資料2 中央教育審議会初等中等教育分科会 教員養成部会(第32回)議事要旨(案)

1.日時

 平成17年5月19日(木曜日) 10時~13時

2.場所

 如水会館 3階 「松風の間」

3.出席者

 梶田部会長、天笠委員、安西委員、川並委員、河邉委員、甲田委員、佐々木委員、高倉委員、田村委員、角田委員、渡久山委員、永井委員、中嶋委員、野村委員、平出委員、北條委員、宮﨑委員、山極委員、山﨑委員、横須賀委員、鷲山委員

文部科学省関係者

 樋口審議官、徳永審議官、大西政策評価審議官、戸渡教職員課長、勝野視学官 他

4.議事

(1)今後の教員養成・免許制度の在り方について

 専門職大学院ワーキンググループ、及び教員免許制度ワーキンググループの審議状況について、それぞれ横須賀主査及び野村主査より報告の後、自由討議が行われた。主な発言は以下のとおり。

 法科大学院の現状は、法曹界の人材を豊かにするという当初の目的とは違い、広い教養を持たない、法学部的な勉強しかしてこなかった者が入ってきている。これは、教員養成の専門職大学院をどうするのかにも関連する。現行免許制度では、教職課程だけ履修してきた者が専門職大学院に進むこととなる。例えば、米国のように、教養教育などをきちんと学んできた者でも、教職に就けるという途が開けないものか。現在、教員免許を取得するために必要な単位は多く、そのため、例えば、生徒よりも英会話能力がないのに英語教員になる、教科の力がない者が多く出てきている。外国語の分野では幅広い教養を身に付けた多様な者がいるわけだから、学級経営の知識はなくても、それを専門職大学院など別の場で補えば、教員として活躍できるのではないか。それらの者は、何らかの試験で、教員資格を取れるようにすれば良い。理系学部や工学部で勉強してきた者も、教職という異なる分野でその能力を発揮して、教えることもできるので、その選択ができる途について検討して欲しい。

 資料3の専門職大学院に期待される主な目的・機能(1)のア)、イ)は、現職教員と教職課程履修者のみを対象とした記述となっている。主として設置基準に関連する事項についての中に記述している、(例えば3年コース)を設けることも可能という部分は、前者の中で、各大学においてできることを記述するべきである。教員養成では、高い専門性を身に付けることが求められ、専門職大学院の修了者には、スクールリーダー等としての役割が期待されるが、多様な分野から幅広く入ってもらえるような視点で、検討するべきではないか。

 教員免許も弁護士資格も、限定された領域での専門的な資質能力を保証するものだから、大事にしなければならない。しかし、英会話ができない英語教員はあってはならないので、そういう者は教員免許保有者にふさわしくない。免許である以上、限定された専門領域についての高度な知識・技能が必要である。ただ、そのようなことが、結果として裾野を狭くしているのではないか。法科大学院をつくる際に言われた、リーガルマインドとそれを支える豊かな人間性が、今、教員についても言われていて、教養や人間的な魅力などを、どう身に付けさせるか検討しなければならない。教職課程は、その性質上、ある程度縛りのあるものなので、検定試験のようなものだけで教員免許状を授与する形は難しいのではないか。他学部出身者や一度他の職に就いた者の中に教壇に立とうとした者がいれば、教育界の有力な人材となる。このような場合を、教員免許制度や専門職大学院で検討しなければならないのではないか。この点は、資料3の専門職大学院に期待される主な目的・機能の記述でも検討できるのかもしれない。兵庫教育大学の大学院では、昨年から他学部出身者を対象とした3年制のコースを始めた。志願者が多いことから見ても、他学部出身の教職希望者は多いと思われるので、このような取組みは現実的ではないか。

 広い教養を身に付けたという指摘は漠然としているので、教職に就いていない社会人と教育学部卒業者の場合についてのイメージを出していただきたい。

 この問題は、我が国の高等教育における教養教育の解体の問題と関わってくる。専門性やノウハウ、スキルという面では、多くの専門的な人材が育っているとしても、人間的な、幅広い知識や教養を持った人材が少ないということは周知である。特に、教壇に立つ者にはそれが要請されるが、現在の学生を見ると、本すら読まない。そういう者が、これから教壇に立つことを考えると、懸念を抱く。その意味でも、外国語を含めた広い教養を身に付けた人材が、教職に就けるようにする方法は検討できないか。別の例として、医学部に進んだ学生が、中・高等学校の理科教員を志望する可能性もある。それらの者も、教員になれるような途を開いて欲しい。兵庫教育大学の取組みは、他大学にもそのような取組みができる途を開き、あるいは、一専攻だけでもできれば、幅広い人材を教員のキャンディデイト(候補者)に育成することができる。これからの時代を考えると、人が人を教えることに魅力を感じる者が多いはずだが、今は、教職課程の履修という制約があるので、門戸を広くしてほしい。

