戻る


1  教育委員会の形骸化論の検証

 教育委員の選任過程

 形骸化論で意味されるものは広範にわたっているが、委員の選任過程に関わっていえば、教育委員の「名誉職化」として語られていること、すなわち、人選の形式化がその重要な構成要素になっていることはまちがいない。その批判の中心は以下のものである。
 教育問題への関心や問題解決への意欲、つまり、委員としての適格性とは関係なく、地域の名士としての条件を備えた人物が選ばれる。地域の名士である以上、一定の識見や手腕があることは事実であるが、それ以上のものではなく、住民代表としての職責への深い自覚も使命感もないままに、積極的な委員活動もせず、漫然と任期を過ごす委員が多い。
 そのために、首長から相対的に独立した政策決定機関としての教育委員会会議が、活発に議論が展開される政策フォーラムとなることはないし、合議体として機能せず、ひいては、常勤職で事務局長をかねる教育長に「ゲタを預ける」形で、そのリーダーシップに黙従している結果を生んでいる。このような状況は、教育委員が期待される本来の役割を果たしていない要因の一つとなっている。
 これは、首長が委員の選任に権限と責任を有しているにもかかわらず、それを、地域の教育問題の解決を左右するほどの意味を持つものとして認識せず、選挙の論功行賞や庁内のローテーション人事として利用するなど、情熱をもってかつ慎重に人選に取り組んでいないことが背景にある。
このような指摘が、どこまで経験的に妥当するのか。

 まず、市区町村教育委員長調査によれば、教育委員の人選について、以下のような結果を得た。

 教育委員の人選について、時間をかけて慎重に行われているかどうかを聞いたところ、「やや慎重であると思う」と回答した委員長が43.9%、「非常に慎重であると思う」が25.1%であった。「全く慎重であるとは思わない」を1点、「非常に慎重であると思う」を5点とした平均値は3.84である。

委員の人選

委員の人選に関するこのような慎重度は、「会議の活発度(2−(1)−12を参照のこと)」と統計的に有意な関係が見られる。
クロス集計表からは、委員の人選を慎重に行っている教育委員会ほど、会議が活発化していることが伺える。

教育委員会会議の活性度

 以上の調査結果は、首長の面接結果からも裏付けられる。すなわち、首長の多くは、委員の人選の重要性を認識し、任命権者としての職責の重大さを自覚しつつ、取り組んでいる。
 人選の手続きはさまざまであり、教育委員会からリストをあげてもらい、経歴などをいろいろと精査した後で、そこから選ぶ首長もいる。他方、あくまで、自分で、いろいろな「つながり」を駆使して、探し出す首長もいる。
 前者の首長の場合、つぎのような論理に基づいている。教育委員会としての全体の構成が、それぞれの委員の「持ち味」が生かせるような構成になるためには、どのような人材が必要か、あるいは、いわゆる同質的な構成ではなく、委員構成の多様化を図ることにより会議運営を活性化するにはどのような資質を持った候補者が求められるのかについては、教育長以上に適切な判断を下せるものはいない。そこで、教育長から出された候補者リストの中から、資質能力などの適格性に注目しながら、教育長と相談しながら最終的には自分で判断を下す、というものである(さらにいえば、委員全員に高い教育識見を求めるのは難しいが、地域住民の眼から、あるいは大所高所から、教育政策のありようをチェックすることができる人物で構成されるべきだというのが、多くの首長の意見であった。そこには、教育問題の高度化・専門化ということへの認識が働いているのかもしれない。)。
 後者のような選任過程をとる首長は、教育委員の選任に一種のこだわりを持っている首長である。そこには、任命権者としての自覚が働いているといえよう。自分の専管事項であるという自覚、そして教育問題の処理に関して心から託せる人物の選出をしなければという自覚で行動しているのである。後者の首長の場合、特に、教育長の選出をきわめて重視し、自ら選任することにこだわる。その際、特に、事務局全体をリードできる行政上の経験と手腕というものを重要視している。人材の不足しがちな自治体では、県職員から教育長をリクルートするのも、そうした教育長に求められる資質能力に関係しているといえよう(ある市長は、教育長を称して、「教育関係のチャンピオン」と述べている)。教育長人事は、教育次長人事と関連付けつつ、教育行政と一般行政との専門性のバランスが保てるように、慎重に行われていることも多くの自治体でみられたことは注目に値する。また、Y市長は教育長人事について、次のように語っている。「自分と同じような考えで教育行政をやってくれる人だったら心配はいりませんが、意見が違うような考えの方にやられると困ります。そういうことがないようにちゃんとしていかなくてはならない。」
 また、教員人事(内申)をしっかりできるということも重要視されている。たとえば、ある市長は、教育長人事について、自薦や他薦(校長会からの)がある中で、地元の校長経験者ではなく、あえて隣接する市の校長経験者をリクルートしたことを話してくれた。「私が一番気にしたのは、−中略−親分子分の関係を作っている方はあまり教育長にしたくなかったのです。それをやるとどうしても偏った人事になります。」決め手となったのは、「派閥を作って自分の勢力を拡げ」るような人ではなく、「公平にいろいろな人事ができる人」であった。
 教育長に就任する際に首長から直接打診があったかどうかを教育長に尋ねたところ、91%の教育長があったと答えている(市区町村教育長調査より)が、これは、教育長人事を首長が重視し慎重に行っていることを示唆しているといえよう。

