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東日本大震災を受けた防災教育・防災管理等に関する有識者会議(第1回) 議事録

1.日時

平成23年7月21日(木曜日)15時30分~17時30分

2.場所

文部科学省16F特別会議室

3.議事録

 【石田課長補佐】  本日はお忙しいところお集まりいただきまして、まことにありがとうございました。時間になりましたので、東日本大震災を受けた防災教育・防災管理等に関する有識者会議の第1回を開会させていただきます。
 本日、座長が選出されるまでの間、進行を務めさせていただきます、学校健康教育課課長補佐の石田と申します。よろしくお願いいたします。座って進行させていただきます。
 まず開会に先立ちまして、本会議の公開、非公開の取り扱いについてですけれども、本会議は非公開とする事由もないかと思われますので、特段の支障がない限り原則公開とさせていただきます。なおカメラ撮影につきましては、議事に入るまでの冒頭のみとさせていただこうと思っております。
 それでは、開会に当たりまして文部科学省スポーツ・青少年局長の布村より、あいさつをさせていただきます。

【布村局長】  皆さん、こんにちは。学校安全教育あるいは防災教育を担当しておりますスポーツ・青少年局の局長をしております、布村と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。
 またこのたびは、東日本大震災を受けた防災教育・防災管理等に関する有識者会議を開催させていただきましたところ、皆様方には委員のご快諾をいただき、ほんとうにありがとうございます。またご多忙中のところ、本日第1回目にご出席いただきましたことを、重ねて厚く御礼申し上げたいと思います。
 ご参集の委員の先生方には、また日ごろから各部署で、防災教育あるいは学校安全の普及、充実にご尽力いただいておりますことにつきましても、厚く御礼申し上げたいと思います。既に3月11日に発生した東日本大震災を受けて、皆様方もそれぞれのお立場で、被災地で防災教育の取り組みはこれまでもしてきていただいておりましたけれども、震災後におきましてもいろいろな形でご指導いただいておりますことも、感謝申し上げたいと思います。
 これまでにも大きな地震あるいは大きな津波がございましたけれども、不幸中の幸いと申しますか、学校の管理下にはない時間帯が多くございましたけれども、今回の大震災におきましては、大きな揺れ、津波において児童生徒の被害も大きいものになったという実態がございます。その中でもいろいろなキーワードが、これまでの防災教育が実際の震災の場でどのように生きてきたのか、生かされたのかというよい点、あるいは問題、課題のあった点が多々、我々も認識いたしておりますけれども、先生方の幅広いご知見をいただいて今後の防災教育、避難訓練をより実効性の高いものに、あるいは実質的にその場で生きるものに、あるいは児童生徒がほんとうにその場で判断して行動できる力をいかに、今まで以上にしっかりと、防災教育あるいは避難訓練を通して身につけていくにはどうしたらいいのか、そういう大きな課題が今生じていると認識しているところでございます。
 そのため文部科学省におきましては、今般の震災の教訓を、次代を担う子どもたちに伝えるとともに、児童生徒の危険予測あるいは危険回避能力という、実践的な力をいかに高めていくかということを、ぜひご議論、方向性をまとめていただきたいということで、この有識者会議を設置させていただいた次第でございます。
 これまでも授業において活用する防災教育の教材ですとか、教職員向けの参考資料というものを文部科学省において作成をし、全国の小、中、高等学校などにも配布させていただいて、地震など自然災害に対する備えと、安全のための適切な行動の仕方についてお示しさせていただいたところでございます。これらの教材あるいは指導資料におきましても一通りもう一度、今回の震災をもとに見直しを図りながら、1点目としては学校における防災教育の内容の充実にどうつなげていくのか、2点目として避難経路や避難マニュアルなどの学校における防災管理体制のあり方をどのように見直していけばいいのか、3点目としては教職員の安全指導、震災時、災害時における安全指導力をいかに実践的なものにしていくのかという向上方策、これらの課題が今生じているものと思っているところでございますので、これらの点につきまして精力的なご審議をいただいて、全国の学校におけるさらなる防災教育の充実につなげていきたいと考えているところでございます。
 委員の先生方におかれましては、この趣旨をご理解いただき、忌憚のないご意見を幅広くお寄せいただき、我が国におきます防災教育、防災管理というものの充実につながりますようご指導をよろしくお願い申し上げまして、第1回の開会に当たりましてのごあいさつとさせていただきます。どうぞよろしく願いいたします。

【石田課長補佐】  それでは続きまして、本日ご出席の皆様をご紹介いたします。
 まず有識者の先生方でございますけれども、東北工業大学共通教育センター教職課程部教授、小川和久委員でございます。

【小川委員】  東北工業大学の小川でございます。よろしくお願いします。

【石田課長補佐】  次に、兵庫県立舞子高等学校環境防災科長・教諭、諏訪清二委員でございます。

【諏訪委員】  環境防災科の諏訪と申します。よろしくお願いします。

【石田課長補佐】  次に、独立行政法人防災科学技術研究所アウトリーチ・国際研究推進センターアウトリーチグループリーダー、関口宏二委員でございます。

【関口委員】  防災科学技術研究所の関口と申します。よろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次に、聖徳大学大学院教職研究科准教授、原本憲子委員でございます。

【原本委員】  聖徳大学の原本でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  原本委員は所用のため17時ごろにご退席ということで伺っておりますので、よろしくお願いいたします。
 次に、上越教育大学大学院学校教育研究科教授兼上越教育大学附属中学校長の藤岡達也委員でございます。

【藤岡委員】  上越教育大学の藤岡です。よろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次に、板橋区立高島第一小学校長の矢崎良明委員でございます。

【矢崎委員】  矢崎でございます。よろしくお願いします。

【石田課長補佐】  次に、東京学芸大学教授の渡邉正樹委員でございます。

【渡邉委員】  東京学芸大学の渡邉です。よろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次にオブザーバーを紹介させていただきます。文部科学省大臣官房文教施設企画部施設企画課の金光謙一郎課長補佐でございます。

【金光課長補佐】  どうぞよろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次に、生涯学習政策局社会教育課地域・学校支援推進室、西條英吾室長補佐でございます。

【西條室長補佐】  西條でございます。よろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次に、初等中等教育局教育課程課教育課程企画室、真保洋室長補佐でございます。

【真保室長補佐】  真保でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次に、初等中等教育局、廣野宏正参事官補佐でございます。

【廣野参事官補佐】  廣野です。どうぞよろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  それから到着がおくれてございますけれども、研究開発局地震・防災研究課防災科学技術推進室の富田浩之室長補佐でございます。
 次に、気象庁総務部企画課、松村崇行防災企画調整官でございます。

【松村企画調整官】  松村でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  また本日は東日本大震災関係者からのヒアリングを予定しておりますけれども、そのヒアリング対象者の方々をご紹介いたします。
 まず宮城県柴田町立船迫小学校、小川仁志教諭でございます。

【小川教諭】  小川と申します。震災当時は山元町立中浜小学校の教員でした。よろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次に、宮城県南三陸町立戸倉中学校、谷山知宏教頭でございます。

【谷山教頭】  谷山です。どうぞよろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次に、前仙台市教育委員会の指導主事でありました、文部科学省生涯学習政策局、長田徹係長でございます。

【長田係長】  長田でございます。よろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  最後に、私ども事務局の紹介をいたします。先ほどごあいさつさせていただきました、スポーツ・青少年局長、布村幸彦でございます。

【布村局長】  よろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次に、スポーツ・青少年総括官、有松育子でございます。

【有松総括官】  有松でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次に、スポーツ・青少年局学校健康教育課長、平下文康でございます。

【平下課長】  よろしくお願いします。

【石田課長補佐】  次に、同学校健康教育課安全教育調査官の佐藤浩樹でございます。

【佐藤安全教育調査官】  佐藤でございます。よろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  次に、学校健康教育課健康教育調査官の岩﨑信子でございます。

【岩﨑健康教育調査官】  岩﨑でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

【石田課長補佐】  最後に、今日の進行をさせていただきます石田でございます。よろしくお願いいたします。
 それでは次に、この有識者会議の座長を、有識者の皆様の互選により決めたいと思います。有識者の皆様から、どなたかご推薦をいただけませんでしょうか。

【矢崎委員】  東京学芸大学の渡邉先生にお願いできればと思います。

【石田課長補佐】  ありがとうございます。
 ただいま渡邉教授のご推薦がありましたけれども、ほかにございますでしょうか。もしないようであれば、渡邉教授に座長をお願いしたいと考えますけれども、いかがでしょうか。

(「異議なし」の声あり)

【石田課長補佐】  ありがとうございました。
 それでは渡邉座長に席の移動をお願いしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

(渡邉委員、座長席へ移動)

【石田課長補佐】  それではこの後の進行は渡邉座長にお願いしたいと思いますが、渡邉座長より一言ごあいさついただいた後、議事進行をお願いしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

【渡邉座長】  ただいま座長を仰せつかりました渡邉です。どうぞよろしくお願いいたします。

 東日本大震災が発生しまして4カ月余りとなります。復興に向けて課題が山積しているところですけれども、これは学校も例外ではございません。我が国では安全教育、特に防災に関しては、世界でも最も充実した教育を推進している国だと思いますが、今回のような大震災では、また新たな課題も見えてきたと思います。
 この会議では、これからの日本の学校、児童生徒、そして教職員の安全を守るために何をすべきかということについて、新たな道筋をつけていきたいと考えております。どうぞご協力のほどお願い申し上げます。
 それでは、議事に入る前に本日配付しております資料の確認を、事務局よりお願いいたします。

【石田課長補佐】  それでは、本日配付しております資料の確認をさせていただきます。
 右上にございますように、資料1が「東日本大震災を受けた防災教育・防災管理等に関する有識者会議」の設置要綱でございます。またその下を2枚めくっていただきまして、資料2といたしまして、東日本大震災における学校の被害状況等でございます。その後、資料3といたしまして、防災教育についての文部科学省の取り組み例、2枚後に資料4といたしまして、本有識者会議における主な論点(例)、最後に今後のスケジュール(予定)ということで資料5をつけてございます。一つにまとまった資料ということでつけてございますけれども、何か足りないもの等がございましたらご指摘ください。
 それから、机上にこの青いリーディングファイルを用意してございます。こちらには学校安全に関する法律でありますとかその他関係資料等々、ご議論の際に使っていただくような資料もございますので、適宜お使いいただきましてご議論を進めていただければと思っております。よろしくお願いいたします。