 子どもたちの学習意欲の低下やいじめ、不登校等の問題に対して、専門職大学院が対応できるのかを明確にしないと、国民は納得しないのではないか。そのためには、学部の教職課程に触れざるを得ない。今までの問題は、現行の教職課程の課題や教育学部、教育委員会のシステムの問題等にも関わっている。更新制は、それらの課題を解決する一つの方法であるが、それらをきちんと国民に示しながら、専門職大学院を打ち出さないと納得しにくいのではないか。また、ストレートマスターについては、例えば、18、19歳の頃から教員を目指して教員養成系大学に入学した者だけが、大学院まで進んで教員になるという狭さの問題が取り上げられているので、それとの因果関係抜きに、学部の4年間では足りないから、さらに2~3年の課程を踏まないと立派な教員にはなれないという論理は間違っている。

 新制大学が発足した当時、既に、新しい教員養成とは、一般大学卒業者に対して、2~3年間の教員になるための教育を行うという、今の修士課程と同じような発想があったということを聞いた。師範学校が昭和18年に専門学校になり、大学というレベルで教員養成を行っているのに、それを飛び越して、修士課程と同じ段階で教員養成を行うというのは課題もあったので、その発想は取り下げられたと聞いた。一般大学卒業者を専門的に教育することで、高い資質能力を持った教員養成ができるという発想が当時からあったということである。専門職大学院には、そのような方向もあるのではないか。

 戦後、師範学校が昇格して、今は大学院まで持つようになったが、その中で、昔の師範学校についてよく言われた閉鎖性、独善性、権威主義をどう払拭していくかが議論になり、今日に至っている。一方、開放制のもとで、戦後、他学部卒業者や教職以外の仕事に就いた者が、もう一度教壇に立つという、多様な人材に学校に入ってもらうという流れがある。それは、例えば、民間人校長や特別免許状のように、本来、教員免許を持たない者にも学校に入ってもらうという流れになってきている。さらに、必ずしも教員養成に特化していない私立大学でも、小・中・高の教員免許を取得できるようになっている。それらの延長線上に、他学部出身者に焦点を当て、教員養成の仕組みを拡大すべきではないかという話が出てくる。この二つは、一つは教員としての使命感、もう一つは多様な教養という観点で重要であり、これらをにらみながら、どのように展開させていくのかが課題である。

 今回、教員養成分野における専門職大学院として、スクールリーダー、あるいは即戦力としての新人教員の養成という期待がかけられているが、こういう目的の専門職大学院をつくる意味は、一般の専門職大学院と違った基準をつくり、そこで教員養成を行うということである。そう考えると、問題は新人教員の養成である。法科大学院の場合は、司法試験受験資格、あるいは司法試験合格者の7~8割を法科大学院の修了者にしたいという目標が創設当時あった。将来の方向としては、法科大学院が法曹界の主流になるということを目指して法科大学院を創設している。それと対比して、特別な形で教職の専門職大学院をつくることの意味を考えると、教員養成は従来どおり学部を主流とするのか、あるいは専門職大学院を主流に置き換えていくのかをはっきりさせなければいけない。専門職大学院を将来の主流に据えるのであれば、一般の専門職大学院と違う新たな制度をつくっていく意味はあるが、引き続き学部卒が主流になるのであれば、むしろ、各大学が既存の専門職大学院の枠を利用して創意工夫をし、その帰趨を見極めた上で、新人教員の養成に関わる専門職大学院をつくる方が、現実に妥当である。

 学部段階で養成される教員については、基礎的・基本的な資質能力を前提とするのはその通りだが、教養審の第一次答申では、最小限必要な資質能力という言葉を使っている。教養審第一次答申で使われていた言葉を使わない意図で、基礎的・基本的な資質能力という言葉を用いたのか。また、理論と実践の融合についても、教養審の第二次答申は、実践と理論の統合とし、実践を前面に出し、より高度な実践的指導の担い手を意識した。これまでの答申の表現との統一性について議論したのか。

