子どもの徳育に関する懇談会(第6回) 議事要旨

1.日時

平成21年2月13日(金曜日)15時30分~17時30分

2.場所

合同庁舎7号館西館12階共用第2特別会議室

3.議題

  1. 社会構造の変化と徳育への影響について
  2. その他

4.出席者

委員

鳥居 泰彦 座長(日本私立学校振興・共済事業団理事長)
大野  裕 委員(慶應義塾大学保健管理センター教授)
押谷 由夫 委員(昭和女子大学教授)
加倉井 隆 委員(江東区深川第一中学校長)
河合 優年 委員(武庫川女子大学教授)
小泉 英明 委員(独立行政法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター領域総括)
坂口 一美 委員(社団法人日本PTA全国協議会常務理事)
馬場喜久雄 委員(板橋区板橋第八小学校長)
森  隆夫 委員(お茶の水女子大学名誉教授)
森田 洋司 委員(大阪樟蔭女子大学学長)
柳田 邦男 委員(ノンフィクション作家)
渡辺 久子 委員(慶応大学医学部小児科講師)

(ヒアリング講師)
伴  恒信 鳴門教育大学学校教育学部教授
関根 明伸 郡山女子大学家政学部講師

文部科学省

銭谷事務次官、玉井文部科学審議官、金森初等中等教育局長、德久大臣官房審議官、
森社会教育課長、高口男女共同参画学習課長、高橋教育課程課長、磯谷児童生徒課長、
鬼澤企画・体育課長、池田青少年課長、大谷幼保連携推進室長、塩原児童生徒課課長補佐 

(国立教育政策研究所)  
大槻国立教育政策研究所次長、中岡教育課程研究センター長

オブザーバー

天野保育指導専門官(厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課)

5.議事要旨

(1) 諸外国の徳育について(ヒアリング)

※ 伴恒信教授より「アメリカ合衆国における徳育」について発表があった。

アメリカでは、日本でいういわゆる道徳教育をCharacter Educationと言っている。本日は、Character Educationの基本的な特色を3点挙げ、そこから日本の道徳教育の参考になるものを書かせていただいた。

 アメリカの徳育を特徴づける3要素

アメリカの徳育を特徴づける3要素の1番目として、アメリカは、アメリカが世界に誇る、建国以来の民主主義の理念を世界に広めようとしてきたということ、また、そのために、世界のリーダーとしてリーダーシップを発揮する人がいるということ、すなわち、民主主義の理念とリーダーシップ。2番目としては、実践性と科学的実証性。3番目として、地域社会との連携。これら3つの要素を中心に挙げさせていただき、そこからアメリカの徳育について説明させていただきたい。

アメリカの徳育に関わることとして、アメリカの会計年度は10月1日から始まるので、2008年度は2009年の9月末までとなるわけだが、その間、連邦政府が徳育に対して出している補助金を挙げさせていただいた。民主主義の理念とリーダーシップという要素については、Civic EducationあるいはCIVITAS、日本語に直すと市民性教育と市民教育と言われるものに、連邦教育省が3,200万ドル、約32億円を出している。実践性と科学的実証性という要素に関しては、先ほど申し上げたCharacter Educationに2,400万ドル、約24億円。地域社会との連携という要素に関しては、Community Service、Service Learningを含め、連邦政府、連邦労働省・連邦保健福祉省、連邦教育省の連結予算として8億5,600万ドル、約850億円相当の予算を出している。

1)民主主義の理念とリーダーシップ

  北京オリンピックの中継をご覧になっていろいろと感じたと思うのだが、アメリカの選手が金メダルを取って表彰台に立つと、胸に手を当てて宣誓の姿をとって国旗をじっと見つめる。他の国々の場合にはそういったことはあまり見られない。一昨年にケンタッキー州のルイヴィルを訪れた際、中間選挙前であったのだが、アメリカの国歌が流れると、そこに集まっている人々が手を胸に当てて国歌を高らかに斉唱する。その国歌に盛られている内容が、まさに自由の地、勇者の故国に星条旗はよみがえるという文句である。アメリカの公立学校においては、毎朝、黒板の前に掲げている星条旗に向かい、忠誠を誓うことになっている。我らの共和国、神のもとの国民と自由と正義のためにという文句を、繰り返し斉唱するということになっている。

このアメリカの民主主義の理念を普及させるため、アメリカ連邦教育省は、毎年約32億ぐらいの資金を投じて事業をやっているわけで、大きく分けて2つの事業がある。まず一つがCivic Educationであり、アメリカ民主主義、建国の理想を子どもたちに教育するという形で、いわゆる市民教育を行っている。もう一つはCIVITAS Internationalというものである。CIVITASはラテン語でローマ市民という意味を持っているが、ローマ法がその理念のもとに多様な民族をローマ市民として扱ったように、アメリカの民主主義を様々な国々に広めることを目的として、いろいろと努力している。その一例として、自分は、2007年にアメリカ連邦教育省から依頼され、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催された市民教育世界会議に出席し、そのCharacter Education部会の中で、日本の道徳教育について発表させていただいた。この会議は、1995年以来、アメリカ連邦教育省の管轄の下、プラハをはじめとして、ボスニア、クロアチア、北アイルランドといった紛争が絶えない地域、あるいはロシア等の社会主義国を開催地として、毎年のように行われている。アメリカは、この会議を通じ、アメリカ式の民主主義を彼らの中に培うと同時に、この機会をとらえて世界各国の価値教育・道徳教育の情報を収集しようとしていて、私が招かれた時は55カ国から200名が参加していた。

この徳育推進に関しては、非常に強力なリーダーシップがある。例えば、Character Educationというアメリカの道徳教育を進めるに当たり、一番最初に大きく声を上げたのがアメリカ前々大統領のクリントン氏である。1994年に高校で行われた署名式のとき、価値というものをきちんと国民に教え、国民のCharacter Educationを広める、そういう習慣を設けるということを言っている。そのクリントン氏を受け継ぎ、ブッシュ氏はさらにそれを強化するようなCharacter Educationのプログラムを策定した。ブッシュ氏は大統領になる以前にテキサス州の州知事をしていたが、その時代から教育に多大な関心を持っており、特にCharacter Educationに関しては、「私たち大人は、自分たちの子どもに何が大切かという価値観を与える責任がある。それは一つの信条や宗教といった価値観ではなく、時の試練に耐えてきた価値、つまり、過去においても真実であり、未来においても真実であり続けるような価値概念である。これを若い世代に教えていく義務があるのだ」と述べている。実際、ブッシュ氏が大統領になってから、ご存じのとおり、落ちこぼれをつくらないための教育法案の中でこのCharacter Educationをさらに一層進めてきている。大統領がCharacter Educationを進めると同時に、例えばバージニア州の場合、州知事が率先してCharacter Educationをバージニア州下の学校では必修とすると法律で定めているように、各州でも州知事を中心とした動きが起きた。州だけではなく、さらに下の市町村においても、長がリーダーシップをとってCharacter Educationを進めている様子があり、少し古いが、このニュースを見ていただきたい。