教育長就任時の首長出打診の有無


 ところで、委員の選任方法にかかわる批判として、地域割り(地区代表制)の慣行がしばしば取り上げられる。確かに、その慣行が行われている市町村もある。特に、合併経験のある市町村にそうした傾向がある。実際、地域から教育委員が選出されていることは、地域の問題を教育委員に陳情することもできるし、なによりも地域が自治体全体の中で軽視されていないというシンボリックな意味合いがある。地区選出の議員からの働きかけがあるのは事実であるし、逆に首長が後任人事の際に地区出身の議員を相談役としている場合もある。地域的なバランスが重視されているといってよい。かといって、人選が形式化しているとはいえない。その地区で、ふさわしい人物を探す。だが、ふさわしい人物がいない場合は、断念する。T市では、現在、同じ地区から3名の委員がでているとして、議員から非難されたが、市長は、「もっともふさわしい人物を選んでいるのであって、それが結果的にある地区に集中したにすぎない。こんなに狭い地域のことなのだから、地域割りというような、そのような狭い了見で判断してもらっては困る」「そうした了見で地域の教育がよくなるでしょうか」と一喝したという。
 総じて、人物本位で選出していることはまちがいない。つまり、肩書きや経歴といった形式的な属性ではなくて、PTA活動や社会教育の場における地域での活動ぶりや、さまざまなソースからの情報を基にして、その人間的な側面までも含めて、委員としての適格性を判断しているということである。結果的に、それが地域の名士であることも多いのであるが、それは結果であって、原因ではない。首長の人脈を通じて、自ら信頼の置ける人物を委員に任命している。これは一見、情実人事ではないかという疑問を投げかけることもできるが、首長からすれば、当該人物とこれまで何らかの人間関係を築き、人柄を十分に知っていることは、その人物に教育行政をゆだねることに関する安心感を得ることにつながり、その点に鑑みれば、その人物が教育委員としての一定の資質能力を備えた人物であれば十分ということになる。こう考えれば、このような選任の仕方のほうが、他からの推薦よりもよいという判断を首長がすることも理解できる。
 また、首長は、教育委員に対して就任を直接打診している場合がほとんである。面接・面談を行っている首長も多い。「教育委員だけは直接会います。そして、お願いに行きます。他のいろいろな審議会の委員とそれは別ですね。(TG市長)」そして、その際、自らの教育ビジョンや地域の教育課題について語っている。このように、人選が形式に堕していることはほとんど見出すことはできなかった。首長は情熱をもって人選に取り組んでいる。思い通りの人選ができているという満足感を表明していた。
 こうした選任の実態から、首長が委員の選任を重視し、真摯に取り組んでいることが明らかである。しかし、首長が委員の選任に熱心になればなるほどそれだけ、選任された教育委員は首長の「価値観」や「イデオロギー」の枠をでることができないということもありうる。そのため、そこに中立性の「侵害」を見る首長もいることは事実である(S市長)。つまり、制度上の制約(地方教育行政法上の)があるので、首長任命が直ちに、「党派的な」意味での政治的中立性を侵すことはないにしても、首長任命にしている以上、首長が人物本位で選出すればするほど、首長と意見や態度志向を同じくする人物が選ばれる傾向は強くなることが考えられる。
 一方、首長は、単なる自分の「好み」の人物では委員としての仕事ができないことや教育委員会の運用に影響が生ずることを自覚しているし、議会の承認を取り付けるという大きな、一種のハードルを越えることができないことも自覚している。議会承認に際して、トラブルがあったという市町村はほとんどなかったが、それに向けて慎重に事を進めていることは明らかである。ほとんどの市町村で本会議にかける前に、全員協議会で事前説明を行い了承を取り付けるという手続きが慣行化しているのはその現れと見ることができる。それでも、反対の意思表示を表立ってするのではないが、採決に際して、退席する議員がいると語る首長もいた。議会の会派から、委員推薦の動きはある。それでも多くの首長は、主体的にかつ意欲的にそして、慎重に委員選びを行っているといえる。
