| 1 | 日 時 平成13年11月1日(木) 10:00~13:00 |
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| 2 | 場 所 グランドアーク半蔵門「華の間」 |
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| 3 | 議 題
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| 4 | 配付資料 資料 新しい時代における教養教育の在り方について(骨子案) |
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| 5 | 出席者 (委 員) 鳥居会長、木村副会長、浅見委員、荒木委員、今井委員、内永委員、高倉委員、田村委員、千田委員、寺島委員、中嶋委員、中村委員、松下委員、森委員、山本委員、横山(英)委員、横山(洋)委員 (事務局) 池坊大臣政務官、小野事務次官、結城官房長、近藤生涯学習政策局長、矢野初等中等教育局長、工藤高等教育局長、寺脇生涯学習政策局審議官、加茂川初等中等教育局審議官、 名取主任社会教育官、山中政策課長、その他関係官 |
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| 6 | 議 事 |
| ○ | 鳥居会長 それでは、中央教育審議会の第9回の総会を開催させていただきます。 中央教育審議会は今度新しい仕組みで発足しまして、五つの分科会、またその中に更にいろいろな部会を持ちまして、多岐にわたる検討を続けております。その中から、ある程度のまとまりが出てきた問題につきましては、総会にお諮りをして皆様の御意見をいただくことを繰り返していこうと思っているわけでございます。 本日は、五つの分科会の中の教育制度分科会が受け持っております「教養教育の在り方」という問題につきましてお諮りをするわけでございます。「新しい時代の教養教育の在り方」というのは、昨年の5月に当時の文部大臣から諮問を受けて、旧中央教育審議会が審議をいたしまして、「新しい時代における教養教育の在り方について(審議のまとめ)」、これは昨年の12月25日に発表したわけですが、そこまでこぎつけているものでございます。これを新中央教育審議会が引き継ぎまして、更に審議を続けているものでございます。 今日は、木村先生が中心になってワーキング・グループを作っていただきまして、新しい骨子を作っていただきましたので、これを皆様にお諮りをして御意見をいただき、更にそれを分科会のほうにまた持ち帰りまして、できれば年末ぐらいを目途に最終的な答申にまとめたいと考えておるわけでございます。スケジュール的には、できればもう1回ぐらい総会に、文章案ができたところでお諮りをできればと思っておりますが、今日は最終答申の文章ではなくて、骨子でございまして、スケルトンですので、言ってみれば文章になっていない状態でお諮りをするということをあらかじめお含みおきいただきたいと思います。 早速でございますけれども、今日は木村先生からこの骨子につきまして、まず御説明いただいて、それから皆様に御審議をいただくことにしたいと思います。よろしくお願いいたします。 |
| ○ | 木村副会長(教育制度分科会ワーキング・グループ座長) それでは、これまでのワーキング・グループ並びに分科会での議論に基づいてまとめました「骨子案」について、少し時間をいただいて簡単に御報告をしたいと存じます。 旧中央教育審議会の時代に、「新しい時代における教養教育の在り方について(審議のまとめ)」の取りまとめ役を仰せつかりましたが、正直申し上げて非常に難渋をいたしました。それでもうたくさんだと思っていたところ、もう一遍やれということになり、大変苦戦をしております。教養というのは定義が難しい上に、それぞれ委員の皆様方の定義がまた個人、個人で変わるということで、議論もいろいろな方向へいっておりまして、これをもとに「骨子案」をまとめるというのはかなり難しい仕事でございました。 本日は、お手元にお示ししてございます「骨子案」について御説明申し上げます。「◇」がついておりますところが柱になっておりますが、「◇」の柱同士も必ずしもロジカルに結びついていないという状況でございます。今日御紹介申し上げて、御意見をいただき、あと2度ほどワーキング・グループを開催し、更に分科会をやって、最終的に「骨子案」をロジカルなものにして、それをもとに文章をつくろうと考えております。 それでは、資料について御報告申し上げます。全体の構造でありますが、3章からなっております。「第1章 今なぜ『教養』なのか」というところで、「『教養の危機』」と「新しい時代にふさわしい教養の必要性」、ここは二部に分けてあります。 「第2章」が「新しい時代に求められる教養とは何か」ということで、ここでも概論的なことを書いております。 「第3章」が具体論でございまして、「どのように教養を培っていくのか」というタイトルにしてあります。この「第3章」は三つの節に分かれております。中教審のこれまでのやり方として、小・中・高等学校、それから大学、それ以降というように学校レベルで分けて提言をするのが常道でございますが、今回はそれを少し変えまして、人間の発達段階で切ってみることにいたしました。 ということで、「第1節」が「人格的基礎の形成期における教養教育」、「第2節」が「青年期における教養教育」、最後の「第3節」が「成人の教養の涵養」ということに致しました。 それでは、1ページから説明をさせていただきます。「第1章 今なぜ『教養』なのか」というところですが、まず「(1) 『教養の危機』」ということで、「自らの位置を見極め、目標を見定め、その実現のために行動する主体性の原動力こそが『教養』」であると定義し、そういう教養が必要なのだと述べております。そして、そういう教養が、日本人、殊に若い世代の身に付いていないということを指摘しておりまして、その背景として、「哲学を基礎とした学問の体系性の喪失と」、最近盛んに言われておりますトリビアライゼーションつまり「専門化・細分化の進行」、あるいは「社会における価値観の多様化」、「教養の基礎をなすはずの生活文化や伝統文化の軽視等日本人としてのアイデンティティの喪失」ということが背景にあるのではないかと分析しております。 「(2) 」の「新しい時代にふさわしい教養の必要性」ですが、そういう時代においてこそ教養が必要であり、21世紀を「知識社会」としてとらえて、「知識と人間とが分離した状況を克服し、人間の生き方と知識との有機的なつながりを復活させることが不可欠であり、教養教育はその鍵となるもの」であるというとらえ方をしてあります。 また、国として、「国際社会の中で尊敬される『品格を備えた社会』の形成」が重要であるという指摘をし、「一人一人が生涯にわたって自らを高め、それぞれの多様な生き方を個人としても社会としても認めあいながら、社会の一員としての責任と義務の自覚を持ってともに生きることのできる社会」が「品格を備えた社会」であり、その形成のためには、一人一人が高い教養を身に付けることが必要であろうという考え方を述べております。 「第2章」では、「新しい時代に求められる教養とは何か」という点について、「◇」が七つありますが、これについては議論がたくさん出ましたので、お出しいただきました御意見の中で、複数の方から出されたが取らせて頂きました。ここでは、「教養とは、個人が社会と関わり、経験を積み、体系的な知識や知恵を獲得する過程で身に付ける、ものの見方、考え方、価値観の総体」と定義しております。それから、これも御指摘がありましたので、教養教育においては、知性ということだけではなくて、感性の涵養も極めて重要であるということも指摘しております。 更に、教養とはどういうものかということについて、社会規範意識と倫理性、豊かな感性と美意識、主体的に考え行動する力、バランス感覚、困難を乗り越えるための体力と精神力などを含めた教養という捉え方もあろうということで、これについても記述させて頂きました。それと、人間としてのマナーの問題、「修養的教養」も必要ではないかと述べております。 結論としては、「自己を位置付け統制していく」自己統制能力が非常に大事ではないかということにしてあります。 それから、国語の重要性を強調してあります。ここだけ見ると国語だけということになっていますが、後のところでは「読み、書き、計算」というとらえ方をしております。「日本語は、日常生活を営むための言語技術である以上に、すべての知的活動の基盤でる」ということで、教養の中核に据えるべきものだろうという提言になっています。 次に、これは平成7年に15期の中教審が始まったときからずっと言い続けていることでありますけれども、「他者や異文化に対する理解」も教養の根幹をなすものであるというとらえ方も記述しています。 最後の「◇」で、「一人一人が自らにふさわしい教養を身に付ける努力を生涯にわたり続けることが必要」であるということを書いておりますが、今回の「骨子案」、あるいは「骨子案」を膨らました答申でも、生涯にわたって学習し続ける必要があるという視点は強く出すつもりでおります。 「第3章」にまいりまして、それでは具体的にはどのようにして教養を培っていけばいいのかという点であります。 教養の涵養は生涯の課題――今申し上げたことと同じでありますが、「その在り方として、特に以下の3点を重視」する必要があるのではないかということで、「 「 「 「 以下、先ほど申し上げましたように、学校レベルというよりも、人間の発達段階を三段階に分けて、それぞれについて教養教育はどう考えるべきかということを提言することにしております。その骨子を今日はお示し致しました。 「第1節」は、「幼児期から12、13歳頃までの時期」を「人格的基礎の形成期」としてとらえようということです。最初は、中学生ということでありましたが、中学校の上級生だと高校生との区別がつかなくなっているという御指摘もございましたので、こういう書き方をしております。 この時期の教養教育の課題でありますが、「(1) 」で上から五つの「◇」までは、日本の社会の問題点の指摘であります。これはほとんどこれまでの中教審でもなされていることでありますけれども、それを改めてここに書かせていただきました。しつけ等を含めた幼児期からの家庭教育ができていない。