという、この力も大変大事でございますので、そのあたりのことを学校教育、公教育が受け持つところ、あるいは一般的に学校教育が受け持つところと、その辺の役割分担がしっかりできるのではないかと思うんです。
 現実に、学校では総合的な学習を週3回、これからやっていきますから、体験もしっかり踏まえてやっていきたいと思うのですが、なかなか、体験もさせ、知的にも考え、思考力を育てるという難しさがあるわけで、今お話を伺って、ぜひそういう体験を子どもたちにしっかり蓄積させておいていただくといいがなと考えたのですけれども、こういう考え方でいかがでございましょう。

□ 学校の先生の方から、そう言われるのが一番ありがたいことで、なかなか、日本人の戦後の体質かもしれませんが、協力が苦手だという気がします。我々ボランティアの活動を促進しておりますと、よく言われるんです。地域のボランティアを集めて、やってみてわかることは、ボランティアはいません。育てていくしかない。経験を通じて、ボランティア化していくといいますか。
 一番最初の段階では、例えば、謝金を我々が払ったりします。そうすると、アルバイト感覚で来られる方もいらっしゃいます。例えば、私どもがやっている文部科学省「地域で進める子ども外国語学習の推進」という事業で、地域の人材を活用して、小学生の英語の授業、もしくは外国語授業をやります。謝金が出ます。初めは、謝金を目当てに来られる方もいらっしゃいます。ところが、やっているうちに、おもしろいと思い始めたら、謝金は関係なしに動き始めます。始めから何かがあるわけではなくて、例えば地域があるとか、ボランティアが始めからあるのではなくて、そういうものをつくっていく活動が一番大事なのではないかなという気がするんです。その中で協力というものが生まれてくるわけで、初めから協力関係があるわけではないと思いますし、民間の人間は文部科学省が嫌いです。なぜかというと、やはり積年、いろいろな問題があったからだと言いますからね。僕が言っているのは、55年体制はもう終わったんだから、だれが好きとか嫌いではなくて、オール・ジャパンでやろうということです。当然これは、例えば、我々の関係でも、あれは嫌だとか、これは嫌だと言う人もいます。でも僕は、2002年というのはとても大事な年で、これに向けて協力できるところは協力をしていくという態度を大人が示さないで、子どもに、よりよき社会をつくろうなんて、無理だと思います。そこのところは、ばかが何人か地域に出てこないと、その地域は、地域に教育を任せると言ってみても、ガタガタになると思いますので、今言われたような学校の先生の協力体制と、地域でやろうという人間とが、うまく連携して、先ほど上野先生がおっしゃったように土曜日は地域に任せればよい。分担を、できれば僕は、金土と地域に任せていただいて、学校週4日ぐらいが一番いいのではないかと思っているくらいです。
 そうした地域の教育の中で、僕が一番大事だと思っているのが、子どもたちが選ぶということです。自分で選んで、これをやろうと思った場合には、結構、一生懸命取り組みます。逆に飯盒炊飯の後で、指導をする側の人間が、この後、作文書かせてやろうなんて顔していると、大体書きません。書きたいという気持ちになったときに書かせないといけない。その意味では、僕、学校の先生は大変だなと思うのは、最初に書いてありますからね、こういうふうに指導するというのが。地域のありがたいところは、べつにそれをしなくてもいいというところがあるから、したいやつがするという形になるので成果が上がるのだろうという気がしております。
 先ほどからの議論の中でもあると思うんですが、僕は学校の授業時間をどんなにふやしても、クラスの生徒をどんなに減らしても、子どもが自分で学ぶという意欲が出てくるのを待てなければ成果は上がらないだろうというのが、地域で教育をやっていて一番感じることです。地域で教育をやっていて一番ありがたいことは、責任がないと言っては失礼ですが、結果については、子どもの成果だねということに依拠できるところが、学校の先生と一番大きく違うところで、学校の先生といろいろな話をしていて、本当に大変だなと思います。
 教育というのは、よく言われるように、内在的な発展力をベースにしなければいけないんだけれども、それを始めから、こういうふうにしなければならないということが決まっている方が、やっぱりつらいなという気がいたします。

