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資料3

第9回中央教育審議会総会における主な意見の概要

   

  日時    平成13年11月1日(木)  10:00〜12:00
  場所    グランドアーク半蔵門「華の間」  (3F)
  議題
  (1) 「新しい時代における教養教育の在り方について」の答申の骨子案について討議
  (2) その他
  配付資料
     資 料   新しい時代における教養教育の在り方について(骨子案)
  出席者
     委 員:  鳥居会長、木村副会長、浅見委員、荒木委員、今井委員、内永井員、高倉委員、田村委員、
      千田委員、寺島委員、中嶋委員、中村委員、松下委員、森委員、山本委員、横山(英)委員、横山(洋)委員)
     事 務 局:  池坊大臣政務官、小野事務次官、結城官房長、近藤生涯学習政策局長、
    矢野初等中等教育局長、工藤高等教育局長、寺脇生涯学習政策局審議官、
    加茂川初等中等教育局長、名取主任社会教育官、山中生涯学習政策局政策課長、
    その他関係官
  概要
   
  木村副会長より資料の説明があり、その後、資料をたたき台に、答申をまとめるにあたり、盛り込むべき内容等について討議が行われた。主な意見は以下の通り。
  今回の骨子案は、学校段階ではなく、人間の発達段階で分けているので、家庭教育や成人教育も入っていて評価できる。
     
  今回示された小・中学校レベルの具体的方策は、新指導要領に沿った内容であり、新教育課程のねらいと、着実な実施の必要性についても記述できないだろうか。
     
  教員の資質向上を図るとの記述は評価できるが、教員研修の充実と評価等の促進だけでは不十分である。養成・採用・研修の一連の流れを通して資質向上を図る、という記述にしてもらいたい。
     
  集団のルールなど、家庭では培えない、人と人とがかかわる力の基礎を、幼稚園や小学校で培うことが必要だ。
     
  骨子案は、知的教養に偏っているのではないか。もう少し、体のことを書いてはどうか。動く体をより動かすことと、考える頭をより働かせることによって、よりよく生きることができる。体や健康についてもふれてほしい。心身全体としての教養についてふれるべき。
     
  今までの中教審の答申とは異なり、発達段階で区分したことの意味をもっと強調してほしい。次の時期の準備のためだけではなく、その時期を精一杯過ごすことが大事であるということを強調すべき。
     
  小さな子どもの頃からの自然とのつきあいが基本だということをもっと書いてほしい。自然は人工の世界よりずっと豊かなもので、自然には、私たちが知らないこと、学ぶべきことがあるということを知ることができるよう、自然との接触が必要である。
     
  小さいときに、ものを暗唱させるとよい。体を使って覚えたことはなかなか忘れない。身体感覚、生きもの感覚をもっと重視すべき。
     
  大学では古典をもっと重視すべきである。
     
  今回の答申は、昨年12月に出された「審議のまとめ」とは別のタイトルで出したらどうか。
     
  異文化理解や他者理解の重要性を、同時多発テロや文明の衝突と一緒にされては困る。ここは、書くのであれば、「東西冷戦体制の崩壊後、グローバル化が進む一方で、地域アイデンティティが深まり、異文化への理解が求められている」、等の表現ではどうか。
     
  英語は確かに大事だが、nativeと話すだけで教養は身に付くのか疑問である。むしろ、教養としての第2外国語などの重要性をいうべきではないか。
     
  日本の大学では定年退官をしたら、授業を持たない名誉教授になるだけだが、むしろ、そういう人たちが若い人に教える機会を設けるべきではないか。
     
  第3章の節の名前の付け方が一貫していないので工夫してはどうか。
     
  今回の骨子案には、家庭教育が大事だと書いてあるのはよいが、家庭の役割をしつけ等だけの狭い意味でとらえるのではなく、家庭が社会の基礎をつくっているということを書いてほしい。今、家庭教育力の低下が言われているが、親はどのような教養をもっている必要があるか、ということを成人期のところに書いてほしい。
     
  エリクソンのライフサイクルについての考え方は、その年齢にその発達課題をクリアしなければ、その後の人生に問題が生じるというものである。骨子案の人格的基礎の形成期に該当するものは、乳児期・幼児期・児童期と考えられるが、この時期の発達課題としては、基本的信頼感の育成や自律心を養うことである。思春期(青年期)には、アイデンティティ、すなわち、自己の確立と社会とのつながりを身に付けることが必要である。
     
  節の名前については、いろいろ異論もあるだろうが、なるべく自由度のある言い方がよいのではないか。
     
  教養の危機を明確にしたことは評価できる。ただ、◇の順番は検討の余地がある。
     
  キャッチアップ型経済の中での倫理観のない物質主義、実利主義が横行して教養が衰退した。文教行政にも欠陥があった。そういう今までの教育改革に対する検証ということも今回入れるべき。
     
  テロと宗教教育を結びつけるのには異論がある。とってつけたような気がする。異文化理解の中に宗教への理解が含まれるのはわかるが、誤解を与えると思われるので、テロと結びつけないほうがいい。
     
  旧中教審で「審議のまとめ」を出した後、かなりメンバーが替わっているので、答申を出すには慎重な議論をすべき。年内に出す必要はない。きちんとパブリックコメントをすべき。そのために1ヶ月遅れてもいいのではないか。
     
