戻る


資料2

これまでの総会及び分科会における主な意見

1教養とは何か,なぜ教養教育が必要なのかについて
     
   【教養とは何か】
     世の中の変化が早く,また,様々な価値観がある中で,基本的な倫理観ともいうべきディシプリンをきちんと持つことや,物事の本質は何かということをきちんと押さえる力が大事である。それができてはじめて,自分の意見を持って相手とコミュニケーションでき,専門的な知識や技術を身に付けることができる。
     人間がいろいろなものから受ける情報を心の中で醸して,それを外に出すという操作が教養の一つの発露の仕方である。これは大変重要なことであるが今の教育の中でほとんど忘れられている。
     教養とは,人が身に付けてほしい,知識ではない部分であり,社会性,市民としての責任,学び方,生き方などを含むような学びではないか。「教養教育」という名前についてももっとふさわしい名称を考えていく必要があるのではないか。
     「審議のまとめ」のWhatの部分は,いくつか事項が並んでいるが,一番大事なのはどれで,全体がどう関連しているかといった関係を整理する必要があるのではないか。
     
 
【なぜ教養教育が必要なのか】
     学習のモチベーションが重要な問題である。豊かな時代になって,人間として生きるということについて考える必要が出てきた。教養教育とは,学校の世界と社会の世界のつながりを考えることであり,何のために学ぶかを考えること。現状は,何のために勉強するかに答えられるような教育の仕組になっていない。小学校から教養教育の根幹にかかわる部分について教育の中に入れていく必要があるのではないか。
     今の変革激しい時代にこそ不易が重要であり,不易の中身の一つに教養があるのではないか。これからの個性化の時代,平等から自由へという中にあって,ますます基礎・基本を忘れてはならないし,そのためにも教養をもう一度とらえなおす必要がある。   
     時代が変わっているから教育を変えなければならないという議論だけではなく,教育改革のためにいかに社会を変えていくかという発言を審議会としてするべき。例えば,メディアの世界の度を越して荒廃した文化や経済界の極端な拝金主義など大人社会の状況を見て,根本的なところで何かごまかしがあることを,小学生の子どもでも気づいている。この国の社会の在り方について,中教審としてはこう思うという発言をする必要がある。
     教養教育の問題点は,今の学問的状況を反映していることを認識しなければ,解決しない。今の学問的状況の弊害として,学問の専門化,分割化がある。また,本来,ファクトファインディングの知識とユテライゼーションの知識はペアになっているべきものであるにもかかわらず,近代の職業化された科学の中ではファクトファインディングだけが専門化して,それをどう使うかは社会に委ねるということになってしまった。教養教育は,分割された知識をバインドするものと考える。
     