○ 大変貴重なお話を伺わせていただきまして、ありがとうございます。
 私は、幼稚園教育に携わっている者ですので、どうしても子どもたちが本当に意欲を持って学ぶようになるにはどうしたらいいかということに大変興味がございます。
 それで、上野先生にお尋ねしたいのですが、、先生は「初等・中等教育の教科の内容を大学時代に深く広く学ぶ必要がある。」と述べていらっしゃいますが、先日、私、ある会合で、教育実習生を引き受ける大学側と現場の教師とで話をしたのですが、今の若い教員について言いますと、やはり教育実習を受ける若い教師を希望する学生さんたちの、学生さんたち自身の体験不足ですとか、生活力のなさということが非常に話題にのぼりまして、その辺について、もう少しお話ししていただけたらと思います。

□ 私自身の過去のことを振り返ってみたとき、高校時代の数学の先生、実は数学が専門ではなくて、統計物理をご専門になさっていて、ノーベル賞の時期になりますと、物理学賞の受賞者のことを丁寧に説明されたり、そのときはもう研究をやめておられたと思うんですが、昔、自分が実際、高校の先生をしながら、夏休みになると九大に出かけていって、仲間とこんなことをやったという話をされたんですね。そういう、むしろ何げない言葉の方が、すごく心に残っているわけですね。
 そういう意味で、確かに教科の内容を教えるときにも、その先生の持っておられるバックグラウンドが子どもたちに深くしみ込んでいくことがたくさんあるのではないかと思うんです。そういう意味では、単に教科書に書いてあることを説明するにしても、深いバックグラウンドから出てくる言葉というのは、やっぱり違うなというのを、子ども心に、子どもは何も理解できなくて、勉強もしないんだけれども、本当に何げなくとらえて、そこで興味を持ってくるということがあるのではないかと思います。
 以前、戦前の師範の教育のことを、ちょっとお聞きしたら、やっぱり戦前の師範を出て小学校の先生になるためには、教科の勉強をものすごくしたというふうにおっしゃるんです。それが、戦前の教育を支えた大事な面ではなかったか。特に戦前の場合ですと、大学に行く人はほとんどおらず小学校終わった段階で、社会に出ていく人が多かったわけですから、それだけに、小学校の教育というのは、非常に大きなウエートを占めていたと思うんです。そういう意味で、教員養成に関しても、非常なウエートを置いて、そういう教科の勉強もしたんだと思うんですけれども、今はどうも、小学校というと、ただ中学校の準備、幼稚園は小学校の準備という形になっているのではないか。本当はそうではなくて、小学生には小学生の非常にフレッシュな感覚があるし、幼稚園児には幼稚園児のフレッシュな感覚があるんだから、そこからいろいろな意味での意欲を引き出すような形の教育をしていかなければいけない。それには先生が単に知識を持っているだけでなく、いろいろな意味でのバックグラウンドを持って、いろいろな体験に基づいて話をしたり、あるいは自分の本当に興味とか関心に関しては、もう目を輝かせて話をするという、そういう何げないことが、むしろ子どもたちの目を開かせることになるのではないかと、私は思っています。