【渡邉座長】  資料のほうはよろしいでしょうか。
 それでは議事に入りたいと思いますが、その前に本有識者会議について、設置の趣旨や会議での主な論点について、事務局よりご説明をお願いいたします。

【石田課長補佐】  それでは、先ほどの資料に従いましてご説明させていただきます。
 まず資料1、本会議の設置要綱でございます。皆様には事前にお配りしているかと思いますけれども、本会議では、先ほどのあいさつでもさせていただきましたように東日本大震災における学校での経験、これを次代を担う子どもたちに伝えるということとともに、児童生徒等の危険予測、危険回避能力を高めるための防災教育、防災管理を見直すための調査・審議を行っていただくということでございます。
 主な調査・審議事項は、東日本大震災の教訓を踏まえてということで、具体的な事項例を4つほど挙げてございます。1つは学校における防災教育・防災管理等に関する課題の分析、1つは学校における防災教育・防災管理、特に避難訓練、避難経路等の見直しに関する部分、それから災害発生時における教職員の安全指導の充実、さらには学校における防災教育・防災管理等に関する国の施策のあり方、ということで考えてございます。
 委嘱の期間ということで3月31日までとしておりますけれども、必ずしもこれにこだわらず、報告がまとまった段階でご報告をいただくというようなことを事務局としては考えております。なおこの会議の庶務は、学校健康教育課で行わせていただきます。
 2枚目に有識者会議の名簿でございますが、本日ご出席されておられない方もございますけれども、ごらんいただければと思います。
 次に、資料2でございます。今回の東日本大震災における学校の被害状況等、ごくごく簡単ではございますけれども、まとめさせていただきました。
 まず地震情報ということでございますけれども、本地震はご存じのとおり平成23年3月11日14時46分ということで、三陸沖で、マグニチュードは計算し直しまして9.0に引き上げられたというふうに承知しております。規模としては平成7年の兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災のもととなった地震の約1,400倍の規模ということでございます。
 その下に、各地の最大震度ということで表にまとめてございます。余震も含めて強い地震が何度も発生したということが、ごらんになれるかと思います。なお番号を振ってございますけれども、1-1とありますのが本震でございまして、それ以外は余震ということで、さまざまな余震が発生しておりますので、それも含めて表に整理してございます。
 めくっていただきまして、津波の関連情報ということで少しまとめさせていただきました。岩手県、宮城県、福島県において大津波警報が、北海道から千葉県外房にかけての太平洋沿岸、伊豆諸島に津波警報が発生されたのが3月11日14時49分でございまして、地震発生の3分後には津波警報が出されたという状況でございます。
 実際の観測情報ということで発表されたものが下にございますけれども、先ほど申し上げた14時49分の津波警報が発表された段階で、既に第1波が到達しているところが幾つかごらんになれるかと思います。また右側にそれぞれの地点の最大波を整理してございますけれども、8メートル以上の最大波が来るまでにかかる時間は30分程度、短いところですと大船渡は15時15分でございますけれども、警報から24分で到着するというような状況もございます。また相馬や大洗につきましては1時間後、あるいは2時間後に到着するということで、短く津波が起こると同時に、時間がたっても大きな津波が接近するという状況も見てとれるところでございます。
 おめくりいただきまして、文部科学省関係の人的被害ということで、文部科学省において把握をしているものでございます。本来ならばこの原因とか状況がわかればいいんですけれども、なかなか文部科学省ではそういった状況が把握できないということで、人数でのご紹介でございます。
 ごらんいただきますように、集中しておりますのは岩手、宮城、福島で、国公立、私立学校、なべて被害が出ているということでございます。表の一番下のほうに学校種別ごとの人数の内訳がございますけれども、幼、小、中、高といったあたりの被害が大きいということ、それから社会教育・体育、文化施設等々でも若干被害が出ているということでございます。
 今回、こういった被害が起こらないために防災教育は何ができるかというご議論をいただく出発点ということで、お示しさせていただきました。
 次に資料3ということで、防災教育について文部科学省がどういう取り組みをしてきたかということを、簡単にまとめさせていただきました。
 1つは、言うまでもなく学校における防災教育でございます。学校における防災教育は、そこにありますように、心身の発達段階に応じて地震等の災害時に安全な行動ができるような態度を身につける、これをねらいとしております。そして体育、保健体育、特別活動が中心になりますけれども、家庭や地域と連携を図りながら、学校教育全体を通じて行われると。この学校教育全体を通じて行われることが一つのポイントでございまして、新しい学習指導要領にも、こういった観点から防災教育の充実が図られたところでございます。
 2つ目として、文部科学省の取り組みを紹介させていただいております。
 文部科学省の取り組みは大きく分けて、1つは指導資料でありますとか教材の作成、配布、もう1つは防災に係る指導者の研修という2つの柱になってございます。1つ目につきましては、3つの例を挙げさせていただいておりますけれども、各学校における安全指導の進め方等に対する教師用の指導資料の作成、配布でございます。防災教育については、平成10年に防災教育の参考資料を配布してございます。また学校安全参考資料ということで、防災教育に限らず学校安全、防犯、生活安全等も含めた広い資料ということで「『生きる力』をはぐくむ学校での安全教育」というものを平成22年3月に改訂しておりまして、これが基本的な学校安全の資料ということで、我々としては考えているところでございます。
 それから、2つ目にご紹介しておりますのは防災教育教材ということで、小学校、中学校、高校の児童生徒の教育に使うための教材でございます。「災害から命を守るために」ということで、CD、DVDを作成してございます。
 また最後に教職員向けのDVDということで、ごらんのような2つのDVDを作成し、配布しているところでございます。
 めくっていただきまして、もう1つの柱でございます防災教育に係る指導者の研修ということでございます。こちらも中身2つございまして、1つは学校安全教室の推進でございますけれども、これは各学校で防災教育の講師となっていただく教職員の方を対象にした講習会を、各都道府県レベルで実施していただくと。それについて文部科学省が財政的な支援を行うということでございます。心肺蘇生法等の実技講習等も実施しているところでございます。それからもう1つは、学校安全教育指導者研修とございますけれども、独立行政法人であります教員研修センターとの共催で、各都道府県で指導的な役割を果たす、つまり先ほど申し上げた各県での研修の指導者となる、そういった指導的な役割の方々、防災教育担当主事等を対象とした研修会を実施しているところでございます。
 以上、雑駁ではございますけれども、文部科学省の施策をご紹介させていただきました。
 最後に資料4でございます。資料4は本有識者会議における主な論点ということで、事務局のほうで幾つか例を挙げさせていただきました。先ほど申し上げた調書事項例に沿った4つのポイントで、少しブレークダウンしたものを書いてございます。ごらんになっていただければと思うんですけれども、今回議論していただくために何もないということでは議論しにくいということで、あくまでも例示させていただいたものでございますので、議論の流れに応じてご参考にしていただければと思いますし、別にこれに沿わない論点を挙げていただくのは、事務局としては非常にありがたいことだと思っておりますので、そういうものとしてごらんいただきながら、ご議論を進めていただければと思います。
 事務局からは以上でございます。

【渡邉座長】  ただいまのご説明につきまして、ご意見、ご質問、何かございますでしょうか。よろしいでしょうか。
 それでは先に進めさせていただきます。今回の会議では最初に、今日ご出席いただいています震災関係者の方々からご意見を伺いたいと思っております。3人の方のご意見を続けてお伺いした上で、質疑応答の時間をとりたいと思います。
 それではまず小学校関係者として、小川先生からよろしくお願いいたします。なお小川先生には前任校の、先ほどお話しいただきましたけれども、山元町立中浜小学校での現状についてご説明をお願いしております。どうぞよろしくお願いいたします。

