「心のノート」の改善に関する協力者会議(第2回) 議事録

1.日時

平成20年10月20日(月曜日)14時~16時30分

2.場所

ホテルフロラシオン青山 3階 「クレール」

3.議題

  1. 「心のノート」の改善について

4.議事録

○ 事務局より配布資料の確認が行われた後、「心のノート」の改善等について審議が行われた。議事については以下のとおり。

【委員】

 まず最初に、事務局から配付資料のご説明をお願いします。

【文部科学省】

 「心のノート」の改善の方針を前回ご協議いただきました。
 1つ目は、学習指導要領改訂における内容項目の改善の内容を踏まえた改善です。この点については、例えば小学校低学年の「働く」、中学年の「自己の特徴を伸ばす」、中学校の「感謝」、それ以外にも表現が幾らか改まっている内容についての改善となります。
 2つ目は、学習指導要領改訂における道徳の指導内容の学年段階ごとの重点化を踏まえた改善です。この点については、小学校の学習指導要領の第3章道徳の第3に示された重点化に配慮すべき教育課題的な内容についての改善となります。
 3つ目は、道徳の時間などで一層使いやすいよう記述欄の工夫等を図ることです。
 本日は、それらの大きく3つの方針に基づいて作成した「心のノート」の改善案について御議論いただきたいと考えております。
 まず、指導の重点化として、低学年では、1つ目としてはあいさつなどの基本的生活習慣、2つ目は社会生活上の決まりを身につけること、3つ目は、善悪を判断し、人間としてしてはならないことをしないこととしております。
 1枚めくっていただきますと、自立心、自律性、あいさつなどの基本的な生活習慣にかかわるページです。「早ね、早おき、朝ごはん」、「あいさつ、へんじ、あとしまつ」など、子どもたちの心に残りやすいメッセージと絵で構成しています。
 2ページは社会生活上の決まり、さらには自立心、自律性にもかかわるページです。決まりを身につけるということから、いわばバッジを身につけるということで、Tシャツにバッジをつけていこうという、そのような構成で仕上げています。主に社会生活上の内容であるため、かかわりが一番強い4の視点の最後に置く内容になっております。
 3ページは、善悪を判断し、人間としてしてはならないことをしないこと、今回特に強調されている最低限の規範意識にかかわるページです。お化けの世界を描き、お化けに対してメッセージを送るという形で構成しています。
 4ページからは、内容項目の変更にかかわるページになります。今回、「みんなが使うものを大切にし・・・」という4の(1)の内容項目で、「約束や決まりを守り・・・」という表記が先になりました。このため、ここでは、特に約束や決まり探しのページを先に持ってきて、現行のページを変更し、調整したものです。子どもたちが進んで自分たちの決まりを探したり、気持ちよく過ごしたりするこつを探すような構成になっています。
 5ページは、4(1)の内容項目の後半の2ページになります。「みんなのものを大切に」という表現が内容項目の後半に来たことから、今まで前半にあった着眼点やイラスト等を生かしつつ、後半に構成し直して、記述欄の配慮もしています。
 次の6ページ、7ページは、低学年に新たに設けられた4(2)の内容「働く」ということにかかわるページです。4ページ構成で、主に前半は、どんな仕事も大事だということが感じ取ることができる構成です。さまざまな仕事、そして子どもと大人のそれぞれの視点から考えられるような構成で配置しております。
 7ページの左側には子どもたちの身近な生活の中の日直当番を頑張ってやったという日記が掲載されています。右側には、それを参考としながら、自分の頑張っている仕事について記述する欄を設け、最後には先生や家の人からメッセージを送ってもらうコーナーを配置しております。
 8ページからは、主として記述欄の工夫等にかかわるページです。8ページでは、道徳の時間での活用を促すという趣旨で、「こんなどうとくのべんきょうをしたよ」というのが1年と2年で目安として3回ずつ書けるような構成になっております。足りなくなったら、その後のフリーページに書いてみようというメッセージも配置しています。
 9ページは、「がんばったよ、うれしかったよ、できるようになったよ!!」として、1年間の総合的な振り返りができるようになっております。「心のノート」の4つの視点にかかわる四つ葉の色を生かしたりイラストを生かしたりして、子どもがそれぞれの視点から自分を振り返ることができるようわかりやすく構成されております。
 10ページに「いえの人からのてがみ」があります。これは家庭との連携を生かして、子ども自身が入学前からずっと継続的に成長してきているということをイメージでき、この心のノートが一生の宝物になるよう作成しています。
 次に小学校中学年です。
 1ページですが、これは小学校低学年の、「人間としてしてはならないことをしないこと」からつながるページであり、集団や社会の決まりを守りという最低限の規範意識についてあらわしているページです。
 巻き物で、「人の世の決まり」ということで、傷つけるな、盗むな、うそを言うな、弱い者いじめをするな、ひきょうなことはするなという言葉を置き、まず、こんなことをしたら人間として恥ずかしいということについて、子どもたちにきちんと考えてほしいという願いのページになっております。
 2ページは、人間関係にかかわる内容ですが、「『「合い』の力で、心と心をつなげよう」ということで、「合い」という文字を使って、「学び合い」、「支え合い」、「助け合い」をイメージしています。ここにはオリンピックでバトンパスなどの力で銅メダルを得たリレー選手の写真を右側に配置しています。
 3ページ、4ページが自分の特徴や個性を伸ばすということにかかわるページです。3ページでは「自分のよいところはなんだろう?」「気になるところはどこだろう?」ということで、左側によさを4つ、右側に気になるところを3つ配置して、子どもが自らを投影できるようにしています。右の下には、北海道で病気で亡くなられた子どもの「12色」という色鉛筆についての詩を入れております。
 4ページは作業ページになりますが、左側には、「人生の先ぱいに学ぼう」ということで、伝記を読んだ記録を書いてみようとするページを、右側には、ダイヤモンド、つまり自分のよさを見つけ伸ばそうというページで構成しています。これが新しい内容項目にかかわるページとなります。
 5ページには低学年と同じように道徳の時間にかかわる記録ページがあります。3年生、4年生で主におよそ5回ぐらいずつ書けるような構成になっており、最後には「メッセージをもらおう」となっています。
 6ページは、先ほどの低学年の4色で振り返るのと同じように、中学年も富士山を背景にして4つの視点で振り返るという構成のページにしています。中学年の冊子の最初にもは富士山が大きく配置され「心のノート」の構成の鳥瞰図に合わせた構成になっています。
 P7は内容項目の変更の中で、特に記述欄の充実をしたところです。
 次は高学年 の改善案になります。
 まず、1ページ目では自立心、自律性に関して、自転車のハンドル、ペダル、ブレーキをイメージして、右側にその意味を考えながら、もう甘えられない自分ということで、1の視点の最後に配置することになっております。
 P2は、最低限の規範意識、法や決まりの意義の理解にかかわるところとして、「ダメですか?、ダメです!」ということで、低・中学年から続く内容になっています。ややイラストを滑稽にするなどして、子どもたちが楽しく話し合える部分も含みながら、だめなことはしっかり押さえるという構成としていることをごらんいただければと思います。
 P3では、タイトルをあえて置かずに、さまざまな人に出会い、さまざまな人間関係があり、「行きちがい、すれちがい、かんちがい」と右の上に書いてあるように、「心もさまざまな天気模様」というような趣旨で構成しています。
 P4は集団の一員の自覚にかかわるページですが、この集団の一員というのは、身近な集団の一員、社会の一員、この国の一員、地球の一員というような広さの中で、いわば同心円的な視点から自分の位置を理解できるようなイメージの持てる構成で考えております。
 P5は、自由・自律・責任というキーワードで構成された内容項目のページです。今まで自由というトーンが全体を貫いていたものを、もう少し自分を律して責任を持ってこそ自由な思いを輝かせることができるという趣旨を強調してページを調整しております。
 最後のP6は低・中学年にも同様にあります道徳の時間で気付いたこと、あるいは自分の糧にしたいと思うことを書いておくようなページになります。
 このような構成で、低学年は16ページ増、中学年・高学年は8ページ増を基本として改善案を考えております。