つまり、家庭の教育力の低下の問題でありますとか、あるいはさんざん言われておりますけれども、地域社会の教育機能が低下している事実、それがために学級崩壊であるとか、いじめとか、そういう深刻な問題が起きているという指摘をしております。 3番目の「◇」で、日本の子どもたちの学力の低下の問題が随分あちこちで議論されておりますけれども、国際比較等で見るとまだかなり上位にあるということを書いております。 しかしながら、「自ら進んで学ぶ意欲や、学ぶことと将来の生き方を結びつけて考えようとする姿勢に欠ける面が存在」するという指摘は致しました。成績は割合いいのでありますけれども、例えば数学や理科でいいますと、「好きだ」という子どもが外国に比べて少ないという状況があり、その辺の指摘も致しました。 それから、これもさんざん言われていることでありますけれども、我が国は画一的な教育をしてしまった。つまり、個人、個人の適性・能力に着目した教育が必ずしも十分になされてこなかったことへの反省を述べてあります。 一番最後の「◇」で、そういう反省に立って、今この時点で教養教育の視点から、これまでの教育のやり方を見直すべきではないかという提案を致しました。 「(2)」にいきまして、そこで「具体的な方策」として、「ア」から「オ」まで五つに分けて具体的な方策の提言がしてございます。 「ア」が、「家庭や地域で子どもたちに豊かな知恵を伝える」という見出しで、囲みの中が提案の更に具体的な内容でございます。こういうことをやればいいのではないか、という点について、これまで出た御意見をまとめさせていただいております。 「ア」では、見出しのとおり、家庭や地域で子どもたちに豊かな知恵を与える。つまり、家庭、地域の教育力をもう一度見直すといいますか、向上させる努力をする必要があるのではないか。これもこれまでの中教審でさんざん言われてきたことであります。このことは、平成14年度から完全学校週5日制が始まりますので、殊に重要になってくるという指摘であります。 囲みの中を御覧いただきますと、幾つかの「・」で分けてありますけれども、例えば三つ目の「・」で、日本には文化的な施設、リソースは随分あるのでありますが、それがどうも十分使われていないのではないかという反省から、美術館、博物館、図書館などの文化施設・社会教育施設の子どもの教養教育の資源としての活用促進ということも書かせていただいております。 「イ」が学力に関することでありまして、これもこれまでの中教審で何度も指摘しておりますけれども、しっかりした基礎学力が教養のもとであるということで、それに対する提言をしております。囲みの中の二つ目として、基礎・基本の徹底のためのきめ細やかな指導体制の充実ということを強調致しました。 一番下を我々は非常に重要と考えておりまして、これまでいろいろな提案があり、試みがなされてきたのですが、その試みが本当に機能しているのかという評価が十分なされていないということで、その取組を検証する仕組みづくりが大事であろうという指摘をしています。 「ウ」が「学ぶ意欲を育てるための取組を充実する」ということで、囲みの中の一番上ですが、「子どもたちの知的好奇心を喚起する取組の促進」という提案をしておりますが、これが私どもは非常に重要だと考えております。日本は豊かな社会になり、ハングリー精神がなくなったから、子どもたちの知的好奇心が衰えたのだということが言われますけれども、アメリカ等と比べますと、物質的には同じように物があふれているのですけれども、子どもたちの好奇心という点からすると、随分違いがあるということで、この辺の取組を真剣にやる必要があるのではないかという指摘です。 「エ」が「豊かな人間性の基盤をつくるための取組を充実する」ということで、ここで指摘しておりますのは、多様な体験活動の重要性です。様々な体験活動がありますけれども、そういうものの重要性を指摘いたしました。 それから、これももう言われて久しいことでありますけれども、先生方の資質の向上ということで、囲みの中の最初の「・」で、「社会体験研修の大幅な拡充」については、随分やられてはいますが、もっともっと拡充してもらいたいということを提案しています。 それから、これも先ほどの様々な取組のところと同じでありますが、やったことに対する評価がきちんとやられていないということで、先生方のアクティビティの評価についても指摘しました。 「第2節」が青年期でありまして、ここでも学校レベルということをあまりはっきり書きませんで、「14、15歳頃から社会に出るまでの期間を『青年期』として捉え」て、「この時期においては、アイデンティティを確立し、自らの在り方生き方を見定めていくための教養を培うことが必要」だとしております。「ここでは、特に、高等学校と大学における教養教育の在り方を提言」させていただきました。 次に、「高等学校段階における教養教育の課題」ということで、これも上の四つの「◇」が現況に対する説明でございます。ここはさほどネガティブには書いてありませんで、高校レベルではかなり多様化した教育が行われているという指摘をさせていただきました。 下から二つ目の「◇」で、ではこれからどうするのかということについて、例えば今後開設される「総合的な学習の時間」でありますとか、あるいは学校が独自に開設できる学校設定科目等を活用して、多様化した高等学校の特色を生かした創意工夫を行うことにより、高校生が将来を展望しつつ、青年期にふさわしい教養を主体的に身に付けていくための力を育ててやるべきだという指摘を致しました。 それから、一番下の「◇」で、「学校の教育活動に関する評価の実施や、全国的な学力調査の実施等により、絶えず成果を検証」することの重要性を述べています。この点は、たぶんこのレポートの一つの柱になってくると思いますが、先ほどから申し上げている、何かトライアルをやったときに、その結果がどうなっているかということを絶えず検証しべきであることが、ここでも書かれています。 それから、次の「具体的な方策」でありますが、「ア」「イ」「ウ」と三つありまして、「ア」が「『将来』との結びつきから学ぶ意欲を引き出す」ということ、「イ」が「『体験』で大人となる基礎を培う」ということ、「ウ」が「論理的に粘り強く考える訓練を行う」ということで、それぞれについて具体的な方策を囲みの中に書かせていただいております。 次が「大学における教養教育」でありますが、まず指摘をいたしましたのは、「(1)大学入学者選抜の在り方」についてです。委員の皆様の御議論でも、現状の入試のやり方が教養教育をゆがめているのではないかという御指摘がございましたので、断片的な知識の多寡を問うような入試とか、あるいは時間内に効率的に正解を見つけ出すような入試は見直そうではないかということの提案をしてございます。 「(2)」が「大学における教養教育の課題」というところで、どうして我が国における教養教育が問題を抱えるに至ったかということが簡単にまとめて書いてあります。そういう状況もあって、平成3年に大学審議会から答申が出されまして、大学設置基準が大綱化されたわけでありますが、その大綱化によってどういうことが起きたか、成果もあったけれども、課題もあるということで、そこにまとめてございます。 8ページの括弧の下の「◇」でありますけれども、「新しい時代に対応した教養教育の再構築の必要性」ということで、専門教育が学部から大学院へ移っていく傾向にある。これは専門大学院、殊に法科大学院等についての最近の議論等を見ていても、たぶんそれは間違いない方向だろうということで、学部教育を教養教育の視点から見直す必要があるのではないかという指摘を致しました。 「具体的な方策」として、「ア」「イ」「ウ」「エ」と四つ書かせていただいております。大学における教育方法に問題がある。つまり、学生諸君に「感動を与える授業」が行われていないのではないかということで、それを少しでも可能にするような方策はないかという議論がありまして、囲みの中で、例えば二つ目の「・」の「授業方法の改善」というところで、「1コマ50分授業の実施」でありますとか、次の「・」で「きめ細やかな指導の推進」を提言しています。教養教育というのは、殊に少人数教育が必要であるという主張です。これまで教養教育はというとその逆でありまして、専門教育は割合に少人数で行われていたのですが、教養教育はほとんど大人数教育ということで、それが、日本で教養教育が機能しなかった原因にもなっているだろうということで、きめ細かな指導の推進という提案をさせていただきました。 「イ」で、「大学や教員の積極的な取組を促す仕組みを整備する」という提案をしてあります。具体的にワーキング・グループで、教養教育で優れた取組をされていると巷間言われております大学の教養教育のカリキュラム等を取り寄せまして、かなり詳細に検討いたしました。その結果、やはりかなり優れているのではないかという結論に達しましたので、教養教育重点大学というようなものを指定して、これを財政的あるいは精神的に支援していったらどうだろうということを、囲みの中で提案いたしました。 また、一番下の「・」のところで、「優れた教育力を持つ教員に更にインセンティブ」を与えたいということで、一番下の行に「教育版科研費」と書いてありますが、そういうものもつくってはどうだろうという提案をいたしました。 「第3節」が「成人の教養の涵養」ということで、「(1)」の見出しが「品格ある教養社会の実現に向けて求められるものは何か」ということで、これからの社会、殊に21世紀の社会はナレッジ・ベース・ソサエティということで、知識が最も重要な役割を果たすようになる。しかしながら、知識を断片的に持っていたのではだめで、知識をいかに結合するか、その辺のところが大事になるだろう。それが実は教養ではないかという考え方を示してあります。 下から二つ目の「◇」で、成人の人生活動は、職業に従事している期間と、退職後の期間に二つに大きく分けて考えたほうがいいということを書いてあります。市民としての様々な社会貢献活動を行うことは、これらの期間、つまり職業に従事している期間もそうでありますし、退職後もそうだということで、これらの期間を通じて重要で、教養はこれらの活動を支える基盤だというとらえ方を致しました。 そうすることによって、最近、若者の中に見られる引きこもり、つまり、自分が社会にどうかかわっているかわからない、理解できないという若者に多いのですけれども、そういうことが少しでも減るのではないか。