【小川教諭】  では、資料を用意してございますので、ごらんいただきながらお話をしたいと思います。
 改めまして、現在は柴田町立船迫小学校で教員をやっております、小川と申します。3月11日の被災時には、山元町立中浜小学校で教諭をやっておりました。現在も中浜小学校での残務整理等ありますので兼務発令はしていただいていて、実際は船迫小学校で学級の担任をしておりますので、残務整理のときに行くというような形で勤めております。
 今回用意したのは中浜小学校での経験からということで、3月11日の後、常に何ができるんだろうなとか、何をすべきだろうなというふうにずっと考え続けてきたことも含めながら、お話をしたいと思います。
 今日私がお話しするのは、宮城県の県南の沿岸部にある山元町立中浜小学校でのお話です。当時私は6年生10名の担任をしておりました。中浜小学校で、私はこのとき7年目が終わる、丸7年いるところでしたので、大体それまでどういった取り組みをしてきたのか、避難訓練をどのようにしてきたのかとか、そういったこともお話しできるだろうということで、今回ここでの機会をいただいているのかなと思います。
 中浜小学校は震災当時、在籍児童が59名、職員14名おりましたが、もちろん引き渡しで帰っていった子どもがいたり、職員も当時出張とか、そういったことで別れていましたけれども、結果的にそのとき在籍していた59人と職員14名は、屋上に待避したり、引き渡し後に2次避難所で確認できましたという子どもがいたりして、全員無事が確認できました。ただお身内の方がお亡くなりになったりとか、地域の方をたくさん失いました。
 私のお話しできるのは、3月11日の動きと、その後の2次避難所での4月初めまでのお話です。その後はほとんど船迫小学校におります。
 この資料をつくるに当たって、中浜小学校の現在の校長先生とも話し合いを持ったりしたんですけれども、強く感じるのは、最善の話ではありません。ただ、最善は尽くしただろうなというところは一致しております。ですので、こうすべきとかいうお話ができるかどうかもちょっとわかりません。
 それと、あのときの居場所と立場によって、見えたものとか考えたことなどは違うということがわかっています。私は教員で6年生で授業中、でもそのとき管理職だった校長先生がなさった判断だとか、居場所、屋上にいた人、私は引き渡しの中継役をやっていたので下にいたり、見えたものも全然違って、話をするたびに「ああ、そんなことあったの」なんていうのがまだ出てくるところですので、そのすべてを統合したお話ができるとも思っていないです。その辺を含みおきください。
 これが3月11日の17時ごろの上空からの写真でした。資料がありましたので、そちらのほうを挙げさせてもらっていますが、これが中浜小学校で、これは北から南のほうを写している写真です。こちらが福島県の相馬の火力発電所、こちら側が仙台空港とか北のほうになると思うんですけれども、海のラインがここです。ここにずっと防潮林がありました、堤防もありました。ここに小浦という川がちょっとあったりして、一応資料には17時ごろの撮影とありましたので、この時点でこういう状況でした。今写っている水浸しになっているところ、この辺はもうすべて学区です。なので、もうほとんど建物は残っていない状況です。私たちはこのときこの屋上で、一晩過ごすことを決めていたところでした。
 大まかに言うと、屋上に待避しました。で、津波はどこまで来たかというと、ここのラインでした。これは後日撮影したものですけれども、このガラスまでが全部割れていて、水が抜けていて、ここの屋根がわらがちょっと傷ついているということは、こちら側が東側でしたので、こちらから波が来て、最初の一番でかいのはここにぶつかったということだと思います。ただ、ガラスの多い学校だったものですから、ほとんどの水が抜けていきました。これは南側からなんですけれど、向こうの裏手の北側は吹き抜けの部分があって、ずっと1階、2階とガラスがあって、これは震災前の写真ですけれども、後日ここにほとんどの瓦れきとかがたまったり、向こうに抜けていった水がありましたので、屋上に避難していても、水が上に上がってくることはなかったということです。
 ちょっとわかりづらいんですが、いわゆる普通のと言ったらあれですけれど、平らな屋上ではなくて屋根があって、どこに屋上があるのかというと、これは上空写真ですけれども、ここの部分がその平らな部分です。この屋根がかかっているところが倉庫になっていて、学芸会の備品だとかそういったものを入れてありました。この屋根がかかっているということで、私たちは随分、ある程度ましな状況で一晩過ごすことができました。
 ご存じない方もいるかなと思って一応用意しましたが、中浜小学校は、ちょっと近過ぎる地図ですけれども、この辺です。ここからはもう福島県で、この辺が仙台空港となっています。
 地震発生から救出までの大まかなお話ですが、14時46分に巨大地震発生。「私の記録から」とあるんですけれど、私たちも一応時間は確認したりはしていたんですけれども、後から思い出したところがあるので、この後の時間とかはちょっと不正確な部分があったりするかもしれません。
 地震が発生した後、テレビがつきました。テレビが落ちなかった、それと停電にならなかったということがあって、14時50分にすぐテレビはつけたんですけれども、テレビからの情報でもう大津波警報が出ていると、既に到達したところもありますが10分後に、一応15時到達という予想が出ていました。実際のところは、先ほどの資料なども拝見するとやはりそうなんですけれども15時50分ごろ、一番近いのが相馬ですので、相馬の資料の高さ7メートルとかそういうのと一致するのかなと思いますが、10分後という情報を聞いていましたので、屋上待避を決めました。
 結果的には15時45分ごろだったと思いますが、第1波が来ました。第1波は校庭ぐらい、1メートルぐらいだったと思うんですけれども、その後第2、第3、第4波と私たちの話の中ではなっているんですけれども、もっと高いのが来て、さっきのあの高さまでやってきました。で、一気にやってきた後に、大体大きな波がおさまったかな、何とか助かったかなと思ったのが4時10分ぐらいだったと思いますが、当然このままではもう第2次避難所には行けないので、屋上泊を校長が決定しました。翌日6時ごろ、自衛隊のヘリに発見していただいて、児童は当時59名の在籍でしたが、1人がたしか早退をして1人がお休み、ただお休みをしていた子は避難してきていたので実際は58名、でもその後引き渡したのが6名で、とかいうふうに数えていくと、多分児童は52名、職員とそこに地域の方々も避難していたので合計で約90名が、屋上で一晩を過ごしました。これが翌日の朝の情景で、もう周り、この辺家があったんですけれども、全部真っ平らになっていました。
 多分ポイントになるだろうと思うんですけれども、私たちが屋上待避を決めるまでは、まずこれまでの訓練どおりということが一つ挙げられます。あれだけ海に近いので、津波を想定した訓練は毎年行っておりました。宮城県沖地震を想定した避難訓練では、大体50センチから1メートルの浸水域ということになっていましたが、周囲がずっと真っ平らなものですから、第2次避難所の坂元中学校というところがあるんですが、そこまで低学年の子たちを連れて歩いていくと、20分は絶対かかるということが事前にもうわかっておりまして、実際に私たちも歩いてはかってみたりとかしましたので、さっきのテレビがついたというのはほんとうに大きかったと思うんですけれど、10分後だと言われたので、これは上だということはもう共通理解されていました。
 当時、3年生以上は授業中でした。授業中の子たちはもう訓練どおり、地震があったときには机の下に入って、防災ずきんをかぶって、1、2年生は上級生の子たちを待って校庭で全員残って遊んでいました。そこにたまたま担任の先生もいたりとかしたので、校庭にいた子たちは校庭の真ん中にさっと集まって、しゃがんでいました。そこで津波警報が出ているのが見えたので即断し、10分後に大津波が到達との情報だったので、校庭で遊んでいる子たちとか1階にいる子たちは、まず校庭で点呼というのがこれまでの訓練でしたけれども、2階で点呼をするということで、子どもたちの確認をしました。その後、津波の到達の高さがどんどん上がってきたのがわかりましたので、これではもう2階でも危ないということで、子どもたちは屋上へ。そこに地域の方たちも随分集まってきましたが、やはり「車で待ってっからいいよ」とか「外で待ってっから」なんて言う方も結構いらっしゃったんですけれども、津波を避けてやってきているのに、それではと、せっかくですから屋上行ってくださいというふうにして、来た方はほぼ屋上へ誘導できたと思います。
 で、実際は1時間の間がありましたので、屋上の寒さに震えている子たちをそのままほうっておけないので、防寒着を用意したり、子どもたちは防災ずきんを全員かぶっていたので、私たちと随分暖かさが違ったんですね、それが一晩過ごせたことにもつながっていると思うんですけれども、先生たちで防寒着を子どもたちの分全部取ってきたり、そのとき防災ずきんから離れた場所にいた子たちのは、全部先生たちが持ってくるようにして、屋上で過ごしました。トイレの心配などもいろいろありましたが、そこも何とかしました。
 それまでの中浜小の訓練は、津波を想定した避難訓練を年に1回実施していました。毎年職員が入れかわるたびに、職員会議で確認と議論になるんですね。私は7年前からいたので毎年その議論に参加しているんですけれども、20分かかる坂元中学校へ行くべきか、それとも上へ上がるべきかということです。それと逃げ方。もう先生たちの車に全部詰め込んで、行けるだけ行っちゃって、あと足りない人たちは走らせたらいいんじゃないかという話も、毎回出ました。でもそれが出るたびに、途中で津波にのまれちゃったらどうするのという話、それと道路は寸断されているんじゃないか、車で行ってもそのとおり行けるとは限らないというのが毎回議論になり、そのときはそんな高さが来ると思っていなかったので、屋上へ行って心配していたのは、孤立を心配していました。絶対孤立するということがわかっていたので。ですので屋上だと、危ないからではなくて孤立をしてしまうということで、どうかなということで毎年議論されていたんですけれども、その議論が結局、職員が共有できるというんですか、この場合はこうだね、20分だとこうだねという話し合いになったりしましたので、職員で随分共有されていたということは言えると思います。このときは管理職、校長先生がいらっしゃって、校長先生が決定しましたが、これも後日の話し合いで、もし校長先生がいなかったとしてもきっと同じように即断していたよねというのが、職員たちの中では話になりました。これが津波のとき屋上に行く鍵だよというのも、ここと、一番目立つところに置いてあったりとかもしました。
 防災ずきんは全員にかぶらせておくとか、これは地震対策ですけれどもテレビはビスで固定されていましたし、結構頑張っていたので、地震で校舎は、窓ガラスも1枚も割れませんでした。教室の中でけがしたという子もいませんでした。
 さっきの屋上ですけれども、上空から見るとこんなところでした。中庭があって、そこを囲むように平らな部分があって、屋根がかかっているところに幾つかの扉がついていて、そこが倉庫になっています。そちらの左側が倉庫で、学芸会用品があったので、段ボールを引きちぎって床に敷いたり、結構暖かい物がそれなりにあったり、とにかく使える物は何でも使おうといって、これは後日撮ったんですけれども、そのときに散らかしたままです。屋根がかかっていて外が見えないというのも、一つポイントだったと思います。
 屋上での動きですが、津波を何とかやり過ごして大丈夫だぞといったとき、一番心配されたのはトイレの設置。これは学芸会用品が何とかなってくれたりしました。幾つかのスペースに分かれていたので、トイレというのを設置できました。電気がなくなりましたので、明るいうちに暖をとりながら寝る準備を、子どもたちと一緒にしました。できるだけ詰めて、下にこれを敷いて、発泡スチロールを全部ちぎって、「これ、首に巻け」とかいう話をしました。
 その後、結構引き波が早かったので、使える物の捜索に行きました。2階の教室に残っていたブルーシートが幾つか、役に立ちました。最初はそのブルーシートをかぶって寝かせる状態でした。
 町の役場と坂元中学校へ無事の連絡が、すぐにはつながらなかったんですけれど、できました。ですので保護者の方たちにも、ある程度お子さんたちの無事は伝わっていたと思います。
 懐中電灯は職員室から取り出せませんでした。ただ、地域の方と職員で持っている人がいたので、2本ありました。情報はラジオと携帯のワンセグで、大体周囲の状況がわかって、これで随分また安心材料があったのかなと思います。
 この夜に、坂元中学校という歩いて20分離れたところから、お父さんたちが決死隊で、夜、真っ暗な中やってきました。ということはつまり、行けるんだねと、次の日夜が明ければあそこまで歩いて行けるという判断材料になりました。
 次ですけれども、奇跡的に見つかった毛布というのは、体育館が何か別の避難所になったとき用にということで、体育館に毛布が置いてありました。もう絶対無理だろうと思ったんですけれども、真夜中にどうしてもこの寒さは無理だろうということで何人かが探しに行ったら、奇跡的にありました。後で聞いたら、置いてあったところの天井が落ちて流されなかった、しかも真空パックに入っていたということで、ぬれていなかった。約50枚見つかって、90人いたので2人で1枚、これで随分助かりました。
 子どもたちのケアという意味での話ですが、津波を見せなかったです。つまりあの屋上の平らなところに最初は避難していたんですけれども、この津波を見せてはいけないだろうという判断で、この中にもう全員入れてしまいましたし、私たちも入りました。一番かぶったときのやつは私も見ていません。ですので、子どもたちはあんまり津波を見てのうなされとか、そういうのはないと思います。
 翌日、行けると思ったので先遣隊が何人か、坂元中学校までのルートを夜明けとともに探しに行った人たちがいます。もちろん子どもたちに見せたくない物がないかということもあってのことですし、靴を履かずに上に上がった人とか、目の見えない方がお1人、地域の方が上に上がっていたので、ちょっと歩いて行くのはどうかねなんていう話を、屋上ではしていました。
 もうこの後は避難所での話になるんですが、翌朝、自衛隊機に発見され、夜明けとともにその自衛隊機でピストン輸送されました。で、後は坂元中学校での、避難所でのお話になるので、多分ここはメーンにはならないかなと思います。
 避難所で一つだけお話しするとすれば、私たちは運営者側ではなかったというんですか、中学校の先生たちはほぼ運営者だったんですけれど、私たちはそこに身を寄せさせていただき、でも立場上やはり運営者にもなって、50%運営者で50%避難者であったために、地域の方たちの要望だとか、被災して困っている方たちの要望とか不安とかと、こちらの運営者側の苦労とか要望だとか、そういったものの仲立ち役になることができたというのは大きくあると思うんですが、詳しくは今日はやめておきます。
 自治組織のほうも、最初は坂元中学校と役場の職員の方がいらっしゃって最初のエンジンをかけてもらって、その後私たちが加わり、さらに避難者の自主運営みたいなことになりました。
 印象に残っているのは、スケジュールが結構早目に決まって、この時間は掃除、この時間は食事というふうなことが決まったことで、大人と子どものそれぞれのスケジュールが、じゃあ、子どもは何ができるかなんていうのが決まって、その後学習会が開かれたり、そういったこともできました。
 支援の申し出がいろいろありまして、私たちも学校の運営に何とかこぎつけられました。善意を無駄にしないようにというのは、結構悩んでいるところです。
 ずっとその後考えていますが、もしまた中浜小学校で同じようなことが起こったらどうするかな、自分だったらどう動くかなというのは、もうすべて結果論なんですけれども、常に頭に浮かぶのは、引き渡しの名簿って結構整備されているんですけれども、大体金庫の中に入っています。取り出せないかもな。ただ普通の児童名簿はありましたので、それは今回使えました。引き渡しは、津波の対策ではできないだろうし、大体学校が全部守るというつもりのほうがいいのではないかなと。
 懐中電灯も同じです。1つしか職員室にないと結局だめ。毛布も同じ。防災ずきんは防寒ずきんだったな。ブルーシートは何かと役に立ったな。今のところ考えるのは、1つしかないとだめだったり、懐中電灯も、職員室ではなくてほんとうは避難する先の屋上に最初からあればいいわけで、幾つかに分散して置いておくべきだよなということ。毛布も同じだと思います。
 あと15分で2次避難所へ行ける訓練ができれば一番いいかなと。さっきの10分、20分というところですけれど。点呼は、全員確認してから避難ではなくて、確認できたところからどんどん行くということも可能だろうし、ただそうは言っても、今から10分後に来るということがほんとうにあった場所もあったわけで、そうすると運を天に任せられるような場所が5分圏内にあればいいのになというのが、考えるところです。
 以上、ざっとお話ししましたが、私のお話を終わりたいと思います。ありがとうございました。