【文部科学省】

 今ほど調査官からご説明申し上げました中に、低・中・高学年それぞれに規範にかかわる内容として、人間として絶対してはいけないことということに係る内容を記述をしておりました。特に、このたびの学習指導要領の改訂に係る中教審の審議におきまして、殺すな、盗むな、うそをつくなといった根源的なことについてしっかりと考えていかなきゃいけないということを提言をいただいております。学習指導要領にも低学年から人間としてしてはならないことをしっかりと指導していくといった学年段階ごとの配慮事項ということも示されております。
 そういったことを基に、「殺すな」、「盗むな」、「うそをつくな」、それに加えて一般的にしてはならないと考えられることとして、「ひきょうなことはするな」、あるいは「いじめるな」といったことについて、低・中・高学年、中学校、それぞれを貫いて繰り返し記述をしております。

【委員】

 ありがとうございました。3点、指導の重点化に関することと、変更に関することと、記述欄の工夫、それを各学年段階ごとに落とし入れて工夫してくださったものを具体的にお示しいただいたと思います。
 中学校を後回しにいたしまして、まず小学校の3つのブロックについてご意見を伺いたいと思いますが、やはり一番中心になったのは、規範意識ということだったかと思います。
 結局、規範というものをいわば帰納的に身につけていくのか、演繹的にそれを身につけていくのかという、2つの方法がございますが、かなり今回は演繹的な方法をとって規範というものを考えようという、大きな方針があったと思います。
 1時間ございますので、ゆっくり議論をしていただけるだろうと思いますが、どこからでも自由にお話しいただけたらと思います。

【委員】

 今、事務局から、「してはいけないこと」に関する小学校低・中・高学年、中学校の系統が示されました。同じような問題意識を私はもちまして、現在示されている内容を縦に検討しました。検討する過程で気がついたことを申しあげます。
 一つは、道徳は、本来、個々人の内面から生まれるものでなければならないが、集団や社会から要請されるものもある。このバランスこそ大切ではないかということです。このことは、先ほど座長が演繹、帰納という表現をされましたが、そういうことです。
 確かに伝えるべき文化はきちんと伝えるということは大切ですし、我々が昭和20年からずっとそのことをおろそかにしてきたという反省も含めまして、やはり考え直さなければならないことですが、同時に学習者の意識に基づく部分も大切であると思うのです。ですから、例えば、「どこどこの子どもたちはこのように考えました、もっともなことです」というような形で、集団や社会から要請されるものと子どもが意識するものとがうまく調和するような形で落ち着かせないと、一方に偏る教育になるのではないかという心配があります。
 それからもう1点感じたのは、意義のところです。心のノートですから、当然、形だけでなくて心が問題にされなければならないと私は思うのです。
 その心がどのように記述されているかを見ますと、例えば低学年では、「あんしん、あんぜん、いい気もち」としています。中学年では、「こんなことをしたら人間としてはずかしい」としています。それから高学年は、「人間として生きていくうえでダメなことはダメ」としています。中学校は、「多様な価値観を持っている人と共に暮らす社会、だからこそ厳守すべき」としています。
 どうも、「だめだ。だめだ」という表記が出過ぎている感じがするのです。