2教養教育の在り方について
     
【総論】
     今の社会の中で評価される能力は,極めて表層的な市場経済に直結した教育であり,知識部分ばかりである。だから,知識のバックボーンを作るような仕組を産業政策や文化政策として作っていく必要がある。
     志を持って努力すれば,精神的な豊かさと社会をより良くすることにつながるのだという意識をどのようにして持たせるかが教育の出発点。そう考えると,教育改革の問題はむしろ大人の問題。
     価値観の多様化,相対化を認め合い,それぞれの違いを認め合う中で,一体感を持てるような「共生」のコンセプトを強調すべきではないか。
     今,西田哲学を読んでわかる学生がどのくらいいるのかという現実を踏まえるべき。今の問題は学校で学ぶことと現実の生活とのかい離をどうするかということ。子どもの生活の現実を見てそこから答えを考えるべき。
     家庭の空洞化,地域の空洞化の中で,孤立し,自分の将来に対する生き方のイメージを描けない子どもが多い。よりよい生き方とは何かということについて考えさせる教育が改めて必要であり,そのために必要なものを答申すべき。具体的には,自分の生活や体験の中で他者と深くかかわり,コミュニケーション能力をはじめとする社会性を身に付けるなどの広い視点から教養教育を捉えるべきである。
     大学受験を中心とする教科中心の勉強に割く膨大なエネルギーや,若者の知識に対する欲求を,「生きる力」としての知識,あるいは教養として根付かせたい。そのためには,学校がもっと社会に開かれていかねばならない。教員一人ひとりが,社会人として当然の考え方なり,義務なりを習得しなければならない。また,学校が地域や社会,家庭の人材や経験を積極的に取り入れていくことが必要。
     教科を系統的に教えることだけでは,学ぶ側がモチベーションを失っている時代には対応できない。校長が中心になって議論を重ねた上で,自分の学校における教養教育をどうしていくかということに実際に着手する以外にない。
     教養教育については,すでに様々な取組例があって,いい結果もあれば,良くない結果もある。それをどうやって波及する仕組みを作るかについて議論をすべき。教材の活用の結果のネットなどでの公開や,教員の再トレーニングが重要。また,今いる教員では対応できないということなら,新しい分野の人たちに助けてもらうことができるような仕掛けをつくるべき。
     教養教育を生涯教育としてとらえる一方で,ある一定の年齢を教養教育に充てるという一つの教養教育の在り方の制度的な設計についても検討する必要がある。例えば,17歳前後の2年間を教養教育に充てるような制度設計をすることも検討すべきである。
     子どもの教養の原点として,これまでタブー視されていた「宗教」の問題を考える必要があるのではないか。
     「審議のまとめ」は総花的であり,何をどこからやるかがわからない。大事なものは何かをはっきりさせるべき。
     
【基礎基本が重要】
     「ゆとり教育」とは,実験・体験や屋外での教育を大事にした,問題発見・解決型の双方向の教育。基礎基本を徹底し,十分理解できないまま上に進むことのないようにすることを通して,学ぶことの大切さや生涯を通じて学ぶことの楽しさを教えていこうというもの。そして,一方で,飛び級や習熟度別など,個々に応じた教育ということでもある。「ゆとり教育」は誤解されている面があり,もう一度とらえ直す必要がある。
     初等中等教育の中で,規範意識や倫理性を育てる教育が重要。果たして現状でどこまでできているのか,検証が必要。
     
【国語教育,読書が重要】
     一番大事な教養の基礎・基本は国語である。
     情報の内容を言葉できちんと表現できるような訓練をすることが,情報化時代における教養を深める前提ではないか。
     幼稚園の段階から,言葉を十分に使いこなし,自分の思いを伝え合う力を育てていくことが大切である。
     小・中・高等学校に専任の司書教諭を配置することは重要。自分が教育委員をしている市では,各学校に専任で入れたら学校が大きく変わった。
     司書も重要だが,今の財政状況では全校に配置することは難しい。地域を決めて集中的にやるなど工夫が必要ではないか。
     読書については,ある程度義務的にでも取り組ませる工夫が必要。朝の10分間読書などは素晴らしい試みである。
     イギリスの図書館では,お茶を飲みながら本を読んだりできる。図書館を,いろいろな地域の子どもたちが集まって,多様な活動を行う場所として構想することはできないか。
     本もインターネットもメディアという点では同じ。アメリカのようにメディアセンターのような形で合わせて考えるべき。
     教養は,情報量ではなく,いかに多様な意味付けをすることができるか,つまり物事が多様に見えるようにする力を養うかということである。この力は古典を読み比べる中で養われるものである。
     海外に行くと日本のビジネスマンは仕事の話しかしないと言われる。その原因は,一つには言葉の問題,もう一つは教養が教養が足りないこと。
   特に新制中学世代は,旧制中学時代の人に比べ古典を読んでいない。問題の一つは受験。高校の頃にたくさんの本を読むことが受験にもプラスになるような仕組みは考えられないか。大学生にも,リーディングアサインメントを課すなど本を読むことを義務づけるべき。
     西洋には,グレートブックスという形で,読むべき古典が明確化されている例がある。一方,日本では,何をどう読むべきかといったガイドがない。
     小・中・高等学校の社会や国語の授業の教材として,古今東西の古典を取り入れるべき。教育関係者やマスコミは,古典を学ぶ大切さをキャンペーンすべき。
     国語の重要性については,かつてのように厚い古典を読むことだけではなく,非活字を含めて考えるべき。また,西洋だけではなく,アジアの古典や宗教についてもっと取り入れるべき。
     古典を読ませることは大事だが,イギリスの大学でもシェークスピアに関する講義が廃止される騒ぎがあったような現在の状況の中で,実効性を持たせることの難しさを考えておく必要があるのではないか。
     