 議会承認という手続き上の制度はチェック機能として重要である。首長の思い入れの強い人物でも、チェックされる可能性は十分にあり、そのことが議会の納得できるだけの資質能力を持つ委員選びをせざるを得ないという事前抑制装置となっているのではないかと思われる。今話題になりつつある委員の「公募」制について、一つの難しさは、この議会承認にあるという市長がいた(N市長)。慎重に選んだ候補者が議会で否決されることもあり得る。なぜ公募にするかについて確かな理由を提示しない限り、承認を取り付けることは難しいといっていた。議会では、地域外からの選出に神経をとがらす傾向がある。地域の問題を意欲的に考えるのが教育委員であって、地域に住まない人に教育委員としての職責をどこまで託せるかというわけである。地域外からの委員の公募に踏み切った経験のあるN市長は、そうした批判に直面して苦労した経緯を話してくれた。市長は、議会の場において、その人物が教育改革にとって不可欠の人材であること、そして、その人材を導入しなければ施策事業(この場合、教育環境改善事業)の展開が困難になることを説明し、議会の同意・承認を求めたということである。
 公募制の採用にはいくつかのねらいがあるが、多くの首長が慎重であり、必ずしも積極的ではなかった。K市長の発言を引用する。「これから公募制はあるのかなと思います。ただ、5人のうちの何人をしたらよいのか、それは大変難しい。それと、それぞれの役割分担でいろいろな持ち味の人がいる中で、的を絞って公募するというのは難しい。−中略−実際に面接して『あなたはだめです』というのはつらいですし、それなりの肩書きの方が来た場合に、では点数つけたらこうですとはいいにくい。−中略−結局、地域の推薦になってしまうと思います。」
 結局、公募制に関しては、つぎのような難しい課題がつきまとうという難点がある。すなわち、小論文や面接で人物が本当にわかるのか(そうしたことに頼るよりも、日頃からその人間性や活動を見聞きしている人物の方が安心できること)、いったん面接すると、断ることが難しい面もあること、応募者には「現状不満型」の、ある一つの考えにとらわれている人が多いこと、応募者が少ないときどうするか、相対評価になってしまい、「不毛の選択」を強いられることが少なくないこと、首長の「委員像」に叶う人物がいないときどうするか、「地元のことを知らない人が頭の中だけで」判断し行動するような委員が生まれる可能性があるのをどうするか、などの課題がある。
 それでは、首長から見て、教育委員に特に問題はないのか。ほとんどの首長が自ら選出した委員の働きぶりには、一応の満足を表明していた。ただ、2−1の「首長と教育委員会との関係」の項で詳しく見るように、首長と教育委員との交流・接触はあまりない。特にフォーマルな形では少ないといってよい。M村長のように、許可を得て、時たま、教育委員会会議に参加するといった形や、年数回の懇談会を定期的に実施している市町村もあるが、少ないのが実際である。むしろ、学校訪問や地域の諸行事等の際のインフォーマルな交流の方が多い。そうした機会で、地域の教育課題について意見を交換したり、お互いの教育ビジョンを確認しあったりしている。したがって、そうしたインフォーマルなコミュニケーションや、教育長を通しての情報、あるいは会議を傍聴した地域住民の情報から、首長は教育委員の働きぶりを判断しているようであった。
 確かに、教育委員の働きぶりについて、もう少し活発な議論をしてほしい、教育委員としてもっと「勉強」をしてほしいという市長(N市長)もいたし、事務局の設定した審議事項だけで会議が終わっていいのか、「その他」でいろいろな問題が提起されて、議論がなされてほしい気持ちがあると述べていた市長(K市長)もいた。さらに、「事務局から出された意見について、審議するだけのようですが、少し出すぎでもいいから、いろいろなことについて、逆に教育委員から問題提起をしてもらい、もっと活発な議論をしてもらいたいという気持ちはあります」(Y市長)という苦言を提示する市長もいた。しかしながら、自分が選任した委員の働きぶりについては、首長は概して満足しているといえる。


ページの先頭へ   文部科学省ホームページのトップへ