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資料4

第2回及び第3回総会における教養教育の在り方についての主な意見

 

第2回総会における主な意見

1   教養とは何か,なぜ教養教育が必要なのかについて

【教養とは何か】
○   人間のコミュニケーションの側面とリプレゼンテーションの側面が大事である。人間がいろいろなものから受ける情報を心の中で醸して,それを外に出すという操作が教養の一つの発露の仕方である。これは大変重要なことであるが今の教育の中でほとんど忘れられている部分であり,暗唱などの方法論も含めて議論の必要がある。

○   世の中は非常に変化しており,また,様々な価値観があるのだが,基本的な倫理観ともいうべき基本的なディシプリンをきちんと持つことや,物事の本質は何かということをきちんと押さえることが大事である。それができてはじめて,自分の意見を持って相手とコミュニケーションでき,教養や技術を身に付けられる。それをやらずに技術の細かいところまでいくと,どんなに一生懸命やっても応用ができず本質が見えなくなる。

○   これから国際化がどんどん進んでいくという状況の中で,国際的な場で仕事ができる人を作るという観点から,教養教育の基本として外国語,特に,国際語としての英語と異文化への適応性の2点が必要である。

○   教養教育で重要なのは,個人が何かを学ぶことは新しいものに触れ,新しい人に会い考えることで,それがどんなにおもしろいかを知ること。新しい人たちに話を聞き,刺激されて,よりいろいろなことを知りたい,考えたいと思うモチベーションを持つことが大事である。

○   日本では教科主義が牢固として育ってきたので,教養は教科を深める行き先にあるという考え方があるのだが,そうではなく,教養とはもっとずっと手前にあるもの,すそ野として位置付けられるものという意味で新しい教養教育を提言する必要がある。

○   教養とは,人が身に付けてほしい,知識ではない部分であり,社会性,市民としての責任,学び方,生き方などを含むような学びではないか。「教養教育」という名前についてももっとふさわしい名称を考えていく必要があるのではないか。

○   社会に出ていくときに,それなりの教養,生き方や学び方を考える力を出していく必要があるので,大学まで出て社会人になることだけを前提にするのではなく,中学校や高等学校レベルも視野の中に入れていく必要がある。

【なぜ教養教育が必要なのか】
○   これまでの教養教育についての議論を要約すると,おおむね,1日本人全体の人間形成の基盤に資する教養教育が危機に瀕しているのではないか,2日本人が国際社会に出たときのプレゼンスの根幹となるのは国際的な共通性を持った教養ではないか,3日本人が国際的に活躍するには日本人が国際的に必要とされる教養を持っている必要があるのではないか,また,4専門教育と教養との関係をもう一度見直す必要があるのではないか,5大学での教養教育の在り方や初等中等教育における教養教育とはどのようにあるべきかについて考える必要があるのではないか,ということであった。

○   学習のモチベーションが重要な問題である。貧乏な時代には,豊かになるために学ぶという意味で,学習をすることに意図的な方向づけをしなくても,社会全体がコンセンサスを持っていて,学んで技術力を身に付け,あるいは国際的に活躍をする人間になっていかなければ日本は生きていけないという,非常に強いモチベーションが存在していた。豊かな時代になって,人間として生きるということについて考える必要が出てきた。教養教育とは,学校の世界と社会の世界のつながりを考えることであり,何のために学ぶかを考えること。小学校から教養教育の根幹にかかわる部分について教育の中に入れていく必要があるのではないか。現状は,何のために勉強するかに答えられるような教育の仕組になっていない。

○   審議のまとめは,「教養教育」を「教育全般」と置き換えても通じる内容である。小・中学校の場合,「教養教育」というよりも「人間性教育」や「社会性教育」という言葉で考えたほうがわかりやすいのではないか。今の変革激しい時代にこそ不易が重要であり,不易の中身の一つに教養があるのではないか。これからの個性化の時代,平等から自由へという中にあって,ますます基礎・基本を忘れてはならないし,そのためにも教養をもう一度とらえなおす必要がある。