○ 吉田先生、どうもありがとうございました。やっぱり社会の中で、学校以外の中でも、いろいろこういう教育の場があるということはすばらしいと思います。今、実際、学校外の教育主体としては、第1に自治体がやるというケース、第2に大学などの研究機関が企画しようという動きもあると思うんです。さらに3番目に、塾などの民間教育事業者の中でも体験学習とか、総合学習に近いようなことを、やっているところもあって、生き残りをかけて、一生懸命おもしろい企画を出しているようです。
 ただ、4番目に、こういうNPOというのは、私は、実は理想的だと思っています。ただ、NPOでやっていくに当たっては、NPOだからという長所と、逆に難しさというものもあるのではないか。その辺について伺えたらというのが1つです。
 それから教育支援協会で取り組まれている新しいテストについて学校とかあるいは入学試験などでも使えるのではないかというご趣旨で開発されているのか、むしろ、そういうところでは使わずに、NPOのようなところでやるからこそいいのだというご趣旨なのかを伺いたいと思います。
 入試に関して、上野先生に伺いたいんですが、上野先生とは個人的にお話しする機会も多くて、趣旨には私もものすごく共感できるところがあるのですが、それでは何で、こういう質的な意味での学力低下が起きてしまったかというときに、やっぱり大学の方でやっている入試が、わりとこうイージーに対応できるものになっていたので、結局、そういう対応が起きてしまったのではないか。むしろ、予備校とか塾などでも、受験勉強を中心にした対応が起きて、下手をすると、学校もそういう対応の仕方をしていて、むしろ、入試自体を変えていくべきではないかという声もあると思います。例えば、完答したならボーナス点だということにすれば、先ほどの先生のおっしゃったようなつまみ食い的な答案というのは減るでしょう。
 ただ、逆に、入試をいじっても、どうせまた安易な対応が起きるので、むしろ入試をいじるということではなくて、もっと基本的な改革路線ということもあり得ると思います。そこら辺の、大学側は、ではどういうふうに対応していったらいいのだろうかという話を伺えたらと思います。

○ では、吉田先生から。

□ 最初に、テストの使い方のことから申し上げますと、教育の議論というのは、どうしても哲学的、理念的になりがちです。我々現場にずっといますと、具体的にこれはどうなのかということを検証する必要がある、それを提案していかないと、例えば、文部科学省だけではなくて、各教育委員会と我々が話をするときに、教育委員会の方々と話をしていったら、総論は大体賛成になってしまうんですね。ところが、各論になると全然バラバラになってしまうんです。ですから、具体的にどうなのかということを、一個一個詰めたいということであって、こういうテストもそうなのですけれども出してみました。
 例えば、我々が文部科学省の委嘱事業を引き受けて、地域の活動をやるとします。そのときに、あらかじめどういう評価が要るのかを、具体的にその内容を出して、これでどうだろうかと詰め合いをしていかないと、一致を見ないところが結構あるんです。
 もう1つ、我々考えておりますのは、日本で、これから先、いろいろな形で地域の教育という形で分権化が進められていった場合、やはりナショナルテストに近いようなものが必要になるだろうと思います。それを、では、国がやるのか。例えば、アメリカにおけるSATやTOEFLは、NPOの活動です。ああいうふうな形で、民間のものも提案していけるようになっていかないと、選ぶのは、国がつくっているものだけですよというのは、僕はいかがなものかなと思うので、幾つか候補に挙げられるもの、従来の業者テストではありませんが、民間で、利益を目的としないで研究できるような形を考えています。今回のこのテストに関しても、何人かの大学の先生方にも協力をいただいております。そういう方々の力も集めて提案していって、変な言い方ですが、各教育団体、学校がテストを選べるといいますか、うちではこういうのがいいと思うねというふうにならないと、一律にやってしまうのが一番いけないのではないかなという気がしまして、そういうテストを目指したいということもございます。
 最初のご質問の、NPOとしての良さ、悪さということでいいますと、良さは、一人一人が、参加するときに初めから利益をあきらめてます。ですから、我々の会員の中にはいろいろな教育団体もしくは学習塾の方もいらっしゃれば、学校の先生も何人か参加されています。それぞれ立場は違いますが、NPOという場に出てくれば、目的と意識が一致しているという意味で、非常に連携をとりやすいです。よく言うのですが、土日、地域の活動をする場合には、どこどこ会社に勤めているなんていうのはやめよう。変な言い方、1人、文部科学省の方も来られているんですが、その方も、文部科学省の役人というのは捨ててください。要は、地域におったら、どこどこのおっちゃんなわけですから、そのおっちゃんとして活動するときに、名刺の交換はやめてくださいというようにしないと、どうしても立場というものを、日本人は1つしか持っていないような気がするんですね。地域に帰った場合の立場をつくってもらうという意味では、NPOというのは非常に活動しやすいなという気はします。
 もう一方で、やはり、福祉関係の場合には、いろいろな意味でNPOを活用しやすい場がつくられています。例えば、労金でのNPOに対する資金援助の問題から始まって、どちらかというと環境と福祉というのは寄附金も集まりやすいんですね。教育というのは、なかなか寄附金が集まらない。資金的に非常に枯渇することが多いんです。そのために、会費を集めなければいけない。会員というのは、基本的に、会費といいますのは、経常的、それから、定期的な寄附金みたいなものですから、そういう資金的な調達をするのは、正直言って、一番難しいですね。順調には来ていますが。