【委員】

 ありがとうございました。今、話題になっているのは、私の言葉で言うと演繹と帰納ということで、すべてにおいて帰納がいいのか、物によっては演繹があり物によっては帰納があるということも考えられるのではないかということかと思います。

【委員】

 低学年、中学年の事務局案では、禁止事項を具体的な行動で示して、これしてはいけない、あれをしてはいけないというような説教のにおいがとても強い。この「人間としてしてはならないことはしない」という議論は、たしか、中央教育審議会の専門部会で「殺すな、盗むな、うそを言うな」という、人間が昔から持っていた大切なものが守り切れないところに人間の弱さがあるといった議論を踏まえたものだと思います。
 案を見ると、「殺すな、盗むな、うそを言うな」というのを単に言えばいいというレベルでしかとらえてないような印象を大変受けるのです。それでは、子どもたちは「心のノート」でそういうことを初めて学ぶのかというと、むしろ逆で、小さいときからしてはいけないということは嫌というほど聞かされている。それにもかかわらず守り切れていない日常があるのをどう考えていったらいいのかというときに、行動を外から取り締まるのではなくて、行動を支えている心のありようをどのように変えていったら行動が変わっていくのかという筋道を前提に考えるのが道徳の立場であって、外から禁止事項を並べ立てて、それにはまるように動けと押しつけるのであれば、とても道徳教育とはいえないのではないかと思います。そうしますと、これは脅していけないぞと言っているだけで、なぜいけないのか、どうしていけないのかを考えるような仕掛けになっていない部分を非常に危惧いたします。
 ですので、例えば低学年で「身につけよう、心のバッジ」というページがありますが、これも、ほとんどがしてはいけない禁止事項ですが、ここにない別の禁止事項は守らなくていいのかという話になります。特に低学年は、ほんとうに杓子定規に言われたことを1対1の対応で考える発達の段階ですので、この禁止事項を指導するときにどう使うのだろうかと思うわけです。
 それから、お化けに関するページにしても、いかにもしてはいけないことを並べています。例えば「うそをついてはいけないよ」とありますが、低学年の子は、「うそ」というのが実はまだよくわからない。自分で信じて間違ったことを人に伝えても、うそをついたということにもなる。それを意図的にだますためについたうそと同じようにして責めていいのかと考えると、単純にこういうスローガンで良いのかと感じます。

【委員】

 私は全く正反対で、非常にすばらしくできているなと思っています。本来、家庭教育が教えるべきことを、家庭があまり教え込むことができていない現状があります。
 ですから、大人が当然、幼稚園や学校に入る前に教えておくべきだ、教えることができるんだという前提になかなか立てない時代なのです。ですから、教えるべきことはもっときっちりとやってもらいたいなと思います。
 先ほどからずっとお聞きしていますと、誤解を招くといた旨の議論があるのがちょっと私は理解できないのですが、何に対して誤解を招くのかお教えいただきたいと思っています。もっと教えるべきことはしっかり私は教えるべきだと思っています。ですから、私はこれに非常に賛成です。

【委員】

 小学校の現場からどう使うかというところなんですが、これは副読本ではないので、丸々道徳の時間に使うことはない。道徳の時間ですと、心にどんどん染み込んでいかないといけない。でも、小学校だけではないと思うのですが、過日もある高校で、廊下で走って生徒が命をなくすということがありました。廊下で走ってはいけないことはわかっている、でもやってしまう。子どもに注意すると、子どもは「なぜいけないの?」と聞くのですが、理由がないのもあると思うんです。人を傷つけるなとか、盗むなとか、ひきょうなことはするな。理由なくいけないものは、子どもに理由を教えるのではなくて、やってはいけないことをやってはいけないと教える部分がなければならない。
 そういうことは副読本ではできないとなった時に、「心のノート」が必要になってくるかなと思います。
 もう1つ、この間、伝統文化の中から規範意識をというお話を聞いたときに、なるほどなと思いました。例えば茶道をやっていて、茶道をやるために、和の心の中にこういうことをしてはいけないとかという決まりがある。そういう部分からもっていくと少しやわらかみが出るかなと感じております。

【委員】

 ただいまの問題は中央教育審議会の専門部会でもかなり議論をいたしました。規範意識の中に禁止事項を入れるか入れないか。専門部会でも2通りご意見があって、なかなか結論は出なかったと思います。
 ただ、禁止の全くない成長というのはあり得ないだろうと思います。赤ん坊が生まれてきて、泣いてお乳をもらう。ただし、泣けば必ずお乳がもらえるわけではなくもらえる時ともらえない時があって、「だめ」という中で自分の欲求をコントロールすることを学びながら成長していくわけです。もう少し大きくなりますと、赤ちゃんが積み木をなめてもそれほど叱られませんが、トイレのスリッパをなめると母親あるいは保育士さんが飛んできて「だめ」とおっしゃる。赤ん坊にとっては全くこれはわからないことなのです。なぜこっちはなめていいか、こっちはなめてはいけないかはわからないのです。しかし、そのわからないことを通しながら、生きていく場合には「だめ」ということがどうもあるらしい。「だめ」というのは大人が決めたことのようで、自分たちがかかわって決めたわけではないが、「だめ」ということに適応しなければ生きていけないので自分の欲求をコントロールしながら自分で自分を律していくことになる。自分の欲求を「だめ」という禁止にぶつかってコントロールして、すべての欲求がそのまま満たされるわけではないことを学んでいくことで、自分の中にスーパーエゴ、つまりは、自分を律する核のようなものができていくのです。今、そのスーパーエゴが非常に育っていない若者が増えてしまっていて、自分の好きなことでなければ働きたくないというような若者たちが出てきているということで、大学の教師たちも困っています。
 そんなことを考えますと、子どもの成長のプロセスの中で、やたらに禁止事項がたくさんあるのはよくないのですが、禁止事項がゼロでなければならないということはないだろうと思います。
 べからずということ、あるいは何々すべしということを少し恐れ過ぎているのではないかというような意見も専門部会で出たように記憶しております。そのようなことを考えますと、禁止事項を全部取ってしまわなければならないということはなくて、やはり人として守らなければならない必要なことは言葉としてはっきり出してもいいのではないかと思うのです。 赤ん坊の時から家庭なり、あるいは保育所なり幼稚園なりで少しずつ少しずつ子どもたちの中に育ってきたものを言葉で確認することも良いのではないかと思うのです。
 「人をたたいてはいけない」という行為を言葉で確認する営みがあることがマイナスであると私は思いません、表現その他には問題があるにしても、この何々してはいけないというのが若干入ってきているという改訂に関しては、むしろ1つの流れであろうし、好ましい流れであろうと思います。