※ ニュースの映像を流す。

2)実践性と科学的実証性

Character Educationの第二の特徴として挙げられるのは、実践性と科学的実証性を求めているということ。それを確かめるため、アメリカ連邦教育省のもとにInstitute for Education Sciencesという組織をつくり、科学的検証をどう進めればいいのかということについての手引きを出している。さらに、ケンタッキー州にCharacter Educationをいかに具体的に進めていくかということに関しての研究施設を設けていて、2008年度には2,400万ドルの予算を計上しているが、オバマ政権の下、来年度にどういった形で取り組んでいくのかということはまだ不明である。また、連邦教育省から各州のキャラクターエデュケーション・プロジェクトに援助が行われてきており、クリントン政権時代の1995年から2001年にかけては、Character Educationのパイロット・プロジェクトという形で、各州に概ね100万ドルずつ援助を行った。2002年にブッシュ政権になってからは、もう少し具体的に、州の中の郡部あるいは学区を中心とした地域レベルで、プロジェクトに対し助成するという形をとっている。さらにもう一つ重要なことは、そのプロジェクトを実施した効果を科学的に子細に検討することが求められていて、そこが日本の一般的な助成と違うところである。

アメリカのCharacter Educationの場合、日本のように「道徳の時間」の授業時数が定められているわけではなく、各学校、各学校区によって様々な実践が行われている。例えばカリフォルニア州サクラメント市のパシフィック小学校では、入口に看板が掲げられており、学校の週ごとの目標と道徳教育にかかわる目標が掲げられていて、この学校を訪れた時は「忍耐」というものが掲げられていた。

また、ミュージカルのパフォーマンスを子どもたちに見せるといったこと、建物ごとにCARING AVENUE(思いやり通り)のような名前をつけることで、常に子どもたちの認識を高めるということを行っている。

※ パフォーマンスの映像を流す。

    このパフォーマンスは、学生がボランティアでやっているそうで、学校を回り歩き、人格価値・徳性に関して、寸劇も入れながら、ミュージカルのパフォーマンスで子どもたちの認識を強化していくという実践を行っている。例えばテキサス州オースティン市の小学校でいえば、月ごとに学校の目標を掲げており、ある月は「多様性」ということで、あらゆる教科がこのテーマに関係づけられて教えられていた。例えば理科でいうと、さまざまな植物の多様な姿、美術でいうと、美術室そのものに海の多様な生物がいて、それをデザインにするといったように、価値徳性を一つのテーマにして、あらゆる教科において取り組むということが行われていた。

Character Educationを担当する人は、いわゆるカウンセラーと言われる人である。アメリカのカウンセラーは、個人相談にのるような日本のカウンセラーとは違い、子どもの学習支援あるいは様々な学校上の問題の相談にのり、学校全体の政策を踏まえながら、カウンセラーがCharacter Educationを推進するという形をとっている。授業でも、本を読んで、そのテーマに関わって現実の子どもたちの問題を考えさせるといったことを行っている。このような形の授業をやるということは、アメリカでも珍しいことである。様々な実践を組み合わせ、学校を挙げて、地域を挙げてCharacter Educationを行うのが、その道徳教育の特徴である。

また、科学的検証性というものを非常に重視する。2007年にアメリカの連邦教育省が刊行した『効果が科学的に実証できるキャラクターエデュケーション・プログラムに向けての手引き』があり、評価をいかに科学的に分析していくことが大事か、その手順に関して分厚いマニュアルを作っている。実際、例えばフィラデルフィア学校区プロジェクトに関わっては、Character Educationに参加した2,900人の子どもと参加していない700人の子どもとの間で、キャラクター特性にどのような結果が生じているかということ、あるいはセントルイスの学校区で生徒2万人に対し、具体的に、いわゆる社会的な行動にどれだけ改善が見られたのかということをきちんと科学的に検証している。日本においては、この辺りの実践性や科学的な効果の検証が非常に少ないので、日本に一番欠けている要素なのだということを感じている。

 

3)地域社会との連携

地域社会との連携に関わって、アメリカ政府全体として多大な予算を投じているのがCommunity Service、Service-Learningというプログラムである。1990年に全米及び地域サービス法を制定し、その法律に基づいて連邦労働省・保健福祉省・連邦教育省の3省にまたがる予算として、今年は9億ドル近くに上る予算を組んでいる。これは、アメリカの伝統に根差した考え方である。1831年にフランス革命を果たしたフランス人貴族のTocquevilleがアメリカの実情を視察し、アメリカの方がフランス革命を成し遂げたフランス人よりも民主主義に根差した民主主義が実践されているということを『アメリカの民主政治』で述べている。20世紀初頭のJohn Deweyに始まる非常に深くて古い伝統があり、民主主義社会の中で学校を一つの社会として捉え、その中で責任ある人格を育成する、そういう社会的責任を身につけるということ自体が道徳なのだとDewey自身も語っており、20世紀を通じ、フランクリン・ルーズベルト、ケネディ、ジョンソン大統領たちが地域社会への奉仕活動に全米を挙げて取り組むような法案や環境整備というものを果たしてきた。

1990年、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領がNational and Community Service Actを制定し、クリントン大統領、後にジョージ・W・ブッシュ大統領に繋がり、Community Service及びService-Learningを強力に推進してきた。Community Service及びService-Learningを実施しているアメリカの学校は、1999年は64%で、地域に対する奉仕活動を学校が仲介して行わせていて、2008年には若干伸びて68%になっている。

また、ケネディ大統領の時代から特に始まったことなのだが、平和部隊といって、大学生を発展途上国に派遣し、そこで奉仕する中でいろいろと学ばせるというService-Learningがある。昔は大学のカリキュラムだったのだが、さらにそれが広がり、高校、さらに今は小・中学校のカリキュラムの中に位置づけるということが行われてきている。Service-Learningに関しては、1990年から2008年にかけて若干減ってきており、地域の問題や危険性もあって、学校としてはなかなかうまく進んでないという状況もある。Service-Learningが学校でどのようにやられているのかということに関しては、例えばピッツバーグ市のボイス・ミドル・スクールというところでは、障害を持つ生徒も一緒になり、老人ホームにイースターのプレゼントを贈っているといったことがある。老人一人一人に手紙を書くことによって、障害者の子どもたちも学び、それを手助けすることで、子どもたちが人間関係を学ぶという実践をしている。

※ 授業風景の映像を流す。

    最近、カリフォルニア州などでは、このService-Learningを義務化しており、高校・中等学校修了の卒業要件としている。カリフォルニア州のアーバックル小学校では、高校生が小学校に来て、読書の苦手な子どもたちに対して援助をしている。そういったものとは少し違うが、Character Educationの中でも、地域社会の様々な資源を活用し、学校と地域社会が共に手を携えながら進めている例がある。バージニア州のニューポート・ニューズ市にあるアチーバブル・ドリーム校では、銀行の資金を取り入れて本屋を作り、良いことをした子どもたちがトークンをためて本を買うことが出来るという形をとっており、様々な形で地域社会が道徳教育を援助するということが広く行われている。

 

