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資料2

第9回教育制度分科会における主な意見の概要

1  日  時平成13年11月20日(火)  10:00〜13:00
  
2  場  所文部科学省分館201・202特別会議室
  
3  議  題新しい時代における教養教育の在り方について
  
4  配付資料 
資料1新しい時代における教養教育の在り方について(答申素案)
資料2第8回教育制度分科会における主な意見の概要
資料3第9回中央教育審議会総会における主な意見の概要
資料4今後の日程(案)
  
5  出席者 
委   員:鳥居会長、木村副会長、佐藤副分科会長、梶田委員、坂村委員、田村委員、
永井委員、藤原委員、船津委員、横山(英)委員
事務局:御手洗文部科学審議官、近藤生涯学習政策局長、寺脇生涯学習政策局審議官、
名取主任社会教育官、山中生涯学習政策局政策課長、その他関係官
  
6  概要 
・ 資料1について、ワーキング・グループの木村座長が説明を行った。
・ 資料1をたたき台に、答申をまとめるにあたり、盛り込むべき内容等について討議が行われた。主な意見は以下の通り。
  
○    素案に書かれている教養の範囲は広すぎるのではないか。3ページの「知・得・体」、「知・情・意」全部だと教育全体になってしまう。教養は共有の知である。概念の絞り込みが必要。「人間的成長=教養」ではなく、そのコアになるのが教養である。
  
○    読書についての記述はよい。もう少し膨らませた方がいいのではないか。「将来」を考えるためには「過去」を振り返ることが必要。日本の先人達の積み重ねてきた文化的蓄積についても、項目化して出して欲しい。
  
○    素案は総花的でメリハリがない。素案に書いてあることはすべてもっともなことばかりだが、その総花的方法論がうまく機能しないという現実認識から議論を始めるべきであった。「新しい時代における教養」というものをまず定義するべきではないか。そうでないと、具体的に有効な施策につながる提言はできないと思う。
  
○    新しい時代ということを考える際に、科学技術が社会に与えた影響について無視することはできないのではないか。
  
○    限られた資源を最大限生かすための政策の優先順位を考える必要がある。
  
○    インターンシップやボランティアなどは、教育として重要かも知れないが、教養ではないのではないか。
  
○    3ページのアの前に、「かつて教養の大部分は古典などの読書を通して得られた。近年読書は軽視されがちだが、21世紀においても、読書は重要であり教養の中心である。」ということを書くと良い。イに、「外国語によるコミュニケーションを全ての人が身に付けること」とあるが、これは教養か。また、実際不可能である。ウは、「国語の力を初等教育全ての基軸」と修文すべき。
  
○    6ページに、「これまで我が国の教育が過度に記憶力を重視した画一的なものに偏りがち」とあるが、本当にそうだろうか。授業時間数が減り、家でも勉強しなくなった。記憶力も落ちている。「教育における平等性を重視するあまり」という表現は適当。ゆとり教育や教科内容の平易化は、できる子の意欲を削いでいる。習熟度に応じた指導をしないと悪平等になる。
  
○    7ページには、テレビやテレビゲームを学校・家庭で一定限度抑えることが必要との記述を入れるべき。
  
○    初等教育においては、国語の突出した拡大が必要。8ページは、単に「国語教育の充実」というのではなく、「国語教育の質的向上と量的拡大」とすべき。
  
○    9ページに「国立教育政策研究所等」とあるが、固有名詞は出さなくてもよい。「良さ」というのは、間違った日本語の使い方である。「長所」とすべき。
  
○    9ページに「道徳教育の充実」とあるが、道徳教育がきちんとできる教師なんてほとんどいない。むしろ、感動を与える物語を読ませたほうがいい。「道徳教育」というと難しく考えてしまうので、人としての基本的態度の例をもっと具体的に書くべきである。例えば、勇気、正義感、家族愛、郷土愛、人類愛、祖国愛や、卑怯を憎む心、他人の不幸に敏感になる心などである。
  
○    10ページに「教員の研究活動や自己啓発活動の奨励」とあるが、必ずしも研究しなくてもよい。「読書に励むなど」でもよい。
  
○    12ページの「体験」は総花の顕著な例。インターンシップやボランティア活動に単位を与えることは、米国を表層的にまねているだけで、失敗する。
  
○    13ページには科学教育を入れるべき。中・高の段階からきちんと科学教育を行うことが判断力の礎となる。
  
○    14ページにプロフェッショナル・スクールの例示として、「法科大学院等」とあるが、これだけではないはずなので、あえて書かないほうがいい。
  
○    14ページに「教育のプロとしての自覚を持ち」とあるが、教員にそれを求めることは不可能である。教育のプロとしての自覚を持ち、自己研鑽を積んで、学生の学ぶ意欲や目的意識を高めることができる一流の教員が教養教育を担うべきである。
  