市民としての様々な社会貢献活動を行うという視点を大きくしていけば、そういう状況は減るのではないか。それから、退職後、世の中から隔絶されるような――殊に男性が多いのですけれども――そのような現象も、市民としての社会貢献活動という視点を強くすることによって減るのではないかという指摘であります。 「具体的な方策」として「ア」「イ」「ウ」と三つを書かせていただきまして、「ア」が「教養を尊重する社会の実現に向けた気運を醸成する」、これは非常に大事なことだと考えておりまして、最近、そういう観点からしますと、日本全体が非常にいい方向に動き始めているのではないかという気がいたします。囲みの中で、「産業界への取組への評価・支援」。随分いろいろな取組をされているので、そういうものを評価・支援しようではないかという提案であります。 「イ」が「教養を高めるために学ぶ機会を充実する」ということで、囲みの中で、六つのほどの「・」で具体的な提案をしております。一番大事なのは、多様な学習機会の充実を図ることであろうという考え方です。 「ウ」として「学んだ成果を生かして社会に参画するための仕組みを整備する」ということで、同じように、生きがいを持って働くことを通じた社会参画を促進していくべきではないか。それから、大学の役割も重要になってきて、地域に対して大学を開いていく努力をすべきではないかという指摘を致しました。 以上、我々で議論してきましたことのまとめについて御報告申し上げました。お気づきであろうと思いますが、先ほど申し上げましたように、「◇」同士でも必ずしもコンシステンシーがないところがございます。その辺については、本日の御議論、それから先ほど申し上げましたようにあと2回ほどやりますワーキング・グループ、それから今後の分科会で御意見をいただいて、スムーズにつながるように修正をしていきたいと考えております。 以上で、説明を終わらせていただきます。 |
| ○ | 鳥居会長 ありがとうございました。 それでは、これから自由討議という形で、皆様に御点検、御審議をいただきたいと思います。去年の12月の「審議のまとめ」との違い等も御点検いただきたいと思います。 それから、今日御出席の総会の委員の方々の中には、教養教育の在り方についての審議に既にかかわってこられた方もおられるはずでございますし、常時はかかわっておられない、ほかの分科会に属しておられる先生方もおられるわけでございますが、どちらのお立場からでもお気づきの点を御指摘いただきたいと思います。とりわけ、今までに参加された方々で、言ったはずなのにここに載っかっていないとか、いろいろなことがあると思いますので、そういったことも御遠慮なく御指摘をいただきたいと思います。 それでは、どうぞ御自由に御意見をいただきたいと思います。 |
| ○ | 今回の案につきましては、非常に納得をして、ものすごく理解しやすい。なぜかというと、学校レベルで区分するのではなくて、人間の発達段階に応じて区分しておりますので、当然、幼児期の家庭教育の問題まで入ってきている。あとは生涯学習としての成人段階も入ってきている。そういう意味で、大変な御苦労があったのでしょうけれども、非常にわかりやすいという感想を持っております。 ただ、1点、特に「人格的基礎の形成期における」というところは、これはたぶん幼児期と小・中学校期に分かれると思いますが、小・中学校期における教育の具体的な方策の中で、るる教養教育としてのねらいは書いておるのですが、ほとんど新学習指導要領に沿ったような教育という気がするわけです。私どもは学校の現場では、来年度以降、新学習指導要領を指針としまして教育課程を組んで実際にやっていくわけですが、この中に従来の学力観とは全く変わった「生きる力」という学力観が形成されていくのだと。できれば、小・中学校の教育課程の中で――高校については学習指導要領が若干書いてあるのですが、新学習指導要領のねらいと、その着実な実施が一つの大きな方策といいますかね。新学習指導要領との兼ね合いで何か記述ができないか。そんな希望を持っているのですが。 |
| ○ | 木村副会長 今の御指摘はそのとおりだと思います。たぶんお読みいただくと随所に入っているのですが、大上段に振り構えてそのことは書いてありません。高等学校のところは御指摘がございましたので書いたのですけれども、その辺を少し工夫をさせていただきます。 |
| ○ | 委員の御発言に関連して、発達段階で切ったということについて、私も賛同を表したいと思います。私自身、初中分科会及び大学分科会に分属しており、特に教員養成部会のマネージをさせていただいております。現在、部会では、教員免許状の弾力化と総合化について、最後の詰めの段階になっているわけでございます。それとの関連で、学校レベルで分けずに、発達段階で切っていくことは共通性があります。そういうことで、何か追い風を送っていただいたような気持ちがして、非常に心強く思っております。そういう観点から、最後の段階で、教員養成部会の取りまとめでもちょっと書き込みをすることが必要なのかなとも考えておりますが、具体的にはこれから少し事務局とも相談しながら練り上げていきたいと思っております。 それから、教員の資質の向上を図るときに、今日のご報告は柱だけでございますが、研修と評価だけでもってこれを説明されておられますが、もうちょっと養成・採用のところ、あるいは養成・採用・研修の一貫性についてもお考えいただければと思い、とにかく教養教育を生涯教育の一環として考えているという基本的なお立場があるわけでございます。したがって、教員の専門職能成長の一貫性、養成・採用・研修の一貫性とも絡めながら、研修と評価だけにこだわらずに、もうちょっと幅広に取り上げていただけると、整合性が出てきてありがたいと感じております。 |
| ○ | 委員がおっしゃいました「豊かな人間性の基盤をつくるための取組」というところで、「豊かな人間性や社会との関係で自己を位置付ける力」というところに、たぶんこういうことが入っているのだろうなと読ませていただいたのですけれども、確認のようなことですが、例えば幼稚園にしましても、小学校にしましても、家庭では培えない人と人とのかかわる力の基礎を培うところだと思います。子ども同士でかかわっていきますときに、子どもは表現の力がありませんから、自分欲しいと思えば、即おもちゃを取り上げたりするわけです。それを事細かに指導していって、そういうときにどう表現していけばいいかという、人と人とのかかわる力の基礎を培っていると思います。 小学校につきましても、集団のルールを教えるのだということも書いてございますとおりで、小学校で基礎学力をつけることはもちろんなのですけれども、集団生活をして人と人とかかわるときに、どのように言葉を使い、人と接していけばよいかということを、小学校では大変重要にして、学んでいく場だと考えているのです。 したがいまして、先ほど教育の資質の向上というところで、委員もおっしゃいましたように、小学校の教員は基礎・基本的な学力を培うと同時に、集団生活をしていくときの人と人とのかかわる力を一所懸命指導しているという部分が、こういうところに入っていると解釈させていただいてよろしいのでしょうか。 |
| ○ | 木村副会長 今の人と人とのかかわり方については、先ほども申し上げましたように、あちこちで書かせていただいております。ただ、委員のおっしゃったようなことまで考えたかと言われると、考えていないと言わざるを得ないので、その辺はちょっと工夫をいたします。 |
| ○ | これをおまとめになるには大変御苦労なさったのではないかと思いまして、大変敬服しております。 ただ、知的な教育が問題となっている現在、全体として知的教養という、もちろん教養には知が切っても切れないものだと思いますが、知、頭を通しての教養というところだけがかなり述べられているという気がして、もうちょっと体を通しての教養というか、そういうものも考えていただけないだろうか。私自身がスポーツ界に身を置き、また、スポーツ・青少年分科会にも所属しているという立場ですので、どうしても体のほうのことが気になる。人間とは何かという基本的なことで考えても、体と心を持っていて、動く体をよりよく動かすということと、考える頭をよりよく考えられるようにする。それが行動となったときに、よりよく生きるということになっていくのではないか。頭についてはこれで十分語られていると思いますが、そういった面で、体についての教養と言うと変ですけれども、体を通しての教養というか、体験活動もその一つではあると思います。そういった側面での教養も考えていただけないだろうかという気がするわけです。 他者とのかかわり。他者とのかかわりの中で家庭・社会があり、もう一つ生活環境というか、自然環境と人間のつくった環境、そういった中で人間が生きていくわけです。また、もう一つ健康という問題が非常に大きな問題として現代社会では出てきておりますので、体とか健康――もちろん健康には心の健康というのもあるのですが、そういった心身全体としての教養にもうちょっと触れていただけないだろうかということをお願いしたいと思います。 |
| ○ | 木村副会長 委員の御指摘はそのとおりだと思います。といいますのは、ワーキング・グループは委員の数が多くないものですから、どうしても知的なところばかりに議論が集中して、私自身感じておりますのは、今おっしゃったようなこと、それから芸術とか、そっちのほうの突っ込みが少し足りないかなということで、その辺も少し膨らます必要があろうとは思っております。 |
| ○ | 「芸術」という言葉が一言出てくるのですが、「スポーツ」という言葉が一つも出てきておりませんし。「体力」という言葉は出てきます。それから「知・徳・体」というのも出てきます。どうもトーンが全体的に知に偏っているのではないかという意見でございます。 |