【委員】

 私は、様々な議論が現代の大人のいら立ちから出ているという感じがしています。いら立ちにある時は、むしろ事を決するには冷静を取り戻す必要があるだろうと思います。
 この規範意識の問題も、現在の若者には過去にはとても考えられなかったようなことがあるということで、一足飛びに対症療法に行くのが我々の常なのですが、子どもの成長のプロセスというような比較的科学的にあるいは学問的に説明されていることをもう一度しっかり見ていく必要があるのではないかと思っています。小学校の低学年くらいまでは規範を与える神様に当たるような人が具体的な人物として存在します。それは、母や父や幼稚園の先生であったり、あるいは学校の先生であったりします。
 ところが、子どもたちは中学年くらいからはむしろルールを自分たちで、仲間のうちで決めていく段階があり、さらには、自我の成長とともに悩み苦しみながら自分なりに自分が生きていく上でのルールをつくっていくプロセスがあります。
 ですから、私は、小・中学校をずばっと全部同じ発想で、1本で考えていくのはいかがなものかと思っているのです。
 ですから、一、二年生くらいのところまでは確かにしっかりと禁止というか、すべからずを教えなければならない時期だろうと思います。しかし、それは次第に緩めていかないと、子どもが自律をしていく、他律から自律への成長にしっかりとかなったものにはならないのではないでしょうか。「心のノート」が当初から、子どもが自ら見て、そしてそれを基に考える、そういう自ら学び自ら考えるという材料としてつくられたという趣旨は今回も変わっていないと思うのです。

【委員】

 一連のお話をは非常に納得するところも多いのですが、難しいのは、成長段階による違いです。この新しくつくられたノートの中に、人間としてしてはならないこと、人間として守るべきこと、人間としてやるべきこととか、そういう人間としてというのが随所に出てきますが、これはもしそのことを守らなかったら、あなたは人間ではない、あるいは人間として生きられないということになりかねないわけで、そこを否定されてしまうと、これはどうにもならないなという感じがするのです。この「人間として」という言葉はそう安易に使えない言葉ではないかと思います。
 もう1つは、禁止事項があるべきかどうかかですが、それは当然両方があるのが生き物の世界だと思います。動物の場合は、人間のように頭で考える倫理や道徳というのは当然ありませんが、その生き方は極めて倫理的です。例えば、昆虫は、特定の種類の草にしか卵を産みません。たくさんの葉っぱがあるのにサンショウならサンショウにしか、あるいはキャベツならキャベツにしか卵を産まないのです。さらには、キャベツに産むと、そこから芳香が出て、次のものは産めないという産卵抑止機能もあるのです。例えばほ乳動物でも、見ていると、大体3分間葉っぱを食べると次の木に移っていくのです。また次の木で葉っぱを3分食べるとまた移るのです。なぜ3分なのかと調べた人がいるんですけれども、3分たつと、葉っぱの中にタンニン酸がすごく出てきて苦くなるのです。だから、それ以上は食べないのです。ということになると、木と動物との間に、「私の葉っぱ食べていいけど3分間だけにしてね、そうでないと枯れてしまうから」という倫理が成立しているのだろうと思うのです。
 人間にもそうした生物的な倫理は当然あった、あるべきだと思うのです。しかし、生物的な倫理は頭で考えるようになってから覚えるものというよりは、生まれて2年とか3年の間にかなり入っていくものだと思うのです。例えば、トラは親のおっぱいを飲む時に爪を立てたり歯を立てたりするとものすごく親にかまれます。それでぎゃあぎゃあ鳴くんです。それを何回か繰り返していくうちに、乳房をもむ時に爪を出してはいけない、乳首を吸う時に歯を立ててはいけないということを覚えていきます。そうすると、大人の世界に入った時に生噛みができるようになるのです。
 そういうものは、生き物が生き物として育っていく段階で覚える生物学的な倫理だと思います。そういうことをしていない者に対してどう対処するかというのが現代の育児の一番難しいところだと思うのです。頭で理解してそれをやめさせる以外に方法がないからがんじがらめになってくるわけですが、生物学的な倫理を体得しないで保育所に行き、幼稚園に行き、学校に行く子どもたちに対して、我々大人はどうするかという、そのことを真剣に考えないと、本当の解決はできないのではないかという気がするのです。そういう意味で、人間としての成長のプロセスをオミットしてしまうと、なかなか対応が難しいのです。ただ、動物はそこでやらなかったら一生だめですが、人間は考える動物ですから、そこでやっておかなくても、人間は回復できると僕は思っています。その回復の仕方というのが、実は「心のノート」が今必要となっている最大の理由と僕は考えるのです。