○    ファカルティ・ディベロップメントやアドミッション・ポリシーなど、カタカナが多すぎる。日本語に置き換えたほうがいい。
  
○    勉強は学生時代にしかできない。1ヶ月インターンシップをして、何が身に付くのか。むしろ、1ヶ月間、名著を読んだ方が、ずっと教養が身に付く。これらを教養として強調するのはおかしい。
  
○    教養の定義をするのをやめよう、今求められているのは方法論である、という議論が、ワーキング・グループで出た。できるだけいろいろな方法論を盛り込むようにしたので、いわゆる「ベタ」な内容になった面はある。ただ、科学技術は入れるべきだった。
  
○    幼少から高齢まで、一生涯、教養を身に付けるというスタンスで書こうとすると、それほどメリハリのきいたものにならないには仕方ない。社会の秩序の在り方への視点が重要。社会は所与のものでなく、いかにして自分たちで社会の仕組みを作っていくかという自覚が必要なことを強調すべき。
  
○    一生涯、一人の人格をして、教養をとらえるということは前からいわれてきた。この素案には、切迫感も問題意識もみられない。ここに書かれていることをそのまま実行すれば、優等生のように小賢しいことはいうが、公共性や人とのバランス感覚など、内的根拠がない人間ができてしまうのではないか。
  
○    総花的な素案である。初中分科会や大学分科会で議論すべきことまで、細かに書かれており絞り込みが必要。現状がなぜ危機なのかについて、戦後、社会自体が、実利主義に流れ、そういう風潮が教養を衰退させたこと、よい大学に入ることばかりにかまけていたことなどへの反省を書くべきではないか。人口問題、環境問題、科学技術の発展などの中でどうするべきか。新しい時代には、環境を守るために自分のライフスタイルを変えたり、政治に参加したりすることが重要。教育基本法では、教養とは「政治的教養」という文言しか使われていない。絞り込んでとりあえず何をやるのかを明確にすることが必要。とてもすべての教養を学校教育で身に付けることはできない。もう少し時間をかけて議論すべきではないか。
  
○    全体の表出の仕方がベタである。ゴシック体で強調することなども考えるべき。読書の大切さはわかるが、1枚の絵や映像によって感動を与える、というものもあるはず。1ページ目はもう少しコンパクトにすべき。
  
○    「教養」は定義できないにしても、「新しい時代の教養」をとらえないとダメである。昔はよかった、というだけでは若い人の反発を招く。新しい時代の教養にも昔から普遍的に大切なものはもちろん含まれる。ただ、時代が変わり、科学技術が大きく発展する中で、特に新しく求められる教養がある。
  
○    人間としての座標軸を人間のそれぞれの成長の過程でもつべきだが、それがゆるがせにされていることが「危機」なのである。
  
○    博識になるのが教養ではない。一人一人の内側に、土台をもった、見通しを持った、内的根拠ができているか。これがないと、自分の主体的な判断に結び付かない。また、これが独善的なものにならないために古今東西の知識や自己内対話が必要である。公共性という水平的な広がり、歴史という垂直的な広がりが大切。
  
○    ネット社会になり、科学技術が生活の中に入り込んでくると、科学技術を正しく使うためにも教養が必要になる。
  
○    新しい時代の切り口として、科学技術と、個と社会とのつながりとしての社会秩序の2つの側面を捉えるべき。
  
○    日本中すべてが、古典的教養を喪失し、対症療法しかできない。情緒がなくて、大局的視野、長期的視野が持てない。教養の敵は論理・合理の跋扈である。論理・合理だけでは場当たりの対応しかできない。情緒力が切り口であり、論理を補う情緒をこそ重視すべきである。日本人としてのアイデンティティを高めることは、伝統や文化の重視につながる。家族愛を高めることは、少子化への歯止めになる。もののあはれがわかれば、実利主義のはかなさがわかる。論理だけではうまくいかない。情緒は読書、自然、仲間とのつきあいなどの中で生まれる。その中でも読書が主力であり、そのために国語力が重要なのである。
  
○    米国は多様性を認める国である。表面だけ米国をまねても意味がない。
  
○    国語も重要だが、情報を得る力も重要である。
  
○    教養の定義についてはできない。高校を卒業して、20%が専門学校に進学し、30%が就職する時代である。いろいろな人に向けた答申を書こうとすると、どうしても最大公約数にならざるを得ない面はある。
  

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