□ 入試のことに関して、議論すると、すごく長くなってしまうと思うんですけれども、基本的に2つあるのではないかと思います。
 1つは、大学側は、これまでにも多様な入試をやっております。問題なのは、どういう入試がよくて、どれが問題があったかということに関する評価を一切、私たち自身もやっていないということなんです。だから、まず真っ先に、大学がやらなければいけないことは、どういう入試が実際に自分たちが希望する学生を受け入れることができたかということに関してきちんと統計データに基づいて分析することではないかと思います。
 それからもう1つ思いますのは、入試に関して、余りにも世間の目が行き過ぎているのではないかということです。入試というのは、ある種、必要悪でしかないと思うんですね。ある大学に行きたいという希望者が多いから、やむを得ず選抜するという形になってしまっているのであって、入試が目的では本来ないと思うんです。ある大学に行きたいというのは、そこで何かを学びたいとか、何かをしたいという目的があって、本来行くはずなんだけれども、それが逆転してしまって、例えば、京大の理学部に通るだけが目的になって、入ってくる学生ばかりになってしまっている。考える力をもった学校の成績が5段階で、2や3の子が入らないのがいけないんだということにも一理はある。ただ、ある程度知識を活用できる力を持っていないと困るという意味で試験を課しているのに、それが余り機能しなくなっているというのは事実です。
 では、2、3の子たちがどうしているかといえば、10年ぐらい前に、いろいろな大学の人たちに聞いて回ったんです。京大がだんだん何か変になっているんだけれども、おたくにいい学生はいないかと。そうしたら、みんな異口同音に言われるのは、結構、いい才能を持っている子がいるんだけれども、自分は偏差値の低いこの大学に入ったからというので、最初からあきらめて勉強していかないというんです。センスがあるので、励ますんだけれども、途中で、ちょっとつまずくと、すぐあきらめてしまう。やっぱり社会全体が偏差値だけで順位をつけてしまっているのではないかと思います。
 もう1つ、入試に関しましては、これは大学自体が悪いんですけれども、もう少しフレキシブルに変えたいと思うんですけれども、変えるとなると、やっぱりいろいろな準備をしなければいけないわけで、そのエネルギーが膨大なわけです。すると、なかなかそれがうまく実行できないということが、言い訳かもしれませんけれども、実際あると思います。
 それからもう1つ、実際は共通一次が始まってからですが、やっぱり全体変わってきたところがあるのではないかと思うんです。特にマークシート方式とか、あるいは幾つかの問題から、ただ答えを選ぶというだけになったときに、本当の意味での自分の知識を獲得するという意識が弱くなってきているのではないか。それに対して、しかも受験産業が至れり尽くせりで、いろいろなノウハウを教えてくれるものだから、余計その傾向になっているのではないかと思います。
 ですから、この辺は、やっぱりみんなの意識を変えていくことしか、まず手だてはないし、大学自身も、今までやってきたことを、きちんと自分たち自身で評価して、それを公表すべきだろうと思います。もちろん、非常に難しいとか、こういう入試をやったら失敗したって、実はなかなか公表できないわけなんです。内部では言えるんですけれども。私たちも、前期と後期の試験をやって、ある程度データを集めたりするわけです。すると、いろいろな問題点が出てくることがわかるんですけれども、プライバシーもありますので公表できないところがありまして。それが、自分たち自身で評価するところをためらわせている一因だと思います。