【渡邉座長】  ありがとうございました。
 次に、中学校の関係者として谷山教頭先生、よろしくお願いいたします。

【谷山教頭】  こんにちは。宮城県の南三陸町立戸倉中学校教頭の谷山といいます。
 今写っているのは、津波が来る前の校庭でございます。私たちの学校では、当日大きな揺れがあったために校庭に避難をしていたわけですけれど、そこまで津波が来ました。標高としてはおそらく15メートル以上あると思うんですが、地域の避難所にもなっておりまして、そこに生徒たちだけじゃなく地域の方々が大勢避難してきて、そこに津波が来たという状況です。
 現在学校のほうは、1階に津波が入ったために使えませんので、水没してしまった戸倉小学校と一緒に隣町の登米市旧善王寺小学校、廃校になって2年目の学校なんですけれども、そこに入って、学校を再開しています。南三陸町自体が町の庁舎、県の教育事務所等が入っている合同庁舎も皆津波で被害をこうむったために、学校の再開自体も県内で一番遅かったと思います。5月10日が始業式、入学式は5月11日に始まっています。
 津波のときの写真は、みんな必死で避難して、また携帯が使えない、明かりに使ってしまったということで、ほとんど残っていません。これは唯一、戸倉小学校の校長先生が高台に避難して、自分の学校は水没したんですが、引いてきてやっと見えたというところを1枚撮られた写真です。この学校の見えている一番てっぺんに給水タンクがあるんですけれども、そこをはるかに超えたという状況になります。
 この写真を見ながら地震発生当時の避難の様子について、主にお話をしたいと思います。
 時刻は午後2時46分ということで、大体その時間をちょっと過ぎたぐらいで、学校の時計が皆とまっております。私の学校のほうは、強い揺れで停電しました。いつもは地鳴りで済むようなかたい岩盤にあると思っていたんですけれども、今回のは尋常でない揺れでした。私は職員室にいたんですが、教務主任に、これはもう避難しなくちゃいけないので待機していてねと、上を確認してきますということで指示をして、2階に行きました。私の学校は2階建てで、単学級ですので教室3つに声をかけてくるという判断をしました。
 駆け上がっていって中を見ると、いつもの、地震が来たときも避難訓練のときもそうなんですが、中学生ですけれどもきちっと机の下に隠れ、頭を隠し、担任、学年の先生方は教室の出入り口で、入り口を確保していました。そのときもずっと揺れが続いていました。おそらく10分ぐらいは続いていたんじゃないかと思うんですが、天井から白い粉がどんどん落ちてきて、明かり取りのためにあいている塩ビの板がもう落ちかけていました。かなり揺れが強く危険だということで、避難しますよと、子どもたちの掌握をお願いしますと、避難指示をするまでちょっとだけ待っていてくださいということで下の職員室に戻り、避難本部を設置するように指示をしました。
 先ほどの写真に戻していただきたいんですが、校庭の中央のトラックが書いてある所が、いつもは2次避難場所です。ふだんの避難訓練のときには駐車場のほうに行くんですが、あまりにも揺れがひどくて校舎には入れられないなという判断で、はじめから中央のほうに移動しました。そこに校長先生はじめ養護教諭等がいて、学年のほうで生徒たちを見ていました。このとき1名早退しておりまして、その子どものことをすごく心配したんですが、途中であまりにも強い揺れで津波が心配だというので、学校に走って戻ってきました。ほんとうに判断がよかったと思いました。
 この写真は季節が随分違ってきていますが、当日は外に出ているうちに雨まじりの雪と申しますか、次第に冷えてきまして、防寒着をとにかく取りに行こうと。揺れが何度も何度も続いていたんですが、その揺れの合間に取りに行くということで、必ず教師がついて校舎に入っていくと。それから避難が長くなるなという予感がありましたので、トイレにも行かせました。
 そのうち、ちょっとぬれ方がひどくなってきたんですね。翌日卒業式だったものですから風邪を引かせたくないという思いもあって、今見えている体育館のほうに一時避難をさせようかと。体育館のほうはほとんど何も落ちていなかった状況でしたので、どうしようかと相談はしたんですが、余震があるたびにガラス窓がかなり揺れると。これは危険なのでやはりやめようと。もう一度校舎から貸し出し用傘を幾つか持ってきて、それをかぶって待機していたという状況です。
 そのうち地域の人たちが、車が100台以上ですね、200人ぐらい避難してきました。1年前の2月28日にはチリ地震の津波が来まして、ちょうど50年たって来たんですが、そのとき予想が3メートル、実際来たのが1.8メートルぐらいだったと思うんですけれども、そういう経験もあるので、地域の人たちがどんどん入ってきました。私たちも生徒を見る係と、車の誘導をする係という形で分かれました。
 防災無線で、午後3時ごろ津波の到達が予想されると、波高は6メートルですという放送が聞こえてきました。本来であれば、停電がなければ職員室、校長室、各特別教室も含めたところに防災無線の受信機があるんですが、そちらのほうで拾うこともできたんですが、町でやっている防災無線と、生徒、職員室にあったラジオでの情報だけが頼りでした。
 ここからは当日のメモを読みたいと思います。
 私は校舎周辺の亀裂があまりにもひどかったので、一度そこを見ながら、15メートルの高台にある学校から一たん下に行きました。ちょっと危険だなと思いましたが、下にいる地域住民に早く上がるように指示をして、登校坂まで走り、津波が来た知らせを頭上から聞きました。それで、住民に走って上に上がるように指示をしました。展望台が学校より5メートルぐらい下にあるんですが、そこに30人ぐらいいました。この方々は1年前のチリ地震のときもそこで見ていた方々で、ここまでは来ないという、津波が来るんだという思いはしっかりあったんですけれども、15メートルを超えるような思いはなかったんですね。私は下からがけが崩れるんじゃないかという思いが強かったので、津波が来たらもっと大変なことになるということで、どんどん上に上がるように指示しました。
 そしてフェンス付近、この校舎の裏側にあるんですけれども、そこで津波を見ている人たちにも避難を指示しながら、今写真で青い部分があるんですが、体育館通路に行くあたりにいる方々、家がもう流されて動けなくなっている人たちに声をかけているときに大きな波が、正面は向こう側なんですけれども、裏に入った津波がそこの杉の木を倒すような勢いで入ってきたために、校庭にいた生徒、地域の住民は、もう向かい側にある高台に避難しないといけなくなってしまいました。
 私のほうは、地域の人たちに避難を呼びかけているうちに校庭に津波が入ってしまったために、そこはもう濁流で、台風のときの川のように流れてしまったので行けなくなって、孤立しました。そのため校舎の2階に上がるしかありません。先ほどの学校でもあったように、私の学校も屋上はありません、屋根がかかっています、2階建てです。2階にしか避難するところがなく私を入れて最初は4人、二、三十人は周りにいたんですけれど4人しか上がってこられなかったんですね。そんなはずはないなともう一度下におりて探したら、3人の方がずぶぬれの状態でいたので、何とか上げてきました。やはり車に戻って流された方、荷物を取り出したんだけれども恐怖のために手が開かなくなって、荷物ごと流されたと。その3人の方はたまたま柵やフェンスに引っかかった形で助かったので、何とか上に上げました。
 私たちの学校は10年ほどのわりと新しい学校のために、暖房は蓄熱式のストーブが入っておりました。そのために、停電にはなったんですが、まだ暖かい状態でありましたので、ぬれた方々はそこに連れていき、もうカーテンしかありませんので、カーテンを全部はがしてきてそれを渡しました。そんな形で暖をとってもらい、3年生の生徒には大変申しわけないんだけれども、教室に置いてあったジャージ、運動着を借りて、着がえていただきました。
 1度目の波が、この青いフェンスのある通路のほうから入って、私たちの教職員で1名、生徒は1名亡くなってしまったんですが、体育館前で生徒の誘導をした後、地域の顔見知りの人たちがたくさんいたために、その人たちを誘導して手助けしていた教員が3人いたんです。彼らは体育館のほうで波にのみ込まれた状態になり、1名は亡くなってしまい、もう1名はあばら骨を折り、もう1名は左のふくらはぎに深い裂傷を負って、翌日搬送されました。
 これが先ほどの写真、もう1枚お願いします、ちょっとピントが合ってないところもあるんですが、さっき水没していた写真はこの戸倉小学校で、この給水タンクの上まで行ったと。この後ろに見えているのが私たちの学校、戸倉中学校です。おそらく15メートル以上あるんじゃないかと思うんですが、学校の1階部分まで入ってしまいました。小学校のほうはここから向かい側にある高台に避難したんですけれども、そこまで津波が来てしまったために、さらに高い神社に逃げたという状況で、小学校のほうはそこで一晩野宿をしています。私たちの学校のほうは奥の高台に逃げて、さらに移動して、工場があるんですけれども、工場のほうで一晩過ごしたと。私たちは11人で、2階に避難をしていたという形になっています。
 おそらく3時30分ごろだと思うんですが、津波が来てから子どもたちは奥の土手に駆け上がり、次第に高く入ってきたために私は離れ離れになってしまったんですが、一番最初に見ていただいた体育館のところに、車が乗っかってしまうぐらいの水量があったということです。私のほうは、その後車に残っていた方々を救助に向かうと。たくさんの車、100台以上あった車はほとんど流されてしまったんですけれども、10台ぐらい校庭に幸運に残った車の中を探してきました。近くから巻き上げられた砂、泥のために深くて、全部は回れませんでした。
 そういう形で救助しながら2階にいたんですけれども、やがて日暮れになっていくと。そのときには壊れた車のクラクションの音、余震の地鳴り、何度も何度も押し寄せてくる津波の地鳴りで、ほんとうに恐ろしい思いをしたと皆口々に言っています。クラクションを聞くと、まだ生徒たちもちょっと思い出すということで、心に残っているようです。
 そんな形で1日目を過ごしたんですけれども、2日目の早朝、本体がいる工場のほうに、私が行きました。このときもまだ津波警報は続いていまして、サイレンが鳴っています。学校の近くは道路が寸断されていまして来られないために、パトカーから津波の注意報、警報が解除されるまでは動かないようにという指示がありました。小学校が避難しているところまでちょっと行って連絡を取り合い、津波がおさまった時点で避難するところは私の学校しかないので、確保しておきますということで、津波がおさまる時期を待っていました。