※ 関根明伸講師より「韓国の道徳教育について」発表があった。

1)はじめに

先ほど伴先生から、アメリカでは学校、学区によって実践が多様であるという話があったが、韓国の場合、それとは対照的に、国家水準のカリキュラムが決まっていて固有の時間が設けられているというように、日本に非常に近い実践になっている。現在のカリキュラムは、1997年に告示された第7次教育課程に依拠して実施されているが、2002年から韓国教育課程評価院が中心となり、改訂のための研究開発が進められ、2007年2月に「2007年改訂教育課程」として告示された。本日の発表では、まずは戦後の韓国の道徳教育の経緯について振り返り、現行の第7次教育課程の状況、さらに次期2007年改訂教育課程の特徴を概観することにより、近年の韓国道徳教育の動向を探ることとしたい。

 

2)韓国の道徳教育の経緯―戦後教科目の変遷―

    戦後の韓国では、道徳教育を担う教科目が度々変更されてきた。1945年、植民地時代より道徳教育を担っていた「修身」が廃止され、「公民」が設置された。しかし、間もなくそれも1947年には、アメリカから社会生活科(後の社会科)とって代えられた。1945年から50年代はアメリカ軍政期と大韓民国の建国初期に相当するが、その中で道徳教育は、民主的な韓国市民の育成を教科目標とした社会生活科を中心に展開されてきた。その一方、左翼的な政治勢力と保守派の対立、または朝鮮戦争、国内の政変等により、政治的・社会的に非常に混乱した時期でもあり、このような社会不安は国民の道義文化までも著しく退廃させる結果をもたらし、次第に道徳教育のあり方に対しても批判が高まっていった。つまり、社会科を通して行う道徳教育ではなく、国民の道義文化を回復するための道徳教育強化の必要性を求める声が高まったわけである。この傾向は、1950年に勃発した朝鮮戦争の経験によって高調し、内外の政治的な情勢が、以降の道徳教育の政策に色濃く反映される結果をもたらした。1950年後半の文教部の文教政策を見ると、「道義教育の強化」が掲げられているが、それと同時に、政治教育を含めた韓国独自の道徳教育が模索されている。例えば1955年告示の第1次教育課程では、カリキュラム上に道徳教育のための固有の時間設定はなかったが、社会科の中に道義教育領域が置かれていた。

1962年の第2次教育課程では、「反共・道徳生活」という一つの領域が特設されており、政治的な反共イデオロギー教育が、道徳教育の名称にも反映されていることがわかる。

1973年の第3次教育課程からは、「反共・道徳生活」は、「道徳」に改称され、カリキュラム上の位置づけも「領域」から「教科」へと変更され、現在までこの教科教育という枠組みは変更されていない。ただし道徳科は1987年より初等学校低学年(1,2学年)では廃止され、「正しい生活」に改編された。また、現行の第7次教育課程からは、国民共通基本教育課程により、道徳科の設置は初等学校3年から高等学校1年の期間に変更されている。このように、戦後の韓国道徳教育は、担当する主たる教科目が変動しながらも、おおよそ体系化と内実化が進められ、強化されてきたと見ることができると思う。

表1左側の「国家水準カリキュラム」のところだが、日本の植民地だったので、植民地時代は「修身」という科目の中で道徳が行われていた。戦後、まず、軍政期と韓国建国の初期においては「教授要目」というカリキュラム上の位置づけとして、「社会生活」という社会科の中で行われていた。これは、道徳教育を社会生活科が中心になって行ったというわけではなく、社会生活科の中で道徳教育を含めて行ったという意味である。その後、第2次教育課程からは「反共・道徳生活」、これは特設の時間になっており、現在の日本の道徳教育と非常に近い位置づけになっている。第3次教育課程からは完全に教科化され、現在は教科教育となっている。現行までは第7次教育課程と言っていたが、今後は全面改訂ではなく随時改訂していくということで、第8次という言葉は使わなくなった。2007年2月に告示されたが、現在は移行期間である。

 

3)現行「第7次教育課程」の道徳科

ア 基本方針

1997年に告示された現在の第7次教育課程の道徳科は、基本的な方針としての人性教育、民主市民教育、統一準備教育、国家安保教育の4点を重点化しようということで行われている。国家安保教育という言葉についてだが、第5次、第6次位までは反共教育という言葉を平気で使っていたが、最近はこのような安保教育という言葉を使っている。次に、アメリカのCharacter Educationを積極的に導入していこうと考えている。また、北朝鮮との緊張緩和を考え、統一後の国家像を想定した教育も道徳科の中で行っていくという3つの大きな方針がある。

 

イ「国民共通基本教育課程」および「選択中心教育課程」での位置づけ

現在の第7次教育課程は、大きく分けて2つの教育課程からできている。国民共通基本教育課程については、初等学校1年生から高等学校の1年生まで、通年として1学年から10学年という表現をしている。義務教育ではないのだが、義務教育的に10年間を国民に共通に学ばせようということで編成し直した。韓国では中学校までが義務教育で、高等学校1年までを基本的な内容として設定している。高等学校の2年と3年は、11学年、12学年という呼び方をするが、ここでは選択教育課程として学んでいくというような教育課程に編成し直した。その中で道徳科という道徳教育を担当している教科だが、初等学校の3年生から高等学校の1年生まで、つまり、3学年から10学年までを想定してカリキュラム編成が行われている。

  

ウ 授業等について

 道徳科は、初等学校の3年から6年までは週1単位時間があり、中学校の1、2年は週2単位時間、中学校3年と高校1年は週1単位時間となっている。高校2年と3年では、選択科目として「市民倫理」「倫理と思想」「伝統倫理」が置かれ、週2単位時間を選択するということになっている。授業では国定教科書というのがあり、これと副教材「生活の手引き」というものを使用している。これは、日本で使っている「心ノート」に非常によく似ていると聞いている。初等学校では担任の教員が授業を行い、中学高校では道徳専任教員が行う。つまり、道徳科専用の教員免許状があり、その教員免許状を取得した者だけが中学と高校で教えることが出来るということになっている。評価については、基本的に点数化ではなく、記述式による評価ということになっている。ただ、高等学校などでは、倫理的な内容に関しては、やはり中間考査や期末考査があると聞いている。

 

エ 現行道徳科のカリキュラム

a)道徳科の目標

  現在の第7次教育課程の道徳科の目標については、例えば国家や民族意識という言葉が出ているが、愛国心や民族愛ということを目標に掲げている。さらに、統一問題も道徳の目標として掲げている。

b)道徳科の内容

道徳科の内容だが、各学年において、4つの領域に沿った徳目が発達段階に沿って配列されており、1つ目は個人生活領域、2つ目は家庭・近隣・学校生活領域、3番目は社会生活領域、4番目は国家・民族生活領域となっている。この4つの内容領域を、各学年の発達段階に沿って、それに応じた徳目を配列しているということが言えると思う。

韓国は儒教の国なので、儒教的な内容が多いのではないかと言う方が大変多いのだが、実際については、私自身が4年ほどあちらで暮らしてみてそれを実感した経験はある。例えばバスや地下鉄に乗ると、お年寄りが前にいれば若者は必ず立つ。複数名で食事をした場合、一番年上の方が食べるまでは絶対に箸をつけないということも徹底している。また、初対面ではまず年齢を聞いて、相手が年上であれば敬語を使うといったことなどには、儒教文化が生活の中で活きているということを感じる。ただ実際は、宗教人口でいうならばキリスト教の信者が非常に多く、5人に1人はキリスト教信者だと聞いている。ソウルの町を歩くと、教会が非常に多くて、学食などでも、学生が十字を切って食べているという姿をよく見たりもする。

