資料2 「主な検討の視点等について(案)」に対する意見(安彦委員提出資料)

安彦 忠彦
14年01月22日

・全体に,第1回会合で確認したように,まだ現行学習指導要領の実施結果が評価されていないので,ある時点で教育課程実施状況調査などにより,この政策評価のデータを示し,その吟味を加えた上で,次期学習指導要領について具体的な提案をするべきである。

<主な論点>

・法令上定められている教育の目的・目標・・・初等中等教育段階にいて,今後どのような資質・能力を重視すべきか。
 → まずは,教育基本法の目的・目標規定を押さえるべきである。とくに「人格の完成」を欠かすことはできない。「資質・能力」の「資質」の方に強く関わる目的であることにも留意する必要がある。「能力」は「人格」の一部に過ぎない。
(「例えば」とある論点について)
 ・「教育固有の要請」というのを,どう理解しているか? → 「教育固有の要請」を「教育固有の視点」と考えると,それは,「若い世代を,社会を形成し発展させる自立した主体者として育てること」(子どもの未来を子どもが自分で決められるように,そのための自由と力とを与えること=出藍の誉れ)であり,「社会や経済の要請」(子どもの未来を大人が決め,それに見合う人材に育てようとすること)に応えることは,「教育」ではなく「訓練」に過ぎない。後者の要請に応えても,社会が主人公で個々人がそれに従属する人材とされるだけでは,社会のための道具をつくるだけで,社会を吟味にかける「主体」を形成することはできない。社会の求める道具としての質を高める=「能力の向上」だけで終わるなら,社会自体のあり方を問う人間は育てられない。「道具」や「手段」として人間を見ることは,人間を「人格」として扱っていないということである。「人格」とは「主体性・自由・個性」などの特性を保持して生きることを「権利」として認められている,カント流に言えば,他の何者にも手段視されてはならない存在のあり方を指すことばである。この意味で,「自立」によるのでなければ,「主体」は形成できない。それを欠いて,ただいくら「能力」(学力)の質をよくしても,それを正しく使う「主体=人格」が形成できていなければ,それは動物に対する訓練と同質のもので,人間の「教育」とは言えず,固有の意味がない。経済産業省が書く文章ならば仕方がないが,文部科学省が書くものは,「教育」固有の観点を第一にするという,独自性を出すべきである
・この意味で,「自立に向けた力(自己教育力など)」を他の諸能力と同列に並べているのは,認識不足である。他の諸能力は,「自立に向けた力」を構成する諸要素でなければならない。
・「人格」(道徳性)・人間性の方が全体であり,「能力」は部分であることを,先の中教審答申の際の資料「生きる力の育成を目指す教育内容・目標の構造(イメージ案)」のように押さえることが望ましい。
・「義務教育段階から大学教育段階まで」という表現は,中卒や高卒で社会へ出て行く人がいることを忘れている。高校・大学はあくまでも「非義務教育」であるから,すべての子どもに必須の共通基礎教養が必要だとする考え方は,論理的に通らない。もちろん,「高校」「大学」として義務教育から続く以上,円滑かつ効果的な学習のつなぎが保障されなければならないが,内容的には「高校以後の学習に必要な最低の学習意欲と基礎能力」及び「高校以後にも必要とされる人間性・道徳性」の二つのカテゴリーで,前者が部分,後者が全体として押さえるべきである。
・諸外国におけるコンピテンシーに基づく教育改革の潮流について,参考とすべき点は何か。→ コンピテンシー概念で捉える動きを無視はできないが,絶対化せず,必要な修正を積極的に施す必要がある。今後の方向は,「コンピテンシー」概念の能力形成で終わらせず,それが最終的に何のために求められるのか,無目的ないし無批判に「活用力」さえあればよいのではないことを明確にする必要がある。「活用力」の効果を経済的にだけ考えては「ずる賢さ」に流れる危険もあり,むしろ,人間の「生存の持続発展」に貢献するものでなければならない,という条件を満たすか否かに注目する必要がある。

(1) 育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容の構造について:

<主な論点>

○教育目標の明確化・体系化と教育内容との関係:

(「例えば」について)
・「人格」(徳)と「学力」(知)の関係は,全体と部分,主体と客体(手段)と見なければならない。「主体」形成が本来のねらいであることを,子どもは「日本の未来の主権者」であると明記することが望ましい。
・各教科の目標の「基底」に,教科共通の力を規定することは可能だが,その力はそれでもいろいろあるとされよう。私は「教科共通の力」として「言語的・数的能力」(技能)が,それ以上の多様な文化分野(文学・社会科学・自然科学・芸術・スポーツなどの)における知的活動に欠かせない道具の習得(PISAでも,コンピテンシーの第一のカテゴリーに「相互作用的に道具を用いる」が挙げられている)を考えるが,それ以外にも,「意欲」とか「学び方」とかを出す人も出てくると思われる。後は,そのうちのどれを選ぶかの選択の問題である。
・「学び方」と「メタ認知」(これをどういう性格のものと考えるか決めねばならないが)は,「思考力等」の一部として,欠かせないものと考える。
・「教育課程を貫く重要な概念」というのは,何のことかわかりにくい。理解の仕方によって何を指すのかが違ってこよう。例えば,「教育課程」を貫くのか,「教育内容」を貫くのか,区別が必要である。前者ならば,子どもをどう見るのかという児童・生徒観や発達観,さらには教師をどう見るのかという教師観・教育観・指導観なども入るかもしれない。
・教育内容として「本質的な問い」「重点的指導事項例」をどう明確化するか,という問題は,上記の後者(教育内容)の場合であり,各教科の内容の中の重要概念を指すことになるが,専門研究者によっても一義的には決まらないだろう。教科教育の専門家なのか,各学問の専門家なのか,誰が責任をもって決めるのか,その決め方の方法などを明確にしなければならない。そのことを前提に,一つの立場を選択することになると思う。
・「特定の資質・能力は特定の教科のみで育成すべきか」という問題は,「特定の」の意味が明確にならないと答えようがない。「計算技能」は計算活動をする「算数・数学」でしか育てられないだろう。しかし,「正直」(ごまかさない)という「資質」はかなり多くの教科・教科外の学習の場で育てられると言ってよい。「特定の」の意味を明確にする必要がある。
・総合的な学習の時間を「資質・能力育成の要の時間」として再構築するという方向は,この時間をこれまで以上に重要視するということであれば,その方向を支持するが,そのためには時数も成績評価上の重みも増強しなければならない。この場合,各教科の役割は,従来以上に「総合的な学習」に活用される知識・技能と,各教科固有の文化分野に使われる知識・技能とを,教える側が明瞭に区分して身につけさせねばならない。各教科の知識・技能のすべてが総合的な学習で用いられるわけではないからである。
・○○教育への対応は,その○○教育の性格次第であるので,○○教育それぞれの性格分析を行い,それによって,現代的諸課題として独立に扱うか,各教科等の学習の中で扱うか,対応を決めるべきである。

○育成すべき資質・能力を踏まえた目標・内容の可視化方策について:

(「例えば」について)
・「育成すべき資質・能力」と「教えるべき教育内容」の明示の仕方は,「資質・能力」をどう表現するのかによって決まる。国教研の示したように,理科が最も分かりやすいが,「考えをもつことができる,理解する,考えを作り変える,見方・考え方を身につける」など「学ぶ力」(学習能力)だけをそう見る場合は,「何ごとかをすることができるという心の働き」に焦点が当たっている。その場合は,その働きを支える要素を身につけていなければならないから,それが「知識・技能」と「体験・活動」である。前者は,それを「使って」働かすのであり,後者はそれを「通して」働かせるのである。この意味で,「教育内容」の中に「知識・技能」とともに「経験・方法」が含まれる。ただ,「経験・方法」は決して一つではないと言えるので,解説書に例示することで,教師の創意工夫を奨励すべきである。
・なお,この問題は「教育内容」と「教材」とをどう規定するかにも関係する。私は,この二つは明確に区別すべきであると考える。理科の場合,「教育内容」は例えば「重さの法則」であるとすると,それを学ばせるのにどんな「実験教材」を用意するかが,教師に求められる専門的力量であるといえる。「検定教科書」があるが,これは「教材」である。しかし,「教材」は「教育内容」を含んでいなければならない。例えば,テレビ受像機があるが,それが何も画像を映していなければ,ただの「機器」であり「教材」ではない。そこに画像が示された場合「視聴覚教材」となり,とくにその画像がビデオによるものであれば「ビデオ教材」と呼ばれることになる。
ただし,この区別をしても,特別な場合がある。最も素朴な状況として,幼い子どもに「テレビ」というものが何であるかを教えたり,「テレビ」とカタカナで書けるようにしなければならないとする。そのとき,実物を持ってきて「これがテレビというものです」と説明する場合には,これは,前者では「教育内容」となり,後者では「実物教材」と呼ばれる。したがって,それが何であると言えるのかは,何を教えたいのかという「教育目的」よって決まるのである。
・以上が,「資質・能力」と「教育内容」と「教材」との基本的な関係である。こう考えると,学習指導要領での示し方において,資質・能力と教育内容との関係は,目的別に,発達段階を考慮しつつ,両者の関係を決めていく必要がある。現在は内容が羅列されていて,目的別になっていない。
・「生きる力」の構造図については,全体の三つの関係(「豊かな心」が全体をなし,「確かな学力」と「健やかな体」がその中の部分とされている構造)は踏襲すべきであるが,次期も「生きる力」の考え方でいくとは限らないので,他の点では大きく変えても構わない。