 このとき、お昼ぐらいまでは、支援という形でのいろいろな方々はまだ来ていない状況です。自分たちでしなくてはいけないということで、私たちの学校が避難所ではあるんですけれども、避難している人たちにやる水もない、食料もない、毛布もございません。避難所には指定されているんですけれども、いわゆる食料の備蓄対象になっている学校ではありません。折立地区という地域にあるんですが、地域の人たちが発電機を持ってきてくれたり、あるいは毛布を学校に置かせてくれということで、地域の方々と協力してそういう体制はとっていたんですが、食料等はございませんでした。それで隣町の方々がおにぎりをまず持ってきてくれたのが、夕方近くだったと思います。そこまではほとんど水、食べ物はありませんでした。ただ学校にいた私たちは幸いなんですが、卒業式のときに私たちの地方ではまだ紅白のおもちを出してくれるということで、それを幾つか分けて食べてもらいました。そしてオリエントという会社があるんですが、そちらの工場に避難した本体につきましては、工場の人たちが使う飲み水、社員の方々が買う自動販売機の缶ジュース、あるいはスナック菓子のような物を食べてしのいでいた状況です。
 隣町から来たおにぎりを、3人ぐらいで分けて食べたというのが、2日目のお昼のころです。夕方になると、ちょっとこれではもたないということで、1時間ちょっとかけて山を越えて、私たちの学区では11地区のうち1地区だけ津波の被害がなかったんですが、そこまで行って、炊き出ししていただいたおにぎりを、小学校のPTAの会長さんと若い男性の方に手伝ってくださいということで3人ほどで行って、持ってきてもらいました。そして隣町の方々は、おそらくコンビニから仕入れたと思うんですが、スパゲティーであるとかバナナであるとか、とにかくあるだけ持ってきたよということで、それを分けて食べるというような状況でした。
 自衛隊の方々が来たのは、その2日目の夜、2時ぐらいです。自衛隊の方々も入ってくる道がないということで、先ほどお話しした唯一残った荒町地区というところまで車で来て、徒歩で1時間ちょっとかけて、カンパン、ソーセージ、水を持ってきていただきました。1,000食分ということで、そのとき「私たちの分でいいんですか」と聞いたら、戸倉地区の分だということでした。ここから奥の自然の家、県の施設なんですが、そこにもたくさんの人が避難しているというお話で、そちらにも持っていかなければいけないということで、3日目の朝、私とPTAの方々とで持っていったという形になっています。
 私のほうは孤立してしまいましたので、今お話ししたように地域の方々を救助しながら、けがをした同僚等の介抱をしながら待っていたと。連絡は全くつながらない状態でしたので、オリエントという会社の工場に行っている本体と、実際は歩いていってコミュニケーションをとらないといけなかったんですが、そういった形でやっていました。本体のほうには町の公民館の館長さん、消防の方がいましたので、町のほうのリーダーとして、実際は避難所は学校だったんですけれども、工場のほうがその避難の中心として連絡をとっていただきました。
 けがをした人間がいたという話をしましたが、ずぶぬれのお年寄りもいっぱいいました。低体温になって亡くなった方もいましたので、そういう方々をとにかく搬送しなければいけないと。無線がつながったのは2日目のお昼です。一番先に県警につながったようなんですが、自衛隊のヘリを呼んでいただいて、けがをした人間、持病を抱えている方々を一番先に出してもらいました。
 そんな形で進んでいったんですけれども、生徒たちのお話にちょっと移ります。生徒たちはがけを登ったというところまでお話ししましたけれども、そこから先ほど言った工場まで行く間に、たくさんの遺体、亡くなった方を見ています。一緒に避難してきたんですけれど途中で息を引き取った方もいました。ほんとうに大変な経験をしたなと思います。けれども、おぼれた人たちを、体育科の教員と一緒に人工呼吸をしたり、あるいは心臓マッサージをしたりということをしていたと聞きました。これはどういうことかというと、毎年避難訓練のほかに2月から3月にかけて、中学校2年なんですが救急蘇生について学ぶ時間があります。そこで消防の方々の協力を得て、1時間だけではなかなか身につかない内容なので、一般講習というのは3時間あるんですが、その3時間講習を受けて、きちっと受講証明もいただくという活動をしています。ですから、そういった救助に当たった2年生、3年生の特に男子の生徒たちは、戸惑っていたとは思うんですが、パニックにもならずに対処できたということです。
 それから志津川という地区がもっと奥にあって、南三陸町の中心なんですが、そこに消防本部がありまして、津波でみんな流されてしまいました。そこから1名、運よく私たちの戸倉地区のほうまで流れ着いて、先ほど話した工場のほうに行って介抱してもらっていたんですが、そこでも中学生が、寒くてしようがないというので体をさすってあげたりという形で、懸命に消防の方々を助けた。これも一般講習で顔見知りの方々だったので、今度は僕たちが助ける番だという使命感を持ってやったと聞いています。
 こんな形で生徒たちは、1次避難といいますか工場のほうにいて、2日目の昼からは津波がこちらの中まで入ってこなくなったので、中学校のほうに移動しました。ほんとうに寒い晩で、布団もありません。カーテンにくるまって寝ていた状況です。3日目になったときには、もう救助を待っているしかない場所でしたので、食事もないということで、電気も水もありませんので、隣町の登米市のほうに避難をするという決断がなされました。ここから歩いて1時間半ほど行って、唯一残っている荒町という地区にバスを用意していただいて、そのバスに乗り、登米市の登米中学校というところに避難をしました。そこに行ってこんなにも違うのかという思いをしたんですが、そちらでも懸命の支援をしていただいたと思うんですが、御飯、みそ汁、そして市場がだめになったために出荷できなくなったというイチゴもたくさん出していただいて、私たち小中学校、そして地域の方々は登米市のほうでお世話になっていました。とにかく漁業で生きている町の方々なので、この恩はいつか必ず返すと、登米市の人たちには魚をただで持っていかなくちゃいけないなと、こういう海になってしまったんですけれど、漁師の方々は皆同じように話していました。おとといは、PTA会長をされている方なんですけれども、今まで養殖ワカメの体験学習をやっていただいた方々なんですが、協力的に戸倉の海で学ぶ学習を推進しているんですが、こういう状況になったんだけれど何とかしたいということで、今仮に移っている登米市の善王寺まで来て、カキの種はさみという活動もやってくれたり、自分の家もない人たちなんですけれども、やっていただいています。
 現在、登米市の登米から善王寺に移って学校を再開しているわけですけれども、避難訓練を一度実施しました。小中学校でいますが、初めて入った校舎ということで避難訓練を実施しました。でも一番気にかけていたのはフラッシュバックです。生徒はもちろんなんですけれども、実際にやって、職員のほうもかなり思い出してしまったという声もあったんですけれども、とにかく津波が来る心配はないという場所でしたので、避難場所、そして避難経路という形で確認はできました。これは地震という形で行ったんですが、例年ですとまた火災の避難訓練もありますので、今度はどういった形でやろうかと考えています。先ほども申しましたように、中学校の場合はただ避難するのではなくて、何らかの形で自分が支援に回る、消防の方がいつも言っているんですけど、中学生は一人前の大人として見るよと、そのときには稼いでもらうよということを話されているんですが、そういう形での訓練を考えたいなと思っています。
 いずれは、仮校舎ですので戸倉のほうに戻って行うことになると思いますので、この海とどうつき合っていくのか、まだしっかりした決定がなされていない中ですので、この校舎で再開できるのかどうかもまだわかりませんけれども、もし戻ったときには、津波の避難だけではなくて暮らしていく、ここで生きていくんだという視点で、防災教育も含めて推進していきたいなと。そのときには、先ほどお話しした体験学習でほんとうに絶大な協力をしていただいている地域の方々とも、一緒に話をしながら進めていきたいなと思っています。
 南三陸町につきましては、先ほどお話ししたチリ地震が1960年5月24日に来たために、5月24日は町の防災訓練ということで大々的にやっています。毎年5月24日は朝から、6時から始まるんですが早朝から防災ヘリ、さまざまなヘリが頭上を飛んでいます。3月12日、翌日と同じような状況です。そんな中でも、志津川中学校はメーンの学校なので訓練に参加し、歌津中学校と戸倉中学校と3つあるんですが、私たちの学校は中心部から離れているので、消防も警察も講師には来てもらえないので、日赤の方を講師に招いて、炊き出しをしたり、あるいは救急救命の研修をしたりという形で訓練をしています。一般的には地震、火災、そして不審者対策の訓練で終わるのかもしれませんが、南三陸の場合は町の防災訓練という形で1つ多くやらせてもらっているので、今回も子どもたちの意識、住民の意識が高かったというのはあると思います。ただしその想定を超えた津波だったものですから、ほんとうに2人の命を私の学校では亡くしてしまって残念なんですが、これを教訓にして、今後戸倉に戻ったときのことも考えながら、検討していきたいと思っています。
 これは周辺の山の様子です。
 これは、今現在校庭に仮設がもう50棟ぐらい建っていますので、たくさんの人が入っています。後ろに見えているがけが、子どもたちと地域の人が登ったがけになります。
 津波が入った場所の体育館通路です。すっかりがけが崩れた状態になっています。
 これは私たちの学校から戸倉小学校を見おろした様子です。見えるところには、ほんとうはここに堤防があり、家々がいっぱいあったんですけれども、ほんとうにあっという間に、ウエハースを壊すような感じで、壊れてしまいました。
 これは戸倉小学校の様子です。右側にある骨は、新築したばかりの体育館です。鉄筋以外は皆壊れてしまったという形になっています。
 小中学校で今、登米市にお世話になっていますので、今後は小中の連携を深めつつ、頑張っていきたいと思っています。
 以上で、私からの報告を終わります。