  「審議のまとめ」がビジョン計画としたら、今回の骨子案は実行計画段階だと思う。この骨子案では、何をやればいいのかが見えてこない。今の若者は、和漢洋の素養のうち、洋に偏っている。このことが文化多元主義への無理解とも結び付いている。また、自らの未熟さを理解しておらず、先達への敬意や謙虚さがみられない。歴史的・空間的な軸の中で、自らを相対化する感覚がないためである。
     
  各学校ごとに、自分の学校の理念に根ざした本を決めて、生徒に読ませるべき。選定する教師自身の教養が問われる。百冊の本を選ぶ、など、一歩踏み込んだ、引っかかるものがあっていい。
     
  大人社会の責任が重要。傍観者的なスタンスでなく、他愛もない中年が社会的な課題や矛盾に立ち向かい、真剣に取り組んでいるという姿勢が見えるような書き方にしてもらいたい。
     
  子どもがこうなったのは、親を含めた成人の問題だということを書くべき。
     
  教養の問題に、国民的視野、社会全体で取り組むという観点から書かれていることは大賛成。「一般的知識化された多様な専門的知識を獲得・統合する知的な技能を培う」という表現は、もう少しわかりやすくしたらどうか。
     
  教育現場では、完全学校週五日制に向けて、また、新しい学習指導要領に向けて努力しているところなので、新教育課程についてもう少し言及してほしい。
     
  教員の資質の向上を高校段階でも入れてほしい。学校評価システムを確立することが必要。
     
  高校生になったら、自分の選択については、自分できちんと責任をもつべき。自由と責任、責任と義務のことにもふれてほしい。
     
  子どもたちにどうやって学習のモティベーションをもたせるか。勉強することは非常に苦しいことだが、地道に努力することの大切さを教えるための方策を提言してほしい。
     
  それぞれの段階での基礎・基本は何かがはっきりとわかるように書くべき。優先順位を付けて示すべきである。
     
  「教養の危機」というが、このことに気付いていないことが問題。国語だけでなく、古典も大事である。異文化への理解よりも、変化への対応や異質なものへの理解としたらどうか。
     
  知識を統合する力だけでなく、本物の知識とにせものの知識を見分けうる洞察力が必要。
     
  「知恵」は「伝える」ものではなく、「つける」ものである。
     
  地域だけではなく、家庭に居場所がないことを、どう考えるのか。
     
  人は好きなことには没頭するものである。教科を好きにさせる研究をすると、教師の人間性によって、好き嫌いが決まるという結果が出る。最近、子どもに好かれる先生が少なくなった。
     
  奉仕体験活動は道徳教育の突破口だったはずである。そのことにもふれるとよい。
     
  教員の資質向上は教養向上とすべき。完全学校週五日制になると、教員はどうするのか。土日にゆとりができるが、教員の資質向上も問われるのではないか。
     
  逆インターンシップというか、大学での就学体験を実施する高校があってもいいのではないか。
     
  大学に関する記述が多すぎるので、教養教育の変遷は資料に回してもいいのではないか。
     
  成人の教養には、社会奉仕ということばを入れてほしい。行政や公共施設への依存心を増大させるような施策の書き方になっているので、依存型から自立型への生涯学習へ移行すべきということを書くべき。
     
  宗教に対する理解の具体的方策については、いろいろと難しいと思うがあまり書かれていない。
     
  梅原先生にヒアリングをしたことがあるが、宗教的情操の涵養には、結局、様々な宗教のアイデアを教えることくらいしか考えつかないとのことであった。
     
  ワーキング・グループで宗教について議論したのは、異文化理解という観点からではなく、テロ事件を見て、宗教はものすごい力をもっているということを思い知ったからであった。テロについても、全く今の世の中とリンクしないような答申はいかがなものか、ということでふれたものである。
     
  骨子案を読んでいると、自分を振り返ってみて居心地がよくないという気がする。今まで、大人自身が教養について顧みてこなかった。小さいときから、この骨子案のようなステップを踏めば確かに教養は身に付くと思うが、逆に、そういうことを何もして来ず、教養を身に付けて来なかった今の大人に対して批判的になったり、がっかりしたりするのではないか。そういうステップを踏んでこなかった今の大人に対して、哲学や古典を学ばせることは意味がある。
     
  日本アスペン研究所で和漢洋の様々な古典を読んだが、中学や高校で同じ本を読んでいるはずなのに、今読むと全く理解が異なる。アメリカの本当のエグゼクティブは、経済至上主義ではなく、人生観や哲学をもっている人が多い。
     
  和魂洋才というが、学問の世界では和が洋に押され、衰えている。しかし、非合理性や無常などの和の哲学もなくてはならないものであり、このことへの警告を書くべき。
     
  日本アスペンではアメリカのアスペンをもとにしているが、アメリカには自然生命についての視点が抜けていた。和・漢の古典とあわせて、そういう視点も未来に向けて強調すべき。
     
  知識レベルが高くないと教養は身に付かないというものではない。知識レベルにかかわらない教養もあるはず。
     
  平成3年の大綱化のときよりも、平成10年以降のほうが、外からのプレッシャーがあるわけでもないのに、危機感をもって教養教育改革に取り組んでいる大学が多い。このことは、国民の間でも、以前よりも、教養についての関心が高まり、危機意識をもっている人が増えてきていることの反映ではないか。
     
  人生の「寄り道」についても今回の骨子案ではふれたが、この観点も大事である。

 

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