 資料3の表現については、過去の答申の表現にまで踏み込んで、あえて記述したものではない。むしろ、これから意識しておきたい。

 小学校と中・高等学校は、考え方を分ける必要がある。中・高等学校の場合、教科の専門性を重視するあまり、子どもとのスキンシップや児童生徒理解の部分が欠けているので、もっと人間性をという議論になってくる。小学校の場合は、学級担任制であり、教科の専門性よりも人間性を重視する。人間性が豊かでなければ教員として務まらないが、もう少し専門性があった方が良いという議論もある。したがって、法科大学院のような専門性についての議論では、小学校教育に対する考え方が抜けている。専門職大学院ワーキンググループの議論では、初等教員養成を分けて考えるという部分があったが、その辺りを分けていただきたい。最近、小学校教員に民間企業からの転職者が多くなってきているが、適応できる者とドロップアウトする者に分かれる。自分の夢としていた小学校教員になったのに、現実が離れすぎているため、夢を叶えられない。そのため、脱落していき、違う職業に転職することになるが、それでは学校として困る。その意味で、小学校教員は別枠で考えていく必要があるのではないか。

 学部教育をもっと大事にすべきではないか。小学校の教員養成は、国立大学の中でも限られているが、学部段階で、小学校について本当に教えているのか。また、小学校の現場を見たことがない、書物や理論の上で教えている教員が多いのではないか。そこをきちんと対処せず、専門職大学院で何をするのか。現職教員の教育のために専門職大学院をつくるのであれば、割り切ることはできるが、法科大学院に対抗して教員養成の専門職大学院をつくるのであれば、新教育大学は何のためにつくり、きちんと機能しているのか反省や考察をするべきである。それよりは、現在の小学校の教員養成を行っている大学・学部の見直しをすべきではないか。

 現職教員のみを対象にした専門職大学院をつくるというのはいかがなものか。既に新教育大学の大学院で取り組んでいるが、応募者がいなくて困っている。もし、現職教員だけを対象にすると、各都道府県に割当てを行わなければ成り立たなくなるが、そのようなことはできない。中途で教員になりたいという者が入れるような仕組みも含めて、対象を広げた制度設計をしていただきたい。また、学部の教員養成の仕組みが十分に機能していないという問題が基本にある。自己点検・自己評価や第三者評価も進んできているわけであるから、それらを制度的に取り入れた案を検討していただきたい。

 社会が変わり、子ども自身も変わって、教える中身も高度化しているため、より一層優れた教員を求めることとなる。そのために、免許制度をどのように改善するかが一つある。これには、教職課程の在り方の問題もあれば、免許授与の仕組みの問題、更新制の問題もある。もう一つは、学校現場にいながら、より優れた教員になってもらうために更新制をどう活用し、専門職大学院をどう活用するかという課題がある。目標としては、より優れた教員を現場に送り出し、また、現職教員をより優れた者になるように、自己研修も含めて制度的に支えていきたいということがある。これを、更新制の問題と専門職大学院の問題の面から議論している。

 他学部出身者の取り扱いについては、ぜひ盛り込みたいという気持ちがある。専門職大学院は、全てのコースを一つの大学院で設置しなければならないというものではない。例えば、生徒指導や小学校教員を対象にしたコース、理科教育に特化したコース等ができるのではないか。おそらく、どの教員養成大学・学部も、学部の存在が問われており、専門職大学院の検討状況についても関心を寄せている。専門職大学院が設置されると、現行の教員養成大学は淘汰されると考えている。専門職大学院は、全国に3つ4つできればよいのではなく、多くつくられなければ、国民の信頼に応えることはできない。現在の約4千人の大学院定員くらいは、学生定員として受け入れなければならないのではないか。専門職大学院は、現在の教育課題に応えられるものをつくっていくことから始めた方が良いのではないか。

 法科大学院は一斉につくられたが、教員養成の専門職大学院は、体力や、やる気のある大学からつくられていくのではないか。専門職大学院の目的が、実践力に富んだ指導的教員の養成だとすると、計画的養成の観点が強すぎるという批判があるかもしれないが、中核的な教員が、各学校でどのくらい必要で、どれくらいの規模になるのかの方向性が必要である。こういう方向性があることが、専門職大学院修了者の学校内での位置づけや、処遇の明確化にも関わってくる。専修免許状のように、学校現場での位置付けが何もないと、振り出しに戻るので、この辺りの位置付けを明確にするのがポイントではないか。そのためにも、スクールリーダー的教員とは、各学校でこれくらいのレベルが必要だという、質の充実の観点が必要ではないか。