○   時代が変わっているから教育を変えなければならないという議論だけではなく,教育改革のためにいかに社会を変えていくかという発言を審議会としてするべきである。例えば,メディアの世界の度を越して荒廃した文化や経済界の極端な拝金主義など大人社会の状況を見て,根本的なところで何かごまかしがあることを,小学生の子どもでも気づいている。この国の社会の在り方について,中教審としてはこう思うという発言をする必要がある。

○   子どもは学校教育で何と言われたとしても,社会に出たときにそれで職業として成立する分野があるのか,評価されるのかということをきちんと見ている。そうすると,いまの社会の中で評価される能力は,極めて表層的な市場経済に直結した教育であり,知識部分ばかりということになる。だから,知識のバックボーンを作るような仕組を産業政策や文化政策として作っていく必要がある。

○   今,せっかく「生涯学習」の中でどうしていこうかを探っている中で,「教養」という言葉を出すと現場が混乱するおそれがある。教養教育については慎重にとらえるべきである。

○   教育の話は,子どもでも,世の中でもなく,我々大人一人一人の問題である。自分自身の問題として,世の中の在り方,価値観を問うていかなければならない。

○   教養教育の問題点は,今の学問的状況を反映していることを認識しなければ,解決しないと思う。最近の学者,科学者は職業化して,専門家・細分化している状況にある。今の学問的状況の弊害として,学問の専門化,分割化がある。また,本来,ファクトファインディングの知識とユテライゼーションの知識はペアになっているべきものであるにもかかわらず,近代の職業化された科学の中ではファクトファインディングだけが専門化して,それをどう使うかは社会に委ねるということになってしまった。実は,これは文科と理科の分割である。恐らく教養教育は,分割された知識をバインドするものと考える。文科と理科を融合したり,細分化された諸知識を融合したりするときに,知識が個人にとっての行動の原理となり得る。

○   人間として,社会人としてどのように生きていくかということを,大人社会自身が見失っており,子どもは更に見失っている。教養教育とのかかわりの中で,こうした問題について掘り下げて議論していくことが重要である。

 

2   教養教育の在り方について

【総論】
○   教養教育を生涯教育としてとらえる一方で,ある一定の年齢を教養教育に充てるという一つの教養教育の在り方の制度的な設計についても検討する必要がある。奉仕体験の話とも結び付くかもしれないが,17歳前後の2年間を教養教育に充てるような制度設計をすることも検討すべきである。

○   学校を出て以降の生涯にわたる教養教育を考えた場合,「教育」だけでは困るので「学習」と考えるべきである。また,「教育」と「学習」の関係について議論が必要である。

○   「教育」と「学習」の概念の区別を強調しすぎると,議論が進まないのでやめたほうが良い。「教育」と「学習」はメダルの表裏の関係にあり,二つに分けることができないものである。

【初等中等教育における教養教育の在り方】
○   審議のまとめにあるように,これからの教育においては,幼稚園の段階から,言葉を十分に使いこなし,自分の思いを伝え合う力を育てていくことが大切である。

○   教育が人間をつくるという視点から見ると,教育の中で教師が授業を通しながら自分の人生を語ったり,子どもに考えさせたりすることが大事だが,その一番大事なところが欠けてしまっているのではないか。

○   人物に出会うことこそが教養をスパークさせる大きなきっかけとなる。講義で教壇に立った教師の話を聞かされるだけが教養ではない。日本の教育システムの中に教養を取り入れていくとした場合,ソーシャル・エンジニアリングの視点から考えると,子どもや若者たちにこの国総体が持っている知的遺産をどのように伝えていくのかということがテーマとなる。この国総体が持っている知的財産は,高齢者層に凝縮されている。こうした高齢者を教育の現場にリクルートすることは,人物に触れるという意味において大きな意義がある。例えば,50歳から60歳までの人たちが,NPOに近いような年収で,自分たちの蓄積してきた体験を次の世代に伝えるという活動を公的なシステムとして認知し,日本の教壇に送り込むというようなエンジニアリングを展開してみてはどうか。