| ○ | 皆様おっしゃったように、発達段階に分けたのは、とてもよいというか、見事だと思っています。私は以前からライフステージコミュニティというのを提唱しておりますので、このように発達段階で分けたという意味をもうちょっと強調して書いていただけると、ありがたいと思います。 学校にしますと、中学校は高等学校へ行くため、高等学校は大学へ行くための準備のような形になりがちなわけですけれども、発達段階で分けますと、人間にとって幼児期は幼児期として大事。青年期は青年期として大事となります。こうやって分けますと、生涯の各時期がとても大事となる。もちろん次の準備も大切ですけれども、準備のためだけにあるのではなく、幼児期は幼児期として思い切り生きるのだ、青年期は青年期として思い切り生きるのだというところが出てくることが、この発達段階で分けることの大きな意味だと思います。そういうところを表に出していただきたい。単に学校ではなくて発達にしたのだというのではなくて、そこに大きな意味があるのだということを書いていただけるとありがたいと思います。 それから、幼児期のことですが、これは私の持論ですから、何度も申し上げているのですが、自然とのつき合いが基本だということをきちんと書いていただきたい。これは単に「かわいい花だね」とか、「仲良くしようね」という意味はなくて、人間がつくった人工的な社会は、私たちが知ってつくったわけですけれども、自然にはまだ私たちが知らないことが山ほどあるわけで、自然との接触によって、わからないこと、知らないこと、自分が発見できることがあるということを体感できるのだと思います。そういう意味で、自然との接触というのは、ここでおっしゃっている、品格のある教養ある社会をつくるために不可欠です。それは本当に小さいときにやっておかないと無理なので、そういう意味で大事だという。自然との接触を、そういう意味づけで書いていただけるとありがたいと思います。 それから、今おっしゃった体の問題ですが、生物学から見て、体と知とは連動しております。斉藤孝さんが「身体感覚」ということをおっしゃっていますし、私は「生き物感覚」ということを言っているのですが、それがあることが知の基本だと思います。体と知の連動によって生まれてくる知です。斉藤さんはそれで朗唱、暗唱の大事さ、小さいときに物を暗唱することが大事だ、体で覚えてしまうことが大事だとおっしゃっているのですが、私もそのとおりだと思います。「身体感覚」「生き物感覚」を生かした体と知の連動が、小さいときの教養の基本だと思います。 それから、高等学校ですが、総合的な学習とか、学校設定科目で多様化していることで、とてもよくなっていると思いますが、今、社会の中で「ものつくり」ということが非常に見直されています。「ものつくり」というのは、人々が言っているのは工業的な「ものつくり」だと思いますが、私は農業から始まって、本当の意味の「ものつくり」というのが21世紀にもう1回考え直されなければいけないと思います。そのために、ある種の職業教育的なこと。私は農業高校の子とつき合っていて、本当にすばらしいのです。先生と生徒の関係もすばらしい。そういう意味での職業高校がよく位置づけられるような書き方をしていただけるとありがたいと思います。 最後に大学ですが、大学のところでは、やはり古典の大切さを指摘していただきたいという感想をもちます。 |
| ○ | 全般的なことで質問をさせていただいて、若干個別的なことでもお話しさせていただきたいと思います。 先ほど木村副会長がおっしゃったように、前回の中教審の「審議のまとめ」は大変御苦労されたということですが、私も拝見して、かなりよくできていると思うのです。もう1回今度、新しいバージョンをつくられるのですが、タイトルも同じみたいに見えるのですけれども、そこは同じタイトルのものをまたつくるのでしょうか。あるいは、前回かなりよくできているのを、新しくもう1回つくる必然性というか、その場合はその辺がもうちょっとクリアになったほうがいい、あるいはタイトルが違ったほうがいいような気がするのです。その辺が一つの質問でございます。 それから、個別的なことで二、三ちょっと。異文化理解とか、他者理解、これは大変結構だと思いますし、その表現はいいのですが、「今回の米国での同時多発テロ事件に象徴されるように」と。昨日、私、実は最終講義がありまして、そこでも言ったのですけれども、これは私の個人の意見ですが、同時多発テロ、いわば文明の衝突とか、そこを一緒にされては困るというのが私の意見であります。これによると、今あの事件が起こったから、もっと文明とか、異文化を学ばなければいけないという形になると困るので、ここは必ずしもその言葉をそのようには解釈しないで、もし入れるとすれば、「東西冷戦体制の崩壊後にグローバル化が進む一方で、地域的アイデンティティが各地で深まり」とか、そんな表現のほうがいいと思います。これは意見の問題ですから、ちょっと申し上げました。 それから、教養教育の中で、外国語教育についても指摘していただいているのですが、ネイティブスピーカーとの交流による外国語のコミュニケーション能力の向上は大変結構ですが、果たしてネイティブスピーカーとペラペラ会話ができるようになるだけで教養が身に付くかというと、ちょっとこれは違うと思います。コミュニケーションのテクノロジーとしての、あるいはツールとしての外国語の運用能力が必要ですが、かつて旧制高校にしても、戦後の教養学部にしても、語学は特に第2外国語、英語以外の第2外国語をかなり勉強した。これはそれ自体がかなり教養教育だと思いますが、その辺のところももし指摘していただければと思います。私はヒアリングのときにも申し上げた記憶がございます。 もう一つは、大学のところで、いわば日本の大学の問題点は、定年退官して名誉教授になる。私は自分のことを言うつもりは全くないのですが、アメリカなどを見ますと、ハーバードでもそうですが、ジョン・K・フェアバンクでも、ベンジャミン・シュワルツでも、ああいうかくかくたる研究者がずうっとゼミを持ったりしています。日本はそういうことがあまりない。そういう教養教育の担い手こそ、いわばアカデミズムの世界でも、到達した人が若い学生に教養教育をすることが非常に大事だと思いますが、日本の大学はそれができないのです。そこをぜひお考えいただけるとありがたい。以上でございます。 |
| ○ | 木村副会長 委員の最初の御指摘だけについてお答えをさせていただきます。私自身、全体的に昨年12月の「審議のまとめ」はよく書けていると思っています。ただ、御覧いただきますと、高等教育についてはほとんど書いてありません。省庁統合の関係で12月までに結論を出せということで、我々としては高等教育の部分に十分踏み込みたかったのですが、踏み込めませんでした。そのような事情から、今回の答申は高等教育を中心にしようということで始めたのです。先ほどから申し上げているように、方針の変更を致しました。つまり、学校レベルで分けるのではなくて、発達段階で分けようということになりました。そうなると高等教育だけでは済まないということで、もう一度小・中、あるいは高等学校のところも触れる必要があろうということで、こういうスタイルになったのです。分量的には、恐らくでき上がってみると高等教育のほうが相当多くなると思います。かといって、方針を変えましたので、高等教育だけでは済みませんので、全体的に触れるということにならざるを得なかったということです。 ただ、先生、御指摘のとおり、タイトルについては考える必要があるのではないかと思っております。 |
| ○ | 今回の骨子を読ませていただきまして、感じました二つのことを申し上げさせていただきたいと思います。 一つは、皆様おっしゃいましたように、発達段階で分けて考えるということは、私も大変よい考え方だと思いますが、各期の表現ですけれども、幼児から14、15歳までのことについては「人格形成のとき」と、その時期の働きのようなことがはっきり出ています。次に、突然、「青年期」「成人期」というように、これまでも使われていたような言葉でくくられているのですが、例えば教養がどういう働きをするのかという意味を込めて、「青年期」を「自己確立期」とか、教養が活用される時期といったような、何か意味の込められたような名前で統一されたら非常にわかりやすいかなと感じました。 もう一つは、家庭の教育が一番基礎になる、大事なものと思っておりますけれども、家庭という考え方が、しつけをするところといった、狭い意味に考えられがちで、反発が起こることがあると思います。1994年が国際家族年だったときに、家庭は社会の最小単位という考え方で、いろいろなことが進んでいたことを覚えているのですが、小さい単位で、考え方の違う人たちが、コミュニケーションをもって新しい価値観をつくっていく、そういう社会の一番最初の部分が家庭であるというようなことに少し触れて、開かれた家庭、社会の一員になることに向けての基礎づくりなのだということに触れられているといいと願っております。 それから、骨子を拝見させていただくと、既に家庭は立派に形をなしていて、親がこういうことをすると例示しているように感じられますが、今、家庭の教育力の低下といわれている時、親はどのような教養を持っている必要があるかということについて、成人期のところに、要素として入れていただければよりよいのではないかと感じました。以上でございます。 |
| ○ | 一般的に考えられておりますライフステージといいますか、エリクソンは「ライフサイクル」と言っておりますが、年齢に応じた発達課題を持っていて、その年齢にその発達課題をクリアしないと、一生影響するという考え方でありまして、まさに先ほど委員が御指摘されたように、その年に、そのときにやらなければならないことがあるという考え方で理論構成しているようであります。 エリクソンの分け方は、乳児期という時期が最初にございます。それから、幼児の前期と後期に分かれて、そして児童期。ここのまとめ方としては、乳児期から始まって児童期までを一つの区切りで考えていいのではないかと考えておるわけです。 エリクソンの指摘では、発達課題がそれぞれの時期に四つあるわけですが、基本的信頼感の形成、自律心の形成、自発性の形成、そして勤勉性の形成という課題をその時期にクリアしていくという分類をしているわけです。すべての課題がこの文章の中に入っておりますので、私としてはこのまとめでいいのかなと考えます。 ただ、その次の13から20というこの年代を、エリクソンは「思春期」と言っています。これは「青年期」という言い方でもいいのかなと思いますが、委員が御指摘のように、「青年期」ですと違う意味が入ってきますので、どういう表現をするか、またこれから考えていただくとして、そこで明らかになっているのはアイデンティティ、つまり自己の確立と社会とのつながりに確信が持てる時期であると言われているわけです。これは人格形成では一番大事な時期でりまして、教養教育ということを考えた場合には、アイデンティティという意識を持って取り組む必要が何よりも大切ではないかと思います。その後は、青年期、あるいは壮年期、あるいは円熟期という分け方がされております。 今申し上げている議論の中で、ワーキング・グループにおいて、非常にいい御指摘がありましたので、木村先生のほうでこのようにうまくまとめられたのだと考えております。それぞれの時期の発達課題は文章の中に入っていますので、これでいいのかなと思っているところです。 |