 学力や子どもの学習意欲の関係で、例えば、理数教育をどうするのかが大きな問題となっている。子どもをいかに理科好きにさせ、学習意欲を高めるのかの方策が様々採られているが、実際の取組みは、学校ではなく、理工学部や大学院の教員が、夏休みなどに子どもを集めて、理科大好きスクールといった形で行っている。教員養成大学に進む学生はほとんど文系である。したがって、中学の物理止まりで大学に進んで、小学校の教員を目指しているわけである。小学校では、子どもたちに自然の素晴らしさや、面白さを教えるだけで良いが、本当にそういうことを知っている者でなければ教えることはできない。だからこそ、例えば、他学部で専門を学んだ者が教員になりたい場合、専門職大学院で教職科目を履修し、実践と理論をしっかり学ぶというものがあっても良い。それは、例えば、いくつかの大学が集まってつくっても良い。もっと幅広い分野の人材を教育界に登用して、質の高い教育を目指すための専門職大学院を視野に入れてもらいたい。

 学部教育の重視、あるいはその改善があって、その先に専門職大学院の検討があるのではないかと思うが、学部がうまくいかないから、専門職大学院で変えようという向きがある。一人の教員を養成するのにどれくらい予算がかかっているのかという観点から見ると、教員養成に関する予算は、これまで必ずしも集中的に投入されているとは思えない。大量に教育を行い、大量に押し出すという形だったのではないか。学部教育の充実とは何かというと、臨床経験を確保し、質を上げることを重点に行うべきだが、実態は教育実習の時間もままならない。医師を養成するにあたって、臨床経験を省くことは考えられないように、改めて学部教育の充実、臨床経験の充実を確保するのが重要ではないか。また、免許状について、現行では、教職と教科という形で履修して、それを小・中・高に分けているわけだが、教職の充実をもっと図るべきで、その上で教科をどうすべきかの課題がある。教科か教職かという二者択一の議論は、あまり良い進め方ではない。また、民間人校長に象徴されるように、リーダー層をどのように手当てしていくのか、大きな世代代わりが進行中だが、そこで、どう教育界全体を引っ張っていく者を養成していくかが課題であるので、専門職大学院はその部分が柱となるのではないか。

 開放制という名目で、片手間でお金をかけないという部分があるのではないか。国立の教員養成大学・学部は師範学校の延長で、同じ国立大学でもお金の付け方が違う。その派生で、お金をかけない形で考えている部分が前提になっているのではないか。日本は、教育が一番大事だと言うが、教育全般のお金のかけ方は必ずしもそうなってはいない。教員養成もそういう面があるのではないかという指摘は、部会としても考えていかなければならない。

 今の教員養成は、現場と乖離している。典型的なのが、専修免許状を取得しても、現場でほとんど評価されていないことである。また、現行の教職課程で、教員の適格性を養成する科目があるのか。特に、教員に対する信頼性、つまり、人間としての教養を身に付けるために、専門的な教科が何単位、教職科目が何単位とあるが、果たしてどれくらい意味のある教科なのか。課程認定において必ずしも過去の答申における教員養成の在り方が生かされていないと言われるが、養成はこうあるべきだといくら部会で議論しても、日本の教員養成は、具体的にそうなっていないということである。今、小・中・高の教員に大学に来てもらい教えてもらったり、東京大学のように、新しい理論と実践を組み立てた教員養成の検討がなされているようだが、そういうものも含めて、教員養成の根本的な改革に着手していくことが必要である。特に、これまでに出された答申を、もう一度、各大学で教職課程をつくる際の参考にしてもらい、抜本的な改革をしてもらうのが大事である。

 企業が人を採用する時には、多くの金をかけて作業をする。良い人材を採用しなければ、企業の浮沈に関わるため、人事は多くの金と時間をかけて行うが、果たして教員採用の場面では、どれほどの時間と予算を費やして行っているのか。現在、採用試験の不合格者を臨時採用で、初任者研修もせず教壇に立たせているという仕組みを改めなければならないという問題と、時間と予算をどういう形でかけていくのかという問題がある。また、これまで相当な答申を出してきたが、実際に大学で実践されていないという問題もある。ただし、例えば、中学2年から高等学校、大学までの数学の力をつけるために、特別に専門的な教員を採用して特訓し、それを各教科に渡って行い、4年間経った時に各教科の知識を持った者を教員に送り出している大学もある。このように、少数ながらも、教員養成について大学を上げて取り組んでいるところもある。