ただ、道徳の内容を見ると、儒教やキリスト教というよりも、もちろん普通の徳目はあるが、どちらかといえば民族愛や愛国心、平和統一といったものに力を入れているという感じがする。

c)道徳科の指導原理

   第7次教育課程では、認知領域中心で、まずは道徳に関連した知識的な内容を教える。それから、それに関連した感動する話を2番目にもってきて、最後にはそれを行動化・習慣化させるための行動指標を提示するという3段階で教えることを指導原理にしている。

d)道徳科国定教科書の実際

現在使用されている6年生の道徳の教科書の目次には1から17単元まであって、その中の第2番目「最善を尽くす生活」というものを全文翻訳して載せておいた。この教科書のつくりを見ると、まず最初に、「最善を尽くす」ということはどういうことなのかということについて、知識理解を中心に説明している。その後、ハンソリという子どもの悩みの話、「実際にやってみましょう」のところでは、ピアノの練習についての話や運動会の話など、具体的な場面を設定した内容、子どもたちに感動など、いろいろな感情を持たせるような内容が入っている。そして、「一度何かを始めたら終わるまで誠実に行いなさい」という、教訓的な言葉というか、行動指標をしっかり示して終えている。これが韓国の道徳の教科書のつくりになっている。我々からすれば、非常に価値注入的だと感じるような教科書であろう。教科書の裏表紙には、必ず太極旗、韓国の国旗が載っている。そして、国旗のつくり方のような感じで、サイズや掲揚の仕方、私の誓いという言葉が必ず書かれてある。教えたい徳目が非常にはっきりとしているということを感じる。

e)現行道徳科のまとめ

現行の道徳科のまとめであるが、その特徴としては、教科教育であるということ。その内容としては4つの領域に沿って重点化され、政治・思想的な内容が含まれているということ。アメリカの人格教育の理念を導入しているということ。そして、初等1・2年生では「正しい生活」、初等3年から高1までが「道徳」、さらには高2・高3の選択科目に繋がっているということで、連携して道徳を行っているということ。また、価値注入的なイメージの国定教科書があるなどの点を挙げられる。

 

4)「教育課程」改訂の基本方針

2007年2月に作られた次期教育課程では、改訂の方向性として、道徳科教育アイデンティティーの確立重視ということで、政治社会化教育や統一教育の問題点について見直すという傾向になっており、これを削減し、道徳倫理問題の強化という方向に向かっている。政治的理念の伝達強化ではなく、道徳的思考や、判断、情緒、実践能力を体系的に育成しようとしている。また、社会変化へ対応する新しい価値、規範、道徳的争点を強調しており、世界化と倫理問題、生命倫理、情報倫理、人権教育、環境倫理を強調している。

 

5) 次期「2007年改訂教育課程」(2007年2月28日告示)の特徴

次期教育課程の特徴についてまとめさせていただいたが、まずは移行措置の時期について、今年度、初等学校の1・2年生から始まることになっている。

次に、カリキュラムの内容構成原理の変更点として、現行の第7次教育課程では、内容の設定というのは、生活領域の拡大法に従った内容構成原理が使われているが、次期教育課程では、自分を意味する道徳的主体を中心とする価値関係の拡張に従って、4つの領域に区分されている。つまり、道徳的主体としての私、それから私と関係する他人・社会、次に国家・民族・地球共同体、そして自然・超越的な存在との関係ということで、内容構成の原理が、子どもの生活体験ではなく、価値関係の拡張原理に従って編成し直されている。

それから、内容選定原理について、2000年度では徳目中心の接近法だったのだが、次期では、初等段階は徳目中心だが、中等以上では主題中心の接近方法になっている。いろいろなテーマをもとに道徳教育を考えていく、考えさせる、そういった道徳教育を目指しているということが言えると思う。

また、現在の日本の内容項目の設定と次期教育課程とを比較してみると、韓国では、価値関係性の原理を使うことにより、日本の枠組みと非常に近くなった。つまり、自分自身と自然・超越的な存在との関係が今回初めて入ったのだが、私の勘では、日本を参考にして取り入れたのではないかと思っている。

 

6)おわりに

最後にまとめとして、まず1番目に、韓国の道徳教育の変遷は、最初は社会科の中で民主主義道徳教育から始まったのだが、朝鮮戦争や軍事革命、第三共和国成立を契機に国家主義・民族主義的道徳教育の強化に変わっていったということが言えると思う。
 2番目に、初等段階は学級担任、中等教育では教科担任となっているということ。
 3番目に、国定教科書は価値注入的というイメージが強いと思うが、2010年からは検定教科書の導入が決まっているそうである。
 4番目に、2007年のカリキュラム改訂に際しては、非常に幅広い国民の合意形成を基礎にしたと聞いている。例えばアンケート調査やウェブサイトの意見、関連7団体によって様々な共同体を作って改訂したとのこと。
 5番目に、政治教育、イデオロギー教育から脱皮して、本来の道徳教育の追究をしようという動きがある。
 6番目に、新しい価値観、規範、道徳的な論争点を積極的に取り扱う方向に向かっている。
 最後に7番目として、「生活の手引き」が「心のノート」によく似ていることからも、次期教育課程の内容編成原理が日本と非常に似ているということ。これは当然、日本の動向にもかなり注目しているということが言えると思う。そういった意味で、緊密な連携と情報交換により、日韓両国はいろいろな成果を共有することで、互いに高め合っていけるのではないかと考えている。

<質疑応答>

 《森委員》

「正しい生活科」の教科書があるのだろうと思うのだが、日本の生活科と違い、「正しい」と付けているところに道徳的な薫りがする。教科書の中でどのように道徳的なことが取り扱われているのか、ご存じであれば教えていただきたい。

 《関根講師》

実際に教科書を手に入れてないので詳しく話すことができないが、「正しい生活」という教科は、元々は道徳科と社会科を合わせて、低学年にはそれをやった方がいいのではないかということで導入されたそうなので、道徳的な内容がかなり入っているのではないかと思われる。

 

(2) 社会構造の変化と徳育の課題について

○ テーマ別協議(親・家族について/学校・教師について/地域と社会の規範について)

※ 事務局より資料3、4、5について説明ののち、

 《河合委員》

関根先生の発表とも関係して、道徳科の指導原理のところで階層性といったようなものがあると言われていたが、道徳を身に付けるといっても、知識を持つということもあれば、実践できるということ、無意識にできるということもあり、レベルの違いがある。これはアメリカでも同じような感じなのだが、本日の資料との絡みでいえば、ある意味では学校が評価をもつ、知識といったようなレベルのことを教え、それについて子どもに確認するといったようなことをしたとしても、家庭がそれと矛盾するようなことを教え、学校は学校、家は家というような二重のルールを持っているのではないか。韓国やアメリカでは、学校で学ぶことと、それを実践して行動するという、家庭での一貫性といったことはどのようになっているのか。我々が子どもの頃は、先生とお巡りさんは怖い存在だったわけで、学校で教えたことを家庭が厳守させ、それと違うことがあると、「先生に言うぞ」というようなことが日本でもあったのだが、韓国や米国では、そのようなことが今でもあるのか。ないとすると、それはどのように家庭と結びつけて教育されているのか、教えていただきたい。