(2) 教育目標,指導内容,学習評価を一体的に捉えた教育課程のあり方について:

<主な論点>

○資質・能力を適切に評価する手法の中で,「パフォーマンス評価」「ルーブリック」「ポートフォリオ評価」等の位置づけについて

(例えば,について)
・学習指導要領や学習評価の通知等で,従来の手法に加えて,または代えてこれらの手法をどう示すか。→ すでに小・中学校ではかなり行われているのに,その妥当性や効果が教員や子どもに対して調査されていないので,まずその調査データを示し,検討を加える必要がある。その上で,これらが実際に教員の大きな負担になっている場合は,その軽減方法を例示することが必要である。
・学習指導要領上に包括的な「本質的な問い」や重点的指導事項例を示すことは「例示」としてはよいが,現在の「内容」の提示と同じにならないようにする必要がある。「問い」と「内容・事項」とは異なるので,「問い」自体を示してしまっては,実際の子どもを前にして問いを立てる教員の工夫の度合いを狭める心配がある。その意味で,それはそれほど具体的でない抽象度の高い問いにする必要があり,具体例は「解説書」等に示すべきである。「パフォーマンス課題」や「ルーブリック」等は子どもと共有しても良いものであるから,教員に任せて子どもとつくる場面が学校現場にあってもよく,示すとしても「解説書」等に参考資料として例示するだけにとどめた方がよい。
・観点別評価や,国教研の示すその評定への変換方式の負担感は,小中の場合はあまり強くないように思うが,高校教師の場合は授業負担により生徒の数も増えるとともに,観点別評価の欄の扱いにも問題があるので,抵抗は強いと思う。問題の解消と,負担感の減る措置・工夫の例を示すことが必要である。

○教育目標として示すべき内容,示し方,測定方法について:

<主な論点>

(「例えば」について)
・目標として示すべき項目としては,現在,学習指導要領に各教科等の目標,学年の目標が,観点別評価を念頭に示されているが,「資質・能力」として示す方針とどれほど違うのかがよくわからないので,まず違いをはっきりさせる必要がある。
・学習指導要領上,一定の到達目標を示すことは,その実現に責任をもち,到達しなかった場合の措置を保障する覚悟が教員・行政側にあるのなら,可能な限りそうしてよい。ただし,「知識・技能」の領域に絞ることが妥当であり,「思考力」や「態度」の領域にまでそうすることは困難であるだけでなく,望ましくもない。
・「関心・意欲・態度」や人格特性・価値観に関わる資質・能力については,指導の改善のための「評価」はしてよいが,子どもを序列化する「評定」は,してもよい部分としてはならない部分とを峻別して行う必要がある。「評定」してもよい(できる)部分は,マナーや習慣形成などに限るべきである。

○目標,内容,学習評価を一体的にとらえた具体的なあり方について:

<主な論点>

(「例えば」について)
・学習指導要領の構成・内容として,具体的に「単元レベル」での「評価」(「評定」でなく)を柱にするよう示すことが必要である。これにより,教育課程評価によるカリキュラム・マネジメントが具体化するからである。カリキュラムの中のある箇所にテストを埋め込んでおくという「カリキュラム内蔵テスト」をつくれるとよい。
・各教科のテスト,高校入試・大学入試のあり方については,全体に,多様な方法・観点で評価し,入試はあくまでも下位の学校段階に悪い影響を与えないように,そして,ある程度時間をかけて行う必要がある。現在,多くの大学がやっているような,手軽に,負担を少なくして,良い生徒を選ぼうとするやり方はもう許されない。

○国として指導方法を示すことについて:

・資質・能力の獲得につながる手立てとして,国はむしろ多様な指導方法・指導形態・指導技術を,解説書に,具体的な授業例とともに例示するとよい。学習指導要領に示すことは,これまでの大綱化の流れを受けるならば,教員の創意工夫を狭めるので望ましくない。一つの指導方法だけで,全ての授業が済ませられるわけではなく,「教育目標」によって方法は異なることを意識させる必要がある。主な方法と副の方法の組み合わせなども,授業の目標次第で変わるはずである。指導方法は「指導過程」「学習過程」と不可分だが,これも学校現場で種々工夫できるように示す必要があり,一つの過程を絶対視させないよう留意しなければならない。
・観点別評価の現在の方式(国教研の示すもの)は,私は見直す必要があると考えており,高校の教師からは疑問視されている。本来の趣旨を一貫させ「評定」には使わず,「評価」のみに使うべきである。

(その他)
○学校現場での実現可能性について:
(「例えば」について)
・教員に正確にその趣旨を伝えるために,インターネットによる個々の教員への説明・資料送付を徹底し,教員の自由な部分とそうでない部分とをわかりやすく区別して伝える必要がある。
 教育委員会に対しては,現場への締め付けを,厳に戒める措置やシステムが必要である。
・カリキュラム編成のスタンダードづくりに向けた取組みとは何を意味するかにより,答えが違ってくる。一般的に言えば,日本の学校の教育課程編成はほとんどどこも標準的なものになっており,国が示す必要があるのはどこなのか,私にはわかりにくい。ただし,到達目標で示すべき部分(小学校4年頃までの読み・書き・計算の技能)をつくる場合は,スタンダードを明示して,教員・行政側の,その保障の責任を明確にすべきである。
・教員養成・研修は,もっと勤務条件にゆとりを持たせることと組み合わせて,「優れた教員」になることを動機付ける何かがほしい。「顕彰」制度などの充実が必要であるとともに,保護者や社会とのプラスの関係を強める必要もある。

○国教研や研究開発学校の研究成果や先進事例の成果等の活用については,以前と比べてずっと増えたが,それは本来,国教研などの国の機関が,全国的な研究事例を整理して,政策提言に生かす責任があるのであり,そのような体制や意識の確立が必要である。

(個人的な付加)
・国教研の発表には,どの発達段階でも同じでよいとする過剰な一般化が見られたので,「発達的視点」が入らないと具体化できないと思っている。
・「能力」ではなく「資質」の方に「人格性・道徳性」が入ることを明確に意識してほしいことと,それを国研の「21世紀型能力」のように,全てを一元化して,「能力の中の一部分として含める」ことには反対である。それでは,能力の質を「対象化」して吟味するような主体形成=資質・人格性は始めから排除される心配がある。むしろ,能力を何に使うのか,という方向付けをするのが「人格」の方なので,そういうチェック機能をもたせる意味でも,「人格」的な資質は能力の外に置いて,「人格の中に能力を位置づける」という一元化,全体と部分,主と副という二元的な構造の方が妥当であり,大切である。
・学習指導要領を「リソース」として使えるようにしては,との声があったが,それなら「試案」ないし「ガイドブック」的な,規制力の弱いものにすることも一案である。「規制緩和」を進めるならば,その方向を考えるべきである。
・公教育学校は「子どものために」国ないし地方公共団体が設置を義務付けられたものであり,「国や地方公共団体のために」設けられているのではない。あらためて,教育課程に国などの公権力が直接,ある知識を正しいとして子どもに絶対的に学ぶよう求めることは,現行法制上「教育の政治的中立性」の観点から大いに疑問があり,中国や韓国の公教育を批判できなくなる。日本の将来を決めることができる,「自立した子どもの未来決定の自由=主体性」を保障する教育課程でなければ,「教育」ではなく「教化・訓練」に過ぎないこと。

以 上

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