 資料4の最初に、今の学校教育が抱えている課題が、一層複雑・多様化してきているとあるが、この点は14年答申との関係で書いてはいるものの、もう少し肉付けした方が良い。こういった現状があるので、更新制が重要となるという理屈にした方が良い。また、教員免許状の授与の仕組みの見直しの案1で、適格性の確認を大学で行うのは大変である。更新時の適格性について、適格性そのものが校種ごとにニュアンスが違う部分もあり、その整理が必要ではないか。その意味では、免許状授与の仕組みを抜本的に考える時代なのではないか。それから、免許状の再授与は、もう少し厳しくするべきではないか。A県で懲戒免職になった者が、B県で再度教職に就いていることがある。適格性に欠けるとして教壇から去っていただいた者が、また同じ問題を起こすことが出てきている。再授与の在り方は検討しなければならないが、はっきりと適格性を欠く者、いわゆる分限処分を受けた者等については、厳しい措置をしていくという強い意図があるべきではないか。

 教壇に立つには、教職課程の履修というハードルのほか、採用試験というハードルを越えることが必要である。現実に、教員養成大学・学部においても、様々な改革・改善が進んできている。採用段階においても、毎年、文部科学省から採用等の改善に係る取組事例が情報提供されているが、それにより、各都道府県における採用の仕組みや方法・内容の改善が促進されている。採用段階において、厳しい目で、実践的指導力や適格性、指導力等を見ているわけである。そこでは、教育関係者以外の方も面接官として入って、見ている。それらを考えると、採用段階での取組みも視野に入れて、適格性の判断を議論していただきたいし、更新制についても議論していただきたい。

 免許状の授与の仕組みの見直しの案1について、教員としての適格性に関する科目は、本来は教職論等で言及されるものだと思っていたが、改めてこれを設けたいと見て取れる。また、教職課程の履修全体を通じて身に付けた資質能力を総合的に評価する新たな方策というのは、特に、専門職大学院も出口をしっかり保証するということであるから、各大学で単位を与えるのは担当教員個人の判断であるが、それを少し見直す必要があるだろう。例えば、一人一人の学生に対して、複数の人間、場合によっては学外者も含めて判断するシステムをつくり、品質保証をするといったことを導入してはどうか。

 特に国立の教員養成大学については、学部レベルでの教員養成の在り方が問われているので、免許制度と合わせて、議論していただきたい。それをおざなりにして、専門職大学院の議論を積み重ねていくのは、国民としては納得できないのではないか。将来、教職に就く者を教える場は、国立大学も、公立大学も、私立大学もある。それが専門職大学院となってきた時に、学費の問題が出てきて、特に私立大学において深刻となる。そうすると、国立大学の教員養成学部のこれまでの課題の議論を無視して、さらに専門職大学院について検討すると、国立大学の教員養成学部が中心となっていき、そこで養成される教員が、どういう人間像になっていくのかが問われてくるのではないか。学費の問題というのは、法科大学院とは異なるが、法科大学院の時に学費の格差が大きな問題となった。

 他学部出身者や社会人の受け入れは、これまで個人の努力や偶然の機会に委ねられてきた。専門職大学院をつくる場合には、そういうものが表に見えるように、きちんとしたシステムやルートとして確立できるようにすることの大切さが議論されたと理解したい。もう一つは、現在の教職課程についての問題が多く出ている。あまり議論されていないが、現場における研修にも大きな問題がある。意外なほど座学に傾斜しているし、陳腐化しているところが多い。採用・研修の大改革が求められているが、その時に、特別な仕掛けとしての専門職大学院をつくることが、「百年河清を俟つ」状況になってしまうのではないか。専門職大学院という特別な仕掛けが、思い切った改革を促進する材料になるのではないかと思っている。学部をしっかりしなければならないことは確かだが、そうすると専門職大学院という特別な仕掛けが、学部の改革を停滞させたり、挫折させたりすることなのか、あるいは改革の促進剤になるのか、それについてはワーキンググループよりも、この部会、あるいは中教審全体で議論してもらわなければならない。

 今までの大学院は、学部の上に大学院があり、そして学部の教員が大学院の講義を担当したが、専門職大学院では、学部の教員がその講義を担当することができない。確かではないが、最低11人程度の専門職大学院の教員をそろえなければならない。そうすると、その教員の経費を、学生からの学費で賄えないという問題がある。また、今の大学院の教員養成がなぜいけないのかがわからない。専門職大学院に何を期待し、どういう教員を養成するつもりなのかを聞かせていただきたい。専門職大学院をつくろうとしてる側として、その点でつまづいている。

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