| ○ | 節のネーミングはいろいろあり得ることでございますので、中身を決めていく中からやればいいとは思いますけれども、ただ、あまりここにはっきり特定の立場を出すと困ることも出てくるかなと思うので、なるべく自由度のあるような言葉で出しておいたほうがいいようには思います。私も今の委員と同じで、この程度でいいかなと思います。ただ、「人格的基礎の形成期」というのだけが気になるのでしたらば、少しそこは検討するというぐらいでいいのかなと思っております。 |
| ○ | 私、前の旧中教審時代から教養教育の問題にかかわっているので、私の意見はいろいろな場で、分科会でも述べてきたつもりですけれども、全体的に前のものと読み比べて、若干気づいた点を意見として申し上げさせていただきたいと思います。 まず、先ほど委員からも指摘がありましたけれども、確かに諮問されたのは前々文部大臣のときに、昨年のたしか5月29日に「新しい時代における教養教育の在り方」ということで諮問されて、年末、中教審が衣替えをするということで、完全にまとまっていなかったけれども、「審議のまとめ」として文章化して引き継いだという経緯があります。引き継ぐ際に、「審議のまとめ」に書かれているように、高等教育について具体的な施策がほとんど盛り込めなかったということと、もう一つ、教養教育の在り方について、これまでの教育改革を振り返り検証するとともに、その結果を踏まえて、今後の教養教育の在り方について、何をいつどのようにして教え、どのように身に付けさせるのかといったことも含めて、幅広く検討する必要があるというのが、一応締めくくりになっているわけです。 したがって、引き継いではいますけれども、メンバーも一新されているわけですし、諮問されたタイトル自体はそういうことできておりますが、結果によって答申の表題を、分科会の中でもいろいろな意見が出ておりますので、それらを含めて、ここは必ずしもこれにこだわる必要はないのではないかと思っております。 それから、前とかなり異なっている点の、発達段階に区分して教養教育を考えるということについては、これまで委員の方がおっしゃったように、私も賛成です。 前回のものとやや変わってきていると私が感じているところは、「第1章」の「今なぜ『教養』なのか」というところの、「教養の危機」。「新しい時代にふさわしい教養の必要性」というのはずっと前からも言われていた。「教養の危機」を明確にして、こういう表現で出したというのは、前回の「第1章」では、中身的には多少触れられていますけれども、少なくともそういうネーミングとして節を起こしたことはないのです。しかし、先ほど引用したように、これまで教養教育の視点から、これまでの教育改革を検証するという立場に立てば、なぜ今、教養が危機的ともいうべき状況に陥っているのかということを述べることは必要なことだから、私は別にこれはいいと思っています。 ただ、木村先生もおっしゃっておりますように、「◇」印の三つは、順序がバラバラになっているから、これは全面的に変えたほうがいいのではないかと思っているのと、「教養の危機」の背景としてここで述べられていることについて、ここに述べられていることも確かに当たっているのです。前は宗教の軽視というのがあったから、私は宗教の軽視と、委員が言ったテロと関連した形で、宗教教育が述べられていることについては、前回、私は疑問を呈して、そこは若干修正に今回はなっているようです。 ただ、もう一つ、「哲学を基礎とした学問体系」の云々とか、「個人の利益の過度の追求」とか、こういうこととあわせて、やはり教養の危機ということは教養教育の危機ということですので、教養教育がなぜ戦後、新制大学になってリベラルアーツということで、あれだけ大きく打ち出していたにもかかわらず、今日的状況になったかというと、高等教育に関する面は後段の高等教育のところで、先ほど設置基準の大綱化で、その前と後について、成果と課題、問題点を指摘されていますから、それはそれでいいのです。 ただ、マクロ的に見て、なぜ教養がこういう危機的状況になったか、最近のいろいろな不祥事などを見たり、政治の混迷を見たりするにつけても、あまりにも戦後、主要先進国に追いつき追い越せ、キャッチアップということで、主としてこれは経済の面で、言うなら経済至上主義というか、市場万能主義みたいなことで、倫理観のない物質主義が蔓延してきている。だから、教育の場合でも実利性とか、効率を重視するようなことになっていって、教養なんていったって、そんなものを勉強するより、試験に通るための科目だけ最小限なものを勉強するという風潮が、教育の面で起こってきている。したがって、教養が衰退していったのだと私は見ているし、知的亡国論何とかいうのが、最近、いろいろな人から指摘されていますが、教育面で文教教育行政の面から見てそういう欠陥があったということを、私は指摘すべきではないかということを意見として申し上げておきたいと思います。 それから、委員から指摘されたところの今回の同時多発テロ云々というところは、あれが起こらなかったらどういう形にここの文章がなったのか、前の段階ではそういう議論は、ほとんど議論らしい議論をしていないので、何かやはりとってつけたような感じがするし、これは受けとめ方によっては誤解を招きますので、ハンチントンが言っているような文明の衝突ということは、別に今回のテロの問題でそういう状況になっているわけではないので、この問題について、異文化理解という中に、宗教についての基本的な理解とか、宗教的情操を培うということを私は否定するつもりもありませんが、同時多発テロと短絡的に結びつけて書くのは問題があるのではないかということで、ぜひその辺のところはまた木村先生を座長とする作業部会のほうで御検討をいただきたいと思っております。 先ほど冒頭、鳥居会長から、できれば年内にという、それは早くまとめられればまとまったに越したことはないのですけれども、かなり新しいメンバーで、枠組みも少し変えて議論していますので、十分慎重な議論をし、やはり去年の暮れは中間報告という形はたしかとっていない、「審議のまとめ」ということで引き継いだので、中間報告をすれば、普通1ヵ月ぐらい行政手続的に、国民各層にさらすという手続をとっているので、仮に1ヵ月遅れるにしても、そういうことはきちんととっていただきたいという意見を申し上げておきます。 |
| ○ | 木村先生がまとめられた骨子案というのは、我々から見てもバランスがとれているし、体系性という意味においては、よくまとめられたなというのが率直な気持ちなのです。前回のまとめとどこがどういうふうに進化しているのかなという視点で見ると、我々の世界で経営計画を立てるときに、ビジョン計画と実行計画を分けてやるのですが、ビジョン計画が前回のものであったとすれば、実行計画なるものに少し踏み込んでいるのかなという部分がいいのだろうと思います。 そこからなのですね、私が発言させていただきたいのは。サーッと読んで腹に落ちるし、なるほどなという部分が大部分なのですが、まず一つ申し上げたいのは、メリハリということなのです。何をやるんだいという話に、結局、これを受けとめた側はなると思います。 そこで、問題を整理しながら発言しますと、今、私も二つぐらいの大学で教壇に立って、若い人と議論して感ずることなのですが、では何が教養という意味において決定的に欠落しているのだろうかということを考えてみたときに、二つあると思います。 一つは、和漢洋の素養といいますかね。要するに洋の素養にものすごく傾斜しているけれども、和漢の素養にものすごく欠けているというか。これがさっき委員が言われたような、文化多元主義的な考え方が視界に入らない大変大きな背景にもなっている。だから、和漢洋の素養に欠けているという欠落部分が一つ気がつきます。 もう一つは、未熟さというものを自覚していない。自分もひとかどの者みたいな気分でいるというか、自分らしく主義というか、せいぜい10代そこそこの人間が、自分は自分らしくみたいな発言をしているというか。つまり、先達への敬意とか、謙虚さがほとんどない。それはなぜかというと、空間、世界の中で自分がどういうところに立っているのだろうかとか、歴史軸の中で自分がどういうところに立っているのだろうかという、自分の立っている相対感覚が確認できない人間で育ってきている。 そこでなのですね。私はメリハリの部分を発言したいからなのですが、あるべき姿を語っているところから――委員が教育制度分科会で言われていた話で、これは具体的な話としておもしろいのではないかと思ってお聞きしていたのですが、例えば今言った和漢洋の素養とか、歴史空間軸の中の自分の相対的認識を深めるために、昔からよく100冊の本というアプローチがありますけれども、例えば高校時代に1年間10冊として30冊です。教養課程の大学の時代に、50冊がいいのか、70冊がいいのか、数字の問題は別にして、国がせめて高等教育を受けた人間には、これだけの本をしっかり読んで、1冊ごとにピシッとした簡単なレポートを出させるという強制型のアプローチもありますけれども、そうではなくて、各高校とか、学校ごとに、自分の学校の理念なり思想に根差した、自分の学校にいる限り、この30冊の本をきちんと在学期間に読んでほしいということを、先生たちが知恵を出し合って、高校ごとに個性のある選択でいいと思うから、和漢洋のバランスとか、あるいは歴史の認識を深めさせるために、どういう本を選択するのか、まさに先生の能力そのものが問われるようなものだけれども、そういうものを例えば実行計画として、教養教育の在り方の中から発展した方向づけとして、例えば出す。私は自説にこだわる気はないですから、何もそれだけがいい案だなんて思いませんけれども、例えばそういう具体的な、受けとめた側が〈あ、そうか。今度の中教審はそういうことをやるべきだと主張しているのか〉という部分が何かないと、例えば一般的に言って、なるほどなと思うことがきちんと並んでいて、ペーパーとしては納得いきますねという話で終わってしまうよりは、何か一歩踏み込んだ、ひっかかるものがあっていいのではないかというのが、1点目の私の意見です。 もう一つは、教養教育を進めるために、私はものすごくこだわりたいのは、大人社会の責任というやつです。これは今回一歩踏み込んで、成人の教養について踏み込んでいるところは大変結構だと思いますが、一つだけ気になるのがスタンスなのです。つまり、他人事のように、こういうことをやったらいいのではないですかということが具体的な方策として並んでいるのです。例えば、産業界の取組への支援とか、マスコミへの協力の呼びかけとか、そういう納得のいく案ですけれども、並んでいますよね。その中で、スタンスを、社会的な課題とか、矛盾に立ち向かう大人社会の在り方について、中教審の委員である我々自身ですけれども、どう考えているのかということです。要するに若い人と話していると、この世の中には大した大人がいないと思っているのです。たわいもない中年になっていると思われているわけです。それに対して、たわいもなくない中年が社会の問題に立ち向かっているということを示さなければいけないという考え方を、例えば社会参画とか、地域のコミュニティ活動について、もっと積極的に踏み込んだ、だれかがそういうことを制度設計したらいいのではないですかという話ではないスタンスでの書き方が必要なのではないか。それが私の意見です。 |
