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資料1

大学における教養教育について



阿   部   謹   也


   これまで教養とは主として書物などを中心とする知識とみなされ,担い手も個人とされてきた。私はその教養概念を拡大し,集団としての人間の知恵をも含むものとして位置づけ,教養を個人または手段としての人間が社会の中で自己の位置を確認しようとする努力と定義してきた。教養とはいわば如何に生きるべきかという問いが社会に向けて発せられるところで生ずるものである。ここではその定義を踏まえて大学などの高等教育機関における教養教育のあり方について考えてみることにする。
   これまでの大学における教養教育においては専門科目以外に教養科目が別建てで存在することになっていた。大綱化が進められた後の現在においても各大学では教養科目の名称を変え,普遍教育とか,総合教育などと称している。しかし教養を先のように定義するならば,専門科目の外に教養科目を置く必要はなくなる。専門科目の教師もその専門分野を通して社会の中で生きているのであり,専門家として如何に生きるべきかという問いに答えなければならないからである。ただ専門科目の担当教師は自分の専門科目が社会にとってどのような意味をもっているのかを誰に対しても説明する必要が生ずる。
   たとえば経済学でも文学でも法学でもその担当者がその学問を通じて如何に生きるべきかという問いに答える中でその答え自体が教養教育となるはずである。しかし専門科目の担当者はこれまでのようにその専門科目に安んじて従事しているだけでは済まなくなるだろう。自分が営んでいる学問が一般の人々にとってどのような意味をもっているのかを常に自らに問いかけなければならないからである。たとえば家政学を例にとってみよう。家政学は資本主義の展開の中で経営と家計が分離する際に生れた。本来は調理や裁縫などを主とする形で婦人の仕事として成立したが,今世紀始めにエレン・スワローなどの努力の結果エコロジー,特に食品などの管理や遺伝子組み替えなどに注目し,環境保全の担い手としての位置をもつに至った。家の管理だけでなく,その仕事を通して社会の環境の整備に眼を向け,仲間と共闘する組織としても位置づけられる。このような家政学の担い手は家を通して如何に生きるべきかという問いに答えることになり,その問いと答えが既に教養教育の重要な一環となる。自然科学を含め統べての学問に同じことがいえるのであり,こうして教養教育は専門科目担当者の重要な仕事となる。
   このことはその専門科目のあり方に対する反省ともなり,専門科目担当者にとっては重要な課題となる。ただし,そのためには専門科目担当者の意識の大きな変革が必要であり,そこが教養教育の成否を定めることとなる。その際に注意すべきことはその科目の教養教育の模範解答を作ってはならないということである。それぞれの担当者が自分の学問にかけて自分独自の答えをもっている筈であり,それを学生に示すことによって学生の共感を得ることができるからである。


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