【委員】

 会津藩の什の教えの中に、「ならぬものはなりませぬ」と言うものがあります。その後に続くのが、なぜなら、これは人の道だからと付くのです。
 ですから私は、「人間だから」ということではなくて、「人の道としてどうあるべきか」という、まさに心の中に常に持っていなければいけないものだと思っていますので、やはり小さいときにかなりきちっと教え込んでいくべきものは教えなければならないし、自立心が出てきてからは、段階的に自分の考えをもっと反映できるような自由な裁量が必要かなと思っていますので、すべて強制的に頭から、上から物を押さえつけるようなことではないということもあわせてお話ししておきたいと思っています。以上でございます。

【委員】

 皆さんのお考えを聞いておりますと、伝えるべきことはしっかりと伝えなければならないということは共通していると思いますが、問題は、それをどういう形で伝えていくかだと思います。それを、子どもがそうだなと思って受けとめて、自分のものにしていかなければ意味がないわけですから、子どもの意識に応じていかにこれを伝えていくかということの工夫をしないといけないということです。

【委員】

 例えば、街を歩きますと、「ダメ。ゼッタイ。」という、たったそれだけのポスターがございます。これは麻薬禁止のポスターなのです。麻薬を使うということは、何が何でも絶対だめだと、こういうきりっとした断言が非常にさわやかで、これしかないというように思いました。とかく判断を超えて共有すべきモラルでしょうか、人間としてのあり方でしょうか、そういうものもあるのです。先ほどから出ております。殺すな、盗むな、うそをつくな、ひきょうなことはするな、いじめるな、この5つが麻薬であるとすれば、これはもう絶対だめだと、そう教える、中川委員がおっしゃった、生噛みの話あるいは3分間以上食べるなというのと同じということになるわけです。ですから、それが仮にそうであるのならば、これは文句なく人間として生まれた途端に規律として持っていなければいけないことだなるわけです。そうなりますと、これはもう理解させるというよりは、完全に教えることになるわけです。教育の「教」という字は、ムチを持って加えるという字ですね。教育の「育」という字は肉を与えるということですから、現代の言葉でいうとアメに当たるわけで、まさに「教育」という孟子がつくった言葉は、そのとき以来アメとムチということで決まってきたわけですので、ムチの部分、つまり「教」の部分もやはりなければならないということになります。しかし、そういうことがありながら、とかく人間というものは、まさに内発的なものにしか価値を置かない、あるいは身に付けないということがとかくございますので、こういうことも絶対に必要なわけです。

【委員】

 学校では教師が個別の子どもにかかわって、どういうふうに指導したらいいのかというレベルで指導の在り方を考えるのです。「心のノート」は全国一斉に全児童生徒に配るものですので、これが共通の規範だとなったときに、例えば先ほどの絶対にいけないことというのは、もう理由なしで強制する必要があるものになると思うのです。このため、教師がこれを子どもに「してはいけません」と言ったからには、している子どもがいたら直すように全部努力しなければならないわけです。
 こういう禁止事項が細かく増えれば増えるほどそれを教師が全部チェックできなくなるのです。そうすると、見逃されている時にはいいのかとか、あるいは軽い禁止事項と重い禁止事項の区別をどうやってつけるのかというのを全く検討せず、手つかずのままでいると、結局はルールや決まりそのものが全体としておろそかになってくるのです。
 学校が荒れるパターンというのは実はそこにあって、指導が困難な学校を立て直すときには、これだけは絶対に許さないようにしようということをせいぜい3つか4つぐらい教職員が共通理解して、そこから子どもと一緒に努力をするのです。そういうことがあるから、このように共通で全体の網をかけた時に、かけた網はいいけれども、そこから出てくるものを手当ても何もなしにどうするのかということの危うさを心配しています。

【委員】

 皆さんの話を聞いていて幾つか感じたのは、1つは、やはり「一人前として」と断言しちゃうと、引っかかるかなというのは感じました。もう1つ、覚醒剤の、絶対だめというのははっきりわかっていいですね。絶対だめなら絶対だめだということをはっきりさせておくことも大切だと思います。例えば「わたらない、おうだんほどうのないところ」というけれども、うちの自宅の前の道は1つも横断歩道はありません。「ごみはもちかえろう」という一方で、ごみはごみ箱へ入れろというのもあります。子どもたちが自分たちで考えなければならないことと絶対いけないこととがはっきりわかるようにする必要はあるかなと感じました。

【委員】

 原案には、殺すな、盗むな、とありますが、これは、誰しもしてはいけないことです。しかし、うそをつくな、ひきょうなことをするな、いじめるなについては、私だって自分と戦いながらも、うそをついたりひきょうなことをしたりいじめたり、してしまいます。これが、よく生きようとしている一人間の悩みです。苦しみです。この5つでも軽重があると私は思うのです。そういう含みも持たせて考えていかないと、いけないと思います。

【委員】

 私もだめなものはだめだということははっきりしたほうがいいと思うのですが、うそつきというのは、例えば振り込め詐欺で「お父さん、お母さんいませんか」と言われて、いるのに「いない」と言うとか、そういうのはあるわけであって、だから、言って良いうそと悪いうそがあるといった面があります。

【委員】

 議論していくと明確に見えてくるのは、絶対だめなものと、そうではないが心がける、あるいはそのことによって我々自身が悩むようなものというのがありますね。ただ、絶対やってはいけないものは、結局、法に触れることが出てくるのです。厳密に例えばカントのように適法性と道徳性を分けるならば、法にかなってなければならないというものともっと主体的に良き動機を持って事柄をやろうというものとの境目が出るのですが、どうしても絶対だめなものは、これは法の理論になっていくと思っております。