| ○ | 木村副会長 今の委員の御指摘で、まず最初のところで、具体的にひっかかるものを出せという点についてです。一つのエクザンプルとして、例えば高校生にこういう本を読ませるとか、具体的な提案を出すという点ですが、実はワーキング・グループの中でも同様の意見がかなり出てきまして、例えば日本アスペンの紹介もありました。日本アスペンの参加者にどういう本を読ませているとか、そういう議論もかなりありました。具体的にまだ入っていませんけれども、その辺のところは今回少し入れる必要があろうかなと思っています。具体的にどういう本だということは、それぞれ意見があって難しいところでありますけれども、委員が御指摘されたような提案をするということですね。その辺のところは考えてもいいのではないかと思っております。 それから、大人社会の責任については、先ほども御発言がありましたけれども、やはり成人のところで書かざるを得ないと思います。子どもたちがこうなったのは、親というか、成人の責任だということを、どこかではっきり書く必要があろう、と思っています。中教審でも、15期が始まったときはそういうことでもなかったのですが、「心の教育」あたりをやっていくうちに、その辺のところが最大の問題だということで、過去のレポートにはかなり書いてあります。今回も、御指摘のとおり、そういうところは多少書くことが必要なのかなと思っております。 |
| ○ | 大変感心いたしましたのは、教養とか、教育というのを今までは学校教育を中心に考えてきたと思いますが、それを国民的な視野と申し上げたら大げさなのかもしれませんけれども、社会全体の問題として取り上げるという視点が、発達段階に応じた取り上げ方の中に如実にあらわれていて、私としては大賛成でございます。学校教育の責任を軽くするという意味合いではなくて、新しい時代における教養教育の在り方という視点がまさにそういうことではなかろうかと、感心し、大賛成ということでございます。 まず、「第3章」の「◇」の1番目の「 次に、意見ですけれども、一つは、先ほど委員からのお話もございましたけれども、現在、学校では新しい教育課程の編成に向けて、更には学校5日制に向けて、様々の創意工夫と準備をしておりますが、基本的には「ゆとり」の中の「生きる力」の育成という観点で取り組んでおるわけで、「ゆとり」の中でという視点、あるいは「生きる力」といった視点からとらえた新教育課程がこの中にもっと入ってきてもよろしいのではなかろうか。特に学校教育については入ってきていいのではないか。 それから、学校教育にとって、完全学校5日制というのは大きな意味合いを持っておりますし、また、それは土曜・日曜における子どもの居場所、活動の場所を学校だけではなくて、地域社会全体で考える、受けとめるという国民的な課題だと思いますので、完全学校5日制にかかわる部分をどこかで入れていただければありがたいということが一つです。 2点目は、第1の段階のところで、「教員の資質の向上」というのを入れていただいているのですが、高等学校の段階でも「教員の資質の向上」は極めて重要でございますので、それも入れていただければありがたいと思います。特に「教員の資質の向上」と関連して、学校評価システムの確立がこれからの学校教育にとっても、社会全体にとっても極めて大きな意味を持っていると思いますので、その部分を青年期における教養教育のところでも取り上げていただければはっきりするのかなということです。 3点目は、6ページのところで「高等学校段階における教養教育の課題」の「具体的な方策」の「ア」の点線の中でございますが、大変すばらしいことが書いてあるのですが、高校生ぐらいになってきたら、自分の選択に対してはきちんとした責任をとるべきだと思っております。高校段階でも過保護、また過干渉、あるいは過放任の面もあるのですが、欧米等の子どもたちに比べても日本の高校生は幼な過ぎる面があります。責任をきちんととれない。そういうことについて、ぜひ考えさせる必要があるだろうと思いますので、点線の中の「将来の生き方や人生について学ぶ機会の充実」の中に、「自由と責任の問題」、あるいは「責任と義務について考えさせる」といったことの文言を入れていただければありがたいと思います。 |
| ○ | 木村副会長 委員の御質問は、「第3節」の「成人の教養の涵養」の「(1) 」の最初の「◇」ですか。これは確かに文章がよくないので、そう難しいことを言っているわけではなくて、もちろん文章をつくるときには直しますが、何回か申し上げておりますけれども、知識と知識を断片として獲得するのではなくて、いかにしてその知識を獲得するかということ、その獲得した知識はいろいろなカテゴリーの知識があるので、それを結びつけるようなものを教養と位置づけようということなのです。前のところにも出ておりますけれども、ここのところの文章は、御指摘のとおり非常にわかりにくくなっておりますので、その辺は工夫をいたします。 |
| ○ | 事務局 1点お願いがございまして、4ページから5ページなのですが、子どもたちの学習意欲が少し薄れていると。私はこれを非常に心配しておりまして、しかも、新しい学習指導要領が出るということで、いろいろ学力への批判もございますものですから。ここで二つ、子どもたちにどう学習のモティベーションを持たせるかということを、もちろん知的好奇心を喚起するのも大事なことだし、学ぶ意欲にこたえるのも大事ですが、それ以外にも幾つかあるのではないかと思っております。 日本の経済は今非常に厳しいわけですけれども、バブルの崩壊に伴って、経済面がおかしくなっているのが一つと、バブルのときに大人がお金万能主義になったので、そのために子どもたちがどうしたらいいかわからなくなったという点があると思います。我々役人も責任があるのでございますけれども、一所懸命勉強して役人になって、しかし、ろくでもない汚職をしたり恥ずかしいことをいっぱいやった。銀行の社長もそうだし、企業の社長もみんなそうでした。子どもたちはイチロー選手や中田選手のようにはなりたいと思うけれども、まじめな銀行員とか、一所懸命勉強して役人になろうという気が今かなり落ちているのです。これは大変なことでございます。そうではなくて、勉強することは苦しいことだけれども、持続的に我慢していく必要があるのだと思います。これから雇用が非常に危なくなってきておりますし、失業率も高まっていくわけで、21世紀に日本がなお繁栄を続けるためには、人々が地道に努力するというか、まじめに勉強するというのか、そういった気持ちを何とか取り戻す必要があると思っております。そういう意味では、子どもたちに学習のモティベーションを持たせる方法なり、知恵を少し中教審で御指摘になると大変ありがたいというのが1点でございます。この点だけちょっとお願いしたいと思っております。 |
| ○ | 私は教育制度分科会に属しておりますので、かなり意見が入っておりますので、言うことはあまりないのですが、ただ、内容は非常にいいのですが、先ほど委員もおっしゃったように、書き方が少し整理されればよくなるのではないかと思います。例えば、すべて物事には基礎・基本があると思いますが、人格形成期の基礎は何か、家庭では何か、初等段階では何か、高等段階では何が基礎かということをはっきりしないと、どこに重点があるのかわからないわけです。つまり、「◇」を見ますと、「必要」とか、「重要」と書いてあるのですが、では「必要」と「重要」はどっちが重要で、必要なのか、わからなくなるのです。中教審委員も、鳥居会長がいらっしゃるから、「あ、会長は鳥居会長だ」とわかるので、これが会長がいらっしゃらないと、だれが会長かわからなくなるわけです。ですから、「◇」の中で、どれが会長なのか、どれが副会長なのかわかるような書き方にすればいいのではないかと思います。それは書き方の問題です。 そのほか、教養教育を高める場合のキーワードが必要だと思いますが、先ほどから21世紀は「知識社会」だと出ているのですが、そうかと思うと、終わりのほうで「品格ある」と。それなら「品格ある知識社会」としたほうがいいのではないかという感想なのです。 そういうことを言い出せば切りがないのですが、簡単に「骨子案」に従って申させていただきますと、細かいことも言いますが、まず第1は、「教養の危機」では、まず教養が危機だということに気づいていないのが問題だということをぜひ書いていただきたいと思います。みんな「教養なんて」と、こう思っていると思います。それが第1点であります。 分科会では国語教育を非常に強調した人がいましたが、いつの間にか古典がなくなっているのです。分科会で出た案には古典とかいろいろあったと思いますが、どうもそれを見落としたような気がするのですが。 2ページの「第3章」の最初の「◇」の「 それから、「 3ページ目ですが、一番下の「具体的な方策」で、「知恵を伝える」とありますが、これはおっしゃっていることはわかるのですが、伝えるのは知識なので、「知恵をつける」ではないかと思います。表現の問題です。 それから、4ページの点線の四角の中の2番目の「・」のところですが、「地域社会における子どもの居場所づくり」とあります。地域社会以前に、家庭に居場所がないのです。