 《関根講師》

私の経験も含めて一般的に申し上げると、私は今40代なのだが、韓国では私と同じ世代の人たちは兄弟が五、六人くらいいるのが普通であるが、最近の小学生は一人っ子が多い。多くても2人で、日本以上に急速に少子化になっている。過保護とは言い過ぎかもしれないが、非常に子どもを大事に育てる、わがままな子どもが多くなっているという話をよく聞く。したがって、道徳教育の家庭における役割が難しくなっている感じがする。ただ、日本と違うのは、日本のお盆や正月に当たるソルラルとチュソクというものがあるのだが、その2つのときには必ず父親母親の実家に帰り、親戚が一同に集まる。そういった機会が非常に多く、よく親戚に会うので、そのような中で礼儀を学んだり、目上の人に対する態度といったものを学んだりする機会は、日本以上に多いのではないか。しかし一方では少子化が急激に進んでいるので、学校での道徳教育と家庭の教育とのバランスをどのようにすればいいのかということは、やはり韓国でも同じ悩みとして持っているのだと思う。

 《伴教授》

アメリカの場合、地域によって家庭の教育力というものが大きく違う。私の説明資料でバージニア州ニューポート・ニューズ市のアチーバブル・ドリーム校の例を出させていただいたが、大体アメリカの都市は町の中が貧困地域になっており、教育委員会の方々と一緒にここを訪れたとき、そこを車で通ると、大人がよろよろと歩いている姿がよく見られるわけである。つまり、ドラッグなど、この地域では家庭が完全に崩壊しており、地域が崩壊しているような貧困地域においては、むしろ学校が将来の希望をつなぐ場所となっている。だから、テーブルマナーを始めとして、テニスなど、この地域を離れ、外に出ても社会的に活躍できる、成功する、そういう機会を学校が与える。もう一つ、学校が夜間に家庭の親御さんを集めて、社会の基本的なルールを教えるといったようなプログラムをいろいろとやっている。そういったことに関しては、地域を挙げて、民間企業も協力しているということである。一方、郊外地域では、伝統的なピューリタンのキリスト教思想が非常に強い地域があり、そういった地域においては、様々な形で家庭がボランティアを子どもたちに奨励する。教会あるいは学校を通じて、親御さんたちが子どもたちにボランティアの見本を示す。地域に奉仕するということが、親の側から率先してなされている。それが子どもたちに非常にいい影響を与えているということがある。

 《小泉委員》

米国の場合、実際に学校等を拝見していると、やはり場所によってかなり違っている。連邦の教育省自身がいろいろと指針を出しているということはわかるのだが、現実的には州によってかなり考え方も違っているし、場所によっても大変差がある。今回は非常に素晴らしい例をいろいろとご紹介いただいたが、全体としてはどういった現実になっているのか。

 《伴教授》

ご指摘のとおり、全体としてというのは非常に難しい。教育の権限は一応各州に委ねられており、実質的に担っているのは各学校区なので、学校あるいは地域によって大きな差がある。その変化が大きいだけに、リーダーシップというのが重要になるわけである。地域をまとめる、あるいは学校がその地域のリーダーとなり、親御さんも含めた地域の教育力というものを、学校から活性化していくというような形で、様々な実践が進められているので、その辺りが全体的な傾向と言えるかと思われる。従って、まずは大統領が一番中心に立ち、それから、知事がCharacter Educationを一生懸命やると言えば、そこにまた州独自の予算をつけて集中的に行う。非常にユニークではあるが、そのばらばらな姿を統一させるものがまさにリーダーシップではないかと感じている。例えばニュージャージー州では、知事がCharacter Educationを非常に尊重しており、義務化とともに多大な予算をつけているので、ばらつきがあるといっても、それに取り組まざるを得ない。しかも、各学校に対してはカウンセラーという存在が、学校あるいは州の一つの価値観を明確に授けるという使命を担っていて、リーダーシップの育成も含めてCharacter Educationを行っているので、それがある程度効果を持っている。熱心に取り組んでいる州とそうでない州にばらつきはあり、多様であるということは間違いない。

 《鳥居座長》

20年ほど前、ニューヨークに慶應ニューヨーク高校というものを作ったのだが、まずはニューヨーク州の許可を取らなければならなくて、設置認可を取るためにいろいろな条件をクリアする必要がある。その条件の中で、徳育に関して言えば、まず、国旗へ敬意を示すことや、国歌を学校の行事で歌うといったことなどについて、押しつけではなく、市のカウンシルと話し合いをしながら学校のルールを決めていく。そのルールがどのぐらい守られているか、あるいは実行されているかということは、アクレディテーションの団体が何年かに一度アクレディットしてくれる習慣がある。したがって、そういった社会慣行に基づいて学校・生徒・親のクオリティーをある程度保つというメカニズムが、あの国にはあるように思う。

 《森委員》

まず第1点として、学校教育ではもう手遅れだという認識がなければならない。あらゆる教育は模倣から始まるわけで、模倣と聞けば模範が連想される。子どもが出会うのは親なので、親が模範を示す率先垂範しかない。短絡的に「親学」というと批判されるが、子どものために自分が成長するという「育児のための育自」が必要なのだということを親に伝えなければならないし、現代の親にはショックを与えることも必要だ。

明治の頃、埼玉の小学校の校長先生が出していた家庭教育通信の話を読んだが、そこでは、親の心得として、およそ教育は家庭で芽が出て学校で花が咲き、世間で実がなると言っている。その上で、その校長は、家庭の芽がよく出ていないから学校で花が咲かないし、世間で実がならないんだということを教えるため、豊作の畑と枯れそうな畑へ実際に子どもを連れていき、「どちらの畑がいいと思う」と尋ね、「いや、それは麦が実っているほうがいい」と子どもが答えると、「じゃあ、今ここできちんとしないと、こちらの枯れたような畑になるよ」という、非常に即物的なわかりやすい教え方をしてた。そういう意味で、親にショックを与えるということが第1点である。

第2点は、教育というのはすべて生活を通じてなされるので、生活習慣教育といったことを考えた方がいいのではないか。東京都の心の教育革命というのがあるが、スローガン化されていて、なかなかよく出来ている。例えば、「一日は『おはよう』で始め、『おやすみ』で終わらせよう」といったように、簡単に覚えられる標語を、毎日子どもに徹底する。どの程度東京都で普及しているのかはわからないが、そういったスローガン化するということ。

先ほどのアメリカの例で面白かったのは、週単位、月単位で目標が変わるというもの。学校中がその目標に従っていくというのはなかなかよいと思う。日本の学校では、学校教育目標があって、学年目標、学級目標、今月のめあて、今週のめあて、今日のめあてなど、黒板等が張り紙だらけで、廊下にも教室にも目標漬けである。それに比べてアメリカは非常にシンプル。日本の学校でも、週単位・月単位で徳目を一つに絞って公表したらよい。また、日本の学校に、もっと校訓をつくってもらいたい。