○   これからの日本社会では,高齢者がいかに活用されるかで,社会が活性化するかどうかが決まってくる。シルバーを教育の中で活用することは非常に重要である。

○   ただ物を作って配布すればいいというアクションプランは,今後,審議会で厳しく精査するべきである。物を配るよりも,例えば,高齢者を1,000人任命して,全国の小・中・高等学校で心の問題について語り部活動をさせるほうが,はるかに効果がある。

○   実社会に出ていろいろな経験をしてきた経営者が,実際に中・高等学校に行って自分たちの経験を話すことによって,教師やPTAとの交流という意味も含めて,教養の実践という形で貢献することができるのではないか。

○   今の子どもたちは家庭の空洞化,地域の空洞化により,他人や仲間とのコミュニケーションなしの世界で自分なりの空間を作り上げてしまうという環境に置かれている。その中で,それぞれが孤立し,自分の将来に対する生き方のイメージを描けない子どもが多い。そういう子どもたちを見ると,よりよい生き方とは何かということについて考えさせる教育が改めて必要であり,そのような教育をするために必要なものを答申すべきである。具体的には,自分の生活や体験の中で他者と深くかかわり,コミュニケーション能力をはじめとする社会性を身に付ける必要がある。教科書的な,学校の教室の中にとどめることなく,広い視点から教養をとらえるべきである。

○   子どもが自ら何かを感じとるような体験,自分が痛い目に遭うことで他人の痛みがわかるような体験が必要である。これまでの運動会,遠足や演芸会などという行事は,学校全体・地域全体の行事であり,そのような体験をするよい機会であったはずなのに,現在は,そのシステムがうまく機能していないところに問題点がある。

○   自分が力を発揮することができて,夢中になれれば,自然とやっていく中で,人のありがたさがわかったり,応援してくれた人に礼を尽くすことができるようになる。そこから自ずと何かしたいという気持ち,本当の意味での奉仕活動を行うような気持ちに向かっていけるようになる。

○   「ゆとり教育」とは,実験・体験や屋外での教育を大事にした,問題発見・解決型の双方向の教育である。基礎基本を徹底し,十分理解できないまま上に進むことのないようにする。そういうことを通して,学ぶことの大切さや生涯を通じて学ぶことの楽しさを教えていこうというものである。そして,一方で,飛び級や習熟度別など,個々に応じた教育ということでもある。「ゆとり教育」は誤解されている面があり,もう一度とらえ直す必要がある。

○   教育現場の再生のためには,教師の業績評価が必要。社会システムとして客観的にだめな教師を排除していける仕組を持つべき。これは「教員免許制度の在り方」にも密接に関連してくる。

○   初等中等教育,高等教育,更に生涯学習のプロセスの中で教養教育を考えた場合,そのプロセスの中で,初等中等教育を担当する教師の役割を重視し,その教師自身の教養教育の問題についても考える必要がある。

【高等教育における教養教育の在り方】
○   教養教育を考えるに当たっては,平成3年の大学設置基準の大綱化とそれによって主に国立大学で教養部が廃止されていったという事実を総括し,それらについてどのように評価するのか,また,どのような問題点があったのかについて検証することが必要である。

○   教養教育をリベラルアーツとしてとらえるのか,ハーバード大学に見られるようなアーツ・アンド・サイエンスとしてとらえるのかも一つの論点となる。

○   日本が空になるくらい学生を海外に送り出し,日本の在り方を見て,他人の痛みを感じて,そこで自分は何をやるかということを考え始めるきっかけとする必要がある。子どもたちに自分で痛い目をさせるという教育の原点のようなものを今の制度の中から拾い出してそれを強め,そこから新しい展望を見出していく努力が必要である。