子ども部屋というのは居場所ではないので、家庭というのは、一緒にいるというのはあらゆる家庭の共通なのです。それを「ウィズの精神」と昔は言っていたのですが、一緒にいる場所がないので、それをどう考えるのかという問題です。 5ページへいきまして、知的好奇心――小野次官がおっしゃったことですけれども、人間というのは好きなことに没頭するのです。好きにさせれば自然に勉強するのです。理科離れが起きたということは、理科を好きにさせる研究をすればいいのです。これは国語でも、算数でもみんな同じです。ですから、教科を好きにさせる研究をちょっとやったことがあるのですが、それをやると、結局、教師論に落ちつくのです。教師の人格論。これは教え子の中からノーベル賞受賞者を3人出した旧制三高の吉川先生が典型的なのです。その先生のことを調べたことがあるのですが、結局、専門的な知識や技術よりも人間性なのです。そういう意味では、今、理科離れとか、いろいろ問題になっていますが、子どもが勉強しなくなった。だから、子どもから好かれる先生が少なくなっているのに原因があるのではないかと思います。 次の「エ」の点線の中ですが、道徳教育の充実で、「心のノート」云々とあります。ここでどうして奉仕体験学習が出てこないのかわからないのですが、奉仕体験学習の強調というのは、道徳教育強調の突破口だったはずなので、「奉仕」という言葉をどこかに入れていただきたいと思います。 それから、「オ」の「教員の資質の向上」ですが、これは「教員の教養の向上」としたほうがいいと思います。このレポートを読めば、これは教養について書いているのだ。だから、すべての道は教養に通じていることがわかるような書き方にしなければいけないので、「教員の資質向上」と言うと、〈あ、これは教員養成部会でも言っていた。あ、そうか。ハイ、終わり〉になってしまうので、ここは「教員の教養」。同じことは、大学でも、大人でも、大人の教養がないから、子どもがなくなるので。 それから、次の点線の中に、ここで「社会体験研修」云々とあります。学校5日制の話がちょっと出ましたけれども、学校5日制になって、今、一番議論されていないことは、教員はどうするのかという問題。二、三年して、土曜日が休みになっているのに、教員の資質はちっとも向上しないではないかと、教員に批判がくると思います。土曜の使い方を教員は今から考えておかなければいけないのですが。そういう意味で、「社会体験研修」も必要ですけれども、未来を見通した点もちょっと気になるところです。これは特になくてもいいのですけれども。 それから、6ページですが、「◇」がたくさんあって、ここも会長さんがどこかわからなくなりそうなのですが、新しいタイプの高校ができる。これは非常にいいことだと思いますが、今の高校にまだ欠けているものがあるのです。それは新体操ではないですが、新々体操といいますか、もっと新しいものといいますと、今、インターンシップとか、いろいろなものがありますが、逆インターンシップといいますか、就学体験をする高校がないと思います。そういう新しいことをも視野に入れることが必要なのではないか。これも脱線ぎみでありますけれども。 7ページですが、大学のことがたくさんずっとくるのですが、8ページの我が国の大学における教養教育の変遷、アメリカと出てくるのですが、これはここでなくても、資料とか何か付録に回してもいいのではないか。大学のところが、前のまとめになかったからということで、長いような気がするのです。それは感想であります。 10ページですが、下から3行目ですが、「市民としての様々な社会貢献活動を行うことは」云々とありますが、ここでもこれは強いてとは言いませんけれども、「社会奉仕」という言葉を――「社会貢献」のほうがよければそれでもいいのですが、そういう言葉を入れてもらえたらなという気がします。 それから、最後になりますが、これは私は分科会で何度も言いましたが、あまり書かれていないので、もう1回言わせていただいて終わります。先ほど委員もおっしゃいましたけれども、ここで書かれていることは、すべて政府とか、公の機関とか、公民館がもっとしっかりしなさいという、何か依存型の、依存心をますます増大させるような制度をつくれということで、そう言いながら一方では、アイデンティティとか、自己の確立と言っているので、そこのところの矛盾といいますか。最後に依存型の学習から自律型の学習といいますか、委員がおっしゃった「生き物感覚」ではないですけれども、生活を通じた感覚の中で学んでいくのだという、自律型の生涯学習といいますか、そして教養ある人として人生を全うすることがいかに幸せかといったようなことは、これはちょっと文学的になるので書かなくてもいいですけれども、そんな感じでございます。 |
| ○ | 全体に先ほどから皆さんがおっしゃっているのですけれども、私も教養というのはすごく漠然としていて、どんなことが提言されるのかなと思っていたのですけれども、具体的に書かれていて、特に高等教育の部分において、どちらかというと学生たちに聞いたりすると、教養というのは何を学んでいるかよくわからない。それを先生に言っても、先生も「それが教養なんだよ」ということが繰り返しあったみたいな部分で、とても漠然としていて、評価もなされてきていなかったというのがこれまであったと思います。私たち保護者も、今度は安心して教養学部に子どもたちを送っても、そこで子どもたちがきちんと教育される仕組みがしっかり提言されているのではないかということで、そういう部分においては大変心強く思っております。 1点あるのは、3ページのところの下から3行目に、「善悪の判断基準、社会道徳、宗教に対する理解などを育むことが必要」というように、これは「人格的基礎の形成期における教養教育の課題」のところに書かれております。これは教養教育の課題になりますので、たぶん小・中ぐらいまでのことを指しているのではないか、生まれたときからそこを指しているとは思うのですけれども、「宗教に対する理解」という教育をどこでどのようにするのかということが、次のページのところに具体的にあらわして書けない部分もあるのではないかと思うのですが、これは例えば家庭の日常生活の中でも自分たちの宗教観を生かしていくとか、次のページにありますけれども、「エ」のところの「豊かな人間性の基盤をつくる」ということで、様々な体験活動の中にそういうことをはぐくんでいくということなのか。宗教に関するこれまでの御議論はたぶんたくさんあったのではないかと思いますが、そのあたりをお聞かせ願えればと思います。 |
| ○ | 鳥居会長 実は事務局と苦労したのが3ページの下から3行目なのです。そこは全然違う表現だったのですけれども、「宗教に対する理解」という言葉に置き換えたのです。要するに、戦後50年間の学校教育における宗教の扱い方の歴史を、今ここで繰り返して申し上げる必要はないと思いますが、それを考えると、この表現がギリギリなのです。で、こういう書き方になっているのです。 |
| ○ | 木村副会長 前の中教審の時代、梅原猛先生に来ていただいて、宗教のことについてお話しいただきました。具体的に宗教に対する理解をどうすればいいのかという点については、結局、主な宗教についてのアイデアといいますか、そういうものを教えることぐらいしかないのではないかと、梅原先生御自身ですらおっしゃっておりましたので、私どもとしてはそれ以上出られないのですね。周りの状況もありますし、ここのところは消したり書いたり、消したり書いたりで、随分直した結果、こうなったので、いずれにしてももう一度文章にして、それで皆様方の御意見をもう一度伺うということしかないのかなと思っています。今委員のおっしゃったことは私自身はよくわかるし、私がもし独断で書けば、その辺のことを強く書きたいのですけれども、やはり中教審のレポートというと非常に影響力がありますので、その辺のところは正直申し上げて大変苦しいところです。 |
| ○ | 今、木村先生からお話しになれらたことですけれども、その点については非常に苦慮したわけであります。先ほどこれは申し上げたいと思ったのは、委員がおっしゃった同時多発テロ事件ですね。これは異文化理解という意味でそれを取り上げたのではなくて、宗教というのはものすごい力を持っているということが、現実の事件として起きた。そのことがこの中に全く触れられていなかったら、世の中の動きと中教審の答申が何にも関係がないと思われてしまうのではないかということで、同時多発テロ事件が取り上げられたという話があるわけです。ただ、御指摘のようにちょっと誤解されるような表現がありますから。ただ、誤解されるような表現になったのは、宗教がもろに取り上げられないものですから、「異文化理解」みたいな言葉を入れてしまったのです。逆にそれで誤解されてしまったという感じが、私はワーキング・グループでずっと議論をしていてそういう感じがあります。 ただ、木村先生も言いにくそうにおっしゃっていましたけれども、結局、宗教をやらなければいけないと思いながら、書けないのでどうしたらいいだろうかというのは、まだ解決していないわけです。 |
| ○ | 先ほどからほかの委員の方々のお話を伺ったり、これを見たりして、昨日いただいたものに目を通したのですけれども、前回のときと比べて、前回のも非常によくできていたのですけれども、皆さんおっしゃったようにスキームとしてすっきりしてきたなというのがあって、さっきからずっと感心して見ていたのです。 ただ、私、この教養という話になると、何となく居心地が悪いのです。というのは、ここに書いてあることはまさにそのとおりで、教養としてはやらなければいけないと思うのですけれども、ついつい自分を振り返ってみたときに、本当かなというと、どうも居心地がよくないということがあります。何を言っているかというと、先ほどどなたかからお話がありましたように、追いつけ追い越せということで、我々大人がある意味では、これは私だけかもしれませんけれども、こういった教養ということについて、あまり努力を払わないできてしまったということです。 この骨子案を見ると、生まれたときから、そして壮年期云々というふうに、それぞれの生きていく過程において、どういうことをしていけばいいかということをやって、最後に大人になってから、こういったこともする必要があるということが書いてあるのですけれども、それは小さいときからのステップをずうっと踏んでくると、確かに最後のところはそれで非常にいいとは思います。では、私もひっくるめてだと思いますが、今の大人の人たちに、ここに書いてあるようなことをやって、それで若い人たちが尊敬する大人として見てくれるのかと思うと、ちょっと違うのではないか。むしろ逆にこういった教育を受けた若い人たちが、今の大人に対して非常に批判的になる、ないしは非常にがっかりするということがあって。この辺の認識がもしあるならば、もう少し文章の中に入れるか、ないしは今の大人に対する教育について、何か新しいことを考えるかというのを入れてはどうかなと、自分自身を振り返りながら考えておったのです。 具体的に何をするかというと大変難しいのですが、私自身はアスペンというところに行かせていただいて、大変感銘を受けて、もう1回自分で勉強してみたいなということをすごく新鮮に感じたものですから、例えば古典とか、哲学ということを、もう一度我々大人が振り返って勉強し直すとか、そういったようなことが、大学とか、高校だけではなくて、必要なのではないかということを感じました。その辺をもう少し加えないと、何か偉そうなことをいっぱい言っているけれども、おまえさん方大人はどうなのよという反発をもらいそうな気がして、ちょっとコメントをさせていただきました。 |