【渡邉座長】  ありがとうございました。
 最後に、行政機関の関係者として長田係長、よろしくお願いいたします。なお長田係長には、前職の仙台市教育委員会での状況についてご説明をお願いしております。

【長田係長】  社会教育課の長田でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
 本来であれば仙台市教育委員会の担当職員がここへまいりまして、お話をさせていただくところでございますが、本日は復興担当の市議会が開かれているということと、当時担当していた指導主事が、私も含めて大半が異動してしまったということで、本日は私がかわってお話をさせていただきます。
 なお教育委員会としてのこの震災に対する振り返りは、まだできる段階になっておりません。現在各部で取りまと、春には記録集をお出しする予定と聞いております。また防災教育の視点で見た事例となっておりません。何とぞご容赦ください。津波被災校の支援に当たっておりました一指導主事の所感ということで、お許しをいただければと思います。
 では、仙台市の状況をごらんいただきたいと思います。仙台市立荒浜小学校、3月10日でございます。卒業式が近づいておりました。古くからの町並みで、大変大きな集落がありました。
 屋上から見た田園地帯の風景でございます。このように変わります。
 屋上から見た町場の風景です。大きなガソリンスタンドがあるかと思います。なくなります。
 校庭の様子です。
 この地域は津波の避難地域になっておりましたので、校長は迷わず屋上に避難するという対応をとりまして、早目に下校してしまった、親が早く引き取りに来てしまった1名の児童が、命を失っております。
 教室です。
 階段の踊り場です。1、2と書いてありますが、これは1・2階の踊り場です。
 体育館への通路です。
 これは2階と3階の間になります。
 2階にある図書室です。
 塩竈で石油タンクが爆発しているところの様子を、屋上から見ております。
 屋上から見た沿岸部です。何度も学校訪問させていただいていたんですが、当時屋上から海は見えませんでした。防風林がびしっとあったので見えなかったんですが、今はすかすかになって、海が見えております。
 教室です。
 中野小学校です。ここも避難地域になっていましたので、すぐに校長は屋上への避難を指示します。ただしここは新興住宅地が周りにありましたので、屋上に避難しましたが、自分の家が流されていく様子、または家族を失ったり自宅を失った大人が次々と避難してきて、いわゆる絶望のふちに立たされたり、常軌を失った行動をする大人の様子を、子どもたちは目の当たりにしております。
 一面新興住宅地だったんですが、何もなくなっております。
 この学校は津波避難の地域に指定されておりませんでした。したがいまして子どもたちは、グラウンドに避難しておりました。で、津波が目に見えてから屋上に駆け上がるという状況になっております。そういったことになっておりますので、地域の人は学校近くの平屋建ての防災センターに、車で200台ほどという記録が残っておりますが、その方たちが何人かは校舎に逃げられたと思いますが、どうなったか、そこは不明でございます。
 職員室です。
 ここの地域は当日卒業式で、卒業生の中学生が避難をしてきておりました。流されている人をロープで引き上げて、高学年や地域の大人と一緒に蘇生をする、そういう活動をしておりました。
 図書室です。
 この学校では、地域の足の不自由なお年寄りが、3カ所の階段を上がるのに詰まったという報告がされております。十分広い階段を確保することも必要なんだなということがわかります。
 3月11日の仙台市の学校の状況でございます。中学校は、数校が卒業式当日、ほとんどの学校が卒業式の前日に当たっており、下校した生徒が何人かおりました。犠牲になった中学生は、そういった下校した後の子どもたちでございました。小学校低学年は、既に下校していた学校も多かったと聞いております。早目に保護者が引き取りに来た場合、悲劇があったと聞いております。
 避難指定所になっていなくても、地震直後からほとんどの学校が避難所になりました。安全確認がとれなかった学校を除いてです。また子どもが下校する前に仙台駅周辺の学校には、帰宅できない人たちが各校約1,000名程度、多いところですと1,800名の避難者が来ていたということで、学校の先生は押し寄せる避難民と、子どもたちの安全を確保するという2つの作業をしなければならなかったというふうに聞いております。
 ほとんどの小学校では、引き渡し下校を判断いたします。ただし電話もメールも一切通じない状況ですから、ふだんの引き渡し訓練ですと一斉メールを配信して保護者が迎えに来るというシステムになっておりますが、それは一切できなかったわけでございます。ふだんの訓練で予期しないことを、保護者、教員は判断を迫られたということになります。津波被害のなかった市街地でも、9時過ぎごろにはすべての子どもたちを引き渡しできたと聞いております。
 下校してしまった子どもたちの安否確認は、津波被害のなかった市街地でも四、五日かかりました。夜半過ぎから教員が家庭訪問に回りましたが、電話が通じない、メールが通じないというのはこういう現象が起きるということがわかりました。また津波被害に遭った地域では、この子の安否が不明なのかどうかを確認するのでさえ、1週間程度かかっています。
 ライフラインが寸断し、大混乱に陥る中、唯一の命綱は防災無線でした。これは後ほど話します。
 この日から数日、教職員は24時間体制となりました。なお本来避難所を運営する予定だった区役所職員、市役所職員が配備されるまでというわけにはいかなかったようで、数百人、千人近い人を動かせるのは、やはりそういったトレーニングを積んでいる教員が何よりだったと聞いております。
 教育委員会の対応でございます。停電のため、被害の全体像が全くつかめなかったというのが本音でございます。情報も大変錯綜いたしました。よかったのは仙台市消防局が、学校は防災の拠点になるだろうからということで、市内200の小中学校すべてに、この年の1月に防災無線を整備し終わったところだったということです。電話もメールも通じませんでしたが、この防災無線だけは教育委員会と学校との間で、無線ですので通じました。ただ、必要な情報が的確に届いたかというと、電波の強弱があったり、聞き取れなかったということです。さらに3分間という制限があったり、もう一つ痛かったのは充電式で、結局停電しておりますので、何回か使えば使えなくなるという状況がありました。また津波による被災校の場合には、津波にのまれたところにアンテナがあったり、もともと逃げるのに必死で、防災無線を職員室に置いて屋上に避難してしまったために、そういった一番連絡のとりたいところとなかなか連絡がつかなかったという実態もあります。また校舎に火が迫り、夜、屋上に逃げていて「助けてくれ」という校長先生の切実な防災無線があったということも記憶しております。
 線より下は11日以降のことでございますが、とにかくライフラインが復旧しませんでしたので、我々指導主事が行こうということで、津波の被害に遭ったところには担当指導主事が置かれまして、とにかく行く、聞く、自分の目で確認をするという原始的な手法に出ざるを得ませんでした。また先ほど申し上げたとおり、子どもは大変悲劇的な場面をたくさん見ておりますので、すぐに心のケアに入ろうということで、教育委員会が動き出したという状況でございます。
 発災直後から2週間程度、こういった流れで動いておりますが、4月初旬の深夜の大きな余震で、振り出しに戻ったことを記憶しております。
 当時私は荒浜小学校や岡田小学校の担当でございましたので、避難所や学校の先生方とお話をする機会がありましたから、その中から幾つか拾ってあります。
 ここから先はあくまでも参考でございます。私は4月30日まで仙台市教育委員会におりまして、5月1日以降現職につきましてから、地元の校長先生方にお願いをして聞き取りをさせていただいたものでございます。要はふだんから、避難訓練でも防災教育でも、総合的な学習の時間でも何でもいいんです、地域の人と学校がかかわるというシステムや関係を持っていたところは、避難時、または学校復旧に大変その関係が役に立ったという校長先生方の感想でございます。そういった関係、システムが整っていなかったところと、整っていたところの比較もできるようにしてございます。積極的にふだんから学校教育にかかわっていただいている地域の皆さんは、学校復旧や避難時にも大変大きな役割を果たしていただいていることがわかるかと思います。
 今後防災教育等をご検討いただく際に、地域の皆さんと有効な避難訓練やまたは炊き出しの練習など、こういったことをどうやっていくのか、ぜひご検討いただければと思います。また学校にとって名前の呼び合える地域の方を、教育活動や学校運営の中でいかに増やしていくか、こういったことも大事なのではないかと考えている次第でございます。
 ご清聴ありがとうございました。