○   人文・社会に関連した知識は,現代社会では定量的に計測して評価する仕組の上に乗りにくい部分があり,現代社会は情報,技術,市場経済が圧倒的に評価を決定しているところがある。だから,多くの大学では,現代のグローバル化や産業社会化に対応した学科編成や学部設立となっているが,一方,文化や人文をだれが推進していくのかという問題が大きく欠落しているように思える。従来の教養教育ということではなく,人間とは何か,人間と社会との関係とは何か,あるいは,自然とは何かといったような本質的な問題を探求する学問としての在り方を再編成することが今の時代に必要ではないか。

○   ITと職業能力という観点からどのような能力を最も重視するのかという調査を行った結果,企業の人事部門からは,統計的能力,コミュニケーション能力,自己管理能力というものが上位に上がってきた。そのうち,自己管理能力については学生側には意識があまりなかったが,これこそが自己統治能力であり,まさにリベラルアーツの本質につながるところと考える。

 

第3回総会における主な意見

1   総論

○   教養の内容には,日本の古典や,中国の古典を入れるべき。

○   教養の大きな柱として,人間と自然との関わりを学び,考えることが重要。グローバル化の中で,教養が,グローバル化のシンボルである英語や,映像などに集約されていくように受け止められているが,もっと本質的な自然の一部としての人間存在について議論していきたい。

○   学ぶということは,教わったことを自分で何回も繰り返して学んでいくということで,それが楽しいものなのだと気がついたときに,教養が身に付いたと言えるのではないか。

○   「審議のまとめ」のWhatの部分は,いくつか事項が並んでいるが,一番大事なのはどれで,全体がどう関連しているかといった関係を整理する必要があるのではないか。

○   教養の有無について,ヨーロッパではユーモアが言えるか,ユーモアが分かるか,ということが言われる。教養とはこういうものだということは,具体的に言わないといけない。生涯学習では,大衆の教養をどうするのか。小学校では子どもの教養を高めるためにどうすればいいのか。ただ,大学の場合は多様化しているから,多様な在り方があっていい。

○   教養の不易の部分,いつの時代にも変わらない核についても言及する必要があるのではないか。また,金銭教育,何かをする際に必要になる経費の裏付けなどに関する金銭感覚を養っていくことも必要。

 

2   主に初等中等教育に関すること

○   小・中・高で新しい指導要領や教科書ができてこれからやろうとしているときに一体何を議論したらよいのか。大学についても各地で教養教育についての研究協議会が毎年開かれ,ずいぶんやっている。これにプラスこういうことをせよ,ということであるならば,それを示すべき。

○   教養教育において,情操教育,芸術教育をもう少し強調してもいい。英語教育にも共通するが,子どもはものすごい可能性を持っており,早くから開発することが必要。

○   教養教育については,すでに様々な取組例があって,いい結果もあれば,良くない結果もある。それをどうやって波及する仕組みを作るかについて議論をすべき。教材については,いろいろなところでの活用の結果をネットなどで公開していくべき。教員については,新しい取組ができない教員の再トレーニングが重要。学生だけではなく,教師も常に学習していかなければならない。また,今いる教員では対応できないということなら,新しい分野の人たちに助けてもらうことができるような仕掛けをつくるべき。

○   教科を系統的に教えることだけでは,学ぶ側がモチベーションを失っている時代には対応できない。校長が中心になって,いろいろな議論を重ねた上で,自分の学校における教養教育をどうしていくかということに実際に着手する以外にない。

○   教養というものは,生身のモデルというか,一体どういう人が教養のある人なのかという具体的なイメージがわかないと意味をなさない。子どもたちや若い人が生身のモデルと出会うチャンスを具体的に広げていくことが大事。ボランティアや国際体験も,ふだん出会うことのない大人と出会い,何かに触れるチャンスになるという意味で期待できる。教員のリクルート方式についても考えるべき。若者が出会う大人のレベルを上げることによって,本人が「自分は教養が足りなくて恥ずかしい,もっとがんばらなければ」と思うきっかけを作っていくのが,教養教育にとって一番重要な制度論の入り口。