| ○ | 鳥居会長 日本アスペンのほうもおいでになったですか。 |
| ○ | はい。日本アスペンのほうです。 |
| ○ | 鳥居会長 あれだと本当に和漢洋ですね。 |
| ○ | そうです。あれはまさに和漢洋ですし、中学、高校で同じような本を読んでいるのですけれども、やはり理解の仕方というか、自分自身が感じるという深さが全く違うという意味で、小さいときにこういうことを学ぶのも大事ですけれども、いろいろな人生を経験してもう1回見直すと、私のようなものでも非常に感銘を受けました。 あとアメリカのアスペンのほうに出ているアメリカ人とか、いろいろ会いましたけれども、向こうの経済のエグゼクティブというのは経済至上主義だけではなくて、ものすごく哲学とか、人生観を深く持っているものですから、それはもう一度やる必要があるのではないかという感じはいたしました。 |
| ○ | 私もワーキング・グループのほうに途中から参加させていただいているので、そこで申し上げればいいのかもしれませんが、全体にかかわるので一言発言させていただきます。この中で、あちこちに伝統文化とか、それから日本人としての思考や行動の規範となる我が国の文化とか、国語としての日本語が出てくるのですが、それらが散在しているので、その根本にあるところを考えなくてはいけないのかなと思ったので、先ほどの委員の発言をフォローしたいと思うのです。 今も和漢洋と出ましたけれども、そのうちの和漢の素養に欠けるという話がありました。これは実はそこだけの指摘では困るので、学問として漢学、和学、これが衰えてしまっているわけです。ここのところが問題で、独断で言い方がまずいかもしれませんけれども、明治維新以降のときに和と漢が争っている間に、大学から追い落とされてしまって、洋だけが残ったというのが日本の大学の歴史の中にあるわけです。和魂洋才という言い方をしたこともあります。今また競争原理のもとでやりますと、追い込まれているのは和漢のほうで、ますます追い込まれます。先ほどのような話のときに、学問としてそういうものもこれからやっていかなくてはいけないという警告ぐらい発してもいいのではないかという気がするのです。 例えば、和魂洋才の魂だけではなくて、才のほうでも、思考方法とか、行動様式で、東洋独自のものがあります。西洋のほうは合理性を追求するのに対して、東洋は非合理性を追求するところがあるとか、西洋の学問の場合に実在性をずうっと追求していきますけれども、東洋の場合は常なるものはない、という無常性の追求があるわけです。そういうところを考えると、まとめていただく中で、先ほど申し上げたような学問の追求ということまで一言言っていただいてもいいような気がします。 |
| ○ | 今、和漢というお話が出て、アスペンが出たのでちょっと。私は日本のアスペンセミナーをお手伝いしているのです。中心になっている今道友信先生は日本社会の中での知の巨人と言っていい方だと思いますけれども、その方が日本からある種、アイデンティティを持った形でアスペンをやるのにはどうしたらいいかとお考えになった。もちろんアメリカのアスペンを参考になさったのですが、そこに抜けていたのが、自然生命というアイテムだったのです。教養に関して、認識など、様々なアイテムがあるのですが、自然生命というアイテムが抜けていたので、これは日本では入れようとおっしゃって、私が今そこをお手伝いしているのです。我田引水になりますけれども、和漢といったときの、古典もそうですけれども、現代に持ってきて、また未来へつなぐときは、そのあたりもひとつ強調するところかなと思います。いつもそのことばかり言っていますけれども、その辺を皆さんのお話を聞いて感じましたので。 |
| ○ | 最初にも知的教育ということを言いましたけれども、皆さんの御意見を聞いていても、知識レベルの高さが非常に重要だということがかなり出てくるわけです。確かに知識のレベルが高ければ高いほどいいには決まっているけれども、教養というのは知識のレベルが低いとできないのか。そういう方々でも人間的にすばらしい方はいっぱいいるわけで、その辺をどうとらえるかというのも――何かこれだと全部大学まで行って、知識教育をいっぱい受けて、更に生涯教育を続けないと教養人になれないという感じもするわけです。もうちょっと何か別の教養というのではないけれども、知識レベルにかかわらず育つ教養というものがあるのではないかという気がして、一言申し上げたいと思います。 |
| ○ | 鳥居会長 ありがとうございました。 それではちょうど予定の時間がまいりましたので、最後に木村副会長からまとめていただきたいと思います。 |
| ○ | 木村副会長 大変多様な御意見をいただきましてありがとうございました。先ほど申し上げましたように、あと2回ほどワーキング・グループを開催し、また分科会をやって検討してまいりますが、ちょっと恐れていますのは、私は過去に骨子案から文章を起こしていく経験を随分したのですけれども、今日、委員からメリハリの問題の御指摘がありましたが、文章にするともっとメリハリがなくなってしまうという恐れがあるので、その辺をどうするかが頭の痛いところです。 それから、これは大変申しわけない申し上げ方かもしれませんが、こういうことが抜けているという御指摘が例えば分科会であるのですが、中教審の過去の私の経験では、必ずどこかに書いてあるのです。ただ、それがその委員が御発言になって、ここにあればいいという場所に書いていないというケースがあって、そういう意味で、コンセンサスを創り上げていくのがなかなか難しいと思いますが、とにかく少し頑張って、今日の御意見等を参考にして文章づくりをしたいと存じます。 先ほど委員から、教養の危機について、教養の危機を認識していないところが問題だという御指摘がありましたが、私はちょっと違っているのではないかと思っているのです。といいますのは、私どもの機構の、大学評価で、教養教育について2年がかりで評価をやっています。全国の大学で調べてみますと、大学審議会の大綱化の答申が出たのは平成3年です。その後、あわてて各大学教養教育をいじったのですが、そのときよりも平成9年とか、10年のほうが、はるかに教養教育について手がついているのです。特にインセンティブといいますか、外からのプレッシャーはなかったにも拘わらずです。教養教育に対して今、大変な勢いで手直しが行われているということは、大学レベルでは教養教育に関して危機感があるということだと思います。いろいろ新しい考えを持って改革に取り組まれているようです。その意味で、危機感というのは結構各大学お持ちになっているのではないかという気がします。 |
| ○ | 国民的なレベルででしょうか。 |
| ○ | 木村副会長 もちろんそうではないでしょうか。高等教育に携わっている人たちがそれを感じているということは、前に比べると国民レベルでもそういうことが心配されていることを大学で気がついているのではないかという気がしております。 それから、さっき委員がおっしゃったことは、100%と申し上げていいくらい賛成でありまして、中教審等でも自然とのかかわりとか、そういうことをずっと言ってきております。確かにこのレポートでは、その辺のところが少し希薄になっているかなと思いますので、その辺のところも加えて書かせていただければと思っております。 それから、先ほど、肝心なところを何点か御説明をし損なったのですが、今までに書けなかったようなことも書いてあります。例えば9ページの「(3)」の上の「◇」でありますが、「寄り道」ということです。これは山梨大学の工学部がそういう発表をして、世の中から大変好感をもって受け取られておりますけれども、こういうことは今まで中教審ではなかなか書けませんでした。寄り道してもいいではないかということです。その辺のところも入れていこうかと思っております。 いずれにいたしましても、大変多様な御意見をいただきましたので、これをもとにまた事務局と鋭意修文をしたいと思います。よろしくお願いいたします。 |
| ○ | 鳥居会長 ありがとうございました。 大変貴重な御意見をたくさんいただきまして、この後、木村先生からお話がありましたが、あと2回のワーキング・グループ、それから分科会、そこで今日の御意見をできるだけ吸収させていただいて、最後にでき上がってくる新しい提言ができるだけすばらしいものになるように努力したいと思います。また、タイトルにつきましても検討していただくことにいたしますし、それから発表の仕方についても、委員からお話がありましたように、十分に国民に対する理解を求めながら進めていくことを考えたいと思います。そのようなことでこの後、進めさせていただきます。 今後の日程について、事務局からお願いいたします。 |
| ○ | 事務局 次回の中央教育審議会総会の日程でございますけれども、現在、調整中でございますので、決まりましたら、できるだけ早く先生方にお知らせすることにしたいと思っております。以上でございます。 |
| ○ | 鳥居会長 ありがとうございました。 それでは、これにて今日の総会を終わらせていただきます。ありがとうございました |
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