  【科学の持つ論理性が重要】
     「審議のまとめ」には科学という言葉が出てこない。教養の要素として科学も考えるべき。国際的に通用するために大事なのは,英語よりもむしろ普遍的思考や論理的思考。科学を通じて養われる,論理的に考えて相手に説明する力をもっと重視すべき。
     
  【自然との関わりが重要】
     教養の大きな柱として,人間と自然との関わりを学び,考えることが重要。グローバル化の中で,教養が,グローバル化のシンボルである英語や,映像などに集約されていくように受け止められているが,もっと本質的な自然の一部としての人間存在について議論すべき。
     いかによい教育番組を作っても,それを見せればよいというのではなく,まずは実際の体験をさせるところから初めてほしい。コンピュータは所詮人間が作ったもので,すべてが予測できる範囲のものだが,自然はもっとずっと豊かなもの。まずは自然に接してからコンピュータに触れるようにしないと危ない。
     
  【情操教育,芸術教育が重要】
     教養教育において,情操教育,芸術教育をもう少し強調してもいい。英語教育にも共通するが,子どもの可能性を早くから開発することが必要。
     
  【教員の資質向上が重要】
     教育現場の再生のためには,教師の業績評価が必要。社会システムとして客観的にだめな教師を排除していける仕組を持つべき。
     特に,初等中等教育を担当する教師の役割を重視し,その教師自身の教養教育の問題についても考える必要がある。
     大学におけるFDが重要。また,教養教育に学校外の様々なマンパワーを巻き込んでいくことが必要。
     日本の大学には知の世代的な継承の側面が弱い。教員は,ひとたび退官すると大学とはほとんど何の関係もなくなる。また,小・中学校でも,大学でも,教養教育をいう前に,それぞれの教員が果たして教えるべき教養を持っているかという状況もある。学校における知の継承について,単に高齢化社会対策ということだけではなく,米国の大学の例なども参考にしながら本格的に考えるべき。
     
  【多様な人材が教育に参画することが重要】
     講義で教壇に立った教師の話を聞かされるだけが教養ではない。日本の教育システムの中に教養を取り入れていくとした場合,子どもや若者たちにこの国総体が持っている知的遺産を伝えていく観点から,高齢者を教育の現場にリクルートすることは大きな意義がある。例えば,50歳から60歳までの人たちが,NPOに近いような年収で,自分たちの蓄積してきた体験を次の世代に伝えるという活動を公的なシステムとして認知し,日本の教壇に送り込むというようなエンジニアリングを展開してみてはどうか。
  これからの日本社会では,高齢者がいかに活用されるかで,社会が活性化するかどうかが決まってくる。シルバーを教育の中で活用することは非常に重要である。
     ただ物を作って配布すればいいというアクションプランよりも,例えば,高齢者を1,000人任命して,全国の小・中・高等学校で心の問題について語り部活動をさせるほうが,はるかに効果がある。
     実社会に出ていろいろな経験をしてきた経営者が,実際に中・高等学校に行って自分たちの経験を話すことによって,教師やPTAとの交流という意味も含めて,教養の実践という形で貢献することができるのではないか。
     