○   一番大事な教養の基礎・基本は国語である。

○   教養教育については,どこまで学校でできて,どこを社会がやり,企業がやり,家庭がやるといったふうに分けて考えないと,学校教育だけで対応するのは無理。

○   初中教育については,これからまさに本格的に実施される新指導要領に対するサポートという形で議論すべき。

○   規範意識の醸成は,人間が社会で生きる大前提であって,その希薄化は教養を身に付ける以前の最大の問題。家庭教育も含めた生涯学習全体の中で考えていくことが必要。

○   教養教育の具体的方策については,具体的なインパクトがあって,現場で実際にやれるような内容を示さないと絵空事になってしまうのではないか。

○   大学受験を中心とする教科中心の勉強に割く膨大なエネルギーや,若者の知識に対する欲求を,「生きる力」としての知識,あるいは教養として根付かせてやりたい。そのためには,学校がもっと社会に開かれていかねばならない。教員一人ひとりが,社会人として当然の考え方なり,義務なりを習得しなければならない。また,学校が地域や社会,家庭の人材や経験を積極的に取り入れていくことが必要。

 

3   主に高等教育に関すること

○   高等教育については,設置基準の大綱化後,大学ではかなり工夫しているつもりだが,世間一般では大学から教養教育がなくなったと思われている。この検証をもう一度行う必要がある。

○   大学での教養教育が失敗したのは,教養について知の切り売りをしたことによるもの。知識や技術,経験は与えられても,教養は自分の中でそれを醸し出すという作業が必要。教育者の人格がにじみ出るような教育が,受け手のものの考え方などに反映される。結局は教育者をどう育てるかが一番問われる。

○   日本の大学には知の世代的な継承の側面が弱い。教員は,ひとたび退官すると大学とはほとんど何の関係もなくなる。また,小・中学校でも,大学でも,教養教育をいう前に,それぞれの教員が果たして教えるべき教養を持っているかという状況もある。学校における知の継承について,単に高齢化社会対策ということだけではなく,米国の大学の例なども参考にしながら本格的に考えるべきではないか。

○   「審議のまとめ」のHowについては,運用のための具体的な検討が必要。大学におけるFDについてはぜひ書き込んで欲しい。教養教育に携わる人をどう確保するのかについて,学校外の様々なマンパワーを巻き込んでいくことが必要。

○   日本の大学,特に人文系は,プロ教育でもない,教養教育でもない,きわめて中途半端なところでやってきたのではないか。プロ教育の前提として,なぜ自分がその職業を選ぶのかを熟慮し,自己発見をする場を設けなければならない。その場は,学部教育あるいは教養教育といっていい。教養の問題を考えるときに,自分がどういう職業に就いて,何者になりたいのかを考える機会を与える必要がある。

○   特定職業の特定な知識や技能を大学で教えてくれとは言わないが,職業観や,働くことの意味なりを社会全体でもう少しフォローしていく必要があるのではないか。

 

4   主に生涯にわたる学習に関すること

○   日本には,外国のような大学町がない。日本にはあちこちにビルができているが,国全体としての品格などが欠落している。どうして日本ではそういう形の町づくりができなかったのかについて,文教行政の中でも考えることが必要。

○   物事の本質を考え抜く力というか,南方熊楠のいう「脳力」の部分が非常に劣化してきているのではないか。ここにはメディアの影響などもあるのかもしれないが,若者だけではなく,我々自身が教養のない世代になっているのではないかというくらい,ある種の論理性や体系的思考力を失ってきている。

○   志を持って努力すれば,精神的な豊かさと社会をより良くすることにつながるのだという意識をどのようにして持たせるかが教育の出発点。そう考えると,教育改革の問題はむしろ大人の問題。

 

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