【委員】

 先ほどから挙がっております「殺すな」、「盗むな」などというのは、ある意味では絶対的に法に触れる。しかし、うそをつくことにおいて結果的にそれが社会的な損害を与えるということになると、またこれも法に触れる。しかし、「ひきょうなことをするな」、「いじめるな」というのはかなり倫理的なものだと言えます。

【委員】

 絶対にしてはいけないことの中に軽重があるというのもわからないではないのですが、殺すなかれというモーゼの十戒が機能しているはずのキリスト教国で絶大な殺し合いをやってきた歴史もございます。人間というのはそういうものでありますが、それを知らないで殺すのと、掟に反していると思いながら殺すのとではどこか違うのではないかと思うのです。
 私は戦前、修身教育を受けました。「うそをついてはいけない」ということをしきりに言われましたが、うそはつきました。ただ、うそをつきながら大変心を痛めました。それから、ひきょうなことをしてはいけないということもしっかり教わったのですが、私はかなりひきょうなことをしたことがありました。同じことをした人の中の1人が咎められました。その時に先生から「同じようなことをした人は出ていらっしゃい」と言われたときに出ていかなかったんです。黙って下を向いて出ていかなかった。そのことを本当に帰り道に悩んで悩んで、どうしてあの時出ていけなかったんだろうと後悔しました。
 当然のように、「見つかっちゃったあの人だけ出ていけばいいんだ」と平然としているのと、「本当は私も出ていかなきゃいけないのに」と悩むのと、やはりその辺が違うんだろうと思います。
 そしてそういう悩みの中で自分を律する心というのが育っていくのではないかという気がいたしますから、どの宗教でも、あるいはどの道徳律でも重要視しているようなこと、やはり殺すな、偽るな、盗むな云々というような3つか4つくらいはやはりしっかりとどこかで示しておいて悪いことはないだろうと考えます。

【委員】

 宗教によりましても、モーゼの十戒や仏教の五戒など様々にあります。キュングが世界宗教として、全部に共通することを宗教にしようとしたこともあります。そういったものを拾っていけば、「殺すな」、「盗むな」というのは絶対的にありますし、「うそをつくな」というのは、例えば仏教で言う「不妄語戒」です。
 「心のノート」については、先生方の教え方、扱い方が非常に大事で、これを強制的なものばかりとして教えるのであれば教え方が間違っていると思います。じゃあ、我々として、どのように扱いたいと考えているのかというと、これは私の理解にしか過ぎないかもしれませんが、我々の決まりというのは、やはり人間が中心だと思います。ですから、公共心とか他者への協力というようなものの外枠に社会なり国家なりがつくられて、それがさらに広がると地球という規模になってくる。その地球全体の平和なり幸福なりというものが外枠にあって、さらにはそれを宇宙化していくという、この同心円を描きながら考えられていく骨組みは非常に大事だと私は思っています。そのことにおいて、例えば個人を全く中心に置かない考え方があるとすると、やはり解釈が間違っていると思うのです。ですから、人間を中心として同心円を描きながら教育がされることが望ましいというこの基本的な精神を持って教えてほしいと思います。

【委員】

 例えば低学年のイラストについてもいわゆるチャレンジドの人たちが全然描かれていないので、健常の人たちだけの世界を前提にしたイラストかという誤解を招かないようにと思います。

【委員】

 今のことに関連して、低学年のイラストですが、眉毛の有無や手の指の有無、男女の人数のバランス等に配慮いただければと思います。

【委員】

 全体としては随分よくなったという印象を受けたのですが、こんなことをしたらすごいとかよくやったねという、子どもたちがそれを見て、自分のやったことはよかったんだと心の中で快哉を叫ぶような部分が少ないように思います。
 それから、家庭あるいは学校に入る前の入学前の子どもたちとどうコミットするかということは、非常に難しい問題でこの「心のノート」の範疇ではないのかもしれませんが、どうしてもそこまで行かないとならないような気がするのです。
 ですから、改正教育基本法では、家庭、地域、学校の連携が言葉としては書いてあるのですが、それを実際にどのように行うのかということがあるかと思うのです。今後、「心のノート」の教師用の手引きもできるのですが、そういうものの中で1つでも2つでも、何か家庭、地域との連携の仕方のようなものを盛り込むことができないかと思います。これは非常に難しいということはわかっているのですが、それをしないと、「心のノート」の本当の意義が出てこないのではないかと思います。

【委員】

 本当に同種のことを私も感じておりまして、この冊子の位置づけを考えたときに、例えば、ご意見にありましたように、もっと主体的に子どもたちの喜びや感動がかかわるようなあり方がいいとすれば、記述欄の工夫というようなことにもつながります。やはり褒められたことなどがこの中に入ることによってこの「心のノート」が自分に親しいものになるとか、そんなことがあるといいと思いますので工夫していただければと思います。
 それでは、次に、中学校の話をこれから少ししていただけたらと思います。それでは事務局からご説明をいただけますか。