【渡邉座長】  ありがとうございました。
 それではこれまでのご説明を受けて、皆様のほうからご質問がありましたらお願いしたいと思います。3人の方のお話の中で、こういう点がもうちょっと知りたいというようなこととかございましたら、よろしくお願いいたします。
 いかがでしょう、何かございませんか。
 時間もちょっと迫っておりますので、この後にフリーディスカッションをしたいと思いますので、その中でまたお聞きしたいことがございましたら、随時ご発言していただきたいと思います。本日お越しいただいた3人の先生方には、ご多忙のところ、どうもありがとうございました。この今回の意見を、今後の議論に生かしていきたいと思います。
 それでは全体を通しての意見交換を行いたいと思いますけれども、今のご説明にかかわってもよろしいですし、また今回の防災教育、管理にかかわることでご発言がありましたら、よろしくお願いいたします。
 小川先生もやはり震災の現場にいらっしゃったわけですけれど、いかがでしょう、先生何か。

【小川委員】  日ごろより地域との連携が重要だということをおっしゃっていただきまして、非常に参考になりました。
 それで1つ質問させていただきますが、南三陸町の谷山先生にご質問します。学校のさらに奥の高台へということで、オリエント工場ということですが、この工場は民間の施設ですよね。その施設の方々も一緒になって、日ごろから地域連携の避難の訓練をされておられたのか、どういう関係にあられたのか、少し教えていただきたいと思います。

【谷山教頭】  工場の方々との連携した訓練というのは、特にしていませんでした。していたのは地域の折立地区という方々と一緒にやりまして、平成21年に台風18号があったとき、やはり避難所になり、そこで一緒に避難所としての運営をやりました。それからチリ地震津波のときにも避難所のほうに来ていただいて、発電機をつけてくれたりという形でやっていましたが、その工場の方々というのは今回が初めてです。

【小川委員】  もう1つだけ質問をお願いします。子どもたちが使命感を持っていたということがすごく印象に残って、使命感を持ってこういう避難訓練にふだんから接しているということが、子どもたちを強くさせているというふうに感じたんですけれど、先生はどのようにお考えでしょうか。

【谷山教頭】  やはり町全体が何度も津波の被害をこうむっているという状況で、言い伝えだけじゃなくて実際におばあさん、おじいさんから聞いたとかいうことも子どもたちは言っていますし、そういう経験が残っているということで、普通想定できる津波であれば、今回も特に被害もなくいったのかなと思うんですが、あまりにも今回は被害が大きかったために、この先どうすればいいのかなというところははっきり言えないんですけれども、地域の意識の高さというのは、やはりこういった訓練の積み重ねでしかできないのかなと思っています。

【小川委員】  ありがとうございました。

【矢崎委員】  高島第一小学校の矢崎です。
 私も5月2日に仙台のほうに視察に行かせていただきまして、原町小学校と岡田小学校と、高砂小学校を視察してまいりました。それで校長先生から当時の様子等いろいろとお伺いしまして、今の先生方のご発表と重なる部分がたくさんございました。
 その中で特に私は、全国いろいろなところで地震が起きたとき、仙台市、東北地方限らず課題になるのは、停電になったときのこと。今バッテリーが使えなくなったとかいうことで停電になったと、原町小学校の校長さんも、放送しようと思った途端に停電になっちゃって、放送ができなくなっちゃったということですね。ですからそういう意味で全く電気が使えなくなったときの状況について、今後どうしたらいいんだろうかということ。それから情報手段。都会で一番大きなものは、情報手段がとれなかったから引き取りが非常に困難だったということなので、その情報手段をどうしていったらいいかということ。
 それから食糧の問題ですが、子どもを学校にとどめておかなきゃならない場合、食料として今はカンパンとかいろいろと防災倉庫のあれがあるんですけれども、本校で今考えているのは、地域のコンビニと手を結ぼうということを考えているんですね。これはやはり仙台のどちらかの小学校が避難所になったとき、地域のコンビニとスーパーがボランティアで食料とかいろいろな物資を運んでくれたと、これがすごくありがたかったと。じゃあ、当日ボランティアで運んでくれるんだったら、そういうのを前もって提携しておくのもいいんじゃないかなということも、今私考えているところです。
 その停電の対応と、情報が全くいけなかったという、その辺の困難さをもう少し教えていただくとありがたいなと思っています。

【渡邉座長】  ここのところ、どうでしょうか。谷山先生はいかがですか。

【谷山教頭】  停電につきましては、ふだんの避難訓練では校内放送で緊急連絡という形だったんですが、揺れが続いてすぐ使えない状況でしたから、先ほど話したように校舎内については走っていく程度でいいんですけれども、校庭に避難して200人以上の地域の方々が来たときの連絡、それと先ほどお話ししたように工場が本部で、離れてしまったところとのやりとりというのは非常に困りました。これはほんとうにどうしたらいいのかなと、逆に今でも思っているところです。
 もう1点は……。

【渡邉座長】  停電の件ですよね。あ、情報の件ですね。

【矢崎委員】  いわゆる携帯とかそういうものがすべて、あのときは使えなかったと思うんですよね。私が訪問したある学校では、全くそういうのがとれなかったので、すべてアナログで、紙に書いて地域に張りまくったという学校があったわけですよね。そんなこともあったということなんですが、その辺について、何かご苦労がもう少しお聞かせいただければと。

【谷山教頭】  避難している方への周知というのは、やはり紙に張り出すというのが一番のところで、登米市に避難したときにも、だれがいたのかというのはもう各部屋ごとに担当を決めて、大きな紙を見つけてきて、段ボールだったり模造紙の切れ端だったりしたんですけれども、そういったものに入っていた人の名前と地域を書いて張り出して、「登米市に来ました」と。それを見て1カ月半ぐらいたってから随分、問い合わせに訪ねてきている人たちが、その紙を見てやってきたということですから、その紙で伝えるというのはやはり必要だし、そういったものがないことを想像してしまうと、とても大変なことだなと思います。

【小川教諭】  中浜小学校は、震災のとき停電はしませんでした。放送も使えましたが、やはり無理でしょうというようなこともあったり、あと動転していて実際聞こえなかったりということもあったという先生もいました。その部分、停電しちゃうのはどうしようもないので、私はもう恐怖もあったりして携帯電話は何となく、授業中はもちろん鳴らさないですし、使わないですけれども、学校の放送だと一方通行になってしまいますので、離れた教室から戻せないので、携帯は切ったままだけれども手放せないなという状況が、実際に今あったりします。
 それと震災後の安否確認ですけれども、やはり地域も停電しましたので、張り紙だらけになりました。で、1つだけ、こちらからアンテナを高くするというんですか、やはり訪ねていくんですけれども、ここにびっと「中浜小 小川」とか、所属と名前があると、うんと話しかけてもらえました。「あ、あの学校の先生なの。ここ、どうなってるの」なんていうふうにして声がかかったりとか、逆にこちらからも尋ねやすかったりとか。そのときはしようがないと思うのですが、じゃあ、そのときどういうことができるかといったら、やはり名前というのはうんと大事だなと思いました。子どもを通しても、地域の人たちを通しても、先生というのは結構顔が広いんだなと。
 もう一つは、ダブルチェックが必要だなと。実際に「あの子助かってるみたいだよ」なんていう話も、別のところから聞くと結果的に違ったというお子さんもいましたので、そういうやりとりをするときには、別の情報源からももらえるというのが大事だなという経験がありました。
 以上です。

【諏訪委員】  神戸の舞子高校の諏訪と申します。私は学校の教師をしていますので、今の先生方が大変なご苦労をされているというのは、とてもよくわかります。現在進行形の教育復興の中で、ほんとうにご苦労されていることには頭が下がります。
 お3人の先生方の中で共通したのは、想定を超えるという部分があったんですけれども、私は結論としては、想定を信じない防災教育をしなければならないと考えているんですけれども、実は中浜小学校ですか、5月10日前後に一度行かせていただいて、あの学校の中に入らせていただいたんですね。そのときに私、ちょっと不謹慎な申し上げ方をしますが、正直感じたのは、たまたま助かったなと。つまりあと1メートル津波が来たら、子どもたち、先生方はみんなのまれてしまったんだなと。その「たまたま」助かった中で、先生がされたことはほんとうにすばらしいことで、子どもたちをほんとうに守り切ったと思っているんですけれども、防災を考える以上、「たまたま」ではだめだったんだろうなと。もちろんあの地域、屋上から周りを見ますと、小さな子どもが走って山まで逃げるには絶対無理な地域ですから、あれしかなかったと思って、ほんとうに天が味方をしてくれたと私は思っているんですけれども。
 しかしいろいろな学校の事例を見ていくと、やはり「たまたま」助かったのが非常に多い。裏を返せば、たまたま亡くなったというのが非常に多い。その「たまたま」をなくすための防災教育というのは何かというのを、私たちは本気で考えなければならないかなと思うんです。
 そこで、今、ほんとうに被災されて大変な3人の先生方にちょっと聞きづらいんですが、あえて印象をお聞きしたいんですけれども、ほんとうに避難訓練の充実、防災訓練の充実だけで、子どもたちって守れるのかなと。例えば学校にいたから助かったけれども、学校を離れたら亡くなってしまった子どもはたくさんいますよね。私たちはその学校の守備範囲さえ守ればいいのか、あるいは学校を離れても親に避難しようと、親が「避難せんでええ」と言ったら、その親を説得できる子どもを育てるところまで責任を持つのか。非常に難しい問題ですけれども、私自身、正直、避難訓練とか防災訓練は非常に大事だと思うんですが、そこだけにこだわって文科省がスポーツ・青少年局だけでするんじゃなくて、これだけたくさんの課が来られているのであれば、国家的事業で防災教育を根底から見直して、全部の学校で必修科目にしなければならないぐらい思っているんですが。
 そこまで話は行かずとも、正直なところいかがでしょうか。この先、防災訓練の充実だけで何とかなるとお思いですか。それとも、いや、そこはきちんといける部分があるという話をしていただくと、僕も気が楽なんですけれども。ちょっと難しい質問で申しわけないんですが。