○ 吉田先生と上野先生にお伺いしたいのですけれども、あと、よければ白川先生にも、ちょっとコメントをいただきたいと思うのですが。
 S-P表は、これは例のNECの首席研究員の佐藤さんの仕事ですね。僕も、これ5、6年、私のやっている研究会で取り上げて、研究してきたのですが、チャート方式でということで評価を組み合わせるという点に非常に新しい面があります。そこでちょっとお伺いしたいんですが、上野先生は、二次方程式は就学年齢、つまり、12歳から15歳の間に教えるべきだというふうにお考えなのかどうか。つまり、年齢に応じて、チャートで知識を積み上げていくという形を考えた場合、ある年齢には、こういうことを教えていく必要があるんだというふうにお考えなのかどうか。
 今回の学習指導要領は、基本的に、内容が低下しているというように、言われますけれども、中学校から高校までを考えると低下していないんです。つまり、後に移しただけなんです、それが、よくないのかどうかということについてお聞きしたい。
 それともう1つ、大学の学部に来る学生というのは、これだけ教育が普及して、大学進学率が伸びてきたときに、従来どおりの考え方で教育をするということでいいのかどうか。つまり、ある先生の言葉をかりると、高校と大学の間に巨大なバリアがあったのがなくなってしまって、もう続いてしまっている。そういうふうな考え方でいくとすれば、大学の授業内容から始まって、例えば、私はうちの生徒から聞くんですけれども、大学に入って、最初に数学の授業で先生に何を言われるかというと、君らが受験勉強で死に物狂いにやってきただろうけれども、それは全部忘れろと、これから勉強するのは、全く違うことをやるんだというと、そこで生徒たちがやる気をなくすという実態がある。ずっと目標としてやってきて、これができて、やったーと思って入ったら、全部意味ないよと言われる。恐らく、年齢に応じた学習内容のつながりがあるんだろうと思うんです。S-P表も、まさにそのことを指摘している非常にいい方法だと思うんですけれども、それについてのお考えがあれば、ぜひお伺いしたいと思います。
 白川先生、もし、その点についてご意見がございましたら、ぜひお教えいただければと思います。数学に限ってでも結構でございます。化学の方も、私どもの学校で、実験中心に授業をやっているんですが、学生が非常に嫌がるんですね。つまり、受験に役立たないよということなんです。うちの場合、生徒のほとんどは国公立を受けますから、要するに、共通テストを受けるわけですね。すると、実験なんか幾らやったって役に立たないということを、生徒の方が言ってくるわけです。教える先生が非常に困っているわけです。その辺のことも含めて、しかし、この年代には、これをやっておかないといけないよというお考えがあれば、ぜひお伺いしたいと思っています。

□ 今、田村先生おっしゃったように、このS-P表を採用した最大の理由は、いろいろな評価の方法を試してみようということでした。特に、我々が一番気にしているのは、日本というのは、これだけ工業製品に対しては品質をうるさく言う国民であるにもかかわらず、テストというやつをうるさく言わないんです。聖域と言ったら変ですが、先生がつくったものにいちゃもんつけるとは何事だという部分があると思います。S-P表の一番いいところは、評価する側の作ったテストがよかったかどうかも分析するわけですから、我々としては、テストの一個一個の品質も見ていきたいということがあって採用させていただいています。
 いろいろな方法があることは、もういろいろな先生がいらっしゃるわけですから、ただ、学校というのは、非常にそういう意味では、それを採用してやるというのは難しいという話を聞きます。地域の場合には、実験的にいろいろなものをやって、受けられるご父兄がオーケーしていれば、いろいろな実験ができるという自由さがございますので、その辺を、我々なりにやっているような気がします。
 先ほどのご質問、多分こういうことだと思うんですが、理科の実験だ何だといいことをやっていても、入試という問題との関係でということと、あと、今回の指導要領全体が学力低下もしくは知識の量を減らしているかのように言うということがあると思うんです。私は、両方とも全然そう思いません。先ほどの3.14が3になるというやつで、センセーショナルに取り上げられますけれども、地域の活動もそうなのですが、学習活動の中で、値をつけるときに、3で計算すること結構あるわけです。ただ、そういうふうに言ってしまうから、余計なお世話をしてしまって、3で計算してもいいよなんて言わなくていいと思うんです。現場の問題であって、それを文部科学省が言うから、3でいいのかという話になるわけです。僕は、大体、子どもたちも3で計算して、面積をとったりしますよね、図工でやるときに。大体3で計算して、ここまでとったら出ちゃうとかいうようにしているわけですから、普段やっていることじゃないかなという気がするんです。
 全体として言えることは、最初の方が少なくて、先が多くなったことは確かだと思います。高校にドーンと行っている。僕は、一番いいことだと思っているのは、始めゆっくり、やりたいやつは、最後にという形で、どうしても日本の場合には、中学、高校までの学力は国際比較で高いんですが、高校、大学でガクッと落ちるんです。その問題は、一方、指導方法とリンクしていると思うんですが、僕はあるべき指導要領の姿としては、先に重心があって、最初の方はじっくり考えて、わいわいがやがやして、先のことは余り考えずにできるという方がいいだろうと思います。
 ただ、これも先ほど言いましたように、指導方法、指導する側の意識がちゃんとしていないと難しいのと、受ける側の家庭が安心感を持たないといけない。日本人はどうしてもせっかちですから、もっと先に、もっと先にという意識が強い限りは、非常に抵抗があるのかもしれないなという気はいたします。
 ですから、僕が一番正しいと思うのは、白川先生がおっしゃった、子どもはほうっておくものであって、小さな親切余計なお世話が、教育の世界はあり過ぎるということです。地域で活動するときもよく言います。子どもが何かやると言うまでほうっておけと。1日、そこにいて、帰る子もいます。もう一回来て、じっとしている子もいますね。3日目ぐらいに何か始めますよ。そのときに、我々、非常に気軽なのは各家庭がやってくれということはやるけれども、子どもに何かこうやりましょう、ああやりましょうとはしませんよというふうにできる。そういう意味では、非常に地域の教育というのはありがたいなという気がしています。