【文部科学省】

 それでは、中学校の「心のノート」の改善案についてご説明したいと思います。すと、今回の改善の中身としては、まず、いわゆる指導の重点化に関するものということで、自他の生命の尊重、自立心、自律性にかかわる内容、規範意識にかかわる内容、社会参画にかかわる内容、国際社会に生きる日本人としての自覚にかかわる内容、人間関係にかかわる内容に関する改善があります。
 次に、内容項目の変更につきましては、今回、視点2-(6)として感謝にかかわる内容を新たに加えたことに関する改善があります。
 さらに、記述欄の工夫等につきましては、小学校と調整しまして、道徳の時間の記録にかかわるものや子どもたちがみずから道徳の内容について考えていく手だてとなるように「はじめの一歩」の内容を改善しています。
 改善案について、順番にご説明をいたしますと、1ページは、かけがえのない生命、そして私が地球上にデビューした日、生と死について考えようというところがございます。実は中学校版の「心のノート」につきましては、既に命の偶然性、有限性、連続性といったようなことを示しながら、生命尊重に関して特設のページをつくっております。今回の改善案は、そのことを踏まえて作成しておりますが、自他の生命の尊重ということで誰もが唯一無二の存在であるということで、命というものがただ1つの存在、2つとない存在なんだ、唯一無二の存在なんだということを改めてしっかり押さえるという点と、自分だけのものではなくて、すべての人間、すべての生き物がただ一度きりの尊い生命を持っているということを強調しています。
 2ページは、中学生の発達の段階等も踏まえて、生と死についてしっかり考えさせていこうということで、箴言等を1つ増やしたり、あるいは生と死について思うことという記入欄を増やすなど内容の充実を図っているところです。
 3ページは、自立心・自律性にかかわるところですが、中学生の発達の段階を踏まえて、大きな1つの道をイメージした図を背景にしながら詩を置いています。自分の力で立ち、自分の力で歩いていくとは言いながらも、周りに流されそうになったり誰かに振り回されたり投げやりになったり、周囲の思惑を気にして他人の言動に左右されることも少なくない、そういった発達の段階を踏まえた文言も書き加えて、自分自身がどうありたいのか、あるべき自分の姿はどうなのかという形で、生徒に問いかけをしていくような、あるいは発展的に考えていくような内容で構成しています。
 4ページは規範意識にかかわるところですが。ここでは過去にあったいわゆる「規範」を示して、子どもたちに一人一人が厳守すべきものについて考えさせる構成にしたいと考えております。
 5ページは社会参画にかかわるところですが、地域の祭りやボランティア、異世代との交わり、働く人々、ごみ拾い等々の場面を、写真あるいはイラストとしてここに載せまして、中学生が主体的にかかわって社会参画できるようなメッセージをここで発信していこうと考えています。
 続きまして6ページは国際社会に生きる日本人としての自覚にかかわるところですが、全体的なトーンとしては、日本の文化あるいは伝統、科学技術が、国際社会の色々な場面で意味をなして、非常に評価されていること、あるいは日本の文化そのものが国際社会の中でも受け入れられているといったような部分を写真等でお示ししながら、国際社会に生きる日本人としての自覚といったものを考えさせていきたいと考えております。
 7ページは、人間関係にかかわるところですが、生徒の後ろ姿を背景に僕と君という言い方での詩を置き、子どもたちが悩みや不安、葛藤を持ちながらも、その課題に向かってぶつかって良好な人間関係をはぐくんでいくような内容をここに提示して、発展的あるいは課題性を持たせて学習を進めていくということで提案をさせていただいております。
 8ページ、9ページは、今回新たに加わりました内容項目、いわゆる感謝にかかわるところです。8ページは、いわゆる有り難いというような心の贈り物に気づいていますかということで、子どもたち一人一人に、身の回りあるいは社会あるいは学校、地域、そういった中でありがとうという感謝の気持ちに気づいているかどうかを問いかけております。内容としては、9ページでは、ありがとうという感謝の気持ちを感じた部分を一筆の手紙のような形でお示しをして、こういった場面で非常に感謝の思いを感じたところを示して、「ありがとう」ということをどういうところで感じたかということを問いかけていく形でお示しをしています。
 10ページは、道徳の時間を通じて感じたことや考えたことを書くページを増やしております。
 11ページ、12ページは従来の「はじめの一歩」を改善し、道徳の時間のオリエンテーションでできるだけ使っていただくように、道徳の内容項目の4つの視点を踏まえながら、自己の課題といったようなもの、この1年間こういった道徳性について自分なりに考えていきたい、あるいははぐくんでいきたいことを書けるようにしてはどうかと考えております。

【委員】

 7ページの詩と、小学校高学年の詩とが部分的には全く同じ言葉が入っていたりして、ちょっと重なりがあるのが気になりました。
 細かいことですが、2ページにある文章ですが、生と死という順番では出てこないので「生と死について考えよう」と順番が違います。それであれば、「死と生について考えよう」というほうが意味が深くなると思います。
 倫理的には必ず死ぬ存在だからどう生きるかという順番になるのであって、生まれてきて死んでいくという生物的な時間の問題とは違うわけです。ちょっとそんなことを思いました。

【委員】

 しかし、若い子どもに死から入るのはいきなり難しいかもしれません。生きることにいっぱいで、死なんか考えないような世代ですから。

【委員】

 3点申しあげます。1点目として、これは小学校でも同じことですが、「道徳の時間に感じたこと、考えたこと」というコーナーを小学校から特設したことは非常にいい発想だと思っております。
 2点目は、中学校も同じですが、先ほど問題になりました規範意識に関する問題、これもやはり検討する余地があるということです。
 3点目ですが、8ページに、たくさんの方の顔が載せてあります。たくさんの方々が暮らすこの広い世の中でと受けているんだろうと思うのですが多彩過ぎて困ってしまいます。ここの意図について説明していただければと思います。

【文部科学省】

 「ありがたい」というようなことについて、子どもたちが感じる部分というのは、単に自分とつき合っている人だけではなくて、当然家族もあるでしょうし、地域の人々もあるでしょうし、目に見えない人たち、いろいろな形の中でそういったありがたい感謝の思いを感じるということがあるでしょう。そういったことを想定して、ここにいろいろな人をイメージとしてここにお示ししていますが、今、ご指摘をいただいたようなことも踏まえまして検討していきたいと思っております。