 《森田委員》

伴先生のお話の中でミュージカルの話と映像が出てきたが、日本の行政の中でもいろいろなテリトリーがあり、文部科学省でも、高校以下は初等中等教育局、大学は高等教育局といったように担当が分かれている。資料5の「3」でも、どういう具合に社会あるいは地域を活用するかという論点が出ているが、子どものために大学生が自らも成長するという視点で、大学をうまく組み込みながら、地域社会の中の教育力を高めるという方策もあろうかと思うが、そういった視点が全体的に欠けて論議されているような向きがある。

中教審では、大学教育の質保障の観点から、学部教育で共通に身に付けるべき、いわゆる「学士力」についての議論を行ったが、昨年末の答申では、「学士力」の内容の1つとして、「市民としての社会的責任」を挙げている。この点の重要性については、それぞれの大学でも気づいており、現在の大学生のマナーから、道徳意識なり価値観なりといったものを形成していかなければならないということが、大学教育でも、全体の学習力を高めるという観点から必要な方策として進められてきている。そういったものと地域と子どもとを上手く連携させながら、地域の教育力を高めるという方策もあっていいだろう。それぞれの大学なりに専門もあるし、各年齢段階、教職養成大学だけでなく一般の大学、あるいは高等専門学校など、様々なところでこういった試みはあるので、そういったものを活用していくという方策も盛り込んでいきながら、文部科学省としてだけではなく、社会全体で子どもを育てていく、あるいは子どもの徳育を推進していくという体制をつくり上げていくことが必要ではないかと思っている。

 《柳田委員》

地域の主体は何かということは非常に曖昧で、地域、地域というが、自治体なのか、自治会なのか、学校区なのか、それぞれの地域の捉え方によって出来ることが全く違ってくると思う。今日、自治体の長がどういう意欲を持ってやるのかによって、教育一つとっても大きな差がある。東京の23区でも違うし、県知事単位あるいは市町村長単位でも違う。そういう場合、地域の中で行政というもののウエィトが地方への権限移譲に伴って大きくなるので、地方の行政あるいは学校区が何をするのか。

現実に行われているというか、存在している地域の教育への関わり方として、例えば、お母さん方がボランティアで読み聞かせをやるとか、図書館指導員を買って出るとかがあり、あるいは地方によっては、子どもたちが自然に親しむ原体験を与えようということで、学校の森をつくるとき、あるいは公的な森林や畑を耕すというときに、地域の森林保有者や農家、自治体などが相当深く関わっているケースなどもあり、本当に多様である。学校教育や教室内だけでない子どもたちの行動というものを地域で支援する実例というのは、全国でサンプルを集めてみると、今の時代はものすごく多様にある。しかし、その情報が流通してないため、せっかくあるものが各地方の一つのエピソードで終わっている。こういうものの全体図といったもの、ハンドブックでこっちではこんなことをやっている、それはこうやって実現できて、その結果、子どもたちの意識がどう変わったとか、地域への連帯性がどう変わったとか、そういったものは実例を見ているとはっきり見えてくる。

こういう徳目としての地域の関わり方のようなものを抽象的概念だけで論じていても、その現実問題として実効性があるのかどうか。その辺りの部分は、もっと突っ込んで議論する必要があるのではないか。

 《鳥居座長》

まず、実例を一つお話しすると、3年ほど前に茨城県の知事が、自分の県の公立高校に道徳の教科書を作って配りたいと言い出した。実際にそれは実現しており、昨年度から配られているようである。内容については、もう少しいい教科書でも良かったかなという感じはある。というのは、今、高校生たちが、私たちの世代が徳目だと思っていることとは全然違うことをやっているわけである。それについて教えようという姿勢が、その教科書には若干足りないところがあるので不満なのだが、さはさりながら、そういう試みをしている自治体が都道府県レベルで表れている。他にどこか県の教育委員会でやっているところはあるか。

 《高橋教育課程課長》

我々が聞いている限り、東京都の高等学校では、平成19年度以降すべての生徒に奉仕を履修させるということで、例えば福祉の増進、社会教育の推進、まちづくりの推進などに関し、さまざまな奉仕体験活動を、学校設定科目としての奉仕として取り入れるということを聞いている。その教材というのは、東京都の教育委員会が生徒用のテキストを作成するということで、枠組みだけではあるが、そういったことを試みとして行っているということは聞いている。

 《馬場委員》

我々の学校区の地域について言えば、学校選択制によっていろいろと変わってきている現状があると思う。

そのような中、私の勤めているところでは、いろいろな地域センターがあり、そこが中心となって、地域の祭りとか、様々なことをやっている。我々の学校でも、地域の人たちと一緒に運動会をやったりしているほか、子どもたちの登下校時に地域で守ってくれる見守り隊・スクールガードなどは、多くの地域であると思う。

もう一つ、道徳教育に関して、東京都全体もそうだが、各区等で地域に根差した学習が大事だということで、地域に根ざしたよい話をまとめた資料集などを活用しているところもある。

 《鳥居座長》

学校を中心とした地域というコンセプトが崩れているので、それを再建していかなければならないのではないかと思う。以前、文部科学省の方と秩父の山の中の小学校へ行ったのだが、そこの児童や先生と話をしていて、そこの校歌を見たら、作詞者は「兎追ひしかの山」の高野辰之で、作曲は「海行かば」の信時潔であった。すごい校歌だと言ったのだが、その話が語り継がれたのはもう昔のことで、今は先生も知らない、校長先生でもわからないという話である。要するに、地域がせっかく持っている伝統や文化、今の校歌が示しているように、すごくよいことが伝承されなくなっている。それが地域崩壊の現象を表しているように思う。

 《押谷委員》

茨城県の高校の道徳教育については少し関わらせていただいていて、今、2年目が終わって来年3年目となると、1年生のときに道徳の時間を受けた生徒が3年生になってくるわけである。今年の実態調査ではかなり成果が上がっているということで、また、まとめが行われると思う。そういったこととも関わって、韓国の道徳教育では教科として道徳をずっとやっている。高校も1年生までやって、2年、3年では選択必修的な形で挙げられているが、そういった高校も含めて、いわゆる道徳教育をどうするのかということを、教科化等のあり方を含めてもう一度検討し直す必要もあるという気がする。韓国が既にやっているわけなので、その実態等を分析しながらということが考えられる。

2点目に、学校がリーダーシップを発揮しなければならないという話があったが、今の学校が学校・家庭・地域連携を推進するというのは大変難しいと思う。学校・家庭・地域推進委員というのか、新たにそれを中心として担当する職員を位置づけないといけないのではないかと思っている。それを教師としてやる場合もあるだろうし、福祉関係から回ってきていただくということも出来るかもしれないが、今の学校の実態の中で、そういった繋ぎの窓口になる人材が必要ではないか。