  【異文化との接触が重要】
     教養教育で重要なのは,個人が何かを学ぶことは新しいものに触れ,新しい人に会い考えることで,それがどんなにおもしろいかを知ること。新しく会った人たちに話を聞き,刺激されて,よりいろいろなことを知りたい,考えたいと思うモチベーションを持つことが大事である。
     教養というものは,具体的なイメージがわかないと意味をなさない。子どもたちや若い人が生身のモデルと出会うチャンスを具体的に広げていくことが大事。ボランティアや国際体験も,ふだん出会うことのない大人と出会い,何かに触れるチャンスになるという意味で期待できる。教員のリクルート方式についても考えるべき。本人が「自分は教養が足りなくて恥ずかしい,もっとがんばらなければ」と思うきっかけを作っていくのが,教養教育にとって一番重要な入り口。
     国際化が進む中で,国際的な場で仕事ができる人を作るという観点から,教養教育の基本として外国語,特に,国際語としての英語と異文化への適応性の2点が必要である。
     日本が空になるくらい学生を海外に送り出し,日本の在り方を見て,そこで自分は何をやるかということを考え始めるきっかけとする必要がある。子どもたちに自分で痛い目をさせるという教育の原点から新しい展望を見出していく努力が必要である。
     
  【大学入試とのかかわりについて】
     受験があるから教養教育がうまくいかないと言うのはおかしい。アメリカでもフランスでも一流大学の受験は日本よりもっと厳しいのにもかかわらず,彼らは日本の知識人よりもはるかにいろいろなことを考えている。だから,受験に元凶を求めるのはやめた方がよい。
     大学入試に問題がないとはやはり言えない。欧米型の入試との違いを考えるべきである。大学入試については,大学関係者に教養教育を意識して考えてもらいたいことを発信しておく必要がある。
     
  【高等教育における教養教育の捉え直しが必要】
     教養教育を考えるに当たっては,平成3年の大学設置基準の大綱化とそれによって主に国立大学で教養部が廃止されていったという事実を総括し,それらについてどのように評価するのか,また,どのような問題点があったのかについて検証することが必要である。
     平成3年に大学設置基準を大綱化したこと自体は間違いではなかったが,教養教育の理念が正確に理解されていなかったために今のような事態を招いたのではないか。
     大学での教養教育が失敗したのは,教養について知の切り売りをしたことによるもの。知識や技術,経験は与えられても,教養は自分の中でそれを醸し出すという作業が必要。教育者の人格がにじみ出るような教育が,受け手のものの考え方などに反映される。結局は教育者をどう育てるかが一番問われる。
     日本の大学,特に人文系は,プロ教育でもない,教養教育でもない,きわめて中途半端なところでやってきたのではないか。プロ教育の前提として,なぜ自分がその職業を選ぶのかを熟慮し,自己発見をする場を設けなければならない。その場は,学部教育あるいは教養教育である。教養の問題を考えるときに,自分がどういう職業に就いて,何者になりたいのかを考える機会を与える必要がある。
     多くの大学では,現代のグローバル化や産業社会化に対応した学科編成や学部設立となっているが,一方,文化や人文をだれが推進していくのかという問題が大きく欠落しているように思える。従来の教養教育ということではなく,人間とは何か,人間と社会との関係とは何か,あるいは,自然とは何かといったような本質的な問題を探求する学問としての在り方を再編成することが必要ではないか。
     ITと職業能力という観点からどのような能力を最も重視するのかという調査を行った結果,企業の人事部門からは,統計的能力,コミュニケーション能力,自己管理能力というものが上位に上がってきた。そのうち,自己管理能力については学生側には意識があまりなかったが,これこそが自己統治能力であり,まさにリベラルアーツの本質につながるところと考える。
     
  【情報化社会とのかかわりについて】
     本を読むことは重要なポイントだが,今の子どもは,情報はインターネットから取るのが当たり前の状況。今後インターネットなどをどう位置付け,活用するかを考えるべき。また,情報化に伴う犯罪も増えている。教育による対策をもっと組織的にやる必要がある。
     学校は歴史博物館であるべきという意見があったが,現実はそうはいかず,インターネットが入ったり,コンピュータを使ったりしている。これらは,非常に便利である一方で,実体験が少なくなるいう影の部分もあり,こうした影の部分が必ずあることは認識すべき。

 

ページの先頭へ