【委員】

 1つは、話題になっている詩ですが、あれを全部読み通すということが実際には非常に難しいのではないでしょうか。
 最初の1小節は良いなと思うのですが、ずっと読み通していくうちにその感激を忘れてしまいます。やはり適切な長さというのは当然あってしかるべきだと思うのです。これは小学校の改善案でもそういうふうに思っていたのですが、書きたい人が書きたいように書いているという感じで、そこで何をメッセージとして伝えるのかという明確なポリシーがないんですね。さっき有名な詩人の詩のようなものがいいんじゃないかという意見がありましたが、そういう部分がやはり必要であると思うのです。
 それからもう1つは、道徳や倫理は人間社会のことだけではないということを中学生になったらかなり論理的に知っていて良いと思うのです。
 今、自分の生活していることが自然のシステムの中で本当に良いのかという疑問を持たないと、本当のエコというのはできないのです。今の何かムーブメントのようなエコ活動の中からは本当のエコは生まれない。本当の命のつながりの中でどう考えるかということがとても必要なのです。そこから自分の命が唯一無二だというのが実は生まれてくると思うので、そういう工夫が必要だと思うのです。命のつながり、あるいは命の大切さということの中で、人だけということよりも、もう少し広い命のつながりみたいなものを科学的に入れていっても理解できる年齢だろうと思うので、その辺のことも少し配慮すれば良いのではないかと思いました。

【委員】

 私もその詩の部分については同感でして、これはだれが書いているんだろうなと、ずっと思っていたのです。やはり作者がわかる詩のほうがしっかりと重みがあって、その人生、生き方もわかるので良いのではないかと思います。
 もう1つが、6ページの「世界を支え豊かにしている我が国の」というところですが、日本の科学技術や伝統文化が我が国を支え豊かにしてくれるということですが、ここは日本という形でお示しいただければと考えております。

【委員】

 小学校の低学年に働くということについてのページがあります。これを入れたことは大変よいことであり、意味はよくわかるのですが、今、くたびれ切って帰ってくる両親のもとで生活している子どもたちにとって、何かうそっぽいなという気がしないでもないと思います。こういう道徳とか「心のノート」というのは少々うそっぽくても構わなくて、理想的なものを出すんだから、働くってことはいいことだよ、いいことだよというふうにやっていけばいいんだというのも一つの考え方ですが、何か今の子どもたちの実感に合わないような気がしないでもないと思いますので、こんなところは考える余地があるのかないのかと思いました。

【委員】

 今の関連で小学校低学年の子どもがが、働くということの概念を大人と同じように受け取るという前提で書かれているような気がしてならないのです。そうすると、働くという言葉でそれを子どもに理解させることが本当に良いのかということがどうも気になっているのです。僕は先生の経験がないのでよくわからないのですが、子どもにあまり違和感を感じさせないで授業ができるのでしょうか。

【委員】

 小学校の立場から言えばそれほど違和感はないです。例えば、動物園のカバ先生ですか、西山園長先生の便所掃除という資料がありますね。あのあたりなどはかなり子どもたちに共感を与えていますので、特にそんなには違和感は感じなかったです。

【委員】 

 ここに「一生懸命仕事をすると気持ちがいいね」というメッセージがあります。次に、「顔が輝いているよ」というメッセージがあります。それから、「だれかの役に立っているよ」というメッセージがあります。このメッセージが大事だろうと思うのです。そのメッセージが写真でうまく表現されるといいと私は思うのです。それが見えないのです。そこに問題があるかもしれない。ですから、メッセージが見えるような写真の工夫が必要であると思います。特に、働いている人の輝いている顔というのは、子どもは感性的にとらえます。

【委員】

 働いているということと、好きでやっているあるいは楽しみでやっていることとの差というのはやはり峻別したいなというふうに思うのです。働くということは、子どもたちにわかってほしいのは、働きたくなくても働かなければならない部分というのは結構あって、働くことは楽しいんだと天から決めてしまうことが、働くという言葉と実際に子どもたちが受け取るものとの間に、距離感があるように思われて仕方がないのです。働くというのは、本当に人のために何か役に立つから良いとか、そういうこととは無関係のところで、現在の人間社会では自分の体を動かさなければならないものはたくさんあるのです。本当に子どもたちに知ってもらいたいのは、そういう実態の姿であって、働くことは天から顔が輝いて、楽しくて充実していいんだという、そういうことでいいのかなと思います。働くという言葉を使うならば、もう少し違う表現があったほうがいいのではないでしょうか。私などは苦しみながら働いていますので、そういう実感がすごくします。

【委員】

 先ほど、系統というのが出ましたが、そうだろうと思います。自分の生活を支えたり、家族を支えたりするということも働く意義の重要な要素であるわけです。
 でもそれを、小学校1年生の段階に理解させようとしても無理だろうと思うのです。ですから、この段階では、例えばお手伝いをして働いて、あるいは自分の受け持った仕事を通して働いて、お母さんが喜んでくれている、自分も輝いている、自分も成長しているということに気づかせることが大切であると思います。それがもとになって、高学年になるにつれて、人を支える、集団や社会を支えるという、働くことのもう1つの意義に気がついていくという、そういう系統を踏まえるということの上での低学年での展開だろうと私は理解しているのです。

【委員】

 私もむしろ逆に、そういう大人の目標というものが実は自己の鍛錬とか自己の培養をするものだということにつながっているんだということが良いのかなと思います。
 ですから、低学年に「働く」が入ったのは僕は大賛成なんです。やはり労力を尽くすことというのは自己鍛錬でもありますので。
 それでは、ここでこの議論を打ち切ることにいたしますけれども、本日いただいたご意見を踏まえて、改善していただく案をつくって次回のご相談ということにしたいと思います。ありがとうございました。

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