3点目に、学校・家庭・地域連携した実践というものを見たとき、学校という施設の中に地域の人たちが自由に入れるということは、管理上の問題でいろいろと検討が必要かと思うのだが、例えば、社会教育施設でやっている文化講座とかがあると思うのだが、その一つを学校で行うとなれば、その人たちというのは地域の方なので、みんなが知っているわけである。昼間、社会で真面目に生きている地域の人たちと子どもたちが学校で接することが出来るというのは大変重要なことだと思う。そういった施設の充実や、あるいは施設の中に地域の人用の部屋というのもあっていいのではないか。豊田市に豊田東小学校というのがあると思うのだが、そこは新築するとき、地域の人に使っていただこうという部屋を作られたようである。その後の活用の仕方云々というのを調査してみると、また一つの参考になるかと思う。

4点目は、地域あるいは社会における道徳教育ということで、以前韓国のKBSテレビから取材を受けたことがあるのだが、日本に来て道徳性が大変高い国民だというふうに意識したと言われ、学校や社会でどういう取り組みをしているのかという質問があった。それに答えられなかったので、いろいろと調べてみると、民間に、道徳教育に積極的に貢献されている団体が沢山あると思われた。そういう団体に助成するといったようなことを、もっと積極的に考えてもいいのではないか。

最後に、そういったことも含めて、道徳教育というのが、アメリカあるいは韓国、世界的に大変重要な課題であるので、国が責任を持って道徳教育の研究をしっかりやっていくということが求められている気がする。例えば国立国際道徳教育所といったような機関をしっかり設けて、そこでいろいろなことを日常的、継続的に研究を行っていき、発信していくことが必要かと思う。

 《坂口委員》

地域ということで、PTAの立場で言わせていただく。PTAの加入率を考えると、関東圏は加入率が50%以下であり、地方に行けば行くほど100%近い加入率になっている。学校選択制になっていて、校区で一つの学校を見守ることができない状態になっているところも、関東ブロックでは多いが、それでも保護者会や学校支援地域本部があって、地域と関連して何かをするということが校区の中でまとまっているところもある。

今までの文部科学省の施策の中でも、例えばすこやかネットや学校支援地域本部といったものが、大阪や北海道、九州のような地方に根ざしており、中学校区を中心に、保護者と地域団体が協力して子どもたちのために何かをやっていこうという動きがある。それが希薄になってきている地域の関係を繋ぐ役目を果たしていると感じている。

また、地域それぞれに伝統行事というものがあって、例えば、この時期になると、いろいろな地域がもちつき大会をやるということで、世代間交流をしながら、そこで様々なことを子どもたちが教わる。さらに、地域のお祭り、例えば大阪ではだんじりがあったり、火祭りがあったり、その中に青少年が関わりながら、地域の中でいろいろなことを学んでいくということもある。

道徳教育というより、まんざら、地域の中でもまだ、子どもを健やかに育むという点での伝承や、親以外の周りの大人が関わりながら、子どもを育てているという現状がある。

 

(3)「審議の概要」の骨子イメージについて

   ※事務局より資料6について説明

 《河合委員》

鳥居座長が一番最初に言われたのが、セルフコントロール、「自ら律する」ということだった。この柱のさらに大きな枠組みとして、諸々のことを通して共通しているのは、「外的なコントロールから内的なコントロールへ」ということ。つまり、家庭であっても学校であっても、それは外にあるコントロールであり、規範として到達すべき点があるわけだが、その外的なコントロールを内的なコントロールにもっていくことが、教育の目的となるのだと思う。つまり、親や社会人となったとき、人がいてもいなくてもするべき事柄は確かにあり、その一番大きな枠組みとして、何を道徳の中で一番大きなゴールにするのかということ。外的なものをいかに内在化していくかという枠組みでこれを見てみると、社会人としての自分の行動を律するということで、教育全体繋がるのではないかと感じているが、たたき台には、そこが無い気がする。

 《鳥居座長》

当時、私の申し上げたことを反芻しながら申し上げると、まず、かなり古い時代から、人間社会にはその社会を支えている徳目のようなものがあったということを日本人は忘れてはならない。一番わかりやすい例は、古代ギリシャでは知恵と勇気と節制と正義という4つの徳目を大事にしたということ。古代中国では知と仁という徳目を大事にした。それと同様に、どこの国にもその社会が成り立つための基本的な徳目があると考えるべきだと思う。それを学校教育や家庭教育、社会教育の中でいろいろな形で教えてきたのだと思う。

日本の場合、それが集大成されたものがいろいろとあると思うのだが、例えば福沢諭吉の書物、特に『文明論の概略』がその集大成の一つだと思う。それから約80年ぐらい遅れて、1900年に新渡戸稲造の『武士道』が書かれ、その中で10の徳目を彼は述べている。それらを見てみると、大体において共通しているのは勇気である。それから、正しいことをすること。もう一つが克己心である。重ねて言えば、名誉を重んずるとか、恥を知るとかということも含まれているが、そういうことだと思う。そういったものを今から100年以上前に書いたわけである。新渡戸先生の場合は最初から英語で書いているので、後でそれを皆が四苦八苦して日本語にしたわけであり、今の克己心については、新渡戸稲造はSelf controlという言葉を使っている。名誉はHonorと書いている。誠実さについてはSincerityという言葉を使っている。一番わかりにくいのはBenevolenceである。これは、昔の東大総長の矢内原先生などが中心になって翻訳を考えられ、やはりこれは中国語の「仁」と同じものだということになり、今ではBenevolenceと仁は同じ言葉だというふうに解釈されている。それが大問題になったのは憲法89条である。憲法89条を英語でGHQが日本側に示したとき、パブリックマネーを3つのことに使ってはいけないとされた。一つが宗教で、もう一つが公的支配に属さない学校。そして最後にBenevolenceに使ってはならないと書かれていたわけである。これは訳しようがないわけで、仁に使ってはならないと書くわけにいかないので、結局「博愛」に使ってはならないという法律になっているわけである。

いずれにしても、そういったことをどこの国でも徳目として挙げているのにも関わらず、我々の教育の中でだんだんと欠落していった。それをどこからどのように学校教育の中で取り上げればいいのか、皆さんにご意見をいただきたいというのが、この懇談会の自由討論の趣旨であると思う。

 《柳田委員》

枠組みの問題なのだが、河合先生が言ったように、セルフコントロールというのは、人が見ていようが見ていまいが守るべきものである。

今、21世紀の初めに当たり、IT革命が急速に進んできて、様々な徳目や人類が持ってきたものが、技術というものの中で悪意がないのに破壊されていくという事態が起こっていることを、どう枠組みの中に位置づけるのかということが重要になるだろう。ネット社会というのは、匿名性が横行するがゆえ、また一方では表現の自由で保障されているがゆえに、なかなか踏み込めないところがあるのだが、その匿名性ゆえ、見ていないところなら何でも出来るということが、子どもたちの中で無意識のうちに形成されていく。徳目を幾ら言っても、便利で楽しくて使いやすい技術を使っていると、それが自動的に人格に組み込まれるぐらいに影響を与える。あるいは機械を介したコミュニケーションしかしていない時間が圧倒的に生活時間の中で占めることにより、生身の人間同士が触れる中でしか学べないことが学べなくなっている。IT革命の中で、この2つの側面が、徳育や教育、特に人格形成に多大な影響を与えていると捉えざるを得ない。それをこの枠組みの中でどう位置づけるのかということを考えないと、幾らカントがこう言った、ギリシャ時代がこう、モーゼの十戒がこうだと言っても、もうそれはIT技術の無かった時代の話である。情報環境の変化、情報手段の変化、これを徳育という面でどういった枠組みで捉えればいいのか、そこをきちんと整理しないと、お題目だけで終わってしまう恐れがある。そこのところを皆さんにご議論していただきたい。