□ 数学に限らないと思いますけれども、ある時期に学べば、簡単に習得できるけれども、時期を逸すると非常に大変になるというのはたくさんあると思うんです。
 例えば、計算に関しては、多分小学校の低学年だったら、計算できることそのものが、うれしいものです。けれども小学校高学年とか中学生になると、もうそれは、そんなところでやらせても、嫌になってしまって、それは電卓を使った方がいいやとなってしまうわけですね。電卓を使って、先ほども言いましたように、数値感覚が本当に身につくかというと、やっぱりそれは非常に不安なところがあるわけなんです。その辺については、もう少し慎重に検討しなければいけないと思うんですけれどもいろいろな意味で、今までの日本の数学教育というのは非常に問題があったと思います。
 私は『誰が数学嫌いにしたのか』という本の中で、私自身の反省も大いに込めて従来の数学教育に対して痛烈に批判をしています。これまでの数学教育は基本的に、本当の意味での子どもの発達段階とか、あるいは数学が発達してきた歴史、どこが難しくて、一体どういうところに人類そのものがつまずいてきたかということを、全く考慮せずに、一方的に何か教え込むようなカリキュラムをつくってきたということが、私は問題だと思うんです。
 二次方程式に関しましても、確かに、解の公式は高校へ行ったんですけれども、では、高校に行った子が全部学ぶかというと、学ばない可能性があるわけなんです、選択になってしまっておりますので。その辺のところが、確かにあらゆるものが高校まで、卒業時点で見れば、すべてを習得すれば、確かにそこまで行くんですけれども、現実的には習得しない子が非常にたくさん出てくる。中学校までだったら、それは習得するわけですけれども。その辺のところが、大きな違いがあるということと、それから、二次方程式に関しましても、中学校で教える二次方程式と、高校で教える二次方程式は、当然違ってしかるべきだと思うんです。高校で教える数学と大学で教える数学は、精神年齢の発達が違いますから、当然、もうちょっと抽象的な観点から見た数学で違うんです。
 多分、先生の学校で、大学の先生が高校の数学を忘れろと言った意味は、受験のテクニックを忘れろとおっしゃったつもりだろうと思うんです、好意的に解釈しますと。だけど、それは明らかに、そのことはいいんですけれども、ただ、高校の数学と大学の数学にバリアが本当はあってはいけないわけです。ただし、何でもそうなんですけれども、あるものを習得しようとするときには、ある種のバリアは絶対あるわけです。中学校でいえば、文字式を学ぶところとか、負の数を学ぶところで、やっぱりバリアが出てくるんです。それは、歴史を見ていったら明らかなわけです。文字式が出てくるために、何千年という時間が実はかかっているわけです。それを、わずか小学校6年やって、次、7年目にほとんどの私たちが習得できるということの方が、考えてみたら脅威かもしれませんけれども、でも、そういうことを考えながらカリキュラムを組んでいったら、もっと違うカリキュラムができますし、今みたいに、掛け算に関しては2けたしかやらない、小数点以下1けたしか計算しないという縛りをつけるのは、これは明らかに間違いだと思います。1回掛けて、小数点以下1位の数を2つ掛ければ、2位が出てくるわけですから。そうすると、もう一回掛けてみたいと思うのが、子どもだって思うわけですから。それを、電卓を使わなければできないようにしてしまうのは、やっぱりこれはおかしいのではないか。その辺のところで、やっぱり新しい学習指導要領は、細かい配慮に欠けていると思います。