【渡邉座長】  では小川先生から。順番に、簡単にちょっと話していただければと思います。

【小川教諭】  結果論というのはもう常に、私たちのところでもありました。実際に一緒にいたおばあちゃんを見捨てずに逃げなかったという中学生が、地域にいたりとかしました。逃げようとしたけど、やっぱりおくれたとかいうことがありました。実際、学校で預かっていないときにという意味では、例えば登下校中にこういうことが起こったら、学校に来るか、それともどこに逃げるかとか、ということは結構想定してやっていましたけれど、それはやはりそのことで近くの高台、磯崎山公園というところに逃げて、一晩自分たちで過ごした中学生がいたりはしました。
 ある程度カバーはできます。でも万能ではないかなと思うのと、最後に、課題は課題だと思っております。
 以上です。

【谷山教頭】  津波てんでんこというのが、いろいろなところで今回の震災の後聞かれるようになったんですけれども、私の学校でも、自分が生徒と一緒に避難しないで地域の人に手を貸して、亡くなったりけがをしたと。子どもたちももし地域に帰ったら、おそらくそういうことが出てくるだろうと。これを指導して子どもたちがわかったと言っても、とっさのときにやはりそういうことは出てきてしまうのかなと。自分がそういう場面になっても、おそらくそうなっちゃうかもしれないというので、防災教育だけですべて解決するかというと、おそらくそうではないと思うんですが、想定を超えたというのは今までの想定が小さかったわけで、その想定を今回の震災を踏まえて、先ほど話が出たように地域の方との連携であったり、私たちは中学校なので中学生ができる範囲内、地域に戻ったらこういうことができるんじゃないかという活動を通しながら、やるしかないのかなという思いでいます。
 そういう意味では、町でやっている防災訓練に中学生がどんどん参加してくるようになったという、震災前の南三陸の場合、あの形で行っていたのにこれだけの被害が出たということですから、また少し考えを加えながらやっていかなきゃならないなと思います。

【長田係長】  難しいですね。海に住んでいる人が、海をなりわいとしている人が海から離れて生活できると、私は思っておりません。私が一番最初教師になったときの初任地が石巻の雄勝というところで、何もかもなくなりました。学校の体育館も流されました。ただ、みんな海をなりわいとしている人は戻ろうとしているはずなんです。そういう人たちが戻って、防災教育とかそういうものだけでじゃあ、守れるかというとそうではなくて、やはり信号が停電になっても高台まで一気に車で逃げられるような道路があるとか、ここまで逃げればあとはもう神様のいたずらぐらいのところまで、そういったものが整備されるかとか、そういったことも含めて、すべてトータル的にやっていく必要はやはりあるかと思います。
 以上です。

【渡邉座長】  ありがとうございました。
 では藤岡先生、どうぞ。

【藤岡委員】  2点ほど、これは質問ということではないんですが、今回非常に感じた点があります。1つは、チリ地震の話は出てきましたが、過去の災害を考えますと明治29年の三陸沖でも2万2,000人の方が亡くなり、その後昭和8年の場合は、明治29年の伝承があったのか、規模は3分の2ぐらいであっても3,000人に減っていたりするわけですね。今回の地震のマグニチュード9からいうと、1000年ぐらい前の貞観地震だと言われることもあるんですが、むしろ明治以降でもかなり大きな津波があったことを、その地域自体がどのように伝承してきたり、地域の災害というのをどういうふうに学ばれてきていたんだろうかというふうな、そういう課題は感じております。
 そして2点目は、今回中浜小学校さんの場合、ほんとうに奇跡的に助かってよかったと思ったんですが、私自身実際に大川小学校やその地域を見てきまして、確かに今道路のお話もありましたが、その大川小学校よりも海に近いところの吉浜小学校の校舎を見たときは、ここはほとんど皆助かってないのかなと思いきや、屋上に上がって49名全員助かったと。一方、大川小学校の場合は、まさか5キロも離れたところで、しかも非常に近代的な建物ですが、あれが2階建てだったんですね。ですからおそらく、先生方がいろいろ言われることはあるんですが、その校舎にとどまっておいたほうがよかったのか、避難したほうがいいのか、非常に判断が厳しかったところじゃないかなと思うんです。あれがもしもう1階建物があれば、大川小学校はもうちょっと、ここまでならなかったかなと思ったりもします。ただ閖上地域等を見ました場合、今ありましたように20分、30分で逃げようと思っても近くに高台がない場合、やはり学校という建築も、地域の方々も来られるということで、そういった高さというのも重要になってくるのかなという感じがあります。確かに諏訪先生が言われるように、たまたまそれより何メートル上まで来たら、どの辺の高さまでというところもあるかもわかりませんが、そういう2つの観点を、お話を聞いていて強く思いました。
 以上です。

【矢崎委員】  私も藤岡先生の最初のお話、すごく感じているんですね。この間仙台に行ったとき、学校の先生と地域の先生に聞いたんです。明治29年のマグニチュード8.2の地震、それから昭和8年のマグニチュード8.1の地震、このときも今藤岡先生がおっしゃったように、大船渡市の綾里で最大38.2メートルの津波も来ているわけですよね。こういう過去の地震、津波があったということについて、仙台にこの間行ったとき伺ったら、校長先生もほとんどの方が知らないと。だけどチリ地震のことはよく知っていると言うんですよね。確かに明治と昭和の津波のときの方は、もうほとんどが90歳とか100歳とかそんな年ですのでいない方も多いんだけれども、これが語り継がれていたら私は随分子どもたちや大人の意識が違っていたのかなと、そんなことをすごく感じました。今の藤岡先生のお話を受けて、私もすごく同感です。

【渡邉座長】  残り少なくなったんですけれど、関口さんのほうで何かございますか。

【関口委員】  非常に貴重な3人の先生方のお話を聞かせていただきまして、ありがとうございました。
 私も大川小学校とか実際に行ってみたんですけれども、やはりなぜ裏山に駆け上がらなかったんだろうというのがありまして。で、ちょっと谷山先生に教えていただきたいんですけれども、戸倉中学校では何か学校からがけの上に逃げたということだったんですが、そこは避難路とかは整備されていて、地震が起きたらそこへみんなで避難しましょうというような想定になっていたんでしょうか。

【谷山教頭】  想定はありませんでした。最終的な避難場所という地域での認識があったので、あそこから上に逃げたというのはとっさの判断というよりも、津波が入ってきてそれに追いかけられるように、逃げるようにして皆上がっていったというのが実情です。

【関口委員】  そうですか。もともと戸倉中学校というのが15メートルの高台にあるので、そこが地域全体の避難所だというふうに指定されていたわけですね。

【谷山教頭】  そうですね。ハザードマップも整備されていて、三陸津波、明治、昭和についても、ここまで来たという浸水域はわかっていました。これも授業で扱ったりもするんですが、ここまでは来ないだろうと。堤防があるから大丈夫なんじゃなくて、ここまでは来ないという地域であったんですね。ここは浸水域ではあるんだけれども、堤防があるからと安心していた場所もあるかもしれませんが、中学校については全く来ないだろうと。

【関口委員】  それで100台ぐらいの車が校庭に避難してきて、90台ぐらい流されてしまったと。で、10台ぐらいしか残っていなかったという状況になってしまったわけですか。

【谷山教頭】  少しでも高いところに逃げないといけないなという、そういう教訓だったんだろうというふうに思います。あんまり想定を思い込まないということが非常に重要だということが、今回の地震の教訓だったのではないかなと感じております。

【渡邉座長】  まだまだいろいろご意見はお持ちだと思いますけれど、大分時間が迫ってまいりました。今日お話しいただいた中にもまだ、例えば中学生が非常に大きな力となったということなどもありました。そういうこともこれからの防災教育の中で生かしていきたいというか、すべきことかなと思っております。
 今日のご意見をまた十分に参考にさせていただきまして、次回は本日ご欠席の委員からのご意見もいただきながら、防災教育における課題とそれに対する対策等について、引き続き議論をしていきたいと思っております。
 時間がないんですけれど、どうしても何か一言という方はいらっしゃいませんか。大丈夫でしょうか。

【矢崎委員】  すみません、一言だけ。気象庁の松村さんもいらっしゃるので、このときのマグニチュード9という巨大地震についての観測自体が、もう破壊されちゃったり情報伝達が難しい中で、気象庁も初めはマグニチュード5.9とか7.6とか、だんだんだんだんなっていく中で、津波の大きさというものを予測するのがかなり難しかったということ、これもかなり今回の課題にはあると思うので、今後のそういう改善とか、またそういうことについても、私たちは考えていかなきゃいけないのかなと。だから今回は非常にその辺の観測が難しかったと。これはほんとうに想定のあれを超えるもので、大変だったんだなということはすごく感じております。

【渡邉座長】  何かございますか。

【松村企画調整官】  お時間が少ないところ申しわけございません。ご指摘の点はまさに、我々としても大変深刻に受けとめているところでございまして、今後二度と繰り返さない覚悟で、観測システム、観測網の強化ですとか、データをいかに迅速に、かつ的確に処理をして、津波警報の発表につなげていくかというところ、私どもも有識者の先生方にお集まりいただいて、津波警報のあり方に関する勉強会を進めてございまして、そういったご意見をいただきながら、業務の改善に努めてまいりたいと考えてございます。
 どうもありがとうございます。

【渡邉座長】  ありがとうございました。
 時間になりましたので、これで本日の議事は終了させていただきます。
 最後に今後のスケジュール等につきまして、事務局よりご説明をお願いいたします。

【石田課長補佐】  皆様ありがとうございました。
 それでは今後のスケジュールでございますけれども、先ほどの資料の一番最後、資料5に今後のスケジュール、第2回、第3回、第4回とスケジュールが書いてございます。次回は7月30日、土曜日でございますけれども申しわけございません、16時から18時の予定で考えております。場所は未定でございますので、委員の皆様には決まり次第ご連絡をさせていただきます。第3回、第4回についても引き続きよろしくお願いいたします。

【渡邉座長】  また場所はご連絡いただくということですね。お願いいたします。
 それでは本日はここまでにしたいと思います。どうもありがとうございました。

―― 了 ――

 

 

 

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-- 登録:平成23年10月 --