 《渡辺委員》

子どもたちが現在生きて成長している人間環境の質がすごく悪くなっている。言い替えると、私が身近にいる病院の中で、子どもたちが親子関係や教師との関係でいろいろなトラブルを起こしたとき、私たちはその修復をするわけだが、例えば学校の先生がある生徒をひいきして、自分を無視したと思っている子どもがいるとき、その子どもの怒りは、結局、小学校の3~5年生でも、「その教師は生徒に対する責任感や愛がない」、「自分自身の出世のためにやっている」というように言う。あるいは、お母さんに対してすごく荒れて無茶苦茶なことをやる子どもは、よく話を聞いていくと、「お母さんは義務からやっているだけであって、愛がない」と言う。私は、日々子どもたちの言い分を聞いているとき、子どもたちの訴えとして、「いろいろなことがあっても構わないが、愛のない中で自分たちにあれこれ言ってくるな」ということが基本だと思っている。「家庭というものを作ったのであれば、少なくとも自分は愛の中で生まれたと感じるような声のかけ方をして欲しい」という子どもの言い分は、実は、家庭で育児をしている母親たちの言い分ともすごく似通っている。私は、そういった日々の生きた触れ合いの中で、今日のすごく重要な議論を考えたとき、我々は、命の原理に立った自分の生活を、それぞれが家庭や学校や職場で見つめて作り直すという営み、つまり、共に生きる、あるいは自分自身の限られた人生を生きるという本質を、もう少しきちんと確認しなければならないと思う。そうでなければ、柳田先生の言うように、机上の空論になるのではないかという危惧を抱いている。

例えば柳田先生は携帯をやめようと言っているが、そのような勇気が私たちには必要だと思う。私たちは、低学年の小学生に対して塾はやめようと言いたい。小学生のお受験はやめようと言いたい。アメリカでもいろいろな問題、少なくともスラム街の問題などがあるが、平均的な中流階級のアメリカの子どもたちは、お父さんが6時ぐらいに「ただいま」と帰ってきて、一緒に御飯を食べられるわけである。私は単純化して子どもたちに言うのだが、「家族の定義は一緒に御飯を食べること。そして本音を出せること。泣きたいときに泣いて、怒りたいときに怒って、寂しければ抱きしめ合うこと。それがないのは、どんなに学歴があって、お金があっても、もう家族ではないよね」という話をする。日本の中の二重構造として、そうは言っても、子どもを一家団欒よりも塾に行かせて、少しでも安心した方がいいじゃないかという考えがある。大人の中にある子どもを搾取していく商業主義というものを、もっと私たちが点検しなければならない。

子どもを取り巻く人間環境として、夫婦の間でせっかく出会った縁を活かし、子どもたちの生活をもっと心の思い出に残るようにしていきたい。子どもたちの心の中に「お父さん、格好よかった、僕が一番つらいとき、仕事なんか捨てて寄り添ってくれた」とか、お母さんが「夫は収入が悪いけれども、本当に困ったときに絶対裏切らなかった」とか、そういった子どもや家族を求めていって、「格好いいな」、「こういうのは嬉しいな」、「この家で良かったな」というようなものを繋げていきたいと思う。

そうなると、携帯の問題に対して文部科学省がこの一・二週間で発言したことや、塾や無意味な受験戦争によって子どもの発達環境が奪われていること、母親たちが不必要な怯えによって、乳幼児期の可愛い盛りの子どもを普通に可愛がれなくなり、「発達障害の疑いがある」、「ちゃんと育っていない」といったことを吹き込まれて孤立しているといったこと、そういうところにもう一度救いの手を差し伸べて、日本は命の原理で子どもたちを絶対大事にしていくんだというところで、頑張っていかないともったいないと思う。

 《大野委員》

骨子について、課題は書いてあるが、方策、方法論みたいなものはどこに書くのか。学校にしてもそうだが、方法論を持ってないのだと思う。この懇談会では、皆さんがいろいろなアイデアを出していて、それを、例えば重視すべき課題や巡る課題というように、課題と方策ということでタイアップして出していただくと、読む人にとって凄く役に立つと思う。また、地域との連携で、教師だけではもう無理になっている部分があるので、地域で活躍している人や高齢の方、あるいは弱者の方が学校に来て子どもと触れ合うといったような、そういった体験は凄く心の中に残っていくだろうと思う。そういうものも含めて対策を考えていただけるといい。

 《小泉委員》

枠組みに関係することで意見を述べさせていただきたいと思います。道徳教育のような形の徳育ということで、基本的なことをきちんと一つのディシプリンとしてやるということ。一方で、徳育というのはいろいろな科目全てにいろいろな意味で関係している。社会や歴史はもちろん、芸術科目も関係している内容がある。そういった全体の中に徳育をどう分散させて入れていくかという、そこの仕組みというのがまだよく見えてないのではないか。先ほど米国の質問をさせていただいた理由の一つに、例えばハーバード大学のリサーチスクールで幼稚園から高校までの一貫校の事例がある。そこではディシプリンとしての徳育というのは明確にはされていないのだが、すべての科目に単なる米国の国民ということだけでなく、グローバルな人間として、あるいは「地球市民」として、どういうリテラシーが必要かということが盛り込まれている。そういう大きな視座から徳育というものを、いろいろな科目に工夫しながらはめ込んでいるわけである。そういった徳育の見方というのもこれから必要なのではないか。

 《森委員》

1、2、3、4とあるが、1というのは、徳育とは何かでWhat。2は、どうしてこういうものが問題になったのかというWhyで、3、4がHowだと思う。1、2は非常に簡単でよいと思うのだが、3はもう少し煮詰める必要があるのではないか。

2つ申し上げたいのだが、1つは、今、伝統文化から学ぶ規範意識というものを全国の先生方と2年ほど研究会をやっていて、そこで気づいたことである。昔から人の道、五常の道というのは、仁・義・礼・知・信と言われているが、これはアナログ時代の伝統文化であり、そこでいう「知」は、あくまでアナログ時代の「知」であって、デジタル時代の「知」というのは変質している。デジタル時代となった現代では、仁・義・礼・知・信の中でも「知」が暴れ回り、他のものまでなぎ倒しているような感じがする。

外山滋比古さんが面白いことを言っていて、自動車に車間距離があるように、人間関係にも人間距離があるのだと。だから、車間距離で運転する交通ルールがあるように、人間関係にもマナーなどがいろいろと必要だと思うのだが、そのルールを犯すと、交通事故が起きるように犯罪が起きる。そうすると、今、起きているいろいろな犯罪、ブログの問題や携帯の問題、あれはすべてデジタルが犯した罪の面だと思う。そういう時代における徳目というのはどういったものか。

そういう意味で、1、2の頭が重くならないよう、もっと3の方の分析をしていただきたい。

 

 

 

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