□ 数学に関しては、今、上野先生がおっしゃったとおりで、理科教育について言いますと、やはり年齢に応じて教えるべきことというのは、順序があるだろうと思います。一番低学年からは、身の回りの自然現象、それから、だんだんとそれを支配している法則がどうなっているのかというようなことに入っていくんだろうと思うんです。
 入試のことがちょっと話題になりましたけれども、入試は、今、上野先生がおっしゃったように必要悪だということには、私も賛成するところもあるんです。入試が悪いことは悪いんだけれども、それ以上に悪いのが、大学の教育が悪いということがあるんです。非常に安易に単位を与え過ぎて、卒業させてしまっている。そっちの方を直せば、入試がいささか悪くても、いい方向に振れていくだろうと思います。
 例えば、定員枠を外してしまって、実際の教育というのは、最初が大変だろうと思いますけれども、何割か入れてしまって、どれだけ学んだかということを正しく評価をして、単位をやって、必要な単位を習得したら卒業させる。そうすると、例えば仮にそういうことを実行したとすると、今度は単位を取れなくて、途中で退学をするということになると、これもさっきも言ったように、悪い子というのは、社会的な悪い烙印を押されるということで、進路がなくなってしまう恐れがある。そのための受け皿は、別に、同時に考えておく必要はあると思うんですけれども、結局、入試を変えるよりも、もっともっとやさしくて、すぐにでもできるのが大学の教育、単位をどう与えるかという問題だろうと思います。それで、かなりの部分が解決をするのではないだろうかと思います。

○ 白川先生、上野先生、吉田先生、ありがとうございました。大変活発な議論ができたのではないかと思います。
 私も伺っておりまして、いろいろなことを考えさせられまして、最近読んだ雑誌に、中部地方だったと思いますが、ある高等学校の学生に、20年を経てアンケート方式で意識調査を行った報告が出ていました。79年の調査では、学校には不満がある、しかし、高校生活は楽しいと答えた学生が60%いたのです。20年たった98年の調査では、それが22%ぐらいになってしまっていました。それから、79年の時点では、不満はないけれども楽しくないと答えたのが1%以下であったのですが、それが30%近くになっています。それだけ、社会というものが、閉塞的になってきているのではないかという気がします。
 私は、やはり入試が最大の悪人だというふうに思っています。本日、入試のことで随分、大人の意識改革が必要だということが出ましたけれども、私、現状では意識改革はできないと思っています。システムを変えなければだめだと思います。英国は、その辺が非常にうまくやっているなと思います。20年前に英国におりましたときには、オックスフォード、ケンブリッジの学生というのは、ほとんど高校の新卒の学生でした。ところが、最近は年齢層の違う学生が入ってきているようです。つまり、先程白川先生がおっしゃったように、一遍ドロップアウトしても、また、やり直せば、そういう超一流の大学にも入れるという社会システムを英国はつくった。これが、今のイギリスの社会のダイナミズムを支えているのではないかという気がしています。
 意識改革をしなければいけない、しなければいけないと言っていたのでは駄目で、社会として、システムを変えていく必要